お天道様の下には雲が薄く平たく広がり、横に長く伸びる虹を乗せている。
このような大気現象を「環水平アーク」と呼ぶのだと、彼は遠い昔、年上の幼馴染に教わったことを思い出した。
七色の光を渡りながらヒバリが美しい歌を披露し、その影が池袋の端にある弧夜見学園の植物園、ドーム直上を通過した。
直径80m、高さ115mの卵形のドームには透明度が高く非常に頑丈な特殊ガラスが張り巡らされており、日の出から日の入まで日の光が差し込み続ける空間を形成している。
空調と水の循環システム、自然光。
これらが東京都内、それも学園の空間内とは全く切り離された植物を数多く育んでいた。
バオバブ、サワロ・カクタス、サルオガセ、アイスクリームビーン、ムラサキユキノシタ。
菩提樹、ショクダイオオコンニャク、ラリーグラス、ギンピー・ギンピー、竹(マダケ)。
地球上の全大陸を彩る植物が一所に集まり、満面の緑を振りまいている。
木漏れ日がこの空間を占める光を和らげ、柔らかく揺れた。
光と影がまだらに散乱し、2人の人物にマーブル模様を投射している。
キトンかローブに似た柔らかい薄布を羽織った彼らは、レジャーシートの上で重なり合っていた。
厚みのある肩、広い背中の男が細身の体へと覆い被さり、躰を揺らす。
ドームに立ち込めた熱気が、ボタボタと垂れ落ちる汗へと変わる。
大男の細い血管と筋肉が形作る凹凸が、運動の中で滑らかな和紙のような肌へと塗り込んだ。
男の動きは傍目にも乱暴で、組み敷かれた身体はいつ壊れてもおかしくはない。
しかし、ガラスの天井を見つめる眼差しに苦しみはなく、口元には慈愛の笑みが浮かんでいた。
ふう、ふう、と大男の口からは荒い息が漏れ、興奮が最高潮に至ったことを示していた。
そこから間を置かず、巨人は岳深家族計画の脚を大きく開いた。
そして岳深の肘から先よりも立派な柱を突き立てると、精魂の一抹に至るまでゆっくりと時間をかけてぶちまけた。
……
「今日は一段と量が多いなハジメ。そんなに良かったのか?」
押し付けられていた胸を掌で押し返し上体を起こすと、岳深は目前の惨状を笑った。
地面が抉れ、手の届かない範囲にまで諸々が飛散している。
レジャーシートは安物なこともあって部分部分が破れているが、ことの最中に背中や局部が汚れなければそれでいい。
「う、うん……直接の相手をしてもらうのは久しぶりでさ。ごめんよ、痛くなかったかい?」
「ああ、私の方も悪くなかったよ。でもそうだな。今日はまだ時間もあるし、もう一回誰かと楽しむ余裕は残ってるかもね」
息の上がった大男『ティタノマキア』ハジメとは対照的に、岳深はうっすらと肌に汗を浮かせる程度で疲弊した様子はない。
「はあ、家族計画ってばすごいなあ……ボクはもう疲れてしまったから休むことにするよ……」
「ゆっくり休むといい。片付けだけ忘れないようにな」
ハジメはゆったりと身を起こして周囲の汚れを拭き取り、防臭袋にゴミを詰め込んだ。
そうして、ぐしゃぐしゃに縒れたシートの上に仰向けに寝転がった。
揺れる枝葉がの隙間から、時折光る虹が姿を見せた。
岳深が視界の隅に何度か見ていたそれに、ハジメもいまになって気がついたようで、呆とした表情でじっと宙を見つめる。
「ねえ、家族計画。ボクたちまるで神様に祝福されているみたいだ。こんなふうに幸せでいいのかな。こんなことしてて、誰か大人に怒られないのかな」
虹から神様を想像し、そこから更に罰を連想したのだろう。
岳深はそのような不安を笑い飛ばした。
「怒られるって、それは私達が子供だからか? 私達はこういった行為による病気や妊娠等のリスクへは最大限の対策を行っている。そして何よりもお互いに愛し合っている。そこに他人から口出しできる余地は残っていないし、もし実際に何か言ってくる人がいたとしてもだ。それはその人自身が分配できる愛のリソースを基準に、私達の愛を量の過剰と騒ぎ立てているに過ぎないよ」
輝く髪に虹が照り返し、発言に込められた自信が神秘的な響きを帯びる。
ハジメは安心した様子を取り戻し、空を見続けるのにも疲れるとごろりと仮眠の体勢に移行した。
寝息を背に、岳深は植物園最奥に設置された仮設のシャワー室へ向かった。
今からハジメ以外の誰かと仲良くするにしても、やはり相手を交代するたびに身体を綺麗にするのは最低限のマナーだ。
簡素な作りの天幕に手をかけようとした所で、閉ざされた布は反対側から突き出した手によって開かれた。
「早いな、もう上がるのか」
「今日は生徒会で大事な会議があるから」
制汗剤の香りがふっと香る。
シャワー室から現れたのは『最後の希望』ミライ。
ブレザーとスカートをキッチリと着込んでいる様子は、登校時と寸分違わないように見える。
弧夜見学園の生徒会長を務める彼女には、性的な退廃と高潔な役回りを両立できる才能があった。
「本当はもう少し長くいられたらいいんだけどね。イツカのことも心配だし……」
「イツカの調子はどうだった」
『無力な』イツカ、彼女はこの学園を覆った薬物災害の終焉後にもたびたび後遺症に苦しんでいる。
学外のクリニックやカウンセリングを受診するなど積極的に回復を目指しているが、あれから1年近くが経過した今でも時折強い苦しみに襲われていた。
植物園の利用時間の中で、あるいはその外で、岳深やハジメ、ミライはそれぞれ彼女が安楽を保てるよう手を尽くしている。
「だいぶ回復してきてると思う。今はヤシの木の陰で寝ているから、時間ギリギリになったら起こしてあげて」
「了解、君もあまり頑張りすぎないように。肩肘を張らず、力を抜く時には抜いておいた方がいい」
「あなたに言われずとも、ここでどれだけ抜いてると思ってるんだか…」
確かにミライはドーム内で服を脱いでいる間、まるで外にいる時とは別人であるかのように振る舞う。
きっと本人が言った通り、あれが完全に気を抜いた時の姿なのだろう。
「今日はお暇するけど、近いうちにアタシのお相手もしてくれる?」
「会長様の御指名とあればよろこんで」
表情を綻ばせ、会長はその場を後にした。
「5分前行動!」と駆け出す生徒会長を見送り、岳深は今度こそシャワー室へ足を踏み入れた。
手前にはこの場所を利用しているメンバーの荷物と着替え、タオルを置いたままにしてある。
放課後1時間の植物園利用者は限られており、明け透けな側面も強い。
身を包む薄布を取り去り、岳深は畳んだそれを荷物の近くに置いた。
水栓から伸びたホースの先にはシャワーヘッドが取り付けられている。
水勢の弱い状態で冷たさに肌を慣らすと、徐々に勢いを強くしていき汗や体液を洗い流す。
水が地面を跳ねる音、広い空間のどこかで枝が揺れる音、それは強弱があれど爽やかな静音に近い。
スッキリした気分に浸っているとシャワー室に近づく足音があった。
「あ~っセンパイここにいた」「探してたんだからねセンパイ」
左右対称のサイドテールが揺れる。
近付いてきたのは双子の姉妹だ。
彼女達は1年生で、4月の終わり頃にこの場所に加わった。
誰か特定の人物を独占するためだけに利用するような人物はコミュニティの持続性を断ち切ることに繋がるため、受け入れを拒否している。
しかしこの姉妹はその心配もなく、他のメンバー全員とすぐに仲良くなることができた。
「ねえ今日まだ大丈夫でしょ」「一緒にしようよ!」
なにより非常に積極的だった。
「それならば残り時間一杯を使おうか」
岳深は2人を連れて外へ出た。
……
日が落ち、学園内で最も日の当たる植物園にも暗闇が増した。
放課後最初の1時間の後、岳深は自分の仕事をしていた。
園内の掃除、植物の世話、一般客相手の案内、設備の点検と備品の補充などすることは多い。
1時間を共に過ごすメンバーにも一部の業務を手伝ってもらうことはあるが、この施設を提案した自分自身の責任として彼は毎日の数時間を植物園の管理に充てていた。
「違和感があるわ、そうやって真面目にやってるの」
誰かが園に入って来ていたことに岳深は遅れて気が付いた。
「おやお客様、申し訳ないですが5時以降は入場を禁止しているんですよ」
振り返らずとも正体には気が付いていたが、岳深は言い放った。
「『家族』以外には冷淡なのね、王子様」
「冗談だよ、いつでも君のことは歓迎しているさ。ハツ姉さん」
『ジ・エンド』ハツ。
彼女は昨年の事件解決の渦中にあって最も多くの命を奪った魔人だ。
1年が経って悲劇を忘れ去った生徒や教師のが多い中でも彼女だけは周囲から距離を置き続けられていた。
ハツ自身も人を殺した事実に関しては思う所があったようで、徹底的に能力を使う機会を避けていた。
岳深同様にキタルベ機関からスカウトがあった後でも彼女は固辞し続けてきたのだ。
「別にそういうのが嫌なら見てるだけでも良いんだから、昼からここに来ればいいのに」
「そういうのは見るのも嫌だからここには来ないのよ、馬鹿。皆がアンタみたいにピンクの脳みそしてると思わないでよね」
本気で蔑む目を向けられたが、2人の間に横たわる一定の溝は幼馴染となって以来のものだ。
甘えと呼ばれるかもしれないが、岳深はこのような接触の小さい関係も嫌いではなかった。
「ムッツリの姉さんのことは置いておくとして、私に会いに来てくれたんだろう。何か用事でも?」
「人をおちょくらないと生きていけないの? ハア…… 警告よ」
ハツの瞳は真剣なものだった。
作業の傍ら話をしていた岳深も思わず手を留める。
「どういうこと?」
「どうやら昼の植物園を本気で嫌っている人達がいるみたい。遊びは適度に抑えるか、せめて遠くでするべきよ」
「PTA?理事会?生徒会や風紀委員にはもう何度か説明しているはずだけど」
「所属なんて知らないわよ。とにかく学校って言うのは教育の場所だからそういう行為にそぐわないだとかそういう話じゃないの。色々な人が集まる場所でいたずらに過激な真似をしたなら恨まれるって話」
「自由恋愛を怒られるなんてアイドルみたいで人気者冥利に尽きるところだね。校則で恋愛自体が禁止されている学校はあるけど、ここはそうじゃない。他人の関係に一々口を出す方が神経質なんだって。音や臭いは漏れないよう気を付けてるし、大丈夫だよ」
呆れた顔をして、ハツは出口へと向かった。
「分かってる?もう助けには行かないんだからね」
「うん、分かってるよ。心配してくれてありがとう」
帰っていくハツの後ろ姿を見送り、作業の続きに戻る。
ハツの大量殺戮は岳深が当時の生徒会長への反逆に加わったことに端を発する。
反逆の中に岳深がいなければ、彼女は戦いに参加してはいなかったのだ。
大義のある殺しではあった。
しかしそれでもハツは己の行いを振り返っておぞましいものだったと思っている。
そんな彼女が直接伝えに来たのだ。
本気で心配を募らせていたのだろう。
「一応、気にしておいた方が良いのかもね」
呟き、岳深は道具をロッカーに収納した。
……
次の日、登校中にイツカから着信があった。
「もしもし家族計画さん、会長が今日学校を休むと聞いていませんか」
「聞いてないけども」
「そうですか、集合場所にはいつも会長が先についているし、時間も過ぎていていたもので……少し遅刻するかもしれませんが、直接家を見てきた方が良いでしょうか」
「学校に到着したら、私も出欠の連絡が無かったか確認してみるよ」
「分かりました。よろしくお願いします」
消え入りそうな声で電話は切れた。
イツカとミライは普段一緒に登校している。
生徒会の用事で登校が早まる時などは事前に連絡を入れているはずだ。
会長が欠席、あるいは連絡を忘れるなどということは、今までに一度も無かった。
「昨日のハツ姉さんの警告もあったし、少し心配だ」
足を速めると学園への到着時刻は普段よりずっと早かった。
職員室に尋ねると、ミライの出欠に関する連絡は来ておらず、早く登校しているというような事実も無かった。
しかし職員室内はやけに騒がしかった。
それに、廊下、教室、思い返せば通学路も。
「生徒会長の心配も良いが、植物園は大丈夫なのか」
質問した教師が何らかの気遣いを口にした時、岳深も流石に何かが起きたことを確信せざるを得なかった。
[『ティタノマキア』ハジメ
『最後の希望』ミライ
『月光のプリンス』岳深
『無力な』イツカ
以上の者達が植物園に立ち入ることを禁ず
弧夜見学園 生徒会
]
入口に貼り紙がされていた。
しかしこの施設の管理をしている自分達を立ち入り禁止だなんて一体どういうことだろう。
しかも書面では生徒会の発令に関わらず、生徒会長のミライまでもが対象に入っている。
「それは貴方たちが麻薬の製造に再び手を染めたからですよ」
眼鏡の男子が声を掛けて来た。
閉ざされたドア、植物園の内側から。
岳深の記憶が確かであればそれは生徒会書記を務める2年生の男子生徒だ。
「嘆かわしいですね。麻薬を撲滅した英雄たちが、麻薬の快楽と売買に溺れてしまうなんて」
「何を言っているのか分からないがそのような事実は存在しない。証拠もなしにそのような誹謗中傷は止してもらおうか」
書記を務める2年生男子の口角がぐにいと持ち上がった。
「証人がね、いるんです」
岳深の背後に近づく足音があった。
「煙を吸うと頭がふわっとしてえ」「気持ちよさすぎて怖かったあ」
双子の姉妹だった。
「最初は無理やり連れ込まれてえ」「無理やりされちゃったの。あそこにいた全員にね」
「写真も撮られてえ」「校外にばらまくって脅されたの。従うしかないよね」
「普通の植物のふりをしてえ」「麻薬の材料も育ててたの。怖いよね」
ニヤニヤと笑う顔は遠目には今までと全く変わらないように見える。
しかし近づくにつれて分かってくる。
目は笑っていない。
「嘘を付け。自分達から積極的に誘っていただろう」
「こうやって捏造するんだよ」「酷いと思わない?」
眼鏡の男子が哄笑した。
「ま、そういうことだ。残念だったがミライ会長もこれでおしまい。次の生徒会長はミライ会長シンパの副会長をすっ飛ばして僕で役職のある僕で決まり、ってコトです」
事実が無いのだから証拠があるはずはない。
しかし、朝早くから植物園に入り込んだ彼らが何も仕込んでいないとは考えられない。
「いつからだ」
「最初からだよ、運にめぐまれただけで英雄なんてズルいじゃん」「私達1年生はなんのおこぼれもないじゃん。あ、センパイのチンチンはちょっと良かったよ?」
「貴方たちと同じことをするだけ、です」
眼鏡が指を鳴らした。何かの合図だ。
頭上から布が落下してくる。
何らかの魔人能力だろう、恐らくはわざわざ顔を出した双子の。
眼鏡の男子は「同じことを」する、と発言した。
それは即ち、今の学校を支配する会長と、植物園を運営する岳深達メンバーを排除することを意味するだろう。
会長の安否が分からない、他の皆も。
電撃的に処理しなくてはならない。
銀色の輝きが岳深を覆った。
オラクリンが全身を瞬時に巡った合図だ。
「無駄!このエバの『カーテンコール』と!」「ネバの『一貫のオワリ』は!」「「避けられない!!」」
双子が何か言っている。
ああ、言わなくても分かっているから聞く必要は無い。
カーテン上の布は鋭く重い。
はためいているが風で動いているのではない、触れれば潰れる。
そして双子の片方は布の裏から殴りかかる準備をしている。衝撃だけを通すのか、何らかの貫通能力を使うのだろう。
今というこの瞬間の全てが鋭く、岳深の脳裏を駆け巡った。
『銀波暁露に立つ』
この能力は予知能力だとか、思考加速と解釈されることもある。
しかしその本質は、今現在への絶対対処だ。
人間は過去の経験を通じて未来を予想し、修正を加えながら未来を描いて行動する。
能力を発動中の岳深は違う。
今、知覚しているか否かを問わず自らに降り懸かる問題に適切な行動を返して対処する。
思考するよりも早く、身体は動く。
取り出した鉄棍が振り抜かれた。それはもう一本用意されていた短い鉄棍を打ち上げ、カーテンの裏にいた双子の片方を貫いた。
布が消え、姿を現した他方も頭へと鉄棍を振り抜いて打ち倒す。
「か、会長が悪いんだ。貴方が汚した会長なんてもう会長じゃない」
眼鏡の男はスマートフォンの画面を岳深へ向けた。
複数の男に囲まれて息絶えたミライ、自殺したハジメの写真がスライドショーで流れる。
「終わりなんですよ、どちらににしても」
鉄棍は彼の頭も、吹き飛ばしていた。