Chapter 10-8 : 女神の着ぐるみ

(投稿者:怨是)




 Aug.13/1944


 いよいよ、明日から作戦が決行される。
 私は未だに混乱の渦中を往復している。
 思考が空転し、感情の仔細を日記に書き留めることすらできない。

 どう動けばよかったのか。
 如何にしてこれから訪れるであろう苦しみを回避できようか。
 何かが思いつく度に、もう一人の私がそれを否定する。
 代わりの案を考えても、考えても、考えても、考えても、私にはどう動けば良かったのか、見当も付かない。
 無力を嘆く事しか、今の私には許されていないのかもしれない。

 赤子の産声は、この世界に産み落とされた事に対する慟哭だという。
 では……生まれてすぐに泣く事すら許されなかった私達MAIDは?
 今に至るまで、私は涙の許される場所を見つけられずに居る。







 さほど荒れた様子も無い執務室に、ジークフリートは足を踏み入れていた。
 整頓された本、私物の片付けられた机、塵一つ付着していない色替え国旗。
 ともすれば冷涼とした雰囲気すら感じ取れるこの部屋に、グライヒヴィッツは居ない。
 彼はどこへ行ってしまったのだろうかと思考を巡らせる前に、無力感と罪悪感に苛まれる。
 どう動けば良かったのか。
 おもむろに、机の引き出しに手を伸ばしながら回想する。


『――貴女という人が居ながら、何故スィルトネートを助けなかったのですか』

 メディシスの言葉が耳に痛い。
 やろうと思えばGを黒旗付近に誘導し、撹乱する事もできなくもなかった。
 しかし、思いつきこそすれど、少なからず味方に被害が出る。
 それならば近くに居る他の誰かが代わりにやってくれたほうが効率的ではないか。
 その考えの基に、Gと戦う道をジークは選んだ。


 結果としてスィルトネートは拉致され、ここで捕われの身となったのである。ギーレン宰相が激昂し、総攻撃が開始された。
 ジークフリートが今回の攻撃部隊に選抜されたのは別の意図によるものだったが、事の顛末を後に知った時のギーレンの表情は、今でも脳裏に焼きついている。
 拳を握り締め、目を見開いた、今にも殴り掛からんばかりの形相で、額には青筋さえ浮かべていた。

『誰の差し金だ。皇帝派か! 云え、ジークフリート! あの老害どもの云い付けを素直に守っているのか……!』

 胸倉を掴んだ時の彼は、まさしく鬼の形相だった。
 臨時の側近が慌てて止めなかったら、おそらくは鼻血どころでは済まされなかった。

『何ゆえに口を噤むか! 疚しい理由があるのか! ええい、権限さえあれば今すぐ自白剤を投与してやったというに!』

 その場は拳の一発だけで収まったものの、殴られてよろめいた際にテーブルのグラスを割ってしまい、腕を少し切ってしまった。
 あの怒りはそれだけで静まるものでもない。彼は次の一撃に備え、またも拳を握り締めていたのだから。
 結局、その日の出来事は内密に処理され、現場に居た者達――ギーレン宰相と側近とジークフリートだけが知るに留まる。

 ――皇帝に伝えるべきか。伝えざるべきか。


『ほら、黙らない! きちんと仰いなさい! その戦線を放棄してはならない理由があったのですか!
 誰かに命令されていたのですか? どうなのですか!』

 否。伝えられる筈も無い。
 救うべき場面で手を差し伸べられなかった事がそもそもの発端なのだから。
 何のことは無い。臆病風に吹かれて二の足を踏んでしまっただけだ。
 ギーレンに問い詰められた時も口を開けなかった。こんな下らない理由を云おうものなら、彼はいよいよを以って怒り狂うだろう。
 周囲の反対を押し切って断頭台を用意するに違いない。

 回想を終え、引き出しを開く。
 中に転がっていた日記帳とペンが、ただ、ただ、哀しげに存在を主張していた。
 黒い表紙に国旗状に赤と金の箔で押し加工が施された日記帳は、特注品だろうか。
 帝国製紙工場が皇室向けに生産した日記帳は本来ならば赤い表紙に黒と銀の箔押しである。
 皇帝も宰相も日記をつけているし、かつての教官だったヴォルフ・フォン・シュナイダー少佐――現在は大佐――も、皆赤い表紙のものを使っていた。
 シュナイダーに渡された自分用の日記帳も、同じく赤い表紙である。

 あのシュナイダーからも、鉄拳を受けた事があったか。
 拳の振るえこそ同じなれど、そこに込められた想いはギーレンのそれとは明らかに異質だった。
 ただ、どう違うかまでは、ジークには察せられずに居た。



「……――人様の部屋を物色するなんて、中々いい趣味してますね」

 全身の毛穴に火がつき、コンマ一秒ほどの耳鳴りと共に鼓動が加速する。
 急いで振り向くと、無造作に伸ばした金髪に、露出度の高い服装のMAIDらしき人影が佇んでいた。
 慌てて日記帳を元の位置に戻そうとし、そのまま取りこぼす。中に挟んであった紙がいくつかこぼれたが、拾い集める余裕は無い。

「誰……?」

「皆様ご存知の軍事正常化委員会のしがないMAID、ロナですが何か。
 あーあ……フィルトルの奴、もう少しの間ここに残ってたら念願のジーク様に会えたろうになぁ」

 後半の独り言はとりあえず無視するとして、黒旗のMAIDならば捨て置く訳にも行くまい。
 ジークフリートには幾つか選択肢はあったが、殺すという選択だけはしたくなかった。
 大剣を床に突き立て、警告する。

「勝敗は既に決している。無駄な抵抗はやめて欲しい……」

「勘弁してくださいよ。こちとら手出し禁止なんですから。まぁ願わくば見逃していただけるのが一番ありがたいんですけどね」

 見逃すまでは行かずとも、捕らえる程度なら……それなら命までは奪うまい。
 どんなに罪状が重かろうと、貴重な戦闘員である。もしかしたら捕虜、そしてそのまま皇室親衛隊に引きこむ事も不可能ではない。
 ジークフリートの肩書きに多少の自負はある。皇帝派に上手く取り入れば、要求は通るかもしれない。

「なら、せめて目的だけでも」

「……うーん、どうしようかなぁ。あ、じゃあ廷内散歩でどうですか。あたしたちは偶然出会ってしまった。
 ただそれだけ。この際、深く考えたら負けでしょ。うんうん」

 のらりくらりと弁明するロナを他所に、通信機のピープ音が状況の変化を伝える。

《地上工作七班より作戦本部へ。スィルトネートの救出を完了した。これより帰投する》

「ぁ……」


 いつの間に、ヘッドフォンからスピーカーに切り替えてしまっていたのか。
 今の通信で完全に敵方のロナへと情報が伝わってしまった。
 が、意外な反応が返ってくる。敵意の無い笑顔と共に。

「何、だからって別に貴女と戦うつもりはないですよ。
 あたしだって、何のためにここで働かされているのやら……気がつけばこのザマですから」

 少なくとも柳鶴やイレーネよりは、話が通じそうではある。いつしかジークはある種の嗅覚に敏感になっていたのだ。
 相手が敵意を持っているかどうかを見分ける術を、いつの間にか手に入れていた。
 臆病を極めた者達の、特権だろうか。

「そうか……」

「なるべくなら、もっと真っ当な人生を送りたかったけど、あたしには無理そうですよ……」

「いや、できる、きっとでき――」

「――ロナ、こんな所に居たのか」

「ぅぁ、やばッ……」

 説得しようにも言葉がうまく出せずにやきもきしていた所を、黒旗の兵士に見咎められてしまった。
 彼にも説得すべきか。やめておくべきか。この兵士からは殺気が漏れ出ている。

「貴様も通信を聞い……おぉぉ、ジークフリート様!」

 こちらに気づき、素っ頓狂な感嘆の声を上げる黒旗兵。
 信心深い男なのだろう。駆け寄って跪き、祈るかのようにこちらの手を握り、熱っぽい眼差しを向けてくる彼は、まさしく狂信者の姿だった。

「心よりお待ちしておりました! 我々の奮闘、しかとご覧に入れましょうぞ!
 そう、貴女こそが! 我らが守護女神様こそがこの世界において最強の存在! 貴女を超えようとする者たちの翼は我々が例外なく剥ぎ取り、打ち棄ててさしあげましょう!」

 心の奥底に土足で踏み入られたような感情と共に、喉が内側から絞まる。
 虫唾だ。これが虫唾なのか。否、恐怖ではないか。
 熱に浮かされ正気の何割かをどこかに置いてきてしまった者に対する、僅かばかりの恐怖ではないだろうか。
 放って置けばどこまでも絡み付き、蝕んで来る。家主を失って朽ち果てた建物のように、やがては彼らの熱情が、狂気が、こちらの心に複雑に組み付いて離さなくなるのだろうか。
 ジークフリートはただ、平穏に、自分の領域の中で過ごしていたいだけだ。

「いつか必ずや、ジークフリート様が正しきMAIDである事を全世界に証明して見せます」

「くっだらね……」

 ロナの一言が、熱弁する黒旗兵に水を差す。
 そして、その“下らない”という言葉は、男を激怒させるには充分すぎた。
 耳を掴んで引き摺り寄せ、大声で怒鳴り散らす。

「下らないとは何だ貴様! だいたい、戦闘はどうしたんだ!」

「嫌ですよ、あんな、勝てる見込みのない」

「役立たずめ……なら直接連れて行くまでだ!」

「やだ、やめろ、この……!」

 抵抗するロナと、耳や腕などを掴んで引き摺る黒旗兵とを交互に見ながら、ジークフリートは手を伸ばしたまま立ち尽くす。
 急いで止めるべきか。否、後の事を考えて止めざるべきか。
 一を救うために九を棄てる事は、理に適っていない。他にも多くのMAIDが居る中で、ロナだけ贔屓して良いものなのか。
 葛藤はしかし、黒旗兵の最後の挨拶によって遮られる。

「どうか、最後まで見届けていてください。我らの聖戦に、ジークフリート様の加護あらん事を! ハイル・エントリヒ!」

「離せ馬鹿、離せ! あたしはお前みたいに“男”を主張する奴が大嫌いだ、お前らみんな――……」


 ドアが乱暴に閉められ、喧騒はシャットアウトされる。
 ジークフリートは確かに見てしまった。
 ロナの眼差しが、助けを求めるものから、諦めのそれへと切り替えてしまったのを。
 あれこれ考える前に動いてみたらどうだとベルゼリアに諭されたにも関わらず、こうしてまた、臆してしまった。

 何が正しく、何が誤りか。
 放心し、その場に座り込む。
 よく物語の主人公は一度の挫折から強大な力を以って立ち直るが、ジークはそんなものは幻想だと思っていた。
 現にこうして挫折の憂き目に遭わされ、頭を抱える事となった。
 挫折する度に心は擦り切れ、多大な出血を伴う。
 胸が痛み、耳鳴りが聴覚の半分を奪って行く。

 あの男を説得するのは十中八九、無理だろう。
 よしんば皇室親衛隊に引き入れた所で、また以前のような暗躍が繰り返される。



 ――違う。
 あの男に限らず、まだ、まだ、暗躍の素養を持ち合わせる者たちは山ほど居た。
 いつかにヒソヒソと話し声が聞こえ、壁に耳を当てた時もスィルトネートの救出失敗を装った暗殺作戦が企てられていた事さえあった。
 ジークがそれを密告すると、翌日には彼らは作戦から外され、皇室反逆の容疑で捕縛された。無論、慎重な調査も行われた上で。
 しかしそれでも根絶はできるまい。その程度の常識はジークフリートも弁えている。

「ぁぐ……ぶ……」

 舌を突く酸味と苦味に伴って視界が融解し、手近なものを手当たり次第に掴む。
 溜め込みすぎた怒りの矛先はどこへやれば良いのかと逡巡するうちに、ふと、気づいてしまった。
 ジークフリートは鏡に映った己の表情が、かつて自分を殴ったシュナイダーのそれと、全く同じである事に気づいてしまった。

『MAIDが恋愛感情を持つなどと……そんな軟弱な考えを何処で知った』

 ふらつく足取りで回想する。今にして思えば、彼は恐怖していたのだ。
 恋という気の迷い、熱病に浮かされ、土足に踏み入ってくるジークフリートを。

『余計な手出しが大きなリスクが伴うことも教えた筈だ』

 感情に付けられる名称こそ違えど、先ほどのあの狂信者と、かつてシュナイダーに心を寄せていた自分と、何が違うのか。
 別の言葉に置き換えたシュナイダーと、何一つ言葉を発する事無く立ち去るのを見送った自分。そこに築いた心の垣根は、どこが違うというのか。

『馴れ合いなら――』

『私は教官をもっと知りたい。もっと好きになりたいのに……』

 机から急いで離れようとし、ライトスタンドに手を引っ掛ける。
 ――私は何と馬鹿な真似を。

 胸中でそう呟くや否や、口の中の酸味は最高潮に達した。
 ある液体は歯を伝い、あるいは鼻腔を塞ぐ。
 また、あるいは口の横から顎へと伝わり、絨毯を正視に堪えぬ色へと染める。
 喉が悲鳴を上げ、涙と鼻汁で顔を濡らしながら、側頭葉の脈打つ感覚に頭を抱える。
 膝を折り、窓を眺め、その場でうずくまる。それでもまだ、視界が輪郭を失うのだけは留まるところを知らずに居た。

「ぅ……ェ……!」


 外の炎が天井を鈍い赤色に染めているのが見える。
 枯れた喉から、精一杯の声を出そうとしても無駄だった。
 ジークフリートはある結論に達してしまった。
 ――今まで勝手に悩んできたのは、結局、熱に浮かされてどこかから目を背けていただけだ。

 Gと戦ってスコアを稼ぎ続けたのも、気を紛らわせる為にやっているに過ぎなかった。
 それが何者かによって恣意的に増幅されたとしても、その結果で何かが得られるならそれはそれで良かった。
 しかしながら、憧れを抱いていた教官の目に止まり、評価される日を夢見ていない訳ではなかった。
 むしろ、それをただひたすらに心の奥底で思い描いていたのかもしれない。

 黒旗問題とて、これだけの騒ぎになればきっと気がかりになる。
 ただ、表立ってあれよこれよと云うのは元々苦手であったし、何よりも。何よりも。

「私は、私は……“被害者”でいたかった、それだけだった、のか……」

 こちらから手を出さねば、被害者でいられる。
 それでもひたすらに戦い続けていれば、俗事に惑わされぬ高貴な戦士として映るかもしれない。
 そこそこのジグソーパズルの中に、欠けていた巨大なピースを填め込めば、そこにはグロテスクな完成図がじっとこちらを見据えていたのだ。
 口の端から唾液と共に垂れ続けるそれを、拭う気分にはなれない。
 肩を上下させ、唾液に涙を混ぜる。両こめかみに爪を立て、髪をくしゃくしゃと掻き回す。
 被害者であり、賞賛される者でありたい。都合の悪い事は全て、どこかに押し遣ってやりたい。
 できる事なら自分に害の及ぶような事など、人生の割合の中で限りなく0%に近づけたい。
 嗚呼、いつからここまで臆病になってしまったのか。
 教官に殴られてからだろうか? ブリュンヒルデがこの世を去ってからか?

『――反省の意思があるなら立て』

 ――いや、涙は拭かねばならない。自覚と反省の後は、行動だ。
 エプロンで顔を満遍なく拭き、ドアを見据えて緩慢な動作で立ち上がる。
 服の至る所を吐瀉物で濡らしてしまったが、かまうものか。どうせ仲間は、黒旗兵の臓物で服を汚している。
 環境は確かに、要因の一つではある。
 が、自力で物事を考えられるだけの視野は、今の己にはあるではないか。
 霞む視界が何だ。眉間に力をこめればすぐにでもクリアになる。深呼吸を何度も繰り返せば、そのうち睫毛に付いた涙も乾く。

 軟弱な自分自身と決別すべく、いまだガクガクと震える拳をしっかり握り締める。
 確かギーレン宰相も、シュナイダー教官も、殴ったのは右の頬だ。
 では同じく一撃を与えよう。

「――んッ!」


 俄かに、吐瀉物の残滓に血の味が混じる。
 それらを咀嚼するようにして掻き雑ぜ、そのまま床へと吐き棄てた。
 嗚呼、これが、これが! 先ほどまでの軟弱な己だとするのなら!

「何て……みじめな……!」

 苦虫を噛み潰した表情で、強く強くその液体を踏み躙る。その度に、重たい振動が部屋中に轟く。
 未だ尾を引く吐き気と、自らに向けて湧き上がる怒りで脳の血管の全てが沸騰し、目に見える光の全てが赤みを帯びているようだった。
 目頭や目尻が引きつるのを何とか両手で押さえ、押さえようとしてバルムンクを床に落とした時の苛立ちが、ひどく緩やかに、しかし刻々と理性を削り取る。
 氷のような深層心理と粘度の高い溶岩のような怒り、生ぬるい身体にひんやりとした汗とが複雑に交じり合う。
 次は本棚に巨大な爪痕を残し、その後にあのクズ男が閉めたドアに一閃の太刀筋を刻み込む。
 立ち止まってばかりの人生はもうやめにしよう。
 暫し両目を閉じた後、ドアを蹴飛ばしてそのまま圧し折った。

「……」


 バルムンクを握り締めた両手が、少しずつ、そして以前よりもはっきりした感触で伝わってきた。
 ようやく、身体中で数ミリずつあったように感じていた“ズレ”が、音を立てて元の場所へと嵌って行く錯覚に襲われる。

 今、一番にやらねばならぬ事は何だ。
 彼らが信仰しているのなら「やめろ」と一言、そう云ってしまえばいい。
 己の不始末“が”多分に含まれている今回の不祥事に、ケリの一つでも付けに行こう。
 鉄のように、否、鉛のように重くなった身体を壁に引き摺り、黒旗の足跡を探る。
 思い出そうとすれば、芋蔓のように様々な過ちを取り出す事ができよう。
 が、それは戦闘の後にしたいというのが、ジークフリートの正直な気分であった。




最終更新:2009年05月04日 03:29
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