(投稿者:店長)
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この作品はエルス氏の薄暮のスピンオフとなります。
よって先にそちらを読んでおくことを推奨します。
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乗用車を走らせる……彼の背後には三人の子供を安心させるように抱擁する女性の姿ある。
隣には副官がハンドルを握り、周囲を兵士七人と侍女兵が一人がバイクに乗りながら護衛する。
いまや彼は追われる立場になってしまった。内心で苦虫を噛み潰し、歯軋りを立てそうになるのを押さえ込んでいた。恐らく隣で運転する副官もそう思っているに違いない。
倭都招魂社における信濃内親王暗殺は失敗した以上、天皇近衛師団の手が及ぶ前に亡命しなければならない。隣の
大華京国にさえ逃げ込めれば……。
★
それは近衛の噂から発端であった。
信濃内親王が偽者……本当の彼女は既にこの世には存在しない。
天皇を頂点とするこの
楼蘭皇国において、許されざることであった。
これがただの虚偽であれば、流した本人にしかるべき罰則を与えねばなるまい。
だが、それが真なら……?
楠木中将は部下を密かに用いて探らせた……すると、ある人物に当たった。
それはもう一人の内親王を擁する一派の重鎮からであった。
「侍女兵と入れ替っているのだ。殿下の死体を用いてな」
冒涜された、と中将は考えた。
死してなお辱められる内親王を思った。
意は決した瞬間だ。正義感がこれを許すはずがなかった。
だが中将の不運は教えられた情報の衝撃に打ちひしがれて、肝心なことを調べれなかったことであった。
……では何故、お隠れになったのであろうか? と。
だが砂時計の砂は戻らず。
暗殺を実行しようとした将来有望な青年将校らは悉く抹殺された。
もう、自分を慕う者達は帰ってこないのだ……。
「中将……」
副官が静かに告げる。
貴方が倒れれば、誰が間違いを正すというのだろうかと。
長年付き合いの長い彼が、表情から中将の心情を汲み取ったのだ。
破裂音、そして急に制御が利かなくなった車両。
突然のことに驚き、泣き叫ぶ家族の声。
なんのこともない。何者かがタイヤを打ち抜いたのだろう。
副官の必死の運転によって、路肩へと突っ込む以上の被害はなかった。
家族にも怪我らしいものは見受けれなかった。
バイクで護衛をしていた者らは即座に乗用車の周囲を固めた。──道路の向こうに、犯人たる侍女兵がいたからだ。──巴である。
信濃院の守護者であり、楠木中将の配下の青年将校らの大半を殺した侍女兵。
「……近衛師団の犬め!」
護衛の兵の誰かが吼えた。
夜の帳から出てきた存在は手に小銃が握られていた。
九九式短小銃……楼蘭が設計した高性能なライフルである。
その小銃には銃剣が装備され、近接でも戦えるようにされていた。
「巴……お前さえいなければッ!」
「音羽!」
布袋に収められていた薙刀を即座に取り出しては飛び込む侍女兵……音羽に対し、巴は銃剣によって攻撃を受け止めた。
音羽の馬の尾のように結った髪が勢いを無くして落ちる前に、両者は切り結んだ。
飛び散る火花に閃く鋼の軌跡の応酬に、他の護衛兵らは介入する機会を失った。
「楠木中将のご意思が判らぬか!」
「ああ、まったく判らんな」
刃で切り払い、柄で殴りあう。
一見すれば互いに互角に見えた戦いであったが、次第に音羽に不利となっていく。
音羽は筋が悪くなく、新人といえども輝くものがある。時を重ねれば立派な侍女兵になれたであろう。
その機会を永遠に失わせることに、巴は密かに嘆息した。
巴の持つ、砂国(ザハーラ)で培った戦闘経験は、才能を完全に凌駕し、押さえ込んだ。
「くっ、はっ!」
「……」
次第に息を荒くする音羽に、まったく乱れのない巴。
気配の操作によって、常に”必殺の一撃”を打ち込まされると錯覚をさせているのだ。
スロットル全開で走らせた車が早く支障が出るのと同じように。
全力疾走する人が長く走れないのと同じように。
これが経験豊富な侍女兵であれば、巴の意図を察して全力で動くこともなかっただろう。
新人故の、実戦経験の無さが招いた不運。
──何時でもそうだ。
小銃に備え付けられた銃剣を叩き込みながら、巴は思う。
──将来が有望なものが、早死にしていく。
「……哀れだな」
「なっ!?」
均衡はついに崩れる。
振り上げられた銃床によって薙刀は打ち上げられたのだ。
返す一撃を顎に打ち込まれ、脳を揺さぶられた音羽はバランスを崩してその場に崩れる。
どこで間違ったのだろう。
何がお互いを違えさせたのだろう。
判るのは、自分には殺すことしかできないという諦め。
「音羽といったな……その名前を、私は忘れない」
「あっ……ぁ……」
銃剣は、まっすぐに肋骨をすり抜け、心臓を貫いた。
遠くに落下する薙刀が、薄暗い中響き渡る。
「ちゅう……じょう……」
銃剣を引き抜かれた後に、彼女は倒れた。
ゆっくりと目元に浮かぶ涙が、地面へと落ちる。
「おのれぇぇ!!」
「よくも音羽を……ッ!」
激昂する護衛兵らが、各々の得物を構える。
血に塗れた銃剣を、巴は思い切り振るって拭った。
ほぼ表情を変えない巴の顔が、険しく歪む。
「……馬鹿共が」
果たしてそれは彼らに聞こえただろうか。
★
銃声と悲鳴は、僅か1分にも満たせず終了した。
倒れ付す護衛兵……咄嗟に庇った副官も倒れ、残ったのは楠木中将とその妻、子達のみだ。
楠木中将は副官に無言で感謝と謝罪を告げ、拳銃を構えた。
その洗練された動きは、彼が飾りで中将になったわけではないことを示していた。
それでも、巴には届かない。
拳銃を握る腕の下を滑るように巴は潜り抜ける。その勢いのまま、銃剣は中将の喉を刺し貫く。
眼前から吹き出た返り血を巴の頭からかぶる。
滴り落ちる返り血を意に返さず、残った家族に対して目線を向ける。
物語に出てくる悪鬼が、飛び出てきたような様相に絹を引き裂いたような声があがった。
「貴方……」
「お父さん……?」
ずさり、と足袋の音に残された家族は一塊になった。
子を必死に守ろうと隠す母、長女と長男はその母を庇おうとする……唯一事態を飲み込めていない次男は、倒れた己の父親を眺めていた。
美しい家族愛だ……不謹慎だとは思っていても、巴は抱かずにはいられない。
妻はこちらを黙って睨んでいた。だが弾劾の言葉は来なかった。
「……逝ね」
銃剣は妻の命を刈り取った。
倒れる妻だったものを、今度は子供達が庇う。
その姿勢に、彼らの死神となった巴は銃剣を静かに差し向ける。
父と母の命を奪った、血塗られた刃を。
「恨むなら存分に恨むがいい……」
さらに浴びる返り血が口に入った。
鉄錆の味が、不快さを益々増さしていく。
巴の磨耗していた心が、軋んだ。
★
殺害した者達の処理は控えていた近衛師団の兵らに任せ、巴は血糊をそのままに眺めていた。
このまま、彼らは偽装された死を与えられることになるだろう。
「私は、あと何回、何人同胞を殺めねばならないだろうな」
ポツリ、とつぶやいた。
判ってはいるのだ。……彼らを取逃がした場合の危険性を。
自分に人間らしさを、心を思い出させてくれた信濃に降りかかる危難を。
一方で疑問を抱かずにはいられないのだ。
お互いに、正義はあった。
正義は人の数だけあることも知っている。
しかし、同じ人のためになら、人は手を取り合えるのではなかったか……?
そこに思い至って、やはりいつもの答えにたどり着くのだ。
──この小さな手の届く範囲の、幸せを守ることしかできないのだ……私には。
血塗られた手をそっと見つめた。
砂国で同胞の流した血を受け止め、今度は自分で殺めた同胞の血を浴びた手を。
ただ巴は信じるしかなかった。
この手が血に穢れるほど、反比例して信濃は綺麗なままでいられるのだと。
私にとっての、太陽といえる彼女の笑顔の為には──。
「私は悪になろう」
呟く言葉を聞くものは無かった。
★
「貴様は、鬼か?」
「……何?」
そんな言葉を投げかけられたのは、別所で身を清め、着替えて信濃院に戻ってきてからだ。
安静にしていなければならないはずの美濃の言葉に怪訝さをみせた。
傍目からみれば、不機嫌にも映っただろう。実際、不機嫌でもあったからだ。
仕事はいつでも、巴を不機嫌にさせていた。
「意味が分からないな」
「中将の家族、妻と子三人、何故殺めた」
「機密を守るため……当たり前のことをしたまでだ」
「事件に関わっておるのは中将だけじゃ……妻子は、関係なかろう」
「甘いな……姿を見られた以上は殺めねばなるまい」
「だから皆殺しか。死人に口無しというわけじゃな……しかしのぅ、それはいかん。いかんことなのじゃ」
「なぜいけない?」
美濃の表情が少し曇る。
言いたいことは凡そ予想できている。
美濃の性格からして、何故妻子を殺さねばならないと訴えるのは。
だがそれでも巴は誤魔化すという選択肢はなかった。
「関わりのない民を殺すのがええことか?まだ幼い子と、それを養う母を殺すのが、ええことか?答えてみい、巴」
「関わりのない? ならば離縁の手続きなりしているべきであろう。それすらしていないのは関係者だということを示している何よりの証拠……それともなにか。戦場でいちいち敵か否かを見極めねばいけないとか世迷言をほざくか?」
むきになっていることは自覚していた。
それでも言わなければならない。普段口数が少ないはずが、不機嫌さがそのまま己に饒舌になるように仕向けた。気が高ぶっているのだろうか。と冷静な一面が分析していく。
「縁があるかないかではないのじゃよ……ああ、敵か否かを見極めねばいけぬ世迷言、とな。世迷言、結構じゃよ。しかしの、巴、敵か否かを見極めぬでどう戦う?」
「それは戦場にいるか否かで決まる。そこにいる以上、私はその者が命のやり取りをする覚悟があると考えている」
「なら、妻子らは戦場にいたのか?」
「私の戦場にいた……それがすべてだ」
私だって、好き好んで殺したくはない。
殺すたびに、あの何も感じない世界へと戻っていく錯覚を覚えるからだ。
「……随分と、我侭な戦場じゃのぅ」
「なんとでもいえ……だが、憶えておけ、目撃者を一人残す……その危険性をな。殿下の秘密が世に知られたとき、どうするのだ?」
ならどうするのだ。
貴様は、殿下を危険に晒す覚悟があるのか?
事と次第によっては、お前を……。
そこに至って、巴は湧き上がった黒い意思を即座にねじ伏せた。
「その時は……責任を取るのよ。襤褸のようになるまで守り続け、屍となるまで盾となり矛となり、生涯を捧げるのじゃよ」
「甘いな……」
だが、その甘さがきっと信濃には必要なのだと巴は思う。
殺すことしか出来ない自分とは違って、信濃を綺麗な手で触れることの出来るに違いない。
「殿下の笑顔のためならば……この身は悪でも構わん。血で穢れるのは私だけでいい。お前は綺麗なままで殿下の傍に突っ立ってるがいいさ」
「……それでは儂は……儂はっ……」
何かを言い淀む美濃に、表情こそ浮かべないものの巴は苦笑した。
互いに不器用なことだ。本音を口に出さず、遠まわしに言い合うことしかできないのだから……。
しばらくすると、ポツリと美濃が言葉を告げた。
「巴は、優しいのぅ……」
「優しい?……単なる自己満足の間違いだろう」
恥ずかしいことを言ってくれる。
いったいどんな思考をしていればそんな答えにたどり着くのだろうか。
その後も恥ずかしい台詞をのたまったり、そう思ったら涙を浮かべたりする美濃に対して。
──馬鹿だな。だが、こんな馬鹿がいてもいいのかもしれないな。
本人には決して告げないであろうことを、思っていた。
「ところで、今日の晩飯はなんじゃ?」
「そうだな。滋養が付く様に鍋にする予定だ。……食後にはお前の好きな大福を拵えてやろう」
「……ありがたいのぅ」
だからこのぐらいは認めてやろう。
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最終更新:2010年03月03日 23:39