何だか長い夢を見ていた気がする。
ハッピーエンドで終わる夢を見ていた気がするのだが、しかし現にここは戦場で、何一つとして終わったことなどない。
そもそも人生に仮に終わりがあるとしたら、人生の存在そのものが否定されてしまいかねないではないか。
そんなことを考えつつ身体を起こした。瞬間、凄まじい臭気と瘴気が同時に鼻孔から侵入してきた。
メールであるところの俺も、この事態には流石に動揺し、何度か急きこんでしまう。
それから、少し涙目になったところでようやく落ち着いて、顔を上げる。
朝焼けの空だった。
夜明け作戦とはよく言ったもので、夜明けのグレートウォールは夥しい数の
ワモン、その死骸によって埋められていた。
その積み上げられた死者の上に立つ、一人の女神がいた。
ジークフリート。
ただの一度も理解されない。
彼の人は常に独り、剣の丘で勝利に酔う――そんな歌を思い出す。
だけど彼女のその表情は、何かを見つめていた。
歓喜に酔っているわけではなく、実体と関係を通り越した先にある何かを見つめているような気がした。そんなことできるわけないのに。
その姿はどこかしら、殉教者か修行僧か、苦行に挑む者の様相を湛えているように思えた。
「こんなことしてる場合じゃない」
俺はふと呟くと、明け方の空を見つめるジークフリートに背を向けて自陣への帰途に就く。
そのまま歩き始める、ワモンが敷き詰められた地面は、どうしても歩きにくい。
俺は何気なく空を見上げる。
空を覆うのは人間の駆る戦闘機。
そして、天使。
空戦メード。
俺はそいつらに向けて手を振る、おおい、と彼らの生存を祝福してやる。
今回の戦闘における一番の不安要素であった彼らが、今や意気揚々と陣地に帰還を始めている、そんな様子を見ていればこちらとしても、嬉しくなるのは仕方ないことなのだ。
おうい、と空に向かって叫びながら歩いていると、時折空戦メードはこちらに向かって手を振ったり、スカートの裾を持ち上げてくれたりと(些かサービス過多の印象を覚える)、サービスに努めてくれた。
ぐしゃ、ぐしゃ、とワモンの炭化した翅を踏み潰しながら歩いていることも、そんな彼らの反応を見ていれば、ある程度意識の隅に追いやることができた。
おうい、と叫ぶ声を、不意にやめた。
何故って、そりゃそうだからだ。
安易に声を上げてはならないからだ。
トリアが飛んでいる。部下を引き連れて飛んでいる。
確か青の部隊とか言ったか、ここ一年で戦果が飛躍的に向上した部隊として、クロッセル連合と
エントリヒ帝国の両者から表彰を受けたこともある。
青、青の部隊。自分の名前と一緒なもので、手前勝手な親近感を勝手に覚えながら、おうい、と控え目な声を上げる。
遥か上空を飛んでいる彼女達は、きっとこちらには気付かないだろう。
三千メートルくらいだろうか。
だから俺は控え目に声を出す。
むしろ気付かれない方がいいのだ。
何故って、そう、少し緊張するからだ。
それ以上でも以下でもないのだ。これは多分本当のことだ。
そうです恋をしてるんです、それは非常に緊張するんです。
何故かは分からない、欺瞞と現実の衝突がそうさせるのかもしれないし、理想と現実の反発がそうさせるのかもしれない。
だけど、本当のところは分からない、そういうことにしておくのが、人間が生きていく上での知恵なのだろう、そんなことを思う。(もっとも、
ブラウは厳密な定義の上では人間ではないのだが)
その時だった。
空が、空が、変な風なグラデーションを帯びていく。
灰色と赤を交互に繰り返す、奇妙なグラデーションだった。
次第に、赤が力を増していく。
空が真っ赤に染まっていく。
俺は自分の目がおかしくなったのだと固く信じた、あるいは頭の方がそうなったのだと。
果たして、俺は動揺しなかった。
というのも、この世界はその成り立ちがよく分からない分、何が起こってもさしておかしくはないと言えるのであって、まあ要するにそういうことだ。
俺は土手の上の道にいた。
知らない土地だった。
赤光が俺を突き刺している。
透き通った川が赤を反射して、俺の顔を照らした。
そして、空を三人の天使が飛んでいた。
おうい、と俺は声を上げた。
どうせ夢なのだから、と、俺は声を上げた。
灰色と赤が再び交錯を始めた。
再び視界はグレートウォールを映していた。
さっきの光景は一体なんだったのか、と動揺して、危うく脚をもつれさせてしまいそうになる。何とか踏みとどまって歩き続けようとして、ふと降り立ったシルエットに気付いた。
顔を上げて、少女を見遣る。
「こんにちは」
お久しぶりです、と他人行儀に語るのはトリアだった。
「わざわざ降りてくれてありがとう
なんていうか、期待してもいいのかな」
「あはは……」
俺が平静を装って言うと、トリアは困ったように笑った。
何というか、これが平素の彼女の表情なのだと俺は直感する。
以前に見せた困った顔や、突き放すような台詞は、彼女にとってとてつもなく例外的なものであったのだということを理解する。
だからどうしたということなのだが、要するに自分自身がその例外的存在から漏れてしまっているのではないか、という危惧を覚えざるを得ないということだ。
「『君の世界になる』」
少し芝居がかったボーイソプラノで語られた台詞は、以前に俺から語ったものだった。
「この言葉って、どういう意味だったんですか?」
「形而上学的な存在理由になりたいという詩的表現……かな」
「ちょっと待ってて下さいね……」
うーん、と彼女は暫く考えたところで、やっぱりよく分かりません、と再び困ったように笑った。
「そう、そういうこと、分からなくていいの、それはつまるところのロマンだから」
ふーん、とトリアは生返事を返す。
「男の人って、何かとロマンっていう言葉を繰り返すんですよね」
「まあそうだな」
「そういう人って、大抵自分のやることに理由を見いだせないから、そんな風な言い回しをしてごまかしてるんじゃないか、って最近になって思うことがあるんですけど」
随分とまあ率直な物言いをするものだ、と俺は引きつった笑みを浮かべたが、その表情が融け去る前から、返答に移った。
「ロマンっていうのは、たしか『あることをすることでしか得られない何か』っていう意味があったんじゃないかな。
それとは別に、エテルネの方じゃ、直接小説を指す言葉らしい」
トリアは俺がぺらぺらと言葉を継いでいる間、黙って俺の隣を、陣地に向かう足取りに並行して歩いていた。
「つまり、貴方にとってそれはどっちなんですか?」
「むろん前者だけど」
「つまり、こういうことですね」
トリアは、誇らしげに、楽しげに、おどけるように、色々な表情を込めた口調で語る。
「『俺を求める事でしか感じられない何かを、お前に感じさせてやろう』」
「あー、敢えて言うけど、ほとんどその通りだよ、うん」
「なんていうか、すっごく自信過剰な台詞に聞こえます。自意識過剰と言うか、自己陶酔的というか……」
「ええい、詩を理解する心があれば、そんなことは気にならないはずだよ」
「そうですね」
俺が少しだけおどけたように、でも本当はちょっとむきになって云った言葉に、トリアは何気なく笑う。
「なあトリア」
「なんですか?」
本当に何気なく言葉を投げ返してくる。
いや実際呼び捨てにするのも楽なもんじゃないんだよ、色々な意味で。
「君はどこに飛んでいくの?
そこにロマンがあるのかい?」
「きっとそこには何もないんです、それだけははっきりとしています」
トリアは何でもないことのように語る。
「だったら、今君は何で飛ぶのさ」
「……」
トリアは何も答えない。
「自己欺瞞?」
「……貴方だって」
言い訳に窮した子供のように、トリアは呟いた。
「貴方だって、なんで私にそうやってしつこくするんですか、何だかもう、うんざり、この前あったばっかりのはずなのに妙に馴れ馴れしいし、大体いきなり女の子を抱きしめるなんて普通ありえません」
ちょっと暗い怒りというか、ピリピリとした怒りを発散しつつ彼女は一気に言った。
ああ、こういうのも悪くないな、と確かに感じる。
「謝らない」
「どうしてですか!」
「君が好きだから」
「だから、どうして簡単にそういうことが言えるんですかって、聞いてるんです!」
本気で怒った女性というか少女を見るのは初めてだったけど、どうすればいいのかを俺は何故だか知っていた。
“君が僕の世界になっているから、”なんて言葉が全く役に立たないっていうことは、割とはっきり分かっていた。
奪わなきゃいけないんだ、と、思う。
素っ頓狂なことを考えてるとは思わない。
どんな男であろうが、女に『何故?』と聞かれて、それ以外の何をするべきでもないのだ。
少なくとも、今この『ただの青』はきっとそうやって答える他ないんだと思う。
だから、そう、彼女を奪うのは今しかないんだ。
だからそう、俺は恥も外聞もなくキスをする。
俺は奪う。
彼女の世界が青に染まる。
悲しみの色ではない、夏の日の青空へと変わっていく。
夏の日の輝きへと変わっていく。
そのはずなんだ。
その中に生きているのなら、きっともう、翼なんていらないから。
だから