この一連の講座はまだ完全なものではないが、全体を通じて、最終的には次のような目標を達成できると考えている。
絵を描きたいという気持ちはあるが、思い通りに描けない人や、
それをどうにかしようとする意欲があって、理詰めで考え、行き詰っていたり、
あきらめかけている人が、それなりに描けるようになる。
それをどうにかしようとする意欲があって、理詰めで考え、行き詰っていたり、
あきらめかけている人が、それなりに描けるようになる。
こういった点で、いわゆる「絵画技法」と呼ばれる講座とは違った構成になっている。
絵を描けない人の多くが、「ものの見方」を学ぶ前に、「自分に才能がないのが原因だ」と考えてしまい、
それで行き詰っていることがある。
それで行き詰っていることがある。
だがそれは真理ではない。
絵を描けなくても、自分の名前を手書きできたり、友達の住所やニックネームを書くことはできるはずである。
自分の名前をひらがなでも、漢字でも、ローマ字でも書くことができるだろう。
手を動かして、「何らかの意味を持った文字」を書き記すことはできているのである。
事実、「絵画」は形が複雑に見えるだけで、それを描く工程は「文字」を書くことと変わらないのだ。
では、なぜ描けないのか?
「才能」は関係ない。少なくとも最重要のことではない。
絵が描けなくても、画数の多い漢字や、○、△、◇などの図形を書くことはできるだろう。
絵が、漢字や図形に比べて「はるかに複雑」なのが原因なのだ。
そして、その複雑な形を「見る方法を知らないから」である。
残念なことに、「見る方法」を習得する前に、さまざまな圧力に屈してしまう人が大勢いる。
「人間の全身を描けて当然だ」
「これを描けないと、この先、生き残れない」
「描けるようになるまで練習せよ」
「これを描けないと、この先、生き残れない」
「描けるようになるまで練習せよ」
さまざまな圧力は外部から加えられることもあるが、自分自身で課してしまうことも多い。
「顔すらまともに描けないのに、どうやって全身を描いたらいいのか」
「描いては消し、描いては消し、いつまでたっても進まない」
「自分には絵の素質がない。あきらめよう」
「描いては消し、描いては消し、いつまでたっても進まない」
「自分には絵の素質がない。あきらめよう」
名前(サイン)の筆跡が固有のものであるように、絵にも固有のものがある。
手書きの名前は、基本的に「唯一」の存在である。
写真やコピーをとったものも、一見、本物のようであるが、
筆圧や細部までを再現することはできないからだ。
筆圧や細部までを再現することはできないからだ。
「名前を書くのがへたくそ」と指摘された経験のある人がいるかもしれない。
しかし、それでも「名前」として世間に通用しているはずである。
名前を書くのが下手だと注意され、二度と自分の名前を書くことができなくなった人というのを
私は知らないが、少なくとも、絵を描くのをやめてしまった人よりは少ないはずである。
私は知らないが、少なくとも、絵を描くのをやめてしまった人よりは少ないはずである。
名前は書けるのに、絵は描けない。
逆に考えてみよう。
絵も、名前を書くのと同じように描けばよいのではないか。
「簡単な絵」なら、誰にだって描けるではないか。
その通りである。
その解釈は間違っていない。
事実、非常に簡単な──□や○などの図形を組み合わせただけの──絵を、一つのシンボルとして、
自由自在に描くことができるという人は多い。
自由自在に描くことができるという人は多い。
「棒人間」
「星のカービィ」
「パックマン」
「星のカービィ」
「パックマン」
これらのキャラクターは、説明を付け加えなくても、知っている人には通用することが多い。
実際、そのような絵を描き続けて成功を収めている人も存在している。
ところが、「ピカチュウ」のように少し複雑なキャラクターになると、満足に描けなくなってしまう。
一生懸命に似せようと描いても、ピカチュウではない物体になることがある。
満足に描けないことがわかった時点で「限界」を感じてしまい、
それよりも複雑な絵を敬遠し、「描きたくない」と思うようになるのである。
それよりも複雑な絵を敬遠し、「描きたくない」と思うようになるのである。
それでも絵を描くことはできている。
「へのへのもへじ」
「ドラえもん」
「スプー」
「ドラえもん」
「スプー」
のように「絵描き歌」の存在するキャラクターがある。
絵描き歌というのは非常に合理的なものであり、歌のとおりに手を動かせば誰でも描くことができるようになっている。
そのパーツの一つ一つは簡単な図形になっており、図形についてよほど大きな誤解をしていない限り、
きちんとキャラクターとして認識できる絵が完成する。
きちんとキャラクターとして認識できる絵が完成する。
とはいえ、このような絵で満足する人は少ないだろう。
もっと複雑で、時には写実的な絵を描いてみたいと思う読者も多いはずである。
どんな絵も、とことん簡略化すれば単なる図形になる。
逆に、簡単な図形を基本として、複雑な絵を描いていくこともできる。
どちらの向きに考えるとしても、それは連続していることに注目してもらいたい。
石膏(せっこう)の塊を少しずつ削って、人物の胸像を作り上げる工程も、
もともと立方体のような単純な図形から始まっているのである。
もともと立方体のような単純な図形から始まっているのである。
逆に、人物の胸像を削って立方体にすることもできる(サイズは小さくなるが)。
どのようにものを見れば、単純な図形を複雑な絵に変えていくことができるのか。
初めから複雑なものを描こうと思うと、頭が混乱してしまう。
よくデッサンの課程で、石膏や陶器でできた球体や三角柱などのモデルをテーブルに並べ、
そのモチーフを描くといった練習することがあるのは、
「簡単な図形を、いかに注意深く観察し、描くか」
に焦点を当てており、「ものの見方」を養うのに最適だからである。
そのモチーフを描くといった練習することがあるのは、
「簡単な図形を、いかに注意深く観察し、描くか」
に焦点を当てており、「ものの見方」を養うのに最適だからである。
初めから「生身の人間」にモデルになってもらって、それを描けといわれても、無理だろう。
「上手く描く」とか「練習をする」などと難しく考えなくてよいので、
ティッシュペーパーを1枚、テーブルの上に広げて置き、それを描いてみよう。
ティッシュペーパーを1枚、テーブルの上に広げて置き、それを描いてみよう。
美術の授業では「くしゃくしゃに丸めたティッシュペーパー」を描くように言われる場合があるが、
あまりにも複雑に見えるため、描くのが嫌になってしまうことが多い。
あまりにも複雑に見えるため、描くのが嫌になってしまうことが多い。
以前にも説明したとおり、絵を描くことがストレスになってしまっては困るので、
最初は「広げたティッシュペーパー」を描くようにしてほしい。
最初は「広げたティッシュペーパー」を描くようにしてほしい。
ただ「四角形」を描くだけでもよいし、ティッシュの陰影を薄くつけてみるのもよい。
そして、描くことが楽しく、気持ちよく感じられたら、今度はティッシュを2つに折ったものを描いてみよう。
「絵を描くこと」に対する緊張が、以前よりもずっと緩和されているはずだ。





