(投稿者:エルス)
ここに誘拐られて、三日が経った。
メードというのは便利なもので、あの忌々しい二つの銃創も、今では完璧に塞がっていた。
身体を動かすと痛みを感じたが、無視できないというほどでもない。正確に言えば、無視していなければやっていられない痛み、という意味だが。
そんな状態の俺は今、汗まみれで両手にボクシング・グローブを嵌めた状態で、リズムを刻むようにステップしていた。
膝を曲げて腰を落とし、繰り出されるジャブを避け、続けて放たれた脇腹を狙った左のフックを肘で防ぎ、顎を狙ってきた右のフックを寸前の所で回避する。
三度ほどジャブで牽制してボディに二発喰らわせてみるが、敵にそれすら防がれ、隙の無い鋭いジャブが右腕に突き刺さる。
この殴られた瞬間の痛みを感覚から切り離したいと思うが、人間そんなことできたら苦労しない。
顔を顰める余裕もなく、続けて襲ってきた左のフックを避けて一旦距離を取る。
審判役のパーシーとかいう狙撃兵が、ゴングの代わりにハンマーでフライパンをぶったたいてから数分も経っていない。
それなのにどうだ。メードである筈の俺がマッキンリーと互角。しかも俺が汗を掻き始めていると言うのに、あっちは楽しそうに笑っている。
経験や技量云々以前の問題だと、直感で分かった。これは才能と努力の問題だ。
「どうしたのさ、早くかかってきなよ。もしかして、びびって尻の穴ひくつかせてるのかなぁ?」
「勝手に言ってろ、このお喋り女」
「ふふん、それは私にとっちゃ褒め言葉だよ?」
にんまりと笑うマッキンリーは、徐々に距離を詰めてきている。隙の少ない鋭いパンチは普通なら一週間は痣が残る、威力よりも相手に痛みを感じさせるためのものだ。
これは人間の身体の構造、どこを叩けば痛がるか、骨が折れるのか、関節が壊れるのかといった専門的な事を知り尽くした人間だからこそできる、プロの技だ。
たかがボクシングだが、されどボクシング。選んだ相手は外れではなかったということだ。
まったく隙の見えないマッキンリーにまた二発ジャブを打ち込んでみるが、完全に見切られて避けられてしまい、気づけば間合いに入られ、右ストレートが眼前にまで迫っていた。
それを大きく後退することで避ける。
追撃で左フックがきたのでなんとかそれを避けたが、次は右のボディーブローだ。
咄嗟に出した左腕の肘の少し上辺りに拳がめり込み、左腕に痺れたような痛みが広がる。
やらかしたと思う傍ら、また距離を取る。
「へいへい、間合い外してばっかじゃ話にならないじゃん。かかってきなよ、糞ガキ君」
「女なのに口悪いな、あんた」
「海兵隊ってのは誰だってそうなんだよ」
猫のような俊敏さと蛇の毒のような陰湿さを併せ持っているマッキンリーが一気に距離をつめてきた。
相変わらず顎狙いの右フック。次はどうでるのかと考えながらそれを避けると、次の瞬間、頭蓋が下から揺さ振られた。
一瞬で懐に入られ、左のアッパーカットが顎に直撃したのだと認識する頃には、もう試合は終わっていた。
脳震盪で少し記憶がはっきりしないし、めまいもするし歩くとふらついたが、三十分も休憩すればそれも収まった。
「ゲイみたいに華奢な割に善戦したな、ボーイ。俺だったら最初のジャブ、左フック、右フックでノされてただろうぜ。ほら、立てよ兄弟」
背中を壁に預けて座り込んだままの俺に、パーシーが手を差し伸べてきた。素直にその手を握ると、予想より力強く引っ張られたので、少し驚いた。
「マッキンリー大尉は昨日のでイライラしてたんだ。ま、簡単に許してくれっとは思ってねえけど、許してくれや。大尉も大尉で
プライドってもんがある」
「分かってるよ、それは。部下を率いる者にとって、プライドは大事だからな」
「理解してくれてんなら結構。しっかしボクシングとはねぇ、海兵隊じゃ大尉は『毒持ち犬』って渾名されてたほどなんだ。トーシロが一分持つってのは異業だぜ?」
「毒持ち犬……か。そういや殴られた所がじんじんする。あのパンチ、なにか秘訣があるのか?」
「さあな、大尉が話してくれないから分からねえんだよ。ま、普通のパンチじゃねえことは確かだわな」
「筋肉の内側に食い込むような、なんというか、殺人的だった。競技というより殺し合いをやってた気分だ。……火、貸してもらっても?」
「構わんさ兄弟。大尉はあんなんだけど、見本にはなるし、教え方も上手いから、あとで聞いてみると良い。そうすりゃ、その細い手足でもマッチョに勝てるようになるだろうよ」
咥えたロマ・ブルーに借りたジッポー・ライターで火を点ける。グローブを外した記憶はなかったが、恐らく意識を失っていた間に誰かが外したのだろう。
紫煙を吐きだしつつ、さっきのボクシングなどボクシングではないと言い出しそうな顔で懸垂をしているマッキンリーを見る。
女の割に引き締まった身体をしており、魅力的というより実用的だ。
見た目は女らしくない。腹筋は割れているし、胸は平べったい。だが細い腕と足は女性的ではある。
その腕と足に蛇の毒のように響く威力が宿っているのだから、恐ろしいものだ。
「……言っとくが女を選ぶんなら大尉は止めとけ。気まぐれで人殺しをするような人だ」
「誰があんなメスゴリラ選ぶんだよ。俺はもっと良い奴を選ぶさ」
「なら良かった。
ジャックなんか大尉と寝て、翌日精気を吸いつくされたような顔になってたんだぜ?」
「ジャックという奴のことは知らないが、それは恐ろしいな」
同じ思いを持つ者同士、パーシーと俺はしばらくそうやって他愛もないことを喋り続けた。
パーシー・ブラッドリー―――
アルファフォース所属の伍長で狙撃兵。出身は田舎の方で、幼い頃からライフルに触れ、山の動物たちと触れあっていたという。
元は陸軍で狙撃兵をやっていたのだが、射撃大会で準優勝したから引き抜かれたのだとか。その射撃大会が海兵隊と陸軍の合同だというから、腕前は折り紙つきだ。
「優勝したリー・スワンっていう一等軍曹は駄目だったから俺に回って来たんだと」
「そりゃお気の毒様だな。悔しいだろ、準優勝じゃ?」
「そうだな、三位だったら踏ん切りがつくんだが……準優勝じゃな。まあ、アルファにいる間は俺が軍隊一の狙撃兵だと思えるから、良いんだがな」
「どうして軍隊一の狙撃兵だって思えるんだ?」
「最高の戦友ばかりに囲まれると、そう思えるようになるんだよ兄弟。嫉妬じゃ間に合わないくらいすごい奴らが、俺に命令してくれる。それだけでやる気が出るんだよ」
「……なあ、ブラッドリー」
「パーシーで良いぜ。
シリル」
「じゃあパーシー、少しで良い。少しで良いから……」
親しみやすい笑みを浮かべたパーシーに、俺は紫煙を吐きながら言った。
「狙撃を教えてくれないか?」
「良いともさ。だが上達するかどうかはお前の才能次第だぜ?」
「やってみるだけやってみる。限界が見えたら、そこまでで良い」
「誰にんなこと言ってんだよ。俺は狙撃手だぜ? てめえの限界なんざ十発ありゃ分かるよ」
さっきまでの笑顔をそのままに、パーシーは俺の手からジッポーを抜き取った。
最終更新:2011年03月28日 01:09