Behind 9-4 : 亡命者と修道女の狭間

(投稿者:怨是)


 自分の気持ちを伝える為に誰かを頼る。
 それがどんなにおぞましい事であるかぐらい、私にだって解る。
 だからって、こんな場所で手紙を書いても届かないよ。
 灰色の反対は星の色。彼女は云った。
 じゃあ決めた。星の色の反対は何色か。
 墓前で酒を嗜む必要がある。愛している。
 (1945年10月1日、某所で見掛けた落書き。筆者不明)



 プロミナは潮風でフードがめくれない様に、しっかりと両手でフードのふちを押さえた。
 色素が抜け落ちた真っ白な頭髪を覆い隠す様にして黒髪のウィッグをかぶり、煤けた顔をわざわざ洗わずにそのままにしておく事で、何処かの奴隷階級か貧民の生まれだろうと錯覚させるという念の入り様ではあるが、それでも顔立ちまではごまかせない。見知った誰かに見られれば、即座にお縄となるだろう。
 そうとも。プロミナという名のMAIDは名実共に死んでいる事になっていなければ。死んでしまったMAIDが再び蘇るなどという事は、あってはならない。
 時は1945年9月14日。使われなくなってから何年も経っているであろう地下鉄道の線路を、ディーゼルエンジン式のお手製トロッコ列車で伝い、途中何度か脱線しそうになりながらも、この寂れた港町へと辿り着いた。この後ほどなくして“安全海域”と称された、海洋性のGが生息しない海域を運行する商船へと乗り込む手筈となっている。
 行商人になりすました黒旗兵が、こちらを指差しながら商船の乗組員と何か話し込んでいた。

「安全性については大丈夫ですかね」

「えぇ、ご安心下さい。数週間で送り届けるその間、G-GHQから派遣された護衛の船を付けていますので」

「解りました。後はお願いします。紹介状は彼女に持たせているので、レオンと名乗る男に引き渡して下さい」

「かしこまりました。しかし、こんなご時世に奴隷商売ですか」

「だからこそですよ。いつ死ぬか解らないなら、何をしたって良い。そう考える者達は後を絶ちません。お陰様で我々は儲かるのですが」

「違いありませんな。今度私にも何名か融通して頂きましょう!」

「うちの奴隷はよく調教してありますので、放し飼いにしても行くべき場所へ行ってくれるのが最大の売りです。まるで犬みたいにね」

「ほう、そいつは手間が掛からなくて良さそうだ! では、三十分後の出航となりますので――」

 耳を澄ましてみると、さほど重要な内容ではなかった。カモフラージュの為にプロミナを奴隷に見立て、アルトメリアに居る奴隷商レオンへと引き渡すという事に関しては、此処へ来る前に知らされていた。曰く、積み荷に紛れる方法ではトラウマ――プロミナが放火の自作自演作戦に参加する際、よく箱などに入れられていたという事を彼は知っていた――を刺激するだろうという配慮らしい。それに関してはもう慣れてしまったので、正直な所ありがた迷惑だったが、その事を口にするのは控えておいた。
 ――それにしても、奴隷か。
 プロミナは自嘲した。人々の生活を守る為、いつ終わるかも解らぬ戦いに身を投じる我々は、人間社会にとっての奴隷以外の何物でもないだろう。
 ふと、足音に気付き、プロミナは振り向いた。金髪にサングラスをかけた派手な身なりの女性が居た。酒場で接待をする女か、或いは売女か何かに違いない。その派手な女性はこちらに手招きしている。誘われるままに路地裏へ行くと女性はサングラスを外し、少し屈んで視線を合わせてきた。

「貴女は……」

 変装のせいで最初は気付かなかったが、その狡猾そうな顔立ちと何処かもの悲しげな目つきは、はっきりと記憶している。図書館に放火して脱出した時、運んでくれた空戦MAIDだ。ただ、名前までは覚えていない。

マーヴだよ。あん時以来だね。元気にしてたかい」

「あはは。一応ね。実を云うと、あの時の事、あんまり覚えていないっていうか……思い出したくないんだ」

「すっかり出来上がっちゃってたからねぇ」

 マーヴに茶化され、羞恥心で少しだけ耳が熱くなる。
 あの時は本当に、頭がおかしくなっていたとしか思えなかった。起動剤(ブースタ)の過剰摂取による副作用で極度の興奮状態だったとはいえ、あの狂態は紛れもなく、自分自身の心に眠っていたケダモノが猛り狂った結果だ。狂気と怨恨のケダモノが目を覚まし、破壊衝動を己の意志で爆発させたのだ。それは、鬱屈した感情を抑えきれなくなったのではない。自らの意志で、理性のタガを叩き割ったのだ。

「……でも、羨ましいよ。すっぱり自分の特殊能力と見切りを付けて、新しい人生を始められるなんてさ」

「未練は……無くはないけどね」

「云ってごらんよ。アタシが何でも聞いてあげるさね」

 一瞬、鼓動が高鳴った。彼女になら、話してもいい気がした。彼女の、眩しそうに細めた双眸が、何故かシーアと重なって見えたからなのかもしれない。

「……私」

 口を開き、ぽつぽつと言葉を紡ぐ。

「私、もっと色んな人の助けになりたかった。沢山の仲間と笑い合って、凍えそうになった人の傍に居てあげて……火を操るこの力さえあれば、きっと色々な事が出来たんじゃないかなって」

 その度にマーヴは「うん」と相づちを打つ。どうせご機嫌取りの愛想笑いなのだろうと胸中で嘲りつつも、今はその一言だけでも金貨一枚を支払いたくなる程に、心が渇望していたらしい。その度に目頭が熱を帯びて行くのを感じた。実に身勝手な感情だが、それを止める術は無かった。

「ちょっとしたお手伝いでもいい。暖炉の火を付けたり、野戦でたき火をしたい時は火種の代わりになったりとか……」

 どんなに些細な事でも良かった。誰かの助けになるというのならば、対価として得られる「ありがとう」の一言さえあれば、自分は誰かに必要とされている事を実感できた。小さな「ありがとう」を積み上げて、掛け替えのない存在になりたかった。傲慢だと笑われても、自己満足だと揶揄されても良かった。自分を受け入れて貰う為なら、何でもした。

「なのに……――なのに」

 ある日を境に、満ち足りた日常は反転した。感謝の言葉は拒絶や嘲笑に取って代わられ、成し遂げようとした奮闘の悉くが無視された。その忘却が意図せぬものであれ、恣意的なものであれ、心は幾度となく切り傷を深々と刻まれた。
 無垢で高慢な善意の足下で涙する事も、数えきれぬ程あった。そんな偽善の権化といえば他に誰が居るというのか。そう、誰もが知るアースラウグだ。あの呼吸をするかの如く綺麗事を次々と吐きながら、黒々と染まった悲しみを平然と踏み躙る、傀儡と呼ぶのも憚られる史上最悪の屑MAID。
 ――純真無垢を口実に、彼女にどれだけ扱き下ろされたか! 奴さえ、奴さえ居なければ、今頃……
 憎悪と悲哀は胸中にて混ざり合い、それが何本もの涙の筋となって頬を流れ落ちた。如何程に怨もうとも、失われた日常が帰ってくる事は無い。結局、プロミナという名のMAIDは最後まで大罪を犯した悪しきMAIDとして記憶され、その機能を終えたのだ。此処に居る、此処で泣いている誰かは、只の抜け殻でしかない。

「どうして、こんな事になっちゃったのかな……」

 抱きしめられ、頭を撫でられる。ウィッグ越しではあったが、それでも誰かの優しさに甘えたかった。こうしているだけで、孤独で矮小な自分を見て貰えるというのなら。今まで、誰もこうして受け入れてくれた事が無かったから。

「こんな世の中さ。優しくあればある程、そうでない奴に利用されやすいんだよ。哀しい世の中さね」

「その優しさを私は信じ続けたかった。誰かの役に立たなきゃ、私に価値なんて無いだろうから」

「だけど、それは間違いだった。気付けたなら、いいじゃないか。生きているなら、次の遣り方を探しゃいいんだよ。例えば、自分の為に戦うんだ」

「自分の為に……」

「そう。図書館での戦いだって、そうだろ? アンタは、自分が自分で在り続ける為に戦った。それは決して間違いじゃない筈さね」

 自分が自分で在り続ける為に、自分自身の為に。そうだ。自分は、誰かの薄汚い欲望の片棒を担ぐ為に戦ってきた訳では断じてない筈だ。元より、誰かの役に立ちたいと考えたその根幹は、自分を受け入れて貰う為だったじゃないか。ならばもっと簡単に考えるべきだったのだ。こんな、赤子でも解る様な摂理に気付かなかったとは。

「それに……名前を変えても、心は消えない。アンタはその傷を、これからの糧にする事が出来る。誰にも真似できない程の深い傷があるからこそ、痛みに苦しむ奴等に手を差し伸べてやれる。それは、アンタが心に大けがを負った事で得られた、最高の宝物だよ」

 同じ痛みを、それに類する痛みを受けた同胞が居たら真っ先に駆け付けよう。脳裏に、幾つもの影が去来する。それから再び、咽び泣いた。

「時間だね。まぁ、達者でやりなよ」

「……ありがとう」

 マーヴに別れを告げ、プロミナは船へと向かった。煤と涙で酷い顔になっているかもしれないが、今のプロミナにとってそれは些末な問題だ。途中、行商人こと黒旗兵と目が合う。彼は何やら面食らった表情を浮かべた後、すぐに元の調子へと戻した。出航を示す汽笛が、低く鳴り響く。

「……やれやれ、こんな所に居たのか。ほら、さっさと行け。船が出ちまう」

「はい!」

 ――もう泣かない。今は泣いたりなんてしない。今はただ、笑って走る。
 昨日までの陰鬱な自分と決別すべきだ。長きに渡って雨が降り続けたなら、窓を開けて虹を見るべきだ。太陽はいつでも、空に輝いているのだから。



「……アタシをこんな所にけしかけてさ。本当はアンタが見送ってやるべきだったんだ。テメエのしたい事なのに、テメエで決着(ケリ)付けないで、何を高みの見物決め込んでるのさ……アンタ、何やってんだよ」

 マーヴは有りっ丈の憎悪を、喉元から絞り出した。

「何か云い返す言葉は無いのかい、ええ! シュヴェルテ!!」

 そして、ことさら声音を鋭くして、憎むべきMAIDの名を呼んだ。眉間と口元に皺が寄り、自分でもそれがひどく不細工な表情になっているのだろうという事が感じ取れた。鬼の形相だろうが構うものか。修道服姿のシュヴェルテが姿を現すや否や、胸倉を掴み上げる。突然の挨拶にも動じない彼女は、掴まれながら、濁った灰色の目を細めていた。何処か憐憫の情を滲ませたその眼差しが、憎くて仕方が無い。

「それは出来ない。お生憎様だけど」

 マーヴは突然顔を掴まれ、指の微弱な動きで撫で回された。

「君自身の問題でもあるんだよ……誰かに優しくする事に、君はもっと慣れといた方がいいと思わない?」

「ひっ――クソ、クソッタレ! 触んじゃないよ!」

 思わずシュヴェルテを手放し、突き飛ばす。頬を這い回った指の感触がまだ残っていて、不快だ。脊髄の中を蛞蝓がのたくっている様な、嫌な感覚がマーヴの背筋を舐めた。ドレスの肩口から出した腕の毛穴がきゅうと閉まる。

「……とんだ茶番をやらせてくれるよ。お陰で何度、テメエの気障な台詞に笑いそうになったか!」

「先刻聞かせて貰った君の言葉は、過不足無く、掛け値無しで君が本心から云った言葉だ」

「ハッ、冗談じゃないよ! 何処にそんな根拠が……」

 憤慨の余り、言葉が詰まる。それから云うべき事、これだと思った単語を次々と放った。それこそ、掴んでは投げる様にして。

「――アンタがアタシに全部吹き込んで、云わせた台詞だろうが! 大体、アタシは手放しであの子の旅路を祝おうなんて、これっぽっちも思っちゃ居なかったよ。“こんな所に居られない”って何処かへ行っても、結局は次の場所も、時間が経てばクソの塊にしか見えなくなる! それを何度も繰り返して、いつかは“そこに居る”という事実そのものと戦わなきゃならなくなる! あの子はまだ、此処で戦えた。アンタは、アタシみたいな奴をこれ以上増やすつもりかい!」

「まぁまぁ、落ち着きなよ。騒いだら変装した意味が無いでしょ?」

「そうさね……悪かったよ」

 まだ息が荒い。脂汗が首筋に痒みをもたらす。冷静に考えて見ろ。もう、プロミナは旅立ってしまった。汽笛の音は聞いただろう。此処でいたずらに責め立てた所で、解決手段には成り得ないのだ。何か、何か別の話題を選ばねば。そもそも、シュヴェルテとまともに会話をしたのは、今回が初めてではないか。

「にしても、上手く行くもんだねぇ。MAIDを一人、死んだ事にするのはこんなに簡単だったのかい」

「私も一度経験した事だから、仕組みさえ解れば簡単だよ」

「アンタ、死んだ事にされてたのかい」

「二年前、ね。その時は、私は勝手に殺されちゃったけど、似ているんだ。あの子は」

 驚いた。過去にもそういう事例が有ったとは。しかも、彼女の意志とは無関係に行なわれていたらしい。呆気に取られていると、シュヴェルテはそのまま続けた。何かを懐かしむ口調で。

「謂われの無い罪も着せられたし、ジークフリートの撃墜数が最多でなきゃいけないからって撃墜数を少なく報告させられたりもした。そして、仲間のMAID達に次々と(てのひら)を返されたりも。冷たい眼差しだけじゃない。当時の教育担当官にも相談出来なかった、陰湿な仕打ちも。死んだ事にされた後、見知らぬ誰かに売られたりもね……」

 只でさえジークフリートなどという単語が出て来て気分が悪くなるというのに、シュヴェルテの口から語られる言葉はどれも吐き気を催す内容ばかりだ。撃墜数? やはりあの守護女神殿にも、そんなイカサマが罷り通っていたのか。しかも、どうせあの国の事だから国家ぐるみだろう。全く以て、えげつない。にも拘わらず何故、この女は笑っていられるのか。

「どれもこれも似ている。似ているからこそ、私が見送っちゃいけないんだ。私は、売った側に居るもの」

「でも、でも何から何まで同じって訳でもないだろうよ」

「そりゃあそうだ。だとしたら彼女はアルトメリアには行かずに黒旗に付いていただろうから」

 シュヴェルテは先刻から表情一つ変えずに――つまりずっと口元を吊り上げたまま話している。

「どういう、事だい……?」

「さっきの昔話には続きが在るのでした! ――聞きたい?」

 奥歯が軋む。今まで出会ってきたワケありMAID共のリストを隅々まで漁っても、これ程に面倒で鼻持ちならない奴と云えば、こいつかフィルトルくらいだろう。気乗りはしないが、返答せねば話は進まない。

「……ああ」

「売られた後、私は淫売宿で好きでもない男を抱かされた。だからってお金が沢山貰えた訳でもなかった。それから暫く経って、国から買い戻しに来た人が居たけど、私は裏切った。当時のお客さんから噂を聞いてた、黒旗へと付いたの」

「理由は?」

「私より幸せにしている奴が許せなかった」

 子供じみた理由だと思ったが、その言葉は飲み込んだ。シュヴェルテは表情こそ笑みを形作っていたものの、双眸に宿った暗い影が、今しがた彼女の口より放たれた言葉通りの意味では断じてない事を何よりも物語っていたからだ。

「好きだった教官が何かに堪えかねて、精神病院送りになっちゃったんだよね! でさ、私の事も気付いて貰えなくて。私はこんなに苦しんでいるのに何でみんな、私を売った癖にって。八つ当たりがしたかったってワケ! 馬鹿馬鹿しい話だよね」

 シュヴェルテはけらけらと笑う。どうして、こうも彼女はあたかも他愛も無い世間話であるかの様に話すのか。マーヴには皆目見当が付かなかった。思い出と云うには些か陰惨すぎる。自分がもしこんな性格ではなくて、もっと純真無垢であって、同じ立場だったなら、きっとその愛しい教官さんと共に仲良く病院送りになっているか、廃棄処分されていたかもしれない。

「……ある程度は解ってきたかな。だから彼女は、経験則から鑑みるに、何らかの破壊活動をして頭をスッキリさせる必要があるんじゃないかって考えた。私も親衛隊の迷信が気に入らないから、じゃあ本格的にブッ壊しちゃおうって。それで粗方遣り尽くしたら、後はさっさとこんな国からおさらばすると。私と違って、恋した相手を傷付けられた訳じゃないからね。遣り直そうとして更なる深みに嵌まるくらいなら、いっそ“死んでしまった”方が幸せになれる」

「なるほどね……今のでよく解ったよ」

 この強烈な違和感の正体を、マーヴは此処に来て漸く知った。シュヴェルテが自力で動かず、常に誰かを後ろからけしかけ、そして何を語るにも微笑を浮かべたままで、何処か他人事の様な調子なのは……

「そう、よく解ったさ。アンタがもう、自分の魂とか信念とか、後はその居場所とかを、蚤の市かどっかで二束三文に売っちまったって事がね」

「あはは。面白い事云うねぇ……それってつまり、私がまるでゲームでも楽しんでるみたいだって事?」

「正しくその通りさね。自分が自分で在る事を、アンタは諦めちまってるんだ。それで、何者でも無い、何処かの誰かで在ろうとしている。この世の何もかもが、それこそ自分の身体に降り掛かった不幸な出来事すらも他人事にしちまえる様に」

「愛しちゃっても、いいかな?」

「――えっと、何だって?」

「そうだね。ご名答だよ、マーヴ。私は私で在り続ける事を断念して、遠巻きに眺めて、時折ちょっかいを出しては掻き回す遊びに興じる様になった。毎日、自分という輪郭を削って、削ぎ落として、切っては棄てて……それと引き替えに痛みを忘れたかった。自分が死人であろうとすれば、痛みは感じられないだろうから」

「ここ最近の話じゃなさそうだね。黒旗に入ってから、かい」

「正確には黒旗に入って、本当に死にかけてから、かな……でも、プロミナと出会ってしまった。昔の私を見ているみたいで、どうしても放っておけなかった。苦しむあの子を見て、復讐させてやりたかった。なのに途中で、胸の痛みが囁くんだ。“もう終わってしまった自分の幻影を追い掛けるつもりか、あの子に押し付けるつもりか”って……」

 シュヴェルテは手頃な屑篭を椅子代わりに座り、両足をぶらぶらと動かす。それから、此方を覗き込む様に、軽く首を傾げた。

「それからね。痛くて、痛くて、耐えきれなくなった。あの子を見る度に、痛みが増していって……最後に見送るのを君に任せたのも、本当は、私自身がそれを見てしまったら、あの子に未来を、私が棄てた未来を肩代わりさせてたのを認めてるみたいで嫌だったから」

「だから尤もらしい御高説を垂れて、アタシに全部押し付けたってか……」

「……」

 俯いた顔は、いつまで経っても前を向かなかった。つまり肯定していると見て良いらしい。マーヴはシュヴェルテの胸倉を再度掴み上げ、それから彼女の右の頬に平手を打った。

「甘ったれてんじゃないよ! 何が“君自身の問題”だよ! そっくりそのまま返してやる! アンタ、何やってんだよ……馬鹿のフリをしたピエロを気取ろうとして、本当の馬鹿になっちまってどうすんだよ……結局、アンタはプロミナを使って、自分の云おうとした事を帝国に伝えようとしたんじゃないか! 丁度さっき、あの子の見送りにアタシを使ったみたいに!」

「……ごめんね、ありがとう。こんな私を、そこまで心配してくれるんだね」

「そういう意味で云った訳じゃ――」

 シュヴェルテの接吻に遮られた。舌が絡み付く感触のせいで、何度も吐き気に襲われた。

「ん……む、ぐ……」

 やっと解放される頃には全身が凍り付き、酸味が喉まで昇ってきていた。対するシュヴェルテは、菓子を食べた子供の様な舌なめずりをした。その表情は何処か恍惚としており、一目で彼女が異常な状態にある事を示していた。やはり狂っているのだ、この修道女の皮を被った怪物は。

「……今まで会ってきた中で、君が一番、私を解ってくれてる……愛してるよ、マーヴ」

「やめておくれよ。気持ち悪い」

「“そういう意味”で受け取っちゃった? ごめんね。只の、挨拶代わりだから」

 挨拶代わりのキスにしてはあまりにも深くて長い。確かに自分はあらゆる男に対して売女まがいの行為を繰り返してきたが、それは誰彼構わず貪り食うのとは違う。いつだって、自分を本当に愛してくれそうな、自分の孤独な感情を受け入れてくれそうな相手だけに声を掛けていた。同じ売女、それも自分と同じく底知れぬ孤独を埋めたがる、病的な寂しがり屋の考える事がよく解ってしまう為に、本当に反吐が出てしまいそうだった。

「君の云いたい事は解ってる。いきなり意味の解らない事を押し付けられて、本当の理由が下らない臆病風のせいだって、そりゃあ誰だって怒る」

「……」

「気持ち悪くてもいいよ……愛されたいとは思ってないなんて嘘になるけど、私はその努力はしたくない。もう、空回りするのは嫌なんだ……」

 しかも境遇が境遇だけに、会話が通じぬ程に発狂している手合いよりも更に質が悪い。心を閉ざしながら、歌う様に緩慢な狂気を垂れ流す奴だ。下手をすれば自分まで少しずつ、気付かぬ内に狂わされているかもしれない。

「最後に一つ、訊かせて? これはみんなに訊いて回ってるんだけど」

「……難しい謎掛けなら断るよ」

「大丈夫。灰色の反対は何色だと思う?」

 ほら来た。誰かにそういう類いの質問をするのはマーヴの得意分野だが、いざ自分が答える側になると、これ程までに鬱陶しいものは無かろう。短く舌打ちをした後、マーヴは当てずっぽうに答える事にした。

「星の色さね。それは月でもいいし、太陽でもいい。灰色っていうのは、今みたいな空の色を云っているんだろ?」

「うん、正解!」

 ――糞が。正解なんてどうせ決めてなかったんだろ。
 満面の笑みを浮かべるシュヴェルテを見て、マーヴは再び舌打ちした。

「今度こそ、ずらかるからね」

「じゃあね。ありがとう。もう君に会う事も、何かを頼む事も無い。本当にありがとう。ごめんね……」

「いずれにせよ、アタシも一週間後には海の向こうさね」

 シュヴェルテは返答せず、先程までの調子でまた何処かに腰掛けながら鼻歌を歌うだけだった。マーヴは足早に立ち去る。振り返ればシュヴェルテの姿は消えていた。得も云われぬ寂寥感ばかりが、マーヴの胸を埋め尽くした。それでいて、溜め息を少しでも我慢すると、シュヴェルテが放った言葉が記憶の中で反響してしまう。

『誰かに優しくする事に、君はもっと慣れといた方がいいと思わない?』

『掛け値無しで君が本心から云った言葉だ』

 気が触れた修道女の云う事など、心に留め置く必要は無い筈だというのに、何故か鼓膜の裏側に貼り付いて離れない。本質を見抜いた上であんな啖呵を切ってきたのだろうか。そうであれば、これ程に恐ろしい事は無かろう。
 実際、彼女が云った通りだ。指示を受けたのは幾つかの台詞についてだけで、後は自分がして欲しかった事をプロミナにしてやった。マーヴにとって更に面白くないのは、シュヴェルテがプロミナを助ける過程に於ける行為の数々が、その理由が先程のマーヴの行動と概ね一致してしまっている事だ。あんな血迷った奴と思考が似通ってしまうのは嫌だった。

「同族嫌悪、か……頭が痛くなりそうだよ」

 こういう時は、さっさとずらかって、酒に溺れるのが一番だ。地下鉄道跡の分岐点を逸れれば、誰も居ない通路に出る。そこから地上へと出れば、スラム街だ。廃墟と見紛うビル群の合間を縫って、隠れながら本部に戻れば誰にも怪しまれずに済む。
 この時はまだ、帰ってきて早々にエーアリヒから鉄拳を頂戴し、挙げ句に彼女の上司であるガレッサにまで付き合わされるとは、つゆにも思っていなかった。



 1945年、10月1日。蝋燭に照らされた、地下室にて。
 シュヴェルテはそれまでの事を書いてあった日記を閉じる。
 教会から離れに位置するこの部屋は、シュヴェルテが牧師にせがんで、特別に譲り受けたものだ。元来、この地下室は地下墓地として使われる予定だったらしい。近くに大きな共同墓地が作られた為に、その計画は立ち消えとなり、シュヴェルテが来る前は倉庫として使われていた。元よりMAIDは軍の備品だ。倉庫で眠るなら、おあつらえ向きじゃないか。灯の灯った蝋燭が立てる微弱な音、何処かから流れてくる風で揺れる灯り……太陽どころか月の光すら眩しすぎると感じる様になった自分にとって、こんなに優しい光は他に無い。基地の蛍光灯とも、娼館の豆電球とも違う、生命の宿った火は、傷だらけの悲劇を人知れず嘯くシュヴェルテ自身を優しく暖めてくれる。いつでも。

「そう。これで充分でしょ、私は……」

 愛情を突き放し、(コア)には銃弾が突き刺さり、魂を捨て去り、既に抜け殻同然となった自分など、死んでいる事と何が違うのだろう。そういった意味でも、死者の魂が寄り添うカタコンベにもなれないままだったこの部屋は、肌に馴染むのだ。それでいて、牧師も気を遣ってこの部屋には絶対に立ち寄らないで居てくれる。常日頃から修道女としていい子ぶっているのが功を為したのか、或いはとっくのとうに、それこそ傷だらけで此処へ連れられた時から本性に気付いた上でそっとしておいて貰えるのか。結論を急ぐ必要は無さそうなので、頭の片隅に追い遣った。

「――さて、と」

 感傷に浸るのはこの辺りで終わりにしよう。ここ最近で目的の為に遣ってきた事を洗い出し、列挙し、今後遣るべき事を数えねばならない。脳裏にて我が身を撫でる自慰行為は、その後からでも遅くは無かろう。
 ……昨年11月、シュヴェルテはこの教会へと辿り着いた。アシュレイ・ゼクスフォルトに別れを告げた精神病院からそう遠くない場所に在る為、満身創痍の身体――今にして思えばコア出力も低下していた為、立って歩ける事自体が不思議だった――を引き摺って行くのは然程苦にはならなかった。自分はまだ生きる必要があると、内なる声が囁いたのかもしれない。殆ど無意識に、此処へ来ていた。
 名を訊かれた時、咄嗟に“エミア”と名乗った。シュヴェルテは死んだ事になっていなければ、きっと助からないからだ。保身の為とはいえ、もっとマシな偽名も在った筈であろうに。エミアというのは、かつての教官アシュレイが、過去に愛していた女の名前だ。彼はもうシュヴェルテをエミアの代わりにしたりして、幻影を追い掛けないと、強い決意で語ったにも拘わらず。それは死せる恋人への同一化を望んだ、冒涜的で破滅的な願望ゆえのものかもしれない。決して辿り着けない目的地を敢えて掲げる、自虐的な遊びかもしれない。でなければ、あの時そう名乗ってしまった理由に説明が付くまい。
 それから牧師の教えの下、人々の悩みを聞き、そして慰めるという仕事を始めた。いわゆる懺悔の聞き役だ。手伝いもままならない程の重傷ならば、せめてそれくらいはして、教会で飯を喰う許しを得たいからだ。傷は暫くする内に癒えて行き、日常生活を送るに当たって支障が無い程度には回復してきた。

「……」

 2月。黒旗がアルトメリア支部を立ち上げ、世界規模で活動を始めた月だ。相変わらずシュヴェルテは周囲から、胸に銃弾を受けて鉄橋から落下したので生きてはいないだろう、という認識を受けていた。そうでなければ水面下の工作に差し障るので、寧ろ好都合だ。この頃から、ジャン・E・リーベルトと名乗る男が懺悔に訪れる様になった。実際には懺悔と称した、商売事に関する相談だが。彼はいつもへらへらした調子で、悪く云えば人を小馬鹿にした口調だった。が、よくよく聞いてみれば内容そのものは至極真っ当で、奥底には真摯な姿勢が見て取れた。いつからか共感する事も増え、休みの日などには一緒に食事をしたり、何度か会っていく内に、寝る前の情事を共に嗜む事もあった。彼は顔を見られるのが嫌なのか、サングラスを外す時は部屋の灯りを必ず消して欲しいとせがんできた。理由についてはこの頃は知らなかったが、後になって彼が両目を失って義眼を填め込んでいたのを見られたくないからと知った。

 3月。疲労困憊となったジャンが懺悔の間へと駆け込んできた。誰にも云わない約束で、彼は耳打ちをしてきた。その時だ。義眼や、それを付ける理由を知ったのは。流石に、彼がプロトファスマだったと解った時には肝が冷えたが、どうやら彼はシュヴェルテの事を気に入ってくれたらしく、何かが起きても殺さないで居てくれるそうだ。これからも情報を提供する代わりに自分の事は黙っていて欲しいと、たまには一緒に寝て欲しいと、そう云っていた。

 4月。ジークフリートの生誕祭に、V2ロケットが放り込まれた。犯人の目星はとうに付いている。ジャンこと、カ・ガノ・ヴィヂだ。新しく品種改良したG達を引き連れ、実戦で性能を試したいらしかった。お陰様でジークは濃密な瘴気に肺を冒され、暫く病床に伏すはめになったが。
 月末には、ジークの眠る部屋へと忍び込み、わざわざ起動剤(ブースタ)を投与した。そこらの軍で使われているものとは違う、効き目の強いものだ。あくまで、コアが何らかの原因で損傷していたり、機能が弱っているMAIDに向けた作りとなっている。濃度が高すぎて、平常通りの出力を保っているMAIDに使うと酔っ払ってしまうのだ。
 とはいえ、シュヴェルテ自身もそれを使う事による急激な高揚感から、今でも病み付きだが。仕入れはマーシャという山吹色の外套を羽織ったMAIDがしてくれており、G-GHQから内密で横流しをして貰っている。彼女はシュヴェルテが黒旗に在籍していた頃からの付き合いだ。と、云っても、自分はそこまで色々と物を買ってはいないから、上客とは程遠いだろう。

 5月から7月は、ジークが腑抜けになっている間に、ライサやヴォルケンに匿名で情報提供を行なった。それから、元親衛隊出身のスパイを伝に知り合った、バルドルというMALEとも情報交換を。そこから得られた結論として、相変わらず皇帝派の連中は愚かしい迷信めいた真似をしていたし、ライサやヴォルケンはそれを一つ一つ潰して回る事に奔走させられて、肝心の親玉――ハーネルシュタイン名誉上級大将の尻尾が掴めずに居た。彼らからすれば、さぞや歯痒かったろう。黒幕として憎むにはこの上ない人物なのに、その証拠が手元に無いのは。

 8月。黒旗の協力者から近頃の親衛隊の動向を調べて貰ったところ、稼働後一年以内であるMAID――プロミナが特定MAIDに指定されていると聞いた。更に詳細な情報を得る為に、情報屋を雇ったり、時にはカ・ガノに調べて貰ったりもした。彼女について知れば知るほど、憐憫などという傲慢な感情を超えて、まるで失った半身を求めるかの様にして、プロミナを救いたくなった。ニトラスブルク区に迷い込んだ彼女を敢えて敵対組織である親衛隊に保護させたのも、黒旗側は既に彼女を削除する方向で決断を下していた為だ。少しでも生き延びる可能性があるならばと考え、シュヴェルテは自分の身元がばれない範囲のあらゆる手段で親衛隊に情報を与え、動かした。時には誰かに成り済まして。
 結果としてプロミナの、命だけは助かった。その心までは手を差し伸べられずに居た。時間稼ぎをする必要があったのだ。最後にプロミナが気分良く、この国から居なくなるには、まずは下準備をせねばならなかった。バルドルにはテオドリクスをけしかける動機作りをして貰うとして、此方は此方で、プロミナの亡命を行なう為に様々な手続きを行なった。

 9月。警備をかいくぐって親衛隊本部営舎へと潜入し、プロミナとテオドリクスの収監された地下牢へと向かう。見取り図は既に、親衛隊内部の協力者が提供してくれた。罠を警戒したが、存外すんなりと目的地へと向かう事が出来た。辿り着いた後は看守を殴り倒し、プロミナとテオドリクスから事情を聞く。そして両者には、起動剤を多めに投与。二人は過剰摂取の影響で極度の興奮状態となり、後はシュヴェルテが提案した通り、破壊衝動に任せて大図書館を焼き払う。
 後の仔細は、もはや語るべくもあるまい。プロミナをアルトメリアで別のMAIDとして遣り直させ、テオドリクスの黒旗入りはさせるが儘にした。その月の17日にシーアが教会へ遣ってきて、自分は教えられる範囲で彼女に真実を語ったのだ。“ジークに芝居を打たせた”という、ただ一つの嘘を交えた上で。

「ざっと思い返してみるだけでも、結構ひどい事してたね、私……あはは」

『結局、アンタはプロミナを使って、自分の云おうとした事を帝国に伝えようとしたんじゃないか! 丁度さっき、あの子の見送りにアタシを使ったみたいに!』

「それでもやっぱり、非道にはなれないもんだね。思い出しちゃうって事は」

 心は痛まない。幸いにして、今のところ自分は戦略的に勝利している。数多の同志達が――否、心中にて取り繕う事の虚しさよ。正しくは、数多の善良なる心を持つが故にいとも容易く猿芝居を信じ込んでくれた彼らが、着々と皇帝派の首筋に刃を近付けつつある。大袈裟な復讐劇は、間もなく最高潮を迎える。

「諦めないよ、ジーク。絶対に諦めないから! あぁ、待ち遠しいなぁ……そう思わない? エミア・クラネルト」

 上唇を舐める。目前に馳走が在ると知れば、涎が零れそうになるのを誰が禁じ得ようか。下腹部から迫り上がってくる鈍色の熱が、理性を少しずつ溶かす。


最終更新:2013年06月12日 02:50
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