華の悲鳴 ~壊れた硝子の心~
【19:00】
小豆色の大きなリボンが風に揺れている。
薄紅色の小さなリボンが風と踊っている。
森林地帯から、西に抜けることしばし。
島の中央部から南西部にかけて横たわる小山から、
北西の耕作地帯へと流れている小川がある。
№20:清浦刹那と№15:神坂春姫はそのほとりで放送を聞いた。
放送では上条沙耶の名が読み上げられた。
春姫はそれで涙した。
大体、一時間前のことだ。
春姫は今なお泣き続けている。
彼女の隣に座り川面を眺める刹那は無表情。
しかし、その胸中には焦りがある。
(私は伊藤を探さなくちゃいけないのに)
伊藤誠という少年は優柔不断で移り気、かつ無節操、その上無責任。
さらには、状況にたやすく流される悪癖もある。
分かりやすく言えばダメ人間。
或いは最低男。
にもかかわらず、彼は、思春期の少女を惹きつけて止まぬ何かを持っている。
フェロモンともカリスマともつかぬ、妖しい魅力が。
それを知る刹那だからこそ抱いている確信がある。
(伊藤は今、女と一緒にいる)
その女が西園寺世界であればそれでよい。
自分の出る幕は既に無い。
しかし、そこに例えば桂言葉がいるとしたら。
加藤乙女がいるとしたら。
或いは、いまだ知らぬ誰かが居たとしたら。
(伊藤がその女に靡く前に。その女が伊藤に惹かれる前に。
伊藤を押さえておかないと、ダメ)
そのうえ死と隣り合わせの吊橋効果も加われば、男女の仲は嫌が応にも加速する。
こんなところで長々と休憩している場合では、ないのだ。
(……春姫、置いていこうか)
刹那がその選択肢の検討を現実的に始めた頃、漸く春姫の涙が止まった。
「許せないよ―――」
腫れた瞼を小川で漱ぎながら春姫が刹那に呟く。
視線を揺れる水面に預けたまま刹那が春姫に問いかける。
「上条を殺した人が?」
春姫の正義感は強い。
幼き日に出会った【あこがれの少年】の背を追いかけ、正しき道を邁進するのが彼女だ。
故に、正しき怒りは問題の根源へと向けられていた。
「違う。あの神父が。このゲームが!」
「……」
刹那は春姫の怒りに己との隔意を感じ取った。
春姫の怒りは義憤と呼ばれるもので、大儀に通じるものだった。
だが、刹那はそんな大それたことは考えてもいない。
割り切っている。
(いずれ自分は死ぬ。世界も死ぬ。伊藤も死ぬ。
私が見知っている人たちは、近いうちに全滅する)
悲観ではない。諦観だ。
現状と事実を彼女なりに評価した末の結論だ。
その避け得ない死までの時間をどう過ごすか。
刹那が考えているのは、それだけだ。
春姫の純度の高い感情を眩しく思う反面、決してその光に手を伸ばそうとは思わない。
清浦刹那は、世間に対してそうした距離感で生きてきた少女なのだ。
「勇ましいことだな」
刹那の内面に浮かんだ春姫への評価は、果たして他者の口から告げられた。
川面に映る夕陽の赤。
その赤よりなお鮮烈な赤の装束を鎧った精悍な男が、小川の向こうにいた。
剣製の英霊・アーチャー。
川幅、目測にて約4メートル。
彼は助走することなくその距離を飛び越える。
刹那と春姫に動揺が走る。
まず二呼吸。
清浦刹那が左右の手に黒鍵を構える。
さらに二呼吸。
春姫もまたFNハイパワーの照準を接近者に合わせた。
「あなたはゲームに乗っている? 乗っていない?」
警戒心を漲らせ、刹那は近づく男に問いを発する。
真剣な問いだった。
対する男の返答は、まず、鼻で笑うことから始まった。
次いで、質問に質問を返した。
「例えば俺が乗っていないと答えれば、お前たちは信じるのか?」
歩み来る男の態度にはあからさまな余裕がある。
刹那と春姫の必死さを弄んでいる。
「例えば俺が乗っていると答えれば、お前たちはかかってくるのか?」
刹那は答えない。春姫も答えない。その余力が無い。
歩み来男の挙動を、言葉を、全神経で以って捉えんとしている。
「ふん。では、あえてこう答えてみようか。
俺はゲームに乗っている。積極的にな」
刹那の判断は名が示す通り、瞬間だった。
「春姫、撃って!」
自らも黒鍵を握り直し、盟友に指示を出した。
対する春姫の動きは、刹那の意図に反したものだった。
「だめだよ刹那ちゃん。この人には殺意、ないから」
春姫は【式守の秘法】を巡る争いで幾分かの修羅場は潜っている。
そこで鍛えた殺気・敵意への感応力は一廉の戦士に比肩し得る。
その感応力を以ってして、春姫は刹那とは別の判断を下したのだ。
目の前の不敵な青年からは害意が感じられないのだから。
―――感じられなかった、のだが。
真紅の鎧の男は、残り3歩の距離を瞬き1度の間に詰めた。
詰めた上で、腰に差した2本の短剣を其々の手に握り、それを突き出した。
刹那の喉元には陽剣・干将。
春姫の喉元には陰剣・莫耶。
ぎらつく切っ先が皮一枚傷つけることなく、
ピタリと喉笛に接地されていた。
殺気は、行動に遅れてやってきた。
男の宣言と共に。
「これでおまえたちは1回、死んだ」
刹那と春姫の呼吸が止まる。
同時に、2人の耳から全ての音が消えた。
聞こえるのは目の前の真紅の鎧の男の声ばかり。
「で、今度は俺からの質問だ。タカミネコユキを知っているか?」
「……高峰先輩?」
反応を返したのは春姫だった。
返したものの、春姫の頭の中では、この恐ろしい男と小雪とがまるで結びつかない。
「知っているのか。では、名を聞こう」
「神坂春姫」
雌雄一対の剣を再び腰に戻し、噴出していた殺気を器用に収め。
真紅の鎧の男・アーチャーはにこやかに、言った。
「そうか、お前がカミサカか」
と、同時に。
消えていたはずの小川のせせらぎと枝葉のざわめきが、刹那と春姫の耳に蘇る。
空気すら軽くなったような感覚。
それほどの緊張を2人は強いられていたのだ。
それほどの解放を2人は味わったのだ。
「お前は?」
「……」
刹那は、ようやく震えることを思い出した体を自らの腕で強く抱きしめる。
彼女の胸に、アーチャーに対する恐怖や怒りなど湧いてこなかった。
麻痺だ。
身体も、心も、一切が、凍結していた。
「名前を聞いているのだが?」
「き、清浦…… 刹那……」
「そうか、お前は無関係か」
無関係―――
男のこの評価を喜ぶべきなのか、恐れるべきなのか、刹那には分からない。
脳の端がちりりと鳴ったような気もするが、その微かな予兆を追求することより、
目の前の男と春姫とのやりとりを聞き漏らさぬことの方が重要なのだと、
刹那は考えた。
「そのコユキからカミサカへの伝言だ。
お前らを救う用意がある。戦いを避けて、安全なところに隠れていろ。
……以上だ」
「高峰先輩は無事なのね? 今どこにいるの?」
「息災なのは伝わるが、場所まではわからんな」
刹那は違和感を覚える。
春姫の声が徐々に弾んできていることに。
春姫の顔が喜色に染まっていることに。
(春姫は男を見ていない――― その後ろのコユキという人を見てる)
確かに、表面上は和やかではある。
男は武器を収めている。
あわよくば、生きて帰れる可能性すら示唆されている。
だが、刹那の子羊の本能は警告を発していた。
この恐ろしい男と関わってはならないと。
一刻も早く、ここから離れるべきだと。
「よかったね、春姫。
でも私は伊藤を探さないといけないから……
ここでばいばいだね」
煩悶の末、刹那は別れの言葉を口にした。
探すことと隠れることは、両立しない。
理屈ではある。
しかし、今の彼女にとっては。
一刻も早くこの場を離れる為の理由としての意味合いの方が大きかった。
「じゃあね」
春姫は呆然とする春姫にピースサインを決め、無表情のまま背を向ける。
その手を、春姫が強く握った。
「待って刹那ちゃん。私も行く」
「でも、あなたは―――」
「でもは無し。だって約束したでしょ?
状況が変わったからって刹那ちゃんを裏切るようなこと、私はできない」
刹那にとって、それは意外な申し出だった。
あるいは春姫が自分を引きとめるかもしれないとは思っていた。
春姫の態度や言葉の端々に、自分に対する友情めいた感情を感じ取っていたからだ。
だが、あえて庇護を捨ててまでついて来ようとは露とも思わなかった。
「私たちさ、刹那、春姫の仲じゃない!」
「春姫……」
死地に咲かんとする可憐な友情の花、一輪。
その花を愛でるは愚か、蕾のままに手折ろうとする無粋な手が伸びる。
「それは駄目だなカミサカ。コユキの言う通り隠れてもらわなくては」
刹那の喉元には陽剣・干将。
春姫の喉元には陰剣・莫耶。
ぎらつく切っ先が皮一枚傷つけることなく、
ピタリと喉笛に接地されていた。
「さて、これで2回死んだ訳だが」
アーチャーはやれやれ、と大仰な溜息をつきながら両の手の短刀を腰に戻した。
その間、彼は一度たりとも刹那の方を見なかった。
意識すら彼女に割かなかった。
春姫の瞳を見つめ、春姫の表情を探り、春姫の呼吸を読んでいた。
語る言葉もまた、春姫に対してのみ発せられた。
「殺人者は俺のように親切ではないぞ。
あのまま刃をもう少し前に出して、それで終わりだ。
コユキはな、お前をそのような目に合わせたくないんだ。
下手に動きまわるより隠れていたほうが安全なんだ」
「高峰先輩の気持ちはとっても嬉しいけど、友達は裏切れないよ」
「お前の意思など関係ない。コユキの意思のみが重要だ」
「高峰先輩ならわかってくれるよ」
「俺はお前ほどコユキという女を知らんからな。
付き合いの長いお前がそういうのであれば、きっとそうなのだろう」
刹那は恐怖に痺れる頭で漠然と感じている。
今の刃は、一度目の刃よりも不吉な輝きを増していたと。
「だがダメだ。
マスターの指示で動いている以上、それを否定する別命が与えられん限りはな。
例えコユキがお前の行動を認めるのだとしても、
それを本人の口から直接聞かないことには、意味が無い」
「契約と束縛…… あなたは、悪魔かなにかなの?」
「まあ、似たようなものか。サーヴァントという。実体化した怨霊の一種だ」
引かぬアーチャーに、引かぬ春姫。
刹那の悪い予感は確信に格上げされた。
(こいつは言った。私は【無関係】と。
そう、こいつが、その背後のコユキさんが救おうとしているのは春姫だけ。
だから私は【無関係】。
でも、春姫がこいつの救いの手を払うなら……
払う理由が私にあるのなら……
もう、私は【無関係】なんかじゃない。
こいつにとっての私は、春姫を救うことを妨げる【邪魔者】だ)
刹那は、そこまで分かっているにも関わらず、逃走しなかった。
不用意な動きがアーチャーを刺激するという判断からではない。
麻痺だ。
恐怖に固まった体が、随意に動かせないのだ。
逃げるに逃げられぬだけだ。
そんな彼女に出来ることは、春姫を説得することだけだった。
「もう…… いいから……
春姫の気持ちはよくわかったから……
コユキさんの気持ちを汲んであげて……
私なら大丈夫……
一人で大丈夫……」
刹那は涙声で春姫に離別の言葉を繰り返す。
引きつった頬の脇にあるピースサインは震えている。
「お前は物分りが良いな。
キヨウラがカミサカだったら話は早いのだが、まったく世の中はままならん」
「でも……」
春姫の反論を封じるべく、アーチャーが動く。
気付けば三度。
刹那の喉元には陽剣・干将。
春姫の喉元には陰剣・莫耶。
ぎらつく切っ先が皮一枚傷つけることなく、
ピタリと喉笛に接地されていた。
「これで3回死んだ。
お前のめでたい頭は、一体何度死んだら理解できるんだ?」
アーチャーは三度、両手の愛刀を腰に提げる。
額に片手をやり、左右に頭を振って、春姫の聞き分けの無さの程をアピールする。
刹那は男の演技懸かった挙動を茫と眺めながら、聞きかじりの雑学を思い浮かべていた。
羊という動物は生命の危機を感じると、肉体と思考を麻痺させる機能があるという。
生存の可能性を放棄することで苦しみを軽減させる、諦観の境地。
それが事実なのか虚構の喩え話なのかは判然としないが―――
(私みたいね……)
なぜなら刹那は、諦めたから。
自分が、ここから、この男の手から、逃れることを。
なぜなら刹那は、受け入れたから。
自分が、ここで、この男に、殺されることを。
春姫は察することなく、懲りることなく。
未だに真正面から己の義理と人情を押し通そうとしている。
「でも!私はそれが大事なんだって思うの!」
信念を持つ人間は、強い。
他者の言葉に揺れぬから。
裏を返せば。
他者を省みないから。
だから春姫は。
アーチャーの警告の真の意味を理解することなく。
刹那の離別の申し出の裏にある意図に気付くことなく。
ここまで、己の信念を貫いてしまった。
「止むを得ない、か」
アーチャーは失望の溜息と共に、腰の得物を握る。
刹那の喉元には陽剣・干将。
春姫の喉元には陰剣・莫耶。
ぎらつく切っ先が皮一枚傷つけることなく、
ピタリと喉笛に接地されていた。
その干将が。
干将のみが。
つ…… と、横滑った。
(熱っ)
刹那はそう声に出したつもりだった。
しかし唇から言葉は発せられず、代わりに笛のような音が聞こえてきた。
ひぃるるるる……
その音は干将に切り裂かれた刹那の喉笛から発せられていた。
(あ、)
刹那の生は諦観と共にあった。
刹那の死もまた諦観と共にあった。
(やっぱり、ね―――)
清浦刹那の意識は二度と浮上することのない淵の底へと沈んでいった。
とても物分りのいい死に様だった。
「可哀想にな。
キヨウラは1人で行くと言っていたのに、お前がわがままを言うから
殺さざるを得なかったじゃないか」
淡々と。
人ひとり斬殺しておきながら、眉一つ動かさずに。
声の調子を変えずに。
アーチャーは春姫だけに、そう告げた。
「ああああああ!!」
刹那の喉から溢れ出す鮮血を全身に浴びながら、春姫が慟哭する。
悲しみ。無力感。自責。
ありとあらゆる負の感情が渾然一体となって春姫を苛む。
だが、それらどの感情よりも突出し、春姫の五体を駆り立てる感情があった。
怒り。
春姫の手にはFNハイパワー。
今までずっと握られたままだった。
「許さない!!」
弾丸に先駆けて放たれるは春姫の激情。
寸刻遅れて拳銃が火を吹く。
だが、アーチャーの拳がそれより速く、彼女の顔面を打ち抜いた。
手加減も容赦も加えたぬるい一撃。
それでも、軟骨を潰し、鼻血を噴水の如く溢れさせるに十分な打撃だった。
春姫は後方に倒れ込み、FNハイパワーは明後日の方向に弾丸を発する。
「ぎぼっっ!!」
アーチャーは仰向けに倒れている春姫の前髪を鷲掴み、無理やり引き起こした。
そして、春姫の顔を自らの眼前まで持ってくると、一言。
「五体満足で隠せ、とは言われていないわけだが?」
狂猛な殺気を隠すことなく放出し、恫喝した。
春姫は、ただ睨みつけている。
涙が滲んでいる。
体は震えている。
それでも、まだ心は折れていない。
(この男を、許さない)
だが、その健気な義憤も、次の一言でひび割れた。
「それで、これからどうするんだカミサカ?
まさかキヨウラの遺志を継いで、イトウを探すとは言うまいな?
イトウまで俺に殺させるつもりか?」
止めを刺したのは、この一言だった。
「俺は人助けの為なら容赦なく殺すぞ。何人でも殺すぞ。
正義の味方だからな」
春姫の勇気は、義憤は、その心は。
音を立てて砕け散った。
【時間:19:30】
【場所:中央西部・小川 → 中央森林】
【名前:神坂春姫(№15)】
【装備:FN HI-POWER 12/13】
【所持:FN予備弾 13/13 ×2、支給品一式】
【状態:健康、恐慌、鼻骨骨折】
【思考:潜伏逃亡】
1)私と関わった人が殺されるなら、誰とも関わらず隠れていよう
2)刹那、ごめんなさい……
3)赤い鎧の男(アーチャー)、許さない!
【時間:19:30】
【場所:中央西部・小川 → 北方向】
【名前:アーチャー(支給品№03)】
【装備:干将・莫耶、黒鍵×6(←清浦刹那)】
【所持:なし】
【状態:健康】
【思考:小雪に従う】
1)コユキの命に従い、存命中のはぴねす!組を探し、身を隠すことを勧める
2)サーヴァントとして呼ばれた以上、マスターであるコユキを優勝に導く
3)上記の参加者以外は基本的に殺害するつもり。特に衛宮士郎は自らの手で抹殺したい
4)いずれ小雪と合流する
※刹那の支給品一式はその場に放置
※小雪キルポイント 02/10
【№20 清浦刹那 死亡 残り48人】
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最終更新:2010年06月28日 22:54