(投稿者:怨是)
1945年8月5日、午前10時のシルワート通りにて。
アースラウグは
プロミナとの待ち合わせの時間までに時間を潰す方法を決めかねていた。
「どこで時間を潰そうかなぁ」
相手方のプロミナは午前中のみ訓練であり、完全に非番のアースラウグは他のMAIDとも時間が合わずに暇を持て余している。ショッピングと洒落込むには心許無い小遣いであるため、商店街で遊ぶとしても冷やかし程度が関の山だ。では映画にすべきか。待ち合わせの前に独りで見る映画など、何処が楽しいのか。では公園で子供達に混じるか? 否、この時間帯は恐らく誰もいない。習い事か、家事手伝いでもしているだろう。
容姿は同じく子供であるのに周囲から奇異の視線を向けられないのは、ひとえにアースラウグが国民的英雄たる軍神
ブリュンヒルデを継ぐMAIDだからである。むしろ、初陣について周知の事実である為に、すれ違う皆が口々に祝福の言葉をかけてくれた。
彼らの笑顔を守る事が私達の仕事なのだと、
ジークフリートが教えてくれた。支えてくれる存在が居なくなれば、黒旗のように忌み嫌われる存在へと堕ちるしかない。
「ここにしよう」
何とはなしに歩いて辿り着いた喫茶店の扉を開け、店内を見回した。政治喫茶なるものもこの帝都ニーベルンゲには数多く存在するが、政治の話など退屈だ。暇潰しならば会話を前提としない場所が最適だろう。夏の暑さも室内であれば多少は凌げる。アースラウグは隅のほうのテーブル席に座り、鎧を冷やすことにした。壁に、護身用として背負っていたヴィーザルを立て掛ける。
……噴水に面した立地で、風通しも良くしている構造のためか、それなりの来客の割に店内は涼しい。このまま待ち合わせても良いくらいの快適な空間であるが、生憎とプロミナとの待ち合わせ場所はここから数百メートル離れている。営舎に電話で店名を伝えるのも公私混同とされている行為なので出来ない。多少面倒ではあるが、合流してからまたここへ来るしか方法は無さそうだ。
「あれは……!」
ふと、何処かで見覚えのある二人組が視界に入る。アースラウグは鞄から写真が添付された書類を取り出し、それらと見比べる。
間違い無い。この前の出撃を切っ掛けに黒旗についてもっと知らねばと思い、取り寄せた要注意人物リストのうち二枚と、その二人は見事に一致した。柳鶴と
イレーネ。どちらも黒旗に所属し、1944年当時、その高い実力でジークフリートらを圧倒、皇室親衛隊所属のMAIDにして
ギーレン・ジ・エントリヒ宰相の側近である
スィルトネートを重傷に追い込んだ経歴がある。
自然と、アースラウグの足は二人の下へと進んでいた。ヴィーザルをしっかりと右手に握り締め、左の拳で二人のテーブルを軽く叩く。
「貴方達は黒旗の……どうしてここに居るんですか。この帝都に土足で踏み入らないで下さい」
髪が黒い方のMAID――柳鶴が気怠げな表情でこちらに向き直った。
「そんなの誰が決めたのかしら。歴史のお勉強を少しでもやってたら、昔は戦時中でも敵同士が同じ店でくつろぐなんてザラにあったって事も知ってる筈だけど?」
知った事ではない。アースラウグは少しだけ声を荒らげて返答する。
「昔は昔、今は今です。出て行ってください! 黒旗の貴方達に、この帝都に居場所なんてありません!」
黒旗という単語に反応したのか、喫茶店に居た人々が皆、柳鶴とイレーネを訝しげな表情で見始めた。従業員らも、事の成り行きを見守るようにしてアースラウグと黒旗の二人組を交互に見比べる。
対する柳鶴は涼しい顔をし、駄々をこねる子供を見るような様子で肩をすぼめるだけだった。
「ホント、随分な嫌われよう。ねぇイレーネ、私ってそんなに嫌な奴に見える?」
「私の主観を述べますと、柳鶴は他者に比べて棘の多い云い回しが少しばかり多いように見受けられます。
ですが、私自身は別にそれ程――」
「――はいはいはい。……で? お嬢さんこそ何をしに来たのかしら。ジュースくらいは奢ってあげてもいいけど」
イレーネの言葉をわざとらしく遮り、柳鶴はそっとこちらへ顔を近づけてきた。紙幣を一枚、眼前でぶらつかせながら誘惑して来るが、アースラウグにはその紙幣すら、汚物か何かに見えた。
「誰が悪党からの餞別なんて!」
「仕方ないわねぇ。じゃあドーナツも追加で。ね? 私は甘党じゃないから食べないけど、セットで注文すると安くなるのよね、このお店」
「お小遣いならジークお姉様から頂きましたので、結構です」
きっぱりと断る。アースラウグはこの女が残念がると予想していたが、それは的中しなかった。彼女は声を殺して笑っている。今の発言の何処に失笑を買う要素があったというのか! アースラウグの怒りを無視して、柳鶴は傍らのイレーネに、聞こえよがしに耳打ちする。
「へェ……あのヘタレの雌豚が、ガキのお守り……イレーネ、笑えるビッグニュースよ」
「随分前に新聞記事に記載されていたので、私は別段驚きもしませんが。独断と偏見に基づいた経験則の見地より評価をさせて頂きますと、あのMAIDが教育担当というのは俄かに想像し難いものですね」
「何よ、可愛げの無い答え方。私が新聞を読まない女みたいに云わないで頂戴」
「読んでいらしたのですか。新聞」
「ジークフリート絡みは、どうせ毎回同じ事しか書いてないから流し読みしてるけどね」
彼女の一言が、アースラウグの逆鱗に触れた。声にならない怒りが喉に溜まり、表現し様のない息苦しさに見舞われる。
――同じ事ばかり? 否、違う。毎度、賞賛する文面で締め括られる点では共通しているものの、その活躍ぶりに胸を躍らせている身としては、柳鶴による否定など許せたものではない。この女は本質を見ていないから、軽々とそんな事が云えるのだ。
「……あらあら、どうしたのかしら。さっきから茹蛸みたいに真っ赤になっちゃって」
「ジークお姉様の侮辱は許しません」
「あれの何処がいいの? 頼めば何でもしてくれる所?」
「強くて、優しいところです」
「強いかどうかは解らないけど、まぁ、甘いわよね。で、何で憧れてるの?」
「私はジークお姉様に、ブリュンヒルデお母様に、辿り着きたいのです。それが帝国への、私――アースラウグの、祖国に対する忠誠であると信じているからです。貴女のように国を棄てて人斬りの道に堕ちたMAIDとは違います!」
よくぞ云ったと拍手する周囲に反して、柳鶴は退屈とでも云わんばかりにあくびをしだした。アースラウグはいよいよ抑えきれない怒りを噴出させ、テーブルを殴り、涙に視界を掠めた。
「ねぇイレーネ、続きの質問どうしようかしら。この子ったら中身が空っぽすぎて」
「……失礼、
世界地図の海の部分に同じ面積の正三角形をどれだけ敷き詰められるか考えていたら、内容を聞き逃してしまいました」
「何ワケ解らない事やってんのよ」
「意味不明でしたか。私にとっては有意義なものでしたが」
「へぇ、そうなんだ……で、アース何だって? チビ助」
「アースラウグです」
「私もね、あんたみたいなチビ助なんぞに道の良し悪しを得意気に語られて、いい気分じゃないの。それにあんたね、物事を真っ直ぐに見すぎると、今に小石に蹴っ躓くわよ」
突如、柳鶴の眼光が鋭さを増す。背筋に冷や水を垂らされた心地に、アースラウグは身じろぎする事も叶わない。
「それでも、私はこの帝都を守る為に戦っているんです! 貴女は何も解っていません!」
ほんの数秒、睨み合った後、漸く金縛りから解放され、アースラウグは精一杯に吼えた。ここで退いてたまるものか。この戦いに負けるわけには行かないのだ。
「貴女をここで正しき道へと導く必要があります! 武器をとりなさい! さもなくば――」
「――やれやれだわ」
勇猛果敢に立ち向かうも、奮戦空しく断ち切られた。喉元を締め上げられたような感覚が、呼吸を許さない。口を噤むアースラウグに追い討ちを掛けるが如く、柳鶴が捲くし立てる。
「大した信仰心だと褒めてやりたい所だけど、街中で武器を振るったらどうなるか考えなさい。貴女の正義や大義とやらも、全部無駄になるかもしれないのよ。それとも何? 生まれて一年しないから致し方ないとか? 相手が黒旗で自分が軍神の跡継ぎだからお咎めなし? よしんばお咎めを免れたとしても、交戦規定も守れない阿呆が軍神の跡継ぎだなんて、世界中の笑いものだわ」
アースラウグが反論を用意する前に、柳鶴は更に続ける。
「それでも貴女はここで私を殺そうとしてみる? 私は相手にせずに逃げるけどね。だって戦う権利も義務もないもの。私だってね、頼まれてから殺さないと金にならないって事くらい解ってるわけよ。貴女も少しは大人になってみる努力をなさいな」
大人になる努力など、云われなくても現在進行形で実行していると云おうとしたが、またしても遮られる。
「……とはいっても、チビ助の生まれて三ヶ月もしないオツムには難しいでしょうけど」
「過小評価しないで頂けますか。私は確かに稼動年数も少ないですが、誇り高き使命がある!」
「使命、ねぇ……ご大層な看板を背負うにはまだまだ人生経験が足りないんじゃないかしら。あまり身の程知らずを棚に上げて背伸びするもんじゃないわよ」
頬から止め処なく流れる涙を、拭う気にもなれない。アースラウグはその場に立ち尽くし、鼻を啜りながら必死に柳鶴を見据える。
「どうして……ここまで虐めるんですか」
「――虐めるだなんて。馬鹿ね。ちょっと現実を教えてあげただけじゃない」
「ぁ……ぅ……」
「じゃあね、小さなユ・ウ・シャ・サ・マ。良い休暇を」
肩に手を置かれ、耳元で囁かれる。柳鶴はそのまま去って行った。去り際に喫茶店の店主にそれまで飲み食いしていた分の代金を支払おうとして、店主に断られていたが、それがかえって柳鶴の機嫌を良くしてしまったようだ。「やったわ、イレーネ。ツケにもならないそうよ」などと満足げに笑っていた。
アースラウグは待ち合わせの約束を思い出し、結局注文もしないまま、喫茶店を後にする。もうここに来る事は無いだろう。きっと来る度に、黒旗の二人が脳裏にちらつくに違いないのだ。
喫茶店を半ば追い出されるように退出した柳鶴は、イレーネと共に街路を歩きながら、先刻の出来事に対して苛立ちを露わにしていた。始めのうちこそおちょくるだけで発散できたものだが、段々とその程度では誤魔化しが利かなくなり、終いには殴りたくなる衝動を抑えるのに手一杯になった。
「あぁー、久方ぶりにイライラした。ほんッ――とムカつくわあの糞餓鬼……」
「そうですか」
「だってあんな真っ直ぐな、ねぇ? “ワタシセイギノミカター!”ってツラされてみなさいよ。何かこう、何もかもがアホらしくなってくるっていうか、教育の可能性を否定したくなるっていうか……」
「教育とは本来、意図的に盲目に導く事も目的に含まれると思いますが」
イレーネはいつものように冷静だ。否、むしろ冷淡とも冷徹とも取れた。愚痴の相手としては役者不足に過ぎる。本来ならばそこは共感を示して然るべき場面であるにも関わらず、イレーネの場合は無表情極まる己の所感や正論で返してしまうのだ。
「あんたの駄目な所ってその反応の冷たさよね。ちょっとは共感しなさい……って期待するだけ無駄か」
「申し訳ございませんが、私自身はこれを悪癖と捉えこそすれど直ちに修正すべき致命的欠陥とは思っておりません。したがって――」
「――はいストップ」
片手でその口を制す。この女は無感情に口実を並べる。それがまた、柳鶴を辟易させる。彼女と共謀して他者を翻弄する分には楽しい事この上ないものだが、実際に自分が遣られると不愉快極まる。
無知蒙昧なる第三者よ、これを身勝手とでも何とでも云うがいい。だが、彼岸の不幸を嘲う快感は理性を持つ者らの本質だ。それをゆめゆめ忘れるな。
「時々やたら口達者になるのも貴女の悪い癖よね」
「善処します」
「期待しないでおくわ。それより、久しぶりに“アレ”やりましょ。まだ腹の虫が収まらないのよ。物に当たっちゃいそう……」
“アレ”とは、柳鶴が時々イレーネと嗜む、いわゆる“お楽しみ”という奴だ。ストレス発散の他、適度な運動によって程よく汗をかき、秒単位でなまり続ける身体をほぐすという利点もある。イレーネもこちらの意向を概ね理解してくれたのか、鉄面皮なりに表情を和らげて頷いた。
「周囲が被るであろう損害を予測するに、それが妥当な選択でしょう。ただし、歯形は残さないように」
「えぇ? なんでよ」
「シャワーを浴びる際にしみるので。またその結果、作戦行動に支障が出ると予想されます」
「たまに思うけど、あんたってSF小説のロボットみたいね」
「よく云われますが。それが何か?」
なるほど。とんだロボット女だと、柳鶴は閉口した。合理性の観点から他人と協調する事はあっても、感情の機微を解するだけの器量は彼女には備わっていないのだろう。この
軍事正常化委員会こと黒旗に雇われてから久しく経つが、未だにその一点だけは受け入れがたい。しかも、人並みにジョークの心得もあるのだから、尚更たちが悪かった。柳鶴は本日の憂さ晴らしの標的を、彼女に定める事にした。
「……やっぱ歯形付けまくるわ。そうだ、
フィルトルには何て言い訳する?」
「“買出し”とでも」
「じゃあそれで決まりね。あのアマから必要経費ふんだくってやるとしましょ」
「また彼女の胃薬の瓶が空になりますよ」
「知った事ッちゃないわ。消費の活性化で経済が上向きになるなら別にいいんじゃない?」
無論、これは軽口の一つだ。が、しかし願望でもあった。Gの出現による経済的悪影響は依然として払拭されていない。数々のサイドビジネスも営んでいる柳鶴としては、不況はどうにか切り抜けたいのだ。そのためにいけ好かない上司の胃袋に穴が開いたところで、柳鶴にとって何ら痛手ではない。むしろ積極的に犠牲になれば良いのだ。
などと考えていると、遠方にて黒い煙が立ち上っているのが見えた。傍らのイレーネの腕を叩く。
「ねぇ、あれ……何の騒ぎかしら」
「火事でしょうか。人々が逃げ惑っていますね。それに瘴気の臭いもします」
「……お小遣いがたんまり稼げそうね。護身用の拳銃だけじゃ心許無いわ。一旦、車に戻りましょう」
どうやらお楽しみの予定は取り止めになりそうだ。などと胸中でぼやきながら、柳鶴は移動手段に用いた車に刀を何本積んだか思い出そうとした。
最終更新:2010年10月26日 07:04