空に舞う霧雨がアクリル製の水槽をしとどに濡らす。本日のイルカショーは中止のようだ。
池袋の西部に位置するイカナゴ水族館は、平日にも関わらず多くの来館者で賑わっていた。
イカナゴ水族館は館長が独特のキャラクターをしており、池袋内では知る人ぞ知る場所となっていた。
エントランスホールに入るとまず目を引くのは、リーゼントヘアーが特徴的なイカナゴ館長その人の肖像画である。
イカナゴ館長は還暦を過ぎた壮年男性にも関わらず重度のナルシストであり、展示している魚の説明よりも間に挟まれる自己紹介のほうが長いという。
――と、ここまでが岳深家族計画が戦場となる水族館について事前に得た情報である。
対戦相手となる他の殺人鬼については、四つ巴になること以外は何も分かっていないというのが正直なところだ。
(やれやれ、少し困ったことになったぞ)
岳深は人ごみをかき分けかき分け、大展示ホールにスツールを見つけるとそこに腰掛けた。
視線をせわしなく動かし、注意深く来館者たちを観察する。
マンボウを見て馬鹿騒ぎをしているコギャル系の若い女。
付け爪が長すぎる。あれでは繊細な殺人はこなせない。
――殺人鬼ではない。
彼氏に水槽の前でポーズを決めた写真を撮らせているワンピースを着た若い女。
流石に殺し合いの場に彼氏同伴はあり得ない。
――殺人鬼ではない。
イカナゴ水族館には初めて来たのか、おどおどと展示物の前を行ったり来たりしている若い女。
あまりに挙動不審すぎる。擬態なら大したものだが、ここまで目立つことはしない。
――殺人鬼ではない。
どぶろくを片手に水槽内を悠々と泳ぐ熱帯魚を肴に飲酒している若い女。
殺し合いの前に判断力を鈍らせるようなマネはしない。
――殺人鬼ではない。
先ほどから若い女だけに目が行っていることに気づき、自嘲気味に笑う岳深。
もちろん殺人鬼は若い女だけではない。ピエロも肉屋も、この水槽内のサメだって殺人鬼になり得るのだ。
すると、先ほど殺人鬼ではないと判断した、熱帯魚エリアでどぶろくを飲んでいた若い女が、柔和な笑みを浮かべながらこちらに歩いてくる。
黒髪をツインテールでまとめ、良家のお嬢様のようなフリル付きのドレスを身に纏っていた。翠色の瞳が妖しい光を湛えている。
もしや自分のことが気になるのか……!?
岳深は女への興奮を理性で抑えつけ、意図して思慮深い表情を作るとスツールから立ち上がった。
「どうかされましたか?」
「あなた、『迦具夜の銀燭』ですわよね? 弧夜見学園の」
間髪入れず飛び出した女の言葉に岳深は思わず身じろぎする。
なぜ、自分の出身校を? そして、殺人鬼としての通り名を?
「お初にお目にかかります。私、名を『鬼ころし』といいますわ」
「鬼ころし」を名乗る女――呑宮ホッピーは、スカートの裾を摘むと、それは優雅に一礼した。
「おやおや、これは礼儀正しい殺人鬼がいたものだ。ところでどうして私のことが分かったのか、その折り目正しさに乗じてお聞きしても?」
岳深は動揺を気取られないよう、極めて平静を装って問い返す。
「あら、殺す相手のことを殺す前に知りたいと思うのは常識じゃなくて?」
呑宮ホッピーはここで初めて猛禽類のような目つきで岳深を見据える。
答えになっているような、なっていないような返答を受け、岳深は背中に空寒いものを覚えた。
「……質問を変えましょうか。ここにはたくさんの人がいる。来年小学校に上がる子どもや、結婚を控えているカップル、老後の楽しみが水族館巡りだというおじいさんもいるでしょう。いま、ここで殺り合いますか?」
岳深はホッピーにそう言いながら、明確な意志を以て自身の能力『銀波暁露に立つ』を発動していた。
彼の全身が銀色に発光し、暗い館内を仄かに照らす。
「オーホッホッホッホ! 殺人鬼が倫理を説くなんて片腹痛い……とは言いますが、そんな殿方も嫌いじゃなくてよ。いいでしょう。下に駐車場があったはずですわ。私はそこで待っていますので、あなたも覚悟が決まったらおいでなさい」
ホッピーは岳深に告げ、イカナゴ館長の肖像画の前を通り過ぎて優雅に階下へと下りて行った。
「尻尾を巻いて逃げる、なんて真似はしないことをおすすめしますわ」
エレベーターに乗り込む前にそう付け加えて。
その目つきは、「鬼ころし」というよりは人を取って喰らう「鬼」そのもののであったのだが。
「ふう……」
ホッピーが去った後、岳深はスツールに改めて腰を下ろした。
冷や汗が止まらない。あれが歴戦の殺人鬼が醸し出す凄味というやつだろう。
まるで蛇に睨まれた蛙のように身動きができなかった。
――だが。
「計画通り……だ」
岳深には勝算があった。
彼の能力『銀波暁露に立つ』は物事に対して、最も正解の選択を意図せず取ることができる。
それは、予知能力だとか思考加速などではなく、脊髄反射で最良の結果を残すことができる能力と言ってもいいだろう。
別次元に存在する架空の臓器から分泌される「オラクリン」が尽きない限り、彼は絶対に失敗することはない。
――そして、『銀波暁露に立つ』は駆け引きにおいて最高のパフォーマンスを発揮する。
岳深は、会話をすることも無数に枝分かれしたチャートから最良の結果を勝ち取る『選択』であると認識していた。
それは長年の女性関係(および男性関係)において、彼が意中の人間を陥落させるために会話の選択を続けたことに起因している。
ともかく岳深は自身の能力により、ホッピーを別の場所へ誘導し、さらに時間を稼ぐことに成功していた。
◆ ◆ ◆
十数分後、イカナゴ水族館の地下に設けられた、やけに広大な駐車場に岳深が現れる。
「待ちくたびれましたわよ、迦具夜の銀燭さん? 私、まだあと2人もお相手しなければなりませんの」
ホッピーは飲み物をどぶろくからワインへと切り替え、先ほどと変わらず飲酒を続けている。
恐らくはアルコールを摂取することが能力の発動条件なのだろう。あるいは……ただの趣味か。
「失礼しました。お待たせした分だけは楽しませますよ」
岳深は慇懃に頭を下げると、ジリジリとホッピーとの間合いを測る。
彼女の手元にぶら下げられているゴルフバッグ。あれに得物が入っているに違いない。
日本刀のような刃物系か、はたまたバールなどの鈍器か。
ゴルフバッグの大きさは目算で1.5メートル弱。駐車場の大きさは普通乗用車で縦6メートルの横2.5メートルになっているので、ホッピーの腕の長さも勘案すると、駐車場の線より内側に近づかなければまず当たりはしないだろう。
岳深は背に隠していた長短2本の鉄棍を素早く抜き放つと、短い方を即座に投げつけた。
この後、左手がワイン瓶で塞がっているホッピーは、右手のゴルフバッグで鉄棍を受け止めるか弾き返すはずだ。
そうなれば視界はゴルフバッグで遮られ、意識は短い鉄棍に行き、両手とも即座に対応できない状態になる。
いくら戦闘特化の魔人とはいえ、その状況で岳深のもう一本の鉄棍を頭に受ければただでは済まない。
だがホッピーが次に取った行動は、岳深の予想を大きく凌駕していた。
なんと彼女は、左手のワイン瓶で鉄棍を弾き、右手のゴルフバッグからオモチャの巨大ヌンチャクを取り出したのだ。
「オーホッホッホッホ! あなた今、駐車場の白線で私の武器の間合いを測った後、鉄棍を投げれば両手が塞がると思いましたわね? 視線でバレバレですわよ」
酔えば酔うほど使用する武器の性能が上昇する、呑宮ホッピーの魔人能力『酔剣』。
彼女のこの能力は、普段であれば人の頭部を殴った程度で割れてしまうワイン瓶を、鉄棍に比する硬度まで強化せしめていた。
そして、呑宮流防御術"反"。
ホッピーの修めたこの技は、手にした武器で相手の攻撃を文字通り反らしてしまう、というものだ。
『酔剣』と呑宮流。
この2つが合わさり、彼女は酔いが回っている間限定ではあるが、攻防共に魔人としてトップクラスのパフォーマンスを維持することに成功していた!
そして、岳深はそのまま『酔剣』で強化されたオモチャの巨大ヌンチャクで組み伏せられてしまう。
「これでおしまいですこと? ……興醒めですわ。あまりに呆気なさすぎて酔いも醒めてしまいそう」
心底つまらなさそうな顔をしたホッピーと目が合う。
ヌンチャクに力が込められ、岳深の頚椎がメキメキと音を立てて軋む。
「…………り……い……」
「……なんですの? 遺言サービスは承っておりませんことよ」
岳深が何かを呟いた。
意に介せずヌンチャクで岳深の首を挟み、絞め上げるホッピー。
――ところで。
「ところで爺や、今日のお茶はなんですの?」
「今日はアールグレイを淹れておりますぞ」
「あら、私はアールグレイよりもダージリンが――」
おかしい。これは現在の映像ではない。
昨日のセバスチャンとの会話だ。今、この会話を見聞きしているのは絶対におかしい。
映像と音声が切り替わり、駐車場へと戻る。
ハッと気づくと、目の前にはヌンチャクの柵から脱出した岳深がゲホゲホと咳き込んでいた。
「『これで終わりじゃない』って言ったんですよ。別にあなたほどの美女になら、殺されても良かったんだけど」
フラフラと立ち上がる岳深。
その手には長い鉄棍が握られている。
「酔っていると血管が開いてほかの薬物などを摂取しやすくなるらしいですよ。……私の『オラクリン』にも同じことが言えてよかった――」
岳深のオラクリンは、自身が摂取すれば良い状態異常がかかるが、岳深以外が摂取した場合は副作用が発生し悪い状態異常となる。
具体的には、オラクリンの『過去の経験を思い返す過程をスキップして現在への対処を行う』効果の『過去の経験を思い返す過程をスキップする』部分が反転し、過去に囚われた状態に変化するのだ。
そして、その効果は酩酊しているホッピーには面白いように作用することになる。
今、ホッピーの脳内では昨日と今日と現在と過去が代わる代わるパラパラ漫画のように映し出されているだろう。
「鉄棍にね、塗ってるんですよ、精製したオラクリン。それをあなたが至近距離で弾くから、鼻や口から摂取しちゃったみたいです」
岳深は鉄棍を構え、ゆっくりとホッピーに近寄っていく。
「私としては、最初に会った時は別に時間さえ稼げればどうでも良かった。あなたの酔いが回るほど勝率は上がったから。あなたは酔っている限り、私に勝てないんです」
岳深も途中まで首を絞められていたことで意識は朦朧としているが、ここでしくじることはない。とりあえず勝ち星1だ。
――右に、曲がります。
すると、トラックが右折する時の音声が耳に入ってくる。
今の状況を見られるとマズいか? いや、最悪運転手を始末すればいい。
岳深は一瞬迷ったが、再度鉄棍を構え直す。
トラックはスムーズなハンドルさばきで駐車場に入ってきた。
今から通報しても間に合わない。ホッピーは絶対に死ぬ。
トラックは2人のことが見えていないかのように岳深の方へ直進してくる。
白塗りの大型トラックだ。
「おっと」
岳深は横に飛び退いて躱す。
居眠りでもしているのか? 危険運転だ。
だが、トラックは少し進んだ先でそのまま止まった。
――バックします。
再度案内の音声が流れ、トラックが後退してくる。
それは徐々にスピードを上げる。時速10キロ、20キロ……40キロ。
汚れ一つない純白の車体は、明らかに岳深を狙っていた。
◆ ◆ ◆
-・・- -・-・ --・-- -・- ・-・ ・-
防鼠ウトラクは魔人である。
いや、魔"人"と定義して良いのかは少々議論の余地があった。
なぜなら彼は魂だけの状態になっているのだから。
魂を肉体から切り離してトリツクことのできる魔人能力『トラック・トリック』により、彼は殺人暴走トラックに憑依していた。
「ウトラクさん、もっとスピード出して下さいッス! そんなペースじゃ水族館に着く前に日が暮れちゃうッスよ」
暴走トラックの同乗者、車斤月はウトラクを急かす。
そう、池袋は車通りに比して道が狭い。ウトラクは埼玉から池袋まで首都高を使わずに下道で来ていたため、想定より大幅に時間を食っていた。
「そう言ったって……。混んでるしこれ以上スピード出せないよ」
「いや、もっと空いてる道があるッス」
未だに殺し合いに参加することに意欲的ではないウトラクに、月が名案をひらめいたとばかりに声を上げる。
「歩道が空いてるッス。行くッス」
「いや……だめかな~~~~ッ!」
「シロも魂が食べたいって言ってるッスよ」
「だから水族館に向かってるの! 悪人の魂以外は食べさせないって決めたでしょ! ……いや、まあ、どうしても間に合わないっていうなら考えるけど」
あまりにも無体な提案に語気を強めるが、月と暴走トラック――シロが同時にシュンとなった気配を察し、必死で弁解するウトラク。
「だったら行くッスよ! ほらほら」
「じゃ、じゃあこれはどうだ。次に後ろに付けてきた車のナンバーの合計が偶数か奇数かで決めるってのは。月はどっちに賭ける?」
これなら確率は1/2だ。
50%で歩道を通行している無辜の民の命は守られる。
「そうッスね……。じゃあ奇数に賭けるッス」
――そうして結局。
「だァ~~~~ッ! なんで偶数なんスか!?」
「セーフッ!」
――到着が予定よりも30分も遅れてしまったのだった。
ウトラクの操作するトラックは、立ち入り禁止のポールを破壊し地下駐車場に侵入していく。
するとそこで目にしたのは、うつ伏せに横たわった可憐な少女にフラフラと近寄っていく、武器を携えた暴漢の姿だったのだ!
「おおッ、いま! まさに! 殺人鬼が殺人を犯そうとしてるッス! 轢殺チャーンス!」
「なにが轢殺チャーンスだよ……。まあ普通に助けるけど」
ウトラクは【R】にギアを入れ、車体を急発進させる。
男は間一髪でそれを躱した。
続いてギアを【D】に入れ直し、優男風の暴漢――岳深家族計画へ向けてスピードを上げる。
だがこれもギリギリのタイミングで避けられてしまう。
「あーッ! 惜しいッス! 早く轢き殺せ~~~~……ッス!」
横で茶々を入れてくる月を他所に、ウトラクは思考を巡らせていた。
いくら反射神経に優れた魔人とはいえ、ここまで何度も暴走トラックの追突を躱せるだろうか。
……いや、これは明らかに何らかの魔人能力を発動しているに違いない。
よく見ると岳深の身体が銀色に輝いている。
ウトラクは自身の考察に確信を深めた。
肉体強化? 高速移動? 未来予知?
様々な効果が考えられるが、これらのどれであっても対処できる方法が……ある。
ウトラクは、まず車体の前方に岳深が来るように位置取った。
そして、急加速。ここまでは先ほどと変わりない戦法である。
トラックが近づくにつれ岳深の身体の輝きが明度を増していく。
「……5……4……3……2……1」
ウトラクは秒読みをしながらタイミングを計る。
トラックが岳深に接触しそうになった瞬間、彼の身体の輝きが最高潮に達した。
「……0! ここだ」
ウトラクはトラックのヘッドライトを操作し、ハイビームに切り替えた!
すぐさまウトラクによって限界を超えたスペックを引き出された暴走トラックは、網膜を焼くほどのまばゆい光量を発する。
「うブおばッ!?」
岳深の能力『銀波暁露に立つ』は脊髄反射で最良の結果を残すことができる、駆け引きにおいて最強の能力である。
だが、同じ脊髄反射――例えば強烈な光を浴びた時に思わず目をつぶってしまうなどの人体が元々備えていた反射に関しては、競り負けてしまうのだ。
交渉の通じない暴走トラックに激突され、哀れなことに全身の骨にヒビが入った岳深。コンクリートを血で濡らし、ピクピクと痙攣している。
これでは優男が台無しの再起不能であろう。
だが、これは殺戮ショーである。
完全に息の根が止まるまで敗北することができない。
――バックします。
暴走トラックが無情な音声を発し、岳深を再度轢き直した。
【迦具夜の銀燭】 死亡
ピンポンパンポーン。
すると、突如館内アナウンスが流れる。
イカナゴ水族館では、毎時30分にイカナゴ館長のありがた~い言葉が流れるのが通例である。
だが、今は15時17分。アナウンスには少し早いようだが……?
「閑さや/岩にしみ入る/蝉の声」
松尾芭蕉の句である。
だが、明らかにイントネーションがおかしい。これはイカナゴ館長の声ではない。
しかもイカナゴ館長には、アナウンスで松尾芭蕉の俳句を流すようなウィットに富んだユーモアは持ち合わせていないはずである。
「アー……こんにちは。私、『俳人575号』と言いマス。殺人鬼の皆さん、この音声を聞いているでしょうカ。もう殺し合いが始まったかは定かではないデスガ、ちょっと聞いて欲しいことがありマス」
ここで四つ巴における最後の登場人物、575に心を囚われた悲しき俳句マシーン「俳人575号」が最悪の形で姿を現した。
◆ ◆ ◆
「私、実は最近ちょっとスランプなんデス。俳句で良い点数が取れズ……このままでは夏子先生にも愛想を尽かされそうデス……」
俳人575号は物悲しそうな声でつらつらと自身の身の上を語り始めた。
当然ではあるが、このアナウンスを聞いている一般来場者を含めて彼の話を理解できる者は誰一人としていない。
「青き海/閉じ込められし/熱帯魚……ゴホッ! 45点デス……ほらネ?」
拡声器の向こうから腹部を思いっきりブン殴られたような音が響き、引き続いて俳人575号が喀血するような声で告げる。
半径100メートル以内にいる人でなければ、採点者――夏子先生の講評は聞くことができない。
「私の能力、半径100メートル以内にいる人には私の位置がバレバレになってしまいマス……。なので、今回は……自由律俳句で行くことにしまシタ」
するとやにわに上階が騒がしくなってきた。
ウトラクも流石に気になり、アナウンスに耳を澄ませる。
「実はちょっと前から、催眠ガスを通気口を通じて撒いてマス……。吸い込んでも特に死にはしませんガ、殺人鬼が眠ってしまったら目覚めを待たずジ・エンドですネ」
よく見ると、白っぽい色の気体が空気中を漂っていた。
そして、暴走トラックのエンジンのかかりが急に悪くなってきたことにウトラクは気づく。
エアコンの外気導入がオンになっている。雨中の下道を通ってきた際、あまりに車内が蒸すため付けたのだ。
魔人能力は能力者本人の認識に左右される。
無生物にトリツク能力を持った魔人がいた時、取り憑いたそれは生物と言えるのか。
取り憑かれて魂を持っているので生物? はたまた元々は無生物だったので無生物か?
少なくともウトラクは、意思を持った暴走トラックが催眠ガスを吸い込めば、眠りに落ちると認識していた!
「それでは皆さん、よい夢を――靄の中/水面に落ちる/静寂かな、デス」
ここでアナウンスはブツンと途切れた。
「ま、マズいッス! このままじゃお陀仏ッスよ! シロ! こんなところで寝ちゃってどうするッスか! 早く起きないと明日はスクラップ工場で目を覚ますことになるッスよ!」
明がトラックを叩き起こそうと必死で大声を張り上げる。
だが、トラックは彼らの意志に反して段々と動作を停止していく。
バッテリーが落ち、ラジオも付かない。
エンジンは急速に動作が悪くなり、そして――
すると、ウトラクは窓ガラスを誰かが叩くのに気づいた。
ふと見ると、果たしてドアの前に立っていたのは「鬼ころし」呑宮ホッピーであった。
岳深が頭を砕きそこねたホッピーは、脳震盪というハンデを抱えながらも立ち上がっていた。
彼女も催眠ガスを吸ったのだろう、朦朧とする意識で、しかしドアを叩き続ける。
「ドアを開けてくださいまし、『異世界案内人』。あの俳句留学生に一矢報いるウルトラCな案がありましてよ」
ホッピーはウトラクにそう告げた。
ウトラクは必死でホッピーを値踏みする。
自分の異名を知っているということは、この女も恐らくは殺人鬼だろう。
そんな人間の言うことを信用できるのか?
ホッピーと俳人が裏で組んでいる可能性は?
車内にホッピーを入れても問題ない?
そもそもホッピーの作戦は本当に俳人を倒しうるのか?
――結局、ウトラクは車内にホッピーを迎え入れた。それが最善の判断だったのかは分からない。
しかし、少なくとも月を黒塗りのトラックから救った時のような、自身の直感に背かない判断ではあると確信していた。
「さーて、安全運転で行きますことよ。準備はよろしくて?」
ホッピーはトラックのギアを【D】に入れ、シートベルトを締めながらウトラクと月に囁く。
二人は猛烈に嫌な予感に襲われ、思わず身震いした。
◆ ◆ ◆
ギャルギャルギャルギャルギャル!
水族館の館内を暴走トラックが走り抜ける。
ホッピーの『酔剣』は、手にした武器の性能を向上させる。
例え、それがオモチャのヌンチャクであろうと、魂を喰らう殺人暴走トラックであろうと――
トラックは猛スピードを出しながら、催眠ガスで眠りこけている一般来場者たちを轢殺していく。
来年小学校に上がる子どもも、結婚を控えているカップルも、老後の楽しみが水族館巡りだというおじいさんも、皆一切の区別なく跳ね飛ばす。
真っ白な車体が返り血で赤と白のまだらに染まった頃、ホッピーがハンドルを握るトラックは3階に到達しようとしていた。
「お姉さんの能力で催眠ガスを無効化できたのはいいッスけど、なんで3階を目指してるッスか!?」
滅茶苦茶に揺れる車体の中で、肉体を持たない月が叫ぶ。
この状況に不安と興奮、両方がない交ぜになっているようだった。
「あら、この水族館は空調設備を備えた放送室が一緒に3階にあってよ――」
ホッピーは意気揚々とトラックを駆る。
そう、彼女の狙いは最初から3階に陣取る俳人575号であった。
――その角を左です。
トラックのナビが、放送室への道順を的確に案内する。
――あと10メートル直進すると、目的地です。音声案内を終了します。
トラックはそのまま放送室のドアをぶち破る。
放送機材の前で椅子に腰掛け、のんきにコーヒーを片手にくつろいでいる人影が見える。
赤と白のヒーロースーツを着た人物だ。
ギャルギャルギャルギャルギャルギャルギャルギャルギャル!
危ないぞ/車は急に/止まれない!
トラックは一切スピードを緩めず、そのままヒーロースーツを轢き潰した。
スーツの頭部からは脳漿が飛び散り、室内に散乱する。
ホッピーとウトラクを乗せたトラックは勢い余ってマナティが展示されている大水槽に突っ込む。
驚いたマナティは脱糞し、その臭いを自分で嗅いで気絶した。
「……ふう。これで一件落着、ですわね」
「どこが一件落着ッスか! いや、某ゾンビゲー並みに人を轢けたのは正直快感ッスけど……」
ドレスの裾を絞りながら水槽から脱出したホッピーに、月がツッコミを入れる。
破天荒なお嬢様にはさすがの倫理観ゼロの彼女もツッコミに回らざるを得ないのか、と今日一番の気づきを得ているウトラク。
「しかし、俳人575号? ……ってリーゼントのオッサンだったんッスね。もっとこう、日本かぶれの外国人留学生をイメージしてたッス」
月がポツリと呟く。
見ると、轢き潰れたヒーロースーツの頭部が破れて中身が露出していた。
月の言う通り、中身はリーゼント頭のオッサンである。
「……ちょっと待ってくださいまし。それ、イカナゴ館長じゃありませんこと?」
ホッピーの声がやにわに緊張を帯びる。
ヒーロースーツを着せられ椅子に縛り付けられた後に、見るも無惨に跳ね飛ばされたのは、このイカナゴ水族館の名物館長であった。
――そして。
「オーノー。バレるの早すぎデース」
水槽と水槽の陰から本物の俳人575号が現れた。
◆ ◆ ◆
「今はなき/母に似た背の/海牛や」
「うーん、これは40点です。海牛というのはマナティのことを指します。よって意味としては、マナティにそっくりのお母さんのことを想った句、ということになるでしょうか。ただ、あまりにも表現が迂遠です。そもそも『マナティ』と言えばいいところをわざわざ『海牛』と表現した理由はなんでしょう。3文字と4文字で語調がズレるからでしょうか。語調を整えるのもいいですが、自身の心をそのまま詠むのも大切かも知れませんね。改善としては、先ほど挙げたように『マナティ』という言葉を使って表現を率直にするためにいっそ一句と三句を入れ替えて『マナティと/母を想いし/かの背中』とすると良いでしょう」
身体が宙に浮くほどの衝撃を腹部に受け、ゴハッと血を吐きながらヨロヨロと物陰から現れたのは、俳人575号であった。
そして100メートル以内に入る、という条件を満たした彼らの脳内にも、俳人575号の『詩徒』の能力内容と夏子先生の講評が流れ込んだ。
「あいつ、馬鹿じゃないのか? わざわざ姿を晒して下手な俳句でダメージを受けてるけど……」
ウトラクの言葉にホッピーは頭を振る。
「いいえ、恐らく彼が私たちの前に現れたのは、それでも勝てるという算段があるからですわ」
呑宮ホッピーは今をときめく連続殺人鬼だが、日本を牛耳る呑宮財閥の令嬢でもある。
よってNOVAの動画を視聴するためのアカウントも、金に物を言わせて無理やり取得していた。
彼女が岳深をはじめとする対戦相手について、やけに詳しかったのはそれが理由である。
そして、ホッピーの見立てでは俳人575号が3人の中で一番フザけた風貌とキャラクターではあったが、一番ナメてはいけない相手であった。
「平安時代の歌合では、事前に予告された詠題に則って勝負が行われたと聞きマス。そこで私も予告しまショウ。『異世界案内人』さん、まずはあなたからハラキリでス……」
俳人575号は何百回もの俳句バトル……という名の殺し合いで得た膨大な戦闘経験から、冷徹な目つきで勝利を宣言する。
「いやいや、いくら魔人って言っても俳句能力のアンタがどうやってシロをハラキリさせるんだよ。素手でトラック解体でも始めるつもりか?」
「そうだそうだー……ッス!」
マナティの水槽に車体を半分突っ込んだ状態だが、ウトラクと月は余裕を崩さない。
これまでに捕食した魂は100個以上。エンジンは先ほどの行脚で十分に温まっていた。
轢殺暴走トラック対俳句マニアの外国人ひとりでは勝負は明らかである。
「ハラキリで溢れるのは内臓だけとは限りまセン。あなたの中身、ブチ撒けてもらいマス」
ツカツカとマナティが泳ぐ水槽に歩み寄る俳人575号。
その手には、巻かれた電線のようなものが握られている。
「……! まさか! ちょ、ちょっと! やめるッス!」
ウトラクよりもひと足早く月が575号の意図に気づいた。
長く延びた電線の接続先には――発電機が。
「ウトラクさん、早くシロを発進させるッス! あいつ、シロのバッテリーを破壊するつもりッスよ!」
月の言葉にアクセルを踏み込むウトラク。
だが、俳人575号のほうが一手速い。
「時遅し/過ぎ去りし日の/夢花火」
俳人575号は、そのままザブンと電線ごと水槽にダイブする。
そしてそのままトラックの底に潜り込むと、電線の先端をバッテリーに押し当てた!
・・-・ ・-・・ ・・・ ・-・・ ・・ ・・・・ -・-- -・--・
チカチカと火花が散り、ウトラクは自身が取り憑いているトラックから急速に力が失われていくのを感じる。
「…………ウト……ラ……ク……さ……ん……」
そして、肉体を既に失い、魂だけがトラックの中に留まっていた月も――
「これまで……けっこー楽しかったッスよ……また生まれ変わったら……ウトラクさんと……再会できたら……なんて……」
「おい……嘘だろ……月! 待てよ……こんなのって……」
ウトラクの必死の叫びも虚しく、月の魂は水を垂らした粘土のようにドロドロと溶解していく。
「――――月ッ!」
25トンある車体の重量が、21.3グラム分軽くなった気がした。
-・-・- -- ・・- ・-・ ・・・
――そして純白のボディはその機能を停止し、ウトラクの魂も車体から引き剥がされ始める。
「~~~~ッ!! 俳句野郎ッ! お前だけは絶対に許さない――」
最後の力を振り絞ったウトラクが、俳人575号に一太刀浴びせようとしていた。
――バタン!
車体のドアが勢いよく閉まり、水中から浮上しようとした俳人575号の足を捕らえて離さない。
「お前はッ! ここで俺とッ! 溺れ死ねッ!」
ウトラクが消滅間際に見せた、初めての心からの殺意。
それは、命を散らせるその時まで彼に寄り添い続けた少女に手向ける、一輪の献花となり得ただろうか――
【異世界案内人】 消滅
水中でもがき、なんとか水面で息継ぎをしようとする俳人575号。
だがドアは彼の靴を挟んで離さず、全身タイツのヒーロースーツは防電や耐火、ガスフィルターなどの様々な機能を兼ね備えているため、容易に脱ぐことを許さない。
すると俳人575号は、スーツの隙間から何か小型スイッチのようなものを取り出した。
指先でそれを押下し、電源を入れる。
「アー……私がこれを使っているということは、よほどの強敵と戦っていると言うことデスネ」
水族館に、俳人575号の声が響き渡る。
しかし、これは俳人575号が今現在喋っているものではない。
イカナゴ館長を囮に使った時のように、事前に録音したものを館内のスピーカーから流しているのだ。
「私、これを『置き俳』と呼んでいマス。私の能力『詩徒』は、今詠んだ俳句が採点されマス……。今詠んだ、というのは俳句を私が詠んだと認識した瞬間を指しマスネー」
一瞬、間が空き――
「四面楚歌/詰まりし穴に/脱兎かな」
俳人575号が事前に録音していた俳句が流れる!
「……25点。さっきからちょっと頭痛がしているんですが、これって本当に俳句ですか? 細かい指摘点は色々ありますが、まず致命的に情景描写が足りていません。『四面楚歌』にはどうしてなった? 『穴』ってなに? 『脱兎』はなぜいる? ……そういった部分を聞く人に解釈を委ねすぎています。恐らくですが、これを詠んだ人は自身でも情景を上手く思い描けていないのかと。まあ、改善するなら基本的には『四面楚歌』は取り払ったほうがいいでしょうね。二句の『詰まりし穴』もちょっと語感が悪い。私なら『すし詰めの/うさぎ跳ねしは/古巣穴』とするでしょうか」
――ボン!
何かが破裂するような轟音が響き、ややあって水面から人影が顔を出す。
ヒーロースーツのどてっ腹が大きく破れた俳人575号が呼吸を荒げ、よろめきながら水槽から脱出した。
「オーマイガッ! ワザと下手な俳句を詠んでダメージの衝撃で自分を吹っ飛ばすなんてもうやりたくはアリマセン……ベリー痛いデス」
血と胃の内容物を吐きながら、肩で息をする俳句怪人がホッピーの前に向き直った。
催眠ガスは依然として水族館全体に立ち込めている。
ガスフィルター付きのヒーローマスクを被った俳人575号以外は立っているのも困難だろう。
――だが。
呑宮ホッピーは笑っていた。
目の前の美酒を味わい尽くす美食家のように。
この世の全てを不遜に見下す女王様のように。
血と肉に飢え、戦いを求める剣闘士のように。
ただひたすらに、この状況を楽しんでいた。
◆ ◆ ◆
「負けを認めてくだサイ。あなたに勝ち目はありませんヨ」
俳人575号はヒーロースーツの隙間から鋼線を取り出し、構えた。
対するホッピーの手には何もない。
『酔剣』によって強化するための武器も、能力の発動条件となるための酒も。
空中に散布された催眠ガスは刻一刻と濃度を増す。
戦況は極めて悪く、勝利は絶望的だ。
しかしホッピーは笑う。
「オーホッホッホッホ! あなたのその『詩徒』、私も使えるんでしたわよね?」
ホッピーの意図を察し、頭を振る俳人575号。
「無理デス。私を含め、この能力を使って70点を超えた人は殆どいまセン。諦めたほうが――――」
「ワイン飲んで/強者を食らって/酔いどれ気分ですわ~っ!」
俳人575号の言葉を遮り、意気揚々と俳句を詠み上げるホッピー。
「95点! いや、これは素晴らしい出来です。私も長い間採点者をしてきましたが、ここまで自身の欲望に素直な俳句は見たことありません! 文句なし! ……まあ、変えるとしたら最後の『ですわ~っ!』をもっとお嬢様チックな『でございますわ~っ!』にするくらいでしょうか? いや、本当に会心の出来です。あっぱれ!」
ホッピーの全身が黄金に輝き、全身の傷はみるみる治癒していく。
周囲の催眠ガスはいつの間にか全て雲散霧消していた。
「ホワット!? どういうことでスカ!? なんで……なんであなたの575も季語も無視したような俳句が……なんでッ……そんな……! そんな馬鹿なことがッ……!」
「オーホッホッホ! これが地力の差ですわ~っ! ……とまあ、冗談は置いておいて。あなた、自分に囚われすぎです」
ホッピーはいつになく真面目な顔で俳人575号に語りかける。
「これは持論ですが、魔人の能力は強さのためにあるのではありません。自分が、自分らしくあるために使うものでしょう」
「自分が……自分らしク……」
「そう! でもあなたの俳句はさっきから聞いていれば575と季語に固執しすぎです。夏子先生も度々指摘していましたがちゃんと聞いていました? 挙句の果てに自由律俳句をズル呼ばわり。自由律だろうとなんだろうと自然や自分の心をありのままに詠めば俳句でしょう」
「うっ……」
図星を突かれた俳人575号は肩を落とした。
心なしかヒーロースーツも一回り縮んだかのように見える。
「魔人たちはもっと自由な存在ですわ。魔人能力なんて、術者本人の認識に依る点からも本来はもっと曖昧なものですわよ」
認識で世界を書き換える、超常の力を持った存在『魔人』。
彼らの能力は世界に自身の認識を強制する。
岳深家族計画は自身の描く無数の選択肢を、架空の血中物質によって勝ち取れると思い込んだ。
防鼠ウトラクは魂を身体から切り離せば、意思を持った無生物にだって取り憑けると思い込んだ。
俳人575号は、上手な俳句を詠めば強くなれると思い込んだ。
呑宮ホッピーは酒を飲むと自分だけでなく、武器も酔いに任せて"虎"になると思い込んだ。
魔人たちは、すべからく認識の壁を破る可能性を秘めている。
――そして、それは『俳人575号』を名乗る青年も。
◆ ◆ ◆
「さあ、お立ちあそばせ? 俳人575号。私を勝負に酔わせるために、一度だけ俳句を詠むことを許可しますわ」
それは、事実上の最後通牒であった。
俳句で高得点を取れれば反撃の芽はあるだろう。だが、逆に70点以下になってしまったら。それは死を意味する――
俳人575号――リチャード・ローマンはよろめきながら立ち上がる。既に膝は笑い、全身の筋肉は悲鳴を上げている。
「わかりまシタ。……ただ、最初に一つだケ。今から詠む俳句は、『俳人575号』ではなくリチャード・ローマンとして詠むものデス」
俳人575号は数度呼吸を繰り返し、意識を統一する。自分の心に浮かんだ言葉を、ありのままに。
――そして。
「死を想い/最後に見るは/回転木馬」
それは字余りの句であった。季語もきちんと定まっていない。
しかし、リチャードにとっては大いに思い入れのある句だ。
「これはね、大っ変悩ませていただきました。この俳句の作者は、幼い頃に父親を亡くしています。その父によく連れて行ってもらっていたのが、公園のメリーゴーランドなんです。それを思い返しての句ですね。彼は今、死の淵に立っています。生きるか死ぬかの瀬戸際です。正直、俳句としては中途半端です。照れがまだ抜けきっていない感じがします。でも、今後の成長に期待できるという点では、点数をあげたい。私は俳句の鬼ですが人の親でもあります。春井夏子の最初で最後のわがままです。……95点で」
リチャードのヒーロスーツと全身に負った傷が修復されていく。
彼は今一度、リチャード・ローマンから俳人575号へと変身していた。
「さあ、私のほうは準備できましたヨ。鬼ころしさんはお酒が無いようデスガ、取りに行かれマスカ?」
俳人575号が不敵に特撮ヒーローのようなポーズを決める。
「オーホッホッホッホ! ご安心くださいな。お酒ならここに飲みきれないほどありますわよーっ!」
ショートしたトラックが浸かったマナティの水槽を指差し、口元に手を当てて高らかに笑うホッピー。
「ガソリンの溶けた水……なるほど、そういうことデスカ」
「酒は百毒の長」ということわざがある。
酒が毒の長なのだから、逆に言えば毒は酒になるはずだ。
ホッピーがそう認識すれば、毒による中毒症状も『酔った』という感覚に上書きされてしまう。
水槽の水をたらふく飲んだホッピーは、顔を上気させる。
「私の武器は……限定しませんわ。この場にある全ての物が武器になるとお考えになって?」
――俳句vs酒。
ここに最悪の趣味を持った殺人鬼2名の戦いの火蓋が再び切って落とされた。
◆ ◆ ◆
まず機先を制したのは呑宮ホッピーである。
床に転がっていたアシカショー用の木製バットを両手に構え、散乱している瓦礫をノックの要領で打ち出す。
呑宮流打撃術"飛"。
『酔剣』は打ち出された瓦礫をも敵を屠る武器と認識し、バズーカ砲も真っ青の威力で次々と飛来する!
「脇見れば/つづく細道/せらぎかな」
「葦を噛み/機は熟せども/歯は痛し」
「糸垂れて/坊主と成りし/蜘蛛の巣や」
「雨上がり/一色足りぬ/虹の橋」
対する俳人575号は一瞬の内に4つの句を詠み上げた。
「なるほど、これは松尾芭蕉の『奥の細道』を意識した句ですね。ふと川の流れる音に気づいてそちらを見ると延々と続く何本ものせせらぎが見え、物事は一本で存在しているのではない、と思い至った……という意味でしょうか。芭蕉の詠んだ自然をありのままに伝えるという意気が見て取れる良作です――」
「柔らかい葦しか噛めないくらい歯が痛いので、せっかくのチャンスも逃してしまう……という文字通りの歯がゆさを詠んだ句でしょう。少々迂遠な言い回しながらも、言葉選び自体には一本気の通った心地よさを感じます。私なら『歯は痛し』の部分をあえて『歯に湿布』などあり得ない表現を使って軽妙さを増すと思いますが、まあ個人的指摘の範囲内で――」
「575の全12文字の中で表せている情報量がやや少ないですね。蜘蛛を釣り人にたとえ、糸を垂れて得物がかかるのを待っている……という句になりますが、最後の『蜘蛛の巣や』はもっと選べる言葉が色々あると思います。例えば、『虫の網』とか『八つの脚』など『蜘蛛』という言葉を使わなくても、既に聞き手に与えている情報は十分ですから遊び心を出すのがいいかもしれません――」
「これは素晴らしい! 雨が上がった後に七色のうち一色欠けた虹を見た、という句になります。状況としてはあり得なさそうですが、これは詠み手の心情を表現した句として見るべきでしょう。どうして一色足りなかったのか、それを考えてみるのも面白いかもしれませんね。ただ聞き手に全てを委ねるのではなく、詠み手がある程度手綱を握って情景を示してあげることが大切です――」
4つ同時に夏子先生の講評が流れ、しかし点数は一向に開示されない。
「……1番と3番のみを選択し、いま詠んだことにシマス」
「85点です!」
「65点です!」
『詩徒』は俳人575号が俳句を詠んだと認識した瞬間に適用される。
予め詠んでおいた俳句を後から流すのが『置き俳』なら、いま彼が使ったのは詠んだ俳句の採点を後回しにする『ペンディン句』であった!
「足して2で割ると75点。差し引きでバフが適用されマス」
刹那、俳人575号の動きが急加速する。
飛び来る瓦礫を次々と避け、ホッピーの懐に飛び込んだ!
ホッピーの持っていたバットは俳人575号の手刀で真っ二つに割られる。
「オーホッホッホッホ! やりますわね、やりますわね! もっとその能力の応用を見せてくださいまし!」
ホッピーはバットを投げ捨て、これまでの乱闘であちこちの水槽から漏れ出ている水を掬い上げた。
「水かけ遊びはやったことあるかしら?」
ホッピーは手を水鉄砲の形にし、575号目がけて吹きつける。
"水"は鋼鉄をも切断するウォーターカッターの如き鋭さで俳人575号の左腕を切断した!
「……4番の句を選択しマス」
「90点です!」
俳人575号の腕が、瞬間的にトカゲの尻尾のように生え変わる。
「どこまでもデタラメな能力ですこと! でももうストックの俳句は1つだけじゃありません? こちらには無限の水。あなたに勝ち目はあるかしら?」
ホッピーは挑発するように俳人575号に向かって両手を広げた。
「……イイエ。私は水以上に尽きぬモノを知ってイマス」
「何かしら?」
「答えはもう、ご存知なのデハ? 2番の句を選択しマス」
「75点です!」
俳人575号は最後のペンディン句を消費する。
それにより強化されたのは、舌の滑りであった――
「夕暮れに/春の風吹き/散歩道」「風鈴の/音涼やかに/夜と星」「大海の/波音響く/浜の岩」「花咲けり/桃の実につく/ミツバチと」「凍る池/魚の影すら/見えざりし」「風吹けば/木陰に涼む/猫ひとり」「蝉時雨/耳に残りし/夏祭り」「寒空に/白き息吐く/子どもらよ」「鳥の声/目覚める山の/朝の霧」「星明かり/蛍舞う夜の/立ち話」「霜柱/踏む音楽し/庭の犬」「月光に静かに揺れる/竹の影」「春雨に/濡れる桜の/香りかな」「椿咲く/凍る旅路に/赤き露」「初夏の雨/カエルの合唱/遠く聞く」「新緑が/ふわり揺れるや/風車」「通り雨/入道雲で/影を知る」「夕立や/地面に跳ねる/淡き粒」「瞬けば/願う想いは/流れ星」「枯れ尾花/穂揺れ気づくと/野道かな」
いつまでも続く俳句の濁流に、俳人575号の力が無限に膨れ上がっていく!
「素晴らしい! あなたともっと早く出会っていればよかった! ああっ! どこまでも酔える気分ですわっ! 私にとって究極の勝負は、いま! ここだったのですね!」
ホッピーは自身の頭を両手で鷲掴みにすると滅茶苦茶にヘッドバンギングを始める。
呑宮流奥義"揺"。
三半規管を揺らすことで、強制的に泥酔状態になるという技だ。
呑宮流25代目後継者である彼女の生み出したこの奥義は、後に後遺症が残るほどの重大な脳へのダメージを無視すれば、これほど自身の能力に合うものはない。
「さあっ! あなたの"俳句"と私の"酔い"、どっちが上か決めましょう」
ホッピーがドレスの裾を破き、水に濡らして手に巻き付ける。即席の鞭の完成だ。
「お気をつけ遊ばせ。蝶のように可憐に舞い、蜂のように熾烈に刺しますわ」
右手を振るうホッピー。鞭は不可視の弾丸のように跳ね、俳人575号の肉を削り取っていく。
「……オー、全く軌道が読めマセン」
鞭はしなるものだ。弾丸との最も大きな違いは、その動きが予測不能という点が大きい。
「ほらっ! ほらっ! ほらっっっ!! 早く対処しないと全身穴だらけになりますわよ」
ホッピーは喉が潰れそうなほどの声で絶叫する。
もはや彼女には細かい思考を積み重ねるほどの脳機能も余裕も残っていない!
「わかりマシタ。ここデス」
見ると、いつの間にか俳人575号の手に鞭の先端が握られている。
「あとは純粋な力比べデス。引っ張り込まれた方がジ・エンドでスヨ」
俳人575号と呑宮ホッピーはお互いに鞭の両端を手にしている。
最後の最後に殺人鬼2人が始めたのは、割れた水槽から水が流れ込む、崩壊した水族館には似つかわしくない綱引きだった。
「あら、この鞭は私の『酔剣』で強化していますのよ。綱引き勝負なんて初めから結果が見えてはいなくて?」
俳人575号の言葉に乗ったホッピーは手にした鞭を渾身の力で引っ張り上げる。
――ぐらり。
突然バランスを崩し、後ろに転倒するホッピー。
(これは……どういうことかしら――)
綱引き相手である目の前の俳句怪人に目を向けると、彼は手にした鞭にハナから力を込めてなどいなかった。
「すいまセーン。殺人鬼は嘘吐いてナンボでス」
そして、俳人575号が彼女に追いすがり、腹を拳で貫いた。
【鬼ころし】 死亡
「――お疲れ様デス。これにて本日の俳句バトルは終了デス」
俳人575号は岳深を含めた大量の轢殺死体と、冷たくなったホッピーの骸、そして水没したトラックを前に合掌する。
死者を弔う――それはアメリカでも日本でも変わらない、殺人鬼としての最低限のマナーであった。
「しかしこの戦いを見るVIPの方たちハ、音声の無い俳句バトルを楽しめるのでしょうカ……」
すると、遠くからサイレンの唸る音が彼の鼓膜を揺らす。
日本の国家権力にして法治組織――警察が騒ぎを聞きつけたのだ。
こうなれば即座に脱出である。証拠は何も残ってなどいない。
彼は呼吸をするように殺人を犯す。いつも通りに。
彼は呼吸をするように俳句を詠む。いつも通りに。
そしてそれは、これからもずっと続いて行くだろう――
「夏草や/兵どもが/夢の跡」
呟き、完全に機能を停止した水族館をひとり後にする俳人575号。
床の上では無数の魚たちがピチピチと跳ね、死んだような目でただ息絶えるのを待っていた。