Prologue 4 : Eddie

(投稿者:怨是)



 1944年3月。
 訪れた春は随分と灰色がかっているが、それでもハンチング帽とくすんだ臙脂色のコートに身を包むこの男にとっては、至極どうでも良い事だった。
 まだ冬の冷たさの残る雨がベーエルデー連邦首都、ベオングラドのメインストリートの石畳を叩く。

 ここは、ベーエルデー連邦。クロッセル連合王国の属国のひとつだ。
 ベーエルデー連邦は隣国のエントリヒ帝国と民族も殆ど近いが、立憲君主制の議会政治である。
 そのためエントリヒよりも幾らか開けた印象があった。


「雨、まだ止まないのか」

 ――道に迷っちまった。
 未だ訪れた事のないこの国は、あまりに広大だ。
 焼き菓子の甘い臭いに釣られながら屋台を追いかけたものの見失ってしまったし、傘も持たずにホテルを出てしまったものだから濡れた上着が重たい。
 ついこの間から吸い始めたばかりの煙草を取り出し、火をつける。
 男は緩慢な足取りで周囲を見回しながら、煙をあちこちに振りまいていた。
 ふと、看板が視界に入る。

 目を凝らせば、“歩行喫煙を禁ず。喫煙は指定喫煙所で”とある。

「げぇ……」

 得てして、こういう決まりの定められているところは罰金もセットになっているものだ。
 辺りを見回せば警察官も居ない。よしよし。

 排水溝に吸いかけの煙草を放り込み、近くの街頭に寄りかかる。


「……」


 この脳ミソは、いつの間に明瞭な思考を放棄してしまったのだろう。
 今となっては何かを考える気力も無ければ、理由や目的を考えるような余裕も無い。

 ふらふらと足を進めて、ただ、ただ、靴の濡れる感覚と、靴下が水分を吸い上げて足の皮膚に冷たい感触を伝えるのみである。
 呆然と、シャワーを浴びたいが、ホテルに戻らねば浴びる事もできず、まぁいいやなどと放棄してしまう。
 道行く人に戻り方を訊ねるのも何だか億劫になってしまった。他人の為に開ける口など、当に失って久しい。


「雨ェはヒドいーな、冷たいなァーっと……」

 服はきちんと洗濯しているから別段、どうという事でもない。
 ただ、伸ばしたままの無精ひげや不健康な顔色はどう見ても浮浪者の様相だった。

 思考はまたもや脈絡の無い方向へと奇妙な三千世界回転自動式運動乙種をはじめ、雨に濡れたベンチに勢い良く突っ込んで昼寝でもしてしまいたい衝動に駆られる。


 横を見る。
 横を見れば、首輪の付いた犬がフェンスにくくりつけられていた。犬種はダックスフンド系か。毛色は茶色だ。
 パン屋の近くのフェンスだから、おそらくは飼い主はパン屋で買い物の最中か。曜日の感覚がない。今日は何曜日だ。

 そんな事もどうだっていい。近寄って撫でてみようとしたら吼えられたので、メインストリート沿いのカフェまで足を進める。



 犬は、可愛い。
 愛情さえ与えてやれば飼い主に懐き、尻尾をふりながら愛嬌を振りまく。
 蹴飛ばせばブルブルと震えて許しを請う。そのときに首根っこを引っつかんでやると、震えが両腕から伝わってくるのだ。あの特有のガクガクとした震えが。
 見開いた双眸が「許して、許して!」と叫びを発し、鼻を高く鳴らして涙の音を形作る。そういうものだ。
 男が15になる時には寿命を全うして死んでしまったが、今となっては良い思い出であったと同時に、もっと愛せなかったものかと罪悪感に駆られる。
 だが、愛情という存在は、対象と一緒に居る間は得てして麻痺を起こし、存在を隠す。
 特に彼のような怠惰な人間はそういう素晴らしい事態に陥りやすい。

「やっぱ、無理だよ。俺は生きるのに向いてないよ」


 手頃な雨宿りのできるアーケード商店街に辿り着くと、ポケットの中に地図があることを思い出し、それを取り出す。
 この町の親切な警官が無料で配布していたもので、このベオングラドの美しい町並みをゆっくり見て行って欲しいとの事だった。
 実に親切である。男の生まれ育った国ではそういうものは一切無縁だったし、あの国の地図は精密でこそあれど、どれも無駄に分厚くて持ち歩けたものではなかった。

 地図を眺めながら歩いていると、またしても雨音が帽子を叩く。
 インクの滲んでしまった地図ではどうにも役に立たない。どうしてしまおうか。口を開くのも億劫だ。
 そうこうしていれば、青なのか、紺色なのか、天気のせいで暗く見えるだけなのか。
 とにかくそういう色の給仕服に身を包んだ女性が、横合いから声をかけてきた。

「あ、あの」

「どうかしたのかい。道を訊かれても俺は答えられないぜ」

「いえ、道に迷っていらっしゃるのでしたら、お教えしようと思いまして……その、よろしければお手伝いしましょうか?」


 ……天使だ!
 レモンの香りの天使が訪れたぞ!

「そうだね」

 返答としては実に精彩を欠くどころか、それを通り越して人としての最低ラインをとうに下回っているであろう言葉が口の端から涎のように垂れ下がる。
 自分を好きになれないのなら、他人を好きになれるはずも無い。
 まして、この男にとって、その服装はあまり良い思い出が無かったのだ。たとえ相手が天使だとしてもそれは同じであった。

「でも残念だ。足が疲れちまった。俺は今、すごく、コーヒーが呑みたい」

「でしたら、喫茶店にでも案内しますね」

 はて。喫茶店など近くにあったか。
 浮浪者風の無精ひげにつつまれた顎に手を当てて思案し、顔を上げる。

「それってすごく遠かったりしない?」

「すぐ近くですよ」

 普通の人から見れば、一目惚れするであろうその笑顔はしかし、この男にとっては風景か何かと同じようなものであった。



 店内は閑散としているが、従業員の表情は大盛況のそれとほとんど変わらない。
 この勤勉性はエントリヒによく似ている。やはり両国は兄弟国家というものに近しいものではないだろうか。
 男の脳裏の、歴史学やら民俗学やらの知識が次々とアクセスを始める。その間に従業員と、その女性との会話が始まっていた。

トリアさん、そちらの殿方は? 恋人?」

「違いますよ! 道に迷ってしまったそうでして。道のりを教えたら私はパトロール任務に戻るところです」

「あァ、そうなんだ。お客様、雨の中大変だったでしょう。ゆっくりしていってね!」

 声のベクトルがこちらへ向いたか?
 窓の外を眺めているせいで、飲み込めない。耳に入った“音の羅列”は、反対側の耳へと零れ落ちていった。

「……ひょっとしてお客さんお疲れ気味かな、トリアさん」

「あはは。そう、みたい……ですね」

「ありゃりゃ。困っちゃったねェ。まぁ注文が決まったら呼んでちょうだい」

 苦笑する声が胸に突き刺さる。
 何だ。俺の事か?
 ゆっくりも何も、していくに決まっているだろう。でもどうせもう二度と会う事のない連中に、愛想など振りまいていられるか。
 そんな余裕は無いんだ。放っといてくれ。
 しかし、男のそうした欲求が叶えられるのも、一人で歩いている時だけだ。
 孤独ではない時間が、無慈悲に欲望をひねり潰す。目の前の天使の、鈴のような声によってひねり潰される。

「あの、そろそろ地図をお借りしてもいいですか?」

「あぁハイ」

 緩慢な動作でテーブルに地図を広げるのを見ると、トリアと呼ばれたその女性がエプロンの裏側からペンを取り出し、書き込んで行く。

「まず、現在地がここですね」

 メインストリートから数ブロックほど離れたところに位置する喫茶店が、この現在地。
 そしてすぐ近くには鉄道が走っており、ときおり響く轟音が全身の体液を小刻みに揺らした。

「それで、どこまで戻りたいですか?」

「ホテル」

「えと……この近くのホテルですと、二十件ほどあるんですけど……その中のどれになりますかね」

 ベーエルデーは他のクロッセル連合王国の属国にその存在感をアピールするといった、自己顕示欲旺盛な国家としても知られている。
 当然、空戦MAIDの存在を各国に身近に知らしめるために沢山のホテルを用意していた。
 ここは首都、ベオングラドなのだ。首都を名乗るからには相応の設備の充実もまた、当然ではないか。

「ド・アレーラって所だったかな」

「でしたら、ここの店を出たらすぐに右に曲がって、真っ直ぐ行けば交差点に当たるので……」

 地図の上を走るペンの動きを呆然と見つめる。
 このトリアとかいう女性も、MAIDなのだろうか。パトロールと云っていたな、雨の日は大変だ、など。
 無感動な思考をどうにかして脳の指先でくるくると廻しているうちに、どうやら説明が終わったらしい。

「この道順で行けば辿り着けます。良かったらこの地図を元にこのお店にも遊びに来てくださいね。私のお気に入りのお店なんです」

 はっはっは。商魂旺盛で何よりだ。
 見ず知らずの男にお気に入りのお店を教えるやつがあるか。

「……うん、明日にはチェックアウトしなきゃだけど、またそのうちね」

 二度と来るまい。

「では私はこれにて失礼しますね」

「ぁ、お嬢さん。ありがとうついでに、二、三ほど訊いておきたいんだけど、いいかな」

 立ち去ろうとするトリアに、後ろから声をかける。
 声音が鋭すぎたか。ビックリさせてしまった。

「! はい」

 鋭い声音に蹴飛ばされた女性が、こちらに振り向く。ああ、今この瞬間に彼女の首を引っつかめば、きっと震えが伝わってくるのだろう。
 昔飼っていた犬と、同じように。

「……あんた、MAIDか」

「ええ、そうですけども」

 それがどうかしたかといった風情だ。国民性の違いをよく思い知らされる。 
 なんだかな。こんな開けっ広げでいいのか。良くないのか。いや、いいか。いいのか。

「いいのか。俺なんかに付き合わされちまってて」

「困っている人を助けるのも、私達の役目ですから。全部はお助けできなかったみたいですけどね」

「充分、助かったよ」

 男は嘘をついた。助かったなどとは思っていなかったし、恩義も別段感じない。
 遠くから何かを見ていたというような気分になっただけである。何もかもが当事者意識からかけ離れていたし、もうどうでもよくなった。
 男にとってこの世界は既に“終わった”ものであり、どうなろうと知った事ではないのだ。
 プラスでもマイナスでもない、極めてフラットなラインを感情がなぞる。

「ありがとうございます」

 ……“ありがとう”はこっちのセリフだろうがよ。少し前のこの男なら、そう考える事もできた。
 が、今は“ありがとう”? 今起こった事がどんな事かよく判らないや。ありがたいならそれでいいんじゃないか。という具合である。

「あんた、さっき見た犬に似てる」

「はぁ。犬……ですか。犬っぽいとは、よく云われますけど。あっ、時間が無いのでそろそろ失礼しますね! では!」

 ははぁ。ビビりやがったな。俺がイカレてるのを最後の一言で見抜いたか。止まらないさ。正気が砂時計のようにサラサラと流れて行っちまうんだ。
 レモンの香りの天使に片手を振って見送り、すっかりぬるくなってしまったコーヒーを一気に飲み干す。
 殆ど身体が温まらなかったが、あのまま冷雨に身を晒すよりかは幾分ましに違いない。
 レジまで歩みを進め、財布を取り出す。クロッセル連合王国の通貨である、ユニロとユニセントに換金しておいたために、これといって問題は無かった。

「店員さん。あのトリアってMAIDは、よくここに来るのかい」

 会計ついでに質問を投げかける。

「ええ来ますよ。お客様もしかしてこのお店、気に入ってくれたんですか?」

「うん気に入った、気に入った。でも俺は明日からまた放浪しなきゃいけないんだ。だから伝言を頼みたい。いいかな」

「はいはい、伝言ですね。どうぞ」

 店員がメモ帳を取り出し、準備をはじめるが、そのメモ帳で大丈夫なのか。
 注文をとる為のメモ帳だろう。それは。
 喉の先まで出かかった突っ込みを喉仏の辺りにでも押し込み、男は代わりに伝言をその喉に通した。

「“働きすぎには気をつけろ。死神に狙われるぞ”――と伝えておいて」

「まァた意味深な伝言ですねェ。後半はどういう意味なんですか?」

「何、簡単だよ。働きっぷりを妬む馬鹿が殺しに来るぞって事さ」

 簡単な話だった。経験則である。

「あっはっは! 荒んでるねぇ。良かったらうちの店のアロマコーヒーでも買っていきませんか? 精神を安定させる効能がありますよ」

 どうせ当事者でもない限り、理解できるような言葉ではない。到底。
 それにここは隣国とはいえ異国である。関係のある話でもなかろう。ましてや一介の喫茶店の店員に理解しろと云うのも土台無理な話には相違なかった。
 男は諦めて、店員のおすすめ商品も断る。

「薬局で買い込んだ錠剤で間に合ってるよ。じゃあね」

「あ、はいはい、またお越しくださいね! 伝言はちゃんと伝えておきます。あ、よかったらこの傘。あとでホテルの人に返してもらうから」

 カランコロン。小洒落たベルが雨音を突き破り、浅瀬の様相を呈した石畳が巨大な水溜りを呑み込む事無く周囲に水分を垂れ流す。
 地獄だ。これが地獄の冷雨だ。
 狂人に傘を渡すほどの慈悲ならば、受け手によっては慈雨となる。が、そのような表面上の慈悲など、やはりこの男にとっては冷雨であった。


「ウソこけ。あんな馬鹿げた脅し文句みたいな伝言が通るわけあるかよ」

 ドアが閉まる音を確認すると、男は受け取った傘を壁に立てかけて返しながら、静かに毒づく。
 見抜いていた。確かに店員はペンを動かすそぶりを見せていたが、メモ帳に書き留める“あの独特の音”が無かったのだ。
 音のしないペンなど、彼の知る範囲ではこの世に存在しない。新技術などはきっとまだ先の事だ。

 嗚呼、あの店員の脳裏からも、トリアというMAIDの脳裏からも、いつしか“変な奴に会っちまった”という記憶としてこの出来事は処理されるのだろう。
 所詮はそういうものだ。一緒に居る期間など殆ど無い、人生という超巨編の中の名無しの登場人物のうちの一人として、片隅にも残らず忘却へと流れて消えて行くのだろう。
 それがこの男にとっては、唯一悔しい事だった。この男にとっても彼女らを同じ扱いにしてしまおうと、少しでもそう考えてしまった事が悔しかった。
 具体的に何が悔しかったのかを男は説明する術を持たないが、僅かながらにどこかに残っているであろうこの男の正気がそうさせるのかもしれない。

「みんな、死ね……そして最初に俺が死ね!」

 近くのフェンスを思い切り蹴飛ばすと、靴の跡が黒々と残った。
 にも関わらず、冷えきった足の骨は殆ど痛まない。それもまた、この世の中の無常を体現しているかのように見えて無性に悔しくなった。
 俯いて歩いても、足の骨に痛みはやってこなかった。せめて強い痛みが罰してくれればどんなに心が晴れたであろうか。
 心もまた、分厚い雲に隠れて晴れる事を許さない。
 冷雨はずっと降り続く。地獄だ。これが地獄の冷雨だった。

「……くそったれ」










 ホテルに辿り着くころには、辺りは薄っすらと夕暮れの青に染められていた。
 カウンターまで身体を引きずって、キーを受け取るべく、受付に番号札を提示する。

「……ナッシュです」

「エドワウ・ナッシュ様ですね。お帰りなさいませ」


 ……ただいま。俺に家なんて無いけどね。あと、エディでいいよ。
 小さくぽっかり開けられた口から、虚ろな風の音のようなものが漏れ出す。
 階段の窓に映った自分の顔は、相変わらず無精ひげと目の下のクマでお世辞にも健康な人間のそれとは思えなかった。
 夕闇に色を奪われて灰色のように見えたその顔に不快感を抱かずにいられようものか。
 いくら顔を洗えども決して消えないそのクマに、男――エディはいつしか対処を諦めた。

「この国の石畳は、どうして……」

 そして思い出してしまった。
 ニーベルンゲの石畳が、みな一様に灰色であった事を。
 そして、ベオングラドの石畳が、赤と黒と白と青の四色で構成されていた事を。

「どうして、あんなにも色鮮やかなんだ」



最終更新:2009年01月29日 18:17
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