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――届いて。



   ▼  ▼  ▼



「……すっかり遅くなっちゃった。この時間だとさすがにちょっと冷えるなぁ」

 首元に手をやって、パーカーの襟元を両手できゅっと絞る。
レッスン場からの帰り道、出る時にはまだ火照っていた体もすっかり夜風に熱を冷まされちゃった。
 こうして家路に就くと、一歩一歩進むごとにアイドルとしての自分が遠ざかっていくように感じるし、
 この元気印の本田未央も、その分センチメンタルになるのは仕方ないよね。

 いくら居残りレッスンに力が入ったとはいえ、まだまだ人通りが減るような時間じゃない。
 会社帰りのサラリーマン、夜遊びしてる学生、その他諸々が行き交って、この通りに人影が絶えることはない。
 だけど人波に紛れていると、最近どうしても心を離れない考えがむくむくとまた大きくなってくる。

 ……こうして行き交う人達のうちの、いったい何人がアイドル本田未央を知っているんだろう。

 その想像は、周りを歩く人達みんなを自分とは何の関わりもない存在に変えてしまうような怖さがあった。
 こんなにも近くに人がいるのに、まるで果てない砂漠でたった一人、当てもなく彷徨っているような心細さが。
 たまらずに視線を少し上に逸らすと、視界に入る人影がちょっとだけ少なくなって、ちょっとだけ安心した。
 だけど代わりに夜空にまばらに散らばった星と延々並ぶ街灯の光が、かえって物寂しさを感じさせて。
 ただでさえ最近ブルーな未央ちゃんは、おかげで心まで凍えちゃうのでした……なんてね。


『本田未央15歳。高校一年生ですっ! 元気に明るく、トップアイドル目指して頑張りまーっす!』


 そう言って事務所の面接室に乗り込んだのが、もう随分昔のような気がするなぁ。
 手違いで採用取り消しになりそうだったこととか、訓練生の頃の苦労とか、ようやくデビューしてからの思い出とか。
 何もかもあっという間に過ぎていっちゃったようで、それでもその一瞬一瞬が大事な時間だった。

 ……そうだよね。無駄な時間なんて、何一つ無かったよね。

 今の私は、本当に夢に近付くために進んでいるんだから。ちょっと準備期間が、人より長いだけなんだから。
 だけどちゃんと前には進んでいるはずだから。……そうだよね?


「あっ……」


 煌々と光る照明に目を引かれて、ふと私は足を止めた。
 そこはこの通りでは特に人気のCDショップで、こんな時間でも出入りする人が絶えないみたいだった。
 店内が外からでもよく見えるくらい大きい窓には、外側の表通りに向けて宣伝のポスターが張ってあって。


「しぶりん……しまむー……」

 そこには私が誰よりもよく知っている、大好きな親友の笑顔があった。


 綺麗な髪をなびかせて、青空みたいに透き通った微笑みを浮かべる渋谷凛


 女の子の夢みたいなピンクの衣装に身を包んで、にっこり笑う島村卯月


 だけどその隣に、本田未央は――私は、いない。


 いない。私だけがそこにいない。並んで立つことを、許されてない。
 たったそれだけで、とたんに胸の真ん中にぽっかりと風穴が開くような気持ちになってしまう。

 『ニュージェネレーション』で一人だけソロCDを出してないんだから、それは当然。
 それは分かってる。私だけが、三人のうちで私だけが、未だに輝き切れないまま燻ってるんだから。

 私、なにしてるんだろう。考えないようにしていた暗い疑問が、心の隙間に這い寄ってくる。
 三人一緒に頑張ろうってみんなで決めたはずなのに。そのはず、なのに。

 後光みたいに店内からのバックライトを浴びて、二人だけがきらきら輝いている。
 それを見る私は、その光の反対側で、その眩しさに眼を細めることしか出来なくて。
 私だけが観客席からステージを見上げているような、だけど壇上には手が届かないような、そんな感覚。


「……………………」


 どれくらい立ち尽くしていたのかな。自分じゃ分かんないや。
 だけど夜風に当たりすぎた体が無意識にぶるっと震えて、そこでようやく我に返った。
 体の真ん中に空洞が出来て、その中を冷えた空気が通り抜けるみたいに感じて、俯いてまた震える。


「……帰ろ。帰ってご飯食べてお風呂入って、それからデレラジ聴かなきゃね」


 自分に言い聞かせるようにそう言って、二人のポスターに背を向けて歩き出す。
 あのショップの明るさも、この夜空の暗さも、どっちも今の私の心には重くのしかかってくるみたいで。
 私はやけに長く感じる家路を、ただ足早に急ぐことしか出来なかったのでした。



   ▽  ▽  ▽



『でれっす! パーソナリティの、島村卯月です!』

 ベッドの上でお風呂上がりの髪を改めて梳かしながら、私はラジオから聞こえる声に耳を傾けた。
 しまむーはいつも通り。聞いてるこっちまでほにゃっとしそうな、そんな声。

『でれっす。同じく、渋谷凛だよ』

 そしてこっちもいつも通り。しぶりんはどうも未だに導入固いんだよねぇ。
 番組が進めばたまに砕けたところも見せてくれるから、そのギャップがいいんだけど。

『でれっす☆ 城ヶ崎美嘉だよー! 今夜も上げてこー!』

 そして三人目。美嘉ねぇの元気な声もまたいつもと同じで。

 だけど私の方はふと浮かない気持ちになっちゃって、そんな私にまた自己嫌悪。

 美嘉ねぇのこと羨んでるとか、妬んでるとか、そんなんじゃないんだ。
 だって美嘉ねぇはかっこいいし面倒見いいし、ラジオ越しでも伝わるパワーがあるし。
 そんな素敵なアイドルの美嘉ねぇが二人と一緒にラジオやってることが、不満なわけないんだけど。
 美嘉ねぇがどうこうじゃなくても、あの二人の隣にいるのが私だったらな、って思っちゃうのは止められないよ。

「でれっす、みんなのアイドル、未央ちゃんだよー……なんちゃって、ね」

 むなしい。冗談でも、やってみるんじゃなかったな。

 分かってる。この番組は元々CDの宣伝から始まった企画で、私にはそもそも選ばれる理由が無かったってこと。
 ほんとなら三人揃って出たほうがいいところなのに、私がこんなだから、美嘉ねぇにお鉢が回ったってこと。
 総選挙も圏外で、ソロCDも未だに目処無しで。そんな本田未央には荷の重い大役です。分かってる、けど。


(スタートラインは……みんな同じだったはずなのにな……)


 また、始まりのあの日を思い出す。
 あの時はみんなアイドルの卵で、道端で歌っても足を止めてくれる人は少なくて。
 だからこそ三人一緒にトップアイドルって気合入れて、みんなでここまで走ってきたつもりだったんだけど。
 最初は並んで走っていたはずなのに、私と二人とは歩幅が違って、必死で足を動かしても追いつけなくて。

 どこで差がついちゃったのかな。私には何が足りないんだろ。私、二人の足手まといなんかじゃないよね。
 頭のなかがだんだんグチャグチャしてきて、足をベッドの上でバタバタさせて、そのままゴロンと仰向けになる。
 あーあ、やっぱりこんなのは未央ちゃんらしくありません。寝よう寝よう。
 寝たら明日は、元気になるよ。きっと嫌な考えも忘れちゃうはず。そのはずだから。

「……ふふっ。やっぱり美嘉ねぇ、トーク上手いなぁ……うんうん」

 ラジオから流れる溌剌とした声にくすりと笑いながら、私はベッドの中に潜り込んだ。
 だけど心の片隅ではそのわざとらしい独り言がひどく空々しく感じて、思わず掛け布団の端を掴む。
 なんだか、寒いなぁ。夜風はこのベッドの中までは吹き込んでこないはずなのに。


   ▼  ▼  ▼


 携帯のアラーム音で、私は目を覚ました。
 時刻表示に目をやると、いつもの目覚ましより一時間は遅い。
 今日はオフだからアラームは掛けてなかったと思うんだけどな、とぼんやりした頭で考える。
 寝ぼけまなこをこすりながら画面を操作して、そこでようやくアラームじゃなくてメールの着信だと気付いた。
 誰だろう。送ってくる知り合いを端から頭に浮かべたけど、本当の送り主はその中の誰でもなかった。


「プロデューサー……?」


 普段頻繁にメールを送ってくるような人じゃないから、首を傾げながら開封して。
 そして私の頭は、一瞬で目覚めさせられた。夢うつつから、現実に引きずり降ろされてしまった。


 文面はシンプルだった。

 今夜、大事な話があるから何時に事務所まで来るように。それだけ。


 だけどその乾いた文章が逆に私の想像を掻き立ててしまって、止まらない。
 何? わざわざオフの日に事務所に直接呼び出しがかかるような用事って、何?
 胸がざわついて、鼓動が早くなって、肩が震えて、視界が揺れて、止まらない。

 だって、良い知らせよりも、聞きたくないような知らせのほうがよっぽどありそうだって、そう思えたから。

 もしかしたら私、自分で思ってた以上に参ってたのかな、最近。
 だけど弾みが付いたマイナス思考は、制御しようと思っても雪だるまみたいに膨らむばかりで。
 こんなの私らしくないよ。本田未央はこんな子じゃないよ。そう言い聞かせても、どうにもならない。

 ふと頭によぎるのは、ここ最近のプロデューサーの態度だった。
 いつもにも増して真剣そうな表情で電話したりしてて、それ自体はお仕事頑張ってるなーとしか思わなかったけど。
 気になったのは、その時のプロデューサーがちらちらとこっちを見てるように感じたから。
 私のことを話してるのかな、とその時は思っただけだったのに、今になってその違和感が形となって襲ってくる。


 ――今のニュージェネレーションに、私は必要ないんじゃないの?


 違う。違うよ。そんなことない。そんなこと、あるわけない。
 そう必死に否定しようとしても、イメージとして浮かぶのは事務所の一室で深刻そうな顔をするプロデューサーと、
 真っ青な顔で立ち竦んでいるだけの私の姿だけで。
 もしかしたら良いニュースかも、と思い込もうとしても、そんな自分が白々しくしか見えなくて。


「……そろそろ支度しないと、昼からの自主練に間に合わなくなっちゃうな」


 そう呟いた声が自分でもぎょっとするくらい弱々しくて、思わず頭をぶんぶんと振った。
 忘れよう。少なくとも今だけは。レッスンに打ち込んで、それから考えよう。
 先送りにしてるだけだけど、そうでもしないといつもの本田未央に戻れない気がしたから。
 携帯を掛け布団の上に放り投げて、私は出かける準備を始めた。



   ▽  ▽  ▽



 この日は元々オフでレッスンの予定はなかったんだけど、レッスン場の一室だけ偶然空きが出来たって聞いたから、
 昨日のうちにトレーナーさんに頼み込んで特別に午後だけ使わせてもらえることにしてたんだよね。
 まぁ、その時は、こんな気持ちで自主トレに励むことになるなんて思いもしなかったんだけど。


「わっ!? とっとっと……う、いったぁ……」


 ダンスのステップで思いっ切り足がもつれて、派手に尻もちをついてしまった私。
 涙目でお尻をさすりながら、改めて溜め息。せめて特訓の間だけは気持ちをキープしたかったのに。
 ダメな時は何をやってもダメ、ってことなのかな。

 この秘密の特訓だって、少しでもしぶりんやしまむーとの距離を詰めようと思ってこっそりやってるんだけど。
 本当に縮まってたのかな。改めて振り返ると、なんか自信ないや。
 まだ黄昏れるような時間じゃないのになぁ……そんなことを考えていた私を、予想外の呼びかけが引き戻した。


「あ、あれ……未央ちゃん?」
「わっと、びっくりした! ……とときん? 奇遇だねぇ、今日は貸し切りだと思ってたんだけど」


 突然名前を呼ばれて慌てて振り返るのと、入り口の引き戸がおずおずと開かれるのは同時だった。
 その隙間から顔を出したのは、とときんこと十時愛梨ちゃん。声の時点で分かったけどね。
 私より3つ上の大学一年生だけど、何故か年上のような気がしない人柄が魅力の女の子。
 まあ年上の気がしないと言えば、しまむーも1コ上なんだけど、それは今は置いておくとして。


「昨日トレーナーさんにお願いして使わせてもらうつもりだったんだけど……未央ちゃんも?」
「そうそう。ははぁ、さては姉妹間で情報共有がなされてなかったな? ホウ・レン・ソウは大事なのにー」
「ごめんね、未央ちゃんが先約みたいだし、お邪魔だから私は今日は帰ろうかな」
「いーよいーよ、一緒にやろ? 私はちょうど休憩しようと思ってたとこだけどね」


 私がそう言うと、とときんはそれじゃお邪魔してと一言断ってから、私の隣に腰を下ろした。
 その時にジャージ越しにも分かるくらい胸が弾んで、これはファンの男の子には目に毒だなぁと思ったりもして。
 だけどとときんはそんなことには気付かないようで、何事も無くストレッチを始めた。

(とときんと私、か。なんだか、不思議な組み合わせだなぁ……)

 日頃から時々話はするし、同じ事務所のアイドルなんだから一緒にいておかしいわけないんだけど。
 それでもそんなことをふと考えてしまうのは、隣にいるのが他ならぬとときんだからなんだろうな。


 だって、とときんは……シンデレラガール十時愛梨は、日本中の女の子の憧れの象徴なんだから。


 シンデレラガール。あの日のステージで最後にスポットライトを浴びた、私達の頂点。
 だけど、十時愛梨という女の子は……なんていったらいいのかな、特別じゃないのが特別みたいな、そんな子だった。

 もちろんとときんは可愛いし、スタイルだって抜群だし、ステージではいつだってキラキラ輝いてる。
 でもその一方で、どこか飾り気が無くて、控えめで、無防備で、どこにでもいそうな女の子でもあって。
 他にはない強烈な個性を武器にする、そんなアイドル像からはすごくかけ離れたところにいると思う。
 例えるなら、美羽のいるFLOWERSが近いのかな? ユニットとはまた色々違うのかもしれないけど。

 とにかく、そんな女の子が、シンデレラとして頂点に立った。
 それは本物のおとぎばなし。本物のシンデレラストーリー、そのものだった。
 魔法をかけられた女の子がガラスの靴を履いてお城への階段を駆け登っていく、そんな物語だった。

 だからこそ、彼女ほど最初のシンデレラガールにふさわしい子はいなかったのかもしれない。
 十時愛梨の輝く姿を見た女の子たちは、きっとカボチャの馬車を夢に見るようになるだろうから。


「う、ううぅ~~っ…………」
「あはは、仕方ないなぁ。どれ、この未央ちゃんが柔軟を手伝ってしんぜよう」


 上体伸ばしで四苦八苦しているとときんの背中を苦笑交じりに押してあげる。
 こうしていると、本当に普通の女の子なんだけど、ね。



   ▽  ▽  ▽



「そういえば、とときんも今日はオフじゃなかったっけ。なんで自主トレ?」


 練習の汗をシャワーで流して更衣室で帰り支度をしながら、私は何の気なしに聞いた。
 純粋に疑問に思ったのが半分で、もう半分はこれからの事務所行きが憂鬱だったから、
 軽い話でもして気を紛らわそうとしたからなんだけど。

「…………」


 だけど、とときんにとってはそうじゃなかったみたいだった。
 だってその時の横顔は何か思いつめたようで、他愛ない世間話に答える感じじゃなくて。


「あっ、ごめん……言いたくないならいいのいいの」
「ううん、大丈夫。むしろ、ちょっと聞いて欲しいくらいかな」


 備え付けのベンチに腰を下ろしたまま、とときんが小さく呟く。
 所在なさげに立っていた私も、結局その隣に腰を下ろして、続く言葉を待った。


「……怖かったから」


 ぽつり。間を置いて帰ってきた答えは、案の定真剣な響きで、だから私はただ黙って聞いていた。


「私は、普通の女の子だから。このままアイドル十時愛梨が独り歩きしたら、私が置き去りにされそうで、
 そうしたらプロデューサーさんの隣にいられなくなりそうで。だから、振り落とされないように頑張らないと」
「……………………」


 意外じゃなかったと言ったら、きっと嘘になる。
 とときんが努力家だっていうのは知ってたし、何事にも真面目に取り組むタイプなのは分かってた。
 だけど、こんなふうに思いつめてしまう人だっただろうか。
 アイドル活動も順風満帆で、傍目には怖いものなしに見えるシンデレラガールが、ひどく小さく見える。 


「でも……とときんは、みんなに選ばれたシンデレラなのに」
「……シンデレラだから、かな」


 そう言ってそっと笑う。その微笑みが、やけに寂しい。

「私、プロデューサーにスカウトされて、その時初めてアイドルになろうって思ったんです。
 だからどんなアイドルになりたいとか、アイドルになってどうしようとか、それまで考えたことなくて。
 それでも、続ければ答えが出ると思ってた。考える時間は、いっぱいあると思ってた」


 今まで見たことのない表情だった。穏やかなのに、声をかけるのが躊躇われるような。


「でも、そんな時間はなくなっちゃったから。魔法を掛けられたシンデレラは、舞踏会で踊らなきゃいけないから。
 魔法使いのおばあさんはドレスや靴はくれたけど、踊り方なんて教えてくれなかったのにね」

 その無理にいたずらっぽくしたような言い方に胸を突かれて、私は柄にもなく何も言えなかった。
 それでも何か話そうとして、口の中でもごもご言葉を転がして、そしてそのまま飲み込んで。
 気楽に大丈夫だよって声を掛けてあげられないのが、ただただ歯がゆかった。

 いつかプロデューサーが言ってたっけ。特訓っていうのは自分自身と向き合うことだって。

 だとしたら、とときんは……もしかしたら私も、アイドルとしての転機に立っているのかもしれない。
 自分自身とのギャップで悩んで、辛い思いをして、でも逃げるわけにはいかなくて。
 そしてそれは、きっと私だけじゃない。シンデレラガールだけじゃない。夢に向かう人は、誰でもみんな。


「私は……小さい時から、たくさんの人と仲良くなりたかったんだ」


 気付くと口を開いていた。
 なぜかは分からなかった。励ましの言葉の代わりに選びに選んだ結果かもしれなかった。
 でもそれ以上に、きっと私も、自分と向き合わなきゃって思ったからかもしれない。


「子供の頃さ、友達百人できるかなって歌あったでしょ? 小学校の頃ね、私ホントにやろうとしたんだよ。
 結局百人は無理だったんだけど、それでもたくさんの子と仲良くなってね。楽しかったなぁ」


 ほんとに子供だったんだよねと照れ笑い。さすがの私も、今同じことはできないだろうな。
 それでも、それが私のはじまり。仲良くなりたい、笑顔が見たい。それが始まり。

 ……ううん、違う。始まりじゃない。今も、だね。今もその気持ちの中で生きてるんだ。
 なんでだろ、最近忘れてた気がする。そういう気持ち。私がアイドルである理由。


「中学の頃は、いろんな部活の助っ人を掛け持ちしててね。運動は得意だったから、引っ張りだこでさ。
 でもそれも、やっぱり同じ。試合に勝ってみんなが喜ぶ顔が見たかったから、頑張ったんだ」


 言葉にするたびに、その忘れかけていた気持ちがはっきりと輪郭を取り戻す気がした。
 ううん、見えなかったのは忘れかけていたからじゃなくて、そばにあったのにちゃんと見てなかったからだ。


「私は笑顔が好き。人が笑顔になるのを見るのが好き。人と一緒に笑顔になるのはもっと好き。
 だからたくさんの人を笑顔にできるお仕事は何かなって考えて、そしたらアイドルしかないなって」


 そうだ。そうだよ。それが今の私を作っているんだ。
 本当は忘れてたわけじゃない。変わらずそこにあったのに、上に降り積もるもので見えなかっただけ。
 そして、大事な気持ちを覆い隠していたのも、また私なのかもしれないってこと。


「……そっか。気付けば簡単なことなのにね。何をうじうじ悩んでたんだろ」


 一人で声に出して一人で納得する私を、とときんがぽかんとした顔で見つめる。
 その視線に気付いて思わず照れ笑いしながら、誤魔化すように続ける。


「なんていうか、初心に返ったっていうのかな。勝手に私の悩み事だけ、すとんと落ちちゃった」
「羨ましいな……私には、そういう目指すもの、見つからないから」

 目を伏せるとときんに、無責任に大丈夫だよなんて言えるわけがない。
 目標があってアイドルになった私と、アイドルになってから目標を探してるとときん。
 お互いの悩みはきっと自分でしか解決できなくて、きっと部外者が軽々しく語っちゃいけないんだ。


「……今は見つからないんなら、探せばいいよ。とときんのプロデューサーと、ふたりでね」

 だから私に出来るのは、ほんの少しだけ背中を押すことくらい。

「もっと頼っていいんじゃないかな。もっと甘えていいんじゃないかな。だって……」

 迷ってるシンデレラが、ほんのちょっとでも勇気を出すように、遠回しなお節介を焼くくらい。

「なんたって、とときんの王子様なんでしょ?」


 それを聞いて一瞬はっとして、それから頬をうっすら染めてこくりと頷くとときんは、やっぱり魅力的だと思った。



   ▽  ▽  ▽


 とときんにお礼とお別れを言って、私は事務所への道を走っていた。
 日が落ちてだんだん暗くなっていく町並みは、もう少し経てば昨日のような夜に飲み込まれるんだろう。
 だけど今の私には、あんな夜風なんて跳ねのけるような力があるような気がしていた。

 ああ、やっぱり私、アイドルが好きだ。
 それを実感した、ただそれだけで、なんだか世界が見違えてしまったような気がした。
 私の夢、私の未来、私の希望。きっとアイドルじゃなきゃ掴めないものだから。

 アイドルになりたい?
 違う。私はとっくにアイドルになっているんだから。

 アイドルでありたい?
 違う。私は今この瞬間だってアイドルなんだから。

 アイドルであり続けたい?
 違う。私が望んでいるのは現状維持なんかじゃないんだから。

 だったら何? 私の答え、本田未央の答えは。


「私……私は……アイドルに、なり続けたい!」


 新しい自分になるんだ。一瞬一瞬で新しく、そして前へ、前へ、前へ!

 もう事務所への道も怖くなんかなかった。何を言われたって構うもんかって、そう思えた。
 お前なんていらないって言われても食い下がる。それでも駄目なら、どんなに遠回りしてでもきっと辿り着く。

 私は、しぶりんと、しまむーと、もう一度並び立ちたい。自分の足でしっかり立って、隣の二人のことを誇りたい。
 同じように、二人にも私のことを誇りにしてほしい。誇ってもらえるような私でありたい。
 だから、諦めないよ。初めて二人に会ったあの日のように、今この時だって諦めない!

 いつもの角を曲がって事務所に飛び込んで、エレベーターは使わずに階段を一段飛ばしで駆け上る。
 レッスン疲れの両足が悲鳴を上げてるけど、そんなのは気にもならなかった。
 頑張れ、本田未央。ここが勝負どころだよ。自分の全てを賭けて、立ち向かう時だよ!

 約束の時間にはまだ早かったけど、フロアの電気は付いていたから、一目散に約束の場所へ向かう。
 薄い壁で区切られた会議スペースには既に人の気配があって、中で何やらひそひそと話しているようだった。
 大きく息を吸って、吐く。最初が大事だと言い聞かせて、私はドアをばんと開いて大声を張り上げた。


「はい、ちゅうもーく! わたくし、本田未央は、プロデューサーに大事なお話が――」


 そこから先が言えなかったのは、プロデューサーの表情が深刻さとは無縁で、ただぽかんとこっちを見ていたせいと。
 今日はお休みでこの場にいないはずのしぶりんとしまむーが、やけに焦った顔でここにいたせいと。
 部屋のあちこちにぶら下がった中途半端な飾り付けとか、転がるクラッカーとか、まるでお祝いみたいな雰囲気だったせいで。

 その直後に三人は一斉に笑い出したんだけど、それはきっと部屋の奥の張り紙に堂々と書かれた文字を読んだ私が、
 それが本当だって実感して思わず泣き出すまでの間、よっぽど変な顔をしてたからなんじゃないかなって思う。



   『本田未央 シンデレラマスターCDデビューおめでとう』



 ――これが、私がもう一度スタートラインに立った日の、幸せな空回りのお話。



   ▼  ▼  ▼



「ほら、もう少しで頂上だよ。頑張って」

「うう~、暗くて足元が見えない……」

「ほらほらしまむー、未央ちゃんが手を繋いであげるからさ」


 鬱蒼と茂った山林の中、時刻は零時を僅かに回ったくらい。
 この島で私達が目を覚ましてから、まだ十五分も立っていないと思う。
 私達三人は、今かすかに輝く星の光を頼りに、山頂の展望台目指して足を進めていた。

 ……あの時、とときんのプロデューサーは、私達の目の前で殺された。
 大事な人を失ったとときんの悲鳴が、今も耳に焼き付いて離れない。

 きっとこれから、あんな辛くて悲しいことが、いくつも起こるんだろう。
 その予感だけで体が竦んで、一歩も前に進めなくなってしまいそうで。

 私はしまむーの掌を包む手に軽く力を入れた。安心したのか、しまむーの手から少しだけ緊張が抜けた。
 それから反対の手で、前を行くしぶりんの手に触れた。しぶりんはこっちの気持ちを察して握り返してくれた。
 たったそれだけだけど、私の心に小さな小さな、でも確かな希望の輝きが灯った。

 三人なら、前を向けそうな気がした。三人で並び立てば、震えずに済む気がした。


 木々の切れ間から見える、ひときわ輝く三つ星に願いをかける。


 私、頑張るから。山頂に辿り着くまでには、きっといつも通りの笑顔を作ってみせるから。

 だからお願いです。そんなに多くは望みません。ほんのちょっとでいいんです。

 手を繋いでいる大事な友達の心を、この島で途方に暮れている仲間の心を、ほんの少しでも勇気づけるために。

どうか私から、笑顔だけは奪わないでください。

 どんなに辛い、悲しいことが起きても。大好きな人達のために、笑顔でいさせてください。

 これが私が、アイドルになった理由。今の私の、たったひとつのささやかな願い。

 ……どうか、届いて。


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最終更新:2014年02月27日 20:57