山漢戦争

山漢戦争

山漢戦争
大漢民国上陸部隊に夜襲をかける山城軍抜刀隊
日時
SE:3013年~(SE3015年2月25日から休戦)
場所
日本海 対馬 朝鮮半島
交戦戦力
山城帝国・大韓帝国 大漢民国
指揮官・指導者
幸仁天皇 金・李杯
大月 日向 美・周芹
木更津 陽月 金・上運
霧島 輝夜 李・蘭花
戦力
250,000(山城帝国軍) 120,000(大漢民国軍)
40,000(大漢民兵)
空母2隻 戦艦4隻 戦艦4隻
駆逐艦18隻 揚陸艦12隻 巡洋艦6隻 駆逐艦14隻
フリゲート12隻 輸送船8隻 コルベット8隻 輸送船3隻
損害
76,400名死傷(山城帝国軍) 93,000名死傷(大漢民国軍)
31,200名死傷(大漢民兵)

山漢戦争(やまかんせんそう)は、3013年(永保二年)から始まった、山城帝国大漢民国の間で行われている戦争である。

遠因・背景

富国強兵政策・大恐慌

山城帝国は、富国強兵政策を実施していたが、無理な開発・徴兵・生産などから近年領土不足や労働力不足が深刻となっており、琉城帝国政府を悩ませていた。
しかし、SE:3011年に突如発生した大恐慌で、山城帝国の工業力・経済は著しく衰退、大企業も6社が潰れ、軍でも装備・資金不足が深刻化、軍人数を95万人から50万人まで軍縮、職を求める人が溢れかえった。
そこで、政府は大漢民国へ侵攻し、領土・人的資源の確保をしようとしたが、軍部からの反対が相次ぎ、保留となった。

反大漢運動の活発化

SE:3013年1月23日、帝国海軍所属栄一〇式偵察機が大漢民国海軍駆逐艦、釜山から火器管制レーダーを照射された。政府は、その海域に偵察させる命令は出していないと否認、両国の関係は悪化した。
更に同年1月24~25日にかけ、大漢民国の工作員5名が発見され、工作員が破壊工作をしていたと自供、反大漢運動は活発化していった。

開戦

政府・国民の反大漢運動は活発化、失った経済・工業力を復帰させるため25日午後16時に政府は大漢民国に対し最後通牒を出した。
大漢民国はこれに応じず、反抗の構えを見せた。
そしてSE:3013年1月31日午後12時、山城帝国は大漢民国に対して宣戦を布告した。

対馬防衛戦

山城帝国は事前に対馬にメガフロートなどを駆使し、海上防衛線を構築。
大漢民国は、山城側の宣戦布告と同時に事前に用意しておいた上陸部隊・艦隊を対馬へ向け侵攻。
そして、SE:3014年2月1日午前2時10分頃、山城帝国海軍第三水雷戦隊と大漢民国海軍第四艦隊が交戦し、その直後の午前2時40分頃には山城帝国海軍第三戦隊と大漢民国海軍第二艦隊が交戦した。
そして5時12分、大漢民国陸軍第一上陸部隊が防衛線の隙を突き、対馬へ上陸を仕掛けたが山城帝国陸軍第一抜刀隊によって午前5時50分頃には殲滅された。
午後13時頃、大漢民国軍が再上陸を仕掛けようとしたが、山城帝国の第一航空隊・第二航空隊により揚陸艦12隻を損失、駆逐艦8隻を損失した。
2月2日未明、大漢民国民兵隊と思われる部隊が山城帝国海軍、第一戦隊に対し肉薄攻撃を仕掛け、戦艦一隻が中破、イージス艦一隻が着底大破、重巡洋艦3隻が大破、駆逐艦4隻が爆沈した。しかし、この攻撃の直後に対馬沖にて潜水艦隊を発見し、大漢民国は潜水艦8隻(全ての潜水艦)を喪失し、残骸から見つかった無線機により、かつ暗号の特定・分析に成功。この攻撃から2月5日までは航空攻撃はあったものの、海上・陸上攻撃は一切行われなかった。
2月5日、大漢民国は残存艦全てをつぎ込み、かつ暗号も新型のに変更し、対馬へ侵攻した。
戦艦3、巡洋艦3、駆逐艦8、コルベット4という大艦隊(大漢民国視点)であったが、釜山沖にて航空攻撃に会い、戦艦1、巡洋艦2、駆逐艦3、コルベット2隻を喪失。更にその1時間後には山城帝国海軍、第一艦隊と遭遇、交戦し、上陸部隊及び艦隊は全滅、大漢民国の対馬侵攻作戦は失敗となった。

釜山上陸作戦

山城帝国は、暗号解析により、2月5日の攻撃で大漢民国が保有するすべての艦艇が撃沈したことが判明、同月7日から釜山への侵攻を始めた。
2月7日午前7時頃、山城帝国海軍、第一艦隊を先頭に上陸艦隊を編成、10時頃に釜山沖へ到着、航空隊と戦闘となったが僅か15分程度で戦闘は終了、山城帝国側の損害は無かった。
11時20分には事前砲撃を開始した。
同日午後15時30分、山城帝国は釜山沖20Km地点から釜山港に向け進軍、上陸部隊は難なく上陸できた。
大漢民国の民兵隊や残存兵による抵抗はあったものの、同日午後20時には戦闘は終結し、釜山上陸作戦は山城帝国側の勝利となった。

ソウル包囲戦

山城帝国軍は、2月7日の釜山占領後、2月8日には昌原、10日には慶尚南道・慶尚北道、13日には南部全域、16日には中部全域を占領した。この時点で山城帝国の戦力は21万、大漢民国の正規軍戦力は3万程度と、山城帝国軍の圧倒的な戦力に大漢民国軍は翻弄されるだけであった。
そして18日未明、山城帝国軍は遂にソウルを包囲した。
19日午前4時に釜山へ2万5千人が侵攻したが、民兵のゲリラやBC兵器による攻撃もあり、午後18時には包囲線まで撤退した。
20日午前7時には4万人で再侵攻したが、これもまた失敗した。
22日午前12時、山城帝国軍部は地上戦力による敵兵力殲滅は不可能と考え、気化爆弾を搭載したTu-95Y爆撃機10機を佐世保空港から釜山へ発進させた。同時30分には釜山上空へ到着、32分に全爆弾を投下した。
23日午前6時、特殊戦術軍、1万人で侵攻したが、敵兵の姿は見つからず、午前8時にソウル国会議事堂を占拠、ソウルは陥落した。

停戦協定へ

山城帝国軍はソウルを包囲している間にも侵攻を続けたが、20日の侵攻にてサンテルン連邦共和国の義勇軍とみられる部隊と交戦し、山城帝国軍は大敗した。その後は拮抗状態となり、死傷者は増していき、ソウル侵攻の損害もあり、装備の生産に対して需要が多くなり、補給切れ状態となり石油に至っては各地で不足が深刻化して戦車などが行動不能にまで陥られた。
24日、餓死者が出始めたことにより、山城帝国は板門店にて大漢民国と休戦協定を結び、38度線を境に南は山城帝国の傀儡国の大韓帝国、北は大漢民国が治めることとなった。
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