「ゴハァッ!」
夜の水族館で、”鬼ころし”呑宮ホッピーは盛大に吐血した。
手にしたパンフレットに血がかかり、パニック映画のポスターのごとき姿に変わる。
ホッピーの衣装に乱れはなく、目立った外傷も見当たらない。
それでは、何故こうも勢いよく血を吐いたのか。
無論、”俳人575号”リチャード・ローマンの魔人能力《詩徒》の影響である。
俳人575号から半径100メートルの範囲で詠まれた俳句は、夏子先生なる概念上の存在によって採点される。
そして、70点を超えれば恩恵、70点以下なら罰が詠み手に与えられる共用のルール。
能力圏に足を踏み入れたホッピーが好奇心から詠んだ一句は、30点であった。
「『俳句バトル』を始める前に句を読むトハ、とんだせっかちさんデース」
その言葉と共に奥の廊下から現れたのは、”俳人575号”リチャード・ローマン、その人である。
特撮作品を思わせるヒーロースーツの口元を見れば、じわりと血が滲んでいる。
俳人575号の衣装に乱れはなく、目立った外傷も見当たらない。
それでは、何故口元に血が滲んでいるのか。
無論、彼自身の魔人能力《詩徒》の影響である。
来たる俳句バトルへ向けて気合を入れるために俳人575号が詠んだ一句は、50点であった。
「くっ、私の芸術に対する深い理解を利用してダメージを与えるとは。なるほど流石は魔都池袋に集う殺人鬼、卑劣な外道というわけですわね。いいでしょう、それほど私の絶技にかかって死にたいというなら望みを叶えて差し上げますわ!」
「オー、それは勘違いデス!夏子先生の審査は公平デス!誰が詠んだとしても、良い句には高得点が付けられマース!さっきのは、単にあなたの句が不出来だっただけデス」
数々の水槽に神秘的な光が差し込む水族館。
営業時間中であるというのに、周囲に人の姿はないように見える。
それもそのはず、俳人575号の能力圏内にいる限り、《詩徒》のルールが頭に飛び込んでくるのだから。
明らかに魔人が原因の異常事態、そのまま海洋生物と楽しく戯れる一般人はいないだろう。
此処に居るのは武人と俳人、ただ2人のみ。
「なかなか興味深い話ですね。私も混ぜてもらいましょうか」
いや、第3の人物が現れた。
長さの違う2本の鉄棍を携えた男、”迦具夜の銀燭”岳深家族計画。
岳深の衣装に乱れはなく、目立った外傷も見当たらない。
単に無傷である。
「呑宮流投擲術、”廻”!」
不意にホッピーが岳深に向けて、血に濡れたパンフレットを投げる。
ホッピーの手から離れ、手裏剣のごとく回転するパンフレット。
呑宮ホッピーの能力《酔剣》によって、パンフレットは凶器となって宙を舞う。
《酔剣》――それは酔えば酔うほど、使う武器の性能が向上する魔人能力。
誰でも一度くらいは紙で指を切った経験があるだろう。
今宙を舞う刃に宿っている力は、その痛みを拡張したものに他ならない。
今、パンフレットの切断面は、骨ごと指を斬れる刃になっているのだ。
「おやおや」
変則的な動きを見せるパンフレットを、岳深は難なく躱す。
ブーメランのごとく踵を返し再び襲い来る刃さえ、事もなげに避けてみせる。
岳深の身体は、仄かに銀色の光を湛えていた。
これこそ、岳深の魔人能力《銀波暁露に立つ》である。
別次元の臓器から血液中に分泌される未知の物質、オラクリン。
その血中濃度が高まったとき、岳深自身の知覚の有無を問わず、現在の状況に対して自動的に最適解が導き出される。
己に向けて放たれた攻撃を回避するなど、容易と言うほかはない。
「随分と気が急いているようですね。まだ私たちは挨拶も交わしていないというのに」
「そのような殺意と色目を向けられては、返答しない方が失礼というものですわ。気が急いているのは、あなたの方ではなくって?いくら私が強く麗しいからと言って――」
「チョット待ってください、2人トモ!まだ、『俳句バトル』は始まっていませんヨ!」
ホッピーと岳深のじゃれ合いに、俳人575号が抗議の声を上げる。
三者三様、やや奇妙な緊張状態。
だが、見るがいい。
それぞれ言葉は違えども、身に宿る殺意は隠しきれぬ。
此処に集うは殺人鬼、行き着く先は殺しのみ。
何か1つのきっかけで、血を血で洗う戦いの火蓋が切られるだろう。
・・-・- ・--・ -・-- -・ --(ミツケタヨ)
そして、きっかけは突然に、かつ豪快に訪れた。
純白の暴走トラックにして魂を喰らう巨獣、”異世界案内人”防鼠ウトラクの乱入である!
『もっと早い時間に来た方が良いって、私そう言ったじゃないスか。見てくださいよ、獲物になるお客さんが全然いないッス!』
『いや、何度言ったらわかるんだよ?!俺は一般人を大量虐殺する気は毛頭ないの!だから話し合って、殺人鬼を殺せるこの殺戮ショーに参加することにしたんだろ?』
『まあ、そういう建前で参加を促したッスけど』
『建前?!なぁ、今建前って言ったか?!』
暴走トラックの操縦席で、常人の目には映らぬ男女の魂が会話を交わす。
防鼠ウトラク、己の魔人能力《トラック・トリック》によって暴走トラックに憑りついた、生きるために殺す男。
車斤月、ウトラクによって殺された後その魂を繋ぎ留められた、楽しむために殺す女。
『というかやっぱり水族館にトラックは無理だって!今のところとか幅ギリギリだったぞ!』
『大丈夫ッスよ!もし事故ったとしても、ちょっとくらいならシロちゃんも我慢できるはずッス!』
--・・- ・・-・・ ・・ ・- ・-・ --・--(ヒドイナア)
一事が万事、この通り。
哀れな犠牲者だったはずの月が、シロと呼ばれる暴走トラックとその操り手ウトラクを振り回す。
旅は道連れ世は情け、短い旅路の中でこの光景は日常茶飯事となっていた。
『それよりも、これから誰を狙うんスか?鉄の棒持った兄ちゃんとか弱そうじゃないッスか?』
『”迦具夜の銀燭”だっけ?あいつ、銀色に光ってたぞ。すぐ姿を消したし、テレポート能力でも持ってるんじゃないか......?』
岳深家族計画の選択は、退避。
血中を流れるオラクリンによって励起された肉体は、暴走トラックから逃れる最適のルートを選択した。
元々優れた身体能力をもってすれば、ウトラクの視界から消えることも難しくない。
『じゃあ、”鬼ころし”はどうッスか?可愛い女の子を派手にぶちまけたら、人気が出るんじゃないスかね』
『可愛いってのは否定しないが、千鳥足であんなに速く走るやつとかどう考えても怖いだろ……。できれば後回しにしたい』
呑宮ホッピーの選択もまた、退避。
千鳥足に見えるホッピーの足取りは、呑宮流瞬歩術、”揺”。
回避行動と視線誘導を駆使した、防御的な移動歩法。
ウトラクの視界にはまだ入っているものの、その姿は長く続く廊下の奥に消える寸前である。
『それじゃあ、まずはやっぱり特撮ヒーロー野郎ッスか?』
『まぁ、この訳のわからんルールが頭から消えない以上、”俳人575号”は間違いなくあいつだろうしな。鬱陶しいし、先に始末しよう』
『どうするッスか?俳句でも作ってみるッすか?』
『いや、俺国語の成績そんな良くなかったし。そもそも魂の状態で詠んだ俳句でもOKなのか?バフってやつの中身は気にかかるけど……なんかこのまま普通に轢けそうだし』
そう、俳人575号の選択は、不動。
轟音と共に走り来る暴走トラックに対し、避けるそぶりもなし。
俳人575号はその場に仁王立ちしたまま、おもむろに構えを取った。
「さあ、『俳句バトル』の時間デス。負けた方が『ハラキリ』デース」
暴走トラックの姿が目に飛び込んできたとき、俳人575号の胸に去来したのは恐怖心ではなかった。
(そう言えば聞いたことがありマース。日本では、トラックがヒッチ俳句のお願いを聞いてくれることが多い、ト)
もちろん、それは無償で車に乗せてもらうヒッチハイクのことである。
断じて俳句のことではない。
だが俳句への愛ゆえに、Hitch Hikeという英単語は俳人575号の頭から抜け落ちていた。
「あれほどの禍々しい雰囲気……きっとあのトラックはダークサイドに堕ちた俳人に違いまりまセーン」
思い込んだら、即行動。
俳人575号の暴走トラックに対する意識は、謎の乱入者から挑むべき強敵へとすぐさま変わる。
さらなる俳句の高みを目指すべく、俳人575号は己を奮い立たせた。
「トラックと『俳句バトル』するのは初めてデスガ、修行の相手としてはぴったりデス」
そして真正面から暴走トラックと向かい合い、朗々と句を詠んだ。
「トラックの/運ぶだぼ沙魚/吾子に笑む」
『これはね、まあ30点ですね。どこから手を付けるべきか……。まずは頭の部分から行きましょうか。”トラックの運ぶ”で8音も使ってしまっていますね。俳句というのは17音しかありませんから、こんなところで8音も使ってしまってはたいへん損なんです。例えば、荷台のだぼ沙魚、こうやるだけでだぼ沙魚が荷台に載せられて運ばれる情景が浮かんでくるでしょう?すると4音浮くんですよ。この4音分を使って、あなたの意図を表現しようとすると――』
「ゴハァァッッ!」
採点は70点を下回り、激しい痛みが俳人575号の身体を巡る。
暴走トラックはもはや目前、俳人575号の命もこれまでか?
ドン。
その身に奇跡は起こらず、高速移動する巨体が無慈悲に衝突した。
俳人575の身体は激しくきりもみ回転しながら、吹き飛んでいく。
「また負けまシタ……。悔しいデース」
だが、見よ!
俳人575号の肉体は打ち砕かれておらず、言葉を発する余裕さえある。
身に纏うヒーロースーツは鮮血で赤に染まるとも、その魂はいまだ健在だ。
『えっ、俺今確かに轢いたよね?なんで生きてんの?!バフとやらもかかってないよね?!』
『へ~!世の中には頑丈な殺人鬼もいるもんなんスねー』
困惑する防鼠ウトラク。
それも当然だろう。
これまで幾人もの命を奪ってきた暴走トラック、シロ。
その鋼の肉体と正面衝突してなお、俳人575号は生きているのだから。
なぜ俳人575号は、鋼鉄の一撃を耐えられたのか。
幼少期より続けたフットボールのおかげか?
魔人として覚醒した際に起きる身体能力向上のおかげか?
「フー、なかなか痛かったデスネ。これほどの痛みは、夏子先生に10点を付けられたとき以来かもしれないデース」
そうではない。
日々俳句を読む生活の中で、俳人575号は幾度となく命の危機に晒されてきた。
俳人575号が《詩徒》に目覚めて以降、70点を超える点数を獲得したことは一度たりともない。
俳句を詠めば即ちデバフ、それが俳人575号の日常である。
その日常がもたらす成果は、重しを手足に付けて修行した武術家が蝶の身軽さを手にするかのごとし。
絶え間ない苦痛の中で、俳人575号は実に恐るべき耐久力を獲得した。
俳人575号――おそらくこの戦場で、最もしぶとい殺人鬼。
一方、その頃。
鮫が悠々と泳ぐ巨大水槽の前で、対峙する2人の魔人。
どちらも暴走トラックから逃れた身であるがゆえ、ぶつかり合うのも必然か。
黒髪翠眼の少女、呑宮ホッピーは接合部を折った2本のモップ、いや2本の槍を構えている。
《酔剣》――それは酔えば酔うほど、使う武器の性能が向上する魔人能力。
掃除用具のなれの果てと言えども、酔ったホッピーが振るえば敵を屠る武器となる。
対する岳深家族計画が、余裕の表情を浮かべながら構えるは、長短1本ずつの鉄棍。
銀色の光をわずかに漂わせながら、岳深は静かに距離を詰める。
奇しくも二刀流同士の対面であった。
「呑宮流槍術、”払”!」
ホッピーの双槍の穂先が、弧を描く。
傍から見た”払”は、ただの薙ぎ払いにしか見えないかもしれぬ。
しかし持ち手の微細な操作により、2本の槍の間合いは絶えず揺れ動く。
1本の槍で間合いを誤認させ、もう1本の槍で仕留める型。
あるいは、そう思わせて両方の槍で命を狙う。
陰と陽、虚と実を織り交ぜた連続槍撃、それが”払”の正体である。
相当の手練れであったとしても、”払”に手を焼くことは間違いない。
間合いを読める手合ほど、双槍に仕掛けられた罠にかかるもの。
だが岳深にとっては、それが罠だと知覚する必要すらない。
オラクリン――銀色の予知が全てを見通している。
「何度やっても無駄なことですよ。五体満足だったとしても、君の武器が私を捉えることはない」
岳深は余裕の表情を崩さず、ホッピーの連撃へ適切に対処する。
あるときは受け、あるときは避け。
そうして鉄壁の防御を保ちながら、冷静にホッピーへ打撃を加えていく。
幾度もの攻防の後、振り抜かれた鉄棍がホッピーの槍の穂先を破壊した。
「はぁ。熱い視線を送ってきたわりに、存外つまらない方ですのね。何度やっても無駄なんて台詞は、何度でもやる覚悟のない者の言葉ですわ。そして大抵はそんなお利口さんより、何度でもやる馬鹿の方が勝つものでしてよ」
ホッピーの言葉に、岳深の顔がわずかに、ほんのわずかに歪む。
「その言いぶり、まるで自分が馬鹿だと宣言しているようなものでは?」
「もちろん、私は天才でしてよ。何度でもやる馬鹿が勝つというのは一般論。上位互換という言葉をご存じかしら?当然のことながら、何度でもやる天才ならさらに完璧に勝つでしょうね。例えば天才である私は、先ほどから攻撃をいなされていますけれど――」
ホッピーは一度言葉を止めて、愉快そうに微笑む。
「あなたが能力を長時間連続で発動できないことを見抜いていますわ」
岳深の表情に、少しばかり苦みが加わる。
ホッピーの指摘は正解でもあり、間違いでもあった。
《銀波暁露に立つ》を長時間連続で発動すること自体は、不可能ではない。
しかし、オラクリンによる知覚を追い越す対処行動を休みなく実行したならば。
絶えることなく対処行動は続き、岳深の意志すら届かぬ領域で最適解を出し続ける。
オラクリンの過剰摂取が導く結果、それはただ効率的に動き続けるだけの哀れな自動人形。
そもそもデメリットがないなら、煌々と銀に輝き続けるはず。
とは言え、必要なインターバルはごくわずか。
岳深が元来持つ頭脳と肉体をもってすれば、隙をカバーすることは難しくない。
だが、そうだとしても、弱点を見抜かれたことは、ああ事実。
「その表情、図星でしたかしら?ああ、やはり私の慧眼は全てを見抜いてしまいますわね。あまりに輝かしい才能を前にして、私の言葉を否定したくなるのも当然のこと。あなたのつまらなさを許して差し上げましょう。ええ、ええ、才ある者にはそれに見合う寛大さが求められますものね――」
熱に浮かれたような言葉を無視して、岳深はホッピーを2本の槍ごと弾き飛ばす。
「もう結構。君が天才だというのなら、あれの始末は君にお願いするとしよう」
展示スペースの中央へと押し出されたホッピーに向けて、クラクションが鳴り響く。
エンジンの轟音が近付いてくる。
疑う余地はない、それは暴走トラック。
この場に、岳深の姿は既にない。
深青が揺蕩う広間に、銀色の残滓が微かに光るばかりだ。
『何度やっても無駄なんて台詞は、何度でもやる覚悟のない者の言葉ですわ』
その言葉を、岳深家族計画は反芻した。
上っ面だけの綺麗ごとだ、改めてそう思った。
『何度でもやる馬鹿の方が勝つものでしてよ』
私だって何度でもやったさ、そうも思った。
何度も繰り返し、幸せを求めた。
友と語らい、恋人と愛を交わし、居場所を作った。
束の間の幸福は、確かに存在した。
その幸福に価値がなかったとは思わない。
だが、結局最後には全てが脆く崩れ去る。
まるで事を終えた後、醒めてしまう下半身のようだ。
岳深は、そう思った。
どれだけ心の交歓が、喜びをもたらそうとも。
どれだけ身体の交歓が、快感をもたらそうとも。
終わった後には、否定しえぬ虚しさが残る。
言い知れぬ不安が消えることはない。
嗚呼、どれだけ先を見通せたとしても。
嗚呼、数知れぬ最適解を出せたとしても。
その先に抗えない絶望が待っているとしたら。
結局は何度やっても無駄なことだ。
徒労のループが、大切なものを奪い去り続ける。
「やはり、私には力が必要だ」
岳深は、求めている。
絶望の未来に抗い、運命を殺しうる力を。
”転校生”という、圧倒的な力を。
『あっ!見つけたッスよ!”鬼ころし”ッス!』
『今度は逃げずにやる気っぽいな。頼むから俳句ヒーローみたいなタフネスぶりを発揮しないでくれよ』
俳人575号と交戦していたはずの防鼠ウトラク。
そのウトラクが、新たなる犠牲者を求めている。
となれば、俳人575号の命は儚く散ったのか?
否。
暴走トラックのシロが俳人575号を轢くこと重ねて2回。
それでもその魂を捕食するには至らなかった。
そこでウトラクは危惧したのだ、俳人575号は不死ではないかと。
嘘か真か、東京には吸血鬼やゾンビの魔人がいるという噂があった。
さらに現実的な線で言えば、第三者の能力で死を免れている可能性がある。
『ウトラクさんは心配性ッスねー。大抵の魔人は轢いたら死ぬッスよ』
『さっき全然死なない奴に会ったばかりだろ?!シロもだいぶ空腹だ、早めに喰わせてやらないとまずい』
-・・・ ・・・ ・ ・--・ -・(ハラヘッタ)
ご存知の通り、トラックはその重量ゆえ燃費の悪い乗用車。
暴走トラックになっても、その点は変わらない。
漫然と走り続ければ、糧である魂が底を付く。
たとえ『NOVA』の殺人中継がなくとも、ウトラクは轢き殺し続けなければならない宿命を負う。
「まぁ、お利口さんを相手にするよりもスリリングな交通整理をした方が楽しめるかしら。この私と言えどもトラックの殺人鬼を殺したことはありませんしね。鋼の獣を討ち取る華麗な槍使い……悪くありませんわね、ええ、悪くありませんわ」
岳深家族計画の追跡を諦め、呑宮ホッピーは暴走トラックに視線を向ける。
しかし、2本の槍を持つとはいえ、得物に不足があることは否めない。
槍が元々槍であったなら、あるいはホッピーがもっと酔っていたのなら、暴走トラックを一突きで屠りえたかもしれぬ。
だが、それはあくまでも仮定の話だ。
呑宮流の正統後継者と言えど、ただの槍で暴走トラックを殺すことは容易ではない。
かと言って長期戦に持ち込めば、単純なスペックの差で負けるは必定。
呑宮ホッピー、いかに戦況を覆すか?
「相手がデカいときは、この手に限りますわね。冴え渡る知性で、巨獣を討ち取ってみせますわ!」
ホッピーは岳深に穂先を折られた槍をくるりと回し、投槍の体勢に入った。
その瞬間、ホッピーの中で穂先を折られた認識ははたと消える。
槍は短いジャベリンとして蘇り、役目を全うせんとする。
「呑宮流投槍術、”穿”!」
人並外れた膂力によって投げられたジャベリンが、豪速で空を飛ぶ。
”穿”、その名の通り標的を穿つ一陣の風。
『うわっ、投げてきた。くそっ、回避できるか?』
『ん~~?そのままで大丈夫みたいッスよ。あの槍、明後日の方向に飛んでいってるッス』
車斤月の言う通り、ジャベリンは暴走トラックに向かってはいない。
さてはホッピー、投げ損ねたか。
いや。
その矛先が穿つのは、敵にあらず。
標的は、巨大水槽のアクリルガラス。
ジャベリンは見事に突き刺さり、蜘蛛の巣のごときヒビがたちまちに広がっていく。
「呑宮流計略術、”濤”!さぁ、私の荒波に呑まれてしまいなさいな!」
呑宮流は、あらゆる武器を用いて戦う古流武術である。
武器とは、単に手にして振るう物ばかりではない。
正しい状況、正しいタイミングで用いれば、あらゆるものは武器となる。
呑宮流計略術、”濤”。
本来ならば、海や川の流れを武器として相手の動きを縛る環境戦術である。
しかしホッピーは人工の海を呼び覚まし、魔都池袋のその中で”濤”を再現してみせた。
《酔剣》――それは酔えば酔うほど、使う武器の性能が向上する魔人能力。
巨大水槽より流れ出る海水は、たちまち激流と化す。
いかに強大な暴走トラックと言えど、水陸両用でない以上、激流には逆らえぬはず!
『くそっ、ハンドルを取られる!まずい、まずいぞこれは!』
『え~~!シロちゃん、なんとかならないッスか!』
--・-- -・- -・- -・- -・-(アワワワワ)
押し寄せる波、これは実に一大事。
暴走トラックと言えどもトラックであることに変わりはなし。
一度横転してしまえば、嬲り殺しは避けられぬ。
ウトラク、月、シロ、愉快な旅道中も最早これまでか?
だが、刹那。
ハザードランプが激しく点滅し、シロの魂が唸りを上げる。
途端に暴走トラックは勢いを取り戻し、荒波を呑み込まんばかりに前進し始めたではないか。
・-・・・ ・- --・-・ ・-(オイシイ)
・-・・・ ・- --・-・ ・-(オイシイ)
・-・・・ ・- --・-・ ・-(オイシイ)
『な、何が起きているんだ?』
『ウトラクさん、あれ、あれ!シロちゃん、お腹一杯になって元気モリモリなんスよ!』
月の魂が指さすバックミラー。
そこに映るのは、数多の海洋生物の姿。
魚類・甲殻類をはじめとする色とりどりの生き物たちが、無残にその死骸を晒している。
嗚呼、ここは水族館。
アクリルガラスに閉じ込められた海を解放すれば、そこに住まう生命もまた解放される。
暴走トラックは魂を主食とする存在。
だが、必ずしも人間の魂である必要はない。
荒波と共に車体の前に流れ着いた海の生き物たちを、シロは次々と轢き殺し捕食したのだ!
『うお~~やったッスね!これで燃料満タン、殺し放題ッスよ!』
『待って待って!食べる魂って人間のじゃなくても良かったの?!だったら、もう俺人殺しする必要なくないか?!』
ウトラクは驚愕する。
必然性で構成されていた殺人の覚悟が揺らぐ。
『いやいや、東京中の水族館を閉館にするつもりッスか?生きてるうちに轢き殺さなきゃいけないんだから、難易度高いッすよ?』
『お前、絶対人を殺したいからそう言ってるよね?!』
『まあまあ、落ち着いてくださいッス。とりあえず、まずは”鬼ころし”を殺っちゃいましょうよ。それなら自己防衛だから、OKッスよね?ね?』
然り。
ここは殺人鬼蠢く池袋。
良心の咎めを気にする前に、まずは己が生き残らねば。
「な、何が起きてるんですの!海を割って駆けてくるなんて、あのトラックはモーセ?モーセなんですの?!」
一方、ホッピーは驚愕していた。
自信満々に放った計略の一槍が、いとも簡単に打ち破られたからだ。
広間の床が水で溢れることは予想の範疇。
浸水を見越してホッピーは距離を取っていた。
しかし、暴走トラックの豪速はその距離を猛烈な勢いで奪い去っていく。
ホッピーに俳人575号のごとき異様な耐久力はなく、容易に逃れる道もない。
「兎にも角にも!間に合ってくださいまし!呑宮流跳躍術、”渡”!」
ホッピーは、猛然と暴走トラックに向かって加速した。
残ったもう1本の槍の石突を地面に突き刺し、棒高跳の要領で天高く飛ぶ。
一歩間違えば轢殺が確実なこの局面で、見事ホッピーは暴走トラックの頭上を超えた。
運転席すら飛び越えて、ホッピーは暴走トラックの荷台に降り立つ。
『あ~~!シロちゃんの上に登られたッス!これじゃ轢き殺せないッスよ!』
『それなら、強引に振り落とす!今のシロの勢いなら行けるはずだ!』
ホッピーを振り落とすべく、ウトラクはハンドルを切る。
シロはみちみちと溢れる魂を燃やし、己の巨体を急旋回させた。
”俳人575号”リチャード・ローマンは、幼い頃から日本文化に夢中だった。
漫画にアニメ、特撮作品。
いわゆるオタク趣味から始まり、サムライ・ニンジャ・寿司・天ぷら……。
知れば知るほど、日本への興味関心は広がっていく。
そして運命の日、リチャードはその17音と出逢った。
古池や 蛙飛び込む 水の音
――リチャードは、その17音をただ美しいと思った。
既に日本語をある程度修得していたとは言え、正確な意味は分からなかった。
だが、その響きが、その韻が、なぜかひどく心を掴んだ。
それからリチャードは俳句を必死に学んだ。
美しい17音を詠んだ、憧れのマスター芭蕉。
彼がニンジャであることを知り、その境地に辿り着きたいと願うリチャード。
その願いは魔人としての目覚めを促し、遂には”俳人575号”として『俳句バトル』に挑む日々が始まる。
それから数年、俳人575号が居るのはまさに此処、池袋。
俳人575号は暴走トラックとの衝突で流した血を拭い、立ち上がる。
ああ、まだ自分は生きている。
生きているなら、俳句が詠める。
俳句は生きる力を与えてくれる。
暴走トラックに再び挑むべく、俳人575号は歩みを進める。
ふとその耳に《詩徒》を通じて、声が響く。
「古池や/蛙飛び込む/水の音」
ああ、それは、始まりの17音。
「こうも都合が良いとは驚きだな。いや、都合が良いことまで含めてバフ、ということか」
何を隠そう、俳人575号の接近に合わせて松尾芭蕉の句を詠んだのはこの男、岳深家族計画である。
蕉風俳諧を確立したとも言われるその一句。
夏子先生は、100点満点中の100点を付けた。
『夏子先生の審査は公平デス!誰が詠んだとしても、良い句には高得点が付けられマース!』
俳人575号自身が語っていた通り、《詩徒》の採点基準に誰が詠んだかは無関係。
故に松尾芭蕉の名句を詠んだとしても、盗作と判断されることはない。
岳深が《詩徒》によって得たバフは、情報獲得と運気上昇。
暴走トラックを殺すために必要な情報、暴走トラックを殺せる状況に居合わせる幸運。
その両方が一度にもたらされた。
「それでは自称天才ごと、始末させてもらうとするか」
岳深の視界に映るのは、呑宮ホッピーを振り落とさんと急旋回する暴走トラックの姿。
握るは、岳深自身の血を付けたナイフ。
岳深は極めて正確に、そのナイフを暴走トラックへと投げつけた。
血は、魂の媒介としてもっとも身近なものの1つ。
暴走トラック、シロが魂を喰らう怪物なら、好むと好まざるとにかかわらず差し出された血は啜らねばならぬ。
必然の変化は、当然のごとく訪れた。
『な、何なんだ、この映像は?!』
防鼠ウトラクの脳裏に今浮かんでいるのは、まるで身に覚えのない記憶である。
1.5トントラックと軽トラが並走している映像。
緩やかな速度であるがゆえ、トラックの親子が仲良く走っているようにも見受けられる。
・-・・・ ・-・・ --・-- -・-・- ・-・-・(オカアサン)
ああ、これこそは暴走トラック、シロの記憶。
生後間もない野生の暴走トラックであるシロ。
だが、全くゼロの状態から暴走トラックとして生を受けたわけではない。
元々は、日本で生まれた日野の2トントラックと異世界からやって来たエルフの1.5トントラックの間に生まれた、白い軽トラであった。
その軽トラは数多の悲劇に巻き込まれ、遂には怨念として大型トラックに憑依したのである。
『へ~~!シロちゃんって、子供の頃は軽トラだったんすねー!しかも異世界トラックとのハーフッスか!』
『いや、なに当たり前のように受け止めてんの?!心理攻撃とかじゃないのか、これ?!』
困惑するウトラクの脳裏に、さらなる記憶が浮かぶ。
今度は紛うことなき、自分自身の記憶が。
驚愕に目を見開いた、車斤月の表情。
初めて自分の手で人間を轢き殺した嫌な感触。
姿も心も殺人鬼になった瞬間の記憶。
《銀波暁露に立つ》――それは血液中にオラクリンを分泌する能力。
岳深以外の人物がオラクリンを摂取したとき、それは起きる。
摂取者は過去に囚われ、行動を停止する。
啜った血を介してオラクリンはシロに届き、共存する魂にも波及した。
停止する時間はそう長くはないが、岳深にとっては十分な時間だった。
急旋回する暴走トラックのハンドル操作を封じ、慣性をもって横転させるには。
暴走トラック、シロの巨体が大きく傾き、その背に載せたホッピーを吹き飛ばす。
「このまま放置しておいても問題はないだろうが、念には念を入れておくとしよう」
銀色を湛える岳深は、鉄棍で横転した暴走トラックの各部を的確に破壊する。
破壊が進むに伴って、シロの魂は急激に弱まっていく。
普通のトラックで例えるなら、燃料ラインの破損による軽油漏れといったところか。
「吹き飛んだとは言え、あちらはまだ死んでいないだろうな。さて、どちらから片付けようか」
岳深は、彼方へと飛ばされたホッピーと100メートル以内にいるであろう俳人575号を天秤にかける。
そのとき、背中から男の声が響いた。
「あなたの行い、決して許されるものではありまセン!」
横転した暴走トラック、シロ。
その運転席には、未だ2つの魂が留まっていた。
コミュニケーションに支障はないが、終わりの時は刻一刻と近付いている。
『ウトラクさん、シロちゃんだいぶ弱ってるッスね』
『ああ、そうだな。ここからトラックを起こすのもまあ無理だし、もうどうしようもないかなあ』
防鼠ウトラクが過去の記憶から意識を取り戻したとき、既にシロの巨体は地面に横たわっていた。
横転した暴走トラックに岳深家族計画の攻撃に対抗する術はない。
瀕死の状況に至るのも必然である。
『というか、シロちゃんの閉じ込める力もだいぶ弱まってないスか?たぶん能力を解除すれば、別のものに憑りつけるッスよ。』
『いや、もう大分ダメージを受けてしまってるし、憑りつけたとしてもそう長くは持たないかな』
《トラック・トリック》――魂を肉体から切り離し、トリツク魔人能力。
憑りついたものへのダメージは、ウトラクの魂にも影響を与える。
『それに能力使ったら、お前が消えちまうかもしれないだろ。捕食機能はまだ動いているみたいだし』
月の魂は、ただシロに囚われているのみ。
ウトラクが捕食機能の制御を手放せば、逃れる前にシロの餌食となるかもしれぬ。
消化された魂がどこへ行くかは、杳として知れない。
『えっ、なんスか?私のために、最後まで能力使わないつもりなんスか?別にいいッスよ』
月は、あっけらかんと言葉を返す。
『きっとシロちゃんから無事に解放されて成仏できますって。あ、シロちゃんは異世界トラックのハーフだから、逆に食べられて異世界転生ってのもありッスね~~!』
『ったく、真剣に考えろよ。食べられた人間の魂がどこに行くかなんて、誰も知りやしないんだぞ』
『そんな深刻に考える必要ないッスよ!想像と違ったとしてもいいじゃないスか。死ぬわけじゃあるまいし』
『もう死んでるから大丈夫……って、そういう話じゃないだろ?!冗談言ってる場合か!』
『それじゃあ、このまま2人でシロちゃんと一緒に終わるつもりッスか?やれることがあるのにやらないのは、どうかと思うッス!』
事態がここに至っても、月の態度はまるで変わらない。
『やれることって言ってもなあ』
『……私のことを気にかけてくれるっていうなら、ウトラクさんに1つお願いがあるッスよ』
『……なんだ?』
ウトラクが月の魂を暴走トラックに留めた理由は、殺したくないというエゴだった。
自分勝手な押し付けだった。
だから、彼女が自分に何かを望むのなら。
最後にその願いを叶えることが、償いになるのかもしれない。
ウトラクは、そう思った。
『ウトラクさんの能力で、あの銀色野郎に一泡吹かせてほしいッス!余裕綽綽の表情で、私たち3人をナメてたッスからね!』
『………………ああ、わかったよ。約束だ』
これは彼女なりの優しさかもしれない。
踏ん切りが付かない自分の背を押すための言葉。
『あとできれば、池袋中の人間をぶっ殺してほしいッス!』
『せっかくの雰囲気が台無しだ!』
・-・・ ・・ ・-・-・ -・・・ ・・ --- --(ガンバレヨ)
数秒の後、防鼠ウトラクは《トラック・トリック》を発動した。
「『俳句バトル』で他人の句を盗むなど言語道断!しかもよりによってマスター芭蕉の句を盗むトハ!許されない行為デース!」
糾弾の声を上げたのは、当然俳人575号であった。
許されざる盗作、それも俳句を始めたきっかけの句とあればなおのこと。
ヒーローマスクに隠され表情は見えないものの、憤怒の気配を全身から漂わせている。
「私は、君の能力のルールに従っただけですよ。採点者が100点を付けたということは、問題ない行為なのでは?」
岳深家族計画は悪びれる様子もなく、俳人575号に答えた。
提示された条件の下、選んだ最も適切な行動。
何の問題もない、という主張が態度から見て取れる。
「あなたは、それで良いというのデスカ?自分が詠んでいない句で、仮初めの勝利を掴んで満足だというのデスカ?」
「ええ。勝ちたいなら君も芭蕉の句を詠めばいい。そうすれば、100点が取れるでしょう。100点を確実に取れる方法があるのに、普通に句を詠んで何の意味が?」
岳深家族計画は嘲笑に似た表情を浮かべ、そう言い放った。
仮に俳人575号が100点を取ったとしても、自分には《銀波暁露に立つ》がある。
そんな余裕を漂わせながら。
「……人の振り見テ、我が振り直セ。良いことわざデース」
俳人575号の怒気は、落ち着きを見せたように思える。
あるいは、心の内に閉じ込めたと言うべきか。
「私は初心を忘れていまシタ。『俳句バトル』に勝つことばかりを考えて、俳句の本質を疎かにしていたのデス」
俳人575号が纏う雰囲気は、怒りから自省へと変わっていた。
初めて17音に出逢ったあの日。
胸に灯ったのは勝利への渇望ではない、言葉にできぬ感動だ。
「私が『俳句バトル』するのは、100点を取りたいからではありまセン。俳句が上手くなりたいからデス。『ハラキリ』を避けるために相手を殺すなど、本末転倒でシタ」
然り。
俳人575号には、果たし合いへの覚悟が不足していた。
負ければ『ハラキリ』と誓ったならば、切腹せねば道理が通らぬ。
「『俳句バトル』……いや『俳句』は己の句を武器にして殺し合う、真剣勝負デス!自分が美しいと感じた心を、17音に乗せる魂の戦イ!たとえ100点が取れるとしても、他人の句を詠むなどありえまセーン!」
岳深が煽りの言葉を放とうとしたとき、2人の間に鋭い声が駆ける。
「よくぞ吠えましたわ!それでこそ、己の生きざまを貫く魔人というもの!呑宮流の正統後継者であるこの私が、あなたの覚悟を見届けて差し上げましょう!」
声の主は、呑宮ホッピー。
ホッピーは、全裸であった。
何故ホッピーは、殺人鬼同士が殺し合う戦場で奇行に走ったのか。
いや、決して奇行ではない。
呑宮流房中術、”邪”。
視線誘導を駆使して、相手を誘惑する色仕掛け。
無論、本来は殺し合いのさなかに使う技ではない。
だが、見逃すなかれ。
ホッピーの胸に鎮座する、豊満な双丘を。
見たものを魅了する、女の武器を。
《酔剣》――それは酔えば酔うほど、使う武器の性能が向上する魔人能力。
淫魔人には遠く及ばぬものの、視線を釘付けにする誘惑の膨らみ。
そして悲しいかな、岳深の下半身は奔放であった。
抑えられぬ男の本能ゆえに、岳深の意識は一瞬、ホッピーに向く。
「ッッ」
もちろん、岳深も誘惑に堕ちきるような愚者ではない。
生じた隙は、わずかにコンマ数秒。
すぐに我を取り戻し、臨戦体勢に入ろうとする。
だが、此処にその隙を見逃さぬ者がいた。
忘れるなかれ、俳句とは一瞬を切り取る文芸であるということを!
「ペンギンの/飛ぶトンネルや/五月晴」
息をつく間もなく、俳人575号は岳深に迫る。
俳句を詠むとは生きること、俳句を詠むとは殺すこと。
血に濡れた拳を、岳深へと滑らす。
「無駄なことを」
岳深は、躊躇うことなく《銀波暁露に立つ》を発動した。
思考を追い越す超反応、襲い掛かる拳の軌道上に岳深の肉体は既にない。
オラクリンがもたらす最適解、結果はいつもと同じはず。
そう、思われた。
『20点!私達は水族館の句だと知ってますから何となく情景が浮かびますけど、この句だけを見た人は何のことだと考えてしまうはずなんです。山道のトンネルでペンギンが空を飛んでいる、そんなおかしな光景を思い描いてしまうんですね。まずは水族館のトンネルだということを示すために、トンネル水槽ともう書いちゃいましょう――』
夏子先生の解説が響き、俳人575号を鋭い痛みが襲う。
さしものタフネスも、度重なるダメージには膝をつく。
幸か不幸か拳の軌道は大きくずれ、岳深の身体を掠った。
この瞬間、岳深は俳人575号が、いや夏子先生が自身の天敵であることを理解した。
未来を予知するかのように最適解を出す男。
いかなる策を弄しても、全てを見通す者には通用しない。
辿る経路は違えども、敗北という結末は確定的だ。
だが、敗者の行動にランダム性が加わるなら?
《銀波暁露に立つ》は、未来を予知したかのような動きを可能にする。
しかし、真に未来を予知するわけではない。
オラクリンは、その時点での適切な行動を返すのみ。
これから振られるサイコロの目は、銀の光も読むことができぬ。
そして、岳深には残酷な話だが、この世界の神はサイコロを振る。
夏子先生は《詩徒》が作り出す概念上の存在。
採点内容は俳人575号自身にもコントロールできず、採点されるまでの時間も定まらない。
即ちそれは、いつ振られるかわからぬサイコロ。
《銀波暁露に立つ》を発動すべきタイミングを狂わせる、気紛れな乱数生成装置。
「暑き日に/誘えなかった/イルカショー」
身体を巡る痛みに耐えながら、俳人575号は次の一撃を放つ。
その姿は、何度でもやる馬鹿だ。
何度でも勝手に傷付く大馬鹿だ。
『これは、50点ですね。イルカは冬の季語ですけれど、イルカショーと書くことによって季節とは関係なく開催されるイベントという印象が強くなりますから、そこは気にしなくて大丈夫です。ただ、問題は季語の暑き日に続く助詞の”に”なんですね。上五を”暑き日に”とやってしまうと、中七・下五と合わせてやや説明的になってしまって――』
再びのデバフ、血涙を流す俳人575号。
またもや拳は予知を外れ、岳深の身体を脅かす。
(冷静になれ。確かに《銀波暁露に立つ》との相性は悪い。だが、要はデバフで弱体化した攻撃だ)
「帰らぬ君/梅雨寒のアクアリウム」
続けざまに句が詠まれた。
岳深は《銀波暁露に立つ》を発動せず、己の意志で構えを取る。
俳人575号の拳を、2本の鉄棍で受ける肚。
デバフで俳人575号が傷付くなら、往なすのみで勝負は決まるはず。
『75点、才能あり!まずは句またがりの形に挑戦した、というその姿勢を褒めたいですね。基本の型を守るというのも大事ですけど、上達を目指すなら変則的な型にも挑まないといけません。その上で句を見ていくと、まず帰らぬ君というワードが出てくる。亡くなったのか、別れたのか。どちらか分かりませんけど、相手を想う寂しげな気持ちが感じられますね。そこに梅雨寒という季語が続いて――』
その一句は、70点を超えた。
《詩徒》の恩恵が降り注ぎ、俳人575号の拳は不破の鋼と化す。
岳深の短い鉄棍が、たちまちにひしゃげる。
俳句の上達に一番大切な事とは、何だろうか?
至高の一句を生み出すため、ひたすらに頭を悩ますことか?
市販の技法書を読み漁り、小手先の技を磨くことか?
否。
とにかくたくさん詠むことである。
数え切れぬほどの句を詠み続け、一粒残った輝きを渾身の一句とする。
格式にこだわり、詠むことを避けるは愚鈍の極み。
俳人575号に欠けていた心とは、数多の駄作を詠む覚悟であった。
ああ、観客諸君、ぜひ喝采を。
俳人575号はたった今、真に俳人と相成った!
俳句を詠むとは、生きること。
その瞳に、もはや迷いはない。
今の俳人575号は、心の赴くままにひたすら詠む!
(ここに来て70点超え?)
岳深は、俳人575号の変わりように困惑する。
だが、即座に思考を切り替えた。
(多少のダメージは覚悟の上で、再び芭蕉の句を詠み、戦況を巻き返す!)
岳深が句を詠もうと、口を開けたそのとき。
ホッピーは、岳深に向けて消火器を投げていた。
呑宮流の技ではない。
ただ、単に放り投げていた。
その消火器の名は、防鼠ウトラク。
『というわけで、あんたの力を借りたいんだ』
暴走トラックから離れて十数秒後。
防鼠ウトラクは、呑宮ホッピーに憑りついていた。
《トラック・トリック》は生物にも有効である。
だが、定着した魂があれば弾き出されてしまう。
今憑りついていられるのは、ホッピーが気まぐれに魂の滞在を許しているからに過ぎない。
「1つ確認しておきたいのですけれど。あなたを突き動かすのは、自分を殺した相手への復讐心でして?つまらない報復なら、手を貸したくはないですわ」
『そうじゃない。いや、そういうところが全くないという訳じゃないが……。最後に頼まれたんだ、銀色野郎に一泡吹かせてほしいって』
今、ウトラクの魂が生きる理由は、ただそれのみだ。
車斤月の最後の願いを叶えること。
『無茶苦茶なやつだったし、短い間だったけど、一応相棒だったからな。色々負い目もあったし……』
ちっぽけな意地かもしれない。
だがウトラクにとっては、それで十分だった。
『俺の魂はもう長くはない。だからあんたの力が必要なんだ』
「よろしくてよ!あなたの願い、聞き入れてさしあげますわ!」
『殺し合ってた相手の頼みを聞く義理はないと思うが……っていいのかよ!』
ウトラクの頼みを、ホッピーは快諾した。
ホッピーは強者を好むが、矜持も好む。
最後の意地を見せる魂を、捨て置くことなどできようもない。
「それで私に何をしろというのかしら?私にできる範囲なら、何でもして差し上げますわ。いえ、私にできないことは極めて少ないですし、できないことでも私の才をもってすれば可能に――」
『憑りついて初めてわかったが、そのテンション――いや今言うべきことでもないか。頼み事は、結構簡単さ』
ウトラクの魂が、揺らめく。
『良いタイミングで、”俺”を放り投げてくれ』
”消火器”防鼠ウトラクが、岳深家族計画に迫る。
その軌道は実に単純で、速度も恐れるほどではない。
(小賢しい真似を!)
《銀波暁露に立つ》の発動を考慮する必要もない。
岳深は、悠然と回避する。
その危機意識を、俳人575号に向けたまま。
カチリ、と音がした。
『銀色野郎、喰らいやがれええ!』
その瞬間、消火器のホースから大量の化学泡が噴射される。
《トラック・トリック》――それは魂を肉体から切り離し、トリツク能力。
非生物に憑りついたなら、物体に応じた動作が可能となる!
噴射された泡は岳深の顔面に直撃し、芭蕉の句を詠まんとした口を埋めつくす。
闇雲に振るわれた長い鉄棍が、消火器を吹き飛ばした。
だが、ウトラクに後悔はない。
『どうだ、月、シロ!文字通り、一泡吹かせてやったぜ!』
消火器に頭があれば、してやったりな顔だっただろう。
消火器に手があれば、見事に中指を立てていただろう。
消えかけた魂の最後の意地は、見事に戦況を動かした。
ウトラクの魂は、どこか満足気に姿を消す。
おそらくは、この世界で再び生を受けるのだろう。
「夏の夜/ライトが照らす/蟹の泡」
『15点、才能なしです。夏の夜と蟹はどちらも夏の季語なので、季重なりになっていますね。季重なりが即ダメということではないんですが、季語を2つ入れるならどちらかを主役に立てて強弱を付けないと。そして中七ですが、ライトと来たらだいたい照らすもんなんです。なので、ライトとだけ書いてもこの情景は――』
俳人575号は状況の推移を気に掛けることなく、句を詠み続ける。
デバフの点に逆戻りだが、もはや何の問題もない。
全身を突き抜ける痛みすら、俳人575号にとっては誇れる前進の証である。
俳人575号の迷いなき拳が、岳深の身体を貫いた。
岳深家族計画は、楽園を失った。
愛すべき”家族”と共に。
一人、”ティタノマキア”ハジメ。
気が弱い彼を安心させるため、不安を呼ぶような情報は故意に伝えなかった。
その結果、わずかな悪意に触れただけで自殺してしまった。
私が殺したようなものだ。
一人、”最後の希望”ミライ。
人望ある彼女の未来を守るため、偶像とも言える表の姿を保つことに腐心した。
その結果、醜い嫉妬心に駆られた男たちに殺されてしまった。
私が殺したようなものだ。
一人、”ジ・エンド”ハツ。
己の行為を悔いる彼女のため、戦いに巻き込まれないよう取り計らった。
その結果、戦闘の勘は錆び付いて偶発的な衝突で命を落とした。
私が殺したようなものだ。
一人、”無力な”イツカ。
後遺症に苦しむ彼女のため、治療する術を求めてさまざまな施設に頼った。
その結果、卑劣な医師の毒牙にかかり中毒死してしまった。
私が殺したようなものだ。
ああ、間違えずに対処したはずなのに。
誰一人として生きてはいない。
『何度やっても無駄なんて台詞は、何度でもやる覚悟のない者の言葉ですわ』
その言葉を、岳深はもう一度思い返す。
己に拳を突き入れたヒーロースーツの男、その息吹を感じながら。
果たして自分は、本当に何度もやっていたのだろうか?
この男のように足掻いていたのだろうか?
そうではない。
確かに幸せを求めていたが、一方で幸せを信じてはいなかった。
あの植物園もいつか終わる仮初めのもの、どこかでそう感じていた。
だから、目の前の問いに答えを出すことだけで満足していたのだ。
『何度でもやる馬鹿の方が勝つものでしてよ』
ああ、その通りに何度でもやる馬鹿が今勝っている。
何故なのだろう、単純にそう思った。
この男は、間違え続けていたはずなのに。
いや。
間違え続けていたからこそか?
自分が大切なものを失い続けたのは、間違えられなかったからではないか?
最適解を出し続けても、最善の結果を得られるとは限らない。
たとえルートが間違っていたとしても、最善の結果に向けて藻掻くこと。
目標を打ち立てて歩き続ける覚悟、それこそが岳深に必要なものだった。
ああ、それならば。
今度こそ幸せを掴んでみせよう。
全てを覚悟の上で、未来を見通してみせよう。
《銀波暁露に立つ》。
血液中にオラクリンが分泌される。
だが、岳深が銀色の光を湛えることはなかった。
既に止まっていた心臓は、もう全身に血を巡らすこともない。
岳深家族計画は、最後に間違うことができた。
戦いの傷跡が残る、夜の水族館。
猛る矜持は露と消え、彷徨える銀は地に墜ちた。
此処に居るのは武人と俳人、ただ2人のみ。
「お見事でしたわ。己の道に賭けるその覚悟、賞賛に値しましてよ。次なる戦いに向けて、休息は必要でして?」
武人、名を呑宮ホッピー。
可憐な漆黒のツインテール、透き通るような翠眼、一糸纏わぬ立ち姿。
されど瞳に宿る歓喜と殺意を見れば、兵であることに疑いの余地はない。
「心遣い感謝しマース。しかし、俳句の道に休む暇などありまセン」
俳人、名を俳人575号。
血で汚れたヒーロースーツ、ところどころに見える傷、満身創痍のシルエット。
されどその身に満ちる気迫を見れば、猛者であることは語るまでもない。
「常在戦場というわけですのね。しかし、良い死合とは礼に始まり、礼に終わるものですわ。お互いを知ってこそ、楽しい夜になろうというもの。私から、挨拶させていただきますわね」
一息入れて、ホッピーは名乗る。
「呑宮流第25代後継者、呑宮ホッピー。私の絶技で、その気迫ごとあなたを屠って差し上げますわ」
長き歴史を誇る呑宮流。
そこには、受け継いできた無数の技がある。
ホッピーは槍を右手に携えて、質実剛健な構えを取った。
「オー、実に見事な名乗りデス。それならば、私は覚悟を持ってこう名乗りまショウ」
一息入れて、俳人575号は名乗る。
「ローマン流創始者、俳人575号。私の俳句が、その自信ごとあなたを詠み殺しまマス」
たった今、産声を上げたローマン流。
そこには、迷わず明日を切り開く志がある。
俳人575号は数丁のカミソリを取り出し、ヒーローのごとく構えを取った。
死線の先はただ地獄。
片道切符と心得よ。
いざ尋常に、果たし合いと参ろうか。
第一夜、水族館、最終局面。
相対する両者。
先に動いたのは、俳人575号であった。
「雁爪や/真っ赤に焼けた/父の腕」
『40点!雁爪という季語を持ってきたところは、素直に褒めたいと思います。歳時記を読んでよく勉強していらっしゃるな、と。ただ雁爪という道具が広く使われていたのは、昭和の中頃まで。昔の人の句なのかな、という印象が付きまといます。あなたのお父さんのことを詠むのであれば――』
指の間に挟まれたカミソリは、まるで鉤爪のようである。
俳人575号は猛禽類を思わせるその鋭い爪で、猛然とホッピーの急所を狙っていく。
《詩徒》のデバフで腕が灼けるも、攻撃の手は緩まない。
「呑宮流槍術、”合”!」
抜剣術のそれと同じく、”合”は迅き受けの技。
呑宮ホッピーは右手で素早く槍を動かすと、柄を左腕の骨で支え固定した。
あらゆる構えから、瞬く間に鍔迫り合いへと持ち込む技術。
ホッピーの槍と俳人575号のカミソリがぶつかり、火花を散らす。
力任せに俳人575号のカミソリを弾くホッピー。
素早く両手で槍を構えると、攻撃の態勢へと移行する。
俳人575号のいる其処は、まさに槍の間合いのただ中だ。
「君の手に/触れたくなって/手花火を」
『50点!ロマンチックな雰囲気を詠もうという意志は伝わってくるんですが、手花火をどうしたのかという情報が抜けているんです。手花火を近付けたのか、渡したのか、情景を想像できるワードがあるともっと良くなると思います。あと手に触れるほど近付くわけですから、この手花火は線香花火ということでしょう。それなら――』
俳人575号は肺腑を抉る痛みを押して、後方へと跳躍する。
ホッピーが槍を引く間もなく、俳人575号は手にしたカミソリを投げつけた。
螺旋の軌道を描いて、刃は踊る。
「呑宮流槍術、”反”!」
ホッピーは次々とカミソリに槍の穂先を滑らせ、軌道を変える。
刃の向かう先は、当然俳人575号。
自らが放った殺意が、勢いもそのままに帰り来る。
だが俳人575号は事もなげに、カミソリを全て手刀で打ち落としてみせた。
「ああ、素晴らしいですわ、素晴らしいですわ!それでこそ、ええ、それでこそ魔人というもの!己の存在を賭して、敵を倒そうとする心意気!私が殺すにふさわしい、絶好の遊び相手!」
ホッピーの肉体は、心は、止めようのない歓喜に溢れている。
「ああ、だからこそ。そんなあなたを殺せる私は、もっと強く麗しい!」
動きの起こりさえ見せず、唐突にホッピーは前に出た。
瞬く間に両者の距離は詰まり、槍の穂先が獲物を見定める。
「憎き父/看取った実家/蜘蛛の糸」
だが、俳人575号も然る者。
その手には、いつの間にか鋼線が握られている。
ぶつかり合いは不利と見て、選んだ手段は絞め殺し。
『これは80点、才能あり!まず憎き父と人物が出てきて、看取ったでお亡くなりになったとわかる。そこから実家、蜘蛛の糸と続いて手入れがなされていない感じが伝わりますね。芥川龍之介の蜘蛛の糸という作品がありますけど、そのお話のように悪行を重ねたお父さんなんだけど、何か良い思い出もあったのかなと想像させて――』
二度目の70点超え。
《詩徒》によって与えられたバフは、加速。
ホッピーの眼前から俳人575号は幻のごとく消え失せ、ホッピーの背後へと迫る。
「呑宮流槍術、”捻”からの”雷”!」
”捻”とは、その名の通り身体を大きく捻り背後を突く技。
”雷”とは、その名の通り稲妻のごとき速さで槍を突き入れる技。
即ちホッピーが放ったのは、己の死角に対する迅雷の一撃である。
しかし、《詩徒》による加速はいまだ健在。
俳人575号も尋常ならざるスピードでこれを避けんとする。
一度槍を避けたならば、ホッピーの首に鋼線を渡す隙も生まれるはず!
『80点!』
「エッ?!」
俳人575号は、驚愕した。
当然のことだろう。
まだ追加の句を詠んでいないにもかかわらず、夏子先生が突然採点したのだから。
「ああ、今のは私の点ですわよ」
『雷という季語と捻りという言葉の取り合わせが面白いですね。なんか、うん、良い句です』
のみやりゅう そうじゅつひねり からのらい
俳句において拗音は音に数えぬゆえ、ホッピーが紡いだ言葉は確かに17音。
しかし、雷が夏の季語であるとは言え、なぜこれほどの高得点を獲得しえたのか。
「『俳句』とは己の句を武器にして戦う真剣勝負なのでしょう?武器の扱いにおいて、呑宮流の正統後継者であるこの私が後れを取るはずはありませんもの」
《酔剣》――それは酔えば酔うほど、使う武器の性能が向上する魔人能力。
ホッピーがひとたび武器として認識したのなら、凡庸な17音もたちまち渾身の名句となる!
刹那、ホッピーの槍もまた加速する。
それは、《詩徒》のもたらす恩恵。
槍の穂先が、俳人575号を刺し貫く。
「全力で、殺しますわよ、私が」
『100点!文句なし!』
「ワッツ?!季語なしデ?!自由律?!」
ホッピーの発した言葉は、確かに17音。
だが、季語すらないその一句が、なぜ満点を叩き出すのか。
《酔剣》により句の力が増すと言えども、戦いが始まって以降、ホッピーは一滴の酒も飲んでいないではないか。
「私の才を考えれば、”私”は春夏秋冬いつでも季語になるのではなくって?ああ、私は強く麗しく、さらには芸術的ですわ!天は二物を与えずとはいいますけれど、私に与えられたものはニ物どころではありませんわね!今の私なら、神々であろうと殺せるのではなくって?!楽しいですわ、楽しいですわ!!」
ホッピーの認識は、もはや現実の域にない。
その瞳に映るのは、強く麗しい理想の自分。
《酔剣》――自分に酔えば酔うほど、使う武器の性能が向上する魔人能力!
これは至極当然のこと。
呑宮ホッピーは、齢18のうら若き乙女である。
二十歳未満ノ者ノ飲酒ノ禁止ニ関スル法律、第一条『二十歳未満ノ者ハ酒類ヲ飲用スルコトヲ得ス』。
よって、酒を飲むことはついぞ叶わぬ。
それ故に、酔うとすれば己をおいて他にあるまい!
「私は、誰より強く、麗しく」
陶酔し、褒め称えられ、陶酔す。
自画自賛が高得点を呼び、高得点が自画自賛を呼ぶ。
《酔剣》と《詩徒》の無限回帰は、ホッピーを見たことのない高みへと押し上げる。
採点上限、突破。
身体能力、向上。
思考速度、加速。
武器性能、強化。
毒物耐性、獲得。
肉体完全、治癒。
ありとあらゆる恩恵が、ホッピーの身にもたらされる。
もはや止まらぬ、止められぬ!
「オーホッホッホッホ!血濡れの池袋に万雷の喝采を!これほど楽しい夜をくれたあなたに心からの感謝を!せめてもの御礼に、とっておきの奥義で葬ってさしあげますわ!」
ホッピーは、軽やかに槍を構えた。
美しい所作は浮世絵の祖、菱川師宣が描く名画のようである。
その一挙手一投足が、華麗なる美をこの世に顕現させる。
「呑宮流槍術奥義――”蛍狩”!」
ホッピーの握るその槍は、今や《酔剣》と《詩徒》の力により業物の域を超越した魔槍。
峻烈な一刺しが、池袋の夜を駆け抜けていく。
続けざまに放たれる槍撃の軌跡が、蛍のごとくほのかな輝きを残す。
絶句。
今の俳人575号を表すのに、これほど適した言葉はあるまい。
だが、俳人575号に、戸惑いはない。
俳人575号に、怒りはない。
俳人575号に、哀しみはない。
俳人575号に、恐怖はない。
俳人575号に、苦しみはない。
俳人575号に、絶望はない。
――”俳人575号”リチャード・ローマンは、ただ美しいものを見ていた。
絶景を前にした俳人ができるのは、感嘆を形にすることのみ。
か細い声で、17音が紡がれる。
俳人575号の辞世の句とその点数を知る者は、いない。
第一夜、水族館。
勝者、”鬼ころし”呑宮ホッピー。