オーレ・ルゲイエ。
善人には楽しい夢を見せ、悪人にはつまらない夢を見せる。ヨーロッパに伝わる夢と眠りの妖精だ。
さて、そんな海の向こうの妖精がみたら飛び切りの『虚夢』を見せてきそうな殺戮の嵐渦巻く池袋に、同じ名前を冠した殺人鬼がいる。
『童話幼鬼』。本名不明、来歴不明、出身地不明、ただ1人の少女と木箱をかぶった少年という姿のみが認知されている殺人鬼。拾う音声はどこも子供らしく無邪気かつ独善的なもので、画面へ映し出される血潮がなければ微笑ましい光景になっていただろう。
彼女たちがオーレ・ルゲイエの読みで呼ばれる理由。それは、その殺しが面白みに欠けるという点にある。
『NOVA』の視聴者はエンターテイメント性に富んだ殺しを求めている。だが、彼女たちの殺しは『殺した』という結果のみがその場に反映される――例えば首を一瞬で切り取るだけのような――『殺し』だ。
そこに美学も、えり好みも存在しない。故に『NOVA』会員たちは皮肉を込めて彼女たちを呼ぶ。
『NOVA』を見る悪い子にはつまらない夢を。いい子ちゃんな自分たちには楽しい夢のような時間を。
童話の世界から飛び出してきたような、楽し気な2人だけの世界。同時に存在する、童話のような無慈悲と残忍さ。
『童話幼鬼《オーレ・ルゲイエ》』。それが彼女たちの二つ名だ。
池袋、大通り。
深夜と言っていい時間帯に、少女と少年はそこにいた。しとしと降る雨が飛び散った血を排水溝へと洗い流していく。先刻までここは血の海だったのだ。
だというのに、2人の服には返り血一つついていない。
「…お兄様。『わたし』そろそろ眠たいのだけど…帰っていいかしら?」
「だめだめ!帰るなら一緒に帰るよ!だから少し待ってね!」
跳ねるように少年は少女のもとへ駆け寄っていく。少年の被った木箱から少しだけ赤がにじみ出ていた。
「今日もお肉のスープに使える材料がたくさんとれたよ!」
「お兄様はスープが食べたいのかしら?そうならわざわざ屠殺場に赴いて調達することなんてないんじゃないの。『わたし』だって買い物くらいはできるんだから」
「いやいや、材料は新鮮であればあるほどいいんだよ。
それは姉さんが一番知ってるんじゃないかな」
「そうかしら。まあいいわ、帰りましょお兄様」
少年は少女の手を握り、2人の幼鬼は走り出した。花壇、街灯、ビルからビルへ。飛ぶように夜の街を自由に駆ける。
「こうやってると空を飛んでるみたいだよね」
「さっきまでいた場所があんなに小さいわお兄様」
「ほんとうだ。空はあいにくの曇りだけど、この町はきらきらしていて綺麗だね。姉さん、大丈夫?しっかり手離さないようにね」
「もちろんよ。『わたし』がお兄様の手を放すことなんてないわ…あ、お兄様。もう着いたわよ」
少女の家は極めて普通の一軒家だ。2人は開け放たれた窓からふわふわと綿毛のように部屋の中へと舞い込んだ。
パキ、と何かが割れるかすかな音。それは、少女が履いていた靴というにはお粗末な木彫りの履物が割れた音だった。割れた靴はサラサラと砂のように砕け、少年の体へと吸収されていく。
「もう壊れちゃったわ。やっぱり普通のお靴を履いていくべきよ」
「いやあどうせそんな長く出ないんだし、帰ってきてから割れたんだからいいじゃないか。何個でも作れるしね」
「そう。お兄様、『わたし』はもう寝るわね。おやすみなさい」
「おやすみ、姉さん――あ、そうだ」
ベッドへ入り既に眠気眼な少女に、少年は覆いかぶさった。
「お兄様?」
「お休みのキスをしてなかったからね。それじゃあお休み、いい夢見てね…姉さん」
少女の唇と少年の口――木箱に覆われていて定かではないが――が確かに重なる。それを合図にしたかのように、少年の体は霧のように消え――
「…今何時だ?」
少女は眼を醒ましていた。
「最近、夜中によく起きてしまうな…頭痛は今はないが…もしかして怖いのだろうか?私ならあり得るな…まあいい」
頭を押さえ、ため息をつく。だが、そんな憂いも一瞬で奥に押し込め、少女は再び布団にもぐりこんだ。
穏やかな寝息を立てる少女の顔は、そのままずっと眠ってしまうのではないかと思うほどに静かで、無垢なままだった。
――ヒロインを永き眠りから眼を醒ますのは
運命のキスだと相場が決まっている――
――五百露呂子が行方不明になった。私が彼女と言葉を交わしたあのあと…その夜に行方知れずとなったらしい。現実味はなかった。確かに、この街で行方知れずとなる人は多い。だが、それが身近な人間から出るというのは…受け入れがたいことだった。
現在殺人事件が多発するこの池袋で、本校の生徒から犠牲者が出たということもあり、当面は臨時休校とするようだ。
「そういえば本を返し忘れていたな…休校になるみたいだし、図書館で何冊か借りていくとしよう」
暇になる、というのは危機感がないと怒られるかもしれないが、家でやることもなく腐るのは私の望むところではない。
露呂子の行方不明が思うよりも精神に来ているのか、今日はあの声が聞こえないのに頭痛がひどい。学校を出る前に頭痛薬を飲んだおかげでそれなりに緩和されているが、それでも気になる程度には痛い。
寝不足だろうか。確かに夜中によく起きてしまうのが原因と言えるかもしれない。全く、最近の私はどこか変だ。
図書館は殺人事件や失踪が相次いでいるからか、人の姿はあまりない。いたとしても本を借りてそのまま帰っていく人がほとんどだ。
私とて長居する用事もなし、返却すべきものを片手に幾冊かぱらぱらとめくる。やはり図書館は落ち着く。静かで、退屈することもない。昔から本は好きだったし、今でも読書はする。何かと哲学書読んでるだのビジネス書読んでるだの言われがちだが、そんなことは無い。ミステリも娯楽小説も普通に読む人間だ。
選別は終わった。借りる本もまとまったしあとはカウンターへもっていくだけ…
だというのに。私の眼はその場にいた異常を見逃すことができなかった。
「あ…れは…?」
図書館の一角。そこだけ世界が違って見えるほどに、異質な空気がその場を支配していた。
黄色を基調としたロリータファッション、つややかな金色の髪と後姿から見ても日本人離れしているように見える美少女がそこにいた。横から垣間見える顔立ちはとても整っており、西洋人形を彷彿とさせる。
どこからどう見ても美人でお人形さんのような、という形容がこれほどまでに当てはまる彼女は、誰か待ち人でもいるかのようだった。
一見外国人の観光客がここで待ち合わせでもしているように見えるかもしれない、そんな光景。しかし、今の池袋は殺人事件の多発する危険地帯だ。観光客がいるとは考えにくい。
日本在住の外国人?いや、今私が彼女を異常と判じたのは純粋に恐怖したからに過ぎない。
恐怖。恐れ怖がること。人に具わった危機回避能力において最も有用であり、同時に足かせとなるもの。私は彼女の後ろ姿を視認したとき、確かに恐怖したのだ。
「…ッぁ」
喉にしたが張り付いてしまったように、息ができない。彼女から目が離せなくなっていた。ふと、彼女が顔を少し動かし――視線が逢った。笑った。無邪気に、笑った。
「―――!」
『姉さんどうしたの――』
「…どうも、何も…!」
ふと頭に響いた声。それはいつものあの幻聴で、だけどそのおかげで私は我に返った。
――逃げる。ほとんど反射で脚を動かしていた。出口と反対方向へ。気付いたときには遅く、私は図書館の中を全力疾走していた。これでは袋の鼠ではないか?
「はぁ…はぁ…何故…私はこんなに…」
『いきなり走り出すなんておっかしいなあ、どうしたんだい姉さん?』
「そうよ、図書館の中は走っちゃいけないのよ。せっかちさんなのね!」
「っ!!」
思わずしりもちをついた。目の前にさっきの黄色いロリータ美少女がいる。
あらためて、目の前でまじまじとその全貌を視界に収める。透き通るような白磁の肌、水晶玉のような瞳、繊細な飴細工のように細く嫋やかな指…どれをとっても、美しいと言わざるを得ない。
どこにも怖がる要素なんて、一切ない。
「…失礼、目の前で逃げるようにしてしまった非礼を詫びよう。すまなかった」
「いいのよ。ところで…貴方が『童話幼鬼』さん?」
「オーレ・ルゲイエ?生憎だが私は夢の妖精ではないぞ。…ああ、私の後ろの本棚に丁度デンマークの幻想生物辞典があるのか。ハハ、私はそんな某探偵のように適当に名前を付けられていないとも」
『そうだね!姉さんの名前はお義母さんが丹精込めてつけた名前だね!』
お前は一旦黙ってろ。
「うーん?じゃあ誰なのかしら…貴女を見たとき『あっ!』って思ったんだけど…乙女の直観はよく当たる物なんだけどなあ」
「人探し、ということだろうか?」
「そんなところよ。ねえ貴女、あちらのスペースでお茶しない?その子がここに来ることは分かってるから、その間暇なのもいやなのよ」
「お茶…いいのか、そんな悠長で。この町は今危険だ。夜になれば外を歩くことだって普通の街の比じゃないくらい危ない」
「大丈夫よ!だって、まだ日没まで時間はあるわ。その間に少し楽しいことをしたっていいでしょう?」
るんるんと、鼻歌でも歌いそうな彼女は飲食可能スペースに腰を下ろし、手際よくお茶とお菓子を並べ始めた。可愛らしいティ・カップと小ぶりなビスケット、どちらも品のあるつつましやかなアフタヌーン・ティだ。
「un deux trois、ほんのすこぉしのお砂糖いれて♪はい、どうぞ」
「ありがとう。これは…疎い私でもわかるほどに美味しいな」
「お口に合ったのなら何よりだわ!うふふ、こうして誰かとお茶をするのは久しぶりね」
「そうなのか。おっと、自己紹介をしていなかった。私はヴィアナ・F・ビスマルクだ。この出会いに感謝を。貴女は…いや、もし言いたくないのであれば構わない」
「クウの名前?累絵空。それより貴女ヴィアナっていうのね!どうヴィアナ、ビスケットはお嫌い?ビスマルクの姓、珍しいのね。もしかしてあの宰相さんと縁者さんだったりするのかしら!」
にこにこしながらクウが話しかけてくる。私は知らない人と話すのは得意ではない。だが、クウと話しているとなんだか苦手意識もなくなるようだ。彼女のキラキラした瞳が、私の向き合い方をまっすぐにしてくれているのかもしれない。
もう、最初に感じた恐怖の感情はどこかへいっていた。
「さぁ、どうだろうか。私は家系図など見たことがないしな…もし縁者だとしても私は彼の宰相の手腕には遠く及ばない。だがそうであったのなら夢のある話だ」
「素敵よね、昔の人とつながりがあるって」
「しがらみになるケースも存在するが、概ね同意だ」
自らの意向で子の行く先を決める者は未だに多い。私の義父は基本的に私の自由にさせてくれているが、母はそうではなかった。
育ちを誇示し、貴族であることを強要し、私にとって彼女と過ごす時間は窮屈な檻以外の何物でもない。だが同時に、あの日いなくなった母の帰りを待ち望む私がいるのも事実だ。…逃れられぬものなのかもしれない。
「クウさんは…ん、なんだ…眠気…?」
「ヴィアナ?」
なんだか眠い。目を開けているのがおっくうなほどに、今すぐ机に突っ伏したい。まさか、彼女の淹れた紅茶に睡眠薬が―――
「あ――アレ、か…」
違う。眠くなっているのは、100%私の行動に原因がある。いくら眠くならないをうたっていても限度があるといえよう。
暖かいお茶とリラックスできる空間、おまけにあの声も聞こえない。ここには、理想的な空間が具わっていたのだ…私は抗うこともできず、机に突っ伏した。
目の前で眠ったヴィアナを見て、クウは小さくため息をついた。
「当たる、じゃなくて…絶対なのよ。悲しいけれど」
ヴィアナは知る由もないが、クウのお友達はそう語っていた。ヴィアナは『童話幼鬼』そのものであり、彼女を野放しにすれば私たちの目的は達せられないと。
こうしておしゃべりして、お茶を飲んで、少しの時間だったけれど、楽しかったのは事実で。だけどクウにはクウのほしいものがあって、アリスも協力してくれている。
だから、こうしていつものように触れて、握りつぶして、無かったことにするの。アリスは、街にいる殺人鬼といわれる人を殺せばいいといっていたから、彼女もその1人なら…クウは、手段を選んでいられない。
だけど、『童話幼鬼』は2人一組。アリスの見せてくれた木箱をかぶった男の子は見当たらない。
彼は何処に行ったの?何よりアリスは2人に悪いようにしないと言っていたし、クウがここでヴィアナを殺してしまったら、それもおじゃんだわ。
アリスの考えを聞いておくべきね。
「アリス、アリス。聞こえるかしら?今ね――」
突然手首にたたきつけられた衝撃と痛みが、クウの思考を遮断した。
あたたかな空気とほのかな紅茶の香りに誘われて、『わたし』は眼を醒ました。
目の前には黄色いロリータ服の美少女が、お兄様の鉈で手を叩き斬られかけている。
「お兄様、乱暴はだめよ」
「乱暴って…姉さん、この子、姉さんに確実に悪意ある触り方しようとしてたよ!」
「悪意なんて目に見えるものじゃないでしょう。ごめんなさいね、お兄様が失礼したわ…ほら、お兄様は速く鉈をどかしてあげて」
しぶしぶお兄様が鉈をどかす。自由になった手を眺め、さらりとお兄様の頭…というより箱を目の前の美少女が撫でた。
「いたた…やんちゃなのね、貴女のお兄様は。ね、アリス。聞こえるかしら?」
「すごい音が聞こえたと思ったら君達か。こんばんは、『童話幼鬼』諸君。来てくれて嬉しいよ」
机の上に置かれたポシェットから小さな美少女が這い出してきた。
水色のロリータ服に身を包んだ小さな小さな美少女。目の前にいる少女と色意外瓜二つだ。
「わ、小さい!かわいいね、この子は何ていうの?」
「お前、人の友達に鉈振り下ろしておいてなかなか図太いんだな。私はアリスだ。見ての通り美少女だ」
「クウちゃんと君がアリスちゃんか!それで、僕らに何か用でもあったのかな?」
あの黄色いロリータ美少女はクウという名前らしい。
「そんなところだ。そっちの君がどうかは知らないが、箱を被った君の願いならかなえてあげられる」
「本当!?やった!姉さん、僕――」
「ああ、君のこの世にとどまりたい願いをかなえてあげよう。君、望みをいつも叫んでるからわかりやすくてよかったよ」
お兄様の体が変貌していく。骨格が、内臓構成が、肌の色が。被った木箱も変貌を遂げ、見目麗しき美少女へと。サスペンダーは赤のロリータ服に。髪は若草色のセミロングに。
少年だった面影はなく、そこには1人の美少女がいた。手にしていた鉈はケーキナイフに。
「あ、え…?」
「美少女は不滅だ、君はこれで晴れていついかなる時でも壊れえない肉体を手に入れたというわけだ」
ああもちろん、とアリスは付け加える。
「肉体的には、ということだが」
それと同時に、しゅんしゅんとお兄様の姿が小さくなる。
ふわふわと宙に浮いていたお兄様はそのままコテンと机の上に座り込んだ。小さな美少女となったお兄様は、状況を飲み込めていない様子で首を傾げ――
そのままクウにつかまった。わしづかみにされた美少女お兄様は呆けた様子でこちらを見ている。
次の瞬間何を思ったのか、クウがお兄様を握る手に力を込めた。
「ああああ痛い痛い痛いよやめああああ!!」
美少女の悲鳴 with全身の骨が折れる音。だが、美少女お兄様の肉体からは血の一滴も流れない。
「痛い痛い痛いやだやめてやだやだやだやだ」
「クウの手を切り落とそうとしたんだ、これくらいは――」
「やだやだやだあああああああ!!」
「…」
握りつぶされるたびに美少女の悲鳴 with全身の骨が折れる音が響き渡る。
こんな状況だというのに図書館内部の人々はいたって正常だ。
とはいえ、お兄様も人が悪い。
「…お兄様。遊ぶのもほどほどになさって?せっかくのティ・タイムをそんなもので彩らないで頂戴」
次の瞬間クウの手の中にいたお兄様が一瞬で巨大化し、元の姿へ戻った。
木箱も、サスペンダーも、傷や汚れの一つない。
「はぁ――!はぁ――!姉さん…!」
「お兄様、『わたし』がお兄様をどう思っているかなんてわかっているでしょう。あんな風に蟲のような姿をさらすなんて、私たちはビスマルク家の子供なのよ?」
「姉さんが助けてくれなきゃ僕は――!」
ああなんて可愛らしい。息を荒げて――最も箱を被っている以上よくわからないが――熱弁するお兄様。
なんでもできるのに、そんなウソを言ってしまうなんて。
「さっきはお兄様が先に手を出していたし、これでお相子ね。もう少しお茶しましょう、幸い、茶葉の持ち合わせは」
『わたし』がバッグの中身を探ろうとしたその一瞬で、クウが『わたし』に触れようと手を伸ばしてきていた。
何がしたいのかは分からないけれど、『わたし』もその手を取ろうとティ・カップから手を放す。だけれど2人の手が触れ合うよりも先に、お兄様がクウを蹴り飛ばしていた。
本棚をいくつか巻き込んで、クウは図書館の奥へ飛んでいく。
「はぁ、お兄様。本は大切に扱わないとだめよ。それに、何人か押しつぶされちゃってるじゃない」
「姉さんはすこし危機感もってよね!…まあいいや、おーい!館内にいる人逃げたほういいよ~!これからちょっと暴れるから~!」
大声を張り上げるお兄様。だけれど、周りの人たちは動こうとしない。
「おー坊主がんばれよ~」
「図書館では静かにね~」
「こっちは善意で警告してるのに~~!じゃあ姉さんはそっちの子よろしく!」
「だそうだけど、『わたし』は何をすればいいのかしら。
そうだわ、クウちゃんが残してくれた茶葉もまだ残っているみたいだし、ティ・タイムの続きをしましょうアリスちゃん」
クウの用意していったティ・ポッドにお湯を注ぎなおし、本日2杯目の紅茶をいただく。
最近はあまりいい茶葉が買えないから、このような美味しい紅茶は久しぶり。淹れ方もいいのでしょう。
「アリスちゃん、貴女はどういうお菓子がお好き?」
「マカロンだ。フリルの付いた小ぶりなアレは実に少女趣向の可愛らしい菓子だろう?今は持ち合わせがないがね」
「素敵ね。私も好きよ、マカロン」
自分で作ったことは無いけれど、今度作ってみるのもいいかもしれない。お菓子作りは乙女の嗜みだもの。
そんな私の横で、本棚がドミノ倒しのように倒壊していく。一緒にグワラゴカキーンとクウも吹っ飛んでいく。当然本を選んでいた人も巻き添えね。
でも流石お兄様、しっかり本だけは抜き取って机の上に置いているわ。
「しかしだな、私の能力が解除されるとは意外だ」
「能力?よくわからないけれど、お兄様は身長132㎝で体重24kgで男の子なんだからそれ以外のお兄様はお兄様じゃないわ。でもロリータ服ってかわいいわよね、私も着てみたいわ」
「なるほど、クウがいつもより渋っていたのは君に共感したからか。だがうん、わかるよ。君は素材が悪くない、そのまま着せてあげたいくらいだ」
小さな手でビスケットを食べているアリス。両手を使って食べているのが何とも可愛らしい。
「そういえばアリスはどうして私に接触してきたのかしら。なんだか意味ありげだったわよね」
「私たちには私たちの目的があるのさ。そのためには、あのイカレたサイトの豪華賞品とやらが必要なわけだ。最後の1人になればそれは私たちのものになる」
「豪華賞品?そんなものがあるのね。私はお兄様のしたいことをしてもらってただけだからよくわからないわ」
「全く、それなら早々にこの狂宴からは手を引いてほしいがな…おっと、随分と吹っ飛んできたな」
くるくると回転して飛来した鉈が『わたし』の目の前を通り過ぎた。お兄様の鉈がクウに弾かれてこちらに飛ばされたみたいだわ。
数秒遅れて目の前の机にお兄様も落ちてきた。机がへし折れ、広げられていたお菓子と本が床に散らばっていく。もったいないわ。
ちなみに机の上に座っていたアリスはぽーんと飛んで対面の椅子に座り込んでいた。
「っぐ…」
「お兄様、もう少し理知的に行きましょう?お話すれば分かってくれるかもしれないわ」
「姉さんは少し危機感もって!僕は潰されようが斬られようが死なないけど、姉さんは人間なんだからさあ!」
「君ね、私たちの目的のためには君達にいられると困るんだ。話し合うにしても私たちが手を引く条件は君たちのリタイアだ」
「だから、ね?ここで引いてほしいの、■■■■!」
クウがお兄様を追ってこちらへと向かってきている。その速度はさっき突っ込んできたお兄様と同等レベルで早い。
誰の名前を呼んだのか分からないし、クウ自身も誰の名前を呼んだのかわかっていない。そんな困惑した表情が見えた。
「それはできない相談だね、僕はずっと姉さんの夢に寄生し続けるなんていやだからさ!」
お兄様は被った箱に手を突っ込み、そこから新たな得物を引き抜いた。赤黒い飛沫と肉片をまき散らしながら小ぶりな斧が姿を現す。
クウがその手にした傘を振り回しお兄様の頭を狙う。傘程度で武器になるとは思えないけれど、さっきお兄様がこちらに飛んできたのも見るとただの傘じゃないかもしれないわね。
傘と斧、明らかな武器としての優位性があるのにクウはお兄様と打ち合っている。
まるで演武のようで見事だわ。紅茶を片手に視るいい演目ね。
「ねえアリス、どうしてクウの傘はあんなに頑丈なのかしら」
「そりゃあ美少女の傘は万能だからな。空も飛べるし敵と戦える」
「そういうものなのね、すごいわ」
けれど、お兄様は負けないわ。なんてったって『わたし』のお兄様だから。
どんなヒトが相手でも、お兄様は乗り越えてくれる。だって私のヒーローだもの。
「傷つかないなんてすごいなあ、ああでも、斬りがいがあるかもね!」
「このドレス好きなんだから汚しちゃいやよ?それにしてもおかしいわ、どうして貴女の名前が思い出せないのかしら!
私の思い出さん、どこか行っちゃったのかしら…ああでもいいわ、貴女があの子なのは分かるもの!」
満面の笑みを浮かべて、傘をふるいお兄様を吹き飛ばす。お兄様は本当に軽いから、美少女の膂力でも十分に投げられるのでしょう。
もちろんお兄様もただ吹き飛ばされてばかりじゃない。空中でくるりと回転し、天井をけってクウへと急降下する。
「いっせーのーせッ!」
掛け声とともに振り下ろされた斧が、クウもろとも床を砕いた。斧と床に挟まれたクウは無傷だ、だけれど、腕に力が入っていないように見える。丁度頭に斧が突き立てられていた。
乱雑に、凶暴に、お兄様の振り下ろす斧が何度もクウへ叩きつけられる。とっても痛そうだわ。でもクウの体からは血も傷も見られない。
「おーいクウ大丈夫か?起きてるか?」
「大丈夫よ!腕が動いてくれないけれど!」
それは大丈夫なのかしら?
「おっかしいなあ全然死なないよ!姉さんこの子凄い頑丈!」
「お兄様、死なないからと言って暴力をふるい続けるのはよくないわよ。命への冒涜だわ」
「あっはは!姉さんがそれいう?」
無邪気に笑いながら斧を振り下ろすお兄様。だけどどこか妙だわ、何か、この建物自体が動いている。そんな感じがする。
お兄様は気付いていないけど、アリスが落ち着いているのも気になるわ。でも何がおかしいのか、何が異常なのか全然分からない。
でも仕方ないわ。この世には分からないことが多いもの、なんでも理解できるなんて傲慢な思い込みね。
「まあなんだ、『童話幼鬼』諸君」
突然『わたし』の前で紅茶を飲んでいたアリスが笑う。いきなりどうしたのかしら。
「詰みだ」
意味も分からなくて私は首を傾げた。そんな私の頭に、天井がぶつかった。
池袋、公園近くにある某図書館。夕暮れ時の何でもないその時間帯に、図書館は圧縮された。
まるで大きな巨人に押しつぶされたように、図書館はぐんぐん縮小し――大体1辺130㎝ほどの立方体くらいの大きさになったところではじけ飛んだ。
「お兄様?」
「―――」
図書館のあった跡地、その中央に、『わたし』とお兄様はいた。今までいたはずの図書館はそこにはなく、あたりには何かに押しつぶされたような血の跡がたくさんついていた。
お兄様は答えてくれない。その体に傷はついていないが、ぐったりとしたまま頭の箱から中身が少し出ている。
「やっと止まったか。流石に建物一つ分の質量を耐えられる想像はできないだろうと踏んで正解だったな」
「アリス!さすがに私でもあれだけのものに押しつぶされるのは久しぶりよ!作戦が無茶なんじゃないの?」
「そうでもなければこのイカレたイベントで勝ち残れないだろ。さて『童話幼鬼』。まだ抵抗するか?」
2人はお兄様がたくさん暴力をふるったから起こっているのね。これは妹たる『わたし』がしっかり責任を取るべきよ。
『わたし』はビスマルク家の長女なんだから。
「抵抗はしないわ。お兄様のやったことには責任を持たないといけないもの」
「素直だな。まあいい、それじゃあクウ、やっていいぞ」
「分かったわ。それじゃあ■■■■。一緒にお茶できて楽しかったわよ」
クウが『私』に手を伸ばす。するりと頬を撫でる嫋やかな指。同時に『わたし』の体が縮んでいく。
どんどんクウが大きくなっていく。いや、『わたし』が小さくなっているだけだけど。
傘を持ち上げたクウ、その石突が『わたし』の頭上に持ち上げられた。これは死んでしまうのかしら。でも、お兄様のやったことを鑑みれば当然だわ。
けれど、その石突が突き立てられることは無かった。
「アリス…これ、何かしら…」
「…私も分からん。クウ、ほどけないか?」
「だめね、ほどけないどころか締め付けがひどいわ。折れちゃいそう」
お兄様の開いた箱からこぼれ出ていた赤い肉塊が、2人に巻き付いていた。傍から見てもその締めあげ方は、確実に骨を折っていておかしくない。
「お兄様?何をしているの?」
「姉さん、2人で僕らの夢をかなえるんだ。だから、こんなところで止まっちゃダメだろ?」
ズルズルと2人に絡みついた肉塊が引っ張られ、お兄様の箱の中へと誘われる。
しかし肉塊が絡みついたクウの体が少しづつ縮んで拘束から抜け出そうとしていた。けれど小さくなるたびに新たに伸びた肉塊が、クウの体を覆っている。
「それに2人は新鮮そのものじゃないか、絶対に腐らない、最高のお肉のスープができるよ」
「お兄様、人を食べるなんて趣味が悪いわよ」
「あっはは、姉さん今更じゃない?」
お兄様、なぜか人の命の話題になると『わたし』へのあたりがきつい気がする。
そんなことよりも、すでに開きかけているお兄様の箱に2人の腰ぐらいまでが入り込んでいる。まるで某探偵シリーズ映画みたいね。
ずる、ずる、バタン。引きずる嫌な音と、箱が締まる無慈悲な音。アリスとクウはお兄様の頭の箱へ、しまい込まれてしまった。
「お兄様、大丈夫なの?」
「大丈夫ってもちろん。僕は姉さんのお兄ちゃんだからね。姉さんが僕を生きてるって信じてくれてる限り僕は無敵なんだ」
「すごいわ、流石お兄様ね」
やっぱりお兄様は『わたし』にとってヒーローだわ。なんでもできるし、『わたし』のことをいつだって助けてくれる。
「あ、もうこんな時間だね!姉さん、帰ろっか」
「そうね。お兄様、『わたし』もう眠たいわ」
「じゃあ帰ろう!あ、姉さんちょっといいかな」
お兄様が『わたし』を抱き寄せる。まるで王子様みたい。
「お兄様、いきなりどうしたの?」
「おやすみ。姉さん」
「寝ていていいってことね、おんぶしてくれるのかしらお兄さ――」
『わたし』の言葉を遮るように、お兄様の口が私の唇をふさいだ。
びっくりする反面、同時になんだか瞼が重くなってくる。おやすみにはまだ早いし、ここはお外なのに。
けれど本能には抗えない。『わたし』は霧のように薄くなるお兄様を目に、そのまま眠りに落ち――
「ン…頭痛薬のせいで眠くなるとはな…まだ夕方か?早く帰らなけれ…ば…」
私は眠気を振り払うように頭を押さえる。ゆっくりと開いた視界に、更地と化した池袋の一角…というより今まさに私が立っているその場所が目に入った。
そこは更地であること以外は見覚えしかない、先ほどまでは図書館であった場所だ。
「……は?」
『あ、ヴィアナおはようね!突然寝ちゃうからびっくりしたわ!』
『ここはどこだ?というか、なぜ君が隣にいる『童話幼鬼』の片割れ、というかもう片割れは先ほどまで私たちがいたところにいるのか?』
『姉さん~これでいつでも友達と一緒になったね!まさか死なないなんて思わなかったよ』
3人?からワッと話しかけられフリーズする思考。いつも話しかけてきていたあいつはまだいい。よくはないが。
だが他2人は誰だ…?いや、1人は先ほど図書館で会った美少女なのはわかるが…
いやそんなことはどうでもいい。よくはないが。よくはないが!!
「…疲れてるのか。よし、さっさと帰って寝よう」
『じゃあ話しながら帰ろ!』
『賛成ね!こうやってたくさんの友達と一緒だなんて久しぶりだわ!』
『まあなんだ、いろいろあってお邪魔するよ』
何の因果か、私の頭に住人が増えた。すべて私が作り出した人格であるならばそれでよかったのだろう。
だが、明らかに私の記憶にない者もいる。これはもう私の作り出したものではないということだろうな。…憂鬱だ、速く解放されたい。
この図書館跡地で何があったかは、後で調べるとしよう。今は…状況把握も難しい。
「…引っ越すのも考えたいものだな」
平穏な池袋はもうなく、私はただため息をついた。