(投稿者:怨是)
ルージア戦争の爪痕に人々が咽び泣く頃、個人の無力を救済するかのように現れたのが、リー・ザンプの“荒野の守護神”である。
彼の小説は“超人志向主義”と呼ばれ、多くの人々は彼の描き出す力強い描写に心打たれたものであった。
圧倒的な身体能力、電撃よりも素早く訪れる閃き。
それらは希望となり、あらゆる事物を照らさんとしてまばゆい輝きを放っていた。
が、太陽が輝いていられるのは昼間だけと、天動説が何時しか地動説へと覆される前から人々は知っている。
陽光に楔を打ち込むのは何時の日も闇であると相場が決まっているのだ。
アドルフ・カーツは伝奇小説“全ての掃き溜めの国”を以ってして、リー・ザンプに真っ向から対立した。
ザンプの“超人志向主義”を“脱人夢想主義”として嘲い、踏み躙って見せた。
全ての掃き溜めの国は一言に纏めてしまえば、私立探偵を営むマドット・ツァッペル(Madot Zapper)が数々の怪異に対し、コネと金と悪知恵だけで立ち向かう物語である。
志を共にする仲間は、この小説では陰険な顔をした交渉相手に取って代わられた。
全てを薙ぎ倒す力は、この小説では使い方次第で世界中の99%のものを手に入れられる、あの紙切れに取って代わられた。
閃く電撃のようなアイデアは、煤けた路地裏でたんまりと蓄えられた老獪な知恵に取って代わられた。
有り体に云ってしまうと、読者との視野が近いのだ。
だからこそ、大衆のルサンチマン――妬み、僻みと無力感の入り混じった感情を別のベクトルから救済する事に成功したのである。
――1944年8月10日。
宛がわれた個室にて、シュミットは今まで愛読していたこの本の、最後のページを開いていた。
窓からは光が差し込み、夏の爽やかな風がページを戻そうと必死にこちらへと飛び込んでくる。
シュミットはそれを指で押さえる度に、あの悪戯好きの風を疎ましく思うのだった。
……地球全土の圧倒的大多数を占める“ただの人間”にとって、結局のところ超人は夢物語でしかない。
どこかに貴方に味方をしてくれる無敵の軍団が、貴方の到来を待っているという事は無い。
また、剣の一振りだけで突風が巻き起こって悪の壁を吹き飛ばすような事も無い。
隣人が必ずしも貴方の死を悲しんでくれるとも限らないし、信頼の置ける貴方の上司も数年後には別の事に頭を抱えているかもしれない。
都合良く敵の為の墓石が転がっている事も無ければ、そこに案内する墓守も存在しないかもしれない。
生命の危機に瀕した時、秘密の能力が開眼する事もまた有り得ない。
何より、拳を前に突き出した所で見えない壁を叩き崩す事などできないのだ。
故にどのような馬鹿力を持っていても、無敵の軍団が牙をむいても、そこに横たわる膨大な暗闇を打ち砕く事は出来ない。
貴方がもし暗闇を疎ましく思うのなら、太陽だけを見ていれば良い。
が、そこに生じるいかなる損失も、私は責任を追う事はできない。
「やれ」と云われて一つの逡巡も無しにそれを成すのならば、貴方は家畜以上には成り得ない。
私の住む家の裏庭に居るあの忌々しいばか犬ですら、私の言葉に首を傾げてその意味を噛み砕いたものだ。
犬ですら出来るのだから、貴方にそれが出来ないという道理がどこにあろうか。
おおよそ吐き棄てた痰程度には名状し難い感情と共に後書きを読み終えたシュミットは、傍らで全く同じ本にしおりを挟みこむ女性を眼前に捉える。
女性は、部下に用意させた簡素な椅子に座っていた。
シャワーで泥を落とし、新しい制服に着替えた姿が湯気と共に色香を撒き散らす。
青い長髪に、整った顔。南国の海は灰色の写真でしか見たことが無いが、おおよそこのような色をしているに違いない。
唇は僅かばかりの粘度を伴った水分に覆われ、大きな乳房は多産をものともしないように思える。
実のところは性的な興味をそそられるという程でもなかったが、シュミットは彼女が花売りの仕事において実用範囲というものを超えていると感じた。
上物と称するには、半社交界にて嫉妬を集めすぎてしまいそうだった。彼女なら高級娼婦もやってのけるに違いない。
ただし、彼女が人間であったなら。残念ながら人間ではない。
確かに或る面では残念ではない。
永遠に身篭る機会を失われたという事は――本人が望むか否かに関わらず――永遠に娼婦であり続けられる。
シュヴェルテの場合は娼婦の道を棄てたように見えた。
今はコア出力抑制装置の首輪を文字通り取り去り、獰猛な殺気を全身の皮膚に満遍なく塗りたくっている。
「どこまで読んだ?」
「下巻の最終章まで読みました」
見事な読書量だ。話を聞いた限りでは、花売り時代に最初の売春宿での客の一人がわざわざ買って与えたらしい。
そこはもう潰れてしまったそうだが、宿の支配人も「客との話の種を増やすのは商売の基本」と云って、積極的に読ませたのだという。
なるほど、教養を積んだ娼婦というのは中々に厄介なものだ。
多くの男達は、女性が白痴のものであるとして初めから絶望している。
しかし、その口はキスだけでは満足する事は無く、いつしか行為の最中に語り始めるのだ。
己の理想や世間話、愚痴、愛の言葉に罵り言葉に相談事など。
何も、茎を通すだけが花売りの仕事ではない。
人間は言葉を持つが故に厄介なのである。
「そこまでで得られた感想は?」
「私の境遇を、慰めてくれるような気がします」
このシュヴェルテの気性は、やや自己陶酔の強すぎるきらいがある。
かつて多くの事件で様々な人間を尋問したが、この女性には唯一、自白剤など必要ないのではないかとさえ思えた。
こちらが聞くまでも無く、ありとあらゆる身の上話を提供してくれる。
花売り時代の客にはこういう男が多かったとか、待遇は悪くはなかったとか、その他、詮無き事の塩の一振りに至るまで。
シュミットは判断した。彼女は、おそらく話す相手が居なかったか、それともガス抜きが必要なのかのどちらかであると。
毒舌の土俵に立つのは気が進まない。その複雑な言葉を理解できるだけの知性を、シュミットは彼女から見抜けなかった。
趣味が読書? どうせ、あのアシュレイとかいう男が「そうしろ」と云ったから、それに従っただけではないだろうか。
「特に好きなのはこれですね」
「あぁ、その章か」
彼女からは主体性の欠如が感じられた。
さて、それはそうとしてシュミットは彼女の指し示した章に視線を遣る。
題して“くたばれメアリー・スー!”。この章は、まさにアドルフ・カーツ作品の本髄とも云えるものである。
あらすじは以下の通り。
メアリー・スーは数々の強力な超能力と、異種族との混血――ただし、忌むべき種族との交配で生まれた――によって得られた誰もがうらやむ美貌の持ち主。
赤い右目と紫の左目、そして晴れの日の雪景色のような銀色の髪を持つ。
かつて存在した月の帝国の支配者の末裔であり、政敵に殺される事を防ぐ為に、貧民街で暮らしていた。
女性でありながら14歳の若さでギャングのボスとなり、大陸の巨大王国と戦って国王とも打ち解けた。
などなどの、いわゆる超人と称される類の彼女は、ツァッペルの行く先々の困難を圧倒的な力で解決して行く。
ツァッペルが何年かけても倒せずに逃走せざるを得なかった宿敵ですら、彼女の超能力の前では為す術も無く倒れてしまったのだ。
世界中に注目され、メアリーは世界を救った英雄として称えられる。
が、その裏では能力の反動によって主人公ツァッペルの生活が悉く破壊されていた。
街に緑が戻った事で行きつけのバーは潰れ、両親の墓は樹海に呑まれて消えてしまった。
メアリーはそれでも咎められない。かつて「この世の全てを救ってみせる」と豪語して見せた世界の英雄にとって、薄汚れた男の世俗的な生活など知ったことではないのだ。
そんなメアリーはしかし、ツァッペルのたった一言で自我を失い発狂してしまう。
能力を乱発するメアリに対し、ツァッペルは耳を塞ぎ、目を閉じる。
そのまま、走って逃げ続けると、線路に辿り着く。
メアリーは汽車に気づかずに線路を渡り、最後には轢き殺されてその幕を閉じる。
歓喜のあまり飛び上がるツァッペル。
彼は瀕死のメアリーに唾を吐き掛け「正義は星の数だけあるというのに、お前は太陽になろうとした! そうして要らんものまで起こしちまったんだ! くたばれメアリー・スー!」と語りかける。
その後、彼女を線路上に置き去りにしてハゲワシに喰わせた。
彼女が世界を救った英雄であると、列車の運転手もハゲワシも、知る由もなかったのだ。
新聞で見たメアリー・スーは血の涙を流しながら民間人を追いかけるような人間には見えない。
カーツの作風は、しばしばこのような暴力的な描写が見られる。
彼は恐れ、憎んでいるのだ。人々が“脱人夢想主義”に溺れ、自分が実は特別な人間であるが社会が自分を許さないなどといった世迷いごとをすくすくと心の中で育むのを。
だからこそ彼は過剰なまでに捲くし立て、叩き潰さんとした。
日常の象徴たる汽車で、非日常の象徴たる超能力を轢き殺し、あまつさえそこに唾を吐きかけて罵倒した。
彼は自意識、自我による痛烈な自己啓発を行わんとしたのである。
シュミットはこの書物を、是非とも
軍事正常化委員会の推薦図書にしてみたいと思った。
そうとも。
エメリンスキー旅団は金という魔術に溺れたメアリ・スーだ。
そしてまた、特定MAIDも、それを生み出す技術屋共も、数多くの弱者や中流階級の活躍の場を容赦なく奪い去り、さも世界は自分を中心に廻っているかのように吹聴する夢想家であり、メアリ・スーなのだ。
「私があのかび臭いベッドに押し込められている間、私のスコアを遥かに超えて、私よりも恋を謳歌する……
それがどれだけ冒涜的で、許せない行為であるかを教えてやりたいのです」
「……ルサンチマンだな」
人が他者に罰を与えるのは、正義感からではない。
同じ痛みを与える事で自らの心を慰める為である。
それ故に大量殺人犯は死刑になるし、兵士達は敵兵に撃ち殺される。
偉大なる革命家などと銘打って天狗の鼻を伸ばした政治家は、そのうち銅像を打ち砕かれる。
殴られて育った子供が成長して親になった時、また自らの子供を殴って育てる。
そのほうが合理的に育つのか。否、そうではない。
シュミットには確信がある。彼ら殴る親は、そうする事で子供に伝えるのである。
「私は殴られて育った。だからお前も殴られて育て」と。
復讐は全て、痛み分けへと帰結する。
「知識人はそうやって枠に嵌めようとします。ですが気づいてください。
そのラベルは“イチゴのジャム”とありますが、中身は本当にイチゴですか? ラズベリーである可能性は?」
「下巻第四章に出て来た台詞だな。つまり何だ。ルサンチマンという単語の一つで片付けられたくないとでも」
「その通りですよ、シュミット少佐。あんな湿気の多い感情で動ける訳がありませんもの」
ルサンチマンは確かに、湿度の高い感情である。
もしも友人がつまらない嫉妬に数週間も拘泥していたら、多くの人間は「うじうじするな、みっともない」と不快感を露わにする。
濡れたシャツを乾かさずに居られるほど、人間は我慢強く出来ていない。
「ならば義憤とでも云うつもりか」
「でも、貴方とて同じ事でしょう? 自分の活躍の場がすぐ近くにありながら、皇室親衛隊に鬱蒼と生い茂るしがらみが、貴方を閉じ込めた。
貴方はそれが許せない。自分は鋭い牙を持っているのに、目の前に餌がありながらそれを喰らう事を良しとしなかった飼い主を。あら、何という事でしょう。脱人夢想者にそっくりですね」
シュミットの思考に楔が打ち込まれる。
別段、これといった超人的な能力も無ければ、天才と称される所業など射撃くらいしか思いつかない。
「笑えない冗談だ。私が、脱人夢想者などと」
「果たして本当に冗談でしょうか……ねぇえ? 銀色って、好き?」
「は?」
何かの謎掛けだろうか。
銀色が何かを意味しているのか。
逡巡するシュミットをよそに、シュヴェルテは先ほどと関連しているようで繋がっていない質問を付け足す。
「銀色の反対は?」
「金色だろう」
「じゃあ、灰色の反対は?」
補色の話か。シュミットはそろそろ、自分が馬鹿にされているのではないかと彼女を訝しむようになっていた。
一般的な知識を問われているのか。それとも言葉遊びに付き合わされているだけなのか。
調書によると、彼女の趣味は読書
「無彩色の反対は有彩色だが」
「それでは駄目。灰色そのものの反対を訊いているんです」
「……難しいな」
「答えは私も知りません。あるかもしれないし、無いかもしれない。でも、それは誰にも決められない。
今、貴方は決められる事を前提として考えていませんでしたか?」
彼女が何を云わんとしているのか。シュミットは理解に苦しんだ。
ラベルの話とリンクしているのか。取りとめの無い話題が次から次へと流れて来られても。
シュミットはもう少し、理論的な話を渇望した。
「非建設的な話題だ。取るに足らん」
「ほぉら、そうやって理解できないものは全部無価値と決め付ける……価値を
一人で決めて、世界は自分中心に廻ってると考えてる。だから、貴方もメアリー。自分が一番である事を望んでいる」
「……そうか。ところで、お前も私にラベルを貼ってしまったようだが」
「私はラベルに糊を付けない主義でして」
「知らん。言葉遊びのやりすぎは本質を見失う事になるぞ。程ほどにな」
すっかり機嫌を損ねたシュミットは、おもむろに椅子から立ち上がる。
シュヴェルテがその行く手を遮るように、彼の制服の袖を掴んだ。
耳元に息が吹きかかり、イチゴのジャムが耳の中に流し込まれる。
顎の付け根に指を這わせるその仕草はまさに娼婦のそれだった。昼間から、それも兵舎でそれをやるとは何とふしだらな事か。
「お客様ァン、どぉちらへ?」
「ハイハぁイ、行ってらっしゃいませご主人サマ」
肩に顎を乗せながら発せられる、ふざけた口調の猫撫で声が、またシュミットの神経を逆撫でした。
皮膚に小さな鈍痛が響くような心地がして、それから脊髄、脳、次に肝臓の辺りを小指で押されたような気分に陥るのである。
「やめろ……虫唾が走る」
扉を閉め、深呼吸をする。
何の皮肉か意地の悪い冗談か。シュミットには彼女の言葉の三分の一も理解できずにいる心地がした。
人が最初に心の膝を折る瞬間は、己の無力を自覚した時である。多くの男は筋肉の殻に閉じ篭る。そうでもせねば、女性の針のような心に触れられて無事ではいられないのだ。
名状し難き混沌であり、男性達の度し難き宿敵である。
……と、シュミットは胸中で身震いした。
「灰色の反対、か」
黒の反対は白。白の反対は黒。赤の反対は青であり、金の反対は銀である。
感覚的なものである。では灰色の反対は?
全ての色の中間に位置する、ぽっかりと空いたこの灰色の穴は、誰が説明するのか。
いくら手を突っ込んで掻き回してみても、へどろから何かを掴み取れるのか。
敵が居て、味方が居て。正義があって、悪がある。
確かにそれを厳密に分別するには並々ならぬ労力を要するが、個々人の主観の中においてはその限りではない。
それは単なる思考停止なのだろうか。
あのフュールケの居た、そして
アシュレイ・ゼクスフォルトなる男の居たランスロット隊。
そして、そのランスロット隊に属していたMAIDのシュヴェルテ。
シュミットはスィルトネートの捕らえられている牢屋に歩みを進めつつあったが、
彼女が何を考えているのかを未だに掴めずに居る。
「……いや、完全に理解できると考える事それ自体が、私の傲慢なのだろうか」
最終更新:2009年04月15日 14:53