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硫黄の炎に焼かれても(前編)

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硫黄の炎に焼かれても(前編) ◆02i16H59NY



【1】


「――異界、ね。
 そんなもの、いつでもどこでも、すぐ近くにあるさ。ただ皆が気づいてないだけでね。
 例えば垂直方向に100kmも移動すれば、既にそこは『違う世界』だ。
 空気もなく、音も聞こえず、全てが凍りつき、遥か彼方まで茫洋と漆黒の空が広がる、つまり『宇宙空間』という名の異界さ。
 場所にもよるだろうが、地上を100km移動したところで隣の県か、せいぜいそのまた隣の県までたどり着くのが精一杯だろう?
 そう考えれば、ほら、『異界』はこんなにも近くにある。

「うん? いや、からかってなどいないさ。はぐらかしてもいない。
 実際、宇宙というのは異界として認識されていたんだ。長いことね。
 地上の世界を構成する地水火風の4元素に対して、天上の世界を構成するのはエーテルという第五の元素。
 地上の物体が直線運動を基本とするのに対して、天井の世界を支配するのは円運動……とね。

「もちろん、今となっては笑い話ではある。
 物体の組成について原子論が勝利を収めた時点で、天上と地上を構成する原子に差はないことになった。
 また、一般にはアイザック・ニュートンの万有引力の発見をもって天上と地上の物理法則は統合されたことになっている。
 ああ、『リンゴが落ちてきたのを見て重力を発見した』という俗説は大嘘だよ、重力そのものなら太古の昔からよく知られているさ。
 彼が気づいたのは、『リンゴは落ちてくるのに何故月は落ちてこない?』という疑問と、その答えでね。
 重力に引かれながらも移動を続けることで、その軌道は楕円を描くことになる――失速しなければ、落下せずにいつまでも回り続ける。
 リンゴの落下も、月の公転運動も、全く同じ数式で表記できる。
 かくして科学はオカルトに勝利を収め、古き間違った智慧は否定された……ということになっているね。世間一般では。

「だがね、地上と宇宙では世界そのものが違う、という思考自体は間違ってはいないんだ。
 確かにいまや月にまで人類が到達する時代、宇宙に上がること自体は魔法の領域ではなくなった……のだけども。
 たとえば人間が宇宙船の外にほんの数時間ほども出ようと思ったら、十数億円はする百kgオーバーの宇宙服を着なければならない。
 もし生身で外に出ようものなら、たちまち死に至る。
 瞬時に血液が沸騰するとか、破裂するとかいうのは間違った俗説らしいが、まあ人が普通には生きられぬ世界であることは確かだよ。
 大仰な装備を用意しなければ、人体の生存限界はほんの十数秒。
 極寒と真空と宇宙線が、これでもかとばかりに生命の存在を拒む場所。
 ――これが『異界』でなければ、何なんだ?
 ここは大昔の人々の無知を笑うより、その智慧の確かさを驚きたたえる所ではないかな。
 ちなみに先ほど名前を挙げたニュートンも、別に過去の英知を否定する者ではないよ。
 彼はその晩年を錬金術の研究に捧げたことでも知られている。一説にその死因は水銀中毒だったとも言うね。

「まあ、これほどまでに『異なる世界』というのは近くにあるものさ。
 異界、異次元、平行世界に妖精郷。何とでも呼べばいいさ。
 要はそれがどの方向にあるのか、というベクトル方向の問題だけ。思考と知覚の死角に入ってしまって、認識することが困難なだけ。
 正しい手順を踏めば、互いに干渉することは不可能じゃあない。
 ただ――真の危険は、『異なる世界』との狭間にこそある。

「先の、地上と宇宙との関係が一番分かりやすいかな。
 地上から宇宙に上がるには、重力の鎖を断ち切って飛び出す必要がある。
 それこそロケット並の装備が必要で、しかも常に事故と隣り合わせだ。
 宇宙から地上に降りるには、今度は大気圏に突入しなければならない。
 激しい摩擦熱に、それ相応の備えがなければ流れ星の1つになって燃え尽きて終わりだ。
 分かるかな?
 異界に渡る、というのはこれほどまでに危険なものなのだ。
 十分な知識と技術と備えがあってなお越えるのが難しい、両界の狭間。
 この険しさを思えば、先ほどの宇宙空間の厳しさ、『異界』そのものの異質さなど、なんてことはないのだよ――。


  ◇  ◇  ◇


「――『久遠の陥穽』。我々がそう呼んでいる概念に近いね、アレは」

無人の街の通りの真ん中で、男は芝居がかかった仕草で両手を広げてみせた。
純白のスーツに身を包んだ、整った容姿の――しかし、言葉に奇妙な韻を滲ませる、どこか現実感に乏しい男。
そんな男の言葉に、外見だけなら年上にも見える眼鏡の男が首を傾げる。

フリアグネ様。それは、あの人類最悪が『空白(ブランク)』とか『落丁(ロストスペース)』とか言っていた『壁の外側』のことですか?」
「ああ。その通りさ、“少佐”。
 久遠の陥穽――それは、世界と世界の間の狭間。目印もなく堕ちれば、神さえも永遠に彷徨うことになる虚無。
 実際に太古の昔、一柱の神が討滅の道具どもによって“そこ”へ追放されたとも聞く。
 我々紅世の徒にとっては親しい概念さ。
 “それ”が久遠の陥穽そのものと等しいものかどうかまでは分からないが、似たようなモノであるのは確かなのだろうね」
「となれば、外部からの干渉はやはり彼らにも難しいのでしょうか。例えば、新たな参加者を追加するといった風な」
「そうだろうね。……どうした、少佐? 何か気になることでも?」
「いえ、別に」

先の放送で示唆された、『黒い壁』の『外側』についての話。
フリアグネと呼ばれた男は、それを紅世と人の世との狭間に例えてみせた。
神とも呼ばれる存在すら抜け出すこと叶わぬ無限の虚空――そんなものが『壁』の向こうにあるというのか。
だが、その恐るべき発言にも、もう1人の同行者は軽く鼻を鳴らしただけで。

「そんなことは、どうでもいいんだけどさ」
「何かな、“和服”?」
「じゃあ、さっき放送をしていた人類最悪は、いったいどこにいるっていうんだ?」
「そうだね。推測にはなるが、このささやかな“箱庭”の内側にいるのは確かだろう。そうでなければ、彼とてあのような仕事はできまい。
 穴でも掘って地下に潜っているのか、気配を消す『テッセラ』のような宝具でも使っているのか。
 あるいは――世界最大級の“あの宝具”でも押さえているのか。
 詳しいところまでは、今はわからないがね」

フリアグネの何気ない呟き。
それを聞いて、“和服”と称された女――その名の通り和服を纏ってはいるが、その上に羽織るのはジャケットだ――は、小さく笑った。

「良かった。なら、オレの刃も奴に届く」


  ◇


結局のところ――先の放送は、この3人、フリアグネ・トラヴァス・両儀式にとってはあまり深い意義を見出せるものではなかったのだ。

読み上げられた脱落者の中に、3人の知る名前はなかった。
フリアグネは内心落胆したが、その色を表に出すことはなかった。
トラヴァスは内心安堵したが、その色を表に出すことはなかった。
両儀式は、本当に何も思わず、また偽りの感情を表に出すこともなかった。

告げられた11人という数も、3人が3人とも「多いな」と思い、「速いな」とも思ったが、それだけだった。
フリアグネは内心喜んだが、その色を表に出すことはなかった。
トラヴァスは内心焦りを覚えたが、その色を表に出すことはなかった。
両儀式は、本当に何も思わず、また偽りの感情を表に出すこともなかった。

戯れに検討してみた人類最悪の『解説』も、こうして口にしてみても大した意義を見出せるものではない。
フリアグネは自らの知識の中に類似の概念を見つけたが、ただそれだけだった。
トラヴァスは『外部からの干渉が難しい』という点に己の方針の正しさを再確認したが、それだけだった。
両儀式は『人類最悪はこの会場内にいるらしい』という推測に改めて殺意をたぎらせたが、それだけだった。

3人は静かに真昼の街を進む。
ここ半日ばかりの消極路線から、積極攻勢にうって出る――そう決めた彼らの足取りは、自然と“箱庭”の中心の方へ。
やがて橋を渡ったところで、ほぼ同時に気がついた。

「フリアグネ様――」
「うん、分かっているよ、少佐」
「誘ってるのかな、アレは」

――彼らの視線の先。
辺りでも一際大きな建物、地図の上では『ホテル』と記された建物。
その上層階の窓から彼らを見下ろす、赤い影があった。


  ◇


「これは、幸運と見るべきかな――」

ステイル=マグヌスは眼下の通りを眺めながら、少しだけ唇を吊り上げた。
こちらを見上げる、3人組。
彼らが自分の存在を認識したことを確認し、彼はその漆黒の修道服の裾を翻して窓際から離れた。真紅に染められた長い髪が揺れる。

ステイルにとっても、先の放送はさほど得るものがないものだった。
読み上げられた脱落者の中に、彼が気になる名前はなかった。
土御門元春の死は既に確認していたし、せいぜい、あの“狂犬”はどれだったのだろう、と思った程度だ。
告げられた11人という数も、「多いな」と思い、「速いな」とも思ったが、それだけだった。
『空白(ブランク)』についての長々とした話も、その大半を聞き流した。

それはつまり、放送を聞いてなお、ステイル=マグヌスの行動方針は寸毫も変わりはしない、ということを意味していた。

あの後――ホテルの屋上で方針を考え直した後。
ステイルは再びホテル内に戻って、手間と時間のかかる『準備』をしていた。すなわち『魔女狩りの王(イノケンティウス)』の配置である。
一旦はルーンのカードを剥がしたのだから、二度手間ではある。
そうであればこそ、先の時と同じ配置にはしなかった。
ルーンのカードを増産しつつ、正面ロビーだけだったその範囲をさらに広げ、ほぼ建物内全域をフォローする体制に作り変えた。
そうしてあらかた配置作業を終えようかとしたところで見つけたのが、先の3人である。

「――うん、これは幸運と見るべきだろうね。この地における『魔女狩りの王』の自立行動、さっそくテストできる」

地図に記載された施設に『魔女狩りの王』を配備し、ステイル本人とは独立して参加者を襲わせる。
それが最終的に彼が選んだ方針であり、その手始めとして、彼は今いるホテルに設置することを選んだのだった。
どうせ、移動中には『魔女狩りの王』を使えやしない。
移動した先、まだ見ぬ施設が『魔女狩りの王』の設置に適しているのかどうかも分からない。
ゆえに、この選択だ。
『魔女狩り』の王はホテルで留守番、訪れる参加者を(インデックスを除いて、との命令を組んではあるが)無差別に襲わせる。
ステイル自身は、消費したカードの補充をしてこの場を離れ、他の施設を回る。
そしてもしもより待ち伏せに適した場所を見つけたなら、その時に改めて『魔女狩りの王』の配置を変えることを検討する――
そういうつもりだったのだ。

だが実際には、ホテルを発つ前に他の者が来てしまった。
最後の確認をしている最中、出て行く準備が整う前に、3人組が近づいてくるのが見えてしまった。
この状況をステイルは、あえて幸運と考えることにする。
『魔女狩りの王』の自立行動の精度には、まだ多少の不安がないわけではない。それを実地で試すことができるのだ。
術者であるステイルが近くにいれば、ある程度のコントロールも効く。もし不慮の事態が発生しても、即応できる。
ここで一度『実験』をしておけば、問題点があれば洗い出せる。修正すべき点があれば修正もできる。

「あの3人には悪いが――付き合ってもらうよ。この僕の、『調整』に」

多少の危険を承知で、自らの姿を晒しても見せた。
これであの3人がホテルの前を通り過ぎてどこかに行く、ということもないだろう。
彼らは間違いなく、このホテルに踏み込んでくる。
ステイル=マグヌスの、ルーンの炎の結界の中に。


  ◇


【2】


「ルーン、か。あれは便利な道具だよ。いささか便利すぎるきらいはあるがな。
 便利すぎて、少なからぬ魔術師がそれにのめりこむ。過大な期待を込めて深入りをするものが後を絶たない。
 あんなもの、所詮は単なる文字だと言うのにな――

「そもそも、ルーンの由来はゲルマン族の文字だ。そう、ギリシャ・ローマ文明からは野蛮人と斬って捨てられたゲルマン人のだよ。
 元々は、単なる表音文字。
 ごく普通の日常的な用途にも用いられ、ごく普通に手紙や荷札にも使われていたらしい。
 ナイフで木片に刻むことが多かったそうでね。直線のみで構成され、横線がないのが特徴だ。縦と斜めの線が多用されているよ。
 ただ、後から広まったラテン語系のアルファベットに地位を追われてね。現代にはほとんど残らなかったというわけだ。
 しかし彼らの秘められた智慧はルーンによって記述されルーンによって伝えられ、それは他の文字が主流になっても守られた。
 秘められた智慧――つまりオカルトだな。
 かくしてルーンは神秘の文字となったわけだ。一般人の知らない古代の文字、こいつは確かに秘密を守るにはもってこいでな。
 だから古代から伝わる智慧のみならず、新たな発見や発想もルーンで記されたりもする。秘められた智慧はさらに増えていく。

「ルーンに限らず、文字というのは魔術的な性質を持っている。言葉を何かに記す、ただそれだけの行為が既に魔術的とさえ言える。
 分かりやすいとこでは、仏教の写経あたりがそうだな。ただ漢字を書き写しているだけなのに、何らかの意味があると信じられている。
 ほとんどの者にとっては経文の意味なんて分かりはしないから尚更だ。理解できないからこそ神秘たりえる。
 だが、そこで使われている文字までもが日常的・俗世的な意味を失っていて、魔術の場でしか使われていないとなったらどうだ?
 そう、ルーンは純度が高いんだよ。
 何かをルーンで印したら、そこに魔術的な意味がないわけがない。そう信じられてしまう。
 この辺は梵字などもそうなんだがね。だから、魔術を学び扱う者にとって、あえてルーンを使うというのはそれなりの意味がある。

「ああ、私もルーンは使うよ。便利なモノだと言ったろう? 便利と知ってて使わぬ奴は愚か者か天才だけだ。
 所詮は文字に過ぎないがね、日本語や英語で長々と苦労して回路を作るくらいなら、ルーン1文字で済ませた方が遥かにラクだ。
 ……とはいえ、その1文字に意味を凝縮できる所まで行くのは少しばかり手間ではあるんだが。
 ふむ、私がロンドンに渡った当時、ルーン魔術の人気が翳っていたのは、そういう側面もあるのかな――

「――うん? ルーンを新たに作る? それは……容易な話ではないな。
 そもそも過去から連綿と受け継がれた智慧に基づいて力を振るうのがルーン魔術というものだ。
 そこに自分勝手な記号を付け加えようなんてのは、まあ千年早いと言うべきでね。すぐに制御を失って自滅するのがオチだろうよ。
 だがまあ、限定的な意味においては全くありえない話でもない。

「これはルーン文字でなく、英語でも使ってるアルファベットの話だがね。
 『W(ダブリュー)』という文字があるだろう? あれの原型を知っているかい?
 そう、その名前そのままの『UU(ダブル・ユー)』だ。
 ……うん? 字体を見ればVが2つだって?
 あのな、大元を遡れば、VもUも同じ由来なんだよ。ラテン語の時代にはまったく同じ文字だったのさ。
 まあ『二重のU』なんて呼んでるのは英語くらいでね、フランス語あたりでは『二重のV』と見た目通りに呼んでいるよ。
 ともあれ、VであれUであれ、初期にはそれを2つ重ねてWの音を表記していてね。
 一種の短縮形だな。同じ字を2つ書く機会があまりに多くて面倒になって、誰かが1つにまとめてしまったわけだ。

「こういう形の短縮なら、同様に生み出す余地はある。
 例えば、同じく英語をはじめとする多くの言語では、ごく僅かな例外を除いて『Q』の後には必ず『U』が来る。
 だから面倒だ、と言って『QU』を一文字にまとめた新アルファベットをでっちあげてみてもいいわけだ。
 ……それを実現させて、一般に広めるのは難しいだろうが、それでもな。

「新しいルーンの創造、なんて話も、もし可能だとしたらこの類の話だろうよ。
 併せて使うことの多い2文字を、短縮して1文字に重ねる。連結して1文字とする。1文字分の軽さで扱えるようにする。
 なるほどそれなら、過去の智慧を活かしつつ新たな領域にも踏み込めるかもしれない。さらなる効率化が図れるかもしれない――
 ――だが、応用性は明らかに低下する。
 『QU』を一文字にまとめてしまったら、『Qの後にUが来るとは限らない言語』の記載には支障が生じる。無駄な文字が余ってしまう。
 それと似たようなものさ。
 ルーン魔術の多彩な応用性を捨てて、一点突破で特定分野に特化させた魔術師。
 なるほど、それも1つの方向性だろうがね……はっきり言って、邪道だよ。
 強いには強いかもしれんが、敵にも味方にもしたくないタイプだな。
 敵に回せば厄介極まりなく、味方にいたところで存外頼りになる局面は少ない。
 そんなもの、できれば関わり合いにならないのが一番さ――


  ◇  ◇  ◇


――踏み込んだホテルの内部は、一種異様な空間となっていた。

「これは……何だろうね? 自在法ではないようだが」
「文字、でしょうか?」

フリアグネが、トラヴァスが、ロビーの内部を見回して首を捻る。
豪奢なインテリアに飾られた、広々としたロビー。
調度品の1つ1つが高価で、しかも品の良い落ち着いた空間――
そこに、不可解な装飾が割り込み、調和を乱していた。

床から壁から天井から、ソファの類に至るまで、大量に貼り付けられた文字の書かれた紙切れ。

それもよくよく見れば、1枚1枚は粗雑なコピー用紙に、コピー機で印刷された程度の代物だ。
それが無造作にセロテープで貼り付けられている。
手を伸ばして無造作に1枚剥がし取ると、両儀式はつまらなそうに呟いた。

「こいつは『ルーン』だな。橙子が似たようなモノを使ってるのを見たことがある。流石にここまで雑な造りじゃなかったが」
「ほう、知っているのかい、“和服”?」
「別にオレ自身が詳しいわけじゃないけどな――こいつは、魔術師が術を振るう時に利用する文字の一種らしい」
「“魔法遣い”の技、ですか」
「魔法って言うほど高度なモンじゃないらしいけどな。使える奴が使えば、色々小器用なことができるみたいだ。
 たとえば、火を放ったりとか。たとええば、霊体の侵入を妨害したりとか。
 たとえば――」

式は、そこで言葉を切って、ゆっくりと背後を振り返る。
男2人も、静かにそれに倣う。
そこには、

「たとえば――その気になれば、『あんなモノ』を作り出すこともできるのかもしれない」

3人の振り返った視線の先。
ロビーからの逃亡を妨げるよう、入ってきた正面入り口に立ちふさがるように立っていたのは。

黒い重油のようなものを芯にした、轟々と燃え盛る、人のカタチをした炎の塊だった。


  ◇


先に動いたのは、炎の巨人。
それに対して1歩前に出たのは、式だった。

「――加勢は?」
「いらない」

少佐の言葉に一声返して、派手な装飾のナイフを抜くのと斬りつけるのが一挙動。
両手を広げるように飛び掛ってきた炎の巨人の胸元に、鋭い一閃が叩き込まれて――
“それ”は、一瞬にして弾けとんだ。
水風船に針を突き刺したようなあっけなさ。
人のカタチを成していた黒々とした液体が、あたり一面に飛び散った。

「簡単なものだね。炎の“燐子もどき”、これで終わりかい?」
「いや――まだだ。
 まだ、“殺し”きれてない」

軽く微笑むフリアグネの問いに、しかし式は苦さの滲む答えを返す。
答える傍から、飛び散った重油状の物質が再び一箇所に集まり、人のカタチを取り戻していく。すぐに炎に包まれる。
そのサイズに変化はなく、立ち上がる姿に淀みはなく。素人目にもダメージらしいダメージが入っているようには見えない。

「死が、視えないわけじゃないんだがな――なにせ“多過ぎる”。いちいち全部を突いてはいられない。
 そこらにやたらとあるルーン、その1つ1つと繋がってやがる。
 どうやら全てのルーンを潰さない限り、コイツは“殺し”きれない仕組みらしい」

あらゆるものの死を視る、両儀式の魔眼。
だからこそ分かる――こいつは、強敵だ。
両儀式にとって、最悪の相性だ。
炎の巨人、その本質はおそらく個体というより群体。
無数のルーンのカードに支えられた、実体なき敵。
ナイフの一振りで“散らす”ことはできても、“殺しきる”ことはとてもできない。
いわば猛る蜂の群れのようなものだ。1匹1匹を突き殺している間に、自分が毒針を受けて倒れ伏すことは必至。
いや、この場合は高熱で焼かれる、だろうか。いずれにしても死に様は似たようなものだ。
まさかこんな方法で直死の魔眼を“殺して”みせる存在がいるなんて。
式は眉を寄せる。

「して、対策は?」
「オレも詳しいわけじゃないって言ったろう。……ただまあ、普通に考えれば、可能性は2つかな。
 1つは、無数にあるルーンを全て破壊する。もう1つは、このルーンを仕掛けた魔術師を見つけてブチ殺す。
 もちろん、目の前のコイツに焼き殺されないようにしながら、だけどな」
「どれも簡単ではなさそうだね」
「しかし、やるしかないでしょう」

3人は並んで炎の巨人に相対しながら、言葉を交わす。
短い言葉と目配せで、互いの意思と役割を確認しあう。
そんな彼らの目の前で、燃え盛る重油のような塊がのたうち、変形し、巨人の手元から伸びて剣のような形を取る。
いや――それは剣などではない。
十字架だ。
全長2メートルはあろうかという、劫火の十字架。
人数の差など一切気にせず、3人まとめて叩き潰さん、とばかりに、巨人はソレを振り上げて――

爆音が、ホテルの中に響き渡った。


  ◇


下のほうの階で爆発でも起きたのか、小さな振動が微かに伝わってきた。

「……始まったようだね」

ステイル=マグヌスは、ホテルの最上階、何故かルーンが1枚も張られていない最高級スイートルームにて、小さく呟いた。
どうやら『魔女狩りの王』は無事にターゲットを認識し、自動追尾・自動戦闘状態に入ったらしい。
こうなれば相手が誰だろうと何人いようと、あとは時間の問題でしかない。
速度もある。再生力がある。なにより、3000度の高熱という絶対の攻撃力がある。
たとえ相手が一級の達人だろうと、いつまでも避け続けられるものではない。捌き続けられるものでもない。
確実に、仕留めてくれる。

そこまで考えて、煙草を1本、口に咥えて箱から引き抜く。
先端を軽く一睨み。ただそれだけで、そこに赤い炎が灯った。

ステイル=マグヌスは己の魔術に絶対の自信を持っている。
こう見えても現存する24文字のルーンを完全に解析し、新たに力ある文字を6つも開発した魔術師だ。
そんな彼が研究に研究を重ね、研鑽に研鑽を重ねて編み出した、「たった1人の少女を守りきるためだけの力」。
それが『魔女狩りの王(イノケンティウス)』だ。自負を抱かぬわけがない。
もっとも、この場においては、最初の放送で告げられた『淡水魚と海水魚』の例え話が微かな不安材料ともなっていたわけだが。
どうやら、杞憂に過ぎなかったらしい。
ステイルは安堵の混じった吐息を、紫煙と共に吐き出す。

不意に、耳をつんざくベルの音が響き渡った。

……ただ、うるさい音が鳴り響いただけだった。部屋の中は何の変化もない。おそらく階下、1階のロビーもそうだろう。
このベルを鳴らした人物が望んだであろう展開は、未だ起こっていない。
そして――これからも起こることはない。

「なるほど、あちらにも頭のいい奴がいるもんだね。『その攻略法』に思い至るとは。ルーンのことを理解してる奴もいるのかな。
 けれども生憎、『その欠点』は既に対策済みなんだ。僕だって同じ手で何度も敗れるほど愚かじゃない」

ステイル=マグヌスは溜息をつきつつ、軽く笑う。
今こうして鳴り響いているのは、おそらく火災報知器。かつて上条当麻相手に一敗地を這わされた、屈辱の鐘の音だ。
『魔女狩りの王』にはセンサーやスプリンクラーに触れないよう命令を書き込んでいるが、警報を作動させる方法はそれだけではない。
随所に設置された非常用の赤いボタンを一押しすれば、警報のベルと共にスプリンクラーは作動する。
そうなれば、防水加工を施す余裕のなかったルーンのカードは、濡れて萎れてインクを滲ませ、避けようもなく無力化してしまう。
3000度にも及ぶ『魔女狩りの王』自身はその程度の水で消火されることはないが、『魔女狩りの王』を支えるルーンの方が耐えられない。
だが。

「ロビーだけに留めていた先ほどまでならともかくね。今回は、こっちも準備万端整える時間があったんだ。
 既に、警報と消火装置との間の繋がりは“焼き切っている”よ」

ステイルとて、決して愚かな男ではない。
敗戦の苦い経験があれば、それを踏まえた対策も考える。
上条当麻に破れた後、苦手な分野ではあったが、火災報知器の基本的な仕組みやシステムについても勉強した。
付け焼刃の知識ゆえ、おそらく『20年は先を行っている』学園都市の最先端防火システムには歯が立たないだろう。
しかし、それ以外の場所であれば。
世間一般に出回っている『並のレベルの』防火システムであれば……時間と手間をかければ、殺しきれないわけではないのだ。
耳障りなベルの音だけが虚しく響く中、彼は軽く微笑んで、

「だけど……ルームサービスを頼んだ覚えは、なかったんだがね」

ゆっくりと、スイートルームの入り口の方に向き直った。

――カジュアルなジーンズとタートルネックのセーターに身を包んだ1体のマネキンが、無感情な顔で、そこに佇んでいた。


  ◇


【3】


「火、あるいは炎――ね。
 厄介ながらも無視できない存在だよ。魔術師にとってはね。

「そもそも火というのは、東洋でも西洋でも世界を構成する元素の1つに数えられてきた。
 五行の1つ。地上の四大元素の1つ。
 今でこそ『火』は『燃焼』という酸化現象の一種であることが分かっているがね、かつては世界を構成する要素の1つと信じられたのさ。
 化学の世界で『フロギストン(燃素)仮説』こそ否定されたものの、魔術の世界では今も十分にその概念は生きている。

「火の持つ性質を一言で言い表すならば、それは破壊と再生だ。生命と言ってもいいかもしれない。
 何もかも焼き尽くし灰燼に帰す炎も、適度なサイズであれば暖を取る役にも立ち、明かりを灯す光にもなる。
 火傷を負うような高熱も、適度な温度であれば命の温もりに繋がる。
 相反する性質。
 制御できれば有益だが、その制御こそが難しいという逆説的存在なのさ。

「火そのものが魔術的性質を持っているという事実は、世間一般でもよく知られているところだ。
 天界から盗まれたプロメテウスの火。
 4年に一度のオリンピックの、聖火リレー。
 様々な宗教の祭祀の場において、直接間接に火が多用されているのは誰もが知るところだろう。
 拝火教とも訳されるゾロアスター教では無論のこと、仏教でもキリスト教でも、火の存在なしには日々の勤めすらままならない。
 護摩壇に線香、燭台に灯す炎も電灯では代用し難いな。
 火葬という葬式の形態も多分に宗教的な意味があるし、洋の東西を問わず地獄に劫火の責め苦は付き物だ。
 もう少し穏やかな所では、誕生日や結婚式のケーキには火のついた蝋燭は欠かせない。
 どれもこれも、火の持つ神秘性の現れだよ。

「私も魔術師である以上、炎も扱うがね。
 あれは難しい力だな。暴走の危険と常に隣り合わせだ。
 そういえば、式の前で初めて魔術を使って見せた時には、火力の不足で詐欺師扱いされたんだったかな。
 まったく、無知というのは容赦がない。
 あの時あの場のあの装備で、あの死体を完全に焼き尽くそうとしていたら、式も私も揃って黒焦げになっていただろうに。
 鮮花のように『それ向きの』才能があれば別なんだろうがな。

「そう、一歩間違えれば使い手自身をも焼き尽くしてしまうのが炎というものだ。
 敵味方構わず、容赦なし。
 火蜥蜴(サラマンダー)というのはなんとも飼い慣らしにくいものなのだよ。
 そんな危険な火遊びに興じる者の末路なんて、いつだって1つに決まっている――

「――炎にまかれて、焼け死ぬのさ。


  ◇  ◇  ◇


「――何をしたかったのだろうね」

ステイル=マグヌスは改めて取り出した煙草に火をつけると、煙を吐きつつ呟いた。

急に現れた、動くマネキン人形。
しかしその動きは見るからにぎこちなく、炎剣の一撃であっさり爆散して果てた。
ステイルは考える。
魔力の流れは感じられなかったが、今の人形は先ほどの3人の中の誰かが放ったものに違いあるまい。
では何が目的だ? これほどまでに弱々しい存在を単独で放った、その意味は。

「つまりは――斥候か」
「ご明察、だよ」
「!?」

ステイルの呟きに応えたのは、聞き覚えの無い、奇妙な韻を響かせる男の声。
次の瞬間、高速で飛来した小さな金属の輪が、ステイル=マグヌスの顔面から下腹部まで満遍なく、大穴を空けて貫通し、爆発した。

「――“燐子”の能力の低い今、使い道は限られるのだけどもね。
 それでも、『人海戦術』で捜索の時間を短縮するくらいの役には立つのだよ」

手元に指輪型の宝具『コルデー』を呼び戻しながら、純白のスーツの男・フリアグネは小さく笑う。
両儀式が示した、状況打開の可能性の1つ。『炎の巨人を生み出した術者を始末する』。
術者は窓から見えたあの赤い影だろう、という推測は容易だったし、未だ建物から出ずに留まっていることも予想ができた。
問題はいちいち全ての階・全ての部屋を調べているヒマなどないことで、そして、問題がその1点だけでしかないのであれば。
『ダンスパーティ』活用のために、と思って用意してきた粗製の燐子20体でも、十分に要は足りる。
フリアグネは芝居がかかった仕草で、両手を広げて見せた。

「うふふ、これでこのフリアグネも、“和服”と“少佐”に対する言い訳が立つというものだよ。
 それにしても、簡単に終わったものだね。
 討滅の道具たるフレイムヘイズではないようだけども、“燐子もどき”を一番の頼りにするような奴は、やはりこの程度か」
「……誰がこの程度、だって?」
「!?」

フリアグネの嘲りの言葉に応えたのは、聞こえるはずもない『仕留めたはずの』赤髪の男の声。
次の瞬間、顔から身体から、いたるところに腕1本ほども通りそうな穴を開けたままの男が、その腕を振るう。
振るう傍から炎の剣が伸び、振り下ろされ、爆発する。
……炎と煙が晴れた時、既にフリアグネは数メートルほども離れた所に飛び下がっていた。
ステイル=マグヌス、赤い髪とピアスと刺青に彩られた神父も、傷ひとつない姿でそこに立っている。
ありえぬ光景を目の前にしたフリアグネ、しかしこちらにも焦りの色はない。

「……なるほど、何かと思えば蜃気楼か。ただの人間風情が小器用なことだね」
「なるほど、2人を捨て駒に1人だけ上がってきたのか。その思い切りの良さは評価しよう。しかし……」

紅世の王の言葉には直接応えず、炎の神父は煙草を弾いて捨てる。
宙を舞う煙草が描いたオレンジ色の残像、その軌跡に沿って炎が形を成し、一振りの炎の剣となる。
炎(Kenaz)。それは、ステイル=マグヌスの力であり、意思のカタチそのものだ。

「我が殺し名は、『 Fortis 931 (我が名が最強である理由をここに証明する)』。
 エノク書のデーモンの名を騙るものよ、魔術師が使役するモノより弱い、なんて愉快な勘違いをしているなら……
 この魔法名の意味、その身をもって思い知ってもらおうか」


  ◇


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