(投稿者:怨是)
「管理不足でした。申し訳御座いません」
頭を垂れて
エーアリヒは謝罪する。目の前で仁王立ちするMAIDは、口煩さでは右に出る者の居ない、あの
フィルトルだ。いつもの仏頂面を更に顰めた鬼の形相で此方を見下ろしている。
軍事正常化委員会に入りたての頃は、それまで居た国防陸軍内部でも我が強くて怒ると手が付けられないと云われていた自分でさえ気圧され、物怖じしていたが、慣れてきた今となっては単に鬱陶しいとしか思えなくなってきていた。
「それで。どうするつもりで? 組織再編の最中だった等という云い訳は通用しませんよ」
「……ただ、もう少し監視体制を強化すべきであったかと」
エーアリヒは頭を上げ、今日以前より溜め込んでいた不満を少しだけ吐露した。それを聞くか聞かないか、フィルトルは靴の音をこの狭い室内にツカツカと反響させる。
「――反論は許可しません。貴女の力量であれば拘束する程度、訳ない筈でした。事の次第に依っては降格処分も有り得ましたが、今回はプロミナの削除を以て特例的に反省文のみとします。なお、反省文の提出は本日中に済ませる事。解ったら速やかに退出しなさい」
「了、解……しました」
奥歯を噛み締め、静かに扉を閉める。擦れ違うあらゆる何者かと目が合う度、睨み付けた。頻発するプロトファスマもどきの摘発に力を入れ、漸く順風満帆だと思っていた矢先、マーヴやプロミナを巡る不始末の連続に、腹が立って仕方が無いのだ。
オフィスのドアの前へ辿り着くまで堪えてきた怒りは、ついに火を噴いた。
「くそ! 何故私ばかりこんな目に! それもこれも、ここ最近のおかしな流れのせいだ! クソッタレ、ああ!」
社会現象にもなったプロトファスマもどきの出現は、フィルトルのみならずエーアリヒの胃袋をも荒廃させた。人間に化けているのみなら、まだ良かった。問題は誰かがそのプロトファスマを勝手に殺したり、挙げ句の果てに誤認による殺害といった不始末なども後を絶たない事だ。尤も後者はあまり知られていない事実ではあるが、頭を抱えるには充分すぎた。そこに来て、更に連続放火事件の対応に追われ、マーヴの監視までほぼ独りでやらねばならないとは。物理的に無理ではないか。
食事がまともに喉を通ったのはこの一週間で数える程しか無い。遣り場の無い怒りを壁にぶつける。分厚いコンクリートの奥で鉄骨の曲がる感触があったが、知った事か。
「いつになく荒れているじゃないか」
オフィスからドアを開けて顔を出してきたのは
ガレッサだった。
「ガレッサ上級管理者……放って置いてくれます? 今は誰とも話せる気分では無いので」
「そうも行かん。マーヴの処遇についてなんだが、ちょっと上層部に掛け合ってみようと思ってな。直属ではないとはいえ、お前も私の部下だ。きちんと知らせておきたい」
「はぁ……あんな奴は、亡命を装って殺しておけば良かったんですよ。プロミナ諸共ね」
「どんな形であれ、プロミナという名のMAIDはこの世から消えた。社会的には削除されたじゃないか」
解っていない。こいつは何一つ解っていない。監視部隊の記録係から書類を受け取って知った事だが、
プロミナは反省して能力を封じ、消えた訳ではないのだ。あくまで現状から逃げ出す為に、軍事正常化委員会の名を借りた何者かにそそのかされ、大事件を犯して亡命した。物事を判断する場面に於いて結果は最重要項目だが、過程を無視してはならない。何故かはこの組織に居る者なら大半が理解しうる話だ。拙い過程を用いてでも結果を出せば、次も拙い過程を辿る。そうして種々の問題を増やして行く。つくづく、この愚鈍な上司には嫌気が差す。
「お陰様で管理不足については反省文だけで済まされましたけどもね。だからって私は、納得行きませんよ。あれがまた能力を使う可能性だって有り得る。名前は変えても、記憶は残るんですよ? 安堵に胸を撫で下ろす暇があるなら、亡命先だけでも特定しておかねば」
「その為のマーヴだろ。彼女は今もあの作戦を、上層部からの命令と信じて疑わないでいる。それを逆手にとって報告させる。責任という物は皆で負うのが礼儀だものな」
「……」
ガレッサの言葉の真意が気になる。が、生まれてこの方、口より先に手を出してきた性分だ。気の利いた質問が出来ないのは何とも歯痒いが、黙って話を伺うしか無かった。事務所へと入る。もう暑さも過ぎ去り、開け放った窓から流れ込む風はすっかり夏の気配を失っていた。事務作業を行なうMAIDが立ち上がり、敬礼をする。視線の奥から嘲笑じみたものを感じるのは果たして、単なる気のせいだろうか。
そのままガレッサは、彼女にあてがわれた個室のドアを開けた。机に座り、窓を眺めながらガレッサは引き出しからメモ帳を取り出す。
「それで? どうするんですか?」
「今さっきも云ったが、私とお前、そしてマーヴを連れてフィルトルに直談判する。マーヴの使い道についてな。ちょっと亡命したプロミナの監視でもやらせてみようと思っているんだ。あいつは、プロミナの亡命先を知っている節がある」
「……そう簡単に通る物ですかね。私にはあの石頭が“はいそうですか”と快諾してくれるとは思えませんよ」
「幸いにも、フィルトルは私を信頼してくれている。きっと何とかなるさ」
根拠の無い自信を見せつけてくれるではないか。よほど部下の前では強気でありたいのだろう。何より気障りなのはその『私なら大丈夫』という語り口だ。此方の失態を踏み台に、自身の成功を主張したいのか。そう考えるだけで、頷く気が失せる。全く、何様のつもりだというのだ。ガレッサ様という上司は。
「だったら精々頑張って下さいよ。私はマーヴについては考えるだけでも頭が痛くなる。本当なら手は貸したくないけれども、貴女様の指示に従うとします。但し、云われた以上の事は絶対に遣りませんからね」
「構わないさ。寧ろ余計な事をしないと解ってるなら、却って遣りやすい」
「何だい? アタシの事について話してるのかい?」
施錠の確認を怠ったのがまずったか。マーヴは音も無くドアを開け、この場へと闖入していた。
「なッ……ここは関係者以外は無断での立ち入りを禁じて――」
「アタシの話をしてるんならアタシは関係者だろ。なら、無断だろうが何だろうが、アタシだって此処に来てもいいじゃないか」
理由になっていない。頭に血が上り、感情の赴くままにマーヴの首を片手で掴み、壁に叩き付けた。中級管理者以下のMAIDが使うオフィスの方の壁に叩き付けたからか、あちら側が騒然とする。ブラインドの隙間から覗う様な視線を感じたが、知った事ではない。
「開き直るなよォ、お前ェ! 私がどんな思いでお前の処遇を悩んでるかも知らずに!」
空いた片手でマーヴの髪を引っ張る。けばけばしい香水を使ってくれているお陰で、鼻が曲がりそうだ。いっそ、髪を毟ってしまっても構わないだろう。所構わず男を漁る、この淫らなMAIDを少しでも教育してやらねばならないのだ。慈悲など要らぬ。
「アタシは決して非力じゃないけど、権力が絡むと無力なんだ。どうか大切に扱ってはくれないかい。悪い様にはしないからさ。ね?」
「その通りだぞ、エーアリヒ。私の指示以上の事はしないんだろ? なら、手を離せ。こいつに触れるな」
ああ、嫌みったらしい云い方をするものではない! 振り上げた拳の置き所を探すのだって楽では無いというのに! エーアリヒは渋々、震える手でマーヴを解放した。床に叩き付けてやりたい気持ちで一杯だったが、そうすると後が面倒だ。
「……解りましたよ。で、本当に上手く行くのでしょうね?」
「まぁ、あまり疑ってくれるなよ。納得させるだけの論拠は幾らでも用意してある。役者も予想以上に早く揃った事だし、早速赴いてみるとしよう。丁度、彼女も胃薬を飲み終えた頃だろう。機嫌が直って、また何らかの出来事で機嫌を悪くしない、今ぐらいが好機だ」
「どうしてあんな難物が最高管理者なのか、私には皆目見当が付きませんよ」
「性格はどうあれ、仕事は出来るんだ。総統閣下が選んだなら、それが正当な評価という事さ」
「陸軍も大概理不尽でしたけども、此処も大して変わらないですよ。いやはや、全く」
寧ろもっとおかしいかもしれない。陸軍ならまだ、こういう不満を話せる相手がそれなりに居た気がする。この組織ではそんな事は有り得なかった。理不尽な出来事に遭遇し、草葉の陰でその不平不満を漏らそうものなら、銃弾が飛んできてもおかしくはないのだ。幸い、組織に認められているエーアリヒは、多少の愚痴くらいは許されている。ロナやその他、疎まれている連中の扱いは悲惨だ。事と次第によっては嫌な顔をするだけで頬をぶたれ、鼓膜を破壊する勢いで捲し立てられる。
幾らエーアリヒは馴れ合いを嫌うとはいえ、昼夜場所問わずぴりぴりした空気の中で仕事をするのだから、息も詰まるというものだ。上官に意見するくらいはやらせて欲しい。そも、この組織へ移った理由は、理不尽が嫌いだからなのに。
「大事なのは、理由を探して見付ける事だよ。私は、思想の利害さえ一致していれば納得できる。お前も早く心の置き場を作っておくといい」
「置き場って、理不尽な事の理由ですか」
「正確には“お前が理不尽だと思っている事”の理由、かな。何故こうせねばならないのか。そこには必ず何らかの理由や意味が存在する。それが、お前が納得できるものかどうかは別としてな」
グライヒヴィッツ総統の演説の一言一句を思い出して見ろ。『正しき平和は、全人類が正しき武器を手にし、悪魔に魂を売り渡した社会に生み出された理不尽に打ち勝つことで生まれる』と、閣下は仰せられた。その後に『完膚なきまでにこの理不尽を叩き潰し、安寧なる秩序を自力で掴んだその時にこそ、人類の本当の勝利が訪れるのだ』と続けられた。
ガレッサの云う様に理由を探して納得したフリをしても、叩き潰した内に入らない。それでは単なる欺瞞だ。
「見付けた結果納得出来なければ探す意味なんて無いでしょうに。要らぬ苦労をするくらいなら、その労力を別の有意義な仕事へ向けるべきです」
「長期的に考えるんだ。後からそれが生きる部分もある」
阿呆め。これだから愚図だと罵られるのだ。ガレッサは軍事正常化委員会所属のMAIDにしては珍しく、比較的温和で気の長い性格でも知られるが、度が過ぎるのも考え物だ。組織の位置づけから、Gのみならず各国の正規軍にも嫌われ、背中を狙われる危険も多い中では“後から”等と暢気な事を云っている暇など無い。
「明日には死んでるかもしれないというのに、何を悠長な事云ってるんです? 私達は戦争をしているんですよ」
「だからこそさ。死ぬ間際に意味を見出して、笑って死ねる事だってあるに違いないよ。安らかな死に顔だって、沢山見てきただろ?」
「それはそうですが。その多くは人生のあらゆる案件を未解決にしたまま、何らかの喜びを見出して死んだのではないでしょうか」
「いずれにせよ死人に口なし。私が云った通りの死に方をした兵士も、あの中には居たと私は確信している」
「幽霊にでも訊いて下さいよ。絶対に間違ってますよ」
「幽霊の類いは信じないが、脳科学は信じる。快楽物質が死に顔を笑顔に近付ける事もあると、学者が証明したからな」
「……然様で」
最早、付き合いきれない。エーアリヒにとっては神や幽霊の存在も、新興の医学も、同様に胡散臭いオカルトの類いだ。科学だの医学だのと付けば何でも現実的な証明となるかと云えば、そういうものでもあるまい。浸透し、何者にも滞りなく説明出来る段階になってこそ、初めてオカルトの域を脱するのだ。追従を辞めたのを察したガレッサが、話題を切り替えようと試みる。
「行こうか。エーアリヒ。そしてマーヴも」
「了解」
「あいよ」
相変わらず軍事正常化委員会の営舎は、陸軍の施設に比べて何処か薄暗い。ベーエルデーのMAIDが暴れ回ってくれたお陰で配電盤の修理もままならず、泣く泣く電灯を取り外した箇所もある。その所為か昼間でも以前に増して荒涼とした雰囲気が漂っており、何処へ行っても居心地の悪さが付きまとう。隣で縄に繋がれているマーヴも同じなのか、普段の尊大な態度は形を潜め、不安げに周囲を見回している。
焼け焦げた壁に、血の臭いが消えない床、穴の空いた天井。それらが余計に不安を掻き立て、暴力的な結論に導きがちな空気を形作る。耳を澄ませば、遠くから壁を補修する音が聞こえてきた。
階段を上り、フィルトルの部屋の前へと辿り着くと、ガレッサが振り向いた。
「さぁ到着だ。最高管理者殿のご尊顔を拝見し、有り難きお説教を拝聴するとしよう」
「お説教は最早、前提ですよね」
「言葉を浴びた瞬間は心も荒むかも知れないが、後で必ず役に立つ。黙って聞いてから、その先が本番だ。決して口を挟んだりするなよ。彼女はよく話を遮りたがるが、逆に遮られる事は最も嫌っている」
「よく遮ってる私への戒めですか」
「そうとも。自覚してたのか」
相容れない所為だろうか。あの長話には付いて行けず、ついつい遮ってしまう。己の主張が正当であると信じて疑わないあの態度がどうしても許せず、異論を挟んでしまう。
「頭では理解していますが、感情が云う事を聞いてくれないもので」
だが、仕方の無い事ではないか。訳も解らず丸め込まれ、命令に従って戦い続け、己の意思がどのようなものであったか霞んでいた陸軍時代に比べれば、こんな環境であっても軍事正常化委員会のほうが好きだ。何と云っても、あの陸軍や皇室親衛隊に、思う存分喧嘩を売る事が出来るのだから。
――そうですとも。私は職務には忠実だけど、愚図や阿呆な上司に従う忠犬なんかじゃない。より良い結果を得る為なら、反抗的な態度とて辞さない。ある分野に於いて己の考えの方が優れていると感じたら、容赦なく異議を唱える。気に入らないなら、はっきり云う。いつだってそれが私の遣り方だ。
ところが、ガレッサは行儀だの礼儀だのと云ってそれをさせない。上司を立てるのが部下の努めだと日頃から口癖の様に云っている。時と場合によっては主張を何度も反転させる事もある。そんなガレッサが、苦笑いしながら此方の両肩に手を置いた。
「大人になってくれよ。せめてこの後の相談会の間だけでも」
「解ってますよ」
「さて、ショータイムだ」
好きにしろ。手前で顔を立てて見せろ。幾らでもお利口さんになってやるから、私を守り抜いて、いい格好をしてみせろ。
悠々とした仕草でドアをノックするガレッサの背中を見ながら、エーアリヒは精一杯の皮肉を浴びせてやった。今、エーアリヒは非常に機嫌が悪い。
「失礼致します」
「名前と階級を」
「ガレッサ。上級管理者MAID、以下二名です」
「入りなさい」
ガレッサは此方を向いてウィンクする。
「エーアリヒ、それにマーヴですか。……ガレッサ。エーアリヒは反省文を書き終えましたか」
わざわざ本人に訊かず、上司に答えさせる辺りがまどろっこしい。此方には既に語る舌すら用意させないつもりだろうか。エーアリヒはますます暗澹たる心持ちとなった。どうせ此処で口を開いた処で、ぴしゃりと遮られるに違いないのだ。『貴女が口を開いて良いといつ云いましたか』などと云って。
「最高管理者、その件についてですが――」
「――書かせていないと。よもや、エーアリヒから報告を受けたにもかかわらず、教育義務を放棄して無駄話に付き合わせたとは云わせませんが」
「反省文を書かせるにはまだ早計かと」
「私が早計であると。エーアリヒによる管理不足の挙げ句、削除の大義名分作りの為とはいえ無許可で特定MAIDによる破壊活動を助長した所属不明の勢力に荷担させたという不始末をして、反省文を書かせるには早計である、と。……常々、私は反論は許可しないと警告していますが、今回だけ特例的に許可しましょう。どうぞ、簡潔明瞭に述べなさい。但し、返答次第では只では済ませません」
始まった。こうなるといよいよ面倒だ。まだ矛先が此方では無くガレッサに向いているだけ幾分かマシだと思いたいが、それでもこの浴びせかける様な口ぶりにはうんざりさせられる。
「結果的にはプロミナを削除出来ました。それに、所属不明のMAIDとコンタクトを取ったマーヴであれば、プロミナの亡命先を知っており、尚且つ比較的行動範囲に制限が少ないとあらば、監視させる事も出来ましょう」
「プロミナの削除という事実が、エーアリヒの処分を反省文程度に出来たという報告は? 聞かなかったのですね」
フィルトルの視線が此方に向く。エーアリヒは咄嗟に口を開いた。
「私、報告ならしまし――」
「――で?」
何だその返し方は。それ以上、どう付け加えろと云うのだ。どういった返答をこの鬼神フィルトルは期待しているのか。エーアリヒは困窮した。報告したのは事実なのだから、問題は無いだろう。
「ですから、報告はしましたよ」
「伝わっていなければ意味がありません。ガレッサ。再度、報告の仕方をエーアリヒに教育しておく様に」
「了解」
苛立ちが止まらない。この沈黙に満ちた精神的苦痛で酸欠を起こしそうになるのを堪えながらも、エーアリヒはフィルトルを睨み続けた。そして、ガレッサへもこの怒りを向ける。そも、余計な事を口走らなければ丸く収まった筈だろう。すぐに本題に移ろうとするから、要らぬ説教まで増えるのだ。報告と教育の義務をそれぞれに課せられてしまったではないか。
「それで私の提案ですが、どうか御一考願えますでしょうか。私が全責任を持って遂行致しますので。反省文も、一先ずは保留と――」
「――却下。怪我の功名とはいえ、任務に対する不履行は間違いの無い事実。そこに対する“けじめ”は最低限付けるべきであって――」
「――異議あり。そもそも組織の再編成中に起きた事です。合流前に他の将校が考案した作戦である可能性だって否定はで――」
「――却下。現状、情報部が全ての作戦を暗号化して配信し、間接的に指示を送っています。何らかの作戦であるならこの本部に於いて書類が保管されている筈ですが、私が三日三晩不眠不休で探した結果、そのような作戦は存在しませんでした。よって、作戦であるという可能性は有り得ません。まだ反論はありますか? 私はこの後、別件で会議に出席せねばなりません。手短に済ませる事」
「反論はもうありません。反省文に関してはこの後書かせましょう」
「本日中です。解っていますね」
「はい。それで、質問が一つだけ」
「許可。どうぞ」
「私の提案は受諾して頂けるのでしょうか?」
「……」
初撃の返答は沈黙であったが、フィルトルの眉が僅かに動いたのを、ガレッサは見逃さなかったらしい。すかさず次の説明へと移る。彼女の好む言葉を随所に置いておけば、遮られる危険性はぐっと下がる。後は要点があやふやになってしまわぬ様に、しっかりと発音するだけだ。尤も、それを教えてくれたガレッサはいざという時にそれを実践できない事がしばしばあった。今回はどうだろう。半ば自暴自棄になりながら、エーアリヒは傍観を徹底した。
「上手く行けば、今後同様の手法を取った際に活かせるかと。また、殺傷による削除とは異なり、MAIDの戦力を損ないすぎず、各国の戦線を維持できます。更に、戦力過多な国家から、戦力不足な国家へとMAIDを異動させる事によって、各国間の戦力バランスをより良好なものへと変えられる。MAID殺しに抵抗のある人員にとっても、より遣りやすい組織になるのではないでしょうか」
「……本来、今までの遣り方に付いて行けぬ者は、この組織には不要です」
「それは重々承知です。思想的不一致が見られた人員を組織から追放するのは、思想を維持する上で必要な事であると」
「ですが、現状、活動が思わしくなく、困窮しているのも事実。貴女の提案を今すぐに受理する訳には行きませんが、検討する価値はあると私は考えています。一週間後以降の返答となりますが、宜しいですね」
口調こそ尋ねる様な形であったが、語気は断定のそれだ。反論の余地は微塵も無い。だが、ガレッサの表情を見るに、彼女は確信していた。フィルトルは嘘を嫌う性格故に『検討する価値がある』と云ったからには確実に検討する。つまりは、一週間後には必ず返答が得られるのだ。それならば、嫌な気はしないだろう。厭らしい程に満足げなガレッサの表情が、何よりも雄弁に物語っている。
「ありがとうございます」
「有意義な報告でした。退室しなさい」
「了解」
フィルトルは表情を緩めぬまま、合図した。いつも思う事だが、あの気難しいMAIDは決して笑わない。愛想笑いの類いすら無い。それどころか、泣いたりしている処も見た事が無い。いや、フィルトルの事はいい。今、糾弾すべきはいとも簡単に屈した、部下を弁護しきれない阿呆上司だ。
「……結局、私をダシにしましたね? ろくに粘りもしないで、あんなにあっさりと“書かせましょう”って……」
「結果的にそうなってしまったのは、済まないと思っている」
「結果的にと云って、最初から自分の提案を通すのが目的だったのでしょう? 反省文の帳消しは、ついでではありませんか!」
「……食事でも奢ろう。それで許してくれるか?」
「生憎と、餌付けで尻尾を振るほど私は飢えてなどいませんので。まぁ、いいでしょう。あれで提出の際の小言が減ると思えば、幾らか気が楽になります」
そう思うしか、道は無さそうだ。溜め息ばかりが漏れる。
「そう、だな。文面は私が手伝おうか。寧ろ私が打ち込んであげよう。その間に、お前が別の仕事を済ませる。どうだろうか」
「是非ともそうして下さい。今の私では苛立って余計な事まで書いてしまうので。それに、タイプライターはガレッサ上級管理者の方が得意でしょう?」
「そう嫌味を云ってくれるなよ。マーヴが役に立ってくれるさ」
「アタシが、かい」
「お前の働き次第で、今後の職場が楽になるぞ。悪い話じゃないだろう? お前が殺しを苦手としているのも、私は知っているよ」
「ケッ、そいつはどうも」
「丸く収めてみせる。それが私の仕事だ」
体面こそ良き上司を繕っているつもりらしいが、本質は見え透いている。所詮、ガレッサも保身が必要な場面になれば、容赦なく保身的な手段を選ぶ手合いだ。身を削って体当たりしてみせるだけの度胸など、殆ど持ち合わせていない。こいつはきっと、誰からも嫌われたくないのだ。最早、我慢の限界だ。
「色々な事を上手く丸め込むのは結構ですけど、フィルトルさんの、私への当たりのきつさもどうにかして下さいます? 何か云おうとする度にすぐ“反論は許可しません”と云って。かと思いきや私が拳を振り上げる度に“責任を取るのは私だけでいい”とか云って止められるし。口も手も出せないのでは、鬱憤が溜まる一方で」
「あれはなぁ。彼女から見たお前が、昔の彼女自身と重なって見えるんじゃないか。短気な処とか」
「冗談じゃ無い。確かに、私が入りたての頃より幾らか丸くなったというか、すぐに殴り掛かって来なくなった印象はありますが」
「お前の仕草を見て、学んでくれたんだ。同時に、お前にも教えたいのさ。我が振りを直す事の大事さを」
だったら直接云えば良いのに、何故そうしないのだろう。思った事をすぐ口に出すフィルトルにしては、妙にまどろっこしい遣り方ではなかろうか。
「釈然としませんね」
「それも、まぁ……」
「理由を探して見付けろ、でしたか?」
「そうだ。大人になるっていうのはな。不幸であると同時に、幸福でもある」
「私が子供じみていると……」
とでも云いたいのですね、という言葉をエーアリヒは即座に呑み込んだ。ここでムキになれば、ガレッサにその通りの印象を決定付けてしまう。自分とて物分かりの悪い、口喧しいだけのMAIDとばかり思われてしまうのは心外だった。
「まぁ、その通りなのでしょうね。努力します」
「私も愚図を脱却するべく、精進するよ」
「是非ともそうして頂きたいものですね」
そろそろ腹を括って欲しいものだ。万人に好かれる事などありはしない。己の主張があるならば、恐れずそれを貫き通せば良いのに……わざわざ部下を巻き込んで、不祥事すらも口実にする。当人にはそのつもりは無い様子で、寧ろ怪我の功名を狙った節があるが、結果的にそうなってしまったのだから少しは自覚して欲しいものだ。いつからこの女は此処まで臆病になってしまったのだろう。上級管理者の地位か。長きに渡って飼い慣らされ、牙が抜け落ちたのか。いずれにせよ鍍金が剥がれれば軟弱な盾を、使う気にはなれない。
「……でなきゃ、私まで飼い殺しになってしまいますので」
エーアリヒは逡巡の結果、二度とガレッサに弁護を頼まない事に決めた。元より、エーアリヒの辞書に於いて“守る”という言葉は規律と作法にのみ用いられる。自分の身命を自分で守るのも、誰かに守って貰うのも得意では無い。だからマーヴの事はガレッサに一任し、自分は規律と作法を守らせる役目に力を入れる方が良さそうだ。
規律を守れば手を出さず、はみ出し者には警告を。それでも駄目なら機能を捨てさせお役御免。仕事が単純明快な分、他の事に思考を巡らせられる。
昇進はおそらくまだ先の話だろうが、中級管理者に上がった暁には、今の百倍の首は獲ってやろう。そうして有用性を見せつけてやる事こそが……発言権の源でもあった希望の星たる
テオドリクスを失い、緩やかな壊死を待つだけのかつての古巣――国防陸軍への、せめてもの手向けだ。
最終更新:2011年09月30日 14:28