(投稿者:Cet)
大丈夫か。
ホルンは笑う。
「大丈夫だよ、私は自分の人生に慣れてるから、疲れることも苦しいことも、慣れてる、歌みたいなものなんだよ、あれ」
大丈夫じゃなさそうだ。
ホルンは笑う。
「貴方に言われるとは思わなかったね」
ホルンは笑った。
笑った。
トリアとは違う。と言った。
彼女はどこか虚を突かれたような顔をした。
「馬鹿言わないで」
トリアはすぐに泣く、それはもう泣く。天の川を作り出せるくらいに泣く。
それなのにどうして?
「それがタフってことなのよ、結局」
分からないな。
「そうかしら? それが普通だと思うけどね、特殊なのは結局私や
シーアくらいのもので」
やはり分からないな。そんなものかな。
「そんなものだよ」
ホルンは笑う。
私は、眉をしかめた。
納得できなかったのではなく、他の要因だった。それが何かは分からない。
ただ、自分に足りないものはそこにあるのではないかと思われた。
影を見ていた。
小隊長の私には個室が与えられていた。そして個室にはクローゼットがあり、クローゼットの中には鏡があった。全身を大写しにできる一枚の大きな鏡だった。
その鏡に自身を写してみた。
それは影だった。
そこから本質を辿ってみようと考えた。本質。
駄目だ、と思う。
それは私に欠けているのだ、欠乏しているのだ、あるいはどこかで失われてしまったのだ。そう考える。何が足りないのかは分からない、しかし、そこに写っているのはただの影であった。
少なくともそれだけは正しいように思えた。
何が足りないのかは分からない。しかし、とにかく何も見えてこなかったのだ。何が足りないのだろうと考える、自分の身にある種の存在を喚起させるところのものが足りない。いやあるいは。
あるいは?
あるいは何だろう。それはひょっとして足りているのだろうか、そのことに気付いていないだけなのだろうか。
情熱とはなんだろう。
情熱とはなんだろうか。情熱とは、今自分に欠けているものに接することで初めて生まれるものではないだろうか。
少なくとも今の自分にはそう感じられた。
何が欠けているのだろうか。
そしてこの影は何だろうか。
影だった。
ただの影だった。鏡に写っているのは、本質ではなかった。
しかし本質を、この影を通して見ることができるはずだった。そして、ある意味ではこの影が本質を反映しているのである。影もまた、本質に与っている存在だと言えよう。
しかしこれは何だろう。分からなかった。
「――さて」
影を見るのをやめる。クローゼットを閉めると、影は見えなくなった。見えなくなる直前、影はわずかに目を細めていた。勿論それは影だけに起こっていることではなく、自分自身の目元にも生じている。神経質なのだ。
部屋を見回す。何もない、空っぽだ。ベッドがある、クローゼットがある。ユニフォームがある。それだけだ。空っぽだ。神経過敏。
まるで、と考えてやめる。その喩えが一体何になるというのか。今の私に必要なものは本質だった。しかし、本質は既にそこに見えているはずなのだ。影を通して。
それがメタファーということだった。
影を通してその本質を見ること。本質を通して影を見ること。
それがメタファーだ。
軍服は以前と同じものになっていた。ここ数日の戦績によって、ある程度ユニフォームの自由が与えられたのだ。
これは影だった。
赤と白、紅、それを通して私は私の本質を見る。
そして、場合によっては影こそが本質なのだ。私はそれを知っていた。
知っていたけれど、それを感じられなかった。
空っぽだ。
空っぽだったのだ。
「トリア」
私は呟く。
「
チューリップ」
私は呟く。
「ホルン」
「
ミテア」
「ララスン」
「カラヤ嫗」
「……」
おかしい。
見えないな、と一人呟く。
戦闘が始まって三十日が経過していた。全員がもう限界だった。十日前に陣営を行き交っていた人々は誰も彼も地面に突っ伏していた。僅かな労力すら惜しいのだ。
その中を私は歩いている。赤いマントを翻らせて。
畏怖の視線を感じる。人間ではない、そのような意味合いの視線を感じた。確かにそうだ。人間では無い。本質がない人間などこの世には存在しない。もしいるとしたら、それはただの狂人だ。何よりも大きな流れに飲まれてしまった存在だ。
歩いていく。たくさんの人が倒れている。それでもどこかから聞こえてくる砲声は止まないし、陣営のどこかではいつでも必ず焚火が行われていた。還元作業。自然の摂理に忠実であれということ。
歩いていく。
歩いていく。
思い返すのは戦友のことだった。
ホルン、疲れを見せないで笑うホルン。
トリア、弱いトリア、誰かの死に誰よりも心を痛めているトリア。誰かが生きていないと自分も生きていけないトリア。
チューリップ。
ホルンは今日出撃していた。私もそろそろ編成に加わらなければならない。楔を打ち込む作業だ。ドラゴンフライの編隊に向かって突っ込む。敵の中央部に進行して、主要な敵を引き付けるのだ。囮のようなものかもしれない。
歩いていく。
歩いていく。
歩いていく。
倒れている兵士たちを見つめる。その中に見知った顔はいない。
倒れ伏して動かなくなる人間を想像する。あるいは、知己の人物がそうであるということを想像する。十分にあり得ることだった。どうしようもない。
でも戦わなくてはならなかった。
◇
サーベルが閃いて、体液が飛び散った。離脱する。今まで自分が存在していた空間を、ドラゴンフライの尾にあたる部分が通過していく。凄まじい風圧に巻き込まれそうになるも、それをどうにか自らの飛翔力でねじふせた。
味方の姿が視界の端に入る。戦闘空域を埋め尽くすような
フライを、各個撃破していっていた。ぬるいのではないかと一瞬思うが、しかし他にやりようが無いのだから仕方ない。そう考える。
翼を広げると、全てが燃焼した。ドラゴンフライの真上を飛ぶ。そして、かの巨大な飛行甲板のごとき背を悉く燃やしていく。絶叫が上がった。フライが追従してくるが、速度に差があり過ぎた。無力だった。ドラゴンフライは何とか身をよじって、追撃から逃れようとするも、あまりにもその蠢動は小さかった。無力だった。
致命傷を避けるべく羽ばたいた。ドラゴンフライの翅が大きく振るわれるのを、むしろ背部に密着するほどに接近して回避する。正面から突っ込んでくるフライをほとんど脊髄反射で躱していく。身軽だった。知覚された瞬間から敵は対象として扱われた。あとは、自らの中に築き上げた戦闘体系が全てを処理していた。
ドラゴンフライが蠢動を停止する。燃え盛る体躯が重力の導きに従って地面へと降下していく。
味方の被害はどれくらいだろうかと考える。視界に入った様子から、被害を勘定していく。大したことはないようだ。士気もそれなりにある。
次なるドラゴンフライの存在を念頭に置いていた私は、すぐさまその感覚に従って自らを飛翔させた。ドラゴンフライを殺さなければならない。
それを繰り返す。
自分に欠けているものはなんだろうかと思う。しかし答えは既に出ている。考える必要はない。しかしそれを考えざるを得ない。
母がいなかった。
母の代わりをしてくれた人がいた。
優しかった。
優しかった。
けれど、それは埋まらなかった。
決して埋まらなかったのだ。
だから私は装置になったのだ。
つまり、影は比重を持ったのだ。
影?
影とはこの場合何を指すのだろう。メタファー? それとも本質?
この場合の影とは、本質を指すのだろう。多分そうだ。
私は、私という名の一つの装置になったのだ。
比重のある影。
それが私だった。
私は歩いていく。
暗闇の中を歩いていく。
最終更新:2011年06月23日 12:33