救いの棟は紅く染まりて ◆IEYD9V7.46
鬱蒼と生い茂る木々の中、黒髪の少年少女が恐れるものなどないかのように堂々と歩いていく。
紅世に名を馳せる天壌の劫火のフレイムヘイズ、その名をシャナ。
忍術を用いた卓越した技を持つ狗神使い、その名を犬上小太郎。
紅世に名を馳せる天壌の劫火のフレイムヘイズ、その名をシャナ。
忍術を用いた卓越した技を持つ狗神使い、その名を犬上小太郎。
時間は昼過ぎ。
天上を通過した太陽が僅かに森の地面を照らし、まばらな光の斑点を作り出す。
二人が南を目指し始めて数時間。
不可解なことに、彼らの姿は未だ途切れることのない深森の中にあった。
真っ直ぐと着実に南を目指していればとうの昔に森を抜けているはずである。
ましてや、彼らは常人を遥かに凌駕する身体能力を有しているのだから。
ではなぜ、この二人の歩みがここまで鈍いのか?
その答えは――――。
天上を通過した太陽が僅かに森の地面を照らし、まばらな光の斑点を作り出す。
二人が南を目指し始めて数時間。
不可解なことに、彼らの姿は未だ途切れることのない深森の中にあった。
真っ直ぐと着実に南を目指していればとうの昔に森を抜けているはずである。
ましてや、彼らは常人を遥かに凌駕する身体能力を有しているのだから。
ではなぜ、この二人の歩みがここまで鈍いのか?
その答えは――――。
「……ちょっと」
「ん?」
「さっきから進行方向が東にずれていっている気がするんだけど」
「はぁ? アホ言うな。なんやその言いがかりは?」
「うるさいうるさいうるさい! ずれてるったらずれてるの!」
「ん?」
「さっきから進行方向が東にずれていっている気がするんだけど」
「はぁ? アホ言うな。なんやその言いがかりは?」
「うるさいうるさいうるさい! ずれてるったらずれてるの!」
……と、このような口喧嘩を都合30回ほど繰り返しているのである。
(主にシャナが小太郎に喧嘩を売っているのだが)
ふとしたときに互いの世界の情報交換、友人の話、他愛のない世間話がなされていたが、
なぜかその結末はいつも「うるさいうるさいうるさい!」というシャナの激昂で終わるのだ。
彼らの口論は似たもの同士であるがゆえに些細なきっかけで点火してしまう。
その度に足を止めているのだから進むものも進むはずがない。
時間に対して彼らが進んだ距離を導き出せば、まさに亀の歩みと例えるほかはないであろう。
それでも、此度の衝突は比較的短い幕切れとなり、辺りに葉のこすれあう音だけが残される。
場が静まり返った、その直後。
(主にシャナが小太郎に喧嘩を売っているのだが)
ふとしたときに互いの世界の情報交換、友人の話、他愛のない世間話がなされていたが、
なぜかその結末はいつも「うるさいうるさいうるさい!」というシャナの激昂で終わるのだ。
彼らの口論は似たもの同士であるがゆえに些細なきっかけで点火してしまう。
その度に足を止めているのだから進むものも進むはずがない。
時間に対して彼らが進んだ距離を導き出せば、まさに亀の歩みと例えるほかはないであろう。
それでも、此度の衝突は比較的短い幕切れとなり、辺りに葉のこすれあう音だけが残される。
場が静まり返った、その直後。
……ド…………ド……ドン……。
シャナの左手側。
廃病院により近いほうにいた小太郎の耳に届いたのは微かな、
しかし断続的に響いてくる――――銃声と思しき撃音。
そしてその後に続くのは、
廃病院により近いほうにいた小太郎の耳に届いたのは微かな、
しかし断続的に響いてくる――――銃声と思しき撃音。
そしてその後に続くのは、
『――――どこに隠れた、こんガキィ~~ッ!!』
今度の音はシャナにもはっきりと聞こえた。
微小なノイズを含んだあの声は、恐らく拡声器のものだろう。
二人は顔を見合わせながら、言葉に出さずとも事態を察知する。
先の銃声と併せて考えれば、殺人者とそれに追われるものの図式が浮かび上がるのは必定。
片や正義感から、片や有益な情報を得たいという考えから少年と少女は廃病院へと急行する。
微小なノイズを含んだあの声は、恐らく拡声器のものだろう。
二人は顔を見合わせながら、言葉に出さずとも事態を察知する。
先の銃声と併せて考えれば、殺人者とそれに追われるものの図式が浮かび上がるのは必定。
片や正義感から、片や有益な情報を得たいという考えから少年と少女は廃病院へと急行する。
程なくしてシャナと小太郎は朽ち果てた病棟の敷地内へと辿りつき、尚も加速する。
そこには地図に載っていた図面の印象そのままの姿が存在している。
荒んだ棟と同様に、深い森を北から南まで貫く道路もところどころに大小様々な亀裂が走っていた。
二人は迅速に院内へ侵入可能な通路を探していたが、最初に目に付いたのは蔦がはびこる正面玄関であった。
内部に潜む殺人者が周到な人間であれば正面から馬鹿正直に侵入するのは無謀にも程がある。
シャナも小太郎もそのことを頭の中では理解していたが、数瞬後に両者がとった行動には僅かな差異が生じた。
小太郎が慎重を期すべくブレーキを掛けようとしたその横を、風になびく黒髪が突き進んでいく。
そこには地図に載っていた図面の印象そのままの姿が存在している。
荒んだ棟と同様に、深い森を北から南まで貫く道路もところどころに大小様々な亀裂が走っていた。
二人は迅速に院内へ侵入可能な通路を探していたが、最初に目に付いたのは蔦がはびこる正面玄関であった。
内部に潜む殺人者が周到な人間であれば正面から馬鹿正直に侵入するのは無謀にも程がある。
シャナも小太郎もそのことを頭の中では理解していたが、数瞬後に両者がとった行動には僅かな差異が生じた。
小太郎が慎重を期すべくブレーキを掛けようとしたその横を、風になびく黒髪が突き進んでいく。
「ちょっと待てや!」
「何よ、怖いのならそこで待ってればいいじゃない」
「何よ、怖いのならそこで待ってればいいじゃない」
どこまでも勝気で強気な態度。
もしもこの場に彼女が尊敬してやまない紅世の魔神、あるいは
相手のいかなる計略をも見破るミステスの少年がいたのなら思いとどまったかもしれない。
だが、それは所詮ないものねだりであり、今ここにその両者の姿はない。
もとより、罠があったところでまとめて叩き潰すのが炎髪灼眼の討ち手なのである。
その勢いに押されて、不本意ながらも小太郎はシャナの後を追っていった。
もしもこの場に彼女が尊敬してやまない紅世の魔神、あるいは
相手のいかなる計略をも見破るミステスの少年がいたのなら思いとどまったかもしれない。
だが、それは所詮ないものねだりであり、今ここにその両者の姿はない。
もとより、罠があったところでまとめて叩き潰すのが炎髪灼眼の討ち手なのである。
その勢いに押されて、不本意ながらも小太郎はシャナの後を追っていった。
シャナが先頭に立ち正面玄関の扉を開けて中に入る。
その際に乱暴に扉を開いてしまったせいか、渦を巻いた空気が埃を巻き上げてしまい、二人は
軽く咳き込んでしまう。
その際に乱暴に扉を開いてしまったせいか、渦を巻いた空気が埃を巻き上げてしまい、二人は
軽く咳き込んでしまう。
「ゲホゲホ……アホ、もう少し静かに開けろや!」
「けほっ……私のせいだって言うの!? グズグズしてたら逃がすかもしれないじゃない!」
「けほっ……私のせいだって言うの!? グズグズしてたら逃がすかもしれないじゃない!」
このまま、またも舌戦が始まるのかと思われた直後。
「――――――だああああああああぁぁぁぁっ!」
何処からか届いた、耳をつんざく叫び声がロビーに響き渡った。
「……2階やな」
「2階ね」
「2階ね」
両者に不敵な笑みが浮かぶ。
分かりやすくて手間が省けた、二人はそう考えながら迷うことなく2階を目指して階段を駆け上った。
玄関から見えない位置。――――1階の他のフロアでは二人の少女が静かににらみ合っているとも知らずに。
分かりやすくて手間が省けた、二人はそう考えながら迷うことなく2階を目指して階段を駆け上った。
玄関から見えない位置。――――1階の他のフロアでは二人の少女が静かににらみ合っているとも知らずに。
* * *
もがいても脱出できない、深い泥のような沈黙が1階の廊下を支配する。
その中に佇む金髪の少女――イヴは自身の犯した過ちに向き合う方法、あるいは逃げ道を探していた。
平時の冷静で知的な面は見る影もなく、目の前の桜髪の少女と向き合ってどのくらい時間が経っているのかさえ分からない。
捕まえるべき犯罪者でも何でもない、一般人に向けて発砲してしまったという事実がイヴの心に重くのしかかる。
何かを言わなければならない、何かを示さなければならない、何かをしなければならない……。
堂々巡りだった思考の迷路の中。
頭を無理矢理回転させ、時間を掛けて手当たり次第取りうる手段を模索した結果、ここに来てイヴはようやく一つの答えに行き着く。
その中に佇む金髪の少女――イヴは自身の犯した過ちに向き合う方法、あるいは逃げ道を探していた。
平時の冷静で知的な面は見る影もなく、目の前の桜髪の少女と向き合ってどのくらい時間が経っているのかさえ分からない。
捕まえるべき犯罪者でも何でもない、一般人に向けて発砲してしまったという事実がイヴの心に重くのしかかる。
何かを言わなければならない、何かを示さなければならない、何かをしなければならない……。
堂々巡りだった思考の迷路の中。
頭を無理矢理回転させ、時間を掛けて手当たり次第取りうる手段を模索した結果、ここに来てイヴはようやく一つの答えに行き着く。
(……そうだ。私のナノマシンを使って手当てをすれば……)
イヴは体内のナノマシンの働きにより、常人よりも傷の治りが早く、怪我もしにくい。
このナノマシンとはあらゆる分野に応用することが可能であり、無機物、有機物を問わずに
干渉することができる技術なのである。
本来なら力の消耗を避けるべきであるから、初対面の双葉に対してこの力を使うことを躊躇った。
だが、ここで出会った初めての仲間であるビュティになら。
誤解を解くために誠意を見せること。
即座に応急処置をすること。
今ここでナノマシンの力を示せば、その両方を叶えることができるはずだ。
このナノマシンとはあらゆる分野に応用することが可能であり、無機物、有機物を問わずに
干渉することができる技術なのである。
本来なら力の消耗を避けるべきであるから、初対面の双葉に対してこの力を使うことを躊躇った。
だが、ここで出会った初めての仲間であるビュティになら。
誤解を解くために誠意を見せること。
即座に応急処置をすること。
今ここでナノマシンの力を示せば、その両方を叶えることができるはずだ。
(大丈夫、分かってくれる……。また、元に戻れる……)
そう自分自身に言い聞かせ、あまりにも細く長い――しかし確実に繋がっているであろう希望の糸に必死でしがみつく。
イヴはまず、手に持っていたアタッシュ・ウェポン・ケースを床に置き、抵抗する意思がないことを示した。
それを見たビュティは口にこそ出さないが、僅かに警戒を緩めたようだ。
イヴはまず、手に持っていたアタッシュ・ウェポン・ケースを床に置き、抵抗する意思がないことを示した。
それを見たビュティは口にこそ出さないが、僅かに警戒を緩めたようだ。
(平気だよね……スヴェン……)
心の中に最も頼りになる存在を思い浮かべながら、勇気を振り絞る。
ありがたいことに最初の一歩を踏み出してしまえば、半ば自動化されているかのように勝手に脚が動いた。
歩きながら自身の黄金色の髪を変形させ、傷口に宛がうための接続端子を構成していく。
ビュティにとってその様は、目の前の少女が異形の存在へと変化していくように見えたのかもしれない。
何をされるのか分からないという恐怖心からか「ヒッ」という小動物のような声が漏れる。
……このままではまずい、とイヴは悟った。
やはり、撃たれたショックを拭い去るには適切な言葉をかける必要があるようだ。
ビュティを安心させ、おとなしく治療を受けさせるためには――――。
考える時間はなかった。それでも、その僅かな時間を用いて導いた言葉を押し出すようにして口にする。
ありがたいことに最初の一歩を踏み出してしまえば、半ば自動化されているかのように勝手に脚が動いた。
歩きながら自身の黄金色の髪を変形させ、傷口に宛がうための接続端子を構成していく。
ビュティにとってその様は、目の前の少女が異形の存在へと変化していくように見えたのかもしれない。
何をされるのか分からないという恐怖心からか「ヒッ」という小動物のような声が漏れる。
……このままではまずい、とイヴは悟った。
やはり、撃たれたショックを拭い去るには適切な言葉をかける必要があるようだ。
ビュティを安心させ、おとなしく治療を受けさせるためには――――。
考える時間はなかった。それでも、その僅かな時間を用いて導いた言葉を押し出すようにして口にする。
「――――動かないで」
動いたら、ちゃんと治療できないから――。
イヴはそう続けようとして、しかし二の句を継ぎ出すことができなくなった。
言葉を紡いだ瞬間。
今日二回目の致命的なミスに気づいてしまった。いや、気づかされてしまったのである。
なぜならすぐ近くにまで迫ったビュティの顔に、誤解がもたらす混乱ではなく、
――――決定的な恐怖が刻み付けられていることが見て取れたからだ。
極度の精神疲労及び混乱、そして一種の職業病が連れてきたものなのか。
こんなときに限って、イヴは“掃除屋が犯人を確保するときと全く同じ言葉”を掛けてしまった。
危害を加えてくるかもしれない相手から、制止を促す命令を告げられた人間がどうなるのか。
答えは一つ。
イヴはそう続けようとして、しかし二の句を継ぎ出すことができなくなった。
言葉を紡いだ瞬間。
今日二回目の致命的なミスに気づいてしまった。いや、気づかされてしまったのである。
なぜならすぐ近くにまで迫ったビュティの顔に、誤解がもたらす混乱ではなく、
――――決定的な恐怖が刻み付けられていることが見て取れたからだ。
極度の精神疲労及び混乱、そして一種の職業病が連れてきたものなのか。
こんなときに限って、イヴは“掃除屋が犯人を確保するときと全く同じ言葉”を掛けてしまった。
危害を加えてくるかもしれない相手から、制止を促す命令を告げられた人間がどうなるのか。
答えは一つ。
「いやああああああああああああああっ!!」
絶叫と共にビュティが手にした仕込み傘から残弾が全て射出される。
弾丸のうち、いくつかはイヴの体を掠め、
いくつかはナノマシンで硬化させた手足に当たり、
一発だけが硬化が間に合わなかった脇腹を貫いた。
弾丸のうち、いくつかはイヴの体を掠め、
いくつかはナノマシンで硬化させた手足に当たり、
一発だけが硬化が間に合わなかった脇腹を貫いた。
「が……はっ……」
イヴの口から、呼気が抜ける音が漏れる。
やはり体内のナノマシンの反応が普段よりもずっと重く、そして鈍い。
ビュティがどのような行動を取ろうとも取り押さえる自信はあったが、
いつもの力が出し切れないことを計算に入れるのを失念してしまった。
ナノマシンを自在に操れるようになってから、久しく味わっていなかった獰猛な熱と痛みが
イヴの体内を暴れ回る。
気が遠くなった彼女は左半身を床に打ちつけながら崩れ落ち、胸を上下させる以外の動きを止めた。
そこに、堰を切ったように激情を迸らせるビュティの追撃――――傘による打撃の雨が炸裂する。
やはり体内のナノマシンの反応が普段よりもずっと重く、そして鈍い。
ビュティがどのような行動を取ろうとも取り押さえる自信はあったが、
いつもの力が出し切れないことを計算に入れるのを失念してしまった。
ナノマシンを自在に操れるようになってから、久しく味わっていなかった獰猛な熱と痛みが
イヴの体内を暴れ回る。
気が遠くなった彼女は左半身を床に打ちつけながら崩れ落ち、胸を上下させる以外の動きを止めた。
そこに、堰を切ったように激情を迸らせるビュティの追撃――――傘による打撃の雨が炸裂する。
「何で!? 私、イヴちゃんのこと信じていたのに! ブルーちゃんと3人で、仲良くなれるように頑張ったのにっ!」
反射的にイヴは急所である頭部を両腕で守るように抱えた。
一撃、二撃、三撃。十を超える打音が響いたが、その音は止まらない。
一撃、二撃、三撃。十を超える打音が響いたが、その音は止まらない。
「……もう、ぃやぁ……」
仕込み傘の弾丸を使い果たしたビュティは、まるで化け物を相手にしているかのように
傘に懇親の力を込めてイヴを殴打し続ける。
傘に懇親の力を込めてイヴを殴打し続ける。
「みんなキライだぁ――――――ッ!!」
叫びに呼応するかの如く、殴る力が加速度的に高まっていく。……いつからそうだったのだろうか。
ビュティはつらい現実から逃げるためにその眼を堅く閉ざしていた。
自分が、一人の人間を破壊しようとしているという事実を認めたくなかったのかもしれない。
イヴの身体のどこをどのように打撃しているのかを考えることなく、ただ取り憑かれたように闇雲に腕を振るい続ける。
いかにナノマシンに守られていようとも、このまま殴られ続ければ最後に訪れるものは死だ。
1秒ごとにイヴの意識がどんどん刈り取られていく。
ビュティはつらい現実から逃げるためにその眼を堅く閉ざしていた。
自分が、一人の人間を破壊しようとしているという事実を認めたくなかったのかもしれない。
イヴの身体のどこをどのように打撃しているのかを考えることなく、ただ取り憑かれたように闇雲に腕を振るい続ける。
いかにナノマシンに守られていようとも、このまま殴られ続ければ最後に訪れるものは死だ。
1秒ごとにイヴの意識がどんどん刈り取られていく。
(……痛い、痛い、痛いよ……。……助けて……トレイン…………スヴェン……。死んじゃう、怖い、助けて……。
ビュティが何かを叫んでいる。イヴには何も聞こえない。
(い……た、い……だれ、か……)
ビュティが傘を叩きつける。イヴは何も感じない。
(……もう……だ、め……)
意識を保つのにもやがて限界が訪れる。
そのときだった。
そのときだった。
――イヴよ。
(……だ、れ……?)
聞こえたのは、ある男の声。
気が付けば、イヴの身体は何もない空間の中にあった。
いや、何もないというのは正確ではない。
イヴに背を向けて立つ、スーツ姿の男のシルエットがあったのだ。
男は重く、言い聞かせるように口を開く。
聞こえたのは、ある男の声。
気が付けば、イヴの身体は何もない空間の中にあった。
いや、何もないというのは正確ではない。
イヴに背を向けて立つ、スーツ姿の男のシルエットがあったのだ。
男は重く、言い聞かせるように口を開く。
――何をやっているんだ、駄目じゃあないか。
(……スヴェン、スヴェンなの?)
やっと、自分のことを迎えに来てくれた。
歓喜に湧いたイヴはその男の背中を目指して足早に駆けていく。
少女が真後ろに来る頃合を見計らって。
男が、イヴのほうへと向き直った。
やっと、自分のことを迎えに来てくれた。
歓喜に湧いたイヴはその男の背中を目指して足早に駆けていく。
少女が真後ろに来る頃合を見計らって。
男が、イヴのほうへと向き直った。
――――鬼は人間を狩るものだぞぉっ!! 忘れたのかぁっ!
刹那。
一陣の風が、肉を打つ鈍い音をさらっていった。
同時に、頑なに眼をつむり続けていたビュティを奇妙な浮遊感が襲う。
自分の平衡感覚が狂ったのでなければ、今、自分の身体は天井のほうを向きながら落下している。
さっきまで我武者羅に叫んでいたのが嘘のように、ビュティの脳裏に冷静な思考が展開される。
一陣の風が、肉を打つ鈍い音をさらっていった。
同時に、頑なに眼をつむり続けていたビュティを奇妙な浮遊感が襲う。
自分の平衡感覚が狂ったのでなければ、今、自分の身体は天井のほうを向きながら落下している。
さっきまで我武者羅に叫んでいたのが嘘のように、ビュティの脳裏に冷静な思考が展開される。
(落ちてる……まさかね。そんなバカなこと起こるわけないでしょ……常識的に考えて。
……あれ。何で頭の中にボーボボが出てくるの? それに首領パッチ君にへっくんまで。
あー、まだいっぱい来る。1人、2人、3人…………って、やめてよ!
あんまりたくさん来られてもキャラ紹介しきれないじゃんか!
……もー、どこからツッコミ入れればいいんだろ……。
だいたい、みんな何しに来たの? それに、そこにいるのは――――)
……あれ。何で頭の中にボーボボが出てくるの? それに首領パッチ君にへっくんまで。
あー、まだいっぱい来る。1人、2人、3人…………って、やめてよ!
あんまりたくさん来られてもキャラ紹介しきれないじゃんか!
……もー、どこからツッコミ入れればいいんだろ……。
だいたい、みんな何しに来たの? それに、そこにいるのは――――)
「お……に、……ぃ…………」
おにいちゃん、という呟きが最後まで形作られることはなかった。
意識がどこまでも深い闇に落ちていく。
ビュティは今際の際にたった一人の兄を思い、そしてあまりにも呆気なくこの世を去った。
意識がどこまでも深い闇に落ちていく。
ビュティは今際の際にたった一人の兄を思い、そしてあまりにも呆気なくこの世を去った。
惨劇の廊下に残されたモノ。
金髪の少女の髪は鋭利なナイフ――血に濡れたナノスライサーへと変化。
超極薄のナノオーダーの刃は、バターを切るように容易く人体を両断した。
肉を断ち、背骨を断ち、命を絶つ。
一つ一つの細胞を潰さずに、その結合だけを断ち切られた胴体断面は、
どんなに精巧な標本よりも雄弁に人体内部の様子を語りかけてくる。
金髪の少女の髪は鋭利なナイフ――血に濡れたナノスライサーへと変化。
超極薄のナノオーダーの刃は、バターを切るように容易く人体を両断した。
肉を断ち、背骨を断ち、命を絶つ。
一つ一つの細胞を潰さずに、その結合だけを断ち切られた胴体断面は、
どんなに精巧な標本よりも雄弁に人体内部の様子を語りかけてくる。
人を殺したという事実を前に、しかしイヴは辛うじて発狂することを免れた。
いっそのことそのまま狂ってしまったほうが、彼女にとっては幸せだったのかもしれない。
人は正気を失わない限り、思考を続けてしまうのだから。
何も考えたくないはずなのに、自分が殺してしまった少女の最期の言葉を否応なしに反芻してしまう。
いっそのことそのまま狂ってしまったほうが、彼女にとっては幸せだったのかもしれない。
人は正気を失わない限り、思考を続けてしまうのだから。
何も考えたくないはずなのに、自分が殺してしまった少女の最期の言葉を否応なしに反芻してしまう。
「……お、に……。…………鬼、……か。……そう、だよね……。
やっぱり、あなたにも私がそう見えたんだよね……」
やっぱり、あなたにも私がそう見えたんだよね……」
それは一つの思い違いだった。
為す術なく殴られ、限界を迎えようとしていたイヴが幻覚の中で聞いたトルネオ・ルドマンの“鬼”。
ビュティが死に際に呟いた、本人が意図していなかった“鬼”。
二つは折り重なり、イヴに非情な現実、過酷な事実を容赦なく叩きつけてくる。
彼女の壊れかけた精神を更に突き落とすのに、これ以上の言葉はありえない。
為す術なく殴られ、限界を迎えようとしていたイヴが幻覚の中で聞いたトルネオ・ルドマンの“鬼”。
ビュティが死に際に呟いた、本人が意図していなかった“鬼”。
二つは折り重なり、イヴに非情な現実、過酷な事実を容赦なく叩きつけてくる。
彼女の壊れかけた精神を更に突き落とすのに、これ以上の言葉はありえない。
「……ゴメン、なさい……。……ごめん、……な、さい。
…………スヴェン、……わたし、また、鬼になっちゃったよ……っ……」
…………スヴェン、……わたし、また、鬼になっちゃったよ……っ……」
頬を伝う涙の道は途絶えることなく、静かに流れ続ける。
朽ち果てた廊下に、人間だったモノと、抜け殻のような少女だけが取り残された。
朽ち果てた廊下に、人間だったモノと、抜け殻のような少女だけが取り残された。
* * *
シャナと小太郎が院内に侵入する少し前。
2階では一つの弱いものいじめがその幕を閉じようとしていた。
タイマン勝負をいじめとするのは些か疑問が残るところだが、不意打ちあり、凶器あり、
年齢差身長差体重差ありという極悪ルールが採用されているのだから弱いものいじめと何も変わらない、双葉はそう思っていた。
この勝負に勝敗があるのかはまだ分からないが、現時点での勝者は上から見下ろしてくる仮面のナースで敗者は汚い床に這いつくばる傷だらけの自分である。
しかし、このまま終わるつもりなど毛頭ない。
五色町に知れ渡るガキ大将、吉永双葉は淡々と勝機を狙っていた。
胸に異物が挿入されている不快感と、度重なる戦闘による銃創、刺し傷、
失血の四重奏は双葉の意識を飛ばそうと代わる代わる責めたててくる。
鉄のように重くなりつつある瞼は、力を振り絞ってもほんの僅かしか開いてくれない。
だが、それで充分だ。
薄目であっても、正面から自分を刺してきた仮面ナースの姿が見えるのだから。
このまま死んだフリをしていれば、ランドセルを奪おうとこちらの間合いに入ってくるはずだ。
そのときが、ラストチャンス。
何もしないでやりすごそうとか、助けがくるまでじっとしていようなどという考えはありえなかった。
自分はもう、長くはもたない。治療だって誰かの手を借りなければならないし、
その誰かが都合よく来てくれるという楽観的な考え方をすることも出来なかった。
まだ廃病院にいると思われる3人がどうにも信用ならなかったからだ。
2階では一つの弱いものいじめがその幕を閉じようとしていた。
タイマン勝負をいじめとするのは些か疑問が残るところだが、不意打ちあり、凶器あり、
年齢差身長差体重差ありという極悪ルールが採用されているのだから弱いものいじめと何も変わらない、双葉はそう思っていた。
この勝負に勝敗があるのかはまだ分からないが、現時点での勝者は上から見下ろしてくる仮面のナースで敗者は汚い床に這いつくばる傷だらけの自分である。
しかし、このまま終わるつもりなど毛頭ない。
五色町に知れ渡るガキ大将、吉永双葉は淡々と勝機を狙っていた。
胸に異物が挿入されている不快感と、度重なる戦闘による銃創、刺し傷、
失血の四重奏は双葉の意識を飛ばそうと代わる代わる責めたててくる。
鉄のように重くなりつつある瞼は、力を振り絞ってもほんの僅かしか開いてくれない。
だが、それで充分だ。
薄目であっても、正面から自分を刺してきた仮面ナースの姿が見えるのだから。
このまま死んだフリをしていれば、ランドセルを奪おうとこちらの間合いに入ってくるはずだ。
そのときが、ラストチャンス。
何もしないでやりすごそうとか、助けがくるまでじっとしていようなどという考えはありえなかった。
自分はもう、長くはもたない。治療だって誰かの手を借りなければならないし、
その誰かが都合よく来てくれるという楽観的な考え方をすることも出来なかった。
まだ廃病院にいると思われる3人がどうにも信用ならなかったからだ。
(気に食わねーガキ、銃を乱射しまくる女、裏がありそうな金髪。そんで、目の前の変態仮面と来たもんだ)
こんな連中しかいないのに、助けを期待するほうが無駄というものだった。
ピンチのときにはいつだって来てくれた、あの偉そうな石像だっていない。
自分の手でことを成すしかない。
だが、ここで二つの問題が生じてくる。
まず一つ。
一矢報いようにも手元に武器が何もない。扱いやすい小ぶりな剣を始めとする装備は全て
背中のランドセルの中なのだ。そんなものを取り出す余裕などあるはずがない。
双葉は今になってランドセルを入れ物として支給してきたジェダを蹴り飛ばしたくなった。
ピンチのときにはいつだって来てくれた、あの偉そうな石像だっていない。
自分の手でことを成すしかない。
だが、ここで二つの問題が生じてくる。
まず一つ。
一矢報いようにも手元に武器が何もない。扱いやすい小ぶりな剣を始めとする装備は全て
背中のランドセルの中なのだ。そんなものを取り出す余裕などあるはずがない。
双葉は今になってランドセルを入れ物として支給してきたジェダを蹴り飛ばしたくなった。
二つ。
何をするにも、直前までは死んだフリをしなければならない、つまり相手の隙をつくことが
困難であるという問題がある。
何をするにも、直前までは死んだフリをしなければならない、つまり相手の隙をつくことが
困難であるという問題がある。
これらを掻い潜り一撃入れるにはどうすればいいか。
止まりそうな思考ながら、双葉は状況を再確認する。
どうせ処理能力の低い頭だ、手近にあるものをそのまま利用して
あとは気合と根性を込めればいいと即断した。
(きゅうそ猫を噛むだったっけ。……追い詰められた人間の覚悟を見せてやる)
止まりそうな思考ながら、双葉は状況を再確認する。
どうせ処理能力の低い頭だ、手近にあるものをそのまま利用して
あとは気合と根性を込めればいいと即断した。
(きゅうそ猫を噛むだったっけ。……追い詰められた人間の覚悟を見せてやる)
仮面のナースが一歩ずつ進んでくる。
細く暗い双葉の視界の中で、その姿が大きくなり、見えていた病院の壁の割合が反比例で減っていく。
手足は動かさないように力を込めているが、出血のせいでどうしても肺の動きがでかくなる。
こればかりは意思の強さや精神力でどうにかなるものではなかった。
生きていることがばれたら、今度こそ間違いなく止めを刺される。
それだけは阻止したい。
(何もせずに死ぬのはゴメンだ……。コイツを放っておくなんて冗談じゃない)
死の恐怖など、とうの昔に決意が凌駕した。次に倒すのは、
『でも、槍で刺されたりしたら、死んじゃうよ?』
相手を傷つけるという恐怖だ。ブルーの言葉が蘇る。
あのときはイヴとビュティがいた手前、物騒な答えを出すことは出来なかったが、今は違う。
(向かってくるバカヤローに容赦はしねー)
壁は全て壊した、あとはタイミングだけだ。
細く暗い双葉の視界の中で、その姿が大きくなり、見えていた病院の壁の割合が反比例で減っていく。
手足は動かさないように力を込めているが、出血のせいでどうしても肺の動きがでかくなる。
こればかりは意思の強さや精神力でどうにかなるものではなかった。
生きていることがばれたら、今度こそ間違いなく止めを刺される。
それだけは阻止したい。
(何もせずに死ぬのはゴメンだ……。コイツを放っておくなんて冗談じゃない)
死の恐怖など、とうの昔に決意が凌駕した。次に倒すのは、
『でも、槍で刺されたりしたら、死んじゃうよ?』
相手を傷つけるという恐怖だ。ブルーの言葉が蘇る。
あのときはイヴとビュティがいた手前、物騒な答えを出すことは出来なかったが、今は違う。
(向かってくるバカヤローに容赦はしねー)
壁は全て壊した、あとはタイミングだけだ。
(さぁ、来やがれってんだ……。――――ぶっ潰してやる!)
トクン、トクン、トクン……。
自分の心臓の音がやけに大きく聞こえる。
鼓動が刻まれるたびに、体のどこかでまた血が滲む。
心臓がノックされる音と、仮面ナースの足音が合致する。
ナースが、双葉から1mと離れていない位置にまで接近。
その手が、ランドセルへと伸ばされ、自然と体が中腰の体勢へと変形していく。
自分の心臓の音がやけに大きく聞こえる。
鼓動が刻まれるたびに、体のどこかでまた血が滲む。
心臓がノックされる音と、仮面ナースの足音が合致する。
ナースが、双葉から1mと離れていない位置にまで接近。
その手が、ランドセルへと伸ばされ、自然と体が中腰の体勢へと変形していく。
――――バタン。
突如鳴った扉の開閉音が外の空気を中に取り込んだ。
それは振動となり古びた病棟を極僅かに揺らし、やがて霧散する。
方角から考えて、位置は正面玄関だろう。
仮面のナースはその音に気を取られ、腰と膝を折り曲げた状態のまま
顔だけを一階へ降りる階段があるはずの廊下の向こうへと向ける。
それは、双葉が待ち望んだ好機。
不意をつける、最初で最後の勝機。
(――――今だっ!)
それは振動となり古びた病棟を極僅かに揺らし、やがて霧散する。
方角から考えて、位置は正面玄関だろう。
仮面のナースはその音に気を取られ、腰と膝を折り曲げた状態のまま
顔だけを一階へ降りる階段があるはずの廊下の向こうへと向ける。
それは、双葉が待ち望んだ好機。
不意をつける、最初で最後の勝機。
(――――今だっ!)
「――――――だああああああああぁぁぁぁっ!」
裂帛の気合と共に、双葉は唯一の武器――――胸に刺さった鋏を右手で引き抜き、
そのまま勢いを殺さずに手首の捻りを利かせナースへと投げつける。
具体的に狙いをつけることは出来なかったし、満足な体勢からのスローイングでもない。
それでも、この至近距離からなら喉笛にでも当たれば重傷を負わせられるはずだ。
一瞬の後。
鋏が、何かに当たった音が響く。
投げながら目を瞑ってしまった双葉は、自分の行動がどのような結果を残したのかを確認すべく、
最後の力を振り絞って目を開ける。
そこにあったのは鋏に仮面を吹き飛ばされ、素顔をあらわにした一人の女。
女の表情には他に表しようがないくらいの驚愕が深く刻まれ、それを見た双葉は少しだけ晴れた気分になる。
同時に、一つの疑問が生まれてくることを感じる。
そのまま勢いを殺さずに手首の捻りを利かせナースへと投げつける。
具体的に狙いをつけることは出来なかったし、満足な体勢からのスローイングでもない。
それでも、この至近距離からなら喉笛にでも当たれば重傷を負わせられるはずだ。
一瞬の後。
鋏が、何かに当たった音が響く。
投げながら目を瞑ってしまった双葉は、自分の行動がどのような結果を残したのかを確認すべく、
最後の力を振り絞って目を開ける。
そこにあったのは鋏に仮面を吹き飛ばされ、素顔をあらわにした一人の女。
女の表情には他に表しようがないくらいの驚愕が深く刻まれ、それを見た双葉は少しだけ晴れた気分になる。
同時に、一つの疑問が生まれてくることを感じる。
(……あれ。こいつ……どっかで……?)
奇妙な既視感が双葉に迫るが、それを纏められる状態にあるはずがなかった。
福引は当てたことがあるというのに、こんなときに限って運がないのかと自嘲する。
福引は当てたことがあるというのに、こんなときに限って運がないのかと自嘲する。
(……邪魔な仮面だったな。一泡吹かせるどころか相手の顔に傷一つつけられねーでやんの)
体が冷たくなるペースが速くなってきた。鋏を無理して抜いたせいで胸からの失血がひどくなったらしい。
襲撃者は双葉に止めを刺さず、仮面を回収しながら何かから逃げるようにその場を後にしていた。
襲撃者は双葉に止めを刺さず、仮面を回収しながら何かから逃げるようにその場を後にしていた。
(……あー、そっか。さっきのは誰かが来た音だったのか。……まっ、どうせ助けなんてこねーだろーけど。
ここで会ったやつは神楽以外にろくなヤツがいなかったんだし)
ここで会ったやつは神楽以外にろくなヤツがいなかったんだし)
視界の中に、瞼の裏側とは異なる黒いヴェールが緩やかに舞い降りてくる。
(誰だか知らねーけど……止め刺したけりゃ、……勝手にしろ、ってんだ…………)
ヒューズが切れるように、限界を突破した。
* * *