何が起こったのか、全く分からなかった。身体全身に襲い掛かる激痛。それは身体を少し動かしただけで痛みを生じ、この場で這い蹲ることを余儀なくされた。きーんと耳鳴りがずっと続く中、人の呻き声が耳へと入る。まるで悪趣味な呪文のように呻き声が二重三重四重のコーラスを奏で、駅のホームに木霊していた。目を開こうとしても痛みによって開けず、周囲の状況が把握できない。男は何があったか、もう一度考えた。
改札を潜った自分は、ホームで電車を待っていた。不意に水が飲みたくなったので、リュックサックから水筒を取り出そうとしたときだった。目の前が真っ赤に染まり、炎が身を包んだ。
男はそれで何が起こったのか思い出した。そうだ、自分は爆発に巻き込まれたんだと。
痛みを必死に抑えながら、男は両目を開けた。目の前に、うつ伏せになっている人間のような物体が炎に包まれている。そのとき、男は視界に妙な違和感を感じた。左目の視野が真っ黒に染まっていた。感覚では開けているのに、視野は片目を瞑っている状態になっている。半信半疑のまま、男はその場で立ち上がろうとした。
自分の左腕を見たとき、男は絶句した。
ボクサーとしての自分を支えてきた大切な左腕の皮が焼き爛れ、筋肉の繊維が露出していた。何百匹、何千匹もの細いミミズで形成されたかのような自分の腕を見て、男は絶叫した。さらに全身から激痛が発し、男はその痛みに思わず舌を噛み切りそうになった。
「絶対に、絶対に許さない」
何が起こったのか、男は理解していない。誰とも知れぬ何者かに、男は呪いの言葉を腹の底から弾き出した。
男の周りには、誰一人として呪いの言葉を吐くものは居ない。
ホテル一室で、4人の男女がその空間に居座っていた。
「こちらが、私たちの意向だ」
ソファに背中を預けた赤毛の女性が、手前のテーブルに書類が詰まった封筒をそっと置く。その女性は黒色の軍服――
エントリヒ帝国のものを着込んでおり、素人でも彼女が普通の軍人ではないことを分かるような珍しい階級が飾ってあった。
手前のテーブルを隔ててもう一人。ソファに背中を預けた女性が座っている。彼女は一般のオフィスレディのような質素なスーツを着ており、一般市民とそう変わらない体格や顔つきをしていた。
「確かに、私が承りました。ライサ少将、遠路はるばる恐悦至極に存じます」
馬鹿丁寧な言葉で書類を貰った女性はそう言うと、申し訳なさそうな表情でテーブルに置かれているコーヒーカップの取っ手を右手で持った。ライサもそれに倣って、コーヒーカップに口をつける。あまりにも無防備すぎる彼女を見て、
レーニは戸惑っていた。
ライサの左右には、一歩後ろに退いた状態で一組の男女が立っていた。それはレーニとアルフレッドだった。ライサの右側にアルフレッド、左側にレーニが直立不動で会議の成り行きを見守っていた。
名前も知らない女性側には、誰一人としてレーニやアルフレッドといった「護衛」の者は付いていない。こちらに妙な警戒心を出さないのか、定かではなかった。
V4師団と、エントリヒ帝国の極秘会議。その前哨として、ライサは帝国の意向とも言える書類をV4師団――しいては、過激行動を辞さない派閥を相手に、護衛数名を引き連れてやってきた。
マイスターシャーレ教官のアサガワはもちろん、ホラーツさえもライサの行動に難色を示したが、彼女はそれを退け、ここに居る。
「念のため、君にも言っておく。黒旗などの反抗勢力、Gを相手にするのは結構だが、我々にまで噛み付かれては困る。V4師団の面々は、現状を把握してない。特に、君たちのような過激派はな」
相手の神経を逆撫でする言葉に、一瞬だけ女性の目つきが険しくなる。だが女性はそれを一瞬で笑みに変えると、万年筆をスーツの胸ポケットから取り出した。片方の手は、サインを書くための小さな紙をテーブルの隅から中央へ動かす。
「ははぁ。了解しました。この件については、V4師団の上層部に伝えておきます。それでは、こちらの書類にサインをお願いします」
ライサが軍服の胸ポケットに入れていた、万年筆を取り出そうとしたときだった。書類にサインの記入を促した女性は、殺意に満ちた表情をライサに向けた。
女性の右手に持っている万年筆から小さな光が発せられると、それと同時にレーニはベルトに挟んでいたバトルナイフを鞘から抜き取る。刹那、女性は万年筆をベースとした「光剣」を椅子に座ったまま横に一閃。ライサの首を的確に狙った軌道を読んで、レーニはバトルナイフを柄をダガー状の光剣にぶつけた。
「失礼」
レーニはライサに一言詫びると、光剣のパワーにバトルナイフが負けたのか、鋭い刃が耳障りな金属音と共に折れた。その刃は壁へ突き刺さると、不意打ちを仕掛けてきた女性は万年筆を持った手首を返す。
速度を重視した攻撃。パワーでねじ伏せようとしなかったのが幸いか、バトルナイフが「折れただけ」で助かったとレーニは冷や汗をかく。だが出鼻を挫かれた相手は、次にパワーを使ってライサを殺そうとしている。エターナルコアを仕込んだと思われる万年筆から、眩しいばかりの光が放っていた。
「こうなれば、身を挺してでも」とレーニが右腕を使ってライサを庇おうとしたとき、それよりも早く別の左腕がライサの顔を覆った。直後、光剣の非実体化した刃が、アルフレッドの左腕に直撃。コアエネルギーがお互いに衝突しあう静電気のような音が室内に木霊し、アルフレッドの左腕を隠していた布がその衝撃で吹き飛んだ。
「な、なに」
光剣を受け止められた女性は、呆気に取られた表情をしていた。その視線は、アルフレッドの左腕――義手化されたそれに向けられている。有機物の色ではなく、無機物の色をした左腕。例え義手化したそれが光剣を受け止められるはずもなかった。エターナルコアのエネルギーだけが、それを可能とする。
女性は不意打ちが失敗に終わったことを悟ると、逃げようと身構える。それよりも早く、アルフレッドはスーツに隠れていた脇下のホルスターからリボルバー拳銃を取り出し、その銃口を向けていた。
「バーン」
アルレレッドの幼稚じみた銃声の声真似と同時に、女性は目に見えぬ衝撃を顔面に食らって、ソファごと後ろへ倒れた。鼻が折れたと錯覚するような激痛と同時に、鼻孔から赤色の液体が滴り落ち、空中に撒き散らした。女性は激痛に声を出さぬまま、その場でじたばたともがく。
「ライサ様、不用心過ぎます」
リボルバー拳銃を手に持ったアルフレッドは、落ち着きがある声でライサに苦言を漏らした。
「すまない。向こうから示威行為をやってくれれば、正当防衛という名分がつくのでな」
ライサはそう言うと、ソファからゆっくり立ち上がる。アルフレッドは悶絶している女性の側へ行くと、リボルバー拳銃の銃口を向けた。
空気が圧縮される音。室内に響く骨が粉々になる生々しい音。声すらも上げることすら許さない仕打ちに、レーニは眉をひそめる。ライサは目の前で繰り広げられる陰惨な状況に対し、何も感じなかった。
パルピュイア。アルフレッドが自身の能力をそう説明していた。手にした銃器から銃弾ではなく、空気弾を発射するスキル。銃声すら発せず、任意の威力に調節できる。それは隠密作戦から拷問まで、幅広くカバーできることを指していた。
アルフレッドは、悪――特に自身を「半MALE化」に引きずり込んだV4師団に対しては、並々ならぬ憎しみと殺意を持っていた。この女性が半ば拷問じみたアルフレッドの「お遊び」に付き合わされるのも、そのせいだった。
「飽きた」
普段の言動とは思いつかないアルフレッドの冷ややかな一言によって、彼は右手で女性の髪を鷲づかみにした。そして、リボルバー拳銃を後頭部に突きつけると。空気弾ではなく実弾が発射された。
甲高い銃声が室内に響き、女性の頭部に小さな穴が貫かれたのをアルフレッドは確認する。彼は深呼吸と同時に右手を放した。
「さて、これで我々を敵に回すと恐ろしいことが、奴らにも理解できただろう」
両手をパンと叩いたライサは、部屋の出入り口となるドアへ視線を送る。アルフレッドはリボルバー拳銃を握ったまま、ライサに同行しようとした。レーニも隠し持っていたハンドガンを手に取り、セーフティを外し、コッキング動作を一瞬で済ませる。
ライサは初めから交渉決裂をする形で、実現するはずも無い過激派との交渉に乗り込んだ。レーニは大胆不敵すぎる彼女の策略に、難色を示した。だが「先に相手が仕掛けてきた」という事実がある以上、ライサたちは優位に立っている。
「さて帰るぞ」
早歩きでホテルの廊下を歩くライサ。彼女の後ろをレーニが護衛し、前方をアルフレッドが偵察していた。
「ライサ様、レーニ。敵です」
アルフレッドは後方の二人にそう告げると、急に立ち止まった。10メートル先の、T字路の右側。死角となる壁際に、薄っすらと影が見えた。レーニはそれを確認すると、レイジングエイクを前へ突き出し、ライサの側へ擦り寄る。
「ライサ様、許可を願いたいものですが」
スーツの内ポケットに手を伸ばしたアルフレッドは、ライサに許可を取ろうとする。ライサは「いいだろう」と一言。
アルフレッドは、右手から注射針のような細長い物体を取り出し、それをおもむろに手首に刺した。
「ナイトラス・オキサイド、投薬完了」
アルフレッドがそう言うと、彼の周囲にエターナルコアのエネルギーが放出された。
ナイトラス・オキサイド。アルフレッドが言うに、「自身の能力を大幅に向上させる薬」とレーニは思い出す。そして、彼女自身はアルフレッドの「もうひとつの能力」を見るのが初めてだった。
禍々しい何かを察したのか、壁際から数人の男たちが飛び出した。手には銃器を握り締めており、そのトリガーを引かんとする。だがそれよりも早く、アルフレッドの前面から空気の塊が形成。それらはまるで獰猛な野獣のように、男たちへ襲い掛かった。
アルフレッドの背中越しに、真空の渦によって切り裂かれる男たちの姿がレーニの目に映っていた。
最後の悪あがきなのか、一人の男の手から手榴弾が零れ落ちるように床へ落下。数秒経った後にそれは爆発するが、十重二重に重ねられた真空の層によって、アルフレッドたちは無事だった。爆発に生じる衝撃や熱風でさえ、ライサやレーニに伝わらない。アルフレッドのウェイク・タービュランスの突風がそれを和らげているだけだった。
「理不尽だろう」
「ええ、確かに」
アルフレッドという絶対的な盾を振りかざすライサは、肉片と化した男たちの成れの果てを見て、レーニに問いかけた。問いかけられた彼女は事務的に言葉を返すと、前方から人の断末魔が耳を劈く。
アルフレッドは、立ちふさがる「悪」を兇刃で切り裂きながら、声を出さずに笑っていた。