S.E.3014年インド洋
嵐に吹かれ、うねる波濤の上で、一隻の大型潜水艦が激しく動揺しながらも前進していた。
艦首は波に乗り上げ天を指したかと思うと、すぐさま下を向いて艦尾のスクリューが海中から姿をのぞかせる。定期哨戒だとしても、およそ潜水艦が洋上で航行する気候ではない。 そんな雨風に打たれるマストに掲げられた旗は二つ。クリパルティア帝国海軍の所属を示す軍艦旗と、救難活動を表す国際信号旗であった。
探照灯がゆっくりと旋回し、羅針艦橋では幾人かの水兵達が双眼鏡越しに洋上を観察しては、その状況をせわしなく伝声管で艦内に伝えてを繰り返すこと、すでに数時間が経過している。
「艦長!これ以上は艦が持ちません。一度海中退避した後、今一度水中聴音で探索をしましょう」
「そうだな...航海長!潜航用意」
黒地の雨合羽に身を包んだ青年の叫びに、それよりやや歳のいった男が渋い表情をしながらも頷き、そして号令を発する。
「了解しました、潜航用意!」
ギシギシと軋む艦内が、タラップを降りる音やハッチを封鎖する音で騒然となったのは一瞬のことで、機関室で洋上航行用のディーゼルエンジンが潜航用モーターに切り替わる頃にはすっかりと静まり返っていた。 そして洋上で点のようにポツンと浮かんでいた潜水艦は、荒れ狂う海とは反対に、そっと海中にその姿を没した。
そもそも何故この潜水艦がこのような無謀とも言える任務についているかといえば、事態は半日ほど前に遡る。インド洋にて大規模演習を行なっていた第一艦隊の大型艦艇複数が、上空を飛ぶ警戒機とリンクした水上レーダーに大型の影を一つ捉えたのだ。 距離は艦隊の北西400kmほどの遠方で、これを不審に思った司令部は演習を中止して航空母艦から偵察機を発進させる。機体が目標海域100km圏内に到達したところで微弱な救難信号を受信し、信号が目標から発信されているものだと確認した偵察機は、その旨を艦隊に打電して救助を要請した。 了承した艦隊司令部より近隣海域で諜報活動中の全潜水艦へ目標艦調査の暗号電報が送られると、目標に最も近かった彼の潜水艦 わだつみ が現場に急行したのであった。
その様な事情で派遣された伊号丙型潜水艦の わだつみ であったが、目標海域は不幸にも大時化で、とても他艦の捜索どころではなかったのだ。 海中に潜った わだつみ は海上の動揺が落ち着く深度20mで沈下を止め、前進しながら聴音に努める。
「ダメです。海上の大時化が雑音となって何も聞こえません」
聴音機の耳あてにジッと集中していた下士官が眉間にしわを寄せて首を振る。
「目標艦は近海20km以内に必ずいる。もう一度試してくれ」
「了解しました」
海図睨んだまま動かない艦長が短く言い切ると、下士官も一言返事をした後に再び海の音に集中した。
ーーー救難信号を発する船がこの嵐に耐えられるだろうか?
艦長の頭の中にはそんな想いが立ち込めていた。加えて、部下を鼓舞するために強い言葉を使ったものの、彼自身にも遭難艦が近くにいるという確証はほぼ無かったのだ。 頼みの救難信号もしばらく受信できていない。
ーーーもしも既に沈んでいたら?
そんな不安が脳裏を過りそうになる。 それを、「仮に沈んだとしても、漂流物や漏れ出た燃料のシミ一つ発見できない事もないだろう」と、自身の思考が停止するのを防ぎ黙々と電波の最終発信地や海洋データ、天候による潮流の変化を脳内でグルグルと計算し続けること1時間が過ぎ、洋上でも嵐が移動した頃合いで浮上準備に取り掛かっていたその時、あれきり石の様に動かなくなっていた聴音員の下士官が顔を上げた。
「機関音探知。方位240度方向、距離8km」
その言葉に艦長はパッと表情を明るくするなり指示を下す。
「アップトリム5度!潜望鏡深度まで浮上して確認する」
「了解!アップトリム5度、潜望鏡深度急げ!!」
ゆっくりと浮上を始めた海中の艦は深度10m程のところまで浮き上がって停止し、海面まで潜望鏡を伸ばして外の様子を確認する。
「灯りは・・・ないな。取り敢えず燃えてるってことは無さそうだ。これ以上は暗くてわからん、浮上して再調査だ。ーーーよし、浮上用意!洋上航行に移れ。航海長は浮上した後に針路を修正!」
「浮上用ー意!」
「針路修正了解!」
波の落ち着いた漆黒の洋上に白波を立てて浮かび上がった わだつみ は、目標へ向けて針路を変更しつつ、探照灯が目標海域を照らした。
「洋上に艦発見!9時方向距離7km」
「直ちに所属と現在状況確認の発光信号を送れ!国際救難活動旗掲揚!それと、念のために砲と機銃は全方位警戒、白兵戦の準備も進めろ。どんな奴らが乗っているか分からん。・・・が、返答が来るまでは銃口一つ向けるな」
『コチラ クリパルティア帝国海軍所属 潜水艦ワダツミ 貴艦ノ救難要請ヲ傍受セリ 状況ハ如何ナルヤ』
探照灯の光をモールス信号に変換した発光信号が、パシャパシャと音を立ててメッセージが送られる裏では着々と臨戦態勢が進められる。15cm単装砲に弾と装薬が込められ、25mm三連機銃はマガジンがセットされた。 艦内では白兵要員が拳銃の点検とマグポーチの装着を進める。
「返事は?」
「まだ何もありません。無視しているのか、それとも返信する手段がないのかは不明です」
「再度遅れ!」
「再度送ります」
同文のメッセージが送られてしばらくの後、巡洋艦からの返信が返ってくる。
『神聖大クリーパー帝国海軍所属 巡洋艦リシテル 救難活動ニ感謝スル 本艦ノ救難ハ無用 タダシ要人トソノ護衛2名ノ受入ヲ 求ム』
「ーーー以上が返信です」
「要人救護か...」
発光信号の内容を聞いた艦長は目をギラつかせて口をつぐんだ。
単なる難破船からの要人救助であれば問題はない。むしろ国家の名誉のために喜んで引き受けている事だろう。だが彼の国の巡洋艦は幾つかの砲が破損し、船体や装甲にも生々しい砲戦の傷痕が色濃く残っている。そんな艦からの要人救護では訳が違った。
彼にとって神聖クリーパー帝国という国は地図上でしか知らない国であり、内情については毛ほどの知識も無かったものの、交戦と敗走の痕は明確だった。不用意に手を貸せば相手国の動乱に巻き込まれて戦争に発展してしまう可能性がある。 しかも都合の悪いことに幾たびか救いの手を伸ばしてしまっているため、今更その手を一方的に引っ込めるのも勝手が悪い。
ーーー司令部のお人好し共め!!
艦長は心の中で、安易に救難を決定した艦隊司令部を呪いながら諦めに近いため息を溢す。
「詰みだな。・・・返信用意!内容はーーー」
『我 貴艦ノ申出ヲ受入レリ 接舷許可ヲ求ム』
この男ほど、後の戦争を一早く予期して腹を括った者は、この時の帝国海軍には存在していなかっただろう。 前大戦から80年間の月日で戦争というものを体験してこなかった軍部は、その爆弾が如何に敏感で飛び火しやすいかの実感を忘れていた。
『了解シタ 右舷ヘノ接舷ヲ 求ム』
返信を受けた潜水艦 わだつみ は、ゆるゆると微速で巡洋艦に近づくと手練れの技で接舷作業を進める。 タグボート無しでの洋上接舷作業は至難の技であり、ギリギリまで接近した潜水艦へ巡洋艦から舫(もやい)が放たれると後は人力での作業となる。数人がかりでロープの固定を終えると、緩衝材のゴムタイヤ越しに重たい振動が両艦を揺さぶった。
乾舷の高低差から、巡洋艦のラッタルが降りて潜水艦の最上甲板にかけ橋がかかった。
「機関課及び、白兵隊以外は登舷礼用意」
号令が出ると瞬く間に数十名の乗組員が甲板上に現れて巡洋艦へ向けて敬礼を行う。 相手艦からもただちに応答があり、張り詰めた空気と騒がしい波風の中で幾つかの踵が木甲板と金属の薄板を叩く音だけがいやに響く。 やがて潜水艦 わだつみ の艦上で艦長と対面した。
先頭に立つ男は軍服姿で、短い金髪と鋭い碧眼が特長的な40代前後の壮年の紳士だった。そのすぐ脇には、鞄を抱えて伏し目がちながらもピリピリとした緊張感の伝わる若いメイドが控えている。 そしてその背後には、ツバの広い優美な帽子で顔を隠した女性が黙って様子を伺っていた。 艦長は改めて敬礼を行い、自己紹介をする。
「お初にお目にかかります。私は、クリパルティア帝国海軍サワラ少佐と申します。困難な旅路でしたでしょうが、以後は我が艦と我が国が責任をもって保護させていただきます」
「救難活動に感謝致します、サワラ殿。神聖クリーパー帝国近衛隊長を務めるカラサ・ルシフォードと、皇女付きメイドのセレナ・シュメールです」
その国の礼なのか、両名は一風変わったお辞儀をすると、二手に分かれて片膝をついて件の貴人に道を開ける。
「そしてこちらの御方こそが我が帝国の第二皇女、リースル・クリパティーン殿下にあらせられます」
サワラは最敬礼を行いながらも、自分が...否、自国が外れクジを引いたことを痛感する。
「面を上げてくださいサワラ殿」
透き通るような美声に従い顔を上げると、帽子に隠れていた素顔が露わになっている。 白磁の様な肌と月光のごとき金髪は付き人の2人と同じだが、瞳の色だけはエメラルドのようなグリーンであった。
「まずは感謝を。海原でさまよう我々を救っていただき、誠にありがとうございます」
皇女のカーテシーに倣い、巡洋艦の乗組員を含む全員が自分たちの小さな潜水艦に敬礼をおこなうので、若い水兵などは緊張した様な誇らしい様な表情で困惑している。
「どうぞお構いなきよう。我等は国際法に則り、人道的な活動を行ったまでです。皇女殿下ほどのスペシャルゲストと知っていればこの様な小舟ではなく、巡洋艦や大戦艦でお迎えに上がったのですが」
「ふふっ、面白い艦長さんですね。でも私、大きな船にはよく乗りますが、潜水艦というものは初めてなのです。少しだけワクワクしますわ」
「あまり乗り心地のよろしいものでもございませんが、立ち話も失礼ですので艦内へどうぞ。内側から鍵のかかる艦長室を手配させていただきます」
「御心遣いに感謝いたします」
隣の副長に「案内しろ」と耳打ちをし、了解した彼はルームメイキングのため、更に2人の水兵を先に向かわせた。
「それではどうぞこちらへ。ラッタルが急ですので、お足元にご注意ください」
「ありがとうございます」
皇女とメイドを先に艦内へ下ろし、副長がその後に続く。「総員配置に付け」の号令がかかると同時に甲板上では一斉に動きが蘇り、乗組員たちは瞬く間に自分の持ち場へと帰り潜水艦の最上甲板には艦長と近衛隊長だけが残された。 どちらの表情も真剣で、サワラからも先ほどのような温厚な顔つきは消えている。
「不躾で申し訳ないが、貴国の現状についてお教え願おう。もはや我等は運命共同体だ」
「気の早い少佐殿だ・・・が、そうだな。貴国にとっても重要な案件だろう。端的に述べるならば、クーデターが起こったのだ。現政権に対して革命軍閥が発起し、それに呼応した中央軍と地方軍を掌握して帝都と皇城を包囲した。我々は地方行幸中であった皇女殿下を御召艦ごと遠洋に退避させたが、レーダー圏を脱する前に反乱軍の水上部隊と航空隊に襲われてな。数隻いた随伴艦と皇女旗を揚げた囮艦は瞬く間に水底へと消えてしまった」
「お悔やみ、申し上げる」
絞り出すように語るカラサの沈んだ声色と、会話が聞こえたのであろう巡洋艦の水兵たちの嗚咽と食いしばりが悲壮感を生む。その一方で、サワラは同情すると同時に一先ずひと心地つく思いであった。
ーーー皇女旗の揚る艦が沈められたということは、当然かの皇女は死んだとしているだろう。であれば、内乱が落ち着いた後に我が国と揉め事になる可能性は低いか。
「反乱軍の規模と、貴艦の今後はどのようにするのか?」
「詳しくは語れないが、相手は数十万の大軍勢。勝手は知れているつもりだが、故にその分恐ろしい。しかし、我々は陛下に心身を捧げた者たち、引き返して皇城と陛下の奪還に全力で当たるつもりだ」
「・・・お互いに軍人だ。十二分に理解しているだろうが、挺身...いや、死ぬだけが忠義ではない。援軍を募るなり、他にも策は有るはずだ」
あえて直接的な言い回しをしたサワラの提案に、彼は静かに首を横に振る。
「我々を襲った航空機の中には、近衛隊の所属機もいくらか見当たった。今から向かったところで、我が主君が無事だとは思えない。陛下はこの反乱で痛く御心労をかけられただろう。最期の供くらい、忠臣が側に居ないで如何するか」
「それは逃げだ。残酷だが、軍人ならば真に大切に想うのは主君ではなく、国家の存亡でーーー」
「私は陛下の御身に忠節を誓った近衛であって、報国を是とする軍人ではない。故に私は行かねばならないのだ」
諭す彼の忠告を右手で制すと、カラサは瞳を覗き込むような深い視線と柔らかな口調でそう語る。その様子を見て、この近衛隊長の確固たる信念をサワラもまた悟った。 そして、これ以上の言葉はその覚悟に対して失礼だとも思った。
「残念だ。貴官は我が国では誉れとされる類の人格者だった。是非とも、我が主君に謁見してもらいたかったよ」
「そう言う貴官は軍人らしくないお人好しだ。貴官のような者が我が国に後数人も居れば、おそらく未来も異なったのだろうな」
どちらからともなく差し出された手を握って固く握手を交わすと、両者は敬礼の後に踵を返した。
「ラッタル収納用意!」
「接舷解除用意!」
巡洋艦のラッタルが折り畳まれて収納される。舫が放たれて両艦が自由になり、先端に当て布のされた角材で巡洋艦の艦腹を押すと、潜水艦 わだつみ と巡洋艦 リシテル の距離がゆっくりと開き始めた。
巡洋艦から響き渡る決別の汽笛を聞き届けると、潜水艦はゆっくりその姿を海中に没して本隊の停泊する泊地へと舵を切った。
しばらくの後、巡洋艦 リシテル が機関を再始動させ、動き出したのは更に半日の後。 その後、忠義の兵たちがどうなったのか。それを知る者はクリパルティアには1人として居なかった。
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