この物語の始まりを思い出そうとすると、いつも頭が痛くなる。
だから私は思い出すのをやめて、またいつものように今この時のことを考え始めた。
* * *
『アリス、アリス! すごいわ、人がいっぱいよ!』
スマホから垂れ流される少女の声が、興奮気味に私の鼓膜を叩く。私からは見えないが、声の主はきっと花が咲くような微笑みを浮かべていることだろう。
『クウ、いろんな町に行ったけれど、この町はまた違った面白さがあるわ! ええと……ええと、アリス、この町の名前、なんて言ったかしら?』
わざとらしくなくあざとすぎない、完璧な角度で小首を傾げる様が目に浮かぶようだ。電話口の向こうにいるのはそんな、完璧な美少女、なのだが。
「何度も教えたろ、クウ。もう忘れたのか」
手元のスマホに答えながら私、こっそりため息をつく。
俗世の世情に疎いのが、この美少女、累絵空の数少ない欠点である。
『わ、忘れてないわ! ただちょっと、こう、思い出さんが散歩に出ちゃっただけで……』
「忘れたって言うんだよそれは」
『むぐぐ』
リスみたいに頬を膨らませてるんだろうな、という声。
『仕方ないわ。こうなったらアリスにもう一度教えてもらうしかないわね』
「忘れっぽいクウに覚えられるかねぇ」
『が、がんばる』
「そうか、がんばれ」
さて、漫才はこの辺りにしておいて。
「この町は」
一拍置いて、私はこの町の――この物語の、最後の舞台となる町の名を告げる。
「――池袋。池袋っていうんだ、クウ」
* * *
『それにしても、最近雨が多いわ。そう思わない、アリス?』
「そりゃ、梅雨だからな。雨だって降るさ」
『梅雨?』
「あー……雨の多い季節ってことだよ」
スマホでクウと益体もない会話を続けながら、私は思考を巡らせる。
ゆらゆらと揺れるこの部屋は家具もあまりなく殺風景だが、考え事をするにはこのくらいの方が気が散らなくてちょうど良かった。
ここまでは、紆余曲折もあったがおおむね上手くいっている。
気まぐれなクウを池袋まで連れてくるのは一苦労だったが、今となっては過ぎた話。その苦労を詳しく語る必要もあるまい。
そしてここまでくれば、次は単純で簡単な話。
「それでだな、クウ」
『なぁに?』
単純で簡単で、いつものように最悪な話。
「次に殺す奴の目星はついたのか?」
私のいる部屋の揺れが、ぴたりと止まった。
5秒ほど待つ。返答なし。
「クウ?」
『……んー』
電話口の向こうで思案するような声。そして。
『だーれーにーしーよーうーかーなー』
「待て待て待て」
通行人を順に指さして選ぼうとしているであろうクウを慌てて止める。
私が悪かった。クウの適当さを甘く見すぎてた。
「やめろクウ。さすがに白昼堂々やるのはまだ早い」
『えー、そうかしら?』
「そうだよ。警察に囲まれたらクウも――」
……いや。
「――クウは大丈夫かもしれないけどな、私はそうじゃないんだ」
『うーん、確かに。アリス弱っちいものね』
「お前が言うのかそれを……」
大きなため息。
私は小さく首を振ると、改めてクウに言った。
「とにかく、こんなに人がいる中で殺すのはまだダメだ。当てがないならもうちょっと人気のないところで選べ」
『はぁい。……あぁ、あの人ならいいかしら』
「2秒前に言ったこともお散歩に行ったのか?」
『違うわよ! あのね、なんだかクウのことをすごく気にしてるみたいな人がいるの』
――何?
「……性別と年齢」
『男の人、まだ若いと思うわ。せいぜい20歳を少し超えたぐらい』
「見覚えは?」
『ないわ。多分初対面』
「クウとの位置関係」
『ええと、クウの右斜め後ろ、辺り? 距離は10メートル前後かしら。そんなには離れてない』
「クウが気づいてることは気づいてるか?」
『まだ気づいてないと思うけど、時間の問題かしら』
なるほど。察するに、クウに惹かれた小蝿ってところか。
クウはかなりの少女趣味な格好をしている。こういう街中だとかなり目立つだろう。
「腕は立ちそうか?」
『尾行に関しては全然。クウが気づいちゃうぐらいだもの』
「まぁ、尾行どうこうはクウだって言えた義理じゃないだろ」
『クウはいいのよ』
「良くはないよ」
一瞬の沈黙ののち、どちらともなくクスクスと笑いあう。
『電話はそろそろ切るわね。お疲れさま、アリス』
「お疲れさま、クウ。疲れるとすればここからだろうけど」
『あらお上手。でも大丈夫よ、きっと』
「だといいけどな。私は寝るからいいところになったら起こしてくれ」
『えぇ、それじゃ』
その言葉を最後に、長い長い通話が切れる。
数秒して、私がいるこの部屋の天井が開き、そこから私の身長の3倍ぐらいあるスマホが落ちてきた。
……いつも思うが、人が住んでるポシェットにスマホを入れるな。私が潰されたらどうするんだ。
私はため息をついて、クウに言った通りひと眠りすることにした。
横になって目を閉じると、すぐに泥のような闇が私の意識を包み始める。
この泥に永久に浸っていたくなる誘惑を抑え込みながら、私は意識を閉じた。
夢は見なかった。
* * *
霧崎雀部は、池袋に本拠を構える美容師である。
彼は数えきれないほどの人間の髪を手にしたハサミで整え、それ以上の数の人間の体を手にしたハサミで切り裂いてきた。
霧崎雀部は、池袋に本拠を構える殺人鬼である。
そんな彼が、出勤の最中に見かけた美少女に目を止め、次の殺害対象に定めるのはもはや本能的な必然と言えた。
雀部を節操のない男と笑うのは簡単だが、今回は彼を責めるのは酷というものだろう。
彼が目にした美少女は、それほどまでに美麗だったのだ。
身長は150㎝ほどだろうか。抜けるような白い肌と、肩口で切りそろえられた煌めく金色の髪のコントラストには、黄色人種の黒髪を脱色した物ではあり得ない自然な美が現れており、彼女が日本人ではないことを示しているのかもしれない。
その身を包むドレス――そう、ドレス! 現代日本でだ!――は黄色を基調とした華やかな色合いで、道行く通行人の目を引き付けて離そうとしない。手にした傘やポシェットも同系の色合いで、コーディネートも完璧だ。
さらに、彼女の瞳――鮮やかな赤色に染まったそれが、目にした者たちの心を鷲掴みにしていた。まるで魔性の宝石もかくやと言うほどの美しさを誇るそれを見た者は、きっとしばらくはその美しさを夢に見るだろう。それを見る者に確信させるような、そんな美しさだった。
いつしか、雀部はふらふらと美少女の後をついて歩き始めていた。出勤時間には間に合いそうもないが、雀部の勤務先は彼自身が経営する個人店舗だったので、臨時休業とすればよいだけの話だった。
美少女の行く先がどこであるかは分からないが、道中でチャンスがあれば襲う。仮にどこか施設に行く様子であればその帰りを狙う。そういったプランが雀部の中で構築されつつあった。
そして、美少女は人気のない路地裏に足を踏み入れようとしていた。
夜間ならいざ知らず、朝のこの区域は逆に店が開いておらず、普段なら人っ子一人いない。そんな場所に、美少女と、彼女を尾行する雀部は足を踏み入れていった。
チャンスだ、と、雀部は思った。
この状況なら目撃者は誰もいない。美少女をハサミで切り裂き、ハサミが肉に食い込む感触を味わいたい!
雀部は傘を左手に持ち替えると、仕事道具からハサミを取り出し、彼の能力を発動した。
霧崎雀部は魔人である。
その能力名は『石 割 き 鋏』。彼愛用のハサミを振るうことで、あらゆる物体を切断できる能力である。
初撃必殺。それが、雀部の殺人スタイルであった。
そしてそのハサミは確かに、背後から美少女を捉えた。
美少女は、傘とドレスごと、袈裟懸けに両断された。
――はずだった。
「ふうん、このハサミさんが悪いの?」
少女の声がした。それが一瞬前に切り裂いたはずの美少女の声である、と雀部が認識した頃には、すでに趨勢は決していた。
雀部の眼前には、傷一つ存在しない美少女がいて、彼をその瞳の中に捉えていた。彼女の左手は、雀部の突き出したハサミに触れている。
次の瞬間、雀部の右手の指が2本、締め付けられるようにして骨折した。手にしていたハサミが猛烈な勢いで小さくなり、彼の指を締め付けたのだ。
「~~~~っ!!」
声にならない悲鳴を上げる雀部。ハサミはそのまま小さくなり続け、やがて雀部の指をねじりきって、そのまま雀部にも視認できないほどの大きさとなって消えた。
「お、おまっ、お前……!!」
「女の子にいきなり切りつけるなんて、お兄さんも悪い人ね」
「な、なぜ……生きている……!」
雀部でも分かった。自分は、手を出してはいけない者を相手にしたのだと。
だが、おかしい。先の様子から、彼女の能力は『物を小さくする』能力だと知れる。なら、自分の攻撃を無効化した能力は?
美少女の返事はそっけなかった。
「知らない。アリスに聞いてよ」
そう言って、美少女は雀部の胸を軽く小突いた。
雀部の全身が5cm程度まで縮小するまで、15秒しか要さなかった。
* * *
「アリス、アリス! お寝坊さん、もう終わっちゃったわよ?」
クウのソプラノボイスが脳に突き刺さる。
私はゆっくりと体を起こし、目をこすり、辺りを見渡した。
ポシェットの天井は開いていて、そこから巨大な金髪の美少女がこちらをのぞき込んでいる。
――実際は金髪美少女が巨大なのではなくこちらが小さいのだが、いつまで経ってもこの感覚は慣れない。
「お疲れ、クウ。……おいおい、びしょぬれじゃないか」
金髪美少女、クウの髪はシャワーでも浴びたかのように濡れそぼっており、ぽたぽたと水滴が垂れていくのが見て取れる。
水も滴るいい美少女、という言葉が私の脳裏をよぎったが、あまりにベタなので口に出すのはやめた。
「だって、流石に傘をさしたままどうにかなるほど楽じゃなかったのだもの。雨は全然止んでくれないし、嫌になっちゃうわね」
「あとで温かいシャワーでも浴びるか。……ところで、今日のお相手は? ちゃんと捕まえてるんだろうな?」
私の確認にクウはにっこりと笑い、握り拳にした右手をポシェットから見える位置に持ってきた。
――厳密には握り拳ではない。何か、いや、誰かを握りしめているのだ。
「かふっ……クソ、が……離しやがれ……」
「言葉遣いがなってないな」
「あら、アリスがそれ言う?」
私とクウがくすくすと笑いあう中、クウが握りしめる誰か――おそらく、先ほどクウをつけてきた男――が、汚らしい声を上げる。
「離さねえなら、と、とっとと殺せ……オレもアウトローの魔人だ……死ぬ覚悟はできてる……」
「……ですって、どうするアリス?」
「そうだな、まず勘違いを正してやろう」
クウに頼んで左手をポシェットに入れてもらい、私はそれに乗ってポシェットの外に出る。
路地裏に降る小粒の雨が私の身体を濡らした。クウの右手の方を見ると、掴まれた男と目が合う。
男が目を見開くのが分かった。
「お前……!?」
「なんだ、私が美少女なのがそんなに珍しいか?」
珍しくはないはずだ。彼は先ほどから私と同じ姿の美少女――クウを、嫌というほど見ているはずだから。
服の色味は違う。クウが黄色系、私が水色系。
身長も無論違う。クウが150㎝、私は5cm少々。
目の色も違うか。クウが赤色、私は青色。
だが、それ以外は瓜二つだ。
私がそうした。
「まあ、安心しろ。すぐにお前も仲間外れじゃなくなる」
「何を――ア゛ッ!?」
有効射程およそ1m。その距離に入れば、接触も前提も必要なく、私の能力は作用する。
男の骨格が変わる。内臓構成が変わる。肌の色が変わる、髪の色が変わる、瞳の色が変わる。纏う衣服すら変わっていく。
纏う衣服は黒のゴシックロリータに、瞳は青色、髪はアッシュグレイのセミロング。無論、男だった痕跡は影も形もなく。
これが、私の能力。
『生物を美少女に変える能力』、『アリス・イン・ワンダーランド』。
「ぁ……あ……」
男だった美少女が、クウの手の中で身体を捩らせる。自分の変貌が信じられないのだろうか。
だが、まだ終わりではない。私は、いつものようにクウに言う。
「じゃあクウ、後はいつもどおりにな」
「はーい」
笑顔で答えたクウは、笑顔のまま、右手の中身を握りつぶした。
「ぎゃあああああああ!?」
美少女の悲鳴 with全身の骨が折れる音。少し趣が足りないが、初めてならまだ及第点か。
「あ……ぁ……ぁ……あ?」
美少女の悲鳴に疑問の声が混じる。気づいたか。
「どうした、骨が折れてないのが不思議か?」
「!?」
「なにも不思議はない。だってお前……」
「美少女が怪我なんてするはずないだろ」
「……は?」
美少女の間が抜けた声。間髪入れず、クウが美少女を握りつぶす。
美少女の悲鳴 with全身の骨が折れる音。
「当たり前だよな? 美少女はトイレに行かないし、その美しい肌が傷つくこともないし、骨折なんてもってのほかだ」
クウが美少女を握りつぶす。
美少女の悲鳴 with全身の骨が折れる音。
「もちろん美少女の悲鳴は美しいし、戦うヒロインならピンチにだってなる。でも腕が飛んだり半身不随になったり、ましてや死んだりなんてするはずがない」
クウが美少女を握りつぶす。
美少女の悲鳴 with全身の骨が折れる音。
「そうだろ? 違うか? 違わないよな? 美少女って不滅だよな?」
クウが美少女を握りつぶす。
美少女のか細い悲鳴 with全身の骨が折れる音。
「だから、私の『アリス・イン・ワンダーランド』の美少女は不滅だ。完全だ。もし、それが終わるとすれば……」
クウが美少女を握りつぶす。
全身の骨が折れる音。
「……ん? なんだ、早かったな」
「そうね。アリスの演説に疲れちゃったんじゃない?」
クウの手の中の美少女を見やる。
彼女は傷一つなく、完全で、不滅だったが、瞳は眼前を映していなかった。
『アリス・イン・ワンダーランド』で美少女となったものは、肉体的損傷に煩わされることはない。
しかし、正確には肉体的損傷自体は一度発生し、そのあと一瞬で治癒する、という工程をたどる。
よって、怪我の痛みは感じるし、痛みの記憶は残る。それに心が耐えられなければ、心が折れる。
そうなってしまえば、例え見た目は美少女であっても快復することはない。
「まあ、ともあれこれでノルマは達成だ。美少女じゃなくしたら殺して、その辺に捨てておくか」
「はぁい。アリス、私シャワー浴びたいわ!」
「自然のシャワーならいくらでも浴びてるだろ、今も」
「温かいのがいいのー!」
私はクウと話しながら、脳内で静かに思索を始める。
これで準備は整った。殺人鬼たちの戦いの、舞台に上がるチケットを得た。
あのイカれたサイトの賞品さえ手に入れれば、クウも満足するだろう。
それで、終わる。
始まりも思い出せなくなったこの物語が、終わる。
「楽しみだな」
「そうね!」
クウと私の会話は嚙み合わない。
それでも続いていく。今のところは。