「『ハディラハシャラ』が羽化するぞォーーーッ!」
中東の名もなき村の片隅。
1ヶ月前に突如空から降ってきた幼竜「ハディラハシャラ」がその真の姿を露わにしようとしていた。
ハディラハシャラは蛹のような姿をした、一見無害なドラゴンだ。
特徴はといえばただひたすら強固な外皮だけであり、その外皮は龍気もほとんど帯びておらずその頑強さも相まって優秀な「龍素材」として高く取引されている。正当な手続きを踏めば国家公認で売買ができるほど安全かつ高価なそれは、何の特徴もないこの村にとって経済を潤すまたとないチャンスだった。
だが、ひとたび「羽化」すればあらゆる災厄の中でも最上位に位置する「Aランク」ドラゴンとして圧倒的な暴威を振るう魔竜と化す。
ハシャラファラーシャ。
それが「成虫」に与えられた名だ。
最大8mほどのワイバーン形態を持つドラゴンであり、蝶のような翼を持つ独特な見た目をした凶暴な種である。
その脅威は「炎」に集約される。
口から火炎放射を放ち、毒素を含む鱗粉は可燃性も内包しており、空気と十分に混ざり合ったそれは火炎放射を受けて「猛毒の粉塵爆発」を引き起こす。
強固な外皮はそのままに、無数の毒棘も生えており接近戦も危険。即効性のある鱗粉と棘の猛毒は速やかに体内を駆け巡り目眩と高熱、そして皮下出血を誘発し挑戦者を葬る。
有史以来度々姿を現し、この地方に破壊と繁栄をもたらしてきた存在。それが本種である。
この村は「ハディラハシャラ」が現れた際に速やかに近場の都市部に連絡をし、対応する巫女を呼んだ。ここまではよかった。
問題はこのハディラハシャラの外皮が記録の中でも屈指の強固さを誇る個体であることだった。
巫女も都市部が擁する手練の巫女であり、本来ならばセオリー通り歌と踊りで信仰を集めつつ神とのコンタクトを取り、束ねた巫力と神の権能でハディラハシャラの外皮を割り中身を祓う手筈だった。
上手くいかなかった。
予定通りの信仰は集まったし、神降ろしも行えた。
単純にこの個体の外皮の強固さが集まった巫女たちでどうにかなるレベルではなかった。それだけだった。
そうこうしているうちに「羽化」が始まり、現在に至る。というわけだ。
ああ、この村も終わりだ。
一人の若者が惨状を嘆く。
暴れ狂うハシャラファラーシャが撒き散らす毒鱗粉、火炎と爆炎が村を焼いていく。巫女たちは「もはや私たちではどうすることもできない」と言わんばかりに散り散りに逃げていく。
そんな巫女たちを若者は責める気持ちにはなれなかった。
自分たちはベストを尽くした。巫女も。これ以上の手を打つことはできなかった。神に祈る時節はとうに過ぎ、もはや諦めてドラゴンの餌食になるだけ。
彼が全てを投げ出そうとした時、それは現れた。
蒼白い閃光が彼方より飛来し、ハシャラファラーシャの身体を吹き飛ばす。
ハシャラファラーシャはもんどり打って転げ、地面に倒れ伏す。
なんだ。何が起きた。
確認する間も無く蒼閃はハシャラファラーシャを追撃し、強烈なスパークを引き起こしながら何かが裂ける音を響かせる。
ハシャラファラーシャはその稲光に怯えるように飛び上がり、距離を取る。閃光の主はようやく手を止め、ハシャラファラーシャを見上げる。
白いローブ。蒼い剣。
間違いない。
「中東の無軌道な対竜破壊兵器」。
砂漠の伝説。
ジブリールの巫女。
「ラフィーア」と呼ばれ畏れられる存在が、そこにいた。
ラフィーアは跳び上がり、ハシャラファラーシャに一閃を加える。
都市部の巫女たちが束になってかすり傷一つ負わせられなかった外皮が真っ二つに裂け、中の肉が見える。ハシャラファラーシャは耳障りな悲鳴をあげ、空中でバランスを崩す。
しかし彼もまたAランクドラゴン。姿勢を崩しながらも正確にラフィーアを捉え、毒鱗粉の嵐と火炎放射を同時にお見舞いする。
彼の必殺技、「猛毒の粉塵爆発」。灼滅の暴威がラフィーアに向かって放射状に広がりながら襲いかかる。
どう足掻いても躱しきれない広範囲を焼く攻撃に対して、ラフィーアは手を翳し──爆炎で迎え撃つ。
無数の小さな太陽が現れたかと思うほどの爆発。
空中での攻防でありながら、地面を揺るがすほどのエネルギーのぶつかり合い。ハシャラファラーシャの炎は「爆風消火」の要領であえなく吹き飛ばされ、鎮火する。
自慢の必殺技すら通用せず、ハシャラファラーシャの動揺が見て取れる。最後に頼れるのは己の肉体と言わんばかりにラフィーアに向かって突進を始めるが、もはやそれは誰の目にも単なる自殺行為に見てとれた。
「権能解放、『光の大海(バハル・アルヌール)』」
ラフィーアの宣言とともに、そこに光があった。
天を、地を、あまねくすべてを、光が覆っていく。
それは執行者による断罪。遠き「座」におわします光の主の意志の代行。
圧倒的な光の海嘯を目にして、突進を翻しもう恥も外聞もかなぐり捨てて背を向け逃げるハシャラファラーシャを、光が灼いていく。
光は満ち、収束し、そして……静寂が戻ってきた。
ハシャラファラーシャはどこにもいない。
誰かが、歓声をあげた。
それにつられて一人、また一人と天に向けて拳を突き上げ歓声をあげる。
若者も、巫女も、手を取り合って喜びの声をあげる。
村は焼けてしまったが、そんなことは命に比べれば些細なことだ。ハディラハシャラの外皮という財産も、もうどうでもいい。
誰も彼もが生きている喜びを噛み締めて一刻。村を救った英雄をもてなそうと気が回り始めた頃には、ラフィーアの姿もなくなっていた。
***
やはりというべきか、ハシャラファラーシャ「ごとき」では、相手にもならない。
中東の砂漠を飛び回り凶悪なドラゴンを狩る生活を始めて幾星霜。アラビア砂漠を根城にする強大なドラゴンを粗方討伐してしまい、暇になりかけていたところに降ってきたハディラハシャラを「わざわざ」ハシャラファラーシャになるまで放置してから狩ってみたものの、想定以下の強さしかなかった。
ラフィーアは逡巡する。
もう我の闘争本能を満足させられるドラゴンはこの地域にはいないのか。
先日会敵した男の姿が頭をよぎる。
一切の様子見もなく本気で斬りつけた一閃すら皮膚にうっすらとした傷跡しか残せなかったその防御力。
正拳突きひとつで次元すら揺るがすその攻撃力。
そしてジブリールの権能と互角に渡り合う一撃。
久々に血が騒いだ。
握った剣の手に汗が滲んだ。
彼が姿を消した時、心のどこかにほんの一欠片でも「命があってよかった」という感情が発生したことを覚えている。
あの男を倒す。
ここしばらく忘れていた「戦う意味」。
今のままでは、おそらく勝てない。
経験を積むべきだ。
だが、もはやこの土地には我と互角に渡り合えるドラゴンなどいない。
数刻考えを巡らせ、たどり着いた結論は「西」にあった。
エジプトだ。
彼の地には、他とは比較にならない化け物が跳梁跋扈するという。そこでなら、アラビア砂漠の根性なしどもとは別格の「経験」が積めるだろう。
ラフィーアは唯一の私物である小さな鏡と古びたコーランをポーチに仕舞い、西へと飛び立ったのだった。