『わたし』は夢を見ている。
『わたし』はずっと、夢を見ている。
屋敷の一室。椅子に座る『わたし』の眼前のテーブルにはお茶とお菓子が並ぶ。
お菓子をつまみたくなる衝動を抑え、ちら、と正面の席に視線を向ける。
そこにはお兄様が座っていて、『わたし』の視線に気が付くとにっこりと微笑んでくれた。
それだけで『わたし』は胸がいっぱいになる。お菓子と同じぐらい甘い感覚が、全身を貫くのを感じる。
ティーカップを手に取って、お茶を一口。そして、お兄様にこの気持ちを少しでもお返ししようと、精いっぱいの笑みを浮かべる。
『わたし』、うまく笑えているかしら。
『わたし』のこの甘い喜びを、お兄様に少しでも伝えることができているかしら。
そんなもどかしさすらも『わたし』たちの団欒のスパイスとなって、ことこと煮込んだお肉のスープのようにこの空間を味付けていく。
『わたし』たち家族の団欒。
二人だけの、素敵なお茶会。
ねえ、お兄様。
『わたし』、とても幸せよ。
『わたし』はずっと、こんな夢を見ている。
『わたし』はずっと、夢を見ている。
* * *
池袋図書館は、その名の通り池袋にある図書館である。
JR池袋駅から徒歩でおよそ15分ほどの場所に位置するその建物は地上二階建ての平べったい箱のような形で、空から見ると正方形に見えるらしい。
らしい、と言うのは自力で空を飛んだことのない私がそんな光景を実際に見れるはずもないからだ。某大手IT企業の作った3D映像を見てへぇそうなんだ、と思ったに過ぎない。
まあ、その映像がおそらく事実に即しているであろうと推測できる程度には、私はこの図書館に慣れ親しんでいたのだけれど。
毎週土曜日のお昼には、池袋図書館に読書をしに行く。
私、ヴィアナ・F・ビスマルクのささやかな日常の一つだ。
『また図書館ー? つまんないや。お茶も飲めないしお菓子も食べられない場所なんて!』
「……」
いつものように不平の声をあげる幻聴は無視する。
うっかり本を汚さないように、図書館は飲食厳禁。常識なのだが、幻聴の主にはそれが不満なようだ。
なんだか、この幻聴に嫌がらせをするために図書館に通っているみたい――と考えかけて、あまりの馬鹿馬鹿しさに思わず苦笑いが浮かぶ。
そんな訳がない。私は、れっきとした自身の趣味で図書館に通っているのであって、実在も定かでない幻聴の主への嫌がらせなんて目的で来ているわけではない。
幻聴への嫌がらせなんて、それではまるで……。
『姉さま? どうしたの?』
絶妙なタイミングでの幻聴に思わずハッとする。どうやら私は思ったより深く思考し、立ち止まっていたらしい。
幻聴と思考を振り払うように数度首を振り、私は再び歩き出す。
程なくして平べったい図書館の建物が目の前に現れ、私は目的地に到着したことを知る。
それで思考が切り替わったのか、先ほどの考え事の断片は散り散りになって私の心の奥底に消えていった。
幻聴に嫌がらせしようと考えるなんて。
まるで、幻聴の主の実在を肯定するようじゃないか――。
* * *
「ねえ、お願いよ。ちょっと見せてくれるだけでいいから」
「えぇと……困ったな。キミ、うちではそういうのはやってないんだけど」
図書館の入り口を潜り抜けると、誰かが言い争っているような声が聞こえてくる。
いや、言い争っているというより、大人がわがままを言う子供をなだめようとしている、と言う方が近いか。
「そんなこと言って、秘密の書庫に隠してるんでしょ! クウにはお見通しなんだから」
「ええとね、だからキミ、うちではそういう謎解き系のイベントはね……」
……秘密の書庫? この図書館にそんなものがあるなんて聞いたことがないけれど。
いや、秘密だから私のような一般利用者では知らないのが当然なのか? よく分からなくなってきた。寝不足のせいか頭の回転が鈍い。
「ごまかそうとしてもダメなのよ!」
「まいったなぁ……」
受付のカウンターを挟んで言い争い(?)をしていたのは、一人の少女と一人の男性。
男性は図書館のスタッフの一人だ。私も幾度かお世話になったことがあり、顔見知りでもある。
そして、少女の方は――見たことのない顔をしていた。
それは、面識がないという意味であり、また、こんなにも美しい少女に過去出会ったことがないという意味でもある。
そんな突拍子もないコメントが飛び出す程度に、彼女の顔は美しかった。美少女と呼んでも誰からも文句は出まい。
彼女の全身を包むのは黄色のロリータ風ドレス。金色のさらさらとした髪や、やや赤みがかかった瞳の色とよくマッチしたカラーリングだ。
そういえば、入り口の傘立てに彼女のドレスと色合いが似た、黄色の少女趣味な傘が一本立っていたのを思い出す。あれは彼女の物だったのかもしれない。
『わあ、きれいな女の子だねぇ!』
「……そうね」
少女の美しさに見とれてぼうっとしてしまったせいだろうか。幻聴の声に、私は思わず言葉を返してしまう。
『あんな子と一緒にお茶会ができたら、きっと楽しいね! 姉さま、ちょっと声をかけてきてよ!』
「……図書館は飲食厳禁よ」
『姉さまのケチ!』
と、少女が私の方に向けて振り向く。しまった、声が聞こえてしまっただろうか。
「あぁ、ヴィアナさんか。この子は知り合い? できれば連れて行ってもらえるとありがたいんだけど……」
渡りに船とばかりに、男性スタッフが声をかけてきた。どうやら少女との対話に結構な時間を割かれていたのか、顔にはほっとしたような笑みでは隠し切れない疲弊がにじんでいる。
「あ、ええと、私は」
「……。ええ、クウはヴィアナお姉様の知り合いよ!」
「ええ!?」
少女の突然の宣言に突拍子もない声が出る。少女はキラキラした目でこちらを見つめていた。
「あ、そうなのか。それじゃ、あとはよろしくねヴィアナさん。キミも気を付けて帰るんだよ」
「キミじゃないわ、クウには累絵空って名前があるのよ」
「ああそう。じゃあね、クウちゃん」
少女――クウの反論への応答もそこそこに、男性スタッフはそそくさとカウンターの奥へと引っ込んでいってしまった。
取り残された私は、ただ呆然とするしかできない。
そこに、クウがとことこと駆け寄ってきて、私の制服のすそをぎゅっとつかんだ、
「ええと、何かしら、クウさん」
「クウでいいのよ。ええと、ヴィアナお姉様、とお呼びすればいいかしら」
「……まあ、それでいいわ」
『いいよ! あ、僕はゲッツ。よろしくね、クウ』
幻聴が合いの手を入れてきているが、無視。
ひとまず、私はクウを連れて奥にある読書スペースに移動する。
「それで、クウ。これは何の騒ぎ?」
「えっとね、クウは■■■の手掛かりを探してるの」
……?
「ごめん、よく聞き取れなかったわ。何ですって?」
「だから、■■■よ。わかる?」
「……分からないわ、ごめんなさい」
半分本当だが、半分嘘。そもそも、クウの発音した言葉が単語として聞き取れていない。
あえて文字で書くとすれば「ざあざあ」とか「しとしと」となるだろうか。私の知る言葉とは全く違う言語の言葉、という印象である。
「そう。まぁ、仕方ないわ。それでね、この図書館に■■■の手掛かりがあるらしい、って噂を聞いたの」
「えぇ……こんなところに?」
池袋図書館は、お世辞にも豊富な蔵書があるとは言えない。公称の蔵書数は10万冊を少し超える程度で、これは都心部の図書館としては中堅と言ったところ。
私の知る範囲では、そういうよくわからない物の手掛かりがある場所とは思えない。
「まあ、ヴィアナお姉様が疑う気持ちもよく分かるわ。でも、アリスが調べてくれたから、少しは期待できると思うのよね」
「アリス?」
「ええ。クウのお友達」
クウはにっこりと笑う。アリスという子は、彼女にとってそんなに大切な友達なのだろうか。
『アリスちゃんか。かわいい名前だね。きっとかわいい子だよ』
幻聴が空気を読まない。無視。
「ちょうど、今も探し回ってもらってたところ。そろそろ帰ってくるんじゃないかしら」
「……探し回って?」
「ええ。クウがあのおじさんを引き付けてる間にね」
「……えぇ?」
クウの言葉を信じるなら、あの男性スタッフとの会話は単なる難癖や時間の無駄ではなかった事になる、が。
「本当?」
「あ、ヴィアナお姉様疑ってるわね。ちょうどアリスも帰ってきたみたいだし、聞いてみようかしら」
クウが小さくどこかに手を振っている。そちらの方を見てみたが、何もいない。
……いや、よく見ると、アリぐらいの大きさの小さな何かが……いる?
「アリス、こっちに来て。こちらのお二人にご挨拶と、報告をお願いするわ」
クウは屈むと、アリのような何かがいる方向に手を伸ばした。待つこと暫し。
「――はあ、大冒険だった」
「!」
『わっ』
私と幻聴が驚くのも当然。クウの手の上にいたアリぐらいの大きさの何かが、ぐんぐん大きくなると手のひらサイズの人形のような少女に変貌したのだから。
「こいつは誰だ、クウ。私を見せて大丈夫な相手なのか?」
「多分ね。それでアリス、首尾は?」
「まあ、そこそこ順調、ってところだ」
アリス、と呼ばれた小さな少女は幾度か咳払いをすると、クウと私に向けて告げる。
「――この図書館には地下書庫がある。クウのお目当ても、多分ありそうだ」
* * *
「……嘘みたい」
私は茫然としていた。通いなれた図書館の地下に、こんな場所があったなんて。
天井まで届くかのような巨大な本棚には幾百冊もの大きな書籍が所狭しと並んでおり、読もうとする者を誘い込む獣のような気配すら感じられそうだった。
「わあ、すごいすごーい!」
クウはころころと笑いながら辺りを駆けていく。
「……走っていいのかしら、図書館」
「気にするのはそこなのか?」
「いろいろなことがありすぎて、もうどこから気にしていいんだか……」
「なるほどな」
私の会話の相手になっているのは、いつの間にか私の肩を定位置に定めていたアリスだ。
この地下書庫にいたるまで私とクウ、それにアリスが繰り広げた大冒険はあまりにも荒唐無稽なもので、潜り抜けたばかりの今でも現実かどうか判断がつかないほどだった。
その全てを書き記すには私の描写力と時間が足りない。なので、私の記憶では大胆にカットされている。
確かなのは、クウの魔人能力らしい「物を小さくする能力」がなければ、私たちはここに足を踏み入れることすらできなかっただろう、と言うことだ。
「……今更だが、なんで着いてきたんだ? クウのやつが突拍子もなく誰かを巻き込むのはいつものことだが、今回はヴィアナお姉様?もまあまあ乗り気だっただろ」
「まあ、その……」
正直、私もあまり胸を張って言える動機ではない。
クウにこの先に付いてくるかと聞かれたとき、幻聴が口やかましく主張したのだ。ついていきたい、と。
「……い、色々あって」
「ふぅん?」
言葉を濁したら、案の定アリスに首を傾げられてしまった。それはそう。
「まあ、それはともかく……おい、クウ! お目当ての物は手に入りそうなのか?」
「えぇ、バッチリよアリス。ほら、こんなにわかりやすく置いてあったわ!」
見ると、本棚が途切れた奥の奥、最奥部にはテーブルが設置されており、その上に一冊のハードカバーの書籍がおかれている。
ちらりと見えた表紙には、こう書かれていた。
The Book of ■■■
■■■のところは、ミミズがのたくったような何かが記されている。
これは文字、なのだろうか。恐らくそうなのだろうが、私にはまったく判読できない。
『……なんて、こった』
ふと、幻聴が聞こえた。
『この、本は……クウ、君は……そうなのか? そういうことなのか?』
「……?」
この幻聴は何を言っているのだろう。いつものことだが、私にはさっぱり理解できない。
「ええと」
と、クウがこちらを振り向いた。私の方を……いや。
私の隣を見ている?
「あまり何を言っているのか分からないけれど……でも、そうね。貴方の求める物は、きっとクウの中にあるわ」
「……え?」
クウは何を言って。いや、いやそれよりも。
彼女、今私の幻聴と会話したのでは?
『そうか、そうか……はは、あははははは!』
幻聴が笑う。高らかに笑う。
『姉さまごめん、少しだけ出かけるよ。すぐ戻るから、ちょっと待ってて』
「え、ちょ」
『いくよ、累絵空。君の中へ!』
すっ、と何かが抜けるような感触。
たとえるなら、古典的な籠の罠を支えていたつっかえ棒が外れたかのような。
すとん、と、落ちる。
私の意識が、落ちて。
* * *
……ん?
どうした少年、こんなところに来て。見ての通りここは何もないぞ。殺風景なもんだろ。
――はいはい、ゲッツ・F・ベルリヒンゲンね。少年呼びは不服か、すまないねゲッツ君。
あぁ、私は誰か、か。ゲッツ君、知らない男性をいきなりおじさん呼びはやめた方がいいと思うぞ。傷つくだろ。
というか、あれだ、ゲッツ君、多分『私』にもう会ってるだろ。外側の方の『私』に。
……うん、正解。驚いた顔をしているね。それはそうだ。
私は、アリス。フルネームは有栖英二。
君が会った『アリス』は私が自分の能力『アリス・イン・ワンダーランド』で姿を変えたものだ。
クウの能力でサイズも変わってるから、口調以外ではなかなか気が付かないだろうね。
なに、なんでそんな他人事みたいに話すかって? 他人事だからだよ。今となってはね。
ゲッツ君が聞いて理解できるかは分からないが、私はちょうど一年前までの有栖英二なんだ。
その段階で魂が分離した、とでも言えばいいのかな。外側の『アリス』は、私の記憶はあまり残していないと思うよ。
この姿は私も不本意だが、あいにく私の能力では魂の形状までは変えられないものでね。だからこうして、醜い姿をさらしているわけだ。
……へぇ、魂が分かれる話に心当たりが? なに、ゲッツ君もそうだし、ヴィアナさんの方も? ははぁ、これは驚きだ。数奇なものだね。
あぁ、すまない。ここはどこか、と言う話をしていなかったね。
ここは、私の夢――だったところだ。今はクウの夢の外周を囲う堤防のような形になっている。
どうしてって? そうする必要があったから、とは言っておく。私もあまり仔細に思い出したいわけではないんでね。
――その通り。クウの夢に触れるには、必ずここを通る必要がある。そういう風になっている。
いや、私の能力ではないよ。あえて言うならクウの方だが、あちらも感知しているかは微妙なところだ。
私とクウ、お互いにその必要があったからこの形になった。言えるのはそのぐらいだ。
――そうだろうね。ここに来るということは、そういうことだ。クウの夢に触れたいのだろう?
確かに、そこにはゲッツ君の求める物があるだろう。手に入れれば、ゲッツ君の望みだって叶うかもしれない。
個人的には、やめた方がいいと思うが――まあ、そうか。
分かった。ゲッツ君が望むなら、行くといい。私の後ろにあるこの扉を通っていけば、クウの夢まではすぐだ。
ゲッツ君の目論見がうまくいくなら、私の役目もおしまいだからね。個人的に応援はしておくよ。
それでは。願わくば、再会したいものだが。
…………。
ああ……だから、言ったのに。
* * *
『わたし』は夢を見ている。
『わたし』はずっと、夢を見ている。
屋敷の一室。椅子に座る『わたし』の眼前のテーブルにはお茶とお菓子が並ぶ。
お菓子をつまみたくなる衝動を抑え、ちら、と正面の席に視線を向ける。
そこには□□□が座っていて、『わたし』の視線に気が付くとにっこりと微笑んでくれた。
それだけで『わたし』は胸がいっぱいになる。お菓子と同じぐらい甘い感覚が、全身を貫くのを感じる。
ティーカップを手に取って、お茶を一口。そして、□□□にこの気持ちを少しでもお返ししようと、精いっぱいの笑みを浮かべる。
『わたし』、うまく笑えているかしら。
『わたし』のこの甘い喜びを、□□□に少しでも伝えることができているかしら。
そんなもどかしさすらも『わたし』たちの団欒のスパイスとなって、ことこと煮込んだお肉のスープのようにこの空間を味付けていく。
『わたし』たち□□の団欒。
二人だけの、素敵なお茶会。
ねえ、□□□。
『わたし』、とても――
――違う。
違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う!
これは、これは『わたし』の夢じゃない!!
『わたし』は飲みかけのティーカップを手に取ると、そのまま□□□に中身をぶちまける。
□□□はにっこりと微笑んだまま、首を傾げて『わたし』に語り掛けてきた。
「ひどいわ、ヴィアナお姉様。クウのドレスが台無しじゃない」
黙れ、違う、なぜお前が、累絵空がその席に座っている。
たった数時間前に『わたし』たちに出会っただけの娘が、なぜその席に座っている?
その席は、その場所はお兄様の場所なのに!
「そうね、クウも少しびっくりしたし、ちゃんとわかってる訳じゃないのだけれど」
累絵空は傾げていた首を元に戻すと、微笑みを消さないまま、『わたし』に告げた。
「多分、ゲッツお兄様が埋めていたヴィアナお姉様の夢のスペースに、クウの夢が入り込んじゃったのね」
……え?
「クウの夢はすごく大きいの。ゲッツお兄様の夢よりも、ヴィアナお姉様の夢よりも。放っておいたらみんなの夢を飲み込んじゃうぐらい、すごく、すごーく」
累絵空は、身体の前で両手を大きく広げた。すごく大きい、と表現するかのように。
「もちろん、みんなの夢を飲み込んだとしても、普通は交じり合ったりしないわ。でもね、ほら、ゲッツお兄様の魔人能力、あったでしょ」
お兄様の魔人能力。
8歳の時に身体的には死んだお兄様をこの世に留めていた能力。
それは――他人の夢に入り込む能力、と定義される物ではなかったか。
「そう、それ。最初はヴィアナお姉様の夢にいたけど、そこからうっかりクウの夢に入ろうとしたみたいね」
――それで。
それで、お兄様は、どうしたの?
「知らない。呑まれて消えちゃったんじゃないかしら」
…………。
「ともかく、それでヴィアナお姉様とクウの夢がつながったの。こんな事はクウも初めてだったから、ちゃんと説明できたか不安だけれど」
ああぁぁぁぁぁ!!
「きゃっ」
『わたし』は、手にしたままだったティーカップを手に、累絵空へと躍りかかった。
ティーカップを累絵空の頭部に叩き付ける。鈍い手ごたえ。
何度も何度も叩き付ける。数度目でティーカップが割れた。構わず今度は素手で殴りつける。
正直、累絵空が何を言っているのか、『わたし』には半分以上理解できていないと思う。
それでも、数少ない分かったことは、『わたし』を激高させるに十分なものだった。
「お前が、お前がお兄様を! お兄様を殺したのか! 『わたし』のお兄様を殺して! あまつさえその席に座っていたのか!! 死ね、死ね死ね死ね死ね!! 死んじゃえぇぇぇぇぇっ!!」
『わたし』は泣きわめきながら、累絵空に馬乗りになり、幾度も拳を叩きつけた。
意味わかんない。どうして? どうしてお兄様が。どうして、『わたし』達が。
「えぇとね」
累絵空の声がする。
「すごく言いにくいのだけど、ここに入ってきてるクウの夢は、足の小指の先っぽぐらいの量なの」
『わたし』に馬乗りになられて、幾度も幾度も殴りつけられて、それでも傷一つない、累絵空の声がする。
「だから、ヴィアナお姉様にこうやって殴られても、全然死んだりしないのだけど」
……。
「だけど、ちょっぴり痛かったし、痛いのはあまり好きじゃないから」
累絵空が、『わたし』に馬乗りになられながら倒れている。
累絵空が、『わたし』に触れている。
「だから、おしまいにするわ」
累絵空の表情から、微笑みが消えて。
代わりに、自嘲するように、寂しそうに、口元が吊り上がった。
「さよなら、ヴィアナお姉様。――クウはね、本当にお姉様とお茶会がしたかっただけなのよ」
――ハハ。なによ、それ。
累絵空から返事は帰ってこなかった。
代わりに、累絵空とテーブルと屋敷と……とにかく、『わたし』以外のすべてが、みるみる大きくなっていった。きっと、私が縮んでいるのだろう。
きっと――『わたし』は、死ぬのだろう。
あーあ。『わたし』が誰かを殺すなんて、できるわけなかったのに。
だって『わたし』、ただの6歳の女の子だもの。
* * *
『うふふ、楽しかったわ! アリスはどう? 面白かったかしら』
「面白いところがどこかあったなら教えてもらいたいもんだけどな」
『あらつれない。やっぱり、アリスの趣味にあう女の子じゃないとだめなのかしら?』
「当たり前だ。楽しむ暇もなく殺すやつがあるか。……まあ、聞いた感じじゃ少年の方は事故みたいなもんだが」
『うーん。やっぱり人間がクウの夢を見るとダメなのかしらね』
「分かってるなら少しは抑えろ。私だって発狂してないのは奇跡みたいなもんなんだぞ」
『……うふふ』
「なんだ、気持ち悪い」
『奇跡だとか言っても、なんだかんだで付き合ってくれるアリス、やさしいなって』
「私の手の届かないところで自分の世界が滅ぶより何万倍もマシだってだけだ」
『うふふ~』
「やめろやめろ気持ち悪い。次の目的地教えたら切るぞ」
『はぁい。もうしばらくよろしくね、アリス』
それから一言二言言葉を重ね、私はスマホの通話を切る。
その日暮らしのポシェットの外は、相変わらずの雨模様だ。ポシェットは、クウの歩みに合わせてゆらゆら揺れている。
この暮らしを始めてから、時折思うことがある。
ポシェットの中でクウに揺らされる私。
世界の中でクウの夢に揺らされる私達。
その二者に、果たしてどれだけの違いがあるのか。
「……はあ、やめやめ」
雨のせいだろうか、気の滅入る考えばかりが浮かんでくる。
面倒でも我慢しろ、私。クウが転校生になるまでの辛抱だ。
そうすれば、少なくとも私達はクウと縁が切れる。
私は目を閉じると、少しだけ、クウの夢に飲まれた少年と、クウの夢に抗った少女のことを思った。
すぐに、泥のような疲れと眠気が私を飲み込んでいく。
夢は、見なかった。
* * *
『□□□』は夢を見ている。
『□□□』はずっと、夢を見ている。
屋敷の一室。椅子に座る『□□□』の眼前のテーブルにはお茶とお菓子が並ぶ。
お菓子をつまみたくなる衝動を抑え、ちら、と正面の席に視線を向ける。
そこには■■■が座っていて、『□□□』の視線に気が付くとにっこりと微笑んでくれた。
それだけで『□□□』は胸がいっぱいになる。お菓子と同じぐらい甘い感覚が、全身を貫くのを感じる。
ティーカップを手に取って、お茶を一口。そして、■■■にこの気持ちを少しでもお返ししようと、精いっぱいの笑みを浮かべる。
『□□□』、うまく笑えているかしら。
『□□□』のこの甘い喜びを、■■■に少しでも伝えることができているかしら。
そんなもどかしさすらも『□□□』たちの団欒のスパイスとなって、ことこと煮込んだお肉のスープのようにこの空間を味付けていく。
『□□□』たち□□の団欒。
二人だけの、素敵なお茶会。
ねえ、■■■。
『□□□』、とても幸せよ。
『□□□』はずっと、こんな夢を見ている。
『□□□』はずっと、夢を見ている。
いつか、現となってほしい。
叶うと信じる、こんな夢を。
(Lament for ■■■/closed)
(Search for ■■■/to be continued)