「こんなに暗い中でもよく見えるじゃないか」

梅雨の池袋の深夜0時。周囲にビル、内部に木々が溢れていることを除けば、池袋の墓地は日本各地の普通の墓地とそう変わりはない。
そのような墓地にてペストマスクに黒衣の男は墓へ花を添えており、赤黒い髪のカジュアルスタイルの男は木陰の後ろから彼を眺めていて、”乱入者”は墓地へ今まさに突き進んでいた。

未来に現れる乱入者のことなど露知らず、木陰に隠れたカジュアルスタイルの男、現時点殺人鬼ランキング10位『アンピュテート・マニア』は黒衣の男を盗み見て思う。

(殺人鬼が死者を悼む? なんの冗談だ。そんなことはありえない)

気紛れで尾行したどう見ても殺人鬼な奴の振舞いに、心底から疑問を感じるアンピュテート・マニア。

今宵は人をより多く、より華やかに、より残酷に殺すことを推奨される夜である。
此処は【NOVA】 を視聴するVIPたちから投票を集めるために、アピールを求められる池袋である。

だがペストマスクの男は死んでいるからこれ以上殺せない者たちの眠る地で、墓前に花を飾っていたのだった。

花というか、それは薔薇であった。

ペストマスクの男は月も星もない分厚い雲の下でも光って見えるほど、異常に真っ赤に鮮やかでトゲのある薔薇を、目印にするように墓へ突き立てていた。

(なにしてんだマジで? ……まぁいいか、殺せそうだし、殺して終わらせよう。
 適当に墓参りしてたってことで解答。絶対ありえないけど。どうでもいいし)

数秒ばかり戸惑ったが、支障はない。
スローイングナイフを投擲して、同時に急接近。【最も愛すべき欠損(アポテムノフィリア)】でつけた傷口を広げて、殺して、僕は楽しい。
アンピュテート・マニアはそう結論を出して、致死の刃を投げた。

「墓地と薔薇とナイフを同時に見ると、あの悲劇を思い出す」

ペストマスクの男は振り返ると、絵を描く筆のような所作でメスを振るいスローイングナイフを弾き飛ばした。アンピュテート・マニアは木陰から墓地参道へ降り立った状態で急停止する。

「おおう、まったく気づいてなかっただろうに。目も耳もきかねぇ雨ん中、飛翔音と手先の精密さだけで弾いたか」
「……その愛は周囲に反対され、死で結ばれた。選択が正しかったかどうかは知り得るところではないが。
愛の深さは、本物だった」

アンピュテート・マニアは敵意と害意を潜めて相手の懐に潜り込み殺すこともまた好む。
だからこの、ペストマスクの男の語りも殺し合いの範疇だと思い会話に乗ることにした。

「……ふーん、他人事みたいな話だな」
「ロミオとジュリエットだ。観たことないのか?」
「ないなぁ、興味ないよ。ハムレットとジュリアス・シーザーは、行きずりの女と流行りの俳優がやってるのを観に行ったけど。ロミジュリは殺し合いと呼ぶには微妙だろ。行く気しない」
「殺し合いだろう」

「あん?」

唐突な一言に興味が湧き上がる。相手の言葉がアンピュテート・マニアの耳に染み入っていく。

「まさか、ロミオとジュリエットがすれ違いで死んだとでも?
違うさ。男と女は互いに悩殺し合って死んだのだ。わかるだろう」
「わかるって、何が」
「君の話だ」

刺さった。アンピュテート・マニア自身にもよくわからないが、心に言葉が矢となって刺さった。

「……オーケー、降参。会話うまいね、さぞかし診療の評判が高かったろう。口調が硬いのがややマイナスだけど、手術屋特有の症状と判断すれば愛嬌だ。そう言われてたのかな? 切り取りシャルルさん?」
「……」

ペストマスクの男は打って変わって無言になった。
異常な容貌をした殺人鬼は数あれど、ここまで過剰に象徴的(シンボリック)な殺人鬼は稀である。

アンピュテート・マニアは、自分より殺人鬼ランキングが上の相手に対する恐怖などなかった。
全員が全員、僕が楽しむための素晴らしい素材なのだから数字の大小などどうでもいい、と懐からカッターナイフを取り出す殺人鬼。
黒衣の男は観察するように、ペストマスクの向こう側から狂喜するアンピュテート・マニアを見やる。

戦いは合図もなしに動いた。

アンピュテート・マニアはカッターナイフを振るい黒衣の男、自身が切り取りシャルルと呼んだ男を切断しようとした。
殺人鬼、人の形をした死の運命は、不意打ちでも言葉でも、真正面からでも相手を殺し得る。

切り取りシャルルと称された者も、それは同じだった。
二回振るわれたカッターナイフを二回とも完璧に弾き、深く握ったメスで拳ごと殴りぬけるように切り込む。

アンピュテート・マニアは血を滴らせた腕を前に突き出して、メスを防ぐ。
腕は切り落とされず、傷を抉るに留まった。

「……?」
「実はな、運に恵まれて『NOVA』の参加者の簡単なプロフィールぐらいなら知ってんだ。能力も、一言だけの概要なら把握してる。あんたの能力、【ライフライブ・パッチワーク】は『痛みなく出血なく切り落とす』こと。『痛みと出血のある傷を操作できる』僕とは相性が最悪――なわけじゃないんだな、これが」

あらかじめ切り裂いておいた痛みと出血のある傷口の上から切り取りシャルルの攻撃を受けた場合、その傷口を操作することができるのか。傷口の深さを【最も愛すべき欠損(アポテムノフィリア)】で固定化していたとして、【ライフライブ・パッチワーク】は固定化された深さ以上に切り込むことはできるのか。

「魔人能力によくある、矛盾するロジックの衝突――本当に痛みがないんだな――切り取りシャルル。だが賭けは僕の勝ちだ」

傷口を操作し、小さくし、大きくし、元の出血する痛み伴うものへ戻す。
アンピュテート・マニアはハイテンポな雨音のリズムに合わせて、歌うように宣言した。

「操作できたよ」

簡潔に言おう。
アンピュテート・マニアは切り取りシャルルの攻撃を、傷口で受ける限りにおいては無効化できる。

本来守るべき負傷箇所がもっとも敵に誇示すべき最強の盾になる。
魔人同士の戦いによくある、当たり前を盛大に馬鹿にするような、奇妙な戦闘論理の成立である。

「理解した、診察できたぞ」

自身の能力を攻略されたにしてはあまりに淡々としたその科白に、直感が囁き、アンピュテート・マニアは大きく敵から距離を取った。
しかし、その直後。
アンピュテート・マニアはメスの刃先が腹部から突き出た光景を見下ろしていた。

「……後ろから!?」

「君、君ら、なぜ此処に――いや」

アンピュテート・マニアはシャンパンが抜けるような場違いな音と共に背中側腹部にある膵臓あたりを纏めて切除されてしまった。
同時に、アンピュテート・マニアは思いっきり背後の男を蹴りつける。
背後の男は吹き飛ばされつつも、静かに墓地入り口に着地した。

「静かな臓器、膵臓を見たら落ち着いた。何を慌てていたんだろうね?」

そうわざとらしく強調するように言って、切り取った膵臓をショルダーバックに入れた乱入者。
異形の容貌をした30代中盤頃の男性であるその乱入者の頭は、上から順に人と犬と蛇が縫い合わされたような不出来な様相をしていた。
まるでペストマスクのように。

「あ、あんたら、入れ替わりトリックを」
「いや、一方的に彼が化けているだけだよ、アンピュテート・マニア」

アンピュテート・マニアに宣告する、現時点殺人鬼ランキング7位――切り取りシャルル。シャルルはアンピュテート・マニアを知っていた。隠すこともない殺人鬼の存在など、隠れ潜む殺人鬼ならば風の噂で知り得てしまうのである。

「化けている? 化けているだと!? 第一夜にか??」

【NOVA】の殺人鬼ランキング1位到達から遠ざかる行為である。まず真っ先に顔を隠して、他人に化けるとは正気とは思えない。アンピュテート・マニアは、もし切り取りシャルルと出会ったら流れ次第では化けようと思っていたが、それは中盤以降の煮詰まった時の話だ。

最初からやる意味はまったくない。不意打ちとしても機能しない。
アンピュテート・マニアは偶然本物の切り取りシャルルの能力を知っていたから嵌りかけたが、しかしそれは例外だ。

本来なら殺人鬼たちは、殺人鬼ランキングの順位とそこに書かれている名前のみを知る。
騙すもなにも互いのことを詳しくは知らないのである。

しかも1位に化けて示威行為をしたり、100位以下の弱小殺人鬼のフリをして襲い掛かってくる者を殺し返したりでもなく、7位などという中途半端な者に仮装する。
意図がまったく読めなかった。

いや、だが、今までの会話から総合すると、診察という言い回しをする正気のない人物の該当者は一人だけだ。

「あんた、『人医師』か?」
「いかにも。アンピュテート・マニア。
はじめまして。人医師ことドクター・アペイロンだ」
「……なんで気付かなかったんだ。声も肌質も若い。僕より年下だろ、人医師」

その若さで、正気のなさで、切り取りシャルルに化けてさえいたのに、人医師が現時点殺人鬼ランキング23位というそれなりに投票され、充分に1位に手が届くランクに留まれているのが、アンピュテート・マニアには不気味で仕方がなかった。

「あんたに投票しているVIP共の目ん玉には何が見えてんだか」
「まったく同意だ」

殺人鬼としては無名、カウンセラーとしてはそれなりに池袋で知名度があった人医師ドクター・アペイロンの物品の強奪を防ぐこともできず、巻き込まれてしまったシャルルが頷く。

「今の僕のよく利く眼球には、初対面にいきなりメスと仮面を強奪して逃走した馬鹿と人違いで死にかけた阿呆が見えるね」

当然、アンピュテート・マニアに頷き同意したとはいえ味方意識は皆無である。
嫌味を付け足すことも忘れない。口撃は殺人鬼の嗜みである。

「濁った眼はよく見えぬ。澄んだ眼はよく見える。0÷0は1か0なのか。
君たちは、お前たちはどう見える?」

アンピュテート・マニアとシャルルは何も言わなかった。脳裏に÷0は、一つしか答えがでないとルールが決まってる計算式で二つ以上の答えが出るから計算不能扱いだと、やってはいけないタブーだと、アンピュテート・マニアは勘で、シャルルは知識で知っていたが、殺人鬼二人は数学談義をしにきたわけでも友達になりにきたのでもないのである。

熱っぽく妙な科白を口走ったペスト医師人医師ドクター・アペイロンは人差し指と親指が露出した奇妙な鉤爪を両手に嵌め、加えてメスをも両手に握り込む。

アンピュテート・マニアは鼻を鳴らし、背中に穴が空いているにも拘らず、へらへらと医者もどきたちを嘲笑う。
二人とも、つい先日殺したミズ・マンティスから頂戴した参加者の詳細データリストに載っていた。変装しているのはわかった。膵臓が奪われたのもわかった。
だがそれでも、勝ち目はあると勘が言ってる。ならいける。

切り取りシャルルはペストマスクを外す様子のない人医師と余裕綽々なアンピュテート・マニアを眺め、ため息をつく。苛ついていた自身を落ち着かせ、冷静になったシャルルは呟いた。

「いや、でもタイミングが悪かったな。もう少し早ければ遅ければ臓器一個じゃなくてパーツ1人分労せず貰えたのに」

ペストマスクの黒いコートの下が雨風で露わになる。
深緑の下地に黒い線が走る上下ストライプ柄のスーツ。
人医師は、ペストマスクを着けたのと両腕三本ずつの刃がメスも合わせて四本ずつになったこと以外、元の姿のままだった。

切り取りシャルルは相も変わらず化け物じみたパッチワークの身体であり、アンピュテート・マニアはカーゴパンツからカッターを取り出し準備万端。

墓石の前に立つ人医師、墓地参道で構えるアンピュテート・マニア、墓地の入り口に居る切り取りシャルル。

直線上の位置関係から彼らは一言ずつ宣言する。

「患者を治す」
つまり殺す。
「断面を楽しもう」
つまり殺す。
「パーツの収穫をしよう」
つまり殺す。

異常な目標は世間一般の目標とは相容れないが、異常な目標同士もまた相容れはしないものだ。
能力の相性以上に性格の相性も入り乱れた殺人鬼たちは、墓地で殺しの運動会を開始した。

刃と刃と刃が煌めく。
三人は至近距離でメス、メスを握った鉤爪、カッターナイフを振るうが、互いの身体に刺さることなく、弾かれる音と光が瞬く。いやアンピュテート・マニアだけは傷口で本物の切り取りシャルルの攻撃を防ぐというアクションをしているので、地味に血と肉も飛び散ってはいるのだが、三つ巴の三人に決め手が欠けていることに間違いはなかった。

膠着状態に、人医師が口を開く。

「この仮面は、歴史に刻まれた虚妄と迷信の象徴だ」

淀みなく語るペストマスクを奪った男の声は、墓地全体に響くような重みがあった。
メスを握った鉤爪を振るう精緻さ一切翳ることなく、人医師は溶けそうなほどの熱量を込めて科白を謳う。

「制度化された思い込みの医療は、暗黒の時代において当然の結果を残した」

「死と、賞賛だ」

「因果関係は整理されないまま、死は溢れ。客観的な指標などないままに、”たぶん”救ったのだろうと讃えられた。なんの効果もない施術が、頑張ったからと。自然治癒で治った者も、治療の甲斐ということになって”おそらく”効果があったのだろうと一切責められなかった」

「お前たちは、この仇花が死に添えられていた時代から何も変わってなどいない。何も反省などしていない。省みる、改善する。その動詞さえ、満足に理解していまい」

「わけのわからないままに自縄自縛し、意味不明なままに嘆き悲しみ、理解できんほどに狂乱している。……迷信、迷信、迷信。そうとも、見たまえ。私を見ろ。恐ろしいか? あるいは魅力的に見えるか? そのどちらもが、まさしく、知るべきを知らず、決めるべきを決めぬ、人という病の症状だ」



「ッ……。普通そういうのって聞くに堪えないわけわかんない妄言だったりだろう……!!凄まじく、聴こえんだけど!?」

もう口で云々の段階じゃないとアンピュテート・マニアは判断していた。
しかし、ペスト医師とは無関係なアンピュテート・マニアの神経をもガリガリと逆撫でする思想の伝達。理解したくもない話を無理やり理解できる話として、耳に直接突っ込まれているような気分だった。
魔人能力と無関係の話術で他人ですら揺らがすほどの精神攻撃になるのなら、直接喰らっている切り取りシャルルはどうなっているのか。

しかし切り取りシャルルはむしろ穏やかな笑みを浮かべていた。
メスを振るう手つきに動揺など表れているはずもなく、絶技そのもの。
シャルルの鮮やかな殺しの業はアンピュテート・マニアが秘策である、傷口防御の手札を早々に切らねばならなかったほどだ。

「救えなかったくせに、迷信で讃えられる。 あまつさえ、外形を真似るフォロワーさえ現れてしまう。 この僕が現代のペスト医師でなくて、なんだというんだい」

切り取りシャルルは人医師の科白を肯定さえしてみせた。
その通りだと。
切り取りシャルルとペスト医師に違いなどないと。医療者でありながら救いようもないほど無力で有害でさえあったと。
事実をただ追認する。
人医師は頷く。

「やはり意図的か。思ったよりも人間病の症状は悪くないな。初診通り、小康状態といったところか」
「あー、頭がおかしくなりそうだ。一般シリアスキラーに耐えきれる異常者濃度じゃないぜ」
「医療者だけに?」
「医療従事者だけにか」

「うっ……おォ……ッ!」

同時に迫ってくるメスとメスと六刃の死に、アンピュテート・マニアは腕の傷口を広げて大量の血液をぶちまけ目眩しすることで、自身の姿を隠し、距離をとった。

「唐突に一致団結しちゃってさぁ。僕にもやらせろ。ねぇ、切り取りシャルル。一緒に人医師を断面まみれにしようよ」
「いや君、僕への対処法があるよね? 僕の希望としては先にアンピュテート・マニアをやって次は人医師、最後に臓器を全部貰いたい」
「うるせぇ、いいから人医師を先にやろう!」
「―――治療ならば喜んで」

アンピュテート・マニアの要求に回答を述べたのは切り取りシャルルではなく、人医師である。
人医師は片手のメスを鉤爪のグローブごと切り取りシャルルに投げつけると、凄まじい勢いでアンピュテート・マニアまで距離を詰めた。
反射的に振るったアンピュテート・マニアのカッターナイフの刃は、人医師の蹴りで腕ごと跳ね上げられる。

(ッ――)

人医師の鉤爪とメスが首へ。
素手が心臓へ。
使えるのはもう片方の腕だけ、上からの攻撃だから足は届かない。

……ところで、アンピュテート・マニアの優位性を説明するなら、勘に優れている点が挙げられる。
切り取りシャルルが教養と技能と狂気を武器とするならば アンピュテート・マニアは勘と度胸と狂喜を凶器にするタイプだ。

直感的に物事を感じ取り判断する能力。
勘の良さ。思い切りのよさ。
それだけを頼りに他の殺人鬼のキリングゾーンへ無防備に足を踏み入れるほど、アンピュテート・マニアは、自身の直感を信じている。

だからこそ、アンピュテート・マニアは喉元と心臓への凶刃と凶拳を前に、冷静さを保っていた。
むしろ、身の危険では精神の牙城が崩れないのがこの殺人鬼であるのだ。

アンピュテート・マニアは致死性攻撃と非致死性攻撃、どちらかを受けるしかないとき、当然のように非致死性攻撃を受ける方を選べる。
不自由な二択であろうとも、刹那にきっぱり2で割り切れてしまうのが彼だった。

傷は傷と、広げるのも塞ぐのも後からできると、割り切れる。

だが不自由な二択は選んでも選ばなくても最悪なものであり、仕掛ける側からすれば相手が被害が少ないと選ぶ方にあらかじめ重大な仕込みを入れる方が得であるし、やらない理由がない。
アンピュテート・マニアの心臓に向けて振るわれる人医師の素手の攻撃と、首に向かって振るわれるメス鉤爪の四重刃。
欠損と断面を愛する殺人鬼は敵の拳を自分の手で受け止めて、四重刃は大きくのけぞることで避けて――人生最大級の勘の警鐘に、失策を悟った。

(ミス――

「君の一番辛かった風景を教えてくれ」

――った)

首が大きく引き裂かれ血が噴き出るアンピュテート・マニアへ、人医師の心を動かす問いが突き刺さる。言葉の矢どころではない。言葉の地獄突きを精神へと喰らったのである。
記憶のリフレインと共に、カウンセリングの技法によって想起させられた心の激痛。

ドクター・アペイロンと繋がった手から【痛し癒し愛し(ヌルム・レメディウム)】が発動する。

唐突な解放感と共に首の傷や消耗が治る。切り取られていた膵臓周辺まで、大部分が盛り上がり健康な血肉で埋まった。
寝起きで背伸びをしたような、風呂から上がったような、マッサージを受けた直後のような、爽快感。

その調子の良さと反比例して、奈落へ堕ちているのかと錯覚するほど急激に低下する性的興奮と殺意。

アンピュテート・マニアは、急速にリラックスする身体を気合と意志力だけで無理やり動かし、人医師にカッターナイフを投げつける。しかし人医師はその刃を無防備に肩で受けた。

アンピュテート・マニアは歯を食いしばって【最も愛すべき欠損(アポテムノフィリア)】を発動するが、人医師の傷口は広がらない。カッターナイフが刺さっている箇所を人医師はもう素手で撫でていて、回復がなされていたのだ。
傷を操作しようにも、傷がなかったのである。

アンピュテート・マニアは人医師との距離を稼ぐため後ろに数歩下がる。
そして、ようやっと自覚する大きな問題。

(人を殺そうと能力一つ使うのに、この抵抗感?)

気合を入れれば攻撃できる。
逆を言えば、気合を入れないとうまく殺しができない。
そんな調子になっている。

「君の過去は、悲劇だったようだ。強烈な心の痛みを伴うトラウマ、癒せてよかったよ」
「あんた、身体の痛みを回復に変えるんじゃなくて……」
「私はカウンセラーだ。心身の痛みを回復に変えるという能力が発現するのが自然な道理だろう――君が手に入れた簡単なプロフィールに書いてなかったのか?」

書いてあった。

詳細データリストに、【触れた者の心身の『痛み』を『癒し』に変換する】と。
だが心の方の効果に一切注意が向かないように、文面が工夫されていたことに今、アンピュテート・マニアは気づいた。
詳細データリストが殺人鬼側の手に渡ることを考慮に入れた強烈な人医師のファンが【NOVA】にいれば、この状況は成立する。
複合的な状況では、勘はうまく働かない。リストに込められた悪意と人医師の仕掛け。
泥沼の多重罠にアンピュテート・マニアは嵌まってしまったのである。

強烈なトラウマを原体験とし、その代償行為か異常性癖かによって病的性向を得た自称一般的殺人鬼――アンピュテート・マニアは精神的に半殺(いや)しを喰らった。
しかも直感でわかる。

これは不可逆だ。

「……知るかよ。殺人鬼をアイデンティティにしたことなんざねぇ。僕はただ、あの時の美しい断面を、綺麗なお姉さんをもっと見たいだけなんだ」

悲劇によって価値観が再構築された後、アンピュテート・マニアはあの景色で悦びと背徳感で震えた経験はあっても痛みに苦しんだ覚えはない
そこの部分に、人医師は干渉できない。だから問題はない。

殺しに抵抗が生まれているが、人体の断面を美しいと思う性癖は変わってない。

アンピュテート・マニアは己に対して意外に感じた。
殺人を犯すのと人間の断面を見たいという性癖は、どうやら”近く”とも別々のものだったらしい。
名も知らぬ殺人鬼に家族を惨殺された痛みと絶望が、殺人鬼を美意識から好んで殺す性向を生み、それとはまったく別に姉の美しさを垣間見たことを原因として人間の断面をフェティッシュとしていたのである。

カウンセリングを受けて本当の自分に気づくとは。
あまりの皮肉さに渇いた笑みを溢すアンピュテート・マニア。

だが、カウンセリングはカウンセリングだ。別人になったわけでもない。
心持ちが変わり、見え方聞こえ方が変わっただけだ。
先ほどまでウキウキと弾むようなリズムに思えた雨が、物悲しい音に聞こえるようになって、しまっただけだ。

「私も人でなしとしての君に手をつけた覚えはないとも。まだ残っている人間性に対処療法を施しただけだ。もっと腰を据えて治療しよう。完治した君を見るのが楽しみだ」

投げつけられたメスと鉤爪を回避していたシャルルは、人医師とアンピュテート・マニアの交戦を観察し論理的思考を以て結論付けた。

「見つけた、”もう少し”を埋める最後のパーツ」

殺人鬼としての不調を理由とし一瞬だけだが守勢に回り、シャルルと人医師の出方をまずは窺ってみることにしたアンピュテート・マニア。
その代わりに、切り取りシャルルはゆったりとした足取りで人医師に近づき言った。

「最初に路地裏で出くわしたとき、誰が助けてほしいと言った? と撥ね付けてしまったことを謝罪しよう。どうか、僕を、助けてほしい」

人医師は驚いたように一瞬動きを止めた。
その彼へシャルルは、首を切り取るべくメスを無造作に横薙ぎにする。

「君の能力が欲しいんだ。直接接触と痛みがトリガーだよね? 痛みの経路は末梢神経から脊髄、脳。つまり脊髄から断ち切れば君自身の回復する術である痛みは脳に届かなくなる。心の痛みは――わかるよ。君の心は能力なしでもとても強い。たぶん首を絶たれた後、首から下全部を再構築するには痛みの絶対量が足りないはずだ。なのに……」

人医師は半ばまで首を断ち切られた。言い換えれば、半分しか断ち切られなかった。咄嗟に人医師は、ペストマスクのくちばし部分を、切り取りシャルルの突き出したシェパードの鼻の部分へぶつけて異形のパッチワーク男を怯ませ、首の完全切断から逃れたのである。
人医師に切り取りシャルルは刺々しく言う。

「なんで収穫されてくれないかなぁ? ラスト一個は君なんだよ」

「それは――」

人医師が何かを言おうとした刹那。
人医師の指先から前腕までが真っ二つに切り裂かれ、血が吹き出る。傷口がさらに開いて、開こうとするので、人医師は拳を握り込む。痛みの伴う傷であるがゆえに【痛し癒し愛し(ヌルム・レメディウム)】が発動するが、傷が治り切らない。

能力が、【最も愛すべき欠損(アポテムノフィリア)】と拮抗していた。

先ほど人医師の拳をアンピュテート・マニアが受け止めたとき、アンピュテート・マニアは爪で人医師の露出した人差し指に小さな切り傷をつけていたのである。

カッターナイフを投げつけて作った傷はブラフであり、本命は痛みのない、極少量の出血をする小さな傷だったのだ。カッターナイフの刺さった痛みに対しては回復をされてしまったが、その指先の傷は残った。あとはチャンスを逃さず能力発動。

最も愛すべき欠損(アポテムノフィリア)】と【痛し癒し愛し(ヌルム・レメディウム)】が相克する。傷口が広がるが、治る。
致死性に至らない大きな傷口が保たれる。
これ以上は傷口を広げられないし、これ以上は傷口を治せない。そういう均衡が出来ていた。

「殺しに行く気は湧かないが、傷つけることはできる。回復をその傷に全部注ぎ込み続けろ。半分の首は治させないよ、人医師」

昏い目で、アンピュテート・マニアは言う。

「くっついて定着はしていても、痛みがないから完治はできない。強く引っ張られたり、大きく動いたりしたら首が取れて揺れて、そんなザマで戦えるわけねぇよな?  どうする、どう治す。自分の爪でも剥ぐ? 自殺でもする? 僕はともかく、シャルルがその隙を逃すとは思えないが」

アンピュテート・マニアは己の殺人鬼の部分を【痛し癒し愛し(ヌルム・レメディウム)】よって引き裂かれた恨みを込めて煽る。少しでも感情的になって判断を誤ってくれれば最高だ、と。
そんな復讐者に、人医師は言った。

「なぜ――」

心の底から不思議そうに。



「なぜ私が、自傷行為などという病んだ行為をしなくてはならないのかね」



唐突な、しかし道理でもあるメンタルヘルスの見地からの意見にアンピュテート・マニアは二の句が継げない。

それをお前が言うのか。
それを言ったら、僕たちはおしまいだろう。

茫然とするアンピュテート・マニア。
その彼から目線を外した人医師はシャルルに告げる。

「切り取りシャルル、先ほどの問いに答えよう。言われるまでもなく、必ず君を救けてみせる。
君の脳の片隅にはまだ人間が残っている。小康状態とはいえ人間病は人間病。いつ重症化し、症状が出るかわからない。皆を救いたい私とたった一人を救いたい君。医療者としてのスタンスの違いは尊重したいが、治療のためだ。君の医療者としての領域に踏み込ませてもらうぞ。見給え!」

人医師の語りによって、がらりと墓地の雰囲気が変わった。

「薔薇に見惚れるジュリエットだ!!!」

人医師の背後に人医師自身が語るように、切り取りシャルルが見なければならぬ、見続けねばならぬ異常が、そこにはあった。

深夜0時と少し過ぎた頃、人医師が薔薇を備えた墓石の前に一人の少女が立っていた。

まるで夢遊病患者のように、よく見える目で赤い薔薇だけを見つめて掴んで拾おうとして、そのトゲで赤い血を流すちぐはぐな人体のパーツで出来た、しかし女の子とわかる女の子。
腰から下には、容器に入れられ液体に浸けられた脳が吊るされている。

「な――な――なんで――娘は、墓地のお堂に、隠しておいた――のに―――」

切り取りシャルルは誤魔化せると思った己を恥じ、悔いる。
人医師は『ペストマスクを奪って』『墓地に来た』のだ。ただの偶然と片づける方が不自然な作為のある行動である。
臓器の収奪など問題ではなかった。能力の相性など問題ではなかった。
真っ先に、人医師は無力化しておくべきだった―――!!

「人殺しを競う地域にとある父が娘と共に閉じ込められたとして、自分は人を殺しつつ娘を守る場所はどこが良い。自宅? 適当な民家? 押し込まれて殺されるだけだ。金庫?魔人には無力だろう。では――これ以上殺す相手がいない墓地は、どうだ? 死人は殺せないのだから、殺人鬼も寄り付きはしまい。ここまではカウンセラーとしての洞察でわかった」

人医師は滑らかな口調で説明を行う。
路地裏の『アペイロンクリニック』に、切り取りシャルルが通りがかったのは運命の巡り合わせだった。
そもそも常になく早く、深く、人医師は切り取りシャルルを診察することができた。
一目見ただけで、多くのことがわかったのはやはり……カウンセラーと医者は似ていた、ということなのだろう。

「次は医療者としての共感だ。脳を除いたパーツの収奪傾向から、患者は脳か頭が切除された状態かつ身体が生きており、勝手に本能のまま自立行動をとるのは容易にわかる。加えて君の片目は優れた視力がある。ではその患者にも当然優れた眼球がある。患者に捧げる医療者とはそういうものだ。考えられぬ話だが、たった一人の患者にすべてを捧げるのならば、私も同じ手法を取る。最後は――勘だ」
「か、勘……?」

心は身体と同じほど未知の領域である。だが未知であろうと治さねばならない部分には、最善を尽くさなければならない。
切り取りシャルルが娘を救うために一切躊躇わなかったのと同じだ。
人医師もまた、狂人と思われようとも治療のためならなんでもする。
勘に頼るという外法さえ、使いこなしてみせるのである。

「そうだとも。お父さんがどこからでも見える、夜でも印になるような薔薇を捧げればどこにいようともきっとその花を抱きしめに来る。君が愛する娘というのは、そういうものだと君になりきって考えてみたら、思った。患者に心を近づけて寄り添う治療は効果が低いしリスクがあるから嫌いだが――今回はうまくいったようだな」

人医師は落ちるかもしれない首を血が噴き出す二つに分かれた片手で支えながら、切り取りシャルルへさらに何事かを告げようとして、彼に突き飛ばされてよろめいた。

切り取りシャルルは真っすぐに娘の元まで行く。

人体のパーツを付け替えては生命力を付け足して、整え切った娘の身体。
入れ替えるべき、脳。
人医師。
薔薇のトゲのせいで、指先から血を流す《患者》

―――――アンピュテート・マニア。

「―――――――――――――――――――」

切り取りシャルルは鬼気迫る様子で血を流す彼女の手を取り、その身体を人医師とアンピュテート・マニアが居る方に押し出し――彼女の頭部をメスで切開しはじめた。
シャルルの娘の意思なき瞳は頭部を開かれながらも怯えることなく、真っすぐに、人医師とアンピュテート・マニアを見つめている。

「その娘を確保すれば、シャルルは言う通りになるとばかり思ってたんだけど。解剖しはじめた?」

切り取りシャルルを駒にできれば、殺人に対して凄まじい抵抗感が発生した自分でも立ち回れるほどの戦力になってくれる、とアンピュテート・マニアは油断なく狡猾に【NOVA】での立ち回りを計算していたのだが、目の前でいきなり始まった解体ショーに彼は驚愕と共に恍惚を覚える。
頭の中が空っぽなのはいただけないが、あの断面は―――。

「―――素晴らしい」

美に一瞬魅入ってしまったアンピュテート・マニアの後ろに、人医師は音もなく滑り寄るとその首を締めあげた。

「ガッ――!?」

頸動脈を抑えると痛みもなく意識が落ちてしまうので、より痛みが長引くように息を止めるというより潰す勢いで締めて、殺す。
痛し癒し愛し(ヌルム・レメディウム)】でアンピュテート・マニアが生き返る。殺す。生き返る。殺す。

「さすがは人間病をある程度までは自己治療した医者と言える。切り取りシャルルの心理的動きは4通りほど想定していたが、そのどれでもなく、まさしく人でなしの健康な判断を下したわけだ。見よ、アンピュテート・マニア。彼はしてやられてなお、自分の娘を私に対する人質にしたのだよ」
「死――死―――」
「人医師は、治療の邪魔であるアンピュテート・マニアを放置するのか? するはずがない。人間病の重症患者なら到底できないはずの洞察と行動。そして信頼。あの危機にあって切り取りシャルルは、私を、人でなしの健康を正確に理解し、君の危険度を正確に推察したのだ。万が一指先の傷を致命傷まで拡大されたらすべて終わりだと(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)
「――――――――――」
「液に入れられた脳を素手で頭蓋に入れたぞ!! 手先の細菌と雨粒と空気中のチリで危険な状態になるかもしれないというのに。合理的な思考がなければ到底できない行為だ」
「――――――死は、もう――」
「おっと、彼女の移植手術に合わせ……君の治療も完了だ」

連続する死から解放されたアンピュテート・マニアは地面に座り込む。

視界が(ゆが)む。
天地が(ゆが)む。
認識が(ゆが)む。

嘘だ。こんなこと、起こるはずが無い

あまりにも殺され過ぎて、死に飽きた。
『死に』『飽きた』。

もうアンピュテート・マニアは――死に飽き飽きだから、殺せない。
殺そうとすれば想像を絶する嫌悪感と吐き気に襲われて動けなくなる。

殺すという行為自体ができない。

そういう精神になったと、アンピュテート・マニアは人医師に宣告されるまでもなく理解した。

「元に……戻せ……クソ野郎……」

戻らないと知りながら縋ってしまうアンピュテート・マニアへ、人医師は丁寧に答えた。

「戻せとは妙なことを言う。あの娘も、君も、治して健康になったのだから」
「……頭がおかしく、なりそうだ」

完全に殺人鬼として殺されたアンピュテート・マニアの真後ろで優しい笑みを浮かべる人医師に、切り取りシャルルは娘を連れてやってきた。

「わかっていると思うけど……」
「うむ。痛覚を繋げただけなのだろうし、非常に不潔な環境での施術だったからな。リカバリーが必要だ。信じたまえ。
……頭部だけにしなくても、私を能力発動のためだけの道具にしなくとも、私は君の娘を、必ず救けてみせるよ」

そう言って人医師は、切り取りシャルルの娘の頬を思いっきり引っ張って、引っ張って、真っ赤になってもなお引っ張って、

「パ……パ……?」

女の子の声がした。

「……可苗衣。ああ、よかった。ああ、ああ、嘘じゃないんだよな、戻してあげられたんだよな、よかった」
「パ、パ……」
「まだ回復が足りないのか。脳からの電気信号が舌まで届いてないのかな。治療を継続してくれ、人医師」
「言われずとも。……あん? おい、切り取りシャルル」
「肉丘紡だ。……名乗るのが遅れたね」
「いや、それは良い。それより君、容態が」




切り取りシャルルは未来永劫娘の絶対的味方で在り続けるし、シャルルの娘、肉丘可苗衣は死の淵から目覚めても父の味方で在り続ける。

だが味方であることが必ずしも有益と無害を意味するわけではない。

敵が味方になり味方が敵になるのはよくある戦場の摂理だが、敵が敵だからこそ味方が味方だからこそ敵同士味方同士で傷つけ合うこともあるわけで、そのロジックでいくのなら切り取りシャルルとその娘ほど、傷つけ合う親娘はいない。それは敵意や確執が原因ではなく―――。

可苗衣は父の殺意を感じ取った。
この身体が覚えている、慣れ親しんだ狂気と正気、その殺気。

アンピュテート・マニアの茫然としながらも終わりを受け入れている朴訥な瞳。
異常性癖殺人鬼だった少年だった男を視界に入れながら可苗衣は、切り取りシャルルとアンピュテート・マニアの真横から、その間へ身を投じた。
さらに彼女を庇うようにして人医師も跳び込み、シャルルへ背を向け可苗衣を抱きしめる。

一閃。

アンピュテート・マニアは驚愕する。
呼吸はできているが、肺の換気はできていない。そんな理不尽さを以てアンピュテート・マニアの首が路面へと落ちていく。
シャルルが愕然とした表情で――目以外に表情を感じる術がないのだから、目だけが表すその激情で―――落ちていくパーツを追う。人医師の上半身と下半身がずれて、上半身が落ちる。可苗衣の左肩肩甲骨から先も落ちていく。

「パパ」
「なん、で――」
「なんではこちらの台詞だ。切り取りシャルル。たった一人を救うためにパーツを収穫するのが君の治療だろう。なぜ今切った?」

上半身だけになり、痛みもないから自身の能力では回復できない致命的な状態になりながらも、人医師は変わらぬ厳格な態度で問う。首だけになったアンピュテート・マニアは吐き捨てるように言った。

「違うだろクソ野郎。なぜ僕を庇ったってその綺麗なお姉ちゃんに――」

己を庇った少女の背中を発端とし。
幻視。その背中を、幻視。

寝室のクローゼットから出る前、殺人者の凶行のその前。

白石喝人を隠れ場所へ押し込めて、後ろ手に扉を閉めた姉の記憶。
抑圧されていた悲劇のプロローグが、沸騰する。

年齢のわりに大人びた、赤茶色の髪をした13歳程度の少女。
喝人と違って少しだけ赤が控え目な髪と、喝人と違って少しだけ綺麗な瞳。

喝人――僕を庇って、そんなお姉ちゃんは死んだ。

「違う、それも違う。クソ野郎は僕だ。死ぬぞ! 死んじゃう!! お姉ちゃんが死んじゃう!!」
「ば、馬鹿なことを言うな! もう生きてる――それにパーツを繋げれば治るッ」
「パパは今、やさしさで殺そうとしたのよね」
「――――」
「そうか。治療ではなく、人間性による恐怖と慈悲で殺したな?
君の脳の片隅の”人間病”、そこまで悪質だったのか」

人医師がシャルルの娘に遅れて気づく。左腕を落とした少女は、地を這うような暗い声で言った。

「私が悪い子だったからそうなっちゃんだよね」
「待て、落ち着け。それはカサンドラ症候群の亜種だ。お父さんの人間病は小康状態で、充分治療できる範囲――」
「助けてあげようとして、殺すことが普通になっちゃったんだよね……ごめんね」

悲劇とはすれ違いによって起こるのではなく、互いに悩殺することで起こるのである。

大切な人に、これ以上凶行を重ねてほしくないという、慈愛。
ゆえにシャルルの娘は庇い。

殺人鬼として死んでいるけれど、億が一、アンピュテート・マニアが娘を傷つけるかもしれないから予防で殺しておこう、という恐怖。
殺人鬼であることさえ殺された哀れな殺人鬼の残骸にこれ以上現世の苦痛を与えるのは忍びない、という慈悲。
ゆえにシャルルは娘が蘇ったのだからと、当然のように危険かもしれなくて、哀れで、悪い奴だった殺人鬼を殺そうとした。

万引きの常習犯である善人が完全な無意識で、万引きをするように、だ。

切り取りシャルルという、娘がため臓器を収奪する殺人鬼の部分ではなく、肉丘紡自身を見つめるもう一人の、人間としての肉丘紡こそが娘と他人のために犯そうとした殺人行為に、歪んだ人間としての優しさに、今度こそシャルルの娘は絶望した。

病気は当人だけではなくその周囲も同等以上に病ませるのだと、カウンセラーである人医師は、痛いほどに知っている。

「人間病の発作だ」

人医師の呟きとともに、可苗衣の呼吸が止まる。

生命力溢れた身体であったことと人医師の【痛し癒し愛し(ヌルム・レメディウム)】が、シャルルの娘の、これ以上父に凶行を重ねさせないという目的を果たさせたが、過剰異常の生命力と回復量でもカバーできぬ、当然の帰結が起こる。

可苗衣の顔面が一瞬赤くなったと思ったら白く白く血の気を失い、倒れる。身体の痙攣。

「これ、これはッ!!!これはァァァッ!!?」

切り取りシャルルは見覚えのある事象に絶叫する。

「わからなかったのかッ、ドクター・肉丘。
心にだって拒絶反応はあるのだ(・・・・・・・・・・・・・・)! かつて人間(びょうき)だった己を残したならば、かつて人間(びょうき)だった己が犯した失敗を……。同じ失敗を、繰り返すに決まっているだろうが!」

拒絶反応。
拒 絶 反 応
拒 絶 反 応 !! 

可苗衣の臓器移植を行った際、可苗衣の命を奪ったそれに。またそれに、僕は――!!

「何もかもを台無しにして、それでも生きようと思えるほど、この娘は人でなしの健康体ではないのだッ!」

どこかの患者を、どこかの他人を、友達だった人を、お母さんを、お父さんを、自分が原因でぐちゃぐちゃにしてしまったのだと、可苗衣は潜在意識では理解していた。その現実へ正面から暴露するには時期尚早と暴露療法が得意なカウンセラーは診察していたが、結果はこうだ。
病気の父と病気の娘とが、最悪の形で響き合ってしまった。

「ぐっ。……いや、責めはすまい。これは誤診だ。小康状態だから様子を見た方が良いと、判断した私の責だ。 君は罪には問わないだろうが、法や社会が問わぬとも、私が私を批判しよう。 私が殺したようなものだ。反省しよう―――では次だ」
「次? 次? 次だと――そうかッ! 君の【痛し癒し愛し(ヌルム・レメディウム)】は心の拒絶反応、痛みを回復に変換できる!」
「無理だ」
「はッ――?!」
「心の専門家として断言しよう。足りない。重いトラウマの痛みは、重いトラウマの癒しにまず使われる。死んでいたのを一時覆したのでさえ、君の貢献と鬼気迫る信念が9割以上を構成した、神業なのだ。
死にゆく継ぎ接ぎだらけの身体を仕方なく生きさせるに……君の言葉を借りるが、痛みの絶対量が足りない。全身の神経と内臓が機能停止寸前だから、肉体的痛覚も効果が薄いだろう」
「諦めるのか!?」
「この拒絶反応を止めるなら百度死んでも足りないほど心的外傷を追わせる必要がある。
そんな道具はない。家族や友達は真っ先にパーツに使ったのだろう?入手が容易だからな。返す返すも惜しい。もう少し早く、あなたが完全に人間でさえなくなっていれば――」

「それだ」

雨音さえ聞こえなくなるほど、静かな声だった。
人医師は、ドクター・アペイロンは、考えもしなかったその手段を切り取りシャルルの声色だけで正確に読み取って、怒りを滲ませた。

「……やめろ。まだ生はこれからだろう? 罪は所詮罪でしかないのだ。これから、償っていけばよい。 患者に過度に執着しない人でなしの医者こそが、より多くの命を救えるのだ。罪深い人だったからといって、かつてと今、娘が死ぬからといって、死んでいいわけではないだろう」
「ドクター・アペイロン」
「…………」
「元々、たった独りの患者に心を寄せ過ぎてしまった僕は、医者の適性があんまりなかったんだ」

「それにね。 僕は鬼だからではない、人だからでもない。愛のために死ぬんだよ」

「――だからといって」
「可苗衣を庇って能力的相性が最悪の僕に無防備に切られて、完全に手遅れだと判断してる可苗衣から一切手を離さない。娘を必ず救けてみせると言ったドクター・アペイロンを、僕は信じるよ」
「私はお前も必ず救けてみせると言った」
「馬鹿だなぁ、……もう救われたよ」

そう言って、切り取りシャルルはまず――自分の足を切り取ることにした。




アンピュテート・マニアの前で、シャルルが自身の肉体を切り取り、娘に移植していく。
その度に、年も性別も違うはずの人体のパーツが、年若い少女の姿に変わっていく。
いやそもそも、不格好だった形も色も違った継ぎ接ぎのパーツが、非対称でそれでいて、統一感のある少女の姿へと戻っていく。

これほどの回復量。死を覆すだけでは飽きたらず、脳を基準として元の肉体に戻すほどの、心の痛みの量。

凄まじいほどの絶望と苦しみが、あの娘の精神に満ち満ちているのだろう。

自分に罪を押し付けた悪鬼、自分とこの世の唯一残ったよすが。
たった一人の、大切な肉親。

間違いなく自分を大切に思っている、自分も大切に思っている誰かが、内臓と身体を切り取っては自分に惜しみなく与える光景。
これは私の血と肉ではないのに、私の血と肉になっていく地獄や天国と呼ぶのも生温い凄絶な体験。

(だが――わかるよ)

自分のために、自分のためだけに、大切な人が犠牲になるのは、世界も人生も覆すほどの経験だった。あのクソカウンセラーのせいで、痛みだけは遠くなってしまったけれど、それが衝撃だったことだけは、頭だけになっても覚えている。

(でも、そんなものを押し付けてしまうのだとしても、生きてほしいんだよな、わかるよ)

かつて、名も知れぬ殺人鬼が家族のいる家を襲った時。姉は震える背中で、自分を寝室のクローゼットに押し込み、後ろ手で扉を締めて自分も隠れてるからと怯えた声で別の場所に行った。
その後があまりにも、それ以外を思い出せないほど美しかったから、すっかり忘れていたけれど、そういうことがあったのだ。

「アンピュテート・マニ」
「僕に意識を向けるなァッ!!」

人医師の声掛けに、頭だけでそんなことを考えていたアンピュテート・マニアは反射的に叫んだ。

「あんたが今! 手を離してもその娘が無事な確率はいくらだ!」
「―――0」
「じゃあ殺せ!もう数えきれないほど僕を殺しただろ! あと一回がなんだ!!」

嘘だ。人医師の治療のせいで、死ぬことは恐ろしい。恐ろしくなってしまった。死とは、死ぬかもしれないとは、あんなにも暗いものなのだと、アンピュテート・マニアは悟ってしまっている。

(知るかよ。僕は死と殺人鬼をアイデンティティにした覚えはない。僕のアイデンティティは、人間の断面と――お姉ちゃんだ)

「そもそもあんた下半身がないんだから、僕の頭を拾って身体に戻すとか最初からできないだろう!」

嘘だ。可苗衣から人医師が手を放し、腕の力で地を這って移動すれば、アンピュテート・マニアの頭を回収して身体に戻すことができる。

(知るかよ。僕は人生で一度だって命乞いをしたことがないのが自慢なんだよ?)

アンピュテート・マニアはアンピュテート・マニア自身が思いもよらぬことを言った。

「その娘の痛覚がある部分に傷をつけろ。痛みを伴った傷なら、痛みを最大限強くするよう操作できる。例え身体の大部分が麻痺していようとね。経験がある」
「そう、か」

アンピュテート・マニアは、今更気づく。

(そうか、僕は。あの娘に助かってほしいのか)

庇われたからか、それとも過去への復讐か。
理由は判然としないがアンピュテート・マニアは唐突な“乱入者”である、殺人鬼でもなんでもない、肉丘可苗衣に生きていてほしかった。
少し省みて、納得する。
勘が……後悔しないと言っていた。ずっと頼ってきた勘が、それでいいと言っていた。

(なら、仕方ないか)

勘に従って好き勝手殺してきたのだから、勘に従って好き勝手生きて死ぬのも道理だと。
アンピュテート・マニアはありもしない腹をくくって人医師へ宣言した。

「クソカウンセラー。一生恨むよ。その娘を助けられなかったら、死んでも恨む」
「こちらの科白だ。何が悲しくて、せっかく健康になって、これからという患者を見捨てなくてはらないのだ……?」
「ハハ、意趣返しができて清々するよ」

もはや自分のパーツを切り取って移植するだけが精一杯の切り取りシャルルのかわりに、人医師は、鉤爪を使って可苗衣の首筋に小さな傷をつけた。

(首。女の子の首か。つくづく……合縁奇縁だ)

「今日だけ趣旨替えするよ。お姉ちゃんはやっぱり首がある方が、綺麗じゃなくても、素敵だよ」

首を断ち切らないように――首の断面が見えないように、【最も愛すべき欠損(アポテムノフィリア)】で痛みを最大化する。拒絶反応で混線した神経でさえわからせるほどに、痛く、強く。
脳を除いた身体全体を欠損していた少女を、最大限苦しめるように。

「……ぁぁァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」

可苗衣は感じるはずだが、感じない痛みに絶叫する。
だがそれは肉体の痛みと合わせて……自分のために死を受け入れた赤の他人に対する、痛切なまでの情動も含まれていたことを人医師は診察した。

想定よりも痛みの量が、回復量が多い。
痛みに慣れる様子も、諦めて心の痛みを受容する様子もない。
殺人鬼と殺人鬼と殺人鬼と、殺人鬼の娘、全員の性質と状況で見通しを立てて、人医師は感慨深げに言った。

「奇跡だ。死に至るまで人間病が悪化していたのに。……治るぞ、これは」
「人医師」
「……なんだ、切り取りシャルル」

切り取りシャルルは、言おうとした言葉を飲み込んだ。
代わりに口が出たのは。

「君が僕を殺したんだ」

そんな、舌禍だった。

「僕は君がヤブ医者だから死ぬんだよ」

本当はそう言ってほしかった。診療も処方もオペも、医療ガイドライン通りに正しかったとしても。

「ちゃんと人医師を恨んで死ぬよ、君に蘇生されても許さないくらい、強く」

本当はそう言ってほしかった。 諦観と受容を以て許すのが、人の世の法と倫理規範だったとしても。

「死んだってありがとう等言うものか――」

本当は。
感謝しかなかったとしても。

ヒポクラテスの誓いのごとき、呪いを残そう。

「だから、僕の死を糧にして、次を救え。 医者とは次のより多くのために、次の100年の命と健康のために、傍の死さえ飲み込み果てる、人でなしであるべきなのだから」

人医師は呟いた。

「ドクター・肉丘」
「なんだい、ドクター・アペイロン」

「……どうして私は、総ての死者と病人を救う、デウス・エクス・マキナではないのだろうな」
「――知っているかい。その絶望を限りなく本気で抱いたことのある者を、ドクターと呼ぶんだ」

もはや、言うべきことも。ああ、一つあったか、と。

「可苗衣」

整合を取り戻した娘を一目見ることさえできない。
眼を移植したから。
涙はとうに涸れていて一緒にご飯を食べることもできない。
胃を移植したから。

だがそれでも、その名を呼ぶことで、今まで語った医者としての矜持以上の愛着を抱いていたのだと、呪わぬように気を付けながら、それでも想いが届くように、いつものように伝えて。

シャルルは己の心臓を、シャルルの娘に移植した。

心臓がなくなったと世界から判定された切り取りシャルルは、肉丘紡は。
伽藍洞になった人でなしは、電池が切れたように傍の墓石に寄りかかるようにして倒れ込んだ。
そして、能力所有者である魔人の死亡により【ライフライブ・パッチワーク】が消失する。

アンピュテート・マニアの断ち切られた首の断面が、通常の傷口に戻る。

「―――」

もはや言葉が出ない。呼吸もできない。意識も遠のく。
見えるものと言えば、起き上がった、お姉ちゃんとそっくりだった、可苗衣の背中だけであった。

(ああ、クソ。綺麗だと思ってたお姉ちゃんの切り口じゃなくて。
美しくともなんともない。まだ生きてたお姉ちゃんの、震えてる背中を見て死ぬのか。
顔も傷も見れないのか。最悪、だ。――殺人鬼には上、等 すぎ――神――仏――ない――― なぁ――)

とアンピュテート・マニアだった、殺人鬼だった、あの日少年だった白石喝人は笑顔を浮かべたまま絶命した。

人医師は二人の死を前に拳を握り込む、
切り裂かれた手先の傷が回復する。
通常の傷になった首の傷も回復する。
回復する。回復する。回復する。
墓地の参道に落ちている下半身のかわりに新しい下半身ができるまで、回復する。

殺人鬼と殺人鬼と殺人鬼の掛け算によって得られた解答が、命に関する形を持った奇跡が、人医師へ声を掛ける。

「……心は痛くないの。生きたいって思えるのよ。でも、涙が止まらないわ。――なんでだと思う? お医者さん」

シャルルの娘、13歳になったばかりの元の肉体に戻り完全に蘇生した肉丘可苗衣の問いに、人医師は何もかも溶かしそうな熱を込めて答えた。

「泣き叫んで命はこの世に生まれ出でる。
その涙の質こそが、お前が注いだ愛の証。
その罪の量こそが、お前に注がれた愛の証。
愛されて生まれた子はいても、愛によって生まれた子はそうはいない。
鬼と死者と、この仮面とが言祝ごう―――、

―――再誕おめでとう、人でなしの娘」



敵も味方もなく、池袋墓地の戦いは終わった。

墓石に寄りかかり、身体中空洞まみれで凄惨に息絶えた殺人鬼ランキング七位『切り取りシャルル』肉丘紡。
頭だけになっても肉丘可苗衣の背中を見続け死んだ、殺人鬼ランキング十位『アンピュテート・マニア』白石 喝人。
その間の墓地参道で腰から下を黒のロングコードを結ぶことでズボンのかわりにし、ただ佇む殺人鬼ランキング二十三位『人医師』ドクター・アペイロンと、ジュリエットのために逝ったロミオたちへ涙を零す可苗衣。

雨という名のレクイエムが終幕後も奏でられている墓地には、割り切れない生者と割り切れた死者があるばかりだった。

ドクター・アペイロンはペストマスクを外し、可苗衣の頭の天辺へ祭りで買ったお面を子供がつけるように被せると、青年を見上げるシャルルの娘へ特に何を言うでもなく彼女の手を引いて歩きだした。

冒涜的奇跡を称える舌を持たないのならば、池袋墓地の戦いは殺人鬼にとってこのように締められるのであろう。

ロミジュリレクイエム161/0――その調べはラブ・ソング。
計算不能(161÷0)の愛に、確かに彼らは、悩殺(ころ)されたのである。






+ ...
堪らぬものを観た。

かつて娼婦を殺し続け、スラムの人々を人か命かと逆に疑わせた人類絶対の敵、ジャック・ザ・リッパー。
お前はそいつと同じだよ。
この私が認めよう。人医師こそが、最新の殺人鬼だと。

そうとも、

人の命の定義を揺らさぬ殺人鬼など、いてたまるか。

人の、死の、命の定義を、殺人によって揺らす限りなき者。
苦悩(あい)しているぜ、ドクター・アペイロン。

最終更新:2024年06月02日 20:34