彼女たちがその熱にうなされるサーティセブンポイントトゥー ◆John.ZZqWo
「杏ちゃ――ん!」
諸星きらりが大きな声で
双葉杏の名前を呼んでいる。
その後ろを
藤原肇は透明な盾を構えてついていっていた。場所は水族館の中で、彼女たちは薄暗い廊下の上を奥へ奥へと進んでいる。
「あ・ん・ず……ちゃ――んッ!」
諸星きらりがもう一度双葉杏の名前を呼ぶ。大きな声が響き、広がり、遠ざかって静寂が戻る。けれどそこに返す声は聞こえない。
結局、藤原肇と諸星きらりのふたりは水族館へと戻ってきていた。
一度は水族館へは戻らず、
白坂小梅や
向井拓海らが待つ病院へ向かおう――そうふたりは結論を出した。
人が死んだという場所に戻るということは、その殺した誰かと鉢合わせする危険もあるし、死ななかった人にしてももういないだろうからだ。
加えて、藤原肇はその時水族館にいたはずの双葉杏を疑っていた。確証はない。ただ、いくつかの怪しい要件が彼女の情報と符号している。
このことは同行している諸星きらりには話さなかったが、ともかく、水族館に戻るのはリスクがあることだと訴えて病院へ行くことを了承させた。
これには諸星きらりもしぶる様子を見せたが、まだ生きてる人との再会を優先するということでその場は納得してくれた。
それから、ふたりは予定していた通りに手短にあのケーキ屋さんの中で食事と小休憩をとった。
食事は棚に並んでいた焼き菓子だ。それと身体がぽかぽかになるよう甘いハチミツのたっぷりの熱いミルクティー。
それらをいただくことを休憩として(加えて、いくつかのお菓子を亡くなったふたりの枕元にも添えて)ふたり並んでケーキ屋さんを発った。
先に流れた放送で予報されていた雨が降り出したのは歩き出してすぐのことで、諸星きらりがやはり水族館に戻ると言ったのもそのタイミングだった。
藤原肇は水族館の入り口に置かれたままだった透明な盾を構えて早足で歩く諸星きらりの後をついていく。
彼女のほうが足が長く歩幅があるので同じ早足では追いつかない。なので、藤原肇はなかば駆け足のようなペースで彼女の後を追っていた。
水族館に戻ることとなった理由はこうだ。
確かに
岡崎泰葉と
喜多日菜子の名前は放送で呼ばれた。悲しいことだが彼女らの死は疑いようがないだろう。
しかしそれは、放送で名前が呼ばれなかった人物の無事を保証するものではない。
死んではいないが重症を追っているというのはありえる。実際に
松永涼が足を切断したことを藤原肇は諸星きらりから聞かされもした。
それに、今も他のアイドルを殺すことをよしとした何者かに追われていたり、それで水族館のどこかで隠れているかもしれない。
もし、そのまま病院へと向かい、次の放送で遅れて双葉杏や渋谷凜の名前が呼ばれたら?
もしそうなったら、どれだけの後悔の念が自分を押しつぶすだろうか。
そして、諸星きらりがその時に言った、彼女だからこそ言えたとも、自分がそう考えられなかったことを恥じるその“理由”が戻る決め手になった。
それはつまり、誰かを殺してしまったアイドルがそこにいるかもしれないなら、どうして“助けずに”ほうっておけるのかと。
過ちを犯しても同じアイドル。あのアルバムの中にいっしょに並んでいるアイドルで、昨日までは……いや、今も同じ事務所の仲間なのだ。
だったら、過ちを犯したのなら救わないと、悲しいのなら、辛いのならどこにいってはぴはぴにしてあげないと――それが諸星きらりの主張だった。
藤原肇に返す言葉はなかった。むしろ、どうして自分からそう言えなかったのかと疑問すら湧いた。
過ちを犯せばもう敵か。アイドルとは違うなにかか。そんな認識がまだ自分の心の底に敷かれたままだったことに愕然とすらした。
たった今、私は救われたばかりだというのに。
藤原肇は諸星きらりの大きな背を追いながら、盾を掲げる手に力をこめる。
盾。最初はなんで盾なのだろうと思った。大きくて重くて、扱いづらく、持ち歩くだけでも色いろと不便を感じた。
どうしてこんなものが殺しあいの中で自分に与えられたのか。その理由はわからない。しかし、今の自分にはちょうどいい、そう思っていた。
盾は守るもの。攻撃を、過ちを受け止めるためのもの。誰かが過ちを犯そうとした時、これがあればそれを受け止めることができる。
岡崎泰葉と喜多日菜子を殺した子は、激情で我を失っているかもしれない。絶望して生半可な言葉は通じないかもしれない。
けれど、この盾があれば、その彼女の激情と絶望を傷つかずに受け止めることができる。受け止めればその間に言葉をかけることができる。
それは――藤原肇は諸星きらりの大きく輝く背を見て思う――彼女がしてくれるだろう。だから自分は彼女を守る盾になろう。
何者かが凶刃を振るって飛び出してくればすぐに間に入って受け止められるよう、藤原肇は与えられた盾を構え諸星きらりの後を走る。
水族館の通路は薄暗い。それは水槽の中がよく見えるようにという配慮だろうし、雰囲気作りのためでもあるだろう。
普段ならばここを訪れた人たちはこの薄暗い通路からキラキラと光る水槽を見て感動を覚えるのだ。
けれど、今の藤原肇に水槽の中を見る余裕はない。
きっと見れば、魚たちはこの島で今なにが起きているかなんか知らずに優雅に泳いでいるだろう。
けれど、藤原肇はそれを知っている。だからこそ水槽を見る余裕はなく、通路の先を、角を、死角の向こう側を伺いながら進む。
水族館の通路は薄暗いだけでなく、設置された巨大な水槽を色いろな角度から見れるよう、曲がりくねり、上下もする。
先は見通しづらく、角や死角はどこにでもあった。いつどこから武器を構えた相手が飛び出してくるとも知れない。
盾を握る手に力が入るとそこに汗をかいていることを意識する。
まるで、ここはお化け屋敷のようだと思った――。
――まだ幼いの頃、一度だけ両親と電車に乗って遊園地に連れて行ってもらったことがある。
そこでよくわからずにお化け屋敷に入ることをねだって。きっとそれは他愛のないものだったと思う。
けれど子供の自分から見れば全然そうではなく、本当にどこか恐怖の世界に迷い込んだのだと思った。二度と帰れないのだと思った。
結局、その場で大泣きに大泣きしてろくに他の遊具を楽しむことなく遊園地から帰ることとなってしまった。
家に戻ればおじいちゃんがそれみたことかと言い、それ以来、遊園地やなんかの華やかな場所に遊びに行くことはなくなった。
もとより好きだった自然の中での遊びや釣り、なにより陶芸に没頭し、お祭りといえばせいぜいが神社で行われる小規模なものくらいだ。
そんなことを思い出し、藤原肇の中にあの時と同じ恐怖心が満ちていく。しかし、今感じている恐怖は作り物相手のものではない。
人を殺す殺人者。アイドルを殺すアイドルがここに、この島にはいるのだ。
@
結局、藤原肇の心配は杞憂に終わった。誰かに刃物で襲い掛かられたり、どこかから弾丸が飛んでくるなんてことはなかった。
しかし、それよりも酷い光景が、彼女と諸星きらりが言葉を失い見つめるその先にあった。
それはいつか見たのと同じ光景。人の焼ける匂い、なにか油を燃やしたようにな匂い。
あの巨大な火柱と化したビルの前で、火が、炎がアイドルを包み、焼き殺してしまっていた時の匂いと光景。
違うところがあるとすれば、そこに倒れている、やはり、ふたりの遺体のうち、片方はほとんど焼け焦げていないことだろうか。
いや、近づいてよく見れば焼けて見えるのも煤を被っただけとわかる。その遺体は命が失われたことを除けば以前とほとんど変わらないままだった。
喜多日菜子――あの炎の前でナイフを振り回していた妄想が趣味の女の子。
岡崎泰葉が眠らせ、大丈夫だからと言われてふたりにすれば、再会した時には本当に正気を取り戻していた彼女。
ふたりの間になにがあったのかは結局聞けず仕舞い。そんなに長い時間でもなかった。聞いたのは二人が同じプロデューサーに預かられていることだけ。
「あぁ…………」
藤原肇の口から嗚咽の混じった溜息がこぼれる。
床に伏せた喜多日菜子の向こうにある黒こげの遺体は岡崎泰葉のものだろう。
彼女は救えたのだ。一時は他のアイドルを殺そうと凶刃を振るっていた子を、彼女は元のアイドルに戻してみせた。
藤原肇は嗚咽を隠すように口を塞ぎ、肩を震わせる。そして声の代わりに涙をこぼした。
どうして彼女たちは死んだのか。その理由は明らかだ。それは“嘘”をついたから。自分が正しいことを歪めてしまったから。
今になってまた後悔が重く心へとのしかかる。どうしてあんな嘘をついてしまったのか。どうしてそうするべきだと思ってしまったのか。
目が覚めたからこそ、あの時の歪さが、自分勝手の醜さが、それによって奪ってしまった命の重さが心を酷く苛む。
仮に、自分がここに残っていたとしてもここに並ぶ死体の数がひとつ増えるだけだったかもしれない。けれどそんな風には考えられない。
『…………怖いですよ。それは。……でも、怖いから泣いてるんじゃないです』
炎に照らされながら言った彼女の言葉をまた思い出す。彼女もあの時に救われていた。救われた彼女が喜多日菜子を救っていた。
「ぁ……あ……、あぁ…………、あ…………」
どうして気づかなかった。水族館に最初にやってきた時に、彼女らがふたりいっしょに並んでいるその意味を。
悲しみは圧倒的に押し寄せる。心の中にいるはずの彼女らの声も聞こえない。それは目の前で死んでいるという絶対の事実には敵わない。
『――友達に、背を向けるな。たぶんきっと……後で、死ぬほど後悔するから』
後悔。後悔。後悔。後悔。後悔。後悔。後悔。後悔。後悔。後悔。後悔。後悔。後悔。後悔。後悔。後悔。後悔。後悔。後悔。後悔。
全てを思い出す。映像を逆回しにしているように、今から遡ってこの島で目を覚ました時まで。
詳細にイメージし、ありとあらゆる分岐点で、自分がどんな過ちを犯したのか、それを探り、思い出し、理解する。
心が砕ける。自分の軽挙妄動がどれだけの犠牲を出したのか、可能性だけを追っていけばきりがない。追い、負うほどに心は粉々に砕ける。
砕けて砕けて砕けて、砕けた。
けれど、心は散らない。肇は砕けた心のどんな小さな破片も放さない。ここで心を砕け散らすのではないともう知っている。
そうすればまた同じ失敗をしてしまう。逆に心が砕けまいと抵抗すればそれも失敗につながる。
人を、心を器とイメージする。砕けた心は砕けた器。砕けた欠片は心の欠片。粉々になれば土で、粉々になった心。
藤原肇は必死に挫けそうになる辛さに耐え、粉々になった心を練り始める。記憶を反芻し、あらゆる感情を追体験し、心を練り上げる。
新しい器を作るのだと、そう決めたのだから。器を焼く火はまだ自分の中にもあるのだと信じれるのだから。
藤原肇の両目から涙がとめどなくこぼれる。けれどその瞳はまっすぐな熱を帯びていた。
「杏ちゃぁ――ん! どこにいるのぉ――っ!?」
諸星きらりが遠吠えのように声をあげる。返事をするものはいなかった。
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しばらく後、あれから更に奥を調べに行った藤原肇と諸星きらりだが、この水族館の中にあのふたりの死体以外のものを見つけることはできなかった。
ふたり以外、つまり、あの時そこにいたはずの双葉杏と、おそらくはなにかが起きたのと近いタイミングで到着してたはずの渋谷凜。
そして、自分たちの知らないところで水族館に現れていたかもしれない何者か、それらのどの姿も確認することはできなかった。
ふたりは岡崎泰葉と喜多日菜子の亡骸を寝かせられる場所に移し、水族館を出た。
外の雨足は強くなっていたが留まる理由もないので途中で調達した傘を差して冷たい雨の中を歩き始める。
鎮痛な気持ちと傘を叩く雨粒の煩い音にふたりの間の会話はほとんどなく、藤原肇は病院へと行く道すがら、ただ黙々と考え事をしていた。
比較して運びやすいほうであった喜多日菜子の遺体を移動させたのは彼女だが、そこで見た限り、やはり彼女の死因は焼かれたことではなかった。
つまり死因は別にあって、それも遺体が火にほとんど炙られていないことから簡単に知ることができた。
それは、後頭部をなにか硬いもので、印象をそのまま言ってしまえば小さなハンマー――つまり、
城ヶ崎莉嘉と同じ凶器で殺されたと見れた。
なので双葉杏が喜多日菜子を殺したのだ……とは言えない。
喜多日菜子の死体だけを見ればそう断定できたたろうが、そこには岡崎泰葉の焼死体もあった。
つまり誰かが火をつけて焼いたということになる。使ったものは油か燃焼剤か、藤原肇が想像できるのはそのようなものだ。
だとすれば、双葉杏が岡崎泰葉を焼き殺し、それを発見した喜多日菜子を背後から忍び寄り叩き殺したのか?
藤原肇はそんなシーンを想像してみるも、どうしてもしっくりとこない。
双葉杏が城ヶ崎莉嘉を叩き殺した可能性は高い。しかし今回の件も含めると彼女は更に人を燃やすようなものを持っていたことになる。
だがそんな素振りは一時だが同行していた藤原肇には感じられなかった。……いや、よく考えればなぜ双葉杏は自分を殺さなかったかと気づく。
複数の人間がいたはずの水族館で行動を起こし、ふたりきりの、しかもその時は隙だらけだった自分相手に行動を起こさなかった理由とはなんだろう?
「……………………」
なにかが食い違っている。真相に至るピースは持っていても、絵をイメージさせる肝心のピースがないので完成図が思い浮かばない。
しかし、これ以上あの水族館でなにが起きたかを想像するのは藤原肇にはできなかった。
@
向井拓海は土砂降りの雨の中、夜の街を必死に走っていた。
その胸にはひとりの小柄な少女が抱かれている。その少女はぐったりとし、垂らした腕は向井拓海が走るのにあわせてぶらぶらと揺れていた。
「ハァ……、ハァ……ッ!」
荒い息を吐き、疲れを訴え痛みさえ走る足を無視して向井拓海は疾走を続ける。
暗闇の中にぼやけて浮かぶ街灯やネオンの光に視線を走らせ目的の場所を探す。大雑把な地図ではなかなかそこにはたどり着けなかった。
何度も路地の行き止まりを見ては引き返し、不安になればより広い道へと出て、それで明後日の方向へ向かってると気づけばまた路地へと飛び込む。
恐怖を文字通りに胸に抱き、向井拓海は土砂降りの中、夜の街を走っていた。
それは何度目か、狭い路地から大通りに飛び出して、そこでようやく向井拓海は目的の場所を見つける。
胸に抱いた彼女がまだ助かるよう祈り、最後の数十メートルを全力で駆け抜け、その建物へと飛び込んだ。
自動ドアが開く間さえもどかしく感じるように焦り、そしてようやく開いたドアを潜ると、しかし向井拓海はそこで目の前の光景に絶句し、足を止めた。
そこで白坂小梅が死んでいた。口と鼻と耳から血を垂れ流し血だまりの中に倒れていた。
彼女の死体が転がる少し奥、テーブルの上に寝かされた松永涼の足は両足ともに太ももから切断されている。
きっとおびただしい量の血が流れたのだろう。テーブルの上は真っ赤に染まり、端から垂れた血が床の上にも残虐な模様を描いていた。
なんの冗談だろう? そう思った向井拓海の前に
小早川紗枝の白い顔が浮かび上がる。
静かに微笑む彼女に近づこうとし、はっと気づく。そこにあるのは彼女の首だけだった。首から下は床に崩れ落ち、その背には薙刀が突き刺さっていた。
「嘘だろ…………」
向井拓海は呟き、後ずさる。どうしてこんなことになった? なにがいけなかった? 全力は尽くしたはずだ。身体の痛みと軋みがそれを証明している。
元々どうしても間に合わなかったのだ。それはしかたないことだった。なんにだってそんなことはある。今回だってしかたのない。土台無理な話だとわかっていた。
それでも頑張っていたのは、そうすれば言い訳が通じると思って、現実から目を背けていることに気づかれないからと思って、だから走っていた。
「どうしよう」
ぽつりと呟く。その時、向井拓海は胸に抱えていた少女の様子が変わっていることに気づいた。
「おい、お前――」
その少女は真っ黒に焼け焦げていた。ほとんど人型の炭と変わらないほどに。重さも炭のように軽く。向井拓海はそれを見て、ほっとしていた――……。
@
「大丈夫?」
心配そうに上から覗き込む小早川紗枝の顔に向井拓海はどきりと胸を鳴らし身体を強張らせた。
どうして? 彼女はさっき死んだはずなのに。けれど、その光景が風に吹かれた砂絵のように霧散していくのに、向井拓海はあれが夢だったと気づく。
「えらい、うなされとったよ? 悪い夢みたん?」
彼女の問いに大丈夫だと答えようとするもうまく声がでない。強張った身体がほぐれ、なんでもないと返すには数秒の時間が必要だった。
「起きるん? まだ寝始めてから全然時間経ってへえんよ?」
「…………水族館の連中は?」
心臓はまだ早鐘のように鳴っていた。気分も胃がひっくり返りそうなくらいに悪い。じっとりとかいた寝汗に、身体も震えそうだった。
「まだ、きてへんね。雨は弱まってきたようやけど、降ってるんは降ってるし……」
そうか、とだけ呟き向井拓海は時計を見る。時間は11時を過ぎたところだ。確かにほとんど寝れなかったのだとわかる。
気だるい身体を起こしベッドを降りる。靴を履いて背を伸ばすと心配そうな顔で見上げる小早川紗枝がずいぶんと小さく見えた。
「トイレだよ」
ぴたりと彼女の動きが止まるほどの冷たい声が出たことに向井拓海は自分でも驚いた。
「………………」
睫毛を振るわせる小早川紗枝から視線を切って向井拓海は歩き出す。少しでもいい。ひとりになりたかった。けれどその背に別の声がかけられた。
「トイレってならアタシも押してけよ拓海。――紗枝、小梅を見ててくれ」
「あ、そやね。小梅ちゃん、こっちでうちとお留守番しよか」
「…………うん」
小早川紗枝が松永涼の傍にいた白坂小梅を手招くと、彼女はそこを離れる。その目には恐怖が浮かんでおり、なにかを察していたのは明らかだった。
向井拓海は射るような松永涼の視線に視線を返し、どうしようかと……しかし、しかたないと彼女の後ろに回り車椅子を押し始めた。
@
「……なに我慢してるんだよ」
車椅子とそれを押すふたりがトイレの前へ、処置室のふたりへは声の届かない場所までくると松永涼はそう切り出した。
「なにも我慢してねぇよ」
車椅子を押す手を止め向井拓海は苛立ちを乗せて声を発する。そんな態度に明らかな怒りをのせて松永涼は言葉を吐いた。
「溜め込んでるなら吐き出せよ!
お前、舐めてるのか? アタシらのことただの荷物だって見てるのか? アタシらじゃお前は受け止められないって思ってんのか?」
「そういうわけじゃ、ねぇよ……」
処置室で見せた強面を今度はなにかを辛く我慢するような表情に歪め、向井拓海は言葉をこぼす。
「だったら言えよ。誰もお前のことをスーパーマンだなんて思ってない。…………アタシらにも助けさせろ。頼むから」
優しい声に向井拓海はなにかを言おうとして、けれど口を閉じ、その一文字に結んだ口と肩が揺れて、震える瞳が濡れて、とうとう心の中の言葉を漏らした。
「…………怖ぇんだよ」
「なにが怖いんだよ。死ぬのがか?」
向井拓海は頭を振る。
「そうじゃねぇ。怖いのはアタシだ」
車椅子の取っ手を握ったままとうとうと語りだす。その間、松永涼は口を挟むことはしなかった。
「だんだん疑問になってくるんだ。本当にアタシはここから逃げてやろうって思ってるのかって。
水族館の連中だって本当は飛び出していかなくちゃいけないんじゃなかって。待ったほうがいい、なんてのは体のいい言い訳だったんじゃないかなんて」
そして、と向井拓海は言葉を続ける。
「それでもし、ただずっとこのままだったら。なんだかんだ言い訳して、誰とも会えず、助けもできず、それでこの4人が最後に残って……。
脱出する方法も見つかってなくて……いや、探してすらしないかもしれねぇ。じゃあ、アタシはその時どうすんだって!」
お前らのことを殺しちまうんじゃないか――そう、向井拓海は握った拳を震わせて言った。
「…………殺さねぇって、今のアタシには言う自信がないんだ」
@
「それでもいいんじゃないか?」
松永涼は車椅子の上で、後ろで泣いているかもしれない向井拓海のことは振り返らずに言う。
「それはさ。そこまでいったらそれでしかたないよ。もう打つ手がないってなって、その時拓海がそうするってなら……少なくともアタシは納得する」
「わかってねぇよ! アタシは土壇場で自分かわいさに裏切るかもしれねぇって言ってるんだぞ!」
雷のような怒声に、しかしその奥に小さな子供を思わせるような声に、松永涼は肩をすくめ、ことさらに明るい声で言葉を返す。
「いいんじゃねぇか? とうとうどうしようもなくなったら、そういうものさ。納得できないってなら、アタシらも全力で抵抗してやるよ」
――小梅のためならアタシだってなんでもできる。そう言い、松永涼はまた言葉を続ける。
「仕方ない時は仕方ないよ。いいとか悪いとか、それが裏切りだとか、その時にするのはそんな話じゃない。それは恨むようなことでもない」
「……かっけーこと言ってんじゃねぇよ。片足なくしてビビってるくせによ」
「アタシはロッカーだからな」
いつでもかっこつけてんだ。そう松永涼は笑い――
「ハハッ……だせぇ」
――向井拓海も笑った。
「………………それでいつトイレん中に連れてってくれるんだ?」
「は? ついてくる口実じゃねぇのか?」
「マジだよ。つかトイレしてから話すつもりだったんだよ。早くしろよ。もう漏れそうなんだよ」
「なに我慢してんだよ! 馬鹿じゃねぇのか!」
「我慢したくてしてんじゃねぇよ!」
@
「おかえりさん。トイレ行って拓海はんもすっきりした? 温かいもんはいってますからどうぞこれで身体休めたって」
「真夜中の……病院の、トイレ……怖くなかった? 私は……ちょっと、楽しかったけど。ほら、お茶請けに甘いお菓子もあるよ」
戻ってきた向井拓海を出迎えたのは優しさだった。
ああ、なんだ。そうか――と、理解する。みんな向井拓海を信じてくれている。信じてくれているなら応えればいい。それはそんな簡単なことだった。
わかっていたはずなのに忘れてようとしていたこと。思い出させてくれた3人に向井拓海は感謝を感じ、悪夢を見るほどの不安はもう消え去っていた。
「ありがとうな。紗枝も、小梅……も、………………?」
「どう、したの?」
頭を撫でようとしていた手が空中で止まり、白坂小梅はきょとんと向井拓海を見上げる。
「………………なにかいるぞ」
@
「紗枝っ! ついてきてるか!?」
「言われた通り、10メートル後ろついてますー!」
向井拓海は点滴をかけるスタンドを両手に握り、真っ暗な病院の中庭をじりじりと、周囲を警戒しながら進んでいた。
あの時、白坂小梅の背後にあった窓の向こうにふわふわと揺れる光を向井拓海は見つけ、そして今はその光の正体を探ろうとしている。
白坂小梅は「ウィルオーウィプス?」などと言っていたが、もしそうなら……例えば狐火でもなんでもそういうものならかまわない。
けれど、もしその正体が他のアイドルで、しかも誰かを殺してもいいと思っているようなやつならば、絶対にほうっておくわけにはいかなかった。
「そっちからはなにか見えるか!?」
「なんも見えへんよー!」
向井拓海の後方10メートルの位置には小早川紗枝がその距離を維持しながらついてきている。
後ろから見ることで死角をカバーしてもらうという作戦だ。それに加えて、いざという時は処置室まで戻って松永涼と白坂小梅を避難させる役も負っている。
しかし、本当に先ほどの光はなになのか? まさかこの病院で死んだ人間の幽霊だとでも言うのか――そう考えたタイミングでまた光が現れた。
「動くなテメェ!」
向井拓海から見て前方10メートルほど。反射的に駆け出すと、向井拓海は両手に構えたスタンドを槍のようにその光へと突きつける。
「…………は?」
あっけなく光の正体は判明し、その不可思議さに向井拓海の動きがぴたりと止まる。
そこにいたのはふんわりとした服を着て頭にライトのついたヘルメットを被った女の子。そしてその隣で盾をかまえて彼女を守っている少女だった。
武器は構えていない。強いていうなら女の子がイグアナを抱えているが、透明の盾の向こう側にいるので飛び掛ってはこないだろう。
一体このふたりは、この行動にはどんな意味があるのか。向井拓海が頭の中をクエスチョンマークで埋めている間にもうひとりが彼女の後ろに現れた。
「引っかかったわねこの馬鹿ッ! さぁ、武器を捨てておとなしくしなさい!
こっちはあんたの背中に拳銃をつきつけてるわ! 2丁よ! フリーズ&ホールドアップってんの!」
言葉の内容を聞くよりも反射的に振り向いた向井拓海の目の前にひとりの少女がいた。そして彼女のことは知っている。
小関麗奈だった。
「テメェ、アタシに喧嘩売ってんだったらただじゃすまねぇぞ!」
「あっ! 拓海ッ!?」
そして、もうひとりが暗闇からそこに現れる。
向井拓海は彼女のことも知っていた。それはずっとここに訪れるのを待ちわびていた人物でもあった。
「たっくみん☆おひゃーしゃー☆」
@
小早川紗枝の前で、向井拓海を中心に4人のアイドルが彼女を囲んでわいわいきゃいきゃいとはしゃいでいる。
その中でもひときわ背の高い諸星きらりの姿を見て小早川紗枝はほっと胸を撫で下ろした。
ようやく、待ちわびていた水族館にいたアイドルと合流することができたのだ。
誰かがそれを彼女に押し付けたわけではないけど、水族館に向かわないという判断を向井拓海はずっと重く背負っていた。
先の放送でその内のふたりの死者の名が呼び上げられ、もしこの次の放送でも名前が呼ばれれば彼女も、自分たちもどうなっていたことか。
「あ…………」
小早川紗枝は空を見上げる。雲はまだ晴れ切ってはいなかったが、薄くなった雲の向こう側に朧月が見えた。
「気ぃついたら雨やんでるわ」
風が吹き、髪をなびかせる。冷たい風だったが、余計な熱を払ってくれる心地よい風だった。
【B-4 救急病院/一日目 真夜中】
【向井拓海】
【装備:鉄芯入りの木刀、ジャージ(青)、台車(輸血パック入りクーラーボックス、ペットボトルと菓子類等を搭載)】
【所持品:基本支給品一式×1、US M61破片手榴弾x2、ミント味のガムxたくさん、ペットボトル飲料多数、菓子・栄養食品多数、輸血製剤(赤血球LR)各血液型×5づつ】
【状態:全身各所にすり傷】
【思考・行動】
基本方針:生きる。殺さない。助ける。
0:とりあえず話を聞かせろって!
1:諸星きらりらから事情を聞く。
2:↑がすんだら、状況を見て行動。
3:市街地を巡りながら他のアイドルらを探し、天文台へと向かう。
4:スーパーマーケットで罠にはめてきた爆弾魔のことが気になる。
5:涼を襲った少女(
緒方智絵里)のことも気になる。
※軽トラックは、パンクした左前輪を車載のスペアタイヤに交換してあります。
軽トラックの燃料は現在、フルの状態です。
軽トラックは病院の近く(詳細不明)に止めてあります。
【小早川紗枝】
【装備:ジャージ(紺)】
【所持品:基本支給品一式×1、水のペットボトルx複数、消火器】
【状態:健康】
【思考・行動】
基本方針:プロデューサーを救い出して、生きて戻る。
0:ようやっと人心地やろか。
1:とりあえずはみんなで情報交換。
2:天文台の北西側に『何か』あると直感しているので、天文台に向かう案を推したい。
3:もう少し拓海はんの支えになれたらええんやけどね。
【松永涼】
【装備:毛布、車椅子】
【所持品:ペットボトルと菓子・栄養食品類の入ったビニール袋】
【状態:全身に打撲、左足損失(手当て済み)、衰弱、鎮痛剤服用中】
【思考・行動】
基本方針:小梅を護り、生きて帰る。
0:……なかなか戻ってこないな。
1:足手まといだとしても今できることをする。
2:小梅のためにも死ぬことはできない。
【白坂小梅】
【装備:拓海の特攻服(血塗れ、ぶかぶか)、イングラムM10(32/32)】
【所持品:基本支給品一式×2、USM84スタングレネード2個、ミント味のガムxたくさん、鎮痛剤、不明支給品x0~2】
【状態:背中に裂傷(軽)】
【思考・行動】
基本方針:涼を死なせない。
0:な、なかなか……帰って、こないね。
1:涼のそばにいて世話をする。
2:胸を張って涼の隣に立っていられるような『アイドル』になりたい。
※松永涼の持ち物一式を預かっています。
不明支給品の内訳は小梅分に0~1、涼の分にも0~1です。
【諸星きらり】
【装備:かわうぃー傘】
【所持品:基本支給品一式×1、不明支給品×1】
【状態:健康】
【思考・行動】
基本方針:つらいことや悲しいことに負けないくらいハピハピする。
0:たくみん☆おひゃーしゃー☆
1:肇ちゃんと一緒に、みんなをハピハピにする。
2:杏ちゃんが心配だにぃ……。どこにいるんだろ?
3:きらりん、もーっとおっきくなるよー☆
【藤原肇】
【装備:ライオットシールド】
【所持品:基本支給品一式×1、アルバム、折り畳み傘】
【状態:健康】
【思考・行動】
基本方針:誰も憎まない、自分以外の誰かを憎んでほしくない。
0:えーと、まずは拓海さんといっしょにいる人たちとお話を。
1:誰かを護る盾でありたい。
2:きらりさんと一緒に、みんなをハピハピにする。
3:双葉杏さんには警戒する。
4:一度自分を壊してでも、そのショックを受け止められる『器』となる。なってみせる。
【小関麗奈】
【装備:コルトパイソン(6/6)、コルトパイソン(6/6)、ガンベルト】
【所持品:基本支給品一式×1、ビニール傘】
【状態:健康】
【思考・行動】
基本方針:生き残る。プロデューサーにも死んでほしくない。
0:さすがアタシの作戦ね!
1:小春はアタシが守る。
【
古賀小春】
【装備:ヒョウくん、ヘッドライト付き作業用ヘルメット、ジャンプ傘】
【所持品:基本支給品一式×1】
【状態:健康】
【思考・行動】
基本方針:アイドルとして、間違った道を進むアイドルを止めたい。
0:すごいねぇ、麗奈ちゃん。
3:麗奈ちゃんが悪いことをしないように守る。
※着ている服(スカート)に血痕がついています。
最終更新:2014年02月11日 15:12