(投稿者:めぎつね)
戦線が広くとも、同じ戦場で幾度となく戦っていれば同じ顔を何度と見ることもある。
尤も、そこから何か発展があるなどというのは稀だ。声をかけるのでもなく、名前を聞くわけでもない。そもそもが名前を聞いたところで、次に逢うまで憶えていられるかどうかすら定かではない。状況はそれだけ過酷だ。何処かで死んでいるやもしれぬ相手の名まで全て憶えようとすれば、簡単に溢れ、零れてしまう。何気なく目にした戦死者名簿の中にそういった名を見つけてしまえば、それを零すべきかせき止めるべきかにもそれなりの逡巡が必要だ。
それでもそのメードのことはよく憶えていたし、既に名前も知っていた。戦況が悪化して背を預ける格好になった相手が彼女だった偶然に多少の安堵を憶えられる程度には、気心も知れている。
「本当、よく会うわね」
「どうしてか、毎回ろくでもない状況ですがね」
砲戦の只中でも、彼女の声は明瞭だった。黒髪の黒服。顔立ちは割と幼く、瞼の輪郭や表情そのものにも程よく愛嬌が感じられるが、どす黒く濁った血液という表現が一番似つかわしいだろう赤黒い瞳の色が凡そその全てを台無しにしている。当人もそれは気にしているらしく、以前少しだけその話をした際に『誰か瞳の色だけ変える道具とか作ってはくれんもんですかね』などと言っていたか。
衣類や装備には国籍を示す腕章などは見当たらず、赤ラインの入った法衣じみた黒衣も軍服ではあるまい。MAIDの服装などまともに共通化されていないのだからそういったものは珍しくもないが、身分を示すものが一切見つからないというのはそうあるものではない。どの国家も、特にクロッセル連合は自分の国の力を誇示しようとして、やたらにメードの衣装を自国の象徴で彩るきらいがある。
外見の年の頃は十六、七といったところか。人間ならばそこからある程度の生い立ちや現状なども見えてくるものだが、MAIDの場合はそこから判別できる材料は殆ど無い。腰には一対、無闇に鮮やかな赤で塗装された随分と仰々しいパーツを着けており、それが彼女の一番の特徴だった。スカートアーマーとでも呼ぶべきか。一見しただけでは解り辛いが、そこに過剰なまでの銃火器が設えてある。
意味のある会話を行いながら戦闘するというのは得てして難題だが、幸いにして突撃してくる個体は今の所そう多くない。突出してくるものを小銃で確実に潰しながら、
アルハは適当に思うまま口を滑らせた。相手も手馴れているのか、平然と言葉を返してくる。
「さて、
アリウス。あんたはいつまで保つと思う?」
「運よく奇跡的に突発的な天変地異レベルの僥倖があったとして、三十分が関の山じゃないですかねぇ。奥からデカいのが顔を出すようになればそれで終いかと」
「成る程、大体同意見ね。それじゃあ、状況を打開できる素敵な提案はある?」
「生憎と、わたしのちみっこいコアではそんな妙案は思いつきませんねぇ。寧ろ突貫して英雄になるちゃらんぽらんが出る前に、全部引き上げさせて欲しいものですが」
「それは無理でしょう。私達は殿であって、本隊の撤退が完了するまではここを離れられない」
そう、撤退だ。口中に広がった堪えようのない苦味に、アルハは顔を顰めた。現状は実質、敗残処理と表現しても差し支えない。
要約すれば話は単純だ。連合軍は
グレートウォール戦線のある区画にGの巣と思しき洞穴を発見し、これに攻勢をかけた。結果は現状がそのまま語っている。突撃隊は全滅し、お上の予想を遥かに上回る数の甲虫どもが地上に溢れ出した。空挺部隊も少数のフライ級に振り回されて既に姿が無い。まぁ羽付きを全て引き受けてくれたと解釈すれば、十分に有難い話にはなるのだが。
そして現在、この最前線に残っているのは戦車隊とメードのみだ。戦線が長い所為で数は判然としないが、そこまで多くもあるまい。今の所時間は稼げているが6:4程度の比率で押されている。時間が経てば防衛線が崩壊するのは明白だ。高火力広範囲の兵装で常に複数を薙ぎ倒している戦車隊や重火器装備のメードに穴が開けば、瓦解は更に早い。
「最新情報では、本隊の撤退にはあと大よそ三十分を要するとか」
「感動的なまでに絶望しかないわね」
毒づいて、頭を抱える代わりに銃爪を絞る。が、得られたのは金具の弾ける音だけだった。舌打ちする気力も湧かず、アルハは僅かに表情を歪ませて奥歯を噛んだ。と、
「弾丸が入用で?」
突然に視界に割り込んできた箱を、危うく叩き落としそうになる。寸でのところで掴むのに成功して、その重量と直前に投げかけられた言葉からアルハは瞬時にそれが何かを察した。
実際、手の中にあったのは予想通りのものだった。小銃の弾丸。
「まったく。どうしてあんたはこう、都合よく何でも出せるものなのかしら」
「そりゃま、商売人ですから。ニーズには常にお答えしませんと」
「酷い商売人だ。ツケはいつも通りでお願いね」
「へい、毎度」
とはいうが、本気で取り立てるつもりが彼女にあるのかは怪しいものだった。借りるのもこれが初めてではないが、催促を受けたことは今までに一度もない。
ちなみにツケは全て中佐殿宛てだ。現時点でその額が幾らまで嵩んでいるかはアルハも知らない。中佐殿の日頃の反応を見る限りでは、まだ明細書の類は届いていないように思えるが、さて、実際に請求がいった場面で中佐殿はどんな顔をするのだろうか。笑うか、呆れるか、怒るか。案外と本気でひっぱたかれかねない気もするし、それ以上かもしれない。彼からの呼び出しに関しては心当たりが他に多すぎる為、いつその話題が出るかは予想の付けようもなく精神衛生上は非常によろしくない。
(戻ったら、少しはその対応も考えておかないとね)
勿論、生きて帰れればの話である。残念ながらその望みは薄い。
地面を揺るがした轟音は、その薄っぺらな希望を致命的なまでにひしゃげさせるには十分すぎるものだった。素の外壁を破壊して、巨大な体躯が姿を現す。
眼を凝らして確認するまでもなく、その名を記憶から引きずり出す時間も必要ない。
ヨロイモグラ級、それも三匹。
「……五分も保たなかったわね」
「あーあ。こりゃ全滅かなぁ。その前に逃げるかなぁ」
アリウスが構えていた短機関銃から片手を離し、大層な仕草で天を仰いだ。腹立たしいことにこれ異常ないほどの快晴であり、雲一つない青空は清浄に満ち光で溢れている。
(天と地ほど、とはよく言ったものね)
尤も、全滅というのは少々語弊が在る。ヨロイモグラ級は頑強且つ強靭、およそ並のメードでは止める術のない自然災害レベルのものではあるが、半面移動速度と攻撃手段には乏しい。主目的が撤退支援であるこの状況においては、まだ致命傷には成り得ない。
それでも砂煙を上げて進軍を始めた圧倒的な巨体は、それだけで十分に脅威だった。何処からもあれの進撃を止めようとする攻撃が出てこない所から察するに、ヨロイモグラ級の撃退が可能な高威力の武器や特殊能力を持ったメードはいないらしい。皆手打ちということか。
(閃光なら効くし、倒せる。けども……)
無理だ。疑問を挟む余地もない確信に、アルハは胸中でかぶりを振った。ヨロイモグラ級が閧の声でもあげたのか、それとも大型が這い出た結果巣の開口部が広がったからか、小型の有象無象の攻勢が先程までと比して明らかに強くなっている。単身、或いはアリウスの援護を受けて突入したとしても目標の場所までは辿り着けないし、近づけない内に閃光を放っても標的に命中する可能性は低く、それどころか味方を打ちかねない。
「おや」
緊張感など欠片も感じさせないアリウスの一声に、何度か瞬きして。
その僅か数瞬の間に起きたヨロイモグラ級の大炎上に、アルハはただ言葉を失った。前触れなど無かった。いや、見ていなかっただけか。だがヨロイモグラ級から目を離していたのは数秒ほどのことであるし、そもそもあれに仕掛けようとしているメードはこの場にはいないと思っていたのだが。
「おぉ、これはこれは。随分な御方のご登場だ」
「誰か判るの?」
「ベーエルデーの
空戦メードですね。確かあそこの最高戦力だったかと。あー、名前は憶えてませんが」
「なるほど。頼もしい話だ」
話している間にも、ヨロイモグラ級を包む炎はその色を濃くしていく。その巨大な体躯がすっぽりと炎熱に覆われた頃に漸く、アルハは火の粉とは違う別の炎の塊を視界に捉えた。恐らくはあれが件の空戦メードだろう。誰もが攻めあぐねる要害を、一分と経たず葬り去ってしまった。
「英雄、ね」
ぽつりと、そんな言葉が漏れた。
思うことは、幾つかある。
「ん、なんか言いました?」
「いや、なんでもない。ただね――」
言いたいことは他にあったのだが。
悪寒じみたものを背筋に感じ、アルハは小銃の銃口ごと身体を反転させた。一見した限りでは何も無い、が、当然ながらそんな筈も無かった。普段であれば気にも留めなかったろうごく僅かな奇妙な地面の盛り上がりに得体の知れない危機感を抱けたことに関しては、自分の猜疑心に感謝するしかない。
実際、試しにそれを撃ち抜いてみれば、膨らみは土と一緒に緑色の体液を撒き散らして四散した。それを機に数箇所から、土塊を弾き飛ばして何匹かの化物どもが顔を出す。
「うわ、最悪。いつの間に?」
「最初からか、それとも潜ってきたか。こんな状況じゃ、確かめようもないわね」
「やれやれ、頭のよろしい連中だこと。蟲の進化はその体格だけに留めて貰いたいもんですねぇ」
「そうね」
同意だけ返し、小銃を置いて剣を抜く。伏兵の相手をすれば必然的に正面を全てアリウスに任せる形になるが、当然彼女の背も守らなければならない。そういった戦いに小銃は不便だ。
後手に回れば更に厳しくなる。一息に踏み込み、アルハは手近な一匹へ斬りかかった。即座に背を向けて逃げ出したそれは追いかけず、横手から襲ってきた別の一匹へと切っ先の向きを変える。勢いだけの突貫を体を入れ替えて躱しながら右脚三本を両断して、次の個体へ意識の矛先を滑らせた。豪腕を振り上げ突進してくるウォーリア級との距離は三メートルも無い。その様を視界に収め、状況を把握した頃にはもう鉄槌が振り下ろされている。
受け止めていれば再度突撃してきた最初の一匹に、脇腹の辺りを持っていかれていただろう。肉だけならまだ助かる見込みはある(かもしれない、という程度だが)が、コアを持っていかれれば即死する。当然だ。コアはこの肉体を動かす唯一にして絶対の力だ。メードにとっては臓器などよりも余程重要な代物である。
なんにせよ偶然ではあったが、選んだ判断は正しかったらしい。飛び込んで相手の頭部に突き入れた剣を身体ごと引き抜き、反転した勢いで目前まで迫っていたワモン級の頭を割る。
一度剣を大振りして刀身についた体液を払ってから、アルハは周囲を一瞥した。仕留めたのは三匹。正面とやや左寄りの位置に、ウォーリア級と
ワモン級。どちらも警戒してか、特攻をかけてくる気配はない。
剣を構え直す前に、アルハは左手で腰のホルスターから拳銃を抜いた。手早く撃鉄を起こし六発全部ワモン級を標的として発砲し、そのままホルスターに突っ込む。全弾命中したわけではないが、それでもワモン級は数度痙攣して地に伏せた。横目でそれを見届け、最後の一匹と対峙する。
風を感じた。掠めるほどに近くはない。だが遠くもない。先に動いたのは漆黒色の甲虫だったが、腰を低く背を丸め、突撃の構えを作るだけだった。そこで終わった。頭を吹き飛ばされた甲虫は地を蹴ることもなく、そのまま膝をついて動かなくなった。
片はついたが、所詮は一時的なものだ。状況そのものは好転していない。剣を収め捨てた小銃を回収してから、アルハは相変わらず迎撃中のアリウスの隣に戻った。戦況に大した変化は無い。ヨロイモグラ級一匹が完全に墨に変じて二匹目に火の粉が飛んでいるのは十分大事だが、小型勢の流出が止まる気配が無い以上は割とどうでもいい。ベーエルデーの最大戦力が中心部を全て焦がし尽くすのが先か、こちらの戦線が瓦解するのが先か。五分五分がいいところだろうか。後方からの奇襲の度合によっては、既に崩れている箇所があるかもしれない。
「よくこっちを援護する余裕なんてあったわね」
「いやいや、余裕なんてこれっぽっちも」
「でも撃ったでしょう」
「わたしが援護欲しくて振り向いたんですがね。それがどうしてかいい位置にいるもんだから、つい」
何とも簡単そうに言うが、アリウスが今抱えているのは短機関銃だ。アルハが背後の相手に回る前もそうだった筈だ。しかし飛んできたのは小銃の一撃だった。小銃自体はアリウスも携帯しているが、それは今スカートアーマーの鞘に収まっている。
「……ま、助かったわよ」
「いいええ。それで、どうします? いつまでもここで残念無念に弾を消耗している道理もありますまい?」
「そう、ね……」
促されるまでもなく、それは分かっている。分かってはいたが、次の行動に移るタイミングを掴めずにいた。ここを動いて何かできるという確証はないし、寧ろより危険な状況に身を晒すことになる。
それでも、動くべきか。耐えるべき窮地はとうに過ぎている。己の周囲がこれ以上悪化することは無い筈だが、それ以外が致命的な状態にある可能性は否定できない。腹を決め、アルハは親指の爪で唇の辺りを擦った。小銃で一匹吹き飛ばしてから、アリウスに視線だけ向ける。
「他の連中のところへ向かいましょう。後ろに回られたのが私達だけとは考え難い。退くに退けないというのは致命的だ」
「まぁ確かに、撤退命令に合わせて挟撃されては笑うに笑えませんか。姉さんが気付いてくれなきゃどうなったやら」
「私に気付けたのだから、他にも察した奴はいるでしょうよ。ただ、全員とは思えないけど。正面がこの有様だしね。手が開いてないってことも有り得る。喰われる連中を減らせられれば、まぁ、惨敗を惜敗と偽ることもできるんじゃないかしら」
そう口にして、アルハは嘲笑に息を吐いた。最早どう足掻いた所でこの戦闘、惨敗以外の何物にもなり得ない。それでも惜敗になる。そう定められる。世の中というのはそういうものだ。
銃爪を退く指で物思いも握り潰し、化物もろともに感傷も砕く。余計なことは全て飲み下し、アルハは声に低く力を込めた。
「分かれましょう。あんたが右、私が左。適当なところで、合流した奴らと一緒に退く。いい?」
「りょーかい。ま、恩を売っておくのもいいでしょう。今後の為にもね」
「どうせあんたは、そういう奴よ」
それでも断りはしないのだから、十分頼りにはなる。後は短かった。目配せだけで示し合わせ、敵の流出の波が僅かに揺らいだのを見計らい岩陰を飛び出す。
その直前に、アリウスはこんなことを聞いてきた。
「ここ、誰もいなくなりますけど」
「今更一箇所突破されたところで、何が変わるっていうの」
「そりゃ御尤もだ」
戦線などとうに崩壊している。
遠くに見えた戦車の爆発に、アルハは舌打ちして毒づいた。この状勢、本来なら脇目も振らず退くのが正しい。そのレベルはどうであれ、メードは軍の最高戦力のひとつだ。配備数も多くはない。人道的な見地を除いた軍の本音としては、本隊の撤退の時間稼ぎなどという当て馬になど使いたくはあるまい。
それを鑑みれば、仮に任務を放棄して勝手な撤退を行ったとしても、咎められることはないだろう。どういう出自であれ、現状、メードは特権階級にある。いい意味でも悪い意味でも。
それでも、今この場にはメードばかりが残っている。
悲鳴が聞こえた。
「ちぃ――!」
抜剣し、声の方角へと進む道を変える。メードの肉体の持つ最大の利点は体力だ。少なくともアルハはそう考えていた。常人と比して桁外れの持久力。これがあるから戦線を単騎で駆けられるし、これが無ければ常に対多数を強要されるこの戦場では生きていけない。精神力は人間と等価なのだから、息を切らし膝をつけばまともな思考能力も持てはしない。
逆に平静でさえあれば、限りなく戦い続けられる。圧倒的な大群に相対するには、それが求められる。一つ倒す間に次を意識し、十を数えた頃には百を見ている。倒すべき相手に限りは無く、それはいつ終わるとも知れない。
戦闘人形。コアの傀儡。人でなし。人殺し。
(黙れ――――!)
剣を逆手に構え振り被り、そのまま一息に突き出す。小銃の照準を合わせている余裕は無かった。
一直線に伸びた剣筋が、泣き叫びながら短機関銃を振り回すメードに飛びかかろうとしていたウォーリア級の脇腹(と呼んでも差し支えないだろう)を抉り、地面に縫い付ける。ウォーリア級は暫くばたばたともがいていたが、地面に広がる緑の汁の量が増えるごとに動きを弱くしていった。やがて完全に動かなくなる。
(まだ二匹――)
両足を地面に叩きつけ、靴底をすり減らしながら無理矢理に急停止する。そのまま突っ込めばメードの短機関銃の直撃を浴びかねない。声をかけて冷静になるものでもないし、今はその時間も惜しい。スコープを覗いて照準を定める余裕すらなく、アルハは小銃を腰溜めに構え銃爪を引いた。初弾は不発、二発目でワモン級一匹の頭を砕いたが、標的をこちらに移した二匹目が既に眼前まで迫っている。
右足を捻り、勢いをつけて左の踵を叩き込んだ。潰れたのは、目か、頭か、それとも脳髄まで届いたか。何れにせよ浮き上がった蟲の身体へと、アルハは即座に小銃の弾を叩き込んだ。距離も近かったからか、上半分が纏めて吹き飛ぶ。
結局蹴りが何処まで潰したのかはわからなかったが、さして気にするべき場所でもない。アルハが倒したのは二匹だが、蟲の残骸は他にも幾つかあった。今のが最後だろう。そう思っておく。それでも周囲への警戒は解かずに、アルハは岩塊を背にへたりこんでいるメードへ足を向けた。
(……所詮、人の身か)
彼女の姿を見るほどに、それを強く意識する。短機関銃を抱え、歯の根も合わないほどに震えているその姿は、英雄でもなければ強力な兵器でもない。ただの子供だ。
「大丈夫?」
「あ、ああぇあ、ぅ……」
言葉になっていないのか、それとも頭の中に意味のある言葉一つ浮かんでこないのか。どちらにせよ会話は不可能そうだが、それでは困る。隣の怪我人は、彼女などよりも余程重傷だ。人手がいる。
余り有効な手ではないが。
アルハは一度彼女の顔を覗きこんでから、その横面を一度だけ引っ叩いた。相手は叩かれて赤くなった頬に手を当てて、呆けた表情を返してくる。まだ目の焦点はあっていないが、十分だ。恐慌から帰ってきてくれればそれでいい。
「幾つか聞きたい。答えてくれる?」
「あ…………はい」
「ここは貴方達二人だけ?」
「いえ……もう、私一人だけで」
「ボケたこと言ってんじゃないわよ。勝手に殺されちゃあ、隣の奴も報われないわね」
とはいえ、余りいい状態ともいえない。何しろ呼吸が薄い。荒い息でも吐いていてくれれば多少の期待も持てたが、呼気も小さく意識も無いのでは、死んだと見るのも不思議ではない。精神面に余裕がなければ尚更だ。
「死んではいない。ただ、時間はあまり無いかな」
真っ赤に染まった衣服を剥いで、傷口に目を通す。鮮血が止め処なく溢れているが、まだ内蔵までは零れていない。
目に入ったのは不安そうにこちらの手元を覗く少女の抱えていた、未だ硝煙の棚引く短機関銃だった。やはり余り有効な手段とは言えない。しかし、他に妙案もない。
「いい手は選べないものね」
「え?」
「それ、貸して」
言うが早いか、アルハは殆ど引っ手繰るようにして彼女の手から短機関銃を奪い取った。軽く指でつついて砲身の温度を確かめてから、その高熱の塊を死に掛けのほうの傷口に押し当てる。
聞こえたのは鉄が油を含んだ肉を焼く小気味いい音などではなく、怨嗟にも似た絶叫だった。人の肉が焦げる異臭の中、喉を潰さんばかりの悲鳴の迸りに鼓膜を引き裂かれそうになるが、アルハは顔を顰めはしても手の力は抜かなかった。頭の中で数を数え、その終わりと同時に灼熱の鉄塊を銃身に張り付いた皮ごと、一息に引き剥がす。
糸の切れた人形でも模したように、怪我人はまた気を失った。出血も――まぁ皮を剥いだ結果の新しい傷には目を瞑るとして――大よそ止まっている。一応は成功か。軽く息をついて、アルハは短機関銃を投げ捨てた。そして手の甲で頬に滲んでいた汗を拭ってから、絶句して両手で口元を覆っているもう一人に声をやった。
「大丈夫よ。ちゃんと生きてる」
「何やったんですか……?」
「焼いて縫合。銃身なんかでやるものじゃあないのだけれどね。鉄粉とか雑菌とか。それに、こんな傷に使うような手段でもない。普通の人間なら、耐えられるかどうか分からないし。まぁメードなら、多分大丈夫」
「それじゃ、助かるんですか?」
「安心はできないけど、ね」
肉だけに触れるよう調整はしたつもりだが、皮の薄い脇腹だ。内臓を焼いた可能性は十分にある。脂汗の滲み出る少女の顔は紅潮し、額に手を当ててみればやはり熱っぽい。その原因は考えるまでもないが。
「どの道衰弱が激しい、余り長くは保たないと思う。血を失い過ぎね」
「そんな」
「最初に言ったでしょ、大丈夫って」
診察の真似事を止め、アルハは手元のメードの身体を相手に押し付けた。記憶にある方角を指し、告げる。
「確か今回の作戦には医療メードも参加していた。そいつらに診せれば助かる」
「本当ですか?」
「ええ」
絶対の確信を持って頷いたが、半分は嘘だ。助かる率は良くて七割、時間と共に更に減るだろう。
それを正直に言うべきかは、随分前から迷っていた。最終的に嘘を選んだのは、その方が多少なりとも希望が見えるだろうという判断だった。
人は絶望していたほうが強い。自分ではそう思うが、一般には希望を夢見せたほうが力を発揮するという通説がある。だからそちらを選んだ。
「どちらにせよ、余り猶予は無い。メードが丈夫と言っても限度があるし、治療できなければ死ぬなんて危険極まりない状況だ。動くのは早いほうがいい」
それでも、不安を煽る語句はどうしても口をついた。焚きつける程度の意味に受け取ってくれれば幸いだが。
少女は暫く黙り込んでいたが、自分の両手にかかる重量に感じるものでもあったのか、負傷者の顔を一瞥してから何かを決心したように立ち上がった。少なくとも不安や心細さに気圧されてはいないようだ。それには満足して、アルハは独りごちるように小さく頷いた。少女の前に立って、確認するように問い掛ける。
「あんたが行って、あんたが助ける。いい?」
「……分かりました。あなたは?」
「私は……もう少し、やることがある」
こちらが僅かに口篭ったのに、彼女は僅かに眉根を寄せたが――恐らく、平素は割と聡いほうなのだろう――追求はしてこなかった。優先すべきを解っている。きっともう心配あるまい。
「有難う御座いました。……お気をつけて」
「ええ。貴方も」
短い言葉を交わし、彼女とはそこで別れた。結局その後に見つけられたのは死体だけだったし、彼女の連れが助かったのかどうかは分からなかった。思い返してみれば名前も国籍も聞いていなかったのだから当然だ。
(……助かったのかしら、彼女)
ふと、それを思い返すことがある。思い返せば一時的であれ、助けた相手の顔は余り憶えていない。
助けられなかった相手の姿は、今でもよく憶えている。
(どうしてかしらね)
きっと、その答えはもう知っている。
ただ、触れたくない深層にあるだけなのだろう。
最終更新:2010年11月15日 03:41