「アンバード」
思わず口にしてみたが。聞き馴染みのない5文字の言葉だった。
義務教育で習った程度の拙い私の英語力では、それが琥珀の過去分詞以外に由来するものかどうかさえ分からない。
――実際にそのような言葉があるかは、さておき。
「にこちゃん、どうしたの?」
廊下の窓辺で物思いにふけっていると、左耳から聞き馴染みのある友人の声がした。
振り向くと小柄で可愛らしい女子高生が制服に身を包んでこちらを見上げている。
まるで世界の穢れを何も知らない“清楚”というものを体現したような彼女が、なんと私の幼馴染だったなんて驚きだ。
「……ううん。ひーちゃんには内緒」
「えー、なんで。教えてよ」
からかったつもりだったが、彼女は頬をむすっとさせてお怒りのようだった。
内緒、という言葉は強すぎたか。かえって好奇心を刺激してしまったようだ。
観念して事の次第を打ち明けることにした。
「今朝ツイッターを開いたらね、フォローした覚えのないアカウントがいくつかあってね」
「なにそれ怖い」
「しかも名前が全員同じで……アンバードって名乗ってたの」
「それはやばいね。ブロックしちゃいなよ」
ぶるっと肩を震わせる彼女を見てふと、洋画みたいな会話だね、という安易なツッコミが頭をよぎる。
口に出そうか少しだけ考え、今回は話の腰を折らずにオチまで話しきることにした。
「新手のスパムかと思ってプロフまで飛んでみたらね、気付いたの」
「うん」
「いつものフォロワーさんだったよ。みんなで同じアカウント名にしてただけみたい」
「……なーんだ」
大騒ぎして鼠一匹だったというオチ。やれやれと大げさに肩をすくめてみせる。
私が知らないだけで新しい流行りの名前だったのだろう。
テレビを点けていればそのうち元ネタを知ることになるだろうか。あるいは深夜アニメかユーチューバーのネタだろうか。
毎年エイプリルフールになるとお馴染みの光景だが、予告なくアカウント名を変えられるとびっくりするのでやめてほしい。
フォローしているのは有名インフルエンサーかおすすめ欄に出てきたクラスメイトばかりなので、同じものが流行っていてもおかしくはない。
「それよりにこちゃん、こんな場所に居たら風邪ひいちゃうよ。続きは教室で話そ」
「そうだね。……いや、さっきの話はここでおしまいなんだけど」
ぎゅっと手を掴まれると、彼女の体温が思ったよりも高くて少しびっくりした。
流行に置いていかれ、自分だけが取り残される――。そんな想像はいつも彼女の温もりによって払拭される。
「……ふふっ」
「ん? 何がおかしいの?」
「ううん。Xのことまだツイッターって呼んでるの、にこちゃんらしいなって」
「あぁ。……何だか、違う気がして」
同じとは頭では分かっていても、名前が変わることで何かが失われてしまう気がするから。
親が再婚して苗字が変わったクラスメイトのことも、なかなか新しい苗字では呼べずに居た。
心の準備が出来ていない。いつまでも、永遠に。
「そんなに鈍臭いと、あんた早死にするよ」
耳元で誰かがそう囁いた気がした。
私をからかう人はみんな、そんなことを言う。
早地にこ――本名で登録したままのアカウント名も、そろそろ新しい名前に変えるときなのかもしれない。
フォロワーの名前が「アンバード」で統一されたのは、それから4日後の出来事。
*
『4回裏、背番号5番投手のアンバード選手が三者凡退に抑え、続く5回表、背番号7番バッターのアンバード選手が豪快なホームランを炸裂させました!
――以上、先日のハイライト。実況レポーターのアンバードがお伝えしました』
テレビで、ネットで、リアルで、バーチャルで――アンバードという名前を聞かない日は無かった。
いつも通り、一過性の流行りだとは思うが、自分だけ元ネタを知らずいまいち盛り上がれないのがもどかしい。
話せる友人にそれとなく話題を切り出してみたが、お笑い芸人のネタではないらしい、ということぐらいしか分からなかった。
「気の所為かしら。最近アンバードさんって、よく聞く気がするわ」
朝食片手にテレビを見ていた母がぼやく。気の所為ではないが、一般人の感性でも気付くレベルで流行っているらしい。
「同じ名前ばかりだと区別が付きづらくて困るわ」
「多様性の時代だ。黙って見守るしかないよ。――いずれ、声を荒げるものも出るだろう」
スマホから頭を上げることもなく、父が知ったようなことを言う。
流行りも廃りも、大人たちにとっては取るに足らない出来事なのだろう。
いつも通りの朝が来て、昨日まで普通の名前だった芸能人が改名するニュースに驚いて、登校時間が近づいてくる。
『池袋周辺は今日も厚い雲に覆われています。急な雷雨にご注意ください。――以上、お天気情報をアンバードがお伝えしました』
『アンバードさん、ありがとうございました』
テレビが天気予報を伝えている。窓の外に目を向けると曇り空が広がっていた。
普段使いの可愛くない方の雨傘に手が伸びる。
「にこ、もう行くの?」
「車には気をつけなさい。勉強、頑張るんだぞ」
「うん。お父さん、お母さん、行ってきます」
二人に見送られて、玄関のドアを開ける。
私が信じてきた日常は、一体いつまで続くだろうか。
*
池袋まで徒歩20分。
そこそこ恵まれた立地にある我らが学び舎、空池第4高等学校は制服の縛りが緩いことで有名だった。
遠方から電車通勤で通う生徒も多いが、父のおかげで学校から近い場所に引っ越しが決まり、おかげで快適な徒歩通学ライフを送れている。
早朝だというのに人通りが多い。通勤や通学途中の人に加え、遊びや観光で訪れる人も居るのだから当然だ。
空を見上げると黒い雨雲が一面に広がり、時折ぽつりと落ちてきた雨粒が頬を伝って落ちていく。
本降りになる前に急いで学校に駆け込もうか迷っている内に、雨の勢いがみるみるうちに強まってきた。
周りの人達が傘を差し始めるのを確認すると、私は安心して雨傘を広げた。
彼らと同じ景色を見て同じ行動をしていると思うと、少し居心地が良い気がする。
空気が読めないと言われがちな私だが、こういう当たり前の空気読みは流石に出来る。
「うおー、雨だー!」
「学校まで競争しよーぜ!」
「待ってよー!」
黄色い帽子を被った3人の子供たちが、傘も差さずに脇を通り抜けていく。
こんな大雨の中でも元気なのは若さゆえだろうか。
自分にもあんな時期があったのかな、と物思いにふけっているとあっという間に校舎が見えてくる。
珍しく、アンバードという名前を聞かない登校時間だった。
*
人の名前が思い出せない。
自分の頭の悪さが本当に嫌いだ。突発性の認知症か記憶障害を疑いたくなる。
校舎に入った時から、大事な人の名前が出てこなくなっていたことに気付いた。
代わりに頭をよぎるのは、朝から何度も反芻して聞き慣れたいつもの名前。
けれど、彼女の名前はソレじゃない。
廊下ですれ違ったら、どうやって挨拶しよう。
思い出せ。思い出せ。思い出せ。
――彼女の名前を。あだ名を。いつもの呼び名を。
頭を抱えて教室に向かっていると、パタパタと聞き慣れた上履きの音が近づいてくる。
「おはよ、にこちゃん!」
「おはよう、ア――――」
反射的に口にしようとした名前を、思わず飲み込む。
彼女のことを、まるで昔からそう呼んでいるような気がした。
けれど、とてつもない違和感がある。
彼女は確か学校で名前順に並んだとき、必ず最後の方に居たはずだ。少なくとも私よりも後の方だった。
だから、■■■■■なんて名前じゃない。
もっと思い出せ。彼女の本当の名前を。
ちゃんと思い出せ。大切な人の本当の名前を。
彼女と■■■■■を一緒にしたくない。私の知っているソレではないから。
焦りと恐怖で、目の前が真っ白になっていく。
「どうしたの、にこちゃん? 顔色が悪いみたいだけど……」
彼女の優しい声に安堵して、少しだけ悩みを忘れることが出来た。
返事をしようとして、また胸が苦しくなる。
「ごめん、ちょっと今日体調が悪いみたいで」
「本当に大丈夫? 保健室いこっか?」
「……ううん。たぶん平気」
風邪を引いた時とは訳が違う。保健室のお世話になるのは、違う気がした。
きっと悪い夢を見ているのだろう。
次の瞬間には、いつもの彼女が居て、いつもの私が居て――他愛もない日常がやってくる。
目を開けた。優しい彼女が目の前に居た。
今は名前を思い出せなくてもいい。そう思うと気が楽になった。
「もう平気だよ。ごめんね、心配かけた」
「無理してない? なら、いいけど」
心なしか気を遣うそぶりを見せながら、彼女は次の話題を探そうとしているようだった。
しばらく悩んだ後、「あ」と今日一番の笑顔を浮かべる。
「今日の放課後、二人で駅前に行こうよ!」
「いいけど――」
「にこちゃんに会わせたい人が居るの。きっと気が合うよ」
「……そうなんだ?」
新しく出来た彼女の友達だろうか。
何だか嫌な予感がして、本能が警鐘を鳴らし始める。
「その人って」
なんだか、聞かなければいけない気がして。
ずっと前から頭を離れない名前を、口から吐き出す。
「アンバード」
それを聞いて彼女が愛おしそうに笑うのを見て、ついに私は耐えられなかった。
*
本能的な恐怖から、体調不良を口実に学校を早退することにした。
あのまま学校に居たら、自分が自分じゃ無くなるようだった。
いつもなら教室で過ごしているはずの時間に、私だけ外に出ている。
授業をサボれた非日常感が1割と、居場所を失った喪失感が9割。
1割の浮足立った考えも、校庭に降り注ぐ大粒の雨音に掻き消される。
「うわぁ……」
雨が落ち着くまで校舎に残ろうかとも思ったが、立ち止まっている場合では無いようだ。
じっと、誰かが背後から見つめているような視線を感じる。
振り返るとそこには誰も居らず、気のせいであればそれで良い。
それでも背後から突き刺すような視線の感覚が離れない。
気味が悪くなって、傘を差す。
何となく、学校にはもう戻れない気がした。
*
ずっと誰かに見られている。
時間帯のせいもあるが、いつもの通学路はまるで違った様相を呈していた。
歩き慣れているはずの道が、今朝より遠くに感じる。
行き交う人達に見られているような、笑われているような、そんな想像が頭を離れない。
酷く浮いているような。場違いであると、そう指摘されているようで。
雨傘を差しても少しだけ濡れた制服が滑稽に映っているのだろうか。
それとも、可愛げの無い傘を見て笑っているのだろうか。
あるいは――。
「……なんで」
この大雨の中、傘を差しているのが――私一人だけだから、だろうか。
私だけが場違いだと言いたげに、彼らは不思議そうに私を見ていた。
彼らの着ているものがびしょ濡れになっていても、まるでお構いなしだった。
遠くを見渡しても、誰も傘を差している人なんて居ない。
それでも大雨が降っているという事実は変わらない。試しに傘を一瞬よけてみると、顔が濡れるばかりだった。
やはり、悪い夢でも見ているのだろうか。
この世界は現実味が欠けている。
一体いつから?
数日前から、ずっと前から――?
現実世界の私は病院に運ばれ、長い夢を見ているに違いない。
雨で湿気て制服が肌にまとわりつく嫌な感触にリアリティを感じるが、こんな悪夢は早く終わらせるべきだ。
「――すみません、少しお時間いいですか?」
不意に声をかけられ、持ち上げかけたローファーの片足を地につける。
振り返ると、髪を濡らしたスーツ姿の女性が立っていた。
やはり彼女も傘を差していないが、全く気にしていない様子だった。
「簡単なアンケートを行っておりまして。良ければお付き合いいただけないでしょうか」
「いえ、その……」
「カフェ代はこちらでお支払いしますので、ぜひ店内でゆっくりと」
「あの――」
バインダーに入った紙に記入するのだろうが、それは雨で打たれインクも滲んでおり今にも破れそうになっている。
彼女はそれにも気付いてすらいないようだった。
「すみません、急いでるので!」
「あ、ちょっと――!」
逃げるように彼女から遠ざかろうとする。
雨に濡れるのは嫌だったが、追いつかれまいと歩幅は大きいものになっていた。
背後から彼女の叫ぶ声が聞こえる。
「た、ターゲットが逃走しました! し、至急応援を――!!」
*
嫌な予感は確信へと変わる。
学校から誰かが私を狙っている。それも一人や二人ではなく、グループによる計画的な犯行らしい。
彼らは取り繕うことをやめたのか、脇目も振らず私のことを追い回しはじめた。
死にもの狂いの鬼ごっこ。この異常な空間に味方が居ないことは、何となく理解し始めていた。
大人の脚力には勝てないが、こちらには土地勘がある。狭い路地に入ればあるいは――。
「こっちだ」
向かう先に、真っ赤な唐傘を差す着物姿の少女の姿が見えた。
彼女が敵か味方か――考える暇もない。藁にも縋る気持ちでその傘の下を目掛けて全速力で走り出した。
「……私の後ろに隠れていて」
「あの、あなたは――」
「やっと追い付いた! 誰か知りませんが、その人をこちらに渡してください!」
足を止めると、程なくして追手に追いつかれた。
アンケート用紙を小脇に抱える女性と、それに付き従う男性二人と対峙する。
こちらは名前も知らない少女が一人。
あわよくば地獄に仏であってほしい。
少女は大人に臆する様子もなく、私の前に立っていた。
「……彼女は、渡さない。引き下がるのは、あなた達」
「――ふん。どこの派閥か知りませんが、すぐに後悔させてあげます! いけ――!!」
女性の合図で男性二人が勢いよく飛び出す。
それに対し、少女の行動は冷静だった。
「……君は、耳を塞いでいて」
「は、はい――!?」
言われるがまま、両手で耳を塞ぐ。
次の瞬間、少女は真っ赤な唐傘を閉じると、その先端を彼らの方に向け、そして――。
轟音と共に、雷が3回落ちた。
それから、雨の落ちる音だけが路地に響いていた。
急な雷に驚いてうずくまっていた私は、静まり返った辺りを見回す。
頭上を見上げると、真っ赤な唐傘をそっと差し出す少女の姿があった。
「あ、ありがとう……ございました」
「……礼はいい。他の追手が来る前に、逃げよう」
「あの、彼らは――」
彼らが居た方に目を向けると、3人とも雨晒しのまま横たわり、ぴくりとも動かなくなっていた。
「……アレは、既に死んだ人間だから、気にしなくていい」
「え、えぇ?」
「……詳しいことは歩きながら話す……付いてきてくれる?」
「でも――」
手元を見ると、持っていた雨傘は骨格が折れ、使い物にならなくなっていた。
どうしよう、このままでは帰れない――。
「……君は命を狙われている。いずれにせよ、このまま君を帰すのは危険」
「一体誰に――」
少女の瞳が、静かにこちらを覗き込む。
改めて見ると彼女の顔は人形のように精巧に整っていた。
抑揚の無い声で、彼女はその名前を告げる。
「アンバード」
*
“アンバード”――。
それは瞬く間に10万人を殺した殺人鬼であり、今なお被害の連鎖を増やし続ける史上最悪の存在である。
殺された者はその名前と能力を伝染させられ、近しい者を殺して回る傀儡に成り下がる。
彼らは雨の中でも傘を差さない。
彼らは固有の名前を持たない。
彼らは統率はあるが知性に欠けている。
これが巷で増えているアンバードの正体、と少女は言った。
「……そういえば、自己紹介もまだだったね。私は一月記あやめ」
「早地にこです」
「……うん。にこ。良い名前」
「う――」
急に名前で呼ばれて少し照れてしまう。
相合い傘で歩いているので距離が近いというのもある。
「……私のことも、あやめでいいよ」
「はい。あやめ……さん?」
「……それでもいい」
それから私達は、歩きながらアンバードについて話を進めた。
彼らには元の名前を奪われた者と、そうでない者が居る。
前者はアンバードに殺された者で、後者は自らアンバードを名乗っているだけの者。
「じゃあ、本当の名前を思い出せなくなったのは……」
「……残念だけど。その人はもう、一度死んだということ」
「…………」
あの日学校で見た、彼女の何気ない笑顔が途端に恋しくなる。
何でもなに日々がいつまでも――少なくとも卒業するまでは、ずっと続くものだと思っていた。
その日常が、呆気なく奪われるとも知らずに。
「……着いた」
「ここは?」
気が付くと池袋駅前から少し外れた場所にある、裏路地の古びたビルの前に立っていた。
ビル名だろうか、表看板には『レストインピースビル』と書かれている。……どんなセンスだ。
「……私達のアジトがある場所」
「アジトって――」
そういえば話して無かったね、とあやめさんはこちらに向き直る。
屋根のある場所に入ると、傘を畳んで軽く水気を飛ばしていた。
そしていつも通り、平坦な調子の声で――静かに告げる。
「……私達はレジスタンス。アンバードを――死んだ人を元に戻すための研究を、してる」
*
狭いエレベーターに乗ってビルの5階に上がる。
ドアが開くと通路が続いており、降りて少し進んだ先にあるドアのインターホンを彼女は押した。
しばらく経った後、『はい、どちら様?』と寝起きでかすれたような女性の声が聞こえてきた。
「……ドクター、私だけど」
『あぁ、はいはい』
しばらくして、ガチャリ、とオートロックが解錠された音がした。
「ドクター?」
「……うん。彼女がアンバードを元に戻すための薬品を作っているんだ」
「そうなんだ」
ドアを開けて先に進むと、薄暗い部屋が広がった。
何となく研究所のようなものを想像していたが、どちらかというとマンションの一室といった感じ。
足の踏み場もないぐらい、あちこちにゴミ袋が散らかっていた。
慣れた足取りで奥へと進んでいく彼女を追いかけ、もう一枚奥のドアノブを回して開ける。
そこには、ベッドの上、あぐらを掻いて座る下着姿の女性があった。
「な、なな――っ!?」
驚く私を一瞥すると、女性はあやめさんに目を向ける。
「おや、知らない顔だが」
「ドクター、彼女はにこ。アンバードに襲われそうになっていたところを偶然助けられた」
「……そうか。それは災難だったね」
事情を把握して、ドクターと呼ばれた女性は慈しみに満ちた眼差しをこちらに向けてきた。
悪い人では無さそうだが――。
「――服をちゃんと着てください!」
「おや、手厳しいね。見られて減るものでもないし、見苦しい身体でも無いと思っていたのだが――」
「そういう話ではなく!」
確かに肌はシミ一つ見当たらず綺麗で、体つきも豊かな曲線美を描いており眩しく輝いているようでもある。
だからこそ、より一層いかがわしさが際立つ。
勝手なイメージでしか無いが、男性向け風俗店に来てしまったような気分だ。
「あやめさんからも何とか言ってください!」
「……ドクター」
「ん?」
「……今日も素敵だね」
「はは、ありがとう」
「…………はぁ」
あやめさんにとっては見慣れた光景だったらしい。
これ以上の説得は無理と諦め、あまり直視しないようにしよう。
「ここで会ったのも何かの縁。我が家と思ってくつろいでくれ」
「ど、どうも……」
飲み物取ってくる、と言い残しあやめさんが部屋を後にする。
――下着姿の人と二人きりになってしまった。
気まずくなって辺りを見渡すと、彼女が座っているベッドの他にちゃぶ台と二人分の座布団。
壁際には薬品が並べられている棚と本の棚があり、これまでの生活を感じさせる。
赤い唐傘も何本か壁に立てかけられていた。
気まずい空気をどう切り出そうか迷っていると、彼女が先に口を開いた。
「あやめから聞いていると思うが、私はドクター。ここでアンバードに対抗するための薬を研究している者だ」
「早地にこです」
「はは、良い名前だね。とても長生きしそうだ」
「…………」
無神経な物言いに噛みつきたくなるが、悪気は無さそうなので一旦やめておく。
「薬が完成するまで外は危険だ。どうだろう、それまで私達の仲間にならないか?」
「え、ですが私に出来ることなんて……」
急な申し出に戸惑っていると、あやめさんがコップを片手に戻ってきた。
そして、オレンジ色の液体が注がれたコップを手渡される。
「あやめさん……これは?」
「……エナジードリンク」
「…………」
「……ドクターが、疲れた身体にはこれが一番だ、って」
これが客に出すものか、と思わないでも無いものの、好意を無碍にするのも何なので有り難く貰っておく。
口をつけると、飲み慣れない苦味と甘味に炭酸が混じり、喉奥でパチパチと弾けて心地よい。
エナジードリンクを飲むのは初めてだが、なかなか癖になりそうだった。
「あやめ、にこを私達の仲間に加えようと思うのだが、どうだろう」
「……うん。私も異論は無い。むしろ歓迎だよ」
あやめさんは表情が固いので今まで分からなかったが、それなりに私に好意的なようだった。
ドクターもそれを見抜いて私に提案したのかもしれない。
「でも私、本当に何も出来なくて……」
「……大丈夫。ドクターがお使いを頼むことがあるから、それを私と一緒にこなすだけ」
「……それだけでいいの?」
何で二人で、と思ったが私一人では身を守れないからか。
申し訳無さすぎて家に帰る選択肢も頭によぎったが、クラスメイトにまで命を狙われている以上、安全な場所は限られている。
父と母でさえ、いつまで私の味方で居てくれるか分からない――。
例えばここのように――知り合いに知られていない場所で過ごすしか無いのだ。
「あやめもここで暮らしているんだ。同世代の友達が居れば楽しくなるだろう?」
「うっ……そこまで言われると逆に照れ臭いというか」
ここまで魅力的な誘いは他にない。それどころか、飛び出した先でまた彼らに襲われたらそこで人生が終わってしまう――。
「――分かりました。しばらく、ここでお世話になります」
「そうこなくっちゃ」
「……にこ。これからよろしくね」
親戚に甘やかされている時のような恥ずかしさに襲われながら、彼女達の誘いに乗ることになった。
緊張の糸がほぐれ、途端に視界が朦朧としてくる――。
「あれ……何だか眠気が――」
「おや、疲れが出てきたようだね」
「……にこ。おやすみ。明日から、一緒に頑張ろうね」
思い返せば、今日は色んなことがありすぎた。
失ったもの、得たもの――数え切れないほど、たくさん。
そろそろ、この奇妙な夢から、覚める時が来たのかもしれない――。
*
キーンコーンカーンコーン――。
チャイムの音で意識が覚醒する。
いつもの教室に、いつものクラスメイト――夢にまで見た普通の光景が、何だか懐かしく感じる。
長い、長い夢を見ていたようだ。どんな夢だったかは、もう思い出せない。
「おーい、お前ら静かにしろー。今から出席確認するぞー」
教卓の前に先生が立っていて、クラス朝会を始めるところのようだった。
前後の記憶があやふやだ。背後を振り向くと、幼馴染の彼女がこちらに笑いかけていた。
「出席番号1番、アンバード」
「はい」
「出席番号2番、アンバード」
「はーい」
「出席番号3番、アンバード」
「はい!」
「出席番号4番、アンバード」
「うぃーっす」
名前順で前の方から呼ばれていく。
よくある苗字だが、ここまであ行が続くクラスだったっけ、と一瞬の違和感を覚えないでもない。
20人、30人と呼ばれていって、最後に私の番がやってくる。
「……あー」
先生は何故か、私の名前を言いづらそうに躊躇っていた。
「出席番号36番、早地にこ」
「はい」
返事をした瞬間、クラス中の顔がこちらを振り向く。
冷え切った空気が充満していた。
「早地、終わったら職員室まで来なさい。ちょっと話がある」
「え、それって――」
心当たりは無い。
――だが、教室中からひそひそと話をする声が聞こえてくる。
「早地って本当に空気読めねーよな」
「早地さんって本当に鈍臭いのね」
「最低……はやく死ねばいいのに」
酷い言葉を投げつけられているような気がして、胸が苦しくなる。
助けを求めようとして背後を振り向くと、彼女は――悲しそうにしていた。
「にこちゃん」
それは同情から来る表情ではなく――本当に分からないと言った様子で。
「どうして、私達と一緒に来てくれないの?」
*
「違う、私は――――!!」
叫ぶようにして、目を覚ます。
気が付くと私は仰向けの姿勢でベッドに寝かされ、腹部の上であやめさんがびくっと身体を震わせていた。
「え、どういう状況……?」
「……にこ。随分早起きだね」
彼女との出会いが夢じゃなかったことに喜ぶべきか、異常な世界が現実だったことを悲しむべきか――。
そんなことよりも、さっきから身動きの取れない現状に驚くばかりだった。
「……ドクター。睡眠薬の効き目が悪いよ」
「ふむ。にこくんには本当のことを知らないままで居てほしかったが――こうなった以上、やむを得まい」
「えっ、ええっ……!?」
状況を掴めずに居ると、長い棒状のものが頭に突きつけられる。
それが彼らに使った赤い唐傘と同じものだと気付いた時――やっと彼女達がしようとしていることに気付いた。
「え、冗談……だよね?」
――これから私は、殺される。
――彼らが雷に打たれたときと、同じように。
「何で……だって――」
彼らは雨の中でも傘を差さない。
彼らは固有の名前を持たない。
彼らは統率はあるが知性に欠けている。
これが彼らとそれ以外を区別する方法だと教わったから――。
「……命令されたら、傘を差すこともあるし、固有の名前を名乗ることもある。……騙して、ごめん」
「酷いよ……信じてたのに!!」
「……にこ。分かって。これから私はもっと酷いことをするけど、それはにこを守るためでもあるんだ」
「分かりたくない! 今すぐ離して!」
「……約束する。いつか、にこのことを元に戻すって。だから……それまでは一緒に居てよ!」
見上げると、彼女は涙を零していた。
泣きたいのは私なのに――こんなの、ずるいよ。
「……私達の、名前は――」
傘を突きつけたまま震える声で、彼女は静かに告げる。
「アンバード」
そして、雷が落ちた。
*
「いやぁ、お見事です! アンバードが人を殺す瞬間、この目でばっちり見届けさせてもらいました!」
パチパチパチパチ――。
部屋の隅から突如現れた黒いフードの小柄な女性が、殺人を称賛する。
にこを殺した気持ちの整理も追いつかぬまま、唐傘の銃身をそちらに向けた。
「おっと、私まで攻撃しないでください。まずは穏便に話し合いましょう」
「……ドクター」
「少なくとも私が呼んだ客人じゃないな。つまらない話なら命は無いと思え」
「あははー。何だか機嫌が悪そうなので、手短にしましょうか」
フードの下で彼女がへらへらと笑っているのが見える。
だが、先程まで気配をまるで感じなかった。――そういう魔人というなら、納得出来る。
「私は『NOVA』というサイトのVIP会員でして」
「……ドクター、知ってる?」
「噂程度には。実在してるとは知らなかったけど」
そういえば彼女、ドクターが下着姿ということにも無反応だ。
……やはり只者ではない。用心しないと。
「端的に言えば、明日からここ池袋で開かれる催しに参加していただきたいな、というお誘いです」
「……具体的には?」
「他の参加者を全員ぶっ殺して賞金5億円を手に入れよう! ――という趣旨のお祭りです」
「全然具体的じゃないが――まぁ、要点は分かった」
私は口下手なので、細かいことはドクターに任せる。
命令があればいつでも殺せるように――銃身は向けたままにする。
「だが、どうして私達なんだ? 他に好戦的な奴らは大勢居ただろ」
「主にまともに話が通じそうなのが貴女達だけだったと言いますか――諸々の事情ですね」
「そ、そうか……」
アンバードは上の命令に従うだけの傀儡で、そのほとんどは日常を繰り返し物陰で人を殺すだけのゾンビのようなものだ。
ドクターの上の存在のことはよく知らないが、私達は比較的穏健派と言っても良いだろう。
「5億円は研究資金の足しにもなりますし、殺せば殺すほど貴女達の戦力も増える。――良いこと尽くしでしょう?」
「私達にはメリットしか無いな。今度はデメリットの話もしてくれ」
あまり興味無さげに、ドクターは話の続きを促す。
「貴女達の一番上に居る存在――仮にオリジンと称しましょうか。彼を戦場に呼んできて欲しいのです」
「……はぁ?」
「貴女達は将棋で例えるなら歩兵のようなもの。10万枚横に並べられたところで、他の参加者からすると全く美味しくない話です」
「だから、王将も用意しろって?」
その通りです、と彼女は笑う。
「それさえ守っていただければ、10万人で参加されようと文句は言いません。捨て駒でも肉壁でも人海戦術でも、好きなようにどうぞ」
「……本当にそれだけでいいのか?」
「えぇ。それだけです」
実在するかも怪しいオリジンとやら――ドクターが連絡を取れるかどうかすら分からないのに。
怪しむ私達をよそに、ところで――と彼女は余談を挟む。
「その唐傘、どうやって人を殺しているんですか?」
「……ドクター」
「話していいぞ」
許可を貰ったので、原理を説明する。
とはいえ、これもドクターの発明品の一部だ。
「……高出力マイクロ波を射出してる。極少量だけど、脳を焼くだけなら十分」
「小型のレールガンみたいなものでしょうか?」
「……撃った後は銃身が熱くなりすぎるから、一般人には扱えないけど……」
「既に死んでいる貴女達なら大丈夫、ということですね」
ふむ、と納得したようだ。
ただ彼女は知識欲を満たしたかっただけなのかもしれない。
「話は済んだか?」
「はい。それはもう――」
「あやめ、やれ」
ドクターから命令をもらい、引き金に手を伸ばす。
「ちょっと、暴力反対ですってば! はいはい、もう帰りますよ!」
言い終わるが早いか、彼女はあっという間に姿を消してしまっていた。
去った跡に紙切れが落ちていた。
拾って一瞥してみるが、ただ文字が並べられているだけだった。
「……ドクター、何て書いてある?」
「そういやお前、文字読めないんだったな。――『NOVA』とやらのURLだ」
まさかこのご時世になって手打ちでアドレスを入力する日が来るなんてな――とドクターは冗談めかして言う。
「……ドクター。参加するの?」
「あぁ。――あやめ、今日は何人殺した?」
「彼女を入れて、四人」
「少ないが……まぁいいか。池袋周辺で使えそうな人員を出来るだけ投入する。足りない分は現地で調達する」
まるで新しい薬のレシピを思いついた時のように、晴れ晴れとした表情で。
「面白くなってきたじゃないか。――さぁ、実験開始だ!」
*
『4回裏、背番号5番投手のアンバード選手が三者凡退に抑え、続く5回表、背番号7番バッターのアンバード選手が豪快なホームランを炸裂させました!
――以上、先日のハイライト。実況レポーターのアンバードがお伝えしました』
テレビで、ネットで、リアルで、バーチャルで――アンバードという名前を聞かない日は無かった。
「気の所為かしら。最近アンバードさんって、よく聞く気がするわ」
朝食片手にテレビを見ていた母がぼやく。気の所為ではないが、一般人の感性でも気付くレベルで流行っているらしい。
「同じ名前ばかりだと区別が付きづらくて困るわ」
「多様性の時代だ。黙って見守るしかないよ。――いずれ、声を荒げるものも出るだろう」
スマホから頭を上げることもなく、父が知ったようなことを言う。
流行りも廃りも、大人たちにとっては取るに足らない出来事なのだろう。
いつも通りの朝が来て、昨日まで普通の名前だった芸能人が改名するニュースに驚いて、登校時間が近づいてくる。
『池袋周辺は今日も厚い雲に覆われています。急な雷雨と殺人鬼にご注意ください。――以上、お天気情報をアンバードがお伝えしました』
『アンバードさん、ありがとうございました』
テレビが天気予報を伝えている。窓の外に目を向けると曇り空が広がっていた。
「――、もう行くの?」
「車には気をつけなさい。勉強、頑張るんだぞ」
「うん。お父さん、お母さん、行ってきます」
二人に見送られて、玄関のドアを開ける。
もう何も恐れることは無い。――彼女達が待つあの教室へ行くのが、とても楽しみだ。
だって、私達は同じ名前で繋がっているから。
彼女の名前を、思わず口にこぼした。
「……すぐに行くからね、ひーちゃん」