司馬遼太郎の思い出

M.S(陸士56期)

(平成19年6月記)


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 前列中央が栃木県佐野時代の福田定一(司馬遼太郎)/『週刊朝日』増刊号(平成8年11月)

1.戦車第1聯隊と石頭会


 終戦時、栃木県佐野に駐屯した戦車第1聯隊(戦1)は懐かしい私の原隊であるが、私は旧満州国寧安県石頭市で戦一を離れた。昭和19年4月に陸軍少年戦車兵学校に赴任し、終戦当時の軍制では珍しい22歳の学校副官として昭和21年4月迄、武装解除に時間を要した。
 司馬遼太郎が所属した戦1第4中隊は、戦後直ぐ「石頭会」を創った。司馬さんが『梟の城』を書いたり「直木賞」を貰ったりする以前である。第4中隊長は故西野尭が同期生であったので、誘われて私も石頭会のメンバーになった。東京オリンピックの直前頃、司馬さんは既に大作家になり、私もAIUの日本人第一号役員に成った頃だった。
 最初から妙に息が合って年に一度の会合は何時も徹夜になった。

 我々の原隊「戦車第1聯隊」が久留米で生まれ、マレー、ビルマを経て旧満州国寧安県石頭市に駐屯していた頃の司馬さんは知らない。
 私が昭和19年4月に内地の陸軍少年戦車兵学校の教官に転出した後、同年12月に福田少尉が誕生し、昭和20年3月福田少尉を含む戦1は栃木県佐野に「本土防衛」と言うことで駐屯した。

司馬さんは戦1の第4中隊に属し、戦後直ぐ「石頭会」と言う親睦会が出来た。

 昭和38年頃、陸士同期生の西野中隊長に誘われて私も石頭会に参加した。参加後は司馬さんに会うのが楽しみで良く出席した。司馬さん夫妻は平成5年に西野会長が病気で斃れる迄皆勤であった。

2.司馬遼太郎と陸軍


 乃木神社の評議員をしていた陸士の先輩から、散々クレーム(下記)が私に有った。経験から要点の見当は付く。
クレームの要点は、

一つが、乃木大将の日露戦争の作戦の拙さの指摘

二つ目が、乃木さんは学習院の院長で終っておればよかった云々との記述

三つ目が、終戦の年、栃木県佐野市に駐屯していた時、敵の上陸作戦に対応し戦場に行くため、「大本営少佐参謀」が、「轢き殺してゆく」といったと書いたこと。


 私が司馬遼太郎と知り合ったのは戦後である。従って私は「福田少尉」は知らない。
 私は司馬さんに、陸軍に対して辛い点数をつけた大きな理由を直接聞いたが、
『坂の上の雲』を書くときに、陸軍のことはある程度見当がつくけども、
海軍が全然わかんないと、当時会った人に話を聞いたら、直ぐに仲間3人を集めてくれた。
 大本営参謀だ。陸軍でいえば、服部卓四郎、辻正信、瀬島龍三という作戦参謀だ。2、3人を集めてくれてね、これから司馬さんの『坂の上の雲』をつくる。「家庭教師をしましょう」と3人が言ってくれた訳。そこへきて、一生懸命手伝ってくれた。

服部卓四郎は当時GHQの最高顧問で、

GHQの立場から、日本陸軍の大東亜戦争の戦史をアメリカに都合良く書いていた。

 その専門家が服部卓四郎である。「あれは、旧軍人で就職第一号だから、GHQに高給で迎えられた・・・」。
 司馬さんは、その服部卓四郎の所へいった訳。「『坂の上の雲』を書きたいのだけど。私も陸軍にいたんだけど、幹部候補生の少尉で。よく分かんないから、よく分からないところを教えて欲しい」と言った。

服部卓四郎曰く、「幹候の少尉風情に、日露戦争が分かってたまるかい」と言われた。

それが陸軍の返事。

海軍は三人が揃って家庭教師をやりましょう、と言って、何でも聞く。全部教えてくれたから、『坂の上の雲』の海軍を書いた。

 司馬さんはこういうことを本の後書に書かない。彼は弁解はしない、小説家だから。
 そういう裏話は戦後、僕たちが戦車隊の中国寧安県の駐屯地の「石頭」にちなんで付けた「石頭会」の全国中隊会をやった後、司馬さんを入れた話のときに出る。この石頭会は場所によっては百人以上集まったもんだ。

 昼の中隊会が終った後、司馬さんと夜二次会をやる。3人とか5人とかでね。そこでいろんな話をして、話が合うもんで、司馬さんは私の所に手紙をくれたりした・・・。
 ところで、僕もアメリカに居て、ユダヤ人の金儲け主義に閉口して、会社を辞める決心をした(昭和49年頃)。このことを司馬さんに(手紙を)書いたら、彼がカリカリするなと、返事をくれたりしてね。
 それで、あのー『週間朝日』に私と司馬さんに関する記事が出た。この『週間朝日』1999(平成11)年の9・24号と10・1号です。2号続けて出ている。『週間朝日』は普通の週刊誌と違う。司馬さんが亡くなってから、司馬さんがどういうことを書いていたのかを、記事にした記者がいる訳。ここに載っている村井重俊氏、未だ45、6歳だと思うが。

僕は最初「『朝日新聞』が嫌いだから、朝日に会わない」と言った。

 司馬さんの奥さん、みどりさんが電話をかけてきたんだけど。
「村井さんは、朝日新聞の記者とは違うから、どうしても会いたいから、会ってくれ」
 それであのー、みどりさんが「村井さんと言うひとは悪い人ではない」というので。僕の家に記者が来たんだ。長いこと家で三時間くらい、色々と話をした。それをまとめたのが『週間朝日』に出た。
 『週間朝日』の愛読者に僕の後輩が二人いて、二人とも絵描き。後輩は直ぐに電話をよこしてくれ、「『週間朝日』は、よく面倒をみてくれた」と。また「私は『週間朝日』は創刊号からずっともっている。『週間朝日』は朝日新聞とは違って、「扇谷正造」というのがいた。「扇谷正造」の精神を継いでいるのは朝日の中では、『週間朝日』だけだと、『朝日新聞』と混同されては困る、といって・・・。
 それは、私の後輩もそう言ったから、間違ってなかったと思っている。そうこうするうちに、方々に『朝日新聞』の記事が宣伝されて、約1ヶ月間電話が入ったりした。

 先ほど話のでた服部卓四郎は、最後は「国を売った男」だから。アメリカに有利なように作戦計画を書いちゃった。命令で、高給をもらって。

だから、司馬遼太郎を国賊などという代わりに、あの“太平洋戦史”を書いた服部に言うべきでは・・・。

最終更新:2010年08月21日 01:11
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