マンティヴ戦争(ベトナムせんそう, 英:Mantiv War)とは、
マンティヴ分離後の2964年から、マンティヴで発生した戦争である。国家はイデオロギーによって分裂し、共産主義国家の
マンティヴ民主主義共和国(北マンティヴ)、資本主義の
マンティヴ共和国(南マンティヴ)が覇を争った。双方が諸外国の積極的支援を受けており、途中で介入をも招いた為、戦争は泥沼化した。
概要
二度の独立戦争
インドシナ合衆国の成立
大惨事世界大戦を経たインドシナ地域は、
統一インドシナ戦線の民族対立を超えた団結によって独立戦争を勝ち抜き、ヨーロッパの植民地支配から独立して2952年、
インドシナ合衆国を建国した。しかし建国後、民族間の対立が再浮上し、混乱がインドシナ合衆国を襲った。合衆国内の州同士は対立が絶えなかった。しかし独立時、各勢力に配慮して高度な分権化が行われており中央政府の権限は極めて小さく、問題の解決は不可能だった。
マンティヴ分離
この混乱に乗じ、
マンティヴ民族党はナショナリズムを煽り分離独立を提唱した。そして2958年、分離を成功し、
マンティヴ共和国が成立した(
マンティヴ分離)。この分離独立に他の州は続き、2959年にインドシナ合衆国は崩壊した。
イデオロギーの対立
民族党と共産党の"対立"
民族国家として再出発したマンティヴ共和国だったが、多数の異なるイデオロギーを持つ党派を抱えており、独立当初は連立政権を組むことがあったが、独立後の2963年頃、抗争が激化する。ブルジョワ層を支持基盤とするマンティヴ民族党と、農村部に支持されたマンティヴ共産党などの大政党は私兵団の保有を行っていた。またこれらには諸外国の、特に資本主義陣営と共産主義陣営の支援が著しく、再び対立の芽が生まれることになる。
共産党の拡大
共産党は農村部を中心に支持基盤を伸ばした。外国の共産主義組織や、コミンテルンとの積極的な連携を行い支援を受けた。
また、マンティヴ共産軍は、残留日本兵による軍事訓練を受けたことでも知られる。
マンティヴ戦争初期では、鹵獲した
大惨事世界大戦時の日本製装備が多く使用された。
勃発
最終更新:2019年02月05日 22:37