エデンの蛇(前編) ◆b8v2QbKrCM
車窓を風景が流れていく。
西の窓には、人の営みを離れた自然の様相。
東の窓には、街の中心部ともいうべき地区。
ただ遠くから眺めているだけならば、実に平穏でありきたりな景色なのだろう。
バトルロワイアルなどという、卑下すべき酔狂の最中でさえなければ――
電車がE-2駅を離れて暫くの時間が経った。
後ろの方の車両に乗り込んだ
橘あすかと真紅は、特に会話を交わすこともせず、静かに電車に揺られていた。
E-2駅からC-4駅までは大した距離ではない。
徒歩ならともかく、電車を利用すれば数分程度で移動できる程度だ。
何かを語り合うには余りにも時間が短すぎる。
故に二人は、どちらから要請するわけでもなく、到着までの時間を個人的な思索に傾けていた。
橘あすかは思い返す。
真紅と出会ったときのことを。
そして、彼女と行動を共にしてきた数時間のことを。
当初、彼は彼女のことを庇護すべき対象であると確信していた。
彼は選び抜かれたHOLY部隊の一員であり、彼女は――少なくともあすかの認知する限り――力なき少女だ。
HOLYの存在意義から見ても、一般的な社会通念から見ても、橘あすかは真紅を護るべきである。
今もこの考えに誤りはないはずだ。
……。
……ないはずなのだ。
あすかは、真紅のツインテールに打たれた頬に手を触れた。
『……おれ達の、大事な……仲間だったんだあああああああああああああああ!!』
ルフィの叫びが頭の中でリフレインする。
まさに激昂というべき叫びであった。
しかしその一方で、真紅は普段通りに振る舞い、あまつさえルフィと自分の諍いを仲裁までしたのだ。
彼女もまた、仲間を――
桜田ジュンを喪っていたというのに。
真紅と桜田ジュンがどれほどの関係にあったのか、あすかには推し量ることもできない。
電車に乗る直前の沈んだ声色は、間違いなく"哀しみ"の発露だった。
ルフィには『仕方がない』と諭そうとしたあすかであったが、
ああして実際に感情を割り切った姿を目の当たりにすると、
理屈めいた言葉は何一つ思いつかず、ただ押し黙るしかできなかった。
不意に、あすかの脳裏に一つの"IF"が浮かび上がる。
それは今まで思いもしなかった、恐ろしい仮定であった。
(もし――キャミィもここに連れてこられていたら――あの放送で名前を呼ばれていたら――)
そのとき、自分は真紅のように感情を抑えることができるだろうか。
それとも、ルフィのように――
「あすか、どうしたの?」
はっと顔を上げるあすか。
ボックス席の向かいの座席から、真紅がこちらをじっと見上げていた。
あすかは片手で口元を押さえ、デイパックを片手におもむろに席を立った。
「ちょっと、どこに行くの」
「他の乗客がいないか見てくるんです。待っていて良いですよ」
咄嗟に適当な理屈を繕ったが、実際の理由は違う。
想像してしまったのだ。
目の届かぬ処で愛する恋人を失い、失意に打ちひしがれる己の姿を。
それはあすかにとって許容しがたいパラドックスだった。
劉鳳なき今、力ある者として正しく振舞わなければならない自分が、
こともあろうにルフィと同じような感情に身を委ねてしまうなど信じがたい。
だがキャミィへの愛と、彼女を喪う哀しみを否定することなど出来るはずがない。
その上に、真紅だ。
親しい相手を喪ってもなお凛と構える彼女の眼差しは、あらぬ想像に溺れたあすかにとって眩しすぎた。
ほんの数分でもいいから、彼女の傍から離れていたかったのだ。
そうすれば気分も変わって、負い目を感じることなく真紅と相対できるだろう。
手動のドアを開き、隣の車両に移る。
――人の気配がない。
どうやら空車のようだ。
あすかは足を止めず、電車の進行方向に向かって歩き続けた。
ボックス席と普通の座席が並存する車内はひどく閑散としている。
丹念に清掃されているのか、それとも殆ど使用されていないからか、内装は妙に小奇麗だ。
更に隣の車両。
――ここも空車。
ひょっとしたら乗客は自分と真紅の二人だけだったのかもしれない。
参加者は残り50人しかいないのだから、同行者でもない相手が乗り合わせる確率は低いのだろう。
そう考えながらも、あすかは次の車両に繋がるドアに手を掛けていた。
(もののついでだ。運転手の顔でも見ておこう)
勿論、機械で自動制御されている電車という可能性もある。
しかしそうだとしても、無駄足を踏んでほんの僅かの体力を浪費するだけだ。
足を運んでおいても損はない。
がらがらと重い音を立ててドアを開ける。
「闖入を許した覚えは無いぞ、雑種」
ここもまた無人だと思い込んでいたあすかの耳に人間の声が届いた。
あすかは一瞬ぽかんとして、すぐに声の主を探す。
いや、実際には探すまでもなかった。
あすかの立ち位置から数歩ばかりの距離、車両後方の乗降口の近くの席に、
見逃すはずもないほどに凄まじい存在感の男が腰を下ろしている。
目も眩まんばかりの黄金の鎧。
それに負けない色合いの、逆立った黄金の髪。
男は文字通り、掛け値なしに燦然と光り輝いていた。
「あ、あなた、今なんと……」
あすかは常軌を逸した男の容貌に気圧されながらも、大きく一歩踏み込んだ。
男の言葉が理解できない言語であったというわけではない。
男の言葉の内容が、己の耳を疑うほどに傲慢で高圧的であり、理解の範疇を越えていたのだ。
「二度も言わせるな。疾く、去ね」
黄金の男はあすかに一瞥もくれることなく、その存在を否定してのけた。
それだけでも言われた側としては充分憤慨に値することだが、
男の近くの座席で驚愕の表情を浮かべている少年の姿が、その情動を加速させた。
年齢は十代半ばほど。
着衣は軽装で、特に戦闘訓練を受けた様子もない。
典型的な一般人というやつだ。
そして、あすかの眼には少年が恐怖に震えているように見えたのだ。
見ず知らずの相手にも暴言を吐く傲岸不遜な男。
その傍で恐怖する少年。
実に分かりやすい『加害者』と『被害者』の構図であった。
「その子から離れろ! エタニティ――」
不善と看做した男に鉄槌を加えるべく、己のアルター能力を発動させんとする。
結論から言うと、少年――
前原圭一が恐れを抱いているという認識自体は間違いではなかった。
だがそれは、男に対する恐怖というよりはむしろ、
「――エイ――」
これからあすかが蒙るであろう、理不尽極まりない受難を思ってのことだった。
黄金の残光が視界を縦断する。
それを知覚した瞬間、あすかの腹部に鋭く重い激痛が叩き込まれた。
予想だにしなかった苦痛に思考が途切れる。
腹を蹴られたのだと理解したときには、あすかの身体は天井すれすれまで舞い上がっていた。
「がっ……!」
背中から床に落下する。
衝撃で呼吸が乱れ、肺が空気の不足を訴える。
だが、劉鳳ほどではないとはいえ、あすかもHOLYに抜擢されるほどの使い手である。
苦痛を堪えて即座に身を起こし、追撃に備えて身構える。
エタニティ・エイトは極めて高い万能性を誇るアルター能力だ。
さっきは不意を突かれたが、二度目はない。
あの男がどんな攻撃を繰り出そうとも必ず対処してみせる。
間髪入れずに肉弾攻撃に訴えるのか。
武器を用いて襲い掛かってくるのか。
警戒してこちらの出方を伺ってくるのか。
それとも未知の能力を発動して攻めかかるのか――
八つの珠を周囲に展開させ、幾通りものパターンをシミュレートする。
あすかは戦意に満ちた眼差しで、ゆっくり歩み来る男を睨んだ。
しかし男はこちらの車両に踏み込む手前で足を止め、
前後の車両を区切るドアに手を掛けると、ぴしゃりと閉めてしまった。
「……え?」
がたん、ごとん、と電車が揺れる。
それに合わせて吊革も揺れる。
静けさを取り戻した車両の中に、臨戦状態のあすか一人だけが残されていた。
「ちょ、ちょっと!」
余りにも壮絶な肩透かし。
あすかは慌ててドアを開け隣の車両に飛び込んだ。
黄金の男は数十秒前と同様に、悠然と座席に腰掛けていた。
「騒がしい。まだ罰せられたいのか」
あすかに対する暴力を、男は罰と言い切った。
罰? 何の?
唖然とするあすかを他所に、男の傲慢な物言いは止まらない。
「僥倖を噛み締めよ。我の宝具が十全ならば、貴様は今頃肉片だ」
口を動かしている間にも、男はあすかに視線を向けてこなかった。
どうやら男にとってはあの一撃で『罰を与えた』として全て完結しているらしく、
あすかに対する関心など消え失せてしまっているようだった。
「何だと……!」
ここまでぞんざいに扱われては、あすかでなくても反感を覚えて当然だろう。
真紅もあすかのことを下僕と言ってのけたり、生意気だと蹴りを入れたりしてきたが、
黄金の男が発揮する横暴さはそれとは似ても似つかない代物だ。
あの男は、こちらに関して一切の価値を認めていない。
そう直感できた。
「去ねと言っただろう。次は死罪だぞ」
男が傍らの短槍に手を掛ける。
明確な殺害宣言を受けても、あすかは物怖じなどしなかった。
このような輩がバトルロワイアルにおいて仲間となるはずがない。
後々の遺恨となる前にこの場で斃しておくべきだ。
「ストーップ!」
にわかに殺気立つ二人の間に、少年、前原圭一が割り込んだ。
驚くあすかの体を肩で押しやりながら、黄金の男に向けて裏返りかけた声で弁解の言葉を述べ始める。
「あああアーチャー様はそこで座っててくださいいっ!
この人は俺が話を付けてきますからっ!」
ふむ、と頷き、男は槍から手を離した。
そしてそれっきりあすかの存在を忘れたかのように、悠然と脚を組みなおす。
その態度に憤懣を募らせるあすかだったが、
自分を男から引き離そうと必死になっている少年の姿を見て、今は矛を収めることにした。
電車がC-4駅に着いたのは、それからすぐのことだった。
◇ ◇ ◇
ぷしゅう、と空気の抜けるような音がして、ホームに面した乗降口が自動的に開いていく。
アーチャーは槍を肩に担ぎ、床に落ちていたナニかを拾って、さっさと電車から降りてしまった。
「圭一よ。我は構内を見て回る。貴様は適当な場所で荷物の番をしていろ」
「は、はいっ!」
名指しで命令されて、反射的に返事をしてしまう。
ああ、いよいよパシリっぷりが板についてきた……。
そんな俺とアーチャーのやり取りを、良く分からない男が眉を顰めて睨んでいる。
誰もいないと思っていた後ろの車両から唐突に現れて、
アーチャーに喧嘩を売ってぶっ飛ばされた謎の男。
いくら事情を知らないとはいえ、命知らずにもほどがあるだろと思わざるを得ない。
「何なんですか、あの男は。傲慢にも程がある」
ホームに降りるなり、その人は俺に向かって詰め寄ってきた。
どうやらアーチャーよりもずっと真人間に近いらしい。
アーチャーの態度にしっかり怒って、俺の心配もしてくれている。
ただ――着ている服が、その、コスプレっぽいのが難点かもしれない。
真人間に『近い』と表現したのもそれが原因だ。
アーチャーくらい徹底的に現実離れした格好ならともかく、
こちらは妙なリアリティがあって、見ていて表現し辛い気持ちになってしまう。
エンブレムみたいなものが付いているし、好意的に考えればどこかの制服なんだろうけど……。
「君とあの男はどういう関係なんです?」
「いや、えっと……ちょっと前に出会って、後は成り行きで……」
「それならどうして、あんな奴の言う事を!」
コスプ……もとい、制服男さんは容赦なく俺を問い詰めてくる。
アーチャーに苛立ってるのは分かるけど、それを俺にぶつけないで欲しい。
完全に八つ当たりのとばっちりじゃないか。
――でも、この人の言いたいことは凄く分かる。
同じ車両に入ってきたというだけで蹴り飛ばされるなんて、絶対に想像もしていなかっただろう。
だけどアーチャーはそういう性格なんだ。
身勝手で、残酷で、冷徹で――
むしろアーチャーが言っていたように、殺されなかっただけラッキーなんじゃないだろうか。
脳裏にゾロさんの最後の姿が過ぎる。
……あれは惨かった……。
ゾロさんに非は(多分)一つもなかったのに、あの仕打ちだ。
俺には『最後の姿』が『最期の姿』にならないよう祈ることしかできない。
制服男さんはさっきから好き勝手言っているけど、もし本人に聞かれたら一大事だ。
ここにアーチャーがいないから良いようなものを……。
「……あ」
アーチャーは、ここにいない。
不意に、ひとつの考えが浮かんできた。
――今なら逃げ出せるんじゃないか?
(ダメだダメだ……!)
心の中で首を振って、危険な考えを振り払う。
確かにここで逃げ出せば、一時はアーチャーから離れられる。
でもその後はどうなる?
当然、猛烈に怒りを買うだろう。
俺のことを敵と看做すに決まっている。
最悪、俺を殺すために追いかけてくることだってあり得る。
もしもそうなったら、もう切嗣さんと合流するどころじゃない。
皆と再会することすら出来ずに、次の放送でしめやかに名前を呼ばれることになるだろう。
前原圭一、死亡確認。死因、金ぴかを怒らせた。
……最悪の展開だ。
「ええと……僕の話、聞いてますか?」
制服男さんが、何だか気の毒な人を見るような目でこちらを見ていた。
お願いだから、そんな目で俺を見ないでください。
今の状況が凄く情けないってことくらい、自分でもよく分かってるんです。
ホームの柱の根元に二人分の荷物を置いて、制服男さんに向き直ろうとしたとき――
「レディを待たせすぎよ、あすか」
――どこからか女の子の声がした。
不思議なことに、声は聞こえるのに姿が見えない。
「ちょっとトラブルに巻き込まれてたんですよ」
ひょっとして幻聴かと思ったけど、制服男さんは普通に対応している。
きょろきょろと辺りを見渡して、最後に、視線を下に落とす。
制服男さんの足元に、大きな人形が立っていた。
サイズは膝の高さより少し低いくらい。
国宝級のアンティークドールですと言われれば納得してしまうほど綺麗に作られていて、
大きささえ考えなければ、まるで生きている人間のようだ。
真紅の服を着たその人形は、当たり前のように上を向いて――当たり前のように喋りだした。
「この子は? 貴方の知り合いかしら?」
「列車の中で会ったばかりです。……そういえばまだ名乗っていませんでしたね」
あー、うん。喋った、な。人形が。
「僕は橘あす――」
「ええええええええええええええっ!」
口を突いて出たのは、絶叫だった。
◇ ◇ ◇
駅の構内を睥睨する。
どこかで従者の叫びが聞こえた以外に、目立った異常は見当たらない。
アーチャーはフンと鼻を鳴らし、柱に取り付けられた掲示を、鎧の指先でなぞった。
どんな駅にでもあるような、列車の発着時刻と行き先を表示したパネルだ。
列車というシステムの出現は、英雄王ギルガメッシュが生きた時代より二千年以上後。
一般的な発想ならば、太古の人間に時刻表などという概念が通じるはずがないと考えるかもしれない。
しかし、そのような発想は英霊となった英雄には一切当てはまらない。
ギルガメッシュに限らず、全ての英雄は英霊となった時点で時空を越えた知識を付与される。
現在過去未来、時間軸の如何なる時点に召喚されようとも、その時代に即した情報を得て召喚されるのだ。
故にアーチャーの場合、第四次聖杯戦争が開かれた一九九〇年代の知識を取得していることになる。
「一周に三十分……随分な鈍行だな」
アーチャーの思考の中では、会場がループしているということは既に確定事項となっていた。
彼に解説させるならば、窓の外の風景と地図を照らし合わせれば馬鹿でも分かる、といったところだろうか。
「まぁ、舞台の面積を考えれば、鈍行も止むなしか。
本来の速度を出すには少々狭すぎるだろう」
ギラーミンは、会場の具体的な広さ、エリアごとの面積などの情報は与えなかった。
地図にも縮尺すら書かれていない。
実に不親切な主催者だ。
しかしそれくらいのことならば、実際に歩いてみればある程度推測できる。
アーチャーが考えるに、一辺あたり1kmほど。
エリアの区切りとしては実に切りのいい数値だろう。
アーチャーは手にしていた地図を柱に叩きつけ、乱雑に広げた。
この地図は、アーチャーと圭一に支給されたものではない。
三刀流の剣士を放り出した後、廊下に落ちていたものを取得したのだ。
考えるまでもなく剣士の所有物であったのだろう。
しかしアーチャーはそれを当然のように己のモノとして扱っていた。
「おいそれと戦闘からの逃亡手段には使わせぬ、ということか」
この速度では命からがら飛び込んでも決定的な逃走にはならない。
移動に特化した品が相手に支給されていれば、簡単に追いつかれてしまう可能性もある。
むしろ移動先が限定される分、先回りをしてくれと言っているようなものだ。
分岐のない単純な経路で、尚且つ北向きの便しかないというのも実に嫌らしい。
「まぁ、歩く面倒が省けるだけ無為ではないな」
アーチャーは列車を会場内の移動手段として割り切ったようだ。
本来ならばこのような情報収集は他者にやらせておきたいところだったが、
今の従者には頭脳労働など期待できない。
地図を乱暴に丸め、鎧を鳴らしながら歩き出す。
駅という施設の性質上、有用な物品が存在しているとは思えない。
売店から食料を徴用するのが関の山だ。
もう暫く歩き回って誰にも会わなければ、次の目的地を目指すとしよう。
「……む?」
はたと足を止める。
構内の一角。
どこかの部屋と外部を仕切る壁に、大きな穴が開いていた。
あまり新しくない駅である。
そこかしこが老朽していてもおかしくはない。
だが、その穴は少々大きすぎた。
しかも大穴の周囲には砕かれたコンクリートの破片が散乱している。
自然に朽ちた結果ではなく、外部の要因による破壊。
まるで戦闘を繰り広げた直後のような。
「ほう、何も無いというわけではなかったか」
興味深そうに口の端を歪め、アーチャーは進行方向を、大穴の開いた壁――駅事務室へと変更した。
◇ ◇ ◇
「ローゼン、メイデン……はぁー」
圭一は床に胡坐を掻いたまま長く嘆息した。
魔法使いを名乗る男――
衛宮切嗣。
黄金の魔人――アーチャー。
三刀流の剣士――
ロロノア・ゾロ。
奇妙な制服の青年――橘あすか。
真夜中から今に至るまで、色々な常識外れの人物に会ってきた。
もうこれ以上おかしな相手に出会うことはないだろうと、根拠もなく思っていた。
しかし、やはり根拠のない思い込みだったらしい。
何故なら目の前にちょこんと座っている少女、いや、人形があっさりと上を行ってしまったのだから。
「本当に人間が作ったのかよ……」
「ええ。でもお父様以外には無理でしょうね」
真紅はどことなく誇らしそうに頷いた。
お父様とは彼女の製作者のことなのだろう。
「それにしても、ゾロという人がE-2駅まで列車に乗っていたなんて。
見事に入れ違いだったんですね」
「え、あ、まぁ……そういうことになる、かな」
制服男さんこと橘あすかの言葉に、圭一は乾いた笑いしか返せなかった。
真紅を目の当たりにしたパニックから圭一が立ち直った頃合を見計らって、
圭一とあすか、真紅の三人は各々の持つ情報を交換し合った。
あすか達は圭一に対し、自分達が合流しようとしている人々の名と、警戒すべき人物の情報を。
圭一は自分の仲間のことと、切嗣とゾロから得た情報を。
危険人物と安全な人物の知識を得られれば幸いという気持ちで行った情報交換だったが、
実際には想像以上に実りのある結果となっていた。
特に
蒼星石が殺し合いを拒むグループに属しているという情報は、真紅にとっては朗報だった。
その情報源がつい先ほど別れたばかりのルフィが信頼する人物であるという点も大きい。
出所の分からない怪情報とは訳が違うのだ。
「良かったですね、真紅。嬉しいならもっと喜んだほうがいいですよ」
「うるさいのだわ」
短い時間であったが、有用と思われる情報は大方交換し終わっている。
しかし――圭一は幾つかの情報を、あえて明かしていなかった。
まず、切嗣と映画館にて合流する手筈になっていたこと。
もしあすかに聞かせてしまったら、車内でアーチャーに突っ掛かった彼のことだ、
いよいよ力尽くで圭一をアーチャーから引き離そうとすることだろう。
それは避けたい。
とても避けたい。
そして、アーチャーがゾロを走行中の列車から叩き落したこと。
これもまた、アーチャーに対する敵愾心を過剰に煽ってしまうだろうから、上に同じ。
無論二人にはアーチャーを警戒するようにとは伝えてあるが、
自分がアーチャーから離れるときは奴の逆鱗に触れないようにしなければならないのだ。
……主に身の安全のために。
(こうして考えると、俺の周りの危険材料って全部アーチャーじゃねぇか?)
今更ながらに気付く圭一であった。
「さて、情報交換も終わったことですし――」
「しっ……」
立ち上がろうとするあすかを真紅が制する。
「静かに。何か聞こえるわ」
命令されるままに口を閉ざし、耳を澄ますあすかと圭一。
真紅の言うとおり、どこからか奇妙な物音が聞こえてきていた。
……めき。
…………ばき。
………………みしり。
何かが軋み、砕け、壊れるような音。
不穏な物音の発生源は、少し前にアーチャーが歩き去った方向のようだった。
「聞こえますね」
「嫌な予感しかしない……」
「……行ってみましょう」
各々の荷物を持ち、音の発生源へと向かっていく。
ホームから階段を一つ降り、そこから少しばかり移動した辺りの区域。
主に駅員が利用するため、乗客はあまり近寄らないそこは――既に戦場と化していた。
「衝撃のおおおぉぉぉォォォォっ! ファーストブリットオオオオオォォォ!!」
時刻表を掲示する柱が突如として爆散する。
轟音と共に辺りを包み込む粉塵。
吹き飛ばされたコンクリート片が榴弾となって壁に突き刺さり、更なる破壊を生み出していく。
鉄筋が折れ、壁掛けの時計が粉砕し、駅舎全体が揺れ動く。
巻き起こる破壊に圭一と真紅が困惑する横で、あすかだけがこの破壊の原因を正しく理解していた。
「今のは……まさか!」
辛うじて残る柱の根元に置かれた、ライトパープルの装甲に包まれた右脚。
青と白を基調としたHOLYの制服。
見間違えるはずがない。
最速のアルター『ラディカル・グッドスピード』を有するアルター使い、
ストレイト・クーガーの姿であった。
「クーガーさん!」
名を呼ぶあすかの声は、しかしクーガーに届かない。
それどころか、あすか達の存在に気付いているかどうかも怪しい。
「……もう一度言ってみろ」
殺意に近い怒りを込めた低い唸り。
それは決してあすかに向けられたものではない。
クーガーの怒りの矛先は、砕かれた柱の傍らに立つ黄金の男であった。
「耳が遠いのか? ならば何度でも言ってやろう。貴様の姿は哀れでならん。
己の責で人を死なせて悲しみ、己の知らぬ所で人に死なれ悲しみ、
そやつが死んで悲しむ者がいるといってはまた悲しむ。――実に醜く哀れだ」
そこで一旦言葉を切り、思い出したように言い捨てる。
「ああ、ミモリとかいう者も含めて、な」
クーガーの右脚が高速の凶器と化してアーチャーに繰り出される。
離れた場所にいる三人ですらまともに視認できなかったその一撃を、アーチャーは短槍の柄で防ぎ止めていた。
如何なる材質で製造されているのか、コンクリートを軽く砕くクーガーの蹴りを受けてもなお、
その槍は軋みひとつ上げることがなかった。
「俺のことはいい。だが、水守さんを侮辱することだけは許さねぇ」
「フン」
アーチャーは口元に笑みを浮かべ数歩分飛び退いた。
クーガーはそれを追わず、同様に後方へと距離を取る。
予想だにしない状況に、圭一達は言葉もなく立ち尽くすしかなかった。
これほどまでに怒り狂うクーガーを、あすかは知らない。
己に矛を向ける無礼に怒らないアーチャーは、圭一の知るアーチャーではない。
「我以外が人を殺す――そうして罪罰に迷う様を我は好まん。
そんなものは楽しくもないからな。
しかし苦しむものがいるならば、死を以って救うが王の慈悲というものだ」
アーチャーの振るった槍の切っ先が、立ち込める粉塵を切り裂き、クーガーへと向けられる。
『お前が殺したのか』
クーガーは首を振って答えた。
『殺したのは俺じゃあない。だが俺の責任だ』
更にクーガーは続けた。
アーチャーへの返答ではなく、誰に向けるでもない独白のように。
『俺は遅すぎた。俺がもっと速ければこいつは死ななかった。
それに――劉鳳もむざむざ死なせちまった。
畜生、水守さんにどう伝えればいいんだ……!』
クーガーはアーチャーに背を向けていた。
故に、そのときのアーチャーがどのような表情をしていたのかは分からない。
ただ一言、冷酷に投げかけられた。
『哀れだな、雑種』
それだけなら、まだいい。
クーガー自身も今の己が無様であることは自覚していたから。
だが、それ以上は許せない。
振り返るクーガーに、アーチャーは嘲笑にも似た眼差しで応じた。
『それとミモリとかいったな。名簿にはない名だが、ここに連れてこられなかった者か。
事情も分からず無力に嘆く様はさぞかし醜かろう』
クーガーの姿が掻き消える。
怒りのままに繰り出された直線的な蹴りを、アーチャーは軽く身を翻して回避した。
衝撃を帯びた大気が暴風となって圭一達にも襲い掛かる。
「うわっ!」
「きゃっ」
まずいな、とあすかは歯噛みした。
今のクーガーは完全に周囲が見えていない。
対するアーチャーに至っては、初めからこちらを気にするつもりもないだろう。
このまま突っ立っていては確実に巻き込まれてしまう。
「こっちです!」
あすかは真紅を抱え上げ、圭一の腕を掴んで駆け出した。
途中で自分のデイパックを落としてしまったが、拾っている暇は無い。
戦闘に巻き込まれておしゃかにならないことを祈るだけだ。
「金ピカ野郎……てめぇに水守さんの何が分かるっ!」
クーガーの脚部を覆うラディカル・グッドスピードの踵が床を打ち据える。
膝の力と反動の合力でクーガーは宙を舞い、更に天井を蹴る。
もはや駅舎という戦場は狭すぎた。
壁際をクーガーの残像が疾走し、充分な加速を得てアーチャーへと迫る。
巻き起こるは風ですらない。
それ自体が破壊力を持つ気体の障壁と化している。
すれ違う窓ガラスは粉砕され、限界を超えた床材が亀裂に覆われていく。
しかし圧倒的速度によって生じる莫大な運動エネルギーを前にしても、
アーチャーはその尊大な態度を崩すことがなかった。
迫り来るクーガーを気にも留めず、横へ数歩ほど移動する。
「何を言うか。雑種の思考など大差あるまい」
クーガーの脚が床を砕き、弾丸のように跳躍する。
「ヒール・アンド・トゥーーーッ!」
揃えた両足が黄金の鎧に突き刺さる。
槍による防御は間に合わず、アーチャーの身体は一直線に吹き飛んでいった。
狙い済ましたように事務室の壁の大穴へ吸い込まれ、
向かいの壁に衝突し、更なる爆音と破片を吐き散らす。
コンクリート片がぱらぱらと床に落ち、不意に静けさが訪れる。
クーガーは天井を仰ぎ、ふぅと息を吐いた。
「お、社長ぉ。いつの間に」
「さっきからいましたよ。ていうか、シャチョーってなんですか、シャチョーって。
名前を間違えるにしても、せめて名残のある間違え方をしてください」
あすかの反応が予想外だったのか、クーガーは眉を顰めた。
「いや、社長は社長だろ。それにHOLYの制服まで……変なモンでも食ったか?」
「そんなわけないでしょう。そっちこそ頭でも打ったんですか?」
「ん? ……んん?」
クーガーは納得がいかない様子で頭を掻いている。
少なくとも、一戦を終えて激昂は収まりをみせたらしい。
あすかは安堵し、落とした荷物を――
「あれ……?」
落としたはずのデイパックが見当たらない。
ずたずたになった床の上のどこにも、それらしい形が存在しないのだ。
いくらクーガーの疾走が速かったといえど、跡形もなく消滅してしまうのか?
辺りを見渡すあすかの耳に、がしゃり、と――重い金属音が響いた。
音に気付いたのはあすかだけではなかった。
クーガーも、圭一も、真紅も、全員が同じ方向に視線を向けている。
見間違える理由があるものか。
多少粉塵に塗れてはいるものの、あの黄金の立ち姿はアーチャー以外に有り得ない。
右肩に槍を乗せ、その先端にデイパックをぶら下げ、左手には一冊の本を持っている。
深紅の瞳に浮かぶ感情は、殺意か、あるいは。
「しぶとい野郎だな……」
「あ、それは僕のデイパック!」
叫ぶあすかを無視して槍を振るい、デイパックを床に放る。
「我が財をくすねておらんか検分したまでだ」
悪びれる様子もなくアーチャーは言う。
他人の荷物を勝手に漁ることも、彼にとっては当然の行いのようだ。
ちっ、とクーガーは舌打ちをした。
先程の感情的な大振りの攻撃が直撃したのは、防御できなかったからではないと悟ったのだ。
この金ピカ野郎は、自分との戦いの中において、あすかの荷物を検分することを優先した。
槍を使ってデイパックを手繰り寄せる一動作があったために対処が遅れ、結果として直撃したということだ。
初めから食らうつもりだったのか、デイパックを拾って尚且つ攻撃に対処するつもりだったのかは分からない。
だが、アーチャーにはクーガーと本気で戦うつもりがないことだけは、確かだった。
「……中身は期待外れだったがな」
アーチャーは左手の本を乱暴に開き、適当な頁を視界に晒す。
そしてそこに記述されていたらしい文言を呟き、無造作に投げ捨てた。
辞典ほどもあるその本は、表紙と裏表紙を上にして、滑るようにアーチャーとクーガーの間に落ちた。
表紙には苦悶の顔が、裏表紙には磔にされた美少年の姿が、それぞれ精緻な細工で象られている。
その表紙を装丁する皮の正体に、この場の何人が気付けただろうか。
「確か――キャスターめの宝具だったか。
穢らわしい肉塊だが、雑種の相手には相応しかろう」
言い終わるが早いか、瞬時に距離を詰めたクーガーの蹴りがアーチャーを襲う。
しかしその脚はアーチャーへ届くことはなく、異様な力によって押し留められた。
「な……に……?」
クーガーの脚には、人間の手首ほどもある触手が何本も巻きついていた。
青黒いソレは小さな顎のような吸盤に覆われ、それぞれが個別の生物のように蠢いている。
異形の蛇。
おぞましい烏賊。
そのいずれにも該当しない、不可解な存在。
壁の大穴から触手の本体が這いずり出てくる。
異臭を放つソレを見て、クーガーは巨大な蛸を想起した。
大きさは人間一人分。
胴も四肢も、それどころか頭もなく、無数の触手が絡み合う異形である。
あえて既存の生命に例えるならば、深海に潜む軟体生物が近いだろう。
アーチャーは汚物を見るような目で異形を一瞥すると、クーガーに向けて笑いかけた。
それはあまりにも邪悪で淫靡な、蛇のような笑みであった。
「雑種よ。あの下郎が言っていたことを思い出せ。
ありとあらゆる願いを叶えられ、死者を蘇らせることも容易いのだろう?
ならば貴様が勝ち残れば良いではないか。何もかもを手にかけて、な」
クーガーの眼が見開かれる。
エデンの園において、イヴを唆し人間を堕落させたのは、蛇――
異形が更に幾本もの触手を伸ばし、クーガーの身体を絡め取る。
アーチャーは全て語り尽くしたとばかりに踵を返した。
「行くぞ、圭一」
「えっ、あ……」
事態の異常さに呆然としていた圭一だったが、アーチャーに呼びかけられて、はっと我を取り戻した。
だが――どうするべきなんだ?
本当にこのままアーチャーに付いて行くべきなのか、それとも……
「圭一」
真紅の声は、穏やかだった。
「貴方の選びたい道を行きなさい。私やあすかのことは気にしなくていいの」
「真紅……ごめんっ!」
圭一は二人分のデイパックを担ぎ上げ、小さくなったアーチャーの背を追った。
途中で何度も振り返りながら、やがて真紅の視界からも消えた。
「ぐぉ……!」
クーガーは苦悶に顔を歪めた。
触手の力は予想以上に強く、全身の骨格を鈍く軋ませる。
四肢を厳重に束縛されているため、自慢の脚技で脱出を図ることもできない。
一本の触手がクーガーの首に巻きついた。
気管と頚動脈を同時に圧迫され、視界にじわりと闇が滲む。
「エタニティ・エイト!」
八つの宝珠が閃光となって異形を貫く。
甲高い断末魔が鼓膜を衝く。
硬い皮膚すら持たぬ異形の肉は容易く千切れ、悪臭を放つ肉片と化して床に崩れた。
「大丈夫ですか!」
「ああ……悪ぃな」
あすかは、触手から解放されて膝を突くクーガーに駆け寄った。
締め付けによるダメージこそ受けているが、命に関わる傷は負っていないようだ。
アーチャーは去り、異形は砕けた。
これで、C-4駅における戦いも終わりだろう。
「いいえ、まだ終わっていないわ」
再び空気が張り詰める。
ぐじゅり、みじゅり。
膿をかき混ぜるような、不快な音。
飛び散った肉塊が集まり、蠢き、膨らみ、無数の触手を吐き出した。
「再生かよ……」
アルターの再構成とは違う生物的な再生。
生理的な嫌悪感を煽る臭いと粘着性の音を立てながら、触手が再びクーガーへ襲い掛かった。
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最終更新:2012年12月02日 17:09