暗く、眩い。
青と黒の世界に差し込んだ白が、少年には救いにも思えた。
トンネル水槽の中を歩いていた彼は、水に囲まれた筒の中で、いずこからか照らされる光に誘われてゆく。

この世界は一瞬で姿をがらりと変える。
きらきらとした光が色鮮やかな小魚達によって反射され、遠方の黒く大きな影を写す。
それは隅でじっと動かないウミガメや、おおらかに泳ぐエイの姿だろうか。

彼等の匂いや呼吸は感られず、触れることすら叶わない隔たりがそこにある。
だが、それらをじっと見つめていた少年は。

──岳深(たけみ) 家族計画(かぞくけいかく)は、まるでこの世界の一部になったかの様に錯覚していた。

「ハジメと……いや。 みんなと、来たかったな」

僅か数十メートルの道に、もう二度と叶わぬ夢を見て。
海底に沈む様に、岳深はゆっくりと眼を閉じた。

ハジメ。ミライ。ハツ。イツカ。
意思を共にし、同じ希望を胸に闘った家族とも呼べる仲間は、誰一人として既にいない。
ただ一人世界に取り残されていた岳深は、感情に流されるがままに復讐を繰り返している。
NOVAの開催する殺戮ショーへと参加したのも、その目的を果たすためだ。

──終わりなんですよ、どちらににしても。

そう言っていたのは、書記をしていた眼鏡の男だったか。
かつての生徒会長が危険薬物を広めた時も、愚か者達がクーデターを起こした時も、背後には底知れない悪意が潜んでいたのだ。
それによって岳深達5人は──いや、弧夜見学園は詰まされた。

既に、岳深家族計画は敗北者だ。
復讐を果たした未来にすら価値は無く、故にこの闘いに勝ちは無い。

「……それでも、私は闘うと決めた」

最早救いなど、求めてはいない。

岳深は喉元の憐憫(れんびん)を飲み下し、(きびす)を返す。
出口より溢れる光に背き、彼は再び影中へと沈み込む。
袋小路の海底へと、その心は漂流する。


 ◆ ◆ ◆


「シャー……クソが! おめぇ、俺のバックがどれほど恐ろしいか分かってんのかァ!!?」

アーロン・サメノ・エィーガーは咆哮する。
気の遠い程の年月を費やした。いや、時間だけではない。
夢を叶えるためにアーロンはどんな手も使った。
友人を、恋人を、両親を、果ては自分自身すらも切り売りし続けて、その先にやっと手が届いたのがこの水族館だった。

この水族館は、言わばアーロンにとっての楽園だ。
サメ映画の主役達を現実に再現させたこの理想郷(アーロン・パーク)は、人々に長く愛されるテーマパークとなる……筈だった。
それがたった一人の男の気まぐれで潰されることなど、とても許されることではない。

「……3つ、勘違いを正そうか」

岳深は手に持った鉄棍を突き付けながら、アーロンへと冷めた視線を投げる。
まるで路傍の石を見る様な、虚ろで冷たい眼差し。それはアーロンの未来を暗示するかのようで。
その視線を振り払うように、アーロンは懐から機械を取り出す。

「1つ。 その後ろ盾にとって君が価値のある存在ならば、君は今日ここには居ない」

裏の世界で影響力を持つ存在ならば、殺人鬼が最も集まる初日の池袋に大事な手駒を置いたりはしない。
この催しを知らなかったのであれば、警戒する程大した後ろ盾ではない。
どちらにせよ、岳深にとってアーロンとは取るに足らない存在だ。

変わりない。

「おまッ……それ! 返しやがれェ!!」
「2つ。 裏切りに関わった人間は全員殺すと決めている」

鉄棍によって取り出した機械は即座に空中に弾かれた。
その機械とは創り出したサメ達を開放するスイッチであり、アーロンの命を繋ぐ最終手段だ。
例え着地点が二人の間にあるとしても、取り返さなくてはならない。

必死に手を伸ばす。叫ぶ。当然、届かない。
アーロンは床に叩き付けられ、岳深が持つ鉄棍が彼の眼前に突き刺さる。

「ひィッ」

小さく悲鳴を上げるアーロンが怯えるモノ。
背中から感じる、岳深が持つもう一つの鉄棍。

そこには冷えた視線とは真逆の、燃えたぎるマグマのような怒りが籠っている。
アーロンの臀部に押し付けられているそれ(・・)は、間違いなく──

「3つ。 私の背後位(バック)の方が恐ろしい」
「まて、止めろ……せめて、普通に殺してくれッ!」

アーロンの懇願に、岳深はただ静かに笑みを返した。
優しさではない。ミライを囲んでいた男達が笑っていたから、彼も同じ様にしただけだ。
そしてこれからアーロンも、彼女と同じ様になる。

嬌声とも、悲鳴ともつかない声が水族館に響き渡り──


 ◆ ◆ ◆


喧騒。
館内で起こった事件に、客も、スタッフですら一目散に脱出を図っていた。
そうしてできた洪水の様な人並みに逆らって動く影が3つ。

何れも、殺人鬼を目的として集まった魔人能力者達だ。

1つは少女である。
死闘にこそ楽しみを見出している彼女は、魔人であろう殺人鬼を今夜の遊び相手として見定めていた。

1つは青年である。
ヒーロースーツに身を包む彼は決して善人という訳ではないが、HAIKUを挑むに相応しい相手として殺人鬼を選んでいた。

そして最後の1つは──トラックである。

『なあ、本当にこの先に居るんだよな!?』
『勿論! この先に、殺人を犯してる奴がいる筈っス!』

誰も乗っていない筈の暴走トラックには、二つの魂が憑りついていた。
一人は少女、車斤(くらかり)(るな)。もう一人は青年、防鼠(ぼうそ)ウトラク。
魂を捕食するトラックの餌として、殺人鬼を喰らうのが彼らの目的であった。

野生の暴走トラックは魂を捕食する機能を持ち、基本的に単独で轢殺を行う習性を持つ。
だが、無機物という特性からか獲物を探す術には長けていない。
そこで彼等はスズメバチのように警報フェロモンを放っている。排気ガスに混ぜこまれたそれは、同族に敵対者であることを示す優れたマーキングである。

──しかし、数キロ先を辿ろうと。
野良暴走トラックからも殺意を持たれているそんな都合の良い殺人鬼は、かつての車斤月ぐらいしかいなかったのだ。
故にハイウェイを流す内、殺意の迸る水族館にたどり着くのは自然なことであった。

標的を探すのは2人の仕事であり、先に獲物を見付けた月が合図を出す。
彼女が指し示すのはこの水族館で最も奥にあり、最も大きな空間であるサメコーナー。
巨大水槽が幾つも存在し、その中には架空の存在だと言われた様々なサメが現実に泳いでいると言う。
この水族館(アーロン・パーク)最大のウリともいえる場所に殺人鬼が現れたのならば、確かにこの騒ぎも納得がいくだろう。

だがしかし、館内から聞こえてくる音。そして漂って来るニオイが、ウトラクの足を鈍らせた。

『1つ、 聞いて良いかな』
『はいはい。 何でも聞いてくださいッス』
『この先に居るのは〝殺人〟を犯してる奴で良いんだよな? 〝人〟じゃなくて』
『えっちなのは駄目ッスよ。 セクハラッス』
『何でもって言ったじゃん!』
『マックは嫌でーす』

獲物を前にして上機嫌に笑う月に、ウトラクは溜息を吐く。
マック、旨いだろうが……!と叫びたかったが、彼女は財閥のご令嬢である。
〝マックで喜ぶお嬢様〟ガチアンチのウトラクはそれ以上何も言えなかった。

『……まあ。 この先に殺人鬼がいるのなら、正面から突っ込むのは得策じゃない』
『入口とは逆側から仕掛けましょう。 ガラス越しなので見え見えッスけど』
『他にも動いてる気配があるみたいだ。 そっちに気を取られてる内に不意を打とう』

ウトラクはハンドルを切り、水族館の裏手へと進路を切り替えた。
良くも悪くも、ウトラク達は暴走トラックである。
どれだけのパワーがあろうとも、人型の魔人と比べて取れる手段は非常に少ない。
性質上、取れる作戦はどうしても〝初撃で相手を殺す〟になってしまう。

『名付けて、〝本物のハプニングバーをお見せしますよ〟作戦ッスね?』
『本物のハプニングバーを知ってる山岡さん、嫌過ぎるだろ』

とにかく、そういうことになった。


 ◆ ◆ ◆


少女は闇の中ですら目を引く黒髪を揺らす。
煌めく翠の瞳に映っているのは、一人の殺人鬼。

「どうやら、(ワタクシ)が一番乗りみたいですわね?」

水族館、最奥。
鮮やかな青と黒のコントラストが美しい巨大水槽には、異形の鮫達が優雅に泳ぎ回っている。
しかし今、この空間で最も目を引くモノ。
この場の主役とは、鮫ではない。

白濁液に塗れた死体の傍に立つ、下半身を露出した猟奇殺人鬼。
事後であろうとも戦闘態勢を崩さない剝き出しの闘争心こそが、自身が主役だと主張を続けている。
悍ましい光景を目の当たりにして、鬼ころし──呑宮ホッピーは舌なめずりをした。

立ち姿。
それ一つで相手が身体能力に長けた戦闘型の魔人であることが理解できる。

「御立派なのはあちらだけ……なんてオトコではなくて安心しましたわ。 どうぞ、私を満足させてくださいましね? 」
「……はは。 折角期待してくれているんだ、応えようか」

互いが間合いを図る様に、半歩ずつ足を前に踏み出す。

「……」
「……」

戦闘力に特化した魔人とはいえ、命は脆い物だ。
同格の達人と相対したとして、内容が拮抗することは非常に稀である。
運、相性、コンディション、精神状態──明暗を分けるのは、いつだって少しの差でしかない。
故に、その僅かな綻びのために全てを注ぐ。それこそが、殺し合いだ。


お互いが手の内を読み合う中、先に仕掛けたのは呑宮。
緩急の付いた鋭い踏み込みから、鬼ころしの繰り出す横一閃が岳深へと迫る。

見に回った者を狩る必殺の一刀。
それを、岳深は紙一重の見切りによって回避して見せた。

「あら」

僅かに目を開く呑宮だが、その態勢は既に二撃目に入っている。
最小限の動きで躱してすら、後手を強制される流れる様な連撃。
岳深は距離を取るために鉄棍を打ち合わせた。

鬼ころしの特徴を聞けば、誰もが間違いなく卓越した戦闘技術であると語るだろう。
故に、その技巧を相手にしないことは間違いのない選択肢だ。

しかし。
基本、セオリー、常識、安定──それら全てを叩き潰してきた彼女にしてみれば。
間違いではない……その考え方は、正解から最も程遠い落とし穴でしかない。

「ぎ、うッ」
「あは♡」

叩き付ける様に振るった細身のレイピアは、折れること無く岳深が持つ鉄棍を押し込んでいく。
呑宮そのままは岳深を地面に叩き付け、石造りの床を易々と打ち砕く衝撃を走らせる。

勢いのまま転がり無防備に横たわる岳深は、無視のできないダメージを受けている。
しかし、呑宮は追い打ちの手を止め、切っ先を向けるだけに留めていた。

「まさか、寝たままで動かないつもり? それとも、それで誘ってるつもりなのかしら」
「酔えば酔う程強くなる酔剣……付け込むなら低下した判断力と睨んでいたが。 疑い深いんだな」
「ふふ……私、酔わせれば落ちる様な軽い女じゃありませんので」

2合打ち合った結果、圧倒したのは呑宮である。
しかし彼女は、岳深を一切下に見てはいない。
自分ならば簡単に取れる受け身を彼が取らないのならば、それは好機ではなく罠だ。

地に伏していた岳深が身体を起こす。
その時現れたモノ(・・)を見て、呑宮は自分の認識が正しかったことを確信した。

──銀波暁露に立つ(ウィズザット・ザ・ムーンセット)

オラクリンと呼ばれる未知の物質を分泌するその能力は、血中のオラクリン量が一定以上に高まった時に効果を発揮する。
細胞自体が発色する程に活性化し、高速演算をした結果実現する限定的な未来予知。
それが岳深家族計画──迦具夜の銀燭(プリンス・ファンタズマゴリア)の能力だ。

呑宮との開戦から数秒、未だオラクリンの分泌量は充分とは言えない。
だがしかし。身体の中心にそそり立つ、血液の集中する部位からは強い銀光が発されている。
岳深は脳ではなくちんちんで考える事によって、ラプラスの魔の領域へ踏み込もうとしていた。

「****」
「ふふ……無様ね。 でも、ご安心なさい? 私の絶技ならば変態でも華麗にぶち殺してさしあげられますわ」

岳深に対応するために、呑宮は追加の酒を煽る。
呑宮は岳深の能力を知らない。しかし、飲酒によって鋭くなった直観はこの場の最適解を導き出していた。

──理解した上で避けられない、回避不可の剣技。
岳深が後の先を取ろうと言うのならば、呑宮はそれを上回る超絶技巧によって叩き伏せる。

それが、鬼ころしの闘い方である。

「呑宮流──」
「──***ォ!」

そうして二人が踏み出そうとした、寸前。
達人だけが踏み込める世界に、ヒーロースーツを着た一人の青年が立っていた。

曇天、ガラスで区切られた壁の向こうで。
全身を雨に撃たれながら、彼は静かに言の葉を紡ぐ。


「人斬りに/淫らな白瓜/五悪露命」


それは、ガラス越しでは届く筈の無い音。
突如脳裏に流し込まれる情報が、二人の達人の足を止めた。


◆ ◆ ◆


詩徒(ミスター・リリック)
俳句を詠むことによって様々な状態異常を得る能力。
詠んだ俳句は概念上の存在である「夏子先生」によって100点満点で採点され、70点を超えることができればバフが発生する。
逆に70点以下を取ってしまうとデバフがかかり、赤点(10点以下)になると死の危険が発生する。
バフは身体能力の強化に留まらず、運勢上昇や財力など様々なモノがTPOにあわせて都合よくかかる。
なお、この能力は半径100メートル以内に存在する人物であれば、誰でも瞬時に使用方法を理解し、発動可能。


◆ ◆ ◆


「私の脳にゴミのような情報を流すんじゃなぁい!!」

脳での思考を余儀なくされた岳深は、思わず叫び声を上げていた。
能力を解除したことにより、無理な超思考の負荷が下半身にかかっている。
再度未来予知の領域に踏み込むためには、充分なオラクリンを分泌する時間が必要だ。

各人の脳裏に現れる評論家──夏子先生。
この現象を前に岳深は利のために、呑宮は能力を見極めるために見を選択する。

「これは数え歌ですね。 ()斬り()/()らな()瓜/()()命と1から6までの数字が数えられています。五悪には殺生、邪婬、飲酒が含まれており、露命とは儚い命を差しますから、ここに居る二人をこれから殺しますという宣言でしょう。 数え歌にしては数も中途半端ですし、季語である白瓜が生殖器の暗喩として使われているのが非常に腹立たしいですね。 季語とは季節を表すための物ですから、それがちんぽを示していたら風情が無いですよね。 35点」

「……あら?」
「──なんだって?」

35点?

好影響を与える70点に遠く及ばない評価値に、この場の全員が思考を止めた。
この能力を持っているのは、間違いなくこのヒーローである。
その彼が詠んだ句が、35点?

「オー……股間を光らせていたのは罠でシタか」

ふらつく青年はぬかるんだ地面に足を取られ、背中を地面に打ち付けrる。
能力の代償により、一時的に平衡感覚を奪われた彼が顔を上げた先。
そこには、さらなる不幸が迫っていた。

『ウトラクさん! 不意打ち決める筈がなんか全員こっち見てるんスけど!?』
『とりあえず、あのヒーローだけでも轢くしかない! 車は急に止められないんだ、突っ込むぞォ!』
『待ってください、私シートベルトしてな──』
『魂に必要ねェよ!!』

暴走トラックが青年──リチャード・ローマンに激突する。
撥ね飛ばされたリチャードはガラス壁に頭から突き刺さり、ピクピクと身体を震わせている。
ヒビが広がり脆くなった壁をぶち破りながら、ウトラクは再度リチャードを轢き飛ばした。

『ウトラクさん、殺ったッスか!?』
『いや、なんか二回轢いたのに生きてる……怖……』

自爆した謎のヒーローに、突如突っ込んで来た無人トラック。
露出した下腹部を発光させる殺人鬼が霞むほどに異常な戦場が、ここに完成していた。


【迦具夜の銀燭】岳深家族計画。
【鬼ころし】呑宮ホッピー。
【俳人575号】リチャード・ローマン。
【異世界案内人】防鼠ウトラク。


──今宵。生き残るのは、たった一人。


◆ ◆ ◆


4つ巴の特徴をあげるとするならば、それはやはり均衡の崩れやすさにある。
漁夫の利、或いは派閥の形成といった先行者に対する抑止力が比較的発生し辛いからだ。

必然、武闘派の魔人と言えども、大きな隙を晒していれば真っ先に狙われることになる。
トラックに轢き飛ばされたリチャードが地面に叩き付けられた時、既に呑宮は動き出していた。


「あらあらあらあら! まさか招待状も無しにパーティーに来たわけじゃあございませんよねッ!」


着弾地点を予測していた呑宮は跳ねるリチャードを追うように壁を蹴る。

重力、筋肉、関節、回転──
腕を突き出すと同時、彼女の全身から無造作に発生していたエネルギーが一つの目的を得る。
命を奪うべく加速するレイピア。それは流れ星の様な閃きを空に走らせた。

「逸ったな、鬼ころし」
「……!」
「それは、句の読み合いをしたくないと言っている様な物だぞ」

飛来した何かが剣身に当たったことで、軌道を変えたレイピアは空を切る。
呑宮が走り出すと同時にまた、岳深も予測によって鉄棍を投擲していた。


不確定要素とは弱者にとっては一発逆転の救いだが、強者にとってはただのノイズでしかない。
そしてリチャードの持つ魔人能力は、この場で最も予測のできない変数である。

半径100m以内であれば誰でも利用できる条件の緩さにもかかわらず、決して軽視できない変化が戦場にもたらされる影響力。
それに加えて採点基準や点数毎の影響度といった詳細が明かされていないことにより、使うことにも使われることにもリスクが発生する。

規模も、仕掛けた場所も分からない爆弾のスイッチが配られているかの様な脅威。
詩徒という能力による心理的重圧に対し、呑宮と岳深は瞬時に同じ結論に至っていた。


早急なヒーローの排除。


そうして鉄棍を振り被った岳深が、同時に動き出す呑宮の姿を捉えた瞬間。
オラクリンによって加速した思考は、真逆の行動を彼に起こさせた。


ヒーローが能力を扱えず、自身の感性に絶対の自信を持っている鬼ころしすらも即殺を選択するのならば。


今この場で最も詩徒を活用できるのは、自分自身と言うことになる。


「呑宮流──」


鬼ころしの初撃さえ防いでさえしまえば、その間にヒーローも体勢を整える。
追撃は難しく、射程外に外れ自由になった岳深の発句を止めることもできない。



一人文(ひとりぶみ)/死後に虚しき/白菖蒲(はくしょうぶ)



「近しい人の死後、一人で思いを綴る事の哀しさを詠った……ということでしょうか。 季語である白菖蒲(しろしょうぶ)の花言葉は『貴方を大切にします』ですが、既にその想い人達は居ない。手遅れになってしまった絶望と後悔を感じる良い句ですね。 白菖蒲(しろしょうぶ)と言う言葉をあえて白菖蒲(はくしょうぶ)と発したのは、数え歌を詠った相手に対してこちらも1から9の数え歌で返すためでしょう。 即興性は素晴らしいですが、この句には遊び心を混ぜるよりも雰囲気を重視した方が良いでしょう。 82点ですね」


「──上居(じょうご)ォオッ!」


脳裏に夏子先生の姿が現れた時、既に講評と採点は終わっている。
発句を止められないと言うことは詩徒による強化も止められないと言うことだが、どの様な強化になるのかは誰にも分からない。
岳深が強化内容を理解する前に一撃を届かせる、それが呑宮の取った行動だった。

──呑宮流抜剣術、”上居(じょうご)”。
酔剣の特性により、最速の剣技を全身のあらゆる部位から放つ奥義。
全ての武器が囮であり、全ての武器が本命。鬼ころしにのみ許された必中必殺の居合抜き。
それは間違いなく、詩徒による強化が何であろうとも防ぐことのできない一撃だ。

振りかぶった武器に視線を向けさせた呑宮は、そこから頭と武器の重量を利用し、腰を起点に足の居合抜きを放つ──筈だった。

「予測困難、放てば必死……素晴らしいが、困難とは不可能ではない」

繰り出そうとした足に合わせられた鉄棍。
咄嗟に後ろに引こうとした呑宮を咎める様に、岳深は鉄棍を突き出して鳩尾を殴りつけた。

「か、はッ」

呑宮の体がくの字に曲がり、肺から空気が押し出される。
彼女は咳き込みながらも、地面に倒れ込むことなく岳深から距離を取った。

「……ええ、ええ! 良いでしょう。 そうこなくては、面白くありませんわ」

詩徒による強化によって、局部だけに留まっていた銀光は既に岳深の全身から放たれている。
銀波暁露に立つ(ウィズザット・ザ・ムーンセット)の本領──本能ではなく理性によって行われる、未来予知じみた完全予測。

今この瞬間、岳深はあらゆる面で4人の頂点に立っていた。


◆ ◆ ◆


物心ついた時、呑宮は既に勝利者であった。
勝利を約束された少女は、最強の名に相応しいだけの屍の山を築き上げ続け、敗北を知らぬまま呑宮流の後継者として選ばれた。
しかしその栄華は、彼女の心を何一つとして潤しはしなかった。

ただ虚しい。
ただ悲しい。
ただ寂しい。

空虚な勝利を積み上げながら、彼女は只管に渇いていた。
そんな呑宮に転機が訪れたのは、雨の降る夜のことだった。
魔人ですらないただの人間が一人、彼女の命を奪おうとした。

彼は決して、一流の武人という訳ではなかった。
ただ効率的に人の命を奪うことだけを追求し続けた、一流の殺人鬼だったのだ。
手段を択ばぬ彼の牙が、紛れも無く勝利者たる彼女の命に届きかけた時。

呑宮は生まれて初めて、歓喜という感情を覚えた。

死の脅威という甘美な毒は瞬く間に彼女の身体を巡り、いつの間にか彼女自身の理性を侵していた。
一時の油断が死に繋がってしまう、殺人鬼との殺し合いこそが自分の魂を潤すことのできる場所だと、そう考えてしまう程に。

生きる価値、それは死の対価だ。
殺意蔓延る深淵で踊り狂い切ることこそ、己が生まれてきた理由である。


「……全く、茶番ですわ」

鬼ころし、呑宮ホッピーは俯瞰する。
この場における最大の脅威が全身発光露出男であることは間違いないが、それ以外にも無視できない要素が存在していた。

負傷したポーズを取っているヒーローに、無害なトラックのフリを続けている何か。
二人の乱入者は表向きは積極的には関わってはこないが、坦々と、今も二人の隙を伺っている。
特にヒーローの意識が自分に強く向いていることは、常に頭に入れておく必要があるだろう。

自分を殺そうとした人間と、助けた人間。
同じ敵と言えども、敵意の度合いに差が出るのは至極当然ですわねと呑宮は頭の中で一人ごちた。

「……パーティーで酔いたいなら、まずは足の確保が必要ですわね」

岳深の追撃が届かない様に間合いを離し続け、その勢いのままに跳躍した呑宮はトラックの背に着地する。
脅しつける様に荷台を足裏で蹴り、その後トラックが走り出したのを確認すると、彼女は懐から取り出したスキットルの蓋を勢いよく飛ばした。

初見殺しの奥義を初見で防がれている以上、生半可な攻め手はカウンターの餌食にしかならない。

より洗練された技。
より無駄のない加速。
より純粋な殺意。

現実をそぎ落とし続け、理想を越える。
勝利を掴むために、呑宮が取れる方法は2つ。

句を詠むか、酒を呑むか。

「──私は、呑宮流の正統後継者。 ならば当然、決まってますわよッ!!!!」

叫ぶと同時に、吞宮は酒を一気に呷る。
スキットルとは、アルコール濃度の高い蒸留酒を入れる携帯用の小型水筒だ。
当然、中には彼女が魔人能力を最大限発揮するにはかかせない強い酒が入っている。

焼け付く咽、燃え上がる胃。
思考が溶け出すほどの熱が、吞宮の身体中を駆け巡る。
一滴も零すことなく中身を全て飲み切った彼女は、空になったスキットルを勢いよく投げ捨てた。

世界は歪み、感情は1秒毎に興奮と沈静を繰り返している。
酔剣によって保障されているのは、武器の性能だけだ。
飛びそうな意識を繋いでいるのは痛みだろうか、それともプライドだろうか?

「……あは」

──知らない。

「アハハ」

そんなことは、どうでも良い。

「ウフフフフッ」

ただ、最高の遊び相手が、そこにいる──


「オーホッホッホッホッホ!!!!」


鬼ころしにとって最も重要なこととは、それだけだ。


揺れる車上で狂った様に笑う少女は、その足取りすらおぼついていない。
彼女がバランス崩した瞬間、彼女を挟む様にして追っていた二つの影が同時に動く。

酔剣、鬼ころし。
その隙が酩酊によって引き起こされたのなら、十中八九それは誘いだ。
膝を伸ばしたまま足元に手をつく呑宮の死角から、鉄棍を振りかぶった岳深は彼女の未来を演算する。

先程までの酩酊から、能力による武器の強化幅は予測できる。
身体的性能も把握しているし、未だ見せていない吞宮流の奥義も想像が可能だ。
彼女がヒーローの対処を捨ててこちらに全力を注いだとしても、今の自分ならば99%捌き切れる。

「そんな馬鹿な期待に、かけるとでも思っているのか」

──1%の可能性。
どれだけの不純物を排除しても残ってしまう、運の領域。
ラプラスの悪魔は、それを許さない。


「月光が/届かぬ梅雨も/またいつか」


「この俳句に込められたのは祈りです。 梅雨の季節には暗夜が多く、足元ひとつ見えない不安が感じられます。 ですが、いつか雲は晴れ、月が見える時がくる……その祈りを表現されています。 梅雨はいつか開き、潮騒の季節が訪れます。 しかし、"月光のプリンス"である間は、その光が大切な者を照らすことは無いのでしょう……つまり、割れた過去に蓋を閉じ、群青の未来に約束を交わす──二律背反の感情を震わせている良い句です。 ですが、本懐たる希望に寄り添える表現を忘れてはいませんか? 73点」


「──これで、100%だ」

二度目の発句と、詩徒による更なる強化。
最早、ここに居る全員を敵に回したとて勝負にならない程の絶対的な身体性能。
圧倒的な暴力によって盤面の詰みを読み切った男の耳に、僅かに少女の声が届く。



「──詠んだな、(わたし)の前で。 二度目を」



呑宮流とは、あらゆる武器を自在に扱う武闘術だ。


「殺め裂く/夢も希望も/(みなごろし)


句を詠むか、酒を呑むか──当然、どちらの武器も利用するに決まり切っている。


◆ ◆ ◆


まるで耳の中を芋虫が這っているかの様な気持ち悪さ。
鬼ころしの詠んだ句を聞いた時、岳深の全身を寒気が走った。

低評価の句を詠んだ様に見せかけ、高得点を取るか──彼女が狙っているものは、間違いなくそれだ。
現状この場で岳深が唯一読めない物が詩徒の効果であることから、効果幅のギャップを利用した不意打ちは確かに効果的である。

しかしそれは〝点数毎に起きる効果の程度〟を読み違った時に通る一手である。
良い句か悪い句かの判断ならば岳深にもある程度可能で、後はそれに色を付けた評価を降すだけで岳深が負うリスクは0になる。
つまり、今彼女が行っていることは何ら意味のない一手なのだ。

鬼ころしが詠んだ詩には、季節の概念が無い。
伝統俳句のルールから逸脱したそれは川柳と呼ばれるものであり、俳句ではない物が俳句として高く評価されることはまずありえない。

しかし、そう見えるだけでこの詩は間違いなく俳句である。
1度目の発句で岳深は白菖蒲の花言葉を使った詩を詠んだ。
そこに菖蒲(あやめ)の花言葉である〝希望〟という言葉をあえて使う事により、〝殺め裂く〟から〝菖蒲咲く〟を連想させようとしている意図がこの句からははっきりと読み取れる。

季語の概念がそこに存在するならば、これは川柳ではなく無季俳句として詠まれているということになる。
鬼ころしが狙っている評価のギャップとは、これ以外に考えられない。

問題は、これが俳句として評価されたとしても70点に至らないということである。
どれだけハイコンテクストに詩を読み取ろうとしても、それ以上に隠された物は存在しない。
今の自分が読み取れないのならば、そもそも間違っているのは──

「────」

──前提。

この詩徒という能力が、夏子先生という評価基準が。
俳句とは似て非なる、何らかの異なる価値観によって構成されているとするならば。


この詩は、70点以上に届きうる。


地面を蹴った岳深の足が空中に浮くまでの、僅か一瞬。
岳深家族計画は高速思考によって、違和感の答えに辿り着いた。


「──91点」


──そして。
その一瞬で、鬼ころしの振るう刃も、また。


自身の血を浴びた鬼ころしを、無感情に岳深は眺めていた。
オラクリンを浴びた彼女は剣を振り切った姿勢のまま動かず、大きな隙を晒している。

しかし、岳深がその隙を突くことはなかった。
既に彼の首と胴体は離れており、思考を司る脳が宙を舞い、意識と色彩が失われていく。
走馬灯は必要ない。暗闇の中であろうと、帰巣本能が最期の一息を迎え入れる。

ハジメ。ミライ。ハツ。イツカ。

「ただい──」

ごとり。
肉の塊が地に落ちて。

返り血に染まった少女の意識が過去から現在に戻るまでの数秒。
オラクリンの性質を知らないウトラクとリチャードが、警戒から動きを止める中。


『夏草や/兵どもが/夢の跡』


倫理の無い悪意(無能力者の殺人鬼)だけが、その隙を見逃さなかった。


◆ ◆ ◆


『ウトラクさん。私、分かっちゃったッス。 このゲーム、必勝法があるんスよ』
『今君ゲームって言った?』

助手席ではしゃぐ月の提案に対し、ウトラクは呆れ顔で言葉を返す。
鬼ころし、呑宮ホッピーが岳深家族計画の首を落とす少し前。
ただのトラックのフリを続けながら、二人は目の前の魔人達を如何にして殺すかを話し合っていた。

『まあまあ、そこは何でも良くて……とにかく、高得点の俳句を取る方法に気付いたんスよ』
『ほう、詳しく』

興味深げに相槌を打つウトラクに、月は人差しを立てながら説明を続ける。

『評論家とは、何を基準に批評してると思います?』
『情緒とかリズム感とか、評価点の軸が各々にあるって印象だけど』
『違うッス。 評論家とは、その分野の〝歴史家〟なんです』
『……まあ、続けて』

ウトラクは月の言葉に首を傾げながらも、話の続きを促す。
月はそんなウトラクに、立てた指先をクルクルと回しながら解説を続けた。

『何が〝良い〟とされていたか。 評価されたモノがどう受容されているのか。 人が何かを感じる時、それは必ず文化や環境、価値観に影響されてます。つまり、そういった過去を集めて体系化して、初めてできるのが批評なんッス』
『ええと、どういう俳句を詠めば良いって話?』
『何が良いかを過去から学んでる以上、過去に良いとされている句を詠めば良い筈っス。 やっぱり定番は松尾芭蕉ッスかね……あ、ウケたいなら夏子先生が過去に詠んだ句を自分で批評させたら面白いと思います』

月は自信満々にそう結論付けながら、とても戦場とは思えない軽口を叩く。
……これはおそらく、彼女なりの気遣いなのだろう。
人を殺そうとしていると感じさせない様に、あえて必要のない言葉を選んでいるのだ。
だからウトラクもそれに合わせて、彼女の善意に甘える。

『その笑い、邪悪じゃない?』
『でもNOVAの客層って人殺しを楽しんでるカスですよ』
『カス代表が言うと説得力があるなあ』
『ギャヒ!』

そうやって二人が作戦を練る内、遂に呑宮と岳深の決着が付く。
トラックの上から目にも止まらない速度で跳んだ少女は、武器を振り切ったままの姿勢で動かない。
だがしかし、トラックから一跳びで数mの位置を攻撃したということは、当然あの位置から一跳びでこのトラックを攻撃できるということでもある。

『まず距離を──』
『今ここで詠むッス!』

二人が真逆の判断を降す。

暴走トラックは戦闘力に長けた魔人には通用しない。それが月の見立てである。
無難な判断をする弱者が、最も狩り易い。
このレベルの戦場で生き残りたいならば、必ずどこかで無理をしなければならない。

月が鬼ころしの異変に気付けたのは、過去に彼女の闘う動画を見たことがあったからだ。
しかし、今は一瞬ですら惜しい状況である。自分が抱いた違和感の理由を説明している暇はない。
ウトラクの顔がこちらに向くのを視線の端で感じた月は、自分で俳句を詠むことを選んだ。


『夏草や/兵どもが/夢の跡』


詩徒を発動させた俳句は、批評するという性質上範囲内でどの様な句が詠まれたのかを効果対象に知らせる。
例え本来生者には届かない魂の声で詠もうが、発句はバレてしまう。

危険性の低さによって見逃されていた立場。
一度俳句を詠んでしまえばそれは全て崩れ去り、今度は逆に優先的な排除対象となってしまうだろう。
それだけのリスクを孕んだ一手。2人と1台の運命を賭けたその句は、最悪の結果をもたらした。


「0点。 正直、批評する気も起きません。 他人の評価された俳句をそのまま使う。 人の褌で相撲を取って恥ずかしく無いのですか? 自分自身が感じた物を、自分の言葉で表現するから意味がある。 自分に価値を付けられない人間に、私が価値を認めることはありません」


『ほぎゃーーーーーーッス!!!!!??』


突如、月が頭を抱えながら叫び声をあげた。
詩徒で10点以下を取った場合、ペナルティには死の危険性がある。

0点。

月と言えども、この状況を理解して絶望しないことは不可能だった。

『あっ……あた! あたま! 頭が溶けてるッス!! ウトラクさん、私、食べられてますゥ!!』
『なんで、能力が……』

狼狽する月の言葉に、ウトラクも自分の能力が殆ど使えないことに気付く。
魂喰いの暴走トラックと二人の魂の関係は共存ではなく、一方的な寄生だ。
ウトラクの能力が弱まった今、特に暴走トラックと敵対していた彼女の魂は優先的に排除されるであろう。

『目が! 目がオシャカになったっス!! 助けて下さいウトラクさん!!』
『落ち着け! 魂の構造は人体と同じじゃない。 ただ魂が生前の姿を取っているだけだ!』
『何か喋ってますかッ? 耳も消えて、もう何も聞こえないッス!!』
『月ちゃん! 月ちゃん!』

ウトラクがただ狼狽えているだけでも、どんどんと状況は悪くなっていく。

『ああ、死にたくないッスゥ!! というか、こういう時って足元から消えてくもんなんじゃないんスかァ!? 頭から食べたら一瞬で会話ができなくなっちゃうでしょうが! 分かれのシーンは〝さよな──〟って最後の言葉も言い切れないまま消えるから良いシーンなのであって、今のままだったら首から下が残ってただ気まずくなるだけじゃないッスか?? こんなことなら手話を習っておけば……あっでもウトラクさん手話知らなそ────』

『もしかして結構余裕ある?』

命の際、最期の言葉すらも少女はしまらない。
ウトラクにとっての人生の価値とは、彼女の生だ。
彼女がどれだけ軽く振る舞おうとも、死因が事故だとしても、それだけは仕方ないでは済ませられない。

『だが……クソッ』

今この状況から生き残るためにするべきハードルは、彼女が食べられていることだけではない。
露出狂の男を一瞬で葬り去った少女は既に硬直から復帰しており、いつこちらに向かってきてもおかしくない。

『消化されている月ちゃんに、奥の手がバレた二人の魔人。 そして、高得点を取る俳句の用意──俺は……何から解決すれば良い!?』

ウトラクの言葉に応えられる者はもう居ない。
全て解決しなければならないのに、今の自分には一つとして解決することができない。

ウトラクはつい先日まで、裏の世界すら知らないただの一般人だった。
何の覚悟も持たないまま、ただ藁を掴んだ結果ここに居るだけの魔人でしかない。

絶望的なまでに詰んでいる状況を前に、ウトラクは無力感に打ちひしがれた。


──無力だ。


『……でもそれは、いつだってそうだ』


言葉も届かない少女の、手を握る。
負い目もないまま彼女と接していられるのは、彼女がマイナスの世界に落ちた自分を、マイナスのまま受け入れてくれたからだ。

反射とはいえ、あの時自分は何の面識もない彼女を助けるために死ねた。
だから今なら、意思でもって彼女を助けるために死ねる筈だ。


『──切り変えろ』


それは本来、彼が現実から逃避するための言葉だった。
ウトラクはそのスイッチを、現実に立ち向かうために押し込んだ。


◆ ◆ ◆


──人生とは、産まれた瞬間に詰んでいる。

それが、防鼠ウトラクという男が死を理解した時に辿り着いた結論だった。
命に永遠は無い。形を持って生まれた以上、必ず滅びというものが存在する。
故に、自己の生存を命題としてしまった生命は、産まれた瞬間に詰んでしまっているのだ。

ウトラクはその無力感と絶望に襲われる度に、考えないことで問題を先延ばししてきた。
死と向き合うことは、ウトラクにとっては何よりも恐怖だった。

彼の脳は常に自分を最大の価値として勘定する。
どれだけ善人の様に振る舞おうとも、どれだけ集団の利を追求しようとも、自分を通してしか世界を認識できない自我と言う欠陥が、生きることを何よりも尊ぶのだ。

受け入れられないならば、狂うしかない。
無意味で不条理な生にすり減る理性が狂気を受け入れられる様に。
それだけを考えながら、彼は無価値な人生を歩んできた。


「危ない──」


ウトラクが死んだ日。
反射的に動いた身体がトラックの前に飛び出し、避けられない死を目前にした時。
あの瞬間、ウトラクの自我は遂に自己の生存を諦めた。
しかし、彼に後悔はなかった。むしろ、幸福だった。

自分以外に価値を感じることが初めてできたのだ。

世界で最も価値のあったものを犠牲にして救った命。
命を賭けて救った少女こそが、ウトラクの世界で最も価値のあるモノだ。


──ああ、やっと。
やっと、救われ(狂え)た。


『火の車/負に負をかければ/水も炎ゆ』


「追い詰められた人間が無茶苦茶をしているということでしょうか。 確かに事実そのままを詠んだだけでは俳句ではなく報告ですが、575全ての部分を比喩で表現してしまうと非常に分かり辛い句になってしまいます。 〝水も炎ゆ〟の語感は良いので、ここを残して考えてみてください。 50点」


『水も炎ゆ/ヒーローも炎ゆし/女も炎ゆ』

「確かに私は〝水も炎ゆ〟という表現を褒めましたが、それは何でもいいと言う訳ではありません。 料理を少し褒めたら次の日から毎日そのおかずが出て来た時をイメージしてみてください。 はい、悪い訳では無いのですが、もう少し考えて欲しいと思いましたね。 私もそう思っています。 30点」


『炎炎炎炎炎/炎炎炎炎炎炎炎/炎炎炎炎ゆ』

「……ふざけてますか? はい、ふざけてますね。最後だけちゃんと〝炎ゆ〟にして季語を入れようとしてる辺りが余計に腹が立ちます。これは40点……40点!? 貴方もしかして頭おかしいんですか?」


『高得点の名句なんて一つも詠めない。 でも、影響力の大きい句を詠むだけなら楽勝だ……カス俳句なら、考える必要すら無いんだからなァーーーーッ!! 理解してるか、シロォ!!』

繰り返し詩徒を発動させ続け、だんだんとハイになっていったウトラクは勢いのままに暴走トラックの名を叫ぶ。

俳句で0点を取った月へのペナルティは、ウトラクの能力の弱体化という月にとって最も有効的な現象となって現れた。
詩徒によるペナルティが詠み手と状況に応じた形で与えられるのならば、シロと運命を共にしているウトラクの魂がペナルティを受けることになった場合、トラック本体に害が及ぶペナルティが選ばれる可能性が高い。

『予想が正しければ、ペナルティでこれから水族館が俺には対処できないレベルで滅茶苦茶になる。だからシロ、乗り切れるのはお前しかいない』

凡人が世界一足の速いアスリートの身体を奪ったとしても、その凡人が世界一の速さで走ることは不可能だ。
最も身体を動かし方を知っているのは本人であり、その関係はウトラクと暴走トラックの2者においても同じである。

ウトラクに月の消化を止めることはできない。
ウトラクに二人の魔人と闘う力はない。

これらはどちらも、ウトラクがやる必要の無いものだ。
なんせ、シロが協力的になるだけで全てが解決する。

『……お前が、何故か俺の事は食べようとしていないことには気付いている。 だからもし、俺に価値があるんなら……俺を、助けてくれ』

無抵抗な魂ならば一瞬で食べてしまえるこの暴走トラックが、能力に目覚める前のウトラクを食べなかった理由は分からない。
分からないが、この暴走トラックがウトラクに価値を感じていると言うのならば。
いつかはウトラク達とシロの関係が共生になることも不可能ではない筈だ。

ウトラクの言葉を聞いて、停止していたトラックが動き出す。
ハザードランプをかちかちと鳴らし同意を示すシロに対して、ウトラクは心から感謝の意を示した。

『月ちゃんを食べようとしたりヒーローの能力範囲外に出ようとした瞬間に0点の俳句を詠むからな』



  ---- ・- ・--・ ---- -・- ・-(こいつこわい)



「リアリィ?」

ペナルティの発現は、トラックの操作権がシロに譲られてすぐに起こった。
メインコンテンツとして展示されていた架空の鮫──それらが水槽から飛び出し、タイル床の上を跳ねながらウトラク達を襲い始めたからだ。

二つの頭を持つサメ、ツインヘッド・シャーク!
身体に台風を纏ったサメ、トルネード・シャーク!
既に死んでおり魂となったサメ、ゴースト・シャーク!
人の声を真似して誘うサメ、サイレン・シャーク!
巨大タコと合体したサメ、シャークトパス!
鼻先が高速で回転するノコギリザメ、チェーンソー・シャーク!

ポップな書体でサメの種類を紹介していた看板は脱走したサメ達に一瞬で破壊され、〝サメと遊ぼう!〟の文字だけが寂しく残されていた。

大脱走を行ったサメ達は見境なく2人と1台を襲っているが、ペナルティの対象であるウトラク達には特に多くのサメ達が集まっている。
シロはそれらのサメを器用に跳ね殺しながら、二人の魔人から攻撃を受けない様に距離を取り続けていた。

鬼ころしと呼ばれている少女が発句で得た強化はあの一瞬にのみ集約された物の様で、現状は受けに回れば何とか致命傷は避けられる。
耐久勝負になれば、相手が魔人と言えども鮫の魂を捕食できるトラックに分があるだろう。
しかし、呑宮もリチャードも戦闘に長けた魔人である。彼等の体力が尽きるよりも早くサメが尽きることは間違いない。

故に、シロがウトラクから操作権を譲られて最初に取った行動は、仲間を呼ぶことだった。

「また暴走トラック!? ここは! 水族館ですわよ!!」

鬼ころし。
この場で最も強い魔人能力者である彼女を殺すために、シロは警報フェロモンをマフラーから出して浴びせていた。

今宵、池袋にマーキングされている人間は一人もいなかった。
つまりそれは池袋中の暴走トラックが、彼女一人を襲い続けるということであり。

『ハハ…… こんな光景、地獄でも見れないな』

窓から外を眺めていたウトラクは、運転席からそう呟いた。
魔改造されたサメと暴走トラック達は次々とガラスを粉砕しながらこの空間にエントリーしていく。
あるものは一直線に鬼ころしの元へ向かい、あるものはウトラク達を襲おうと地を泳ぐ。
果てには共食いをしているトラックとサメすらも現れ、水族館は阿鼻叫喚の場と化していた。

「っしゃらくせえですわあッ!!」

数分の時間が経ち、それでも減る素振りすらも見えない状況に呑宮が雄叫びをあげる。
既に持っていた武器は全て使い物にならなくなっており、今や殺したサメ、トラックを武器として振り回して戦っていた。

「私確かに強ければ何でもいいですけどッ! なんぼなんでも! 数が多すぎて……食傷気味ですわよッ!!!」

質より量と言わんばかりに、わんこそばの如く敵が湧いてくる。
俳句を詠んで一掃しようにも、70点以上を取るためのモチベーションが今の鬼ころしには無い。
露出男クラスの相手さえ居れば──そう余韻に浸ってしまう程、彼との一戦は良かった。

「……そう言えば。 もう一人、居ましたわね」

ずっと影を潜めていたヒーロー姿の男。
登場時に事故があったとはいえ、その所作は素の実力だけならば自分と同じ領域に至っていることを容易に想像させた。
ならば今夜のデザートは、彼以外にありえない。

呑宮はチェーンソーで真っ二つに割ったトラックを蹴り飛ばしながら、周囲を見渡してリチャードの姿を探した。
詩徒のルールが適用されている以上、まだ近くにいることは分かる。
しかし、彼の姿はどこにも見当たらなかった。

「気配で探すのは……無理ですわね」

館内は既に血とオイルと肉と鉄が積み重ねあげられ、とても何かを探し出せる様な状況ではない。
詩徒の効果範囲を利用して、おおよその位置を掴んでから地道に探すしかないだろう。
そう考えながら吞屋が鼻の潰れたサメを投げ捨てた時だった。

「夏の夢/空に絵を描く/鮫と車」

背後から聞こえるヒーローの発句。
咄嗟に振り返った吞屋は、それが鮫の声真似(サイレン・シャーク)だったことに気が付いて、表情を歪めた。

「しまッ──」
「下、デス」

死体の山に潜んでいたヒーローが伸ばした鋼線に足を取られ、そのまま呑屋は引きずり倒される。
どうにか頭だけはガードしたものの、腰から下は完全に固定されてしまっており、動かす事すらできない。
そんな彼女の上に、リチャードは馬乗りになって拳を何度も振るった。

リチャードの一撃はどれもが重く、その全てが急所に叩き込まれる。
辛うじて防いでいた致命打が段々と通り初め、咽、腕、肩と吞屋の武器は順にへし折られていった。

確かに呑宮流第25代後継者、鬼ころしは"酔剣"が無くとも間違いなく強者だ。
しかしそれは、同じレベルの強者を相手にした場合には通用のしない文句である。
鮫とトラックを相手に闘い続け、激しい運動によって酔いが醒めつつある現状、鬼ころしは眼の前の男を殺す武器を使う事ができない。

──それは、つまり。
リチャードの独壇場だった。

そうしてリチャードが幾度目かの拳を振るった時。
呑宮は突然防御を解き、代わりに伸び切ったリチャードの腕を掴んだ。

呑屋の口は笑みで歪んでいた。
咽は潰れ、既に音は出なかったが、リチャードは確かにその言葉を聞いた。


──貴方も、死ね。


今この場に吞屋を助ける者はいない。
だがしかし、彼女を殺そうとする物ならば、池袋中にいる。


水族館に辿り着き、新たに増えた暴走トラック達が、二人を轢き殺すべく畳みかける様に雪崩れ込んでいく。


◆ ◆ ◆


イエスマンと呼ばれる男、それが俳人575号──リチャード・ローマンだ。
自分を外に出せず、内向的だった少年は親の意向でフットボールクラブに入れられることになった。
しかし、やはりそこでもリチャードの性格は変わらない。
中学を出る頃には常に人当たりの良い外面を取り繕う様になり、誰にも心を開くことは無かった。

彼がこうなってしまったのは、勝者になって当たり前という価値観の家で、敗北者として彼が過ごしてきたからだ。
期待した結果を出さないリチャードに対して両親達は義務感以上の態度を彼に見せず、むしろ弟をより可愛がるようになった。
丁寧にへし折られたリチャードの自尊心が癒えることはなく、彼は逃げる様に日本へ留学することを選んだ。


そして彼は日本で、俳句と出会ったのだ。

「クール……ディスイズ、ジャパニーズHAIKU……」

自分の感じた世界をたった17音の中に閉じ込める表現に、リチャードはすぐに夢中になった。
最初はただ、感じた事をそのまま言葉にしたり、リズムの良い言葉で遊んだりするだけで楽しかった。
それが段々と苦しくなったのは、学校で俳句を詠む同士を見付け、遊ぶ様になってからだった。

「駄目だな。 こんなんじゃあ夏子先生も30点の出来だって言うぜ」
「また俺の勝ちだな、やっぱり外人に日本の俳句は難しいんじゃねえの?」
「知ってるかリチャード? 俳句バトルは負けたら『ハラキリ』しなきゃいけないんだぜ、ハハッ」

自分が素晴らしいと感じたモノに、友人は大したことがないと傷をつけていく。
そうしてだんだんと、リチャードは自分の言葉に自信を持つことができなくなっていった。
HAIKUが趣味であり生きがいであることは変わらなかったが、人に評価されることには強い抵抗感を覚えた。

リチャードが魔人能力に目覚めたのも、この頃だった。

誰かの価値観に評価を付けられることは恐ろしかったが、自分の能力であるためか、詩徒での品評に不思議と抵抗感は少なかった。
リチャードはこれならば、と能力を利用してHAIKUバトルを仕掛ける様になった。

そうする内に、詩徒の評価基準が本来のHAIKUとは大きくずれている事にリチャードは気付いた。
情景描写の上手さや技術点といった配分はそこまで大きくない。
逆に自分が自身の句を大きく評価していれば、それだけで高得点を出してしまえる。

「そういう、ことデスカ……」

詩徒。
これは自分を認められる様になるために発現した能力なのだと、リチャードは思った。


◆ ◆ ◆


HAIKUバトル。
それは負ければ『ハラキリ』をすることになる、命をかけたバトルである。
命を賭けるからには、そのバトルでは自分の人生を17音で表現することになるのだろう。

──未だ、自分には早いのだろうな。

リチャードはHAIKUバトルを挑みながらも、HAIKUバトルに真摯に向き合うことはしなかった。
一方的に発句を行い、相手の俳句を待たずに敗北宣言し、負けても『ハラキリ』を行わない。

それはやはり、彼がまだ自信をもって自分の俳句を詠む事ができないでいるからだ。


『火の車/負に負をかければ/水も炎ゆ』
「50点」
『水も炎ゆ/ヒーローも炎ゆし/女も炎ゆ』
「30点」
『炎炎炎炎炎/炎炎炎炎炎炎炎/炎炎炎炎ゆ』
「40点」

だから。
(ウトラク)が点数を取れないまま命を賭けた勝負に向き合った事に、リチャードは驚きを隠すことができなかった。

例え足りなくとも、今ある物だけを認めて勝負に臨む姿勢。
それは、いつか(・・・)を先伸ばし続けた彼の心を打つには、十分なものだった。

「闘って……みたいデス」

彼とHAIKUバトルをすれば、自分も変われるかもしれない。
自分に自信を持てたと確信が持てる領域に、ここで、自分も──


◆ ◆ ◆


衝突音、そして、轟音──独りのヒーローは、尚立ち上がる。
獰猛なるトラックの群れを跳ね飛ばし、全身を血塗れに染めるも瞳の熱は強く燃え続けている。
片腕という犠牲を払おうと、鬼ころしは確実に殺す必要があった。この日のすべては、この瞬間の為に存在している。

透明だった世界は赤と黒で埋め尽くされ、最早一筋の希望すら存在しない。

────否。

それを見出すのは、人の意思だ。
リチャードの片腕が、闇と死の中に輝く一つの色を指さした。

「先程俳句を詠んでたヒト……HAIKUバトル、やりまショウ」

トラックの中でウトラクは言葉を返さず、小さく頷く。
その瞬間、二人の魂は水族館から概念上の領域──清水の舞台に転移していた。

『……澄んだ緑の、匂いがする』
『この場所が魂をぶつけ合うのに相応しいト、能力が判断したんでショウ』

魂であるウトラクとの勝負を成立させるためか、或いはリチャードが初めて明確にHAIKUバトルを望んだことによる影響か。
──二人にとって、その理屈は最早不要であった。

ウトラクとリチャードの魂は、舞台上で向かい合う様に立っている。
ウトラクの背後には白のトラックが並び、対照的に、リチャードの背後には黒のトラックが並んでいた。

『では、私が先ニ詠みマス』

リチャードが先行を宣言したと同時に、彼の背後でライトが一斉に光り出す。
仁王立ちをするヒーローのシルエットが舞台上に映し出され、それから付けられた装飾とランプが流れる様に点滅していく。
リチャードはそのリズムに乗る様に、はきはきとその句を詠んだ。

『愚図慣れど/覚悟灯して/滝の空』

これまでと違って、夏子先生の採点は起こらない。
代わりに発句された言葉が姿を変え、薙刀の形を取ってリチャードの手の中に納まっていく。
リチャードが握った薙刀を振り下ろせば、彼を照らしていたライトは一斉に消え、舞台上が闇に包まれる。

それから一拍置いて、今度はウトラクの背後に火が灯る。
彼は振り返り、周囲と異なる光を放つ車体に目を向ける。空いた運転席。そして、助手席には顔の戻った月がこちらへと手を振っていた。
1人と1台の声援を背中に受けながら、ウトラクもリチャードに続いて、自分の生を言葉に込めた。

『夏霧を/共に切り裂き/世の果てへ』

薙刀に変形したリチャードとは異なり、ウトラクの言葉はハルバードの形を取る。
HAIKUを詠み終え武器を手にした二人の魔人は、どちらからともなくトラックの上に飛び乗った。

『【俳人575号】リチャード・ローマン』

『【異世界案内人】防鼠ウトラク』

二人は儀式の流れを詩徒によって共有している訳ではない。
ただ魂をぶつけ合おうとしたことによって起きた共鳴が、自然と互いのことを理解させていた。

互いのトラックが発進し、相手に向かって加速を始める。
二人は言葉の刃を振り被りながら、ただ、相手の瞳だけを見据えていた。


『ウトラァァアアアアッック!!!!!!!!!』

『リチャアアアアアドオオオッッ!!!!!!!』


そうして、二つの魂が正面から激突する。
互いの武器は交差し、自分こそが最も尊い物を手に入れたのだと、一の生の価値を相手に問い合う。

あらゆる人生は尊いモノで、それを比べ合う事などできる筈もない。
それでも詩徒は無常に、不条理に、ただ坦々と、数値の差から勝者を導き出す。

その答えは──


『ウトラクサン……私、初めて70点を越えることができマシタ』
『……ああ、良かったな』
『ハイ。 嬉しいデス』

マスクの隙間から、血を滴らせたヒーローが呟く。

『俳句『では』勝てなかったけど、嬉しい、デス』

リチャードは舞台の上で片膝を突く。
マスクを取り、血だらけの顔をウトラクに晒しながら、彼は笑顔で敗北を宣言した。

『──介錯を、お願いシマス』

それからリチャードは手に持った薙刀を半分に降り、両膝を立ててハラキリの姿勢を取った。
彼は眼を閉じた後、3度空気を肺まで通し、それから少しして、一つの言葉をこの世に残した。

575で詠まれたそれに、詩徒は反応しない。
これはきっと、自分に向けられたものなのだろうとウトラクは思った。
ならば、採点するのは──


『100点だったぜ、リチャード』


鈍く、低く。大きな鉄の塊が肉を吹き飛ばした音が、清水の舞台に響き渡った。


◆ ◆ ◆


浴びた血も渇く頃、白銀のトラックは大通りを走っていた。
運転手はおらず、助手席には窓の外を眺める少女が一人。

『んー、眩しっ』

──夜明けと共に、死に包まれていた暗闇が晴れていく。
この宇宙で最も明るいそれが顔を出すと、月は欠伸を一つした。

『いやぁそれにしても。 何とかなるもんッスね』
『……ああ、そうだな』

心ここにあらずといった様子で、ウトラクは答える。
月にとって命に1以外の意味合いはないが、彼にとってリチャードという青年の命は、特別大きな価値を持ってしまったのだろう。

『もしかして、気にしてるんスか? 俳句ヒーローのこと』
『うん──でも、駄目だよな。 俺達は、立派な殺人鬼なんだから』

月が探る様に問いかけると、負い目を感じているのか、ウトラクは目を伏せて返事を返す。
終わった命に想いを馳せること程無駄な思考は無いと月は考える。
だが、殺してしまった人間を貴ぶことは悪い事だろうか?

『まあ、良いんじゃないッスかね! むしろ立派なことッスよ。 殺した相手のことを想えるなんて』
『はは……ありがと。 多分俺、今日の事は一生忘れないと思う』
『気にしないで良いッス。 ウトラクさんが悲しむ役やってくれるなら、私が二人分喜んどくッス!』
『うん、お願い』

月はそうは思わなかった。
何かを特別貴ぶということは、他の何かをそれだけ蔑ろにできるということである。
確かに彼は、今夜轢き殺したヒーローの事を忘れることは無いだろう。



でも、きっともう。



──今朝通学路で引いた少女(ただの朝ごはん)のことなんて、思い出せもしないでしょう?



◆ ◆ ◆



第一夜:我が侭に、我が道を(わがままマイウェイ)



おわり
最終更新:2024年06月02日 20:41