タイトル:瓶詰の地獄
池袋西口。
治安のやや悪い剣呑な区画の片隅に、女将が一人で遅くまで営業している飲み屋がある。
深夜二時。
客もおらず、そろそろ店じまいかというタイミングで一人の大柄な女がのそりと入店した。
「ウイスキーをロックで」
女は常連なのか、メニューも見ずに注文を投げた。
それは、奇妙な女だった。
いや、不気味な女といったほうが適切かもしれない。
初夏のうっすらとした暑さが漂う夜であるにもかかわらず、分厚いトレンチコート、黒の皮手袋。
肌を見せないようにきっちりと着込んでいる。
明らかに堅気ではない異様な存在感。
女から漂う威圧感を無視して、女将は女に酒を差し出した。
女は黙って琥珀色の液体を喉に流し込んだ。
喉を潤した女は、慣れた様子で懐から煙草を取り出すと、年代物のライターで火をつけた。
女は気だるげに煙草を吸い、ゆるりと紫煙を闇に吐いた。
虚空を見つめる理性的な瞳。妙に艶のある唇。ぞっとするほど白い肌。
それらと煙が合わさり、女はダウナーな美しさを醸し出していた。
睫毛はピンと張りがあり、酒でやや潤んだ瞳はひたすらに妖艶。
分厚いコートのうちにある漆黒のインナーの二つの膨らみは酷く蠱惑的。
女が誘えば、そこらの男どもの十や二十はホイホイと付いていくことだろう。
…しかしそれは、女を左から見た場合に限る。
女の右顔面には、見るも無残な傷口が額の上から顎の下に至るまでバックリと開いていた。
瞼がえぐれたのか、眼球は剥き出しでギョロギョロとせわしなく動き回る。
歯茎がむき出しの口からは、先ほど吸った煙と酒が合わさりぽたぽたと零れていた。
それは大型の肉食獣の涎を思わせた。
生乾きの傷口はうじゅうじゅと何かが蠢いているような錯覚を見る者に与えた。
鮮やかな赤は、無造作に割った柘榴の実のようだ。
(何回見ても気色が悪い)
女将は内心で毒づくが接客のプロとしてその毒を表に出すことはしない。
傷跡の不気味さを除けば、女は淡々と酒を飲み、軽い食事をつまむだけの優良なお客だ。
最近物騒になってきた界隈。深夜閉店間際の押し込み強盗もいくつか聞いた。
不気味な大柄の女はちょっとした魔除けになるだろうと女将は割り切り接客をする。
淡々といつものように時間が過ぎるだけと女将は思っていたが、その日は違った。
いつになく酒を多く流し込み、上機嫌になった女が珍しく語りかけてきたのだ。
「…女将さんはさ…私の傷について聞かないね?」
「…話したいのでしたらお止めしません」
女将の言葉に満足したか、女はゆっくりと、静かに語り始めた。
■■■
私はね、確か、うん、確か警察官をやっていたんだと思う。
その辺りの記憶はだいぶ曖昧でね。
なんだかもう上手に思い出せないんだよね。
調子が良い日であればもう少し鮮明に話せるんだけど…今日はダメみたい。
記憶が明確なのは…この傷が刻まれた日のことだけ。
…つい最近の話だけどもね。
その日、私は愛する旦那と最高の息子、マー君の待っている家に駆けていた。
マー君の4歳の誕生日だったから、仕事もそこそこに帰ったんだ。
自分は組織で出世したかったから、子供は就職前に産んだ。
ある意味打算的に産んだ子だったけど…
いやはや、子供というのがあれほど可愛く、力をくれる存在だとは思わなかった!
マー君のためなら何でもできるし、マー君を世界中のあらゆる脅威から守ると誓ったものさ。
それが力をくれた…のかなぁ?
私は色んな事件を解決?して男社会の警察内でどんどんと出世していった。
その好調さのせいで、暗闇に潜む虎の尾を踏んだことに気が付けなかった。
とある犯罪組織が、目障りな私を消しに来たのさ。
誕生日祝いのケーキをもって我が家の扉を開けた瞬間さ。
スレッジハンマー…というのかな?
工業用の大型ハンマーが私の顔面に振り下ろされた。
右顔面をごっそりと持っていかれた私は、痛みと衝撃で気を失った。
意識を亡くした私を奴らはリビングに運ぶと、乱暴に腹を蹴りつけ目覚めさせた。
曖昧な、煙がかかったような意識だった。
そんな私の耳に飛び込んできたのは、愛する旦那の呪詛の声だったよ。
旦那は見せしめとばかりに、苛烈な暴力の標的にされていた。
血まみれの旦那は必死に叫んだ。
どうしてこんなことに
お前のせいでこんなことに
自分だけは助けてくれ
妻はどうなってもいいから
一生愛し合おうと誓った旦那が、私を罵倒するのは辛かったけど…まぁ仕方ないと思う。
旦那は優しい人…だったはず。このあたり曖昧だけど。
暴力や痛みと無縁の人が、痛みに耐えるのはあまりに難しいもの。
初めての苛烈な痛みにさらされたら誰だってそうなる。
私のせいで旦那が暴力にさらされたのは事実だしね。
悲しいは悲しかったけど、耐えられる悲しさだった。
──息子の死に比べたら、全然マシ。
奴らは、痛みと絶望で再び意識を失おうとする私の頬をはたき、こう言った。
「お前のせいだぜ?お前が余計なことをするから旦那もガキも死ぬんだ。ほら!しっかり見ろ!脳髄にお前の所業を刻みつけながら死ね!!死ね!」
奴らは私の傷口に指を突っ込み、脳髄に惨状を刻み付けようとグチャグチャとかき回した。
嗚呼。あそこで意識を失うことが出来たら楽だったのに。
忘れることが出来たなら楽なのに。
色々な記憶が曖昧になっても、息子の…マー君の最期だけは脳に焼き付いて離れないんだ。
一生守ると誓ったマー君が、解剖されるカエルみたいな姿にされて壁に打ち付けられる様を。
「ママ助けて」って、何度も必死に叫ぶ声を。
クリームパンみたいに柔らかな手が砕かれる景色を。
愛らしい顔がサッカーボールのように転がされる様を。
私の脳髄は忘れてくれない。
どんなに記憶が不確かになっても、マー君の最期だけは繰り返し繰り返し私を襲う。
奴らがマー君の頭を蹴り飛ばしたあの時…私は完全に狂ったのだと思う。
自分で狂気を自覚するというのも不思議な話だけどね。
事実、マー君の頭を見た後の記憶は吹き飛んでいる。
多分、狂って怒って泣き叫んで、何もかもを壊しに行ったのだと思う。
マー君の最期の次に浮かぶ記憶は、奴らを皆殺しにした光景さ。
どうやったかなんて覚えていない。狂った私は執念深く、出来る全てを用いて復讐をしたんだろうね。
私の顔面を割った男も、私の腹を蹴った男も、私の頬をはたいた男も、血だまりの中に沈んでいた。
虚しかった。何もかもが虚しかった。
旦那とマー君の仇は討てたけど、それで何が変わるわけじゃない。
私の人生は今後灰色のまま続いていく。
そう思うと何もかもが嫌になってしまってね。
二人の後を追って慰めてもらおうと思ったんだよ。
ナイフを喉元に突き刺し、それでつまらない灰色の世界を終わらせるつもりだった。
「息子さんの後を追うなんてもってのほかです!息子さんは今もそばで貴方を見守っているのです!」
天啓、ってやつかな。さぁ死のう、って段階であの人は私を救ってくれた。
マー君がそばにいるって。見守ってくれているって。
「“美しい魂”、もしくは“強い魂”を!100、息子さんに捧げるのです!そうすれば息子さんは現世に蘇りましょうぞ!」
彼は、困っている人々を救うべく新たな教義を掲げる教祖様だった。
彼の言葉は私にすんなりしみ込んだよ。
この人が嘘なんてつくはずがない。
私は彼の指示する“美しい魂”の持ち主を殺した。
…そうしたらさぁ!イヒ!
聞こえたんだよねぇ!!ウェヒヒ!確かに!はっきりと!
(ママ…)
マー君の声が!それはそれは小さくかすれた声だったけど!
私が聞き間違えるはずがはずがはずがなーい!!
マー君が!マー君が!帰ってくる還ってくる返ってクルクルクル!
それ以来私はぁ!捧げて捧げて捧げ続けているのさぁ!
■■■
話が一息ついたとき、そこにはもう先ほどまでの女はいなかった。
理性的だった瞳は濁り、ギョロギョロとせわしなく動き回った。
煙草の煙を蒸気機関のように乱暴に吹き出し、体をがくがくと揺らす。
「イヒ!ウェヒ!たぁのしんでくれた!?キクも涙、カタルも涙の物語!」
───そこには、最悪の殺人鬼、柘榴女が顕現していた。
想像以上の血生臭い話に、女将は固まっていた。
ガチガチと震えながら、それでも気丈に言葉を紡いだ。
「…それで…貴方は…私を殺すのですか?教祖とやらの命令で!」
こんなやばい話を聞いた以上自分は殺されるのだろう。
勇気を振り絞り言葉を投げる。
「教祖様の命令?なんで?」
その勇気を、心底理解できないという風に柘榴女は受け止めた。
そうして、何か合点が言ったという風にうなずくと、最悪の言葉を吐いた。
「ああ、言ってなかったっけ?教祖様はすぐに捧げたよ?こんな素晴らしいことを教えてくれる方は、“美しい魂”に決まってるから!!」
なんということか。
教祖は狂犬に生きる意味を与え、牙を剥く相手を教えた。
しかし、しかし。狂犬に首輪をするという最低限の行為を忘れていたのだ。
「うん。教祖様の周りは“美しい魂”ばかりでよかったなぁ…全部終わった後、マー君の声がより深く聞こえるようになったから。」
女将は絶望をした。
自分は教祖に狙いを定められている自覚がなかった。
だから人違いだと、自分は教祖が示す人間ではないと説得することに活路を見出していたのに。
「貴方の…貴方の意思で!わ…私を殺す気??」
女将はガチガチと震えながら柘榴女に問うた。
「イヒッ!確かに貴方は素敵な魂の持ち主かもって!ウェヒ!マー君に捧げてもいいかもって思ったけどもぉ?」
ゲラゲラと涎をまき散らしながら柘榴女は続けた。
「貴方さぁ~?調べたら、一人息子の?ためだか知らないけど結構あくどい商売してるらしいじゃな~い?」
女将の背に、恐怖とは別の理由で冷や汗が流れた。
確かに自分は法の網を潜り抜ける阿漕な商売をしている。脱税だってしている。
でもそれは元旦那が慰謝料を払わないから…と言ったところで意味はないと理解し女将は口を閉ざした。
このイカれ女は何を要求してくるのかと緊張する女将に柘榴女は畳みかけた。
「タンス預金にしても随分ため込んだねぇ~?貴金属もゴロゴロ…申請してない収入もたんまりィ?」
女将の汗はさらに増した。
家に隠している現金や貴金属の存在がばれている?
こいつは、この不気味な女は…私の家に訪れた?確認をした?
「お礼を言わなきゃと思ってさぁ!“美しい魂”を育ててくれたことに!!」
柘榴女は、床に置いていたボストンバッグから何かを取り出し、カウンターに無造作に置いた。
ぐちゅり、と嫌な音を立てて何か球体のようなものから液体が飛んだ。
その“何か”は、女将の一人息子の生首であった。
いつ頃殺されたのか。
皮膚は全体的に青黒く腐り始め、舌がだらりと垂れていた。
本来であれば酷く匂ったであろう生首は不思議と匂いがしなかった。
「あ…ああぁぁぁぁぁ!!!」
そんな小さな異質に気が付くはずもなく、女将は悲鳴を上げた。
大切な一人息子が物言わぬ塊に成り果てていることに、絶望の嗚咽を轟かせた。
「貴方の息子はねえ…イヒィ!良~い子だったよぉ?オケッ!カヒ!優しくて、気高くて、勇気もあった!マー君に捧げるのにふさわしい、“美しい魂”の持ち主だった!」
そう言うと、柘榴女は生首に指を突っ込むと、目玉をえぐり取った。
半狂乱になる女将を尻目に、ボストンバッグから大きな瓶を取り出した。
それは、梅酒を漬け込むかのような瓶。
しかし、その瓶に詰まっていたのは梅の実ではなく眼球であった。
瓶を埋め尽くすかのように押し込まれた眼球。
パッと見ただけでも50~60は入っているだろうか。
柘榴女はえぐり取ったばかりの眼球を嬉しそうに瓶に詰めこむ。
これ以上眼球は入らないギチギチの状態の瓶に柘榴女は頬ずりをし、嬉しそうに叫んだ。
「これで!!イヒ!捧げる数は!86!!」
柘榴女は、完全に狂っていた。
『“美しい魂”、もしくは“強い魂”を!100、息子さんに捧げるのです!そうすれば息子さんは現世に蘇りましょうぞ!』
柘榴女は、当の昔に100人を殺し捧げている。
それでも柘榴女の息子は蘇らなかった。
ならば解釈が違ったのだと思い込んだ。
そうして、更に捧げる魂を積み重ねていった。
誰にとっても悲劇であるが、
(ママ…がんばって…ぼくをタスケテ?)
柘榴女の耳には、事実として愛息の助けを求める声が聞こえていた。
魂を捧げるたびに、ほんの僅かではあるが愛息の声は強く大きくなっていった。
その声が幻聴か否かは問題ではない。
柘榴女にとっては紛れもない事実であり疑う余地のない事象であった。
眼球の詰まった瓶を掲げる狂人に、女将が問う。
「あ…貴方…、その傷。血が蠢くその傷…!最近ついたんじゃないのね??さっきの話は!!」
言いたいことを察し、柘榴女は涎を巻き散らかしながら叫んだ。
「マー君が死んだのはさぁ!ほんの10年前だよぉ?つい最近じゃなーい?」
その狂気を前に、女将は冷静になった。
恐怖はある。吐き気もする。
しかし、それ以上に、こいつはいてはいけない存在だ。
自分がどうにか出来るとも思えないが、それでも止めなくてはいけない邪悪だ。
女将は覚悟を決め、調理場の包丁を掴むと思い切って柘榴女に飛び込んでいった。
その蛮勇を、満足そうに柘榴女は受け止めた。
「私に勝てるわけもないのに!息子の仇と勝負を挑む!!アヒ!良い!良いよ!“美しい魂”になってくれてありがとうねぇぇぇ???」
そういうと柘榴女は透明化したナイフを振るい、女将の首を呆気なく飛ばした。
女将の生首を鷲掴みにすると、満面の笑みとともにボストンバッグに詰めた。
「また、新しい瓶を買わないとなあ…あと、あと14!待っててねマー君!」
後始末をしながら、柘榴女は『NOVA』からの招待状を見つめる。
賞金5億。転校生になれる権利。
こんな豪華な賞品を求める殺人鬼は、きっと、きっと“強い魂”の持ち主だろう。
「運営だって、“強い魂”を持ってるよねぇ?!イヒ!イヒェ!入れ食い!入れ食い!お母さん頑張るからね!絶対…ぜぇ~~ったい!負けないからねえ!」
それは、悲しき母性のなれの果て。
正気と狂気の狭間を揺らめく殺人鬼。
決して許されぬ畜生道を嬉々として進む鬼子母神。
柘榴女。
元の名前はもうない。
────池袋は、地獄の底となるだろう。