彼女は来た

(投稿者:神父)


1945年3月。
グロースヴァントの山腹を下る雪解け水は土壌を泥濘と化し、毎年の事ながら陸軍の移動を困難にしていた。
この戦線を押さえている中央軍集団の輸送中隊に所属するクルト・アッシュ上等運転兵は、
少しでも気を抜けばその瞬間にスタックしようとするシュタイアー1500兵員輸送車を苦労して操っていた。
85馬力の大出力と四輪駆動をもってしても、沼地と言っても過言ではない段階の路面を突破する事は難しかった。
泥濘期にまともに山麓を走る事ができるのは半装軌(ハルプケッテン)車以上の車両に限られる。
このように苛立った精神状態では、彼女を初めて見た時の感想が「変な奴がいるなあ」であったとしても仕方のない事だろう。

実際、彼女は奇怪な格好をしていた。
黒いSSの制服の上からフライトジャケットを着込み、眼帯をつけているところまではまだいい。傷痍軍人はそれほど珍しいわけでもない。
しかし黒髪の半分が脱色され、背中から奇妙な片翼を生やし、さらに身の丈の倍に達さんとする高射砲を担いでいるとなれば話は別だ。
どう考えても100kg、いや200kgを下る事はない機関砲を一人で担いで歩くなど、真っ当な人間の業ではない。
クルトは比較的地盤のまともな場所に車を止め、その人影に向かって身を乗り出して手を振った。

「あのう、すみません! MAIDの方ですか?」

彼女はくるぶしまで泥に埋まりながら歩を進めていたが、彼の声に顔を上げた。
泥の中を長時間歩いてきた人間特有の、疲れきったやるせない表情だ。

「そうだが、何の用だ?」

眼帯に覆われた右目の下にはざっくりと何かに切られたような傷跡があり、彼女が口を開くとその傷跡が引きつれた。
クルトは輸送中隊の隊長からの命令を思い出し、尋ねた。

イェリコ……という空戦MAIDを探しているのですが、ご存知ありませんか?」

彼女はその言葉を聞いて残された片目をしばたき、ややあってから「私の事だが」と言った。
クルトは面食らった―――無理もない事だ。空戦MAIDと言えば華麗に空を舞う天使であって、泥にまみれて歩いてくるものではない。
彼は慌てて腕を斜めに掲げて敬礼し、命令内容を伝えた。

「し……失礼しました、自分はアッシュ上等運転兵であります。イェリコ、あなたを野戦司令部までお連れするように命じられております」
「そうか、迎えを出してくれたのか。では、ありがたく乗せてもらうとしよう。砲を後部座席に置いても構わないか?」
「手伝います」

クルトは運転席から飛び降りてイェリコに手を貸し、オープントップの後部座席に高射砲を押し込んだ。
近付いてよく観察すると、イェリコは右足を引きずっていた……膝から下が義足なのだ。
肩にかけていた弾薬箱まで載せ終えると、彼女は足を引きずりながら助手席へ乗り込み、義翼が当たらないように背もたれに寄りかかった。
小気味よく関節を鳴らし、盛大に伸びをする。
遠慮会釈のない彼女の態度を横目で見つつ、彼はシュタイアーをUターンさせた。

「ううむ……アッシュ、私のためにわざわざ輸送車を出したのか?」
「ええ、そういう事になります。……空戦MAIDだと聞いておりますが、何故空を飛んで移動しないのです?」
「うん? ああ、最近疲れがちでな……飛んだ後は特にだ。前線に到着したはいいが戦えない、という状態では困るだろう」
「なるほど……」
「……ああ、済まないが、少し眠らせてくれるか? 司令部についたら起こしてくれ」
「わかりました」

イェリコは腕組みをして目を閉じたかと思うと、瞬く間に寝息を立て始めた。クルトの返事が聞こえたかどうかすら怪しい。
彼は驚嘆しながら、かつて訓練キャンプで聞いた「眠れる時に眠り、食べられる時に食べよ」という言葉を思い出していた。
食べる方も同じくらい貪欲なのだろうか? ……そうに違いないと、彼は半ば確信していた。



シュタイアーに備えられた通信機がノイズ交じりに何事かをがなり立てる耳障りな音でイェリコは目を覚ました。
左を見ると、クルトが通信機のダイアルに手を伸ばして調整しようとしている。
彼女は「運転に集中しろ」と言うと手早くダイアルを回し、数度の試行でチャンネルを合わせる事に成功した。

「……ッ……ル4より司令部! タンカーを含む敵主力が警戒線を突破、現在遅滞戦闘中! 救援乞う!」

クルトは「もう始まったのか」と呟き、イェリコの方を振り向いてぎょっとした。
彼女は後部座席との間の仕切りを土足で乗り越え、高射砲を検分していた。

「……イェリコ?」
「司令部まであとどのくらいだ」
「さ……30分ほどですが」
「出るぞ」

思わず聞き返そうとしたクルトの耳に、通信機から一際大きな叫びが飛び込んできた。

「ヨハン! ヨハン、弾だ、弾をくれ! 奴ら……」

不気味な、Gの擦過音とも雄叫びともつかない音がその声を塗り潰し、さらにノイズがすべてを覆った。
クルトの背筋に寒気が走った。

「まるで、奴らの勝ち鬨のようだ……」
「ふん、もう勝った気でいるのか。では、教育してやるとしよう」

弾薬箱を担ぎ上げ、高射砲につけたスリングベルトを肩にかける。
イェリコは後部座席の上に立ち上がり、義翼を開いた。

「アッシュ、私は先に上がったと司令部に伝えてくれ。……なかなか悪くない運転だったぞ、兄弟」
「え? あ……はい、諒解しました」

クルトが返事をしたかしないかのうちに、彼女の背中から飛翔翼が出現した―――まずは黒い左翼が、そして咳き込むような音とともに白い右翼が。
獰猛な笑みを浮かべて「離陸が不安定でな、少し頭を引っ込めた方がいい」と言うと、彼女はシュタイアーを蹴りつけて飛び上がった。
板バネが悲鳴を上げ、クルトは軋るステアリングと格闘し―――気がついた時にはイェリコは見えなくなっていた。
結局シュタイアーはスタックしてしまい、彼はこの奇妙な出会いをいささか不愉快な思いで締めくくる事になった。
彼は嘆息し、野戦司令部へ連絡を取るべく通信機に取り組み始めた。

「……本当に変な人―――人じゃないな、MAIDか―――だなあ」

彼は知らなかった。

『ジレーネ』と呼ばれた急降下爆撃の怪物の事を。
被撃墜と戦線復帰を繰り返しながら恐るべき量のスコアを積み上げた近接航空支援の魔王の事を。
やがてGの頭上には妖魔の叫び(ジレーネンゲホイル)が響き渡り、そしてあらゆる意味で彼らを終わらせる事を。

そう、彼女は来たのだ。










最終更新:2009年01月06日 22:36
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