雨音が枝葉を叩き、世界が湿気に満たされる夜。
社の前には手を合わせる女が一人。
なぜだか火のついた煙草を指の間に挟んでいたが、何かを祈っているのだろうか。
屋根が雨粒に叩かれて規則的なリズムを刻み、女は目を閉じてそれを聞いていた。
女は鬼子と呼ばれる殺人鬼であったが、その様子だけを見ればただの観光客か信心深い人間にしか見えないだろう。
そして、その女へ背後から近づく人間もまた殺人鬼であった。
柘榴女。
体躯は百八十センチを超え、女性という面だけでなく日本人全体で見ても彼女は巨大であった。
音が鳴らぬように玉砂利を避け、参道をゆっくりと歩く。
足音を鳴らさず、気配を殺す。
警官や探偵が扱える尾行のための技術……ではない。
彼女の能力によって、ブーツは音を発する能力が失われている。
靴だけではなく、彼女のトレンチコートや黒い革手袋もだ。
柘榴女の手には警棒が握られていて、それはまさに目の前の女へと振り下ろさんと持ち上げられていた。
ぴたり、と足が止まる。
巨体故に柘榴女の手足も長い。
一歩踏み込めば頭を潰せる、そんな距離に近付けたのだ。
「……」
「……」
両者共に、言葉を発さない。
柘榴女は少々あっけないように思えた。
『NOVA』からの招待状、それに誘われた者たちはきっと『強い魂』を持っているのだろうと考えていたのだ。
こうもあっさりと背後を取り、あと一つ行動を起こせば目の前の女は自分がこれまで殺した人間同様、亡くなった息子への捧げものになるだろう。
(これが……『強い魂』……?)
いや、いいのだ。
殺してしまおう。
不純物であったとしても殺してから考えるべきであるし、強さにもピンキリというものがあるのだろう。
殺そう。
必要なことだから。
殺そう。
マーくんのために。
殺そう、殺そう、殺そう、殺そう、殺そう、殺そう、殺そう。
この女を殺さねば。
「なぁ、あんた。やめといたほうがいいぜ。そっから先は」
柘榴女の動きが一瞬止まる。
なぜ気付かれた……? そんな感情が浮き上がるが即座にそれは喜色に塗りつぶされる。
看破することが出来る、それこそがこの女の強さの証拠。
即座に動きは再開された。
警棒が振り下ろされ、鬼子の頭を叩き割る……はずだった。
「親切ってのは聞いておくもんだ」
地震のような突き上げる衝撃が柘榴女を襲う。
それによって少しばかり姿勢が崩れ、片足を踏み込んで体勢を立て直す。
その一瞬の隙を強者は見逃さない。
まるで居合抜きのような素早さ。
振り返る勢いそのままに鬼子の足がまっすぐに伸ばされ、足先が柘榴女の胸へと吸い込まれた。
打つ者と打たれた者、立場は対称。
しかし感想は同じ。
(……重い)
岩を蹴ったのかと錯覚するほどの硬さと重さが足に伝わり、鉄球が放り込まれたかのような重さが腹に伝わる。
恵まれた肉体と、磨かれた技術がぶつかりあった結果だった。
この程度ならば問題は無い、お互いに。
先に動いたは柘榴女。
下から顎を砕くように振り上げられる警棒、鬼子が狙うべきは持ち手の手首。
腕の動きを抑えるために、斬り落とすかのような手刀が放たれた。
しかしその手刀は空を切り、その手と交差するように警棒が飛ぶ。
柘榴女は腕を止め、警棒を鬼子の顔面へ投げたのである。
判断は一瞬。
「遅い……」
手刀を継続、軌道を修正して警棒を叩き落とした鬼子。
柘榴女は相手がどう動こうと関係なく初志貫徹する。
一瞬の行動が一手の遅れへと変わる、武道者の領域であった。
鬼子の体を掴み、強引に足を払う。
魔人警官として優秀だったかつての柘榴女は決してその能力だけで叩きあげられたわけではない。
日本人離れした巨躯の使い方を熟知している、その肉体の強度を操れる、それも優秀の要因なのだ。
柔道が内包する全六十八の投技のうち、二十一の足技の一つ。
大外刈り。
もはや踵を使った蹴りに等しい勢いで鬼子のふくらはぎが叩かれ、体が宙を舞う。
あまりにも乱暴な、相手を地面へ放り捨てるかのようだ。
バキバキと木の砕ける音が鳴り、鬼子が叩きつけられる。
彼女の背後にあった賽銭箱が彼女との衝突で砕けたのだ。
中に入っていた賽銭が噴水のように跳ね上がった。
警棒を拾い上げ、柘榴女は動かない相手を見下ろしている。
あとはいつものように眼玉を抉りだすだけ。
そう、思っただろう。
「器物損壊だぜ」
黒いもやが、立ち上がる
「鬼哭啾啾」
異常なほどに舞い上がった硬貨が宙で乱反射する。
横殴りの雨のように硬貨が柘榴女に降り注ぎ、鬼子の体が跳ね起きた。
鬼哭啾啾、振動の凝縮による衝撃の発露。
その能力を持つからか、鬼子は衝撃というものを熟知していた。
自身が地面や賽銭箱にぶつかる瞬間、反発するように衝撃を発生させて勢いを殺したのだ。
ただそれでも無事というわけでもなく。
「中々……利いたな」
代償は、払った。
意識が飛ばないように舌をあえて噛んだのである。
痛みと血、投げられた衝撃による頭痛が鬼子を襲う。
だがそれでいい。
万全な身での完全な勝利など、強者には存在しない。
そして、その代償と引き換えに得たものもあるものだ。
(こいつ……元警官だな。警棒の使い方と投げ方が素人じゃねえ……)
柘榴女の持つ経歴。
柔道の技術があり、警棒を扱う技術もまたある。
自分に近付いてきた際にはただの殺人鬼だとは思ったが、どうにもそれなりの背景がある人物らしい。
まるで示し合わせたかのように引き合わされた二人の殺人鬼。
かたや古流武術、かたや武道。
しかし、この二人は武道家として競うために今この場で立ち会ったのではない。
両者共に殺人鬼。
故に、命の保証なし。
ただ殺めるのみが決着の死合いである。
「ん?」
硬貨の雨から逃れるために後ろへ下がった柘榴女を見つめて、鬼子は笑った。
彼女の容姿を嘲ったのではない。
つい先日その人物についての話を聞いたからだ。
「ドンさん、柘榴女って知ってます?」
「知らん、ドタマかち割られたんか?」
「え……なんでわかるんすか……」
「柘榴なんだろ」
少し不気味な雰囲気を感じたらしい後輩を尻目にナイフを動かす。
その日の賄いはハンバーグだった。
肉汁をたっぷりと使ったソースを絡め、肉を口の中へと運んだ。
「なんか、顎を割られた女の化け物? 的な?」
「はんっ。口裂け女みたいだな。怖いのか?」
「いや……信じてはないっすけど……夜あったら流石にビビるっすよ」
「オレよりか?」
細めた目が後輩を見つめる。
見つめられた相手はどこか緊張した雰囲気を発しつつも――――
「いや、ドンさんはこう……クールな感じ?」
「そうかよ……ごっそさん」
鉄板と皿をカウンターに乗せてリュックを持つ。
今日の分のメニューを消化しないとならない。
「……お前、アイツによく懐いてんな。狙ってんならやめとけよ?」
「いやぁ……ドンさんはそういうんじゃないですよ。そもそも、あの人って恋愛とか興味なさそう」
店主と後輩がそんな会話をかわしていることも知らずに、曇華院はバイクにまたがった。
全ては強さのため、明日を握るため。
綾目流を納めた者としてその力を振るうため。
「なんだ、あんた……案外美人じゃねえか」
「私が……綺麗?」
「オレがお前に冗談言ったことあるか?」
美醜とは、形に左右されるものではない。
鬼子はそれを知っている。
タンクトップをまくり上げ、その下に隠した包丁の柄を握る。
刃は新聞紙に包まれていたものの、鬼子が刃を振るえば自然と切れて宙を舞った。
黒いもやを纏う刃の顕現である。
振動で熱を持った刃を舐め、切れた舌の傷を焼き潰す。
自分でしたこととはいえ、傷が深くなることは避けたい。
(……こいつもどうせ魔人だろ。足音がしないのは明らかにありえねえ話)
彼女が相手の接近に気付けたのは夜闇に隠した彼女の能力があったからである。
背後の参道に微弱な振動を流すことでソナーのように相手の位置を検知した。
相手に自分の能力はまだ知られていないだろうが、時間の問題だ。
だが、それでも問題はない。
振動と衝撃、実質二つの能力だ。
それに分かったところで何だというのだろう。
戦場で二度同じ相手に会うことはない、どちらかが死ぬ。
「……」
仕切り直しだ。
選択、再び。
身長差はちょうど十五センチ。
手足が長い方だとはいえ、鬼子の方が射程は短い。
一歩、速く踏み込む必要がある。
そうするべきと思考したのなら、決行は問題ではない。
「見え見えよぉ?」
黒いもやを纏い、低い姿勢のまま飛び込む鬼子。
対する柘榴女が選んだのは膝蹴り。
刃の来るであろう位置から体を逃がしつつ、向かってきた顔に衝突するように打ち出す。
その一撃を鬼子が食らうことはなかった。
「こっちだ」
跳躍。
それは鳥が空を舞うようにしなやかで、しかし地面に叩きつけられた雨粒の様に激しく浮き上がる。
身に纏うもやが発する衝撃が彼女の跳躍を手助けしたのだ。
そしてその衝撃は彼女の肉体とは関係なく作用し、発動する。
手を引かれるように空中で鬼子の体が反転、背後を取られまいと振り返る柘榴女の首元へ切りかかった。
首元を守るために出された警棒と刃がぶつかる。
筋引き包丁は肉用の包丁だ。
ステーキ肉のカットと綾目流の修練、どちらにも使用できる一品である。
本来であれば易々とその刃は止められていただろうし、柘榴女もそう考えたはずだ。
しかし鬼子は防御を許さない。
両断、それが警棒に与えられた結末だ。
「……っ!」
「ちっ」
すんでのところで上体が逸れた。
斬れたのは薄皮一枚、攻め手は緩めない。
着地と同時に掌底が振るわれ、柘榴女の膝下を打つ。
ふくらはぎは筋肉や脂肪の少なさ故に衝撃が吸収されにくく、また踏ん張りに使用される重要な部位である。
現代格闘技においてその位置への攻撃は相手の機動力を奪うために非常に重要なものと考えられている。
綾目流は以前よりもそれを知っていた。
綾目流・挫、関節各部への攻撃を総称するが特に膝への攻撃はいくつもの種類を持っている。
いくら巨体であろうと、いくら鍛えられていようと、人間は人体構造に逆らうことは出来ない。
鬼子の重い打撃は柘榴女の動きを止めるのには十分だった。
殺人鬼が刃を突き出す。
この近距離、脚への瞬間的なダメージ、逃げるのは半拍遅れる。
逃げるのは困難。
今度は柘榴女が判断を下す番だ。
鬼子がそうしたように、柘榴女も相手の手首を狙って腕を振る。
ただ彼女の場合はその手の刃ごと叩き落とすつもりであった。
「そうするよな。出来るんなら……!」
初めから鬼子の狙いはそこにない。
刃は後ろに引かれ、入れ替わりになるように逆の拳が相手に向かう。
綾目流・羽衣、打ちだした手足を途中で引くことにより本命の打撃の威力が引き上げられた。
「が……ぁ……!」
一撃目の蹴りよりもその拳は重かった。
鍛えられた肉体、フェイントによる反応の遅れ、鳩尾を正確に撃ち抜く技術、全てが繋がっている。
膝下へのダメージは軽微だ、まだ壊されていない。
急所を殴られた呼吸の難しさもじきに消えるだろう。
安定した呼吸を取り戻したい柘榴女とそれを許してはいけない鬼子。
迷わず、柘榴女は守りを固めた。
状況は鬼子に有利に見えるが、実際はお互いの優位性はそう変わらない。
守りに徹した相手を打ち崩すのは難しいからだ。
打つ側は守りの上から相手を削ることが出来るものの、連撃は消耗が激しい。
だが構わない。
守りたく無くなるまで、攻めるだけだ。
(こいつの能力は音を消す能力か? ……いや、ありえねぇ)
鬼子にとって魔神能力とは精神から発露する世界を歪める力。
目の前の女はそんなものを望む人間には思えない。
つい先程あったばかり、縁もゆかりも無い相手。
しかしそれでも分かることがある。
この女は人を殺すことに躊躇いのない殺人鬼で、都市伝説のように語られる化け物で、そして――――自分の求める強者である。
(臆病や慎重がお友達の暗殺者だって言うんなら話は別だがよ……ドタマかち割られる経験をするような人間なんだろ?)
血は油、鼓動はふいご、燃ゆる炎を命と呼ぶ。
「オレらに守るもんなんかねぇだろうよ」
頭部を守る腕の上から拳を殴りつける。
それだけで柘榴女の体が揺れる。
鬼子の打撃は重い。
彼女の鍛錬の賜物、というだけではない。
もやの発する振動が打撃と同時に叩き込まれ、その衝撃を内側までよく伝えてくれる。
攻めれば盾を砕き、肉を打てば骨を砕く。
回避こそが彼女に有効な防御法。
「……っ!」
大きく飛びのく柘榴女。
しかし、鬼子はそれを許さない。
綾目流に伝わる歩法、煌火行。
重心の傾きによって最速の一歩目を生み出し、坂を落ちるように距離を詰める直線的な剛の動き。
離れた分を一瞬のうちに詰め、顔面へ向かって掌底が放たれた。
バチ、と太い腕に打撃は阻まれる。
柘榴女は腕が少しではあるが重くなっているのを感じた。
内側に響く打撃が筋肉へ細かなダメージを与えている。
致命的ではないが、致命に至る傷はいつだって小さな綻びから生まれるものだ。
「……うん、大丈夫よ……」
「何をぶつぶついってやがる!」
相手の膝を打ち抜くように放つ左下段蹴り。
避けるために足を引いたのが視界の端に見えた。
(とっとと魔人能力を切れ……)
羽衣、再び。
(こんもんじゃねえだろう……!)
蹴り足が背後に振られ、すれ違うように包丁が突き出される。
柘榴女は鬼子の右腕をいなした。
前につんのめる敵の体、それを追うように柘榴女自身も回転。
後頭部に向かて裏拳が落ちる。
衝撃と衝突。
しかし、それは頭部に命中したからではない。
鬼子は衝突の寸前、突き出した右腕をそのまま折り曲げて後頭部と拳の間に差し込んだのだ。
腕に纏ったもやが衝撃を発して柘榴女の腕を弾き飛ばし、鬼子は万全の一撃を叩きこむために動く。
「大丈夫よ……こいつも捧げてあげるからねぇ!」
柘榴女は相手に攻めさせていた。
この女は確かに強い、しかしどんなに強くても隙や攻めいるタイミングというのは必ず存在する。
なぜそう思うのかを柘榴女はもう正しく言語化することが出来ないだろう。
どれだけ巧妙に隠しても犯人逮捕にこぎつける警察官としての粘り強さや、多くの事件に直面したことによる経験に由来するものだからだ。
それらは記憶の奥底に横たわり、直感や本能といった言葉に置き換わって発現する。
相手に打たせ、ダメージを受けてはしまったもののより大きな成果を得るためには必要なことだった。
柘榴女は、隠したナイフを抜いた。
だが鬼子はそれを認識することが出来ない。
『目むしり仔撃ち』
物体から五感のいずれかを封じる異能。
突っ込んできた相手に合わせるように刃が振るわれて、鮮血が舞う。
「あぁ……?」
柘榴女が警察官時代の技術を発露するように、鬼子もまた武道家としての技術が発露する。
殺意、殺気の感知。
明確かつ強烈な敵意を前に、体が反応したのである。
首を真一文字に引き裂こうとしたが、頬を斬るにとどまった。
「悪かったな。踏み込みが甘かった」
お互いに射程圏内。
包丁とナイフ、拳と拳。
肉体が相手を殺すために躍動している。
お互いの位置が激しく入れ替わり、攻防の立場もはっきりと分けることなど最早できないだろう。
この時、両者の思考は一致していた。
打撃の完全な防御は捨て、相手に一太刀浴びせる。
一手間違えれば相手の死は遠のき、自分の死が近づいてしまう。
柘榴女はその事実に何の感情も抱かないだろう。
鬼子は認識していないが、柘榴女は自身の目標だけを見ている。
それは前だけを見て進むということ。
過程において重要なのは、殺す相手が"美しい魂"なのか"強い魂"なのかのみ。
対する鬼子は今この瞬間を楽しんでいた。
戦場で生き抜くための術であった武術が精神修練なども内包する武道に変じ、本来そこにあった技も危険性を排するために消えていった。
鬼子にはそれが退屈だった。
自分の師も行っていたその行為自体を否定するつもりは鬼子にはない。
しかし、彼女が魅せられたのは危険な殺しの技だったというだけの話だ。
人を斬る刀に美しさがあるように、人を殺す技の妖しさを知っている。
危険でいい、殺してしまっていい。
そして、何事にも危険が潜んでいるということを理解している。
命というのはほんの小さなきっかけで消えてしまうことがあるのだと鬼子は信じていた。
だから彼女は強さを求め、綾目流の技を磨いたのだ。
無論、実戦を想定して。
(やっぱり、こいつの能力は『消す』能力だな……問題はその範囲だが……)
見えないとはいえ、刃は刃。
それを操る腕が人体の可動域で行われるのなら、ある程度の動きは読めるものだ。
しかし、それは攻撃を凌ぐための思考。
殺すための思考ではない。
「守りに入ってちゃあ、つまらねぇな……!」
黒いもやが大きく膨れ上がる。
もう刃や肉体に纏わせるという次元ではない。
それは夜の闇のように周囲を覆い、巨大な蛇のように空間を進む。
「鬼哭啾啾!」
目的は敵の獲物、その輪郭。
強烈な衝撃がほとばしり、柘榴女の手とナイフに殺到する。
鬼子の打撃によって疲労した腕と少しばかり弱まった握力はナイフを完全に保持しきることが出来なかった。
「ぶっとびやがれ」
残るもやが柘榴女にまとわりつき、衝撃が彼女を弾き飛ばした。
乗用車に衝突されたかのような錯覚が柘榴女を襲い、踏ん張ることも出来ずに地面へと放り投げられる。
先刻鬼子がそうされたように、今度は柘榴女が見下ろされる番であった。
「……」
殺す。
そのための一歩を踏み出すことは出来なかった。
「あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙!!!!!!」
叫び。
ビリビリと空気が震え、今まで以上の威圧感が鬼子を襲う。
倒れた存在が発する雰囲気ではない。
勢いよく跳ね起きた柘榴女を見て、その声の意味を察してしまう。
慟哭。
流れるのは、血の涙。
「よくも……よくもおおおおおおお! お゙お゙お゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙」
次の瞬間、柘榴女の体が膨らんだように感じた。
正しい認識ではないことは鬼子にも分かっている、しかしそう感じてしまうほどには強烈な突進だった。
ドッ、と体に肩がぶつかる。
ぶちかまし、鉄山靠、タックル、格闘技において体をぶつけに行く技は当然存在する。
だがそれは技とは呼べない代物であった。
体格とそれに付随する体重を乱暴に叩きつけられ、鬼子の足が地面から離れる。
玉砂利に背を叩きつけられ、体を起こす間もなく胸倉を掴み上げられた。
ぶちぶちと布の千切れる音がして、そのまま体が再び浮くのを感じる。
乱暴に持ち上げられ、今度は石灯篭に投げつけられた。
まるで大型犬に遊ばれるぬいぐるみの様で、同じ人間であるはずなのにそれを感じさせない差があったのだ。
「マーくん! マーくん! どこにいるのさ!? ママはここに……! この……!」
錯乱した柘榴女が鬼子の頭を灯篭ごと踏んだ。
ご、ご、と鈍い音がしているがそんなものは柘榴女には関係がない。
鬼哭啾啾、黒いもやの正体は今まで鬼子の手によって殺された人物の憤怒や怨嗟、嘆きの声。
衝撃を浴びる瞬間に柘榴女の脳内に呼び起こされたのは、息子を失ったあの瞬間の光景であった。
当然、彼女の子供が鬼子によって殺された事実などはない。
しかしそれを判断できるほど柘榴女は冷静でなかったし、彼女を支えていた狂気は想定外の反応を示したに過ぎない。
ただ問題だったのは、自身に語り掛ける息子の幻覚と息子の死を無意識に想起させる悲壮の声が合わさった結果として、柘榴女の脳内にあの時自分を苛んだ後悔と苦痛だけが残された。
ある意味、彼女がほんの一瞬正気に戻ったということなのかもしれない。
その現実に耐えられるほど、柘榴女は強くなかった。
彼女たちの体を叩く雨よりも激しく踏みつけ、狂乱のままに顔面を蹴り上げる。
自分の息子がされたことを返しているのか、あるいは仇と同じような暴力性を彼女自身も持っていたのか。
石灯籠と足の間に挟まれて、鬼子の顔は血に染まっていた。
脳が揺れてしまったのか視界が歪み、世界の輪郭がぼんやりと変じている。
天地の位置が曖昧だ。
自分が今どこにいるのかもまた曖昧だった。
何かやり返そうにも包丁はなぜか手の中にない。
なんとか石灯籠の上からは降りられているようだが、体中が痛い。
骨の折れている感覚がないのは奇跡なのだろうか。
(ママ……ここだよ……)
「マーくん!? そこにいるのね! あぁ……あぁ……よかったあ……!」
柘榴女の足が止まった。
生物としての防衛本能が再び幻覚を構築したのだ。
「大丈夫! ママ頑張るからさあ! イヒッ! こいつも、ちゃあんと捧げてあげるからねぇ!」
「……お前、ガキがいんのかよ」
「そうよお? 教祖様が教えてくれたの」
"強い魂"か"美しい魂"を捧げれば蘇る。
柘榴女の言葉に嘘はないように思えた。
この場合の嘘というのは、誤魔化しや疑いという意味だが。
「……それが、お前の宗教か。くっ……は、はは……ははは……!」
「……何が、おかしいのかしらあ?」
「いやなに……安心したんだよ。お前は得体の知れねぇ化けもんじゃねえらしい」
「ヒハ! そうよお! 私はあ!」
「お前は」
この女は。
「どうしようもなく母親だ」
とどめを刺そうと自分の顔面を狙う足。
鬼子は玉砂利の上で体を回して彼女の足に絡みつく。
膝裏が鬼子の足によって押し込まれ、柘榴女は膝をついた。
「ッッッッ!!!」
痛み。
鬼子の腕が裸締めのように足首に絡みつき、足首を捻っているのだ。
「母親ってのはなんで子供のために人生を捧げちまうんだろうな……!」
「こ、の……!」
両手を地面につき、残る足で鬼子の腕を蹴りつけた。
その勢いに反発せず、鬼子が拘束を解いて離れていく。
痛みは引かない。
完全に破壊されたわけではないが、先ほどのように動き回るのは難しいだろう。
「オレがお前みたいになってたかも知らねぇと思うと、ぞっとするね」
「アヒ! アアア……! あなたは、愛を知らないのねえ……!」
「ふんっ、オレぁオレのために生きるさ。もう荷物はいらん」
髪をかきあげ、己の顔についた血を拭う。
柘榴女からの攻撃はない。
それは彼女の負傷がそれなりのものであるという証拠であった。
きっとこれが最後のやりとりになる。
「これこそ、血沸く戦場だなあ!」
鬼が笑う。
「アヒ! アヒ! あはあ……! なんて! "強く"て"美しい"魂!」
女の顔に喜色が実る。
両者共に無手、出血あるいは関節部への損傷あり。
だが二人ともそれを問題にしない。
殺す、ただそれだけが二人の目的であり存在の証明。
何度目か、二人の距離が詰まる。
先手を打ったのは柘榴女。
機動力を削がれている分、先手を取って流れを掴みたかったのだろう。
だが拳の先に鬼子はいない。
煌火行に並ぶ綾目流の歩法、煙水行 であった。
脱力と重心移動を組み合わせることで曲の動きを発する柔の歩法である。
まとわりつくように攻撃をかわし、拳を打ち込む。
「もっと気張りな! 息子が見てるんだろうが!」
右下段蹴り、左肘打ち、左中段回し蹴り、右中段正拳。
攻撃をかわし、連撃を叩き込み続ける。
痛みを無視するかのような回転率。
上がり続けるアドレナリンと、綾目流に伝わる痛みを散らす自己暗示術がそれを実現していた。
「ゔゔゔゔゔあ゙あ゙あ゙あ゙!」
苛立ちなのか柘榴女がやたらに腕を振り回す。
暴風雨のようなそれをかわし、拳を叩きこむが――――
「捕まえた~!」
鬼子の頭を柘榴女の手が掴んだ。
眉の上、踏みつけられて切れた皮膚に指を突っ込む。
鋭い痛みが鬼子を襲い、傷を抉られたことでドロドロと血がまた溢れて視界を覆っていく。
「これぇ~……返すわ」
違和感。
鬼子の脇腹に、痛みが走る。
視界の端でそれを見れば、自分が落としたらしい筋引き包丁を柘榴女が握っていた。
奇妙だったのは痛みが存在しているのに『触れられた感触がない』ことであった。
「アハ! アハ! イヒヒヒヒヒヒ! ねぇ!? ほらぁ、死んじゃうわよ~?」
内臓は傷つけられていないが、今はまだというだけの話だ。
柘榴女は手を横に動かし、腹を裂こうとする。
鬼子に出来るのはその腕を止めるために掴むこと。
これまでのように鬼哭啾啾の衝撃を使えば傷口が広がる可能性もある。
膂力は柘榴女の方が上だ。
徐々に、徐々に、痛みの位置は広がっていく。
「マーくん! ママがこの女を捧げるところ見てて!? ウェヒ! ウェヒ!」
痛みが広がる。
腹が裂かれる。
生命が消える。
『おまえも死ねええええええええええええええ』
『あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ』
身に纏うもやが囁く。
殺した霊魂が手招きしている。
背中を伝う冷たいものは、雨粒か死に直面した恐怖の汗か。
カチカチと奥歯が鳴るその理由は。
「アハ! アハハ! アヒアヘアハハハハハハハハ!」
答えを確かめることは出来ないだろう。
それを塗りつぶす程の喜びがあったから。
「楽しいなぁ。そうだろ? あんた……!」
綾目流にも奥義と呼ばれる技がいくつか存在する。
その一つが曼珠沙華である。
強烈な打撃によって臓器に損傷を与える技だが、狙う部位は脳あるいは心臓に限られ、その一撃を放つ難易度の高さから簡易的に壁や地面などを利用して威力を逃さない工夫を必要とする場合が多い。
あの日、曇華院麗華が師より受けた技であり盗んだ技。
暗殺術を武道として弟子に伝えた師が放つ暗殺の妙技。
魔人にして鬼子、曇華院麗華の手によってその技は形を変える。
「だけどすまねぇ」
とん、と鬼子の拳が柘榴女の胸を叩いた。
男性的なスキンシップにも見える気軽さで、柘榴女はそれを防ごうとしなかった。
「手向けだ」
おそらく、両の手で刃物を抑えていれば腹を切り進められることもなかっただろう。
ただ鬼子は攻めることを選択した。
刃物を抑えていない右手に黒いもやを圧縮、超密度の振動を作り上げていた。
衝撃が放たれる。
そして、それと同時に零距離から拳が寸勁を放つ。
曼珠沙華の欠点は強烈な打撃を放つために膂力と打撃の振りが大きくなること。
小柄な人物や女性には向きにくい技であるが、鬼子は鬼哭啾啾による衝撃によって内側に効率よく打撃を通すことが可能だ。
寸勁ともやによる二種類の衝撃は相手の内部で衝突し、より大きな威力を生み出す。
暗中散華、そう名付けられた彼女だけの技。
「マー……くん……」
強烈な打撃によって心臓が壊れる。
本能的に、柘榴女はそれを悟った。
(ママ……)
「マーくん、だめ……いかないで……!」
(ママ……)
今際の際に、感じたものは。
(ママ……ありがとう……)
あの日聞けなかった声と、いつか経験した穏やかな光景が柘榴女の前にあった。
「ごめん、ね……」
相手が倒れるのを見送ってから、やっと鬼子はその場に座り込む。
大きく息を吐き、自己暗示術によって何とか痛みを散らしていく。
「……ったく、なんて顔してやがる」
傷の処置をしながら見下ろす顔は、どこまでも安らかに微笑んでいた。
無惨な傷があるからなんなのだろうか、狂気的な雰囲気があるからなんなのだろうか。
曇華院麗華は知っている。
目の前の人物は無私のように我が子へ奉仕する、ある種昔ながらの母親であるということを。
「殺人鬼の顔じゃねえよ」
瞼を下ろさせ、立ち上がる。
しかし足は停めてあるバイクの元ではなく、あてもなく神社の中を歩いている。
たどり着いたのは古神札納め所であった。
「……なんで、お守りって買った神社に返さんならねぇんだろうな」
ポケットの中をまさぐって、二つのお守りをそこに投げ入れる。
宙を舞っていたのは『家内安全』と『安産祈願』
『旅行先でお守り買うか普通』
『いやだって……麗華さんが昨日急に言うから』
『ンな大層なことか? やることやったらできるもんできただけの話だろ』
『そうかもしれないけどさぁ……』
『はっ……まぁ、お前らしくていいかもな』
それは、柘榴女が一瞬だけにせよただの人間に戻ったようと似たようなもので。
鬼子が曇華院麗華という一個人に立ち返った瞬間だったのかもしれない。
思い出したのは遠い日の記憶。
脳の奥底に横たわっていた、青い日のこと。
「……言伝でも頼んどくべきだったか? いや……オレらみてぇなのは地獄行きか」
煙草に火をつけ、煙を吸い込む。
「ちっ……変なこと思い出しちまった。煙草が不味い」
空を眺めても、重い雲が空を覆っていて月は見えない。
どこまでも高い空なのに、なんと息苦しいことだろうか。
「ガキが産まれてりゃあ、オレもちったぁ普通の人生ってやつが送れたのか?」
その答えは誰も持っていなくて、最もそれに答えがあるのかも分からない。
だがそれでも答えを出すとするならば。
「……いや、ないな。やっぱりオレには荷物だった」
煙を吐いて、女は笑った。