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ユケムリトラベル(上) 人類五名温泉宿の旅

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ユケムリトラベル(上) 人類五名温泉宿の旅 ◆LxH6hCs9JU



 踏み慣れぬ硬い土。足疲れは普段よりも激しく、鷹が羽ばたく音にもどこか戸惑いを感じられる。
 前を行く姫路瑞希。忍者でもない、どころか“やんごとなき”身分である可能性すら高い女性の歩は、また頼もしい。
 後ろの筑摩小四郎。伊賀甲賀あいまみえる忍法合戦の中途において、不覚ながら盲となった男は、この地でも暗闇に縛れていた。

 時折空に舞い上がり、またふらりと男の肩に降り立つ、といった挙動を繰り返す鷹はともかくとして、
 筑摩小四郎と姫路瑞希――生きた『時』を大きく違える男と女の間に、会話はなかった。
 忍法殺戮合戦、試召戦争、どちらを経た身とて異常極めるこの『座盗り遊戯』。
 直接的な要因はなかれど、誰もが奇異を感じ危機を自覚している。
 この二人も、また。話題がない以上に、緊張からの無言が。

「――明かりが」

 と、前を行く姫路瑞希が久々の言葉を切った。
 と同時に足も止め、後ろの筑摩小四郎といえば、鷹を飛ばせ周囲を探る身構えだ。

「どうなされたか、瑞希どの」
「懐中電灯の明かりが……前のほうに、誰かいます」

 耳慣れぬ単語に、筑摩小四郎はまったくの理解も得られなんだが、気配だけで前に誰かがいるとわかった。
 数は、ひとつ、ふたつ。姫路瑞希を除いた新参者が、やはり姫路瑞希と同じように己を“曝け出している”。
 なればこそ、盲の身である筑摩小四郎の目にも、それが映る。
 気配を断ち、また断たれた気配を探るが忍の日常。
 鷹を飛ばすまでもなく、筑摩小四郎はそれを知り、問うた。

「何奴か……朧さま、よもや天膳さまではあるまいて……」
「こっちに向かって手を振っています。二人……います」

 盲である筑摩小四郎に、前方の人影二つが取る挙動までは見えない。
 闇夜に両の眼を凝らした姫路瑞希が、それを代わりに見て伝えた。

 それは、どちらも知らぬ男と女であると。
 それは、極めて好意的にこちらを手招きしていると。



 ◇ ◇ ◇



 街中に構える温泉施設、そこはえらく風変わりな場所だった。
 銭湯なみの大浴場を完備し、天然の露天風呂まで備わっている、さらには宿泊施設としての客間も少し。
 自動販売機やマッサージチェアといった備品も過不足なく置かれたそこは、現代の労働者を標的にした極上の娯楽施設。

 普段なら出歩かないような夜の街々を数時間ばかり放浪したが、この“舞台”がどこかはわからなかった。
 一回りして、どこにでもありそうな街並みであったと感想を抱くのは――姫路瑞希である。

 文月学園高等部に在籍する彼女の故郷は、田舎とも大都市とも言うほどではないごくごく平凡な町である。
 道先の看板の表記などが日本語であったことから、ここは日本のどこかでは、と漠然と当たりをつけてはいたが、
 それがあまりにも浅はかな、今という非日常では既に通用しない、過去の常識なのだとこの邂逅で思い知らされる。

「AS(アーム・スレイブ)……学園都市……私も記憶にありませんね……」

 神妙な面持ちで座布団の上に正座する瑞希。彼女の周囲には、他にも二つの座布団が置かれていた。
 そこに座るのは、同年代の男子と女子が一人ずつ。どちらも、つい先ほど出会ったばかりの人間だ。
 三人の中央には卓袱台が置かれている。床は真新しい畳が敷かれており、壁際には襖まで確認できる。
 まるでFクラスの教室を思い出させる(比べればこちらのほうが綺麗だが)ここは、温泉施設の宿泊用客室。畳部屋だった。

「文月学園だったか? 試験召喚システム……そんな画期的な教育を取り入れいてる進学校、俺も聞いたことがない」
「私も右に同じ。ASや学園都市っていうのも知れ渡らないような話じゃないし、みんなの認識に齟齬があることは明白ね」

 この“舞台”が段々と時計回りに消失していくというのなら、人が集まるのはやはり中心部。
 そう考えた瑞希は、筑摩小四郎を連れ添い、南の海岸寄りから北の町を巡り歩いていた。
 その道中、恐れを知らぬ懐中電灯のアピールにより、瑞希と小四郎の二人はここへと招かれたのだ。
 瑞希と小四郎が招待客なら、温泉の主は現在瑞希と話し合いを進めているこの男女である。

 詰襟タイプの学生服を着た、知的な印象を漂わせる眼鏡の少年の名前は、北村祐作
 青を基調としたセーラー服を着る、ポニーテールの似合う少女の名前は、朝倉涼子。

 二人は友好的な態度で瑞希と小四郎を温泉に招き入れ、ぜひ話を聞きたいと持ちかけてきた。
 安心した、というのが瑞希の正直な感想である。
 共に学生であるらしい北村と朝倉の“普通”な雰囲気が、緊張で張り詰めていた気持ちを弛緩させた。
 小四郎はやや戸惑い気味だったが、瑞希にこれを断る理由はなく、誘われるがままここに腰を落ち着けたという次第だ。

「拉致されたときに、頭の中身でもいじられたとか? なんだか怪しいよね、このへんの食い違い」
「ゾッとする話だな。普段だったら笑い話だろうけど、今がもう普通じゃないからなぁ」

 まず手始めに、三者が所有している世間的常識の照合を済ませた。結果はやはり、曖昧なままだ。
 姫路瑞希が在籍する文月学園は、『試験召喚システム』という制度を試験的に採用している、有名な進学校である。
 試験召喚システムとは、科学と、偶然と、オカルトによって生まれた未知の産物であり、
 多くのメディアから注目されてはいるが、県を跨いだ他校の生徒からして見れば、知名度はまだまだ低いかもしれない。

 だが、今は別行動を取っているという北村の仲間――上条当麻の言う『学園都市』や、千鳥かなめの言う『AS』などは別だ。
 東京の三分の一を占め、外部と隔離されたその一帯が一つの巨大都市として確立している事実など、瑞希は知らない。
 戦車や戦闘機にかわって、人型機動兵器が軍事運用されている事実など、瑞希は知らない。
 北村や朝倉も同じく、しかしこの二人は『試験召喚システム』についても知らない。

 明らかな情報の齟齬は、いったいなにを意味するのだろうか。
 朝倉の言うように、脳内をいじられた可能性とて否定できない不一致が、瑞希の頭を悩ませた。
 このあたりの食い違いに、なにかこの企画の根底を覆す鍵が隠されているような気がしないでもない。
 しかし、今は考えるだけでも手詰まりだ。学校のテストとは違って、安易に正解が求められるものでもない。

「あの……そういえば、北村くんの名前で気になることがあるんですけど」

 とりあえずは保留にしておくべきだろう、と瑞希は考え話を切り替える。

「北村くんの名前って、名簿には載っていませんでしたよね?」
「ああ、載ってなかったな。たしか十人だったか? 未掲載の奴もいるって言ってただろう」
「あの狐のお面を被った人の言葉ね。どういった意図があるかは知らないけれど」

 北村は卓袱台の上に名簿を広げ、羅列されている名前を指で追っていった。
 そこには『姫路瑞希』や『朝倉涼子』の名前はあれど、『北村祐作』の名前は載っていない。

「どういった意図、か……なぁ、姫路に朝倉。ちょっと確認したいんだが、いいか?」

 北村は胡坐をかいたまま腕組みをし、おもむろに訊いてきた。

「ここに載っている姫路の知り合い……吉井、って奴だけで間違いないか?」
「はい、明ひ……吉井君一人だけですっ」
「朝倉。おまえが知っている人間は涼宮と、このキョンってやつ。二人で間違いないな」
「ええ。どちらも私のクラスメイトよ。キョンくんがなぜあだ名で載っているのかは知らないけれど」

 瑞希と朝倉の回答に、北村はふむ、と唸る。

「俺の知り合いは高須と逢坂、川嶋と櫛枝って奴らだ。同姓同名とは思えない……よな」
「北村くん、なにか気になることがあるんなら言ってくれない? 私と姫路さんも力を貸すわ」

 言う朝倉の表情は、堂々としていて心強い。
 北村もそれに安堵したのか、躊躇わずに言葉を継ぐ。

「これは俺の推測なんだが、拉致された人間たちの人選は、集団単位なんじゃないかと思うんだ」

 瑞希と朝倉が首を傾げる様を見て取り、北村はさらに続ける。

「みんな、ここには誰かしらの知人友人がいる。俺たち三人はいま確認したとおり。
 別行動中の上条や千鳥にもいる。姫路と一緒に来た筑摩にも、知り合いはいるんだろう?」

 北村の視線は客間の隅、壁に凭れるように座っている一人の男へと注がれる。
 顔の半面を真新しい包帯で覆い隠し、身は黒の装束で包んだ、一見して忍者のように思える男。
 声の若さで捉えるなら皆と同年代であろうが、なにぶん顔が隠れているため、詳細は定かではない。
 しかし構わず、また相手が面妖だからといって臆したりもせず、北村は気軽にその男――筑摩小四郎へと話しかける。

「……朧さま、それに天膳さま。お二人とも、おれが仕える主にござる」

 盲目の小四郎は北村と視線を合わせることができず、明後日の方向を向きながら応えた。
 彼の肩には鷹が止まっている。カラスなどに比べても巨大なそれが、大人しくも獰猛な瞳で代わりに北村を睨んでいた。

「やっぱり、誰かしら知り合いはいるんだ。ここにつれて来られた経緯なんかは覚えちゃいないが、
 俺たちを拉致した奴は、きっと俺たちの交友関係を把握しているんだ。だからこんな風に、名簿の一部を隠したりする」

 北村の名簿の欄外に、手書きで『北村祐作』の名前が記される。
 北村を抜いたとして、残り九人。この地には名前の知られていない人間が存在しているのだ。
 そこで、瑞希は気づいた。

「その九人っていうのは……私たちの知っている人である可能性が高い、ってことですか?」
「正解。俺が言いたいことはつまりそれさ」

 おずおずと開いた口が、力なく閉ざされる。
 考えたくはないが、考えなくてはならない心配事がまた一つ、増えてしまう。

「参加者六十人。知人同士である程度グループが形成されているのだとしたら、俺は高須、逢坂、川嶋、櫛枝の班に入る。
 けど、高須たちからしてみれば俺は認知されていない存在だ。同じようなことが、姫路や朝倉にも言えるかもしれない」

 北村はつまり、こう言いたいのだ――まだ見ぬ九人の中に、大切な友人が紛れていることもあり得る、と。
 たとえば、姫路瑞希の場合。名簿上で彼女と唯一接点を持つ人間といえば、吉井明久である。
 瑞希と明久の関係は、妥当なところでクラスメイト。だとすれば、残り九人の中に同じFクラスの人間がいてもおかしくはない。

 たとえば、それは明久の親友の坂本雄二。瑞希の親友であり二人しかいないFクラス女子の片割れでもある島田美波
 明久や雄二とよく行動を共にしている木下秀吉土屋康太、須川亮あたりが含まれている可能性とてあり得る。
 もし、明久以外にも友達が巻き込まれているとするなら――瑞希も気が気ではない。
 明久一人の安否を気遣うだけでも心臓が鷲掴みにされる思いだというのに、それ以上ともなればいずれ不安に押し潰されてしまうだろう。

「なるほどね。ひょっとしたら恋人や家族なんかもいたりするかもしれないってわけか」
「ああ。名簿の一部を隠しているのは、そうやって俺たちの不安を煽るためでもあるんだろうな」
「そんなの……悪趣味です! 私たちがこんなに必死な思いをしてるっていうのに、そんな嘲笑うみたいに……」
「この椅子取りゲームの狙いなんてわからないさ。けど、姫路の憤慨はもっともだ。――でも」

 北村はそっと微笑み、険しい顔つきの瑞希へと目配せする。

「案外、そう危ない状況にはならないんじゃないか……俺はそう思うんだ」

 その発言はどこか余裕に満ちていて、北村の度量の深さが窺えるような、不思議な安心感があった。

「朝倉。このゲームの趣旨って、なんだかわかるか?」
「なにって、『生き残りを目指す』、ただそれだけでしょう? あの男の人の言葉を信じるならね」
「そう。そして、その生き残りとやらの席は一つらしい。なら姫路、たった一つの生き残りの席をどうやったら絞れる?」
「それは……席が一つに、つまり生き残りが一人になるまで、他の人たちが消えれば……」

 口ごもりつつ応える瑞希の顔は、俯いている。
 それを口にしてしまうのは、なんとなく怖い気がしてならなかった。

「本当は言いたくないんだろうが、あえて代弁させてもらう。生きるの対義語は死ぬ。生かすの反対は殺す。
 六十の人間がいたとして、『生きる』を一つに絞りたいんなら、答えは簡単。他の五十九は『死ぬ』しかない」

 北村は毅然と言い放った。瑞希は浮かない表情のままだったが、これを静かに肯定する。

「直接『殺せ』とは言わなかったあたり巧妙だがな。手っ取り早く生き残りたいなら、他を殺せばいいんだ」
「そう。北村くんの言うとおり。冷静に考えれば、誰だって物事の本質には気づく。だからこそ、危険な状況にも陥りやすいと思うんだけど?」
「いや、そうでもないさ。これも冷静に考えれば誰だって気づくと思うんだが……この椅子取りゲーム、いや殺し合いには、猶予がある」

 猶予、という言葉を強調させ、北村は卓袱台の上にこの会場の地図を広げる。

「最終的に生き残れるのは一人だけ、って言っても、他の五十九人はすぐに死ななきゃいけないわけじゃない。
 誰かが誰かを殺さない限り、その命は三日間……地図上の全部の升目が埋め尽くされる瞬間まで、保障されるんだ」

 期限は七十二時間ジャスト。それが、このゲームに定められたルールの死角だった。
 地図を見てもわかるとおり、この会場は三十六のエリアで区分されている。
 そしてそのエリアは、北西から外側を東回りに“消滅”していき、やがて内側へと至り、最終的には中央のエリアも食うという。
 消滅に巻き込まれれば、おそらくは死。徐々に狭まっていく会場を思えば、“敵”は早々に始末してしまったほうが得策と思える。

 しかし、そんなことはないのだ。
 狐面の男が言ったとおり、このゲームの趣旨は『生き残る』ことであって、『殺し合え』とは一言もなかった。
 主催者としても、最終的に一人が選び出されれば文句はなく、ゆえにそのときまでは誰が誰を傷つける必要もないのである。

 それはたとえ――三日の時が経過するその瞬間まで、六十人の人間が一致団結して脱出策を模索していたとしても、だ。
 なので北村は、これを“猶予”と捉える。今は足掻くことが認められた時間だからこそ、精一杯足掻いて見せよう、と。

「これが爆弾付きの首輪でも嵌められてたんなら話は別だけどな。なにも一日目から向こうの趣旨に乗ってやる義理はないのさ」
「たしかに……そうですよね。誰だって、人殺しなんてしたくないはずですし。錯乱した人が相手でも、がんばって説得すれば」
「でも、それはあくまでも猶予であって、問題の解決に至れるわけじゃない。平和はいずれ破綻してしまうわ」
「もっともだ。七十二時間が経過したら、どの道ゲームオーバー。そうなる前に、別の解決策を探らなくちゃな」

 生き残った一人が、五十九の屍の上に築かれた一つの椅子に座るという結末。
 そんな最悪とも取れる最後を回避するためには、別の解決策を練る必要があるだろう。
 誰も死なず、皆が生きて帰れるような、抜け道のような解決策が――はたして、あるのだろうか。

 瑞希としては、不安にならざるを得ない。
 心細さから欲したのは、吉井明久の隣の席。
 だが、明久を見つけたとて心の安寧が得られるだけで、後の生には繋がらない。
 大元の事件を解決しなければ、どの道死んでしまう運命なのだ。
 そちらのほうもなにかしら考えなければならないのだが、まったく妙案が浮かばない。

「まあ、そっちは地道に進めていくしかないさ。上条と千鳥が戻ればなにかわかるかもしれないしな」

 瑞希や小四郎、そして朝倉よりも先に北村と接触したらしい上条当麻と千鳥かなめは、会場の端を確認しに行ったという。
 地図を見る限り、瑞希たちが放り込まれた場所は絶海の孤島というわけでもない。
 一見したところ脱出は容易なのではないかと思えるが、はたしてそう上手い話があるものだろうか。
 それもまた、二人が無事に帰還すれば判明するだろう。

「あなたの考えはよくわかったわ。でもね北村くん。あんなに堂々と人を呼び止めるのは、危機感に欠けると思うのよ」
「はっはっは。まあそう言うな朝倉。おまえも瑞希も……あと、“師匠”だったか? 話が通じる相手で幸運だったよ。
 リリアーヌ・アイカシア・コラソン・ウィッティングトン・シュルツさんとか、どこの国の人かもわからないからな」

 あっけらかんと言ってのける北村の横顔が、瑞希にはとんでもない大物のように思えた。
 温泉を拠点とし、近くを通りかかった人々に片っ端から声をかける。
 北村が行っていた人集めは、極めてシンプルなものだった。

 瑞希と小四郎が懐中電灯の明かりに導かれたのも然り。
 朝倉涼子と、彼女の仲間であるという“師匠”もまた、瑞希よりも早く北村に招かれた客人だった。

「その師匠さんという人は、どんな方なんですか?」

 上条当麻や千鳥かなめと同じく今は別行動中だと聞いてはいたが、その詳しい素性までは知らされていない。
 すれ違いの仲間に抱いた興味を、瑞希はそのまま質問に移す。

「強い上にとても親切な人よ。無償で私の警護をしてくれていたの。本名は教えてくれなかったけれど」
「彼女には付近を回って人集めをしてもらってる。六時前には戻ると言っていたから、姫路もそのときに顔を合わせるさ」

 朝倉と北村の言から、瑞希は頭の中で空想の師匠像を作り出す。
 性別は女性、髪形は朝倉と同じポニーテールで、温和な性格の人物らしい。
 名簿にも載っている人物ではあったが、その名が“師匠”という肩書きであることが少し気にかかった。
 とはいえ、他にも本名かどうか怪しい人間はいる。朝倉から直々にあだ名認定された“キョン”などその典型だ。
 細かい疑問点は、考え出すときりがない。今はただ、師匠なる人物との邂逅に期待しよう、と瑞希は思う。

「上条くんと千鳥さんが戻ってくるのはもう少し先なのよね。その間、私たちはどうする?」
「そうだな……また外に出て、近くに人がいたら呼び止めるか……ああ、そういえば」

 数秒考える仕草をし、北村が発言する。

「朝倉たちの“武器”を確認させてもらってもいいか? なにか役に立つものがあるかもしれない」

 武器というニュアンスに一瞬、身を強張らせた瑞希だったが、すぐに北村の意図を理解した。
 武器とはつまり、狐面の男がそう呼んでいた支給物のことだ。
 名簿や筆記用具といった六十人共通のものとは別に、一人につき一つから三つの割合でそれらが支給されている。
 拳銃や刀剣のような文字通りの武器であったり、また用途不明のものであったりと、種類は様々であるとも説明されていた。

 北村の要望どおり、瑞希は自分の鞄から支給物を取り出して見せる。
 といっても、彼女が見せたのはなんてことはない、その辺りの民家でも手に入りそうなフライパンだ。
 元々は小四郎に支給された品であるが、瑞希に支給された蓑念鬼の棒と交換しそれぞれ所有者を変えた。

「あとは、小四郎さんの持っている棒と……肩の鷹が、そうだそうです」
「鳥もありなのか!? いや、まあ猛禽類は獰猛だとも聞くが……」
「この分だと、犬や猫なんかも支給されているかもしれないわね」

 北村が鷹に対し苦笑いを浮かべたところで、朝倉も自身の支給物を提示する。

「朝倉のは、刀と……なっ、金か、これ? 本物の?」

 卓袱台に置かれた場違いなまでに輝かしいそれは、紛れもない金塊である。
 棒状のものが五本。換金すればいったいいくらになるのだろうか。瑞希と北村は揃って想像し、感嘆の息を漏らした。

「ちゃんとした武器もある一方で、こういう使い道に困るものもあるみたいね」

 朝倉はいたって冷静な素振りを見せ、金の延べ棒を指で弾いた。
 如何な値打ちものとはいえ、この状況ではあまり意味がない。
 財布が潤っていたとてなにかしらの買い物ができるわけでもなく、ましてや金の塊など、鈍器にしかならないだろう。

「ま、朝倉の言うとおりではあるなぁ。これで探偵でも雇える、っていうんならともかく」
「そういう北村くんの鞄には、いったいどんなものが入っていたんですか?」
「ん? 俺か」

 瑞希と朝倉の提示した物品の中に、人集めに有益なものが含まれていたかと言えば、結果は否だ。
 ともなれば、気になってくるのは言いだしっぺである北村の荷物。
 瑞希が問うと北村は不適な笑みを見せ、自分の鞄を漁り始めた。

「数で言えば、とりあえず運は良かったほうだな……入っていたのは三つ。一つはこれだ」

 卓袱台の上に置かれたのは、厚みのある茶封筒だった。
 表面には、宛名ではなく『お宝写真!』とだけ書かれている。
 確認してみてくれ、と北村に促され、瑞希がそれを手に取り封を開けた。朝倉も横から覗き込む。
 中に入っていたのは、数枚の写真――ある特定の人物に限って言えば、たしかに『お宝』と言えるだろう代物だった。

「正直、ハズレもいいところだ。いったいこれで俺になにをしろっていうのか……」
「そうですね。たしかにこれはハズレかもしれません。ですから、私が預かっておきます」
「ああ、そうだな。じゃあ二つ目を……ん? 姫路、今の流れになにか違和感を覚えなかったか?」
「いえ、全然! それより、他の二つも早く見せてもらえませんか!?」
「あ、ああ」

 瑞希は写真入の茶封筒を懐にしまいつつ、北村を催促する。まるで言及の隙を与えない。
 ここに“こんなもの”があるとは思いもしなかった。しかし幸運だ。
 これは、他の誰の目にも触れさせないほうが安全だろう。
 瑞希の手で大事に保管しておく必要がある。後々の鑑賞のためにも。

「次はこれだ。朝倉の金塊ほどじゃないが、値打ちもの……というより、骨董品だな」

 これもやっぱり用途はわからんが、と付け加え北村が卓袱台に置いたのが、古風な巻物だ。
 広げてみると、紙面には墨で書かれた文字が敷き詰められている。
 達筆ではあったが、どれも読めない漢字ではない。
 北村がこれを読み上げていく。



 ◇ ◇ ◇



  甲賀組十人衆
   甲賀弾正    鵜殿丈助
   甲賀弦之介  如月左衛門
   地蟲十兵衛  室賀豹馬
   風待将監    陽炎
   霞刑部     お胡夷

  伊賀組十人衆
   お幻       雨夜陣五郎
   朧        筑摩小四郎
   夜叉丸     蓑念鬼
   小豆ろう斎   蛍火
   薬師寺天膳  朱絹

 服部半蔵との約定、両門争闘の禁制は解かれ了んぬ。
 右甲賀十人衆、伊賀十人衆、たがいにあいたたかいて殺すべし。
 のこれるもの、この秘巻をたずさえ、五月晦日駿府城へ罷り出ずべきこと。
 その数多きを勝ちとなし、勝たば一族千年の永禄あらん。

   慶長十九年四月         徳川家康









 最後にこれをかくものは、伊賀の忍者朧也。



 ◇ ◇ ◇



 記された名には、すべてに血の線が刻まれていた。
 名簿にも名を連ねる朧や薬師寺天膳、甲賀弦之介、そして筑摩小四郎の名も、そこにあった。
 現役の高校生である閲覧者三名、慶長や徳川家康といった名称に聞き覚えがないはずもなく、揃って首を捻る。
 と、

「それはまことか……!」

 今の今まで会話に加わろうともしなかった小四郎が、急に声を荒げ立ち上がった。
 三人が驚くと同時、彼の肩に止まっていた鷹も奇声を上げ、客間を忙しなく飛び回る。

「姫路どの、それはまことかと問うておる……!」

 包帯に覆われた顔面からは、表情が窺えない。荒い語気からのみ、鬼気迫るものが感じられる。
 小四郎の問いに、瑞希は言葉を失った。驚きのあまりにではなく、単純な恐怖心から、声を枯らしてしまったのだ。
 今にも掴みかからん勢いの小四郎を宥めようと、代わりに北村が返す。

「本当かどうかは知らないが、文面はさっき読み上げたとおりだ」
「……左様か。さすれば北村どの。その人別帖は我ら伊賀組のもの。ゆえにおれが貰い受ける」
「そりゃ渡すのは構わないが……これがなんなのかは、訊かないほうがいいか?」

 小四郎は黙って頷いた。北村もそれ以上はなにも言わず、巻物を小四郎へと手渡す。
 程なくして鷹も落ち着き、小四郎の肩に戻った。小四郎自身も、平静を取り戻しまた腰を落とした。

「さて、と。それじゃ、これが三つ目になるんだが……」

 北村は何事もなかった風を装い、再び鞄の中身を漁り出す。
 瑞希はまだ怯えが抜けないのか、寡黙となった小四郎から目が離せないでいた。

「……造りが精巧というか、なんというか。あまりおもしろいものじゃないけど、それでも見るか?」
「もう、ここまできてもったいぶるのは禁止。さ、早く見せて」
「ふっふっふ……朝倉は怖いもの知らずのようだな。よーし、ならば見るがいいさーっ!」

 高々と叫び、北村は三つ目の支給物を鞄から勢いよく引っ張り出した。
 出てきたのは、人間の頭部である。
 北村の手に鷲掴みにされた頭が、抵抗することなくずるずると、鞄から引きずり出される。
 瑞希と朝倉は絶句。徐々に姿をあらわにしていく、鞄以上の体積を持つ人間の体が、卓袱台の上に横倒しになった。

 悲鳴を上げる間もない唐突さは、しかし注意深く観察してみると、それが人間ではありえないということがわかる。
 瞳の閉じられた顔は安らかな寝顔のようにも見え、まったくと言っていいほど生気が感じられない。
 肌の色は自分たちのものと比較してもどこか人工的で、触ってみると硬かった。
 纏っているのは、なぜかは知らぬがウエディングドレスである。

「マネキン、ですか?」
「マネキンね。どう見ても」
「マネキンにしては造りがいいが、まあマネキンだろう」

 北村の三つ目の支給物は、ウエディングドレスを纏ったマネキン人形だった。



 ◇ ◇ ◇



 汗の臭い染み込む下着を脱ぎ捨て、裸体は湯気のヴェールに包まれる。
 外界との境界を担う引き戸は、ほんのちょっとの力で容易く開かれた。
 靴下もない素足が踏みしめるのは、水滴に塗れたタイルの敷かれし床。
 目指す場所はそう遠くはなく七歩ほどの距離――そこに浴槽はあった。

 温泉施設のメインとも言えるここは、女性用大浴場。

 むき出しの胸元をタオルで少しばかり隠した入浴者の名は、姫路瑞希。
 彼女は今、湯の張られた浴槽を前にして、入るべきか入らざるべきかと悩んでいる。

(こうしている間にも、明久君は……でも、もう服も脱いじゃったし……)

 瑞希が温泉に立ち寄ったワケ。それは、北村がここを拠点としていたからであって、なにも入浴が目的であったわけではない。
 彼女とて、身だしなみには気を使う今どきの女の子だ。動き回ることが必定のこの舞台、体を清められる機会はぜひともほしい。
 しかし、はたしてそれが今であっていいものなのだろうか。
 つい先ほどまで後の指針を話し合っていただけに、急激に緊張が紐解かれるのには抵抗があった。

「どうしたの姫路さん。ひょっとして、熱いお湯は苦手?」
「あ、いえ、そういうわけではないんですけど……」

 瑞希の後ろから、脱衣を済ませた朝倉涼子がタオルの一枚も持たずに、堂々と己の体を曝け出しながら歩み寄ってくる。
 その羨ましいくらいの大胆さに瑞希は赤面し、思わず目線を外してしまった。
 朝倉といえば、恥ずかしげもなく首を傾げる始末だ。

「なら、早く入りましょう。風呂は心の洗濯……って、そんな言葉をどこかで聞いた覚えがあるわ」

 温泉に入ろう、と一番に言い出したのはこの朝倉涼子である。
 理由は、せっかくだから。北村は、いいなと返した。瑞希のみ、同意し切れなかった。

 北村の論によれば、このゲームにはまだまだ猶予がある。だからといって、のんびりしていられる暇などないのだ。
 本来ならもっと手早く人を集め、大人数でもって事態の究明と対処に当たるべきなのだ。そのはずなのだ。きっと。おそらく。

 ……とはいえやはり、リフレッシュは必要だろう。

 結局、瑞希も裸で浴場の真ん中に立っている。朝倉の申し出に、最終的には同意したのだ。女の子ゆえに。
 それにもうじき夜が明ける。さらに多くの人を集めるならば、明るくなってからのほうが活動もしやすいだろう。
 時間は大切だが、慌てるべきではない。瑞希は今回の入浴について、そう正当性を持たせる。

 つま先が湯船に触れ、徐々に沈んでいく。
 お湯の温度は熱すぎず温すぎず、心地よい。
 下半身のみ浸すと、間を置いてから膝を折っていった。
 豊満に膨らんだ胸元まで浸かり、そこで初めて、瑞希は極楽の息をついた。

「……ふぅ」

 湯気で上気した頬が、朱に染まりわずかに笑む。
 頬だけでなく、心までもが弛緩してしまいそうだった。

(暖かい……広い……お風呂……ふゃ~っ)

 緩み切った頭で思い出すのは、学力強化合宿での出来事だ。
 今では大親友とも言える存在になった同じFクラスの島田美波や、DクラスEクラスの女子たちと入浴したのが特に思い出深い。
 吉井明久や坂本雄二、彼らを中心とした文月学園高等部二年の男子たちが、総戦力でもって覗きに励んだことは忘れもしない。
 百四十九人ものの男子生徒が同時に停学処分を受けた学校というのも、おそらくは文月学園が初めてだろう。

 それら、楽しい思い出が頭の中に呼び起こされ、同時に不安の波も押し寄せてきてしまう。
 名簿に名を記されていた、瑞希のクラスメイトにして、彼女が――――な男の子。
 吉井明久は今、同じ空の下でどのような想いを馳せているのだろうか。

「明久君……」
「明久君っていうと、吉井明久のことかしら? たしか、姫路さんのお友達だったわね」
「へっ!? あ……はい」

 意識せず口に漏らしてしまったのか、朝倉に明久の名を拾われた。

「気になるの? なんだか思いつめたような顔をしているし……それに、心拍数も上昇しているみたい」
「そ、そう、ですか? えへへ……自分では、全然わからないんですけどね」

 朝倉は興味津々といった様子で、瑞希の傍へと進み寄ってくる。
 如何にここが女湯で、相手が同性であろうとも、知り合って間もない女の子と裸を向け合うのは恥ずかしい。
 瑞希は湯気の熱気とは別の要因で顔を赤らめ、朝倉の体に釘付けになりそうだった視線を外す。

「ただ、その……や、やっぱりお友達ですからっ。危ない目にあっていないか心配で」
「お友達、か。本当にそうなのかな?」

 朝倉の何気ない問いが、瑞希の胸にちくちくと刺さる。
 思い当たる節は、あった。言ってしまえば、ドキリ、としたのだ。

「あなたの反応と身体状況を私の知る事例に当て嵌めると、その感情は好意ではなく恋情に近いものだと思うのだけれど」
「そうですね。私は明久君をお友達としてではなく、恋……って、え? え、ええぇっ!?」

 平静を装い隠蔽しようとした感情は、しかし見透かされたように言い当てられ、瑞希は慌てふためく。

「私には有機生命体の恋愛の概念がよくわからないのだけれど、これでも健全な女子生徒を演じてきたわけだから。
 クラスメイトと恋愛に関するお話をしたりもするし、“恋する女の子”の特徴なんかも逐一観察して記録していったわ。
 今のあなたは手持ちのパターンに適合する。姫路瑞希は吉井明久に恋をしている。どう? 当たりじゃないかしら」

 ところどころに違和感のある言葉が浮かぶが、朝倉の熱弁には首肯せざるを得ない。
 とはいえ安易にそれを認めてしまうのは恥ずかしく、瑞希は必死になってお茶を濁すための言葉を探した。

「それは、その、えっと、ええと……あの、その、あのですね……う~んと……」
「その反応は高確率で“照れ隠し”よね。ここに来たからかな。私も随分と、有機生命体の感情というものが理解できるようになったみたい」

 一人、感慨深げに頷く朝倉。
 彼女が口にする“有機生命体”という単語が、やけに気にかかる。
 他人行儀を通り越した言葉の選択は、先ほどの話し合いのときと比べても異質だ。
 照れているのは自分でも理解できている。しかし照れながらも、瑞希は朝倉の会話の仕方が気にかかった。

「で、ここからが本題。あなたは吉井明久というたった一つの存在に対して、他のすべてを棒に振るうだけの覚悟があるかしら?」

 そして、この質問である。

「あの、言っている意味がよくわからないんですけど……?」
「そうね。簡単に言うと、吉井明久一人を生かすために自分も含めた他の五十九人を殺せるか、っていう質問。どうかしら」

 ますますもって不審だ。質問の内容は読み取れても、朝倉の真意が読めない。
 赤面していた瑞希は表情に冷静さを取り戻し、恐々と答えを口にしていく。

「それは……できません」
「どうして?」
「どうしてって……私、人を殺したくなんてありませんし、殺そうと思ってもできないと思います。それに」
「それに?」
「……明久君はそんなこと望みません。もし私がそんな馬鹿げたことをやっていると知られたら……軽蔑されちゃいます」

 朝倉の質問について、真剣に考えてみる。
 このゲームの勝者は一人。それ以外の者はすべて敗者。生きて帰れるのもまた、一人だ。
 ならば、特定の一人を生かすために自分や他者を犠牲にするという方法も、選択肢の一つとしてはあり得る。

 しかしこれは、あまりにも身勝手な選択ではないだろうか。
 自分が生き残らせようとしている一人――たとえば吉井明久、彼の身になって考えればすぐに気づく。
 彼は、自分一人生き延びたいがために他のみんなを犠牲にしたりなどしないし、誰かにそうしてもらうことも望まない。
 瑞希がそのような行動に出ていると知れば、まず間違いなく止めようとするだろう。それが吉井明久という少年だ。

(正直で、頑張り屋で、だから私は――)

 異郷の地で離れ離れになってしまった男の子のことを想い、瑞希は湯船に顔を埋める。
 思わず鼻先まで湯に浸けてしまったのは、やはり照れ隠しなのだろう。
 表情を読み取られたくないと、本能が体を動かしたのだ。

「なるほどね。私が涼宮ハルヒの保護に務めようとしているのは一種の奉仕活動とも思えたのだけれど」

 瑞希の回答を受け取った朝倉は、何度も頷き、独り言のように言葉を紡ぐ。

「それは別に、私が涼宮ハルヒに特別な感情、たとえば恋心を抱いているからというわけではない。
 逆にあなたは、特別な感情を向けている吉井明久が対象だとしても、そういった行動には走れない。
 これは覚悟の差? ううん、違う。きっと恋愛感情というものの捉え方が間違ってるのね。もっと試してみるべきかも」

 言って、朝倉は瑞希の頭の上に手を置いた。
 飛び出た杭を押し込むように、真上から瑞希の頭を湯に沈める。

「――っ!?」

 咄嗟の出来事に抗う暇もなく、瑞希は口から鼻から進入してくる熱湯に悶え苦しんだ。
 すぐに湯から上がろうとして、頭を押さえつけていた朝倉の腕を取り払う。
 勢いよく水飛沫が上がり、視界が戻ると驚く朝倉の表情があった。

「なっ、なにをするんですか朝倉さん!」
「驚いた。意外と押し返されるものなのね。次はもう少し、力を強くしてみようかな」

 むせる瑞希への対応もそこそこに、朝倉の手が伸びる。
 今度は頭頂部ではなく首根っこを乱暴に掴み、瑞希の体を湯船へと押し倒した。
 勢い余って浴槽の底に背中がぶつかる。全身は当然のごとく湯に満たされ、酸素を得る術はなくなった。

 藁をも掴まんと瑞希が両手で湯を掻くが、その所作に意味はなく、朝倉の目には見苦しい様としか映らない。
 全身の穴という穴から湯が流れ込んでくるような感覚。慌てれば慌てるほど、侵攻の速度は速まった。
 まず初めに『苦しい』と脳が訴え、『息ができない』と体中に危険信号が発せられ、最終的には『死ぬ』と予感が過ぎった

(わたっ、し……こんな、ところで……!)

 瑞希の長い髪が、湯船の上でクラゲのようにたゆたう。
 当の本人の顔は、依然として呼吸運動不可の領域内。
 懸命に脱出を試みようとするも、朝倉の腕力がそれを許さない。
 息苦しいというだけではなく、首の締め付けによる痛みまで襲ってきた。

 間近まで迫ってきた生命の危機。何者かが、瑞希に死ぬぞ、死ぬぞと警告を発し続ける。
 だが抗えない。朝倉の怪力から逃れる術が見つからない。脳にも酸素が回らなくなる。

 溺れるという経験は、なにもこれが初めてではない。
 成績優秀で知られる瑞希の数少ない不得意なことと言えば、水泳だった。
 水に浮くくらいしかできない自分を恥じ、親友の美波に教えを乞うたのが今年の夏のこと。
 こんなことなら、お風呂で誰かに沈められそうになったときの対処法も聞いておくんだった――と。

「……がっ、はっ!」

 考えるうちに、瑞希は湯船の中からわずか、顔だけを出すことに成功した。
 まだ、死にたくない――!
 あの夏のプール清掃の日、Fクラスの仲間たちと作ってきた数多の思い出が、奮起の原動力となった。

「あき……ひっ、さ、くん……っ!」

 朝倉の手は未だ振り解けない。意地だけで逃れようとする。生命活動の危機に瀕した人間の底力。
 無我夢中となって生を渇望する少女、姫路瑞希が意識せず呟いたのは、やはり吉井明久の名前だった。

「たす、けて……っ!」

 湯を掻く手が、己の首を掴む腕の先、朝倉涼子の顔面へと向いた。
 瑞希の指先が、朝倉の頬を掠める。
 ただ、それだけ。

「うん、それ無理」

 懇願の回答は、無慈悲に。




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