白夜戦争

概要

白夜戦争とは1940年11月3日から翌2月26日にかけてヴォストルージア社会主義共和国連邦カレヴァランド共和国との間で戦われた戦争である。
カレヴァランド軍の予想以上の奮戦に加えて、粛清により弱体化したヴォ連軍側の不手際も重なり、戦局は泥沼化。戦争はおよそ四ヶ月にも渡って続いた。

※擱坐したMPT-34試作機。香蘭軍が設置した対戦車障害物に躓いて、転倒したところをほぼ無傷の状態で鹵獲された。

侵攻の背景

独立後、国内で内戦が繰り広げられたカレヴァランドでは、最終的にエントリヒが支援する白衛軍がヴォ連の支援する赤衛軍を退け政権の座についた経緯から、
爾来ヴォ連との関係は良好なものでは無かった。
それでも1920年代には両国の関係は比較的安定していたが、1930年代に入ると革命の混乱期を脱したヴォ連では革命の輸出の名の下、再び覇権主義をとなえ周
辺諸国を自国の影響下に置かんとした。
それは革命以来次々と旧ヴォストラビア帝国のくびきから脱していった国々を再び、ヴォ連の元に統べんとする領土的野心の現れであった。

戦争の経緯

当初ヴォ連では、対G戦の追われる国際社会の隙をついて10日以内にカレヴァランド全土を制圧し既成事実を積み上げる目論みであった。
戦後体制を睨んでヴォ連も巻き込んだ対エントリヒ包囲網形成を優先するクロッセル連合は関係悪化を危惧して事態を静観し、エントリヒ帝国はグレート
ウォール戦線の戦局がのっぴきならない状況であったために即座に行動することができず、ヴォ連の侵攻は国際社会の軍事的、政治的間隙を突いたものであった。

1940年11月3日。ヴァ連側の発表では国境付近でカレヴァランド軍の部隊による越境行為があったとし、これを膺懲せんとヴォ連軍は一斉に国境を超えてカレヴァランドに侵攻した。
無論これはヴォ連側の言いがかりである。

機械化され圧倒的な砲兵火力を持つヴォ連軍総兵力75万に対し、香蘭軍は25万人。その上装備は殆どが旧式であった。
当初10日で終わるはずだった戦争は予想を上回るカレヴァランド軍の熾烈な抵抗の前に行き詰ることとなる。
大粛清により軍将校の実に過半数を失い形骸化したヴォ連軍は、敵に対し兵員数で3倍も優越し、戦車や航空機にいたっては数十倍という圧倒的物量を投入しながら
その数的優位を活かすことが出来なかった。
神出鬼没のカレヴァランド軍は、地の利を生かして細い街道でヴォ連軍を待ち伏せして、奇襲を加えて狼狽したヴォ連軍部隊を分断し各個撃破していった。
ヴォ連軍の損害は開戦から一ヶ月の間に10万人に達した。このころから早くも戦争の落とし所が両国との間で模索され始める。

これに対しスタリーナは現地の指揮を取るイワン・ウボレビッチ大将を処刑し、後任にレオニード・ベクレネフ大将を据え態勢の立て直しを図った。
加えて編成されて間もないMAID部隊を投入したといわれているが、もし事実であるとすればMAIDを国際紛争に使用しないことを謳ったセントグラール条約に違反するものである。
またカルヴァランドを半ば公然と支援するエントリヒも密かにMAIDを派遣したといわれているが、両国ともその事実を否定している。

この時点でカルヴァランドには各国から続々と義勇兵が参集し、クロッセル連合の一部を含めた世界各国から軍需物資が提供されたが、逼迫した対G戦の戦況から提供されたものは
何れも旧式なものばかりであった。

1月下旬に入るとエントリヒは艦隊を出撃させカレヴァランド海峡を封鎖しヴォ連に対して即時停戦に応じるよう圧力をかけた。

結局年が明けても戦局は好転せず、国際社会の非難の高まりに加え、エントリヒが本格的な軍事介入にちらつかせてきたことによりこれ以上の戦争の継続は困難と判断し、ヴォ連は
圧力に屈する形で41年2月25日にカレヴァランドとの間に講和条約を締結した。

この戦いにカレヴァランドは辛くも独立を守り抜いたが、国土の十分の一をヴォ連に割譲することを余儀なくされた。またヴォ連も大きな損害を出した割には得るものも少なく、ま
た弱体な軍の実情を世界に晒す醜態を演じ、国としての威信は大きく失墜し、双方ともに不満の残る結果となった。

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最終更新:2009年03月20日 00:16
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