最高で最低の奴隷Ⅳ 歪みし忠節 序章(前編)
「以上で今回の集会を終了します。お集まりの方々、遠いところからご足労頂き誠にありがとうございました。なお、詳しい指示に関しては後日各々に連絡します」
扇状に広がった会議室のその中心で、一番若い虎の少女がその姿には似合わぬ厳かな口調でそう宣告したと同時に、開かれていた会議は幕を閉じた。
彼女こそ、大陸最大の国際複合企業体『白虎総合商社』の総帥にして創設者、ミリア・メーデルである。
突如として虎の国の産業界に現れた彼女は、豊富な資金と突出した技術力を用いてその業界に革命を起こし、信じられないスピードでその頂点についた麒麟児だ。
医療、食料、運輸、その他の様々な産業に革命を起こし、その他の功績も相まって王族を除けば最高位の公爵の位を与えられた大貴族でもある。
元は地方の弱小貴族の一門の小娘だった彼女は今や、国家財政を操れるほどの資産を持つ鉄の女ならぬ、金の女になっていた。
そうなるといろんな噂が立つ物で、実は猫の国のフローラの隠し子で虎ではなく猫だとか、現国王の隠し子だとか、ダンジョンで眠りについていた古代の虎だとか、女装趣味のマダラとか(根拠は胸のなさ)、悪魔と契約した魔女という噂すらある。
しかし、その真実を知る者は少ない。
この最高幹部会議に出席している、各部門の責任者達の中でも極僅かの者達しか知らないのだ。
そして、事情を知っている者達はミリアの背後に立つシルスに向けて、様々な種類の視線を送ってきている。
面白がるような視線や、同情的な視線に、呆れ返っている視線、その中で一番多いのは責めるような視線だ。
シルスの事をよく知っている人が見れば、彼の頬が僅かに引きつっているのを発見しただろう。
「では、私はこれで――――」
全ての元凶である少女には、シルスを越える圧力がかかっているだろうに、その姿は堂々とした物だった。
置いてあった資料を手に取ると、そのまま視線などどこ吹く風で悠然と部屋を退出していく。
シルスもすかさずその背後に付き従い会議室を後にした。
「次の予定は何かしら?」
「この後、ル・ガル王国の工場拡張について、議会の議員と会食して、その後猫の国の商会との業務提携及び契約更新だ」
何処か気怠げなミリアの声にシルスが真面目腐った声音で答えを返す。
しかし、一般市民の数十年単位の所得に匹敵するであろう美術品が、その配置にすらこだわり抜かれて置かれている廊下を歩く様は周りの美術品に全く負けないほど美しい。
対して、後について歩いている少年の方は人生に疲れたような表情をしていて、不景気極まりない。
「確か落ち物の研究にうちの技術を提供する代わりに、特許料を割り引いて貰うのよね。だけど強欲な猫と交渉するのは気が乗らないわ」
憂鬱そうにため息を吐くミリアに、シルスはこちらも億劫そうに肩をすくめた。
「仕方ないだろう。猫の国は大陸一富を持っているからな。うちも蔑ろには出来ないし、何よりも、猫の国にはもっと儲かって貰わないと困る」
「それは分かっているわ。この国が豊であるために猫の国にはもっと富んで貰わないといけない事もね」
宥めるようなシルスの口調に、ミリアは当然分かっているとばかりに頷く。
「……………そのうち休みを取るから、今は我慢してくれ」
「その約束が破られるのは何回目かしら?」
妥協案を提示したはずのシルスだが、そう言って半眼を向けられて言葉に詰まった。
「…………まあいいわ、その代わり今は付き合って貰うわよ」
ネズミを捕らえた悪戯猫のような表情で、ミリアはシルスを壁に押しつける。
「ここでやるのか?」
「別にいいじゃない。誰も居ないんだから―――」
ミリアの言葉通り、ここは彼女の部屋から会議室までの直通通路であるため他に人影は居ない。
「でもな―――」
「あら、じゃあ今すぐ私に休みをくれるのかしら―――」
果敢にも反論のために口を開くシルスだが、その言葉に沈黙を強いられる。
反論のないことを了承と受け取ったのか、ミリアがシルスの手を取って自分の豊満な胸に導く。
女性の柔らかさと温かさに触れて、再び口を開こうとしたシルスだが首に手を回されそのまま強引に唇を塞がれた。
体を押しつけられ、全身でその感触を堪能させられる。
胸と胸がぶつかり合い、ミリアの柔らかい胸が潰れて歪む。
唇の方はもはや息する必要はないとばかりに、熱烈に吸い付かれる。
あまり乗り気でないシルスの舌を、しかしミリアは強引に捕まえて自分の口の中に引き込む。
息継ぎは鼻息だけになり、息苦しさのためかそれとも興奮のためか二人の頬が赤く染まり始めた。
数十秒か、数分か―――
やがて、二人の唇が離れた。
赤く染まった頬に潤んだ瞳で見上げてくるミリアに、シルスは大きく息を吐く。
覚悟を決めたとばかりにミリアの首筋に食らい付き歯を立てる。
「…………ん」
痛みのような快楽のような微妙な感触に眉を潜めるミリアに、シルスはそのまま唇を滑らせた。
首筋から鎖骨を通り、胸に到達した唇は、興奮に固くなった突起を捕らえる。
「あぅっ」
今度の刺激は少し強かったのか、呻きにも似た声が上がるがそれには間違いなく艶が含まれていた。
ミリアの体を抱き寄せて、今度は自分から手を背中に回す。
背中に付いているファスナーを下ろし肌を露出させ、片手の五指の腹を背中に這わせる。
胸に対する愛撫は背中側に対する愛撫とは正反対に激しい物だ。
片方の突起を口に含み、空いた片手でもう片方の胸を包み込み指がめり込むほど握りしめる。
「ん、あっ」
前後からの異なる種類の刺激に、ミリアの体温が上昇し、息が荒くなっていくのをシルスは感じた。
胸に置いていた手を腹に這わせて、そのまま下半身まで伸ばしていく。
その部分は下着の上からも分かるほど濡れており、下着の中に滑り込んだシルスの指は易々と膣内に受け入れられた。
「んっ」
入った瞬間、一瞬だけミリアの体が硬直するが、すぐに弛緩し代わりに首に回された手に力が籠もる。
二人の体がさらに密着し、互いの上昇した体温を確認できた。
そして胸から戻ってきたシルスの唇が、今度は逆にミリアの唇を塞ぐ。
ジュルリと下品な水音を立てながら、互いに相手の口の中に舌を差し入れ愛撫しあう。
その間、ミリアの中に迎え入れられた指はゆっくりとかき混ぜられ続けている。
「………なんだかんだ言ってやる気じゃない」
興奮に耳まで赤く染めた少女が言ったその囁きは、しかし時を経た淫魔のようなねっとりとした甘さを含んだ物だった。
ミリアは首に回していた腕の片方を解いて、シルスのベルトをはずし始め一度話した唇を再び合わせる。
シルスの方から送られてきた唾液を喉を動かし飲み込みながら、腕はズボンの中に潜り込んだ。
興奮し固くなったそこを引き出し、自らのスカートの中に導く。
「入れるからどけて」
息継ぎの合間の言葉にシルスは素直に手を引き抜き、ミリアのスカートを持ち上げる。
「ん………あ」
自らの手の導きで、興奮して固くなった物が入り口に触れた瞬間、それまでとは一段上の艶を含んだ声が上がった。
向きを合わせるため、ミリアの足が爪先立ちになり、相方のシルスの方の腰が下げられる。
もはや刹那の躊躇いすらなく、それはミリアの中に収まった。
「んっくぅっ」
自らのドレスを噛み締めて声を殺すミリアを、シルスは強引に抱え上げる。
「………………」
「………………」
今まで何度も繰り返してきた動作にもはや言葉は必要なく、ミリアがシルスの腰に足を絡めるのと同時に二人は動き出す。
「はあぁっ」
「くっ」
熱く湿った吐息を漏らしながらミリアの膣内はシルスを歓迎した。
蕩けそうな程の熱を持ったそこは、入ってきた物を緩やかに緩急をつけながら締め付け蠢き愛撫する。
「あはっ、分かるシルス? あたしの中で動いているのが―――」
楽しげに笑いながら、ミリアは腰を動かす。
そうすると、只でさえ蠢いている粘膜に擦られたまらない快感がシルスに押し寄せる。
「じゃあ、次に行くね」
さりげなく呟かれたその声に、しかしシルスの顔は盛大に引きつった。
「ちょ、待て早い―――」
「駄目、待たない」
慌てて制止するその声に、しかしミリアは情欲に染まった笑みを浮かべて拒否を示す。
次の瞬間、シルスの脳に快楽の電流が走る。
「つぁっ!?」
繋がっている部分が溶け崩れ、強引に繋がれた神経に快楽を直接たたき込まれる感覚にシルスは呻く。
「うふふ、シルスの気持ちよさが私にも伝わってくるわ」
神経が繋がっている以上、ミリアの方にも快楽が伝達されているはずだがシルスより耐性があるらしくまだまだ余裕だ。
「っ―――」
舌打ちと供に抱え上げていた片腕をはずし、ミリアの頭をつかんで強引に唇を合わせる。
イメージ的には舌が溶け崩れ相手の口内の粘膜に染み渡る感じを思い浮かべた。
そこからさらに、自分の感じている快楽を流し込むようにイメージする。
抱えている体がピクピクと痙攣するのを感じとり、そのまま強引なキスを続けた。
互いに相手の感覚が繋がり、ミリアの快感がシルスの快感になり、シルスの快感がミリアに伝わっていく。
単なる交わりとは違い、共有する感覚は単純に二倍ではなく二乗にもなり、二人は急速に高まっていく。
「………っ」
シルスが絶頂感を感じると同時に、ミリアの体も仰け反った。
そして次の瞬間、ミリアの胸元から生えた銀色の刃がシルスの胸を射抜いた。
「…………やったか?」
折り重なって倒れる二人のすぐ傍からその声は響いた。
純白の大理石の一点に、しかし黒いシミが滲み出る。
最初は一滴の雫を垂らした程度だったシミは、一秒後には人間大の大きさになっていた。
そして、そのシミは二次元に反逆するかのように盛り上がり、形を取っていく。
初めは頭、そして首、肩から腕と胴体と―――
それに反比例するかのように、シミの大きさは小さくなっていく。
最後に形取られた足が壁から引き抜かれると同時に、シミは完全に消滅していた。
壁から出てきたのは黒いコートを纏った人影だった。
それに続くかのように、床や壁から次々と同じ格好の人影達が現れる。
その服装と登場のしかたから、少なくとも堂々と人前に出られるような立場の人間でないことがうかがい知れた。
「四局が新しく開発した毒薬を塗っていたんだ。即死だろう」
人影の一つが初めの声にそう答える。
顔から頭まで真っ黒な仮面で隠されており、その人物の表情を読み取ることは出来ない。
「しかし、片方は不滅の騎士だぞ。毒ごときで倒せる物なのか?」
「いや、脈は止まっているし、心臓も動いていない。完全に生体反応は消失している」
シルスの横に屈み脈を測っていた人影が、一番後の人影の意見を否定する。
「やはり只の噂か、それとも意図的に流された情報か―――メーデル公爵がとんでもない化け物を飼っているという噂は――」
「可能性としてはありえるな。だが、過去に私達と同じ者達の消息が消えたのも確かだ――それにしてはあっさりしすぎている」
彼らは俗に言う暗殺者だった。
つまり合法的に抹殺できない都合の悪い存在を、非合法的に抹殺する者達である。
そして目標は彼らの眼前で命の灯火を消していた。
これだけ見れば、その役目は果たされたことになり、ならばさっさと逃走することが定石であろう。
しかし、彼らは足を止めていた。
なぜなら、あまりにも容易く目標が達成できてしまったため、熟練の暗殺者である彼らとてすぐには行動に移れなかったのだ。
『ひょっとして、これは罠ではないか』
そのような疑念が彼らには生じていた。
人は自分の認識している情報に自信が持てなくなった時、それを確認し補完しようとする。
ましてや、些細な認識の違いが命運を別けるような場合はその傾向は顕著である。
故に彼らは手にかけた者達の前で眼前で議論し合う羽目になっていた。
目の前の死体は本当にターゲットの物なのか?
偽物であるとすれば、その目的は何なのか?
実は単なる偶然で、この思考自体が無意味なのか?
もしくはそう思わせて、自分たちをここに足止めするのが目的なのか?
考えれば考えるほど選択肢が広がり、尚のこと思考が迷い始める。
凄まじい前評判が尚のこと彼らの疑心を深めた。
「おい待て、少しおかしいぞ」
「何だ?」
唐突に人影の1人が声を上げた。
「ミリア・メーデルはこんなに胸が大きくなかったはずだ」
当然ながら、彼らはターゲットの情報は細かな部分まで調べ上げている。
食べ物の好き嫌いから、過去の経歴まで調べ上げ、当然ながらその身体的特徴などはいの一番に調べられている。
そして当然ながら、ミリアの胸が貧しいという事は周知の事実であった。
「豊胸出術でもしたのか?」
「いや、そんな情報はなかった。そもそも部屋を出る時までは胸はなかった。魔法薬を摂取したんじゃないのか?」
「しかし、三日前からずっとそんな様子はなかったぞ。対象は魔法は使えないらしいしな」
「遅効性の新薬じゃないのか? エリス博士が新しく開発した。本人も胸がないらしいし」
何というか、暗殺したターゲットの横で、そのターゲットの胸の大きさについて真剣に論議する暗殺者達の姿と言うのはいろんな意味で台無しである。
「………影武者か?」
「それはあり得ないな。会議室からここまで入れ替わるすきなどなかったはずだ。だが、薬をわざわざ遅効性にする意味もない」
積み重なる疑問と疑念がさらに彼らの判断を迷わせる。
「…………ともかく一度帰投するぞ」
しかし、仮にも彼らはプロである。
迷ったのも僅か数十秒で、即座にそう決断した。
「あー、ちょっといいか、あんたら?」
ここ数日で聞き慣れた声に彼らは振り向いた。
その心に飛来したのは共通して驚愕だったのは仕方ないだろう。
そもそも、彼らがここに来たとき光化学的、魔法的に彼らを除けばターゲットの二人以外確認していなかったのだから―――
そして現在進行形で、彼ら以外の誰もその感知範囲に入っていなかった。
だから、その、ここ数日までは聞き慣れなかった声も、仲間の物だと思って無造作にその方向を振り向いても責められる事ではないだろう。
ましてや、死体のはずのターゲットが立っていて、ガチャガチャとベルトを直していれば一瞬思考が停止しても何ら不自然な事ではないだろう。
「いや、こういう事言えた立場じゃないと思うんだが、手を出す時はもう少し考えてくれないか? やっている最中ばっかり襲ってくるから、わざわざ誘き出すのにこんな手間がかかる」
相手が油断している時に行う奇襲の方は、使い古された手と言えばそうだが成功率が高いのは間違いない。
つまりは、寝ているときや、だらけている時、その手の行為の最中、もしくは終わった直後に相手の集中力が途切れた瞬間―――
彼らはその時を待っていた。
だから、当然ターゲット達が誰も居ない廊下で情緒に耽り絶頂を迎えた瞬間に攻撃したのだ。
多少の抵抗は覚悟したが、しかし必ず勝てる自信があったからこそ彼らは行動に移ったのだ。
「と言うか、あのな、その二つ名は止めてくれ。毎回襲われるたびに気合い入れられて、心臓をさされたり、首を断ち切られたり、頭を潰されたり、爆風で吹き飛ばされたり、生き埋めにされたりすると神経が持たないしな。大陸中回って月一回はそんな目にあうし―――仕事は全然減らないし、休暇は全く取れないし―――訴えても誰も聞いてくれないしな。この前なんか、わざわざ猫の国から大陸の端まで言ったら、船に乗っている最中に爆薬を積んだクルーザーに激突されて、海上数十メートルから海に叩き付けられたし―――最近、胃薬の量がまた増えた―――」
愚痴になりかけた言葉を断ち切ったのは、当然ながら薙ぎ払われたナイフだった。
「っ、絶死の刃か」
身体を仰け反らしながらシルスはそう呟いた。
刃が体に触れた瞬間、瞬時に周辺の細胞を浸食、破壊して最後には全身の細胞を破壊する魔法をかけられた刃だ。
文字通り必殺の武器だが、刃を抜いてから数秒しか効果がない使い捨ての物で普通の戦闘で使える物ではない。
しかし、一対一の戦いや暗殺には打って付けの道具である。
触れられた瞬間、治癒する暇もなく全身を犯し命を奪う刃から身を守る方法は多くない。
完全に回避しきるか、触れられた瞬間にその部分を切除するか、もしくはそれこそ非常識な程の魔法抵抗力で無効化するかぐらいしか手はない。
だからシルスは刃と供に薙ぎ払われた腕を掴み取り、そこを支えに体制を整えると相手の鳩尾に手加減なしの蹴りを叩き込んだ。
いくらマダラと言えども、虎の一撃である。
急所に叩き込まれれば、いかに頑強な種族であってもしばらく行動不能になるはずだ。
手応えはあった。
まるで鉄板を叩いたかのような固い手応えが―――
「やっぱり効かないか―――」
普通の生命体なら十分効果を期待できたであろう攻撃に、しかし黒いコートの人影は全く痛痒を感じた様子もなくすぐに追撃してくる。
振り下ろされる刃を避けようとすれば、左右から他の人影がナイフを突き出し逃げ道を塞ぐ。
必然的に後に下がるしかなくなるが、全面にいた人影が即座に距離を詰めてくる。
シルスは真上に跳躍すると、そのまま回転し足裏で天井を蹴って右の壁に突っ込む。
再び回転し、壁を蹴ると眼前に見えるのは振り上げられる拳だった。
握り拳が直撃する寸前、しかしこちらからも相手の拳に向かって手を突き出した。
真っ正面から相手の拳を受ける事はせず、腕を弾いて拳の軌道を変えて同時にその反発力を利用して体制を整え綺麗に着地する。
真横を掠めた拳は勢い余って壁に激突して粉砕した。
大理石の一枚下は戦車砲の直撃にも耐えうる積層装甲が張り巡らせてあるのだが、叩き付けられた拳は大理石ごとそれを粉砕している。
たとえ虎と言えども、この威力のパンチを急所に食らったら即死である。
いや、腕や足に食らっただけでもその部分が千切れ飛んでしまうだろう。
着地した次の刹那、真横から突き出されたナイフを回避し、シルスは床すれすれを這うように疾駆する。
その背後にぴったりと人影達は張り付いてきた。
体を捻ると同時に相手を蹴り付け、その反動を利用して距離を取ろうとしたが逆に蹴り付けた足を掴まれてしまう。
足首を握り潰される寸前、ベルトに仕込んでおいた短剣を投擲し相手の顔を狙った。
正確に眼球と口を狙った刃は片腕で弾かれたが、一瞬力がゆるんだ瞬間に足首を抜き取ることには成功した。
「GARMか」
舌打ちと供に呟かれたその言葉に、さらに攻撃を使用とした人影達の動きが止まる。
「俺とミリアを狙ってきたって事は、『腐肉喰らい』の五局だな」
「……………なぜ知っている?」
戦闘中に暗殺対象に質問するなど暗殺者としては三流であるが、聞かずにはいられなかった。
GARM、
それは絹糸に縛られた瀕死の魔狼が産み落とした配下たる魔犬の名だ。
それが、生まれてしまった理由はひとえにイヌの国の貧しさと乏しさが原因だ。
イヌの国の広大な大地はしかしやせ細り、自国民の半分の腹を満たす事も叶わない。
また、他国に輸出できるような資源もほとんどない。
それでも猫のように落ち物の特許や、兎のように寒冷地帯でさえ自らの都合の良いように改造できる魔法でもあったらまだ違ったかもしれない。
だが、イヌにはそんな物がなかった。
他国に誇るべき産業がないイヌの国は、外貨を獲得する手段が乏しく大陸最大の軍事力を持つ大国でありながら、国力は貧弱なのだ。
食料の供給を他国に頼っている時点で、もはや命綱を他人に握られているのも同然なのである。
唯一イヌの国が大陸最大の鉱山を保有する真銀も、食料や医薬品の輸出を盾にされれば安く売るしかなく、そのためにいつまで経っても経済三流の国から脱却できない。
そして、その貧しさ乏しさが原因で他国に食い物にされ続けた。
富も資源も技術も、腹を満たす食料さえもないイヌの国は、他国から原料を輸入してそれを加工して輸出する中間貿易で身を立てている。
しかし、その加工技術に使う機械や魔法装置はその加工品の買い手である猫の国から馬鹿高い値段で買った物であり、その差を差し引けば利益は極僅かだ。
また、食料大国である虎の国では品質の悪い農作物を、通常の農作物と同じような値段でイヌの国に売りつけたりもしている。
今現在イヌの国の食糧事情を支えているのは間違いなく虎の国であり、立場の弱いイヌの国は例えそれが品質の悪い物であろうとも、こっちの言い値で買うしかないのだ。
この白虎総合総社も下請けの安価な労働力として大量のイヌの労働者を雇っているし、イヌの軍は最大手の取引先の一つだ。
弱みに付け込まれ、悪い物を高く買わされ、良い物を安く売らされ続ければ永遠に貧しいのは当然だ。
しかし、もっともイヌの国の重荷になっているのは数千年前に結ばれた『絹糸の盟約』だろう。
かつて世界に大戦を巻き起こしたイヌの国が、二度と同じ事を繰り返さぬようにと幾つもの国が連合を組んで結んだその盟約は未だに有効であり、もしもイヌが盟約を締結している国のどれか一つにでも宣戦布告をしよう物なら、自動的に盟約に参加している他の全ての国がイヌの国と敵対することになるその盟約は未だに有効なのだ。
そうなれば、いくら世界最大の軍事国家を誇るイヌだろうと敗北は必死である。
だからイヌの国は豊かな資源や土地を手に入れるための侵略戦争を仕掛けることも出来ないのだ。
これだけ聞くと、完全に手詰まりのように聞こえるが実際は違う。
絹糸が適用されるためには、誰が見ても明らかな侵略行為が必要なのだ。
逆に言えば、侵略行為がはっきりしない、もしくは公にならなければ出来ることは少なくない。
故に設立された闇の組織、存在は認識されてもそれを証明されることは出来ぬ魔犬達、
魔犬の数は全部で六匹、
工作二局――第一局ケルベロスと第二局オルトロス
自国の不利益になるべき施設人物を破壊抹消する暴犬達
情報二局――第三局ケルビムと第四局ショロトル
他国の情報を盗みかすめ取る貪欲な盗犬達
この四匹だけでも、もしも仮にその存在が公になれば、イヌ達は窮地に立たされることだろう。
しかし、残った二匹はさらに別格だ。
はじめの四匹を構成するのは、あくまで人間である。
だが、残り二匹は違う。
暗殺二局――五局ティンダロスと六局アヌビス
敵どころか味方の命すら喰らう凶悪なる狂犬達
彼らはその過酷な任務に耐えうるために、自らが人間であることさえ捨て去っている。
あらゆる外法と邪法を駆使してその肉体を全く別のものに変質させているのだ。
常識や倫理など彼らに通じない。
ベースはイヌだが、筋力、耐久力、魔力、各種毒物や魔法に対する耐性のそのどれもが既存の種族の基本能力値を大きく上回っている。
虎や狼ですら容易く葬る彼らの力はそれこそ人外の領域である。
だが、同時に彼らの存在はイヌの国にとっての最重要機密であり、もしも、その存在が公にされたならば窮地に立たされるどころか、滅ぼされても文句は言えない。
だからこその、暗殺者達の驚きなのだ。
自分達の存在を知っていることは、別段驚愕すべき事ではない。
いくら痕跡を抹消しようとも、完全に隠蔽することなど出来はしないのだ。
しかし、いくら何でも、自分達の所属する組織の名前知っている事などあり得ない。
構成員を除けばその忌み名は、ほんの一握りの者達しか知らないはずなのだ。
そして何より、自分達はその中でも特に特殊な部署なのだ。
仮に自分達が返り討ちに遭いその死体を調べられたとしても、そこから自分達の部署にたどり着くことはおろか、結びつけることすら出来ないだろう。
よほど内情に詳しくなければ――――
「こっちにも、その手の機関はあってな。ついでに言うと凄腕の尋問係が居るんでね。色々と詳しいことは知っている。あんたらが、只のイヌじゃないことも―――いや、全六局の中でも特に異質な、腐肉貪る背徳者達、正式名称『対外高官長期監視工作班』って事もな」
「…………………」
人影の1人ではなくGARMの一員が無言シルスに突進する。
少なくとも眼前の虎の少年は、自分達にとって存在してならぬものと判断したのだろう。
手加減なしの一撃は虎の動体視力を持ってしても、反応できない物だった。
ナイフの絶死の刃先がシルスの胸に吸い込まれるように迫る。
ガチィンッ!!
「………っ!?」
「そっちも人間止めてるようだが、こっちもまともじゃないんでね」
防御回避不可能のはずの刃が、しかしシルスの五指にしっかり掴まれている。
「なぜ生きているっ!?」
触れた部分から細胞が壊死し、即座に死に至らしめる猛毒が宿っているというのにシルスは平然としている。
その事実がナイフを突き立てた暗殺者に叫ばせていた。
「生憎、大抵の毒には耐性があるんでな。そう簡単には死なないさ」
涼やかな音と供に、猛毒の刃はガラスのように握り潰される。
呆然とした様子のGARMの一員に振り上げられたシルスの拳が叩き付けられる。
一撃目の攻撃は防がれたはずなのに、二撃目の攻撃は相手の胴体を容易く貫通した。
「がぁっ―――」
絶息したような叫びと供に口から撒き散らされる血反吐だが、それが服に付く前にシルスはその場を離れている。
「どうでもいいが、いい加減加勢してくれないか? さすがにこの人数はつらいんだが―――」
「弱音を吐くのが早いね。どうせ死なないんだから、やって見たら?」
即座に取り囲まれたシルスが言葉を向けた相手は、未だに床に放置されたミリアの死体だった。
そしてその場に居たGARM局員の誰もが、返事が返るとは思っていなかった。
完全に生体反応が消失している肉体が、言葉を発することなどあり得ないのだから―――
そしてその死体が何事もなかったように立ち上がれば、もはや現実の光景とは言えない。
さらに奇妙なことに、その口から出た声はミリアの声ではなかった。
男のような女のような、幼いような年老いたような、どんな声でもあるようで、どんな声でもないような声音である。
「死ななくても、死ぬほど痛いだろ」
「嫌なら痛覚を消せば良いんだよ。わざわざ受ける必要はない―――」
言葉の途中で走った刃がミリアの首と胴体を分離させる。
くるくると回転しながら宙を飛ぶ頭に一瞬遅れて、首の切断面から血液は噴水のように噴き出す。
「あーあ、君がモタモタしてるから死んじゃったじゃないか―――」
「死人がそんな風に口を利くとは思えないんだが―――」
ごろごろと床を転がりながら抗議する生首に半眼を向ける少年―――
そんな会話をする二人の姿は本人達を殺しに来た暗殺者達にどう映ったことだろう。
少なくとも心落ち着く光景でないことは確かだ。
「落ち着け、これは幻術だっ!! 混乱すれば尚つけ込まれるぞっ!!」
「………俺もそう思いたいんだが、これは現実だ」
皆を落ち着けようとするその叫びに、シルスは多量の同情を込めた視線を向けながらそう忠告する。
「あんたらも運が悪い。よりにもよってあいつが休暇中の時にここに来るなんて、いつもなら、普通に死ねたのにな」
普段のミリアの周りには表向きだけでもこの地に駐屯している機巧軍は元より、直属の護衛団まで居る。
しかし、それだけでは完璧にはほど遠い。
真っ正面から向かってくる敵に対しては強いが、暗殺などの搦め手で来られると脆い物だ。
だから、裏の護衛として暗部が付いているし、仮にそれを突破したとしてもその後には、魔王たる奴隷が控えている。
だが、暗部もセリスも居ない時によりによって、ミリアの影武者を襲撃するとはあまりにも運が悪すぎて、逆に同情してしまう。
少なくとも、暗部やセリスにやられても情報を引き出されて死ぬだけで済む。
「何か僕より敵の方の心配をしているようなんだけど、気のせい?」
特に気分を害した様子もなく聞いてくる生首に、シルスは大きく嘆息した。
「気のせいじゃないな。と言うかお前が死ぬような状況になったら、俺の方が持たんと思うぞ」
「そうだね。あの魔族以外に、僕を滅ぼせる奴はそうはいないと思うけど―――まあいいや、さっさと終わらせよう」
そう呟いた生首がぴょんと跳ねた。
冗談でも何でもなく跳ねたのだ。
足も胴体すら存在しない身体は、しかしGARMの1人に向かって跳んだ。
それを見て悲鳴一つ上げずに、頭部を左右真っ二つにした手腕は見事と言っても過言ではない。
切断された頭蓋から血と脳漿が飛び散り、それが切断した相手に降りかかる。
しかし次の瞬間、血潮を受けた当の本人が苦しげに膝を付いた。
「あ、ぎ、げぇ、、あが、、があああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
まるで魂を削り取られるような痛切な絶叫が廊下の中に響く。
そして、その場に響く音はそれだけではない。
肉が千切れ骨が砕ける音が血潮を浴びた者の体から響く。
黒いコートが破け、その中からピンク色の肉と白い骨などがそこから飛び出してくる。
その場にいる誰も声を上げられない。
たとえ眼前で仲間がどれだけ凄惨に死んだとしても、冷静に任務を達成できるように訓練された暗殺者達でさえ、そのあまりの異常な事態に動きが止まっている。
やがて、絶叫が鳴りやみ肉体の蠢きが止まった。
「よし、再生完了」
そう呟いたのは今の今まで断末魔の悲鳴を上げていた人物に他ならなかった。
そしてその声は先ほどミリアの口から聞こえた物と同一である。
「………………終わったのか?」
「うん、もうこの体は完全に僕の物だよ」
気分の悪そうなシルスの問いにそう言いつつ、その人物は仮面を取った。
仮面の下から出てきたのは美しい顔だった。
この世の物とは思えぬ白髪は、それに反するかのような赤銅色の肌に良くさえる。
瞳の色は右目が瑠璃色で左目は銀色、顔の輪郭は何処か中性的な印象を抱かせ性別を判別するのは困難であった。
そして、その服装も変化していた。
黒かったはずのコートが、いつの間にかゆったりしたローブのように変化してその人物の体を包んでいる。
そしてその美しい人物は、尾や鱗を持たないヒトの姿をしていた。
しかし、美形と言っても何ら誇張はない顔は見る物に違和感を覚えさせる。
まるで、美しい顔のパーツを組み合わせて作り出したような不自然さが感じられるのだ。
「さてと、もう全部食べても良い?」
「……………好きにしろ」
「それじゃあ、好きにするよ」
瞬間的に白髪のヒトの足下から伸びた髪に反応できたのは四人だけだった。
残りの者達は伸びて薙がれた髪によって首を切断されて、さっきとは逆に自分達が血を吹き出すことになる。
その動きによってそれまで惚けていた残りの暗殺者達が再起動し、再び二人に襲いかかる。
右からナイフを突き出した暗殺者は、何の前触れもなく頭が吹き飛び絶命した。
左から超高電圧の球体を放とうとしていた相手は、こちらも何の前触れもなく高電圧球ごと上半身が消滅する。
さらに真ん中から拳を打ち込んできた者は、真っ正面から打ち込まれ返された拳によって腕が縦に裂かれ、そのまま肩口に到達し、その後胴体に潜り込んだ腕によって心臓を握り潰された。
最後に真ん中の背後からナイフを投擲した者は、投擲された刃物が縦に真っ二つにされたが仮面が切り裂かれるだけで済んだ。
「あらら、失敗したね。意外と勘がいいみたい」
戦闘態勢のGARを瞬殺しながら、そのヒトは特にどうと言うこともないように微笑む。
「―――お前達は一体何だ?」
「君と同じ化け物だよ。もっとも僕は、君らと違って生来の化け物だけどね」
おそらく無意識のうちに出た言葉だろう生き残ったGARMの一言に、ヒトは表情を変えないまま答えた。
「ああ、だけど君達の方が凄いかな。元の姿を捨てて、そんな風になれるならたいしたものだと思うよ」
切り裂かれた仮面は床に落ちてもはや顔を隠す役目を果たしていない。
「『腐肉貪る裏切り者達』、別の種族に完全に紛れ込むために、自分達の種族さえ捨てる覚悟は僕には分かんないけどね」
仮面の下から現れたのは、虎の男だった。
しかし、その中身はその姿と同一ではない。
この世界には多種多様な種族が存在するため、他国に対する密偵や間諜は、他の種族にとってはひどく難しい。
幾つかの例外はあるが種族単位で国家を形成しているため、国の中枢に他種族が入り込むのは困難である。
逆に言えば、姿さえ同じならばそれなりの手間暇をかけることでどうとでもなるということだ。
だから、誰かが考えた。
元のイヌの体から人格や記憶を抽出し、他種族の体にそれを移植できれば諜報活動がやりやすくなるはずだと――――
ノウハウはあった。
そもそも、GARM自体が複数の個体の魂を抽出し一つの個体に注入して作成すると言う時点で、魂の注入抽出は成功しているのだ。
後はそれを改良すればいい。
無論、山のような失敗とそれを上回る犠牲はあっただろうが、そこで躊躇するよう者ならば、最初からGARMなど作らないだろう。
そして何より副次的効果として、虎や狼をベースにした場合イヌをベースにするより遙かに強い個体を作ることが出来るのだ。
シルス達の目の前にいるのは、自分がイヌであることさえ捨ててしまい人外に成り果てた元人間であった。
「……………貴様らに何がわかる」
自分達が秘密にしている全てのことを見抜かれてGARMの生き残りは、絞り出すようにそう呟いた。
もはや、理解しているのだろう。
シルス達を倒すことも、ここから逃げることも叶わないということを―――
だから、言葉を紡ぐ。
今まで感情を押し殺し、耐えてきた物を吐き出すかのように―――
「俺がこの体を自分で望んだと思うかっ!? 野良だった子供の俺は、あいつらに無理矢理体を弄くり回されたんだっ!!」
「…………………」
GARMの素体となるのはそのほとんどが『野良』と呼ばれる浮浪児や浮浪者達だ。
例え居なくなっても、騒ぎにならず国益に損失をもたらさない社会的弱者達である。
いくら犠牲にしても大した影響がないという理由で彼らは人体実験の材料にされる。
「そのあと、無理矢理この仕事につけられた」
彼らに選択権などありはしない。
弄くり回された肉体は定期的に処置を繰り返さなければ、すぐに破綻してしまうためどこにも逃げることが出来ないのだ。
「俺と同じことをされた奴らは、発狂したり体にがたがきたりして処分された。そうでなければ任務に失敗して死ぬかだ」
そもそもが、個体の容量を超えるだけの力を詰め込んでいるのだから、処置を繰り返してもいつか破綻すため、本当に天寿を全うできるような個体は稀だ。
結局彼らは、まともに死ぬことなど出来はしないのだ。
「お前らに俺達の気持ちが――――」
吐露された言葉はしかし最後まで続くことはなかった。
顎から上が頭部から引き千切られてしまえば、当然であろうが―――
「つまんないな。本当に」
引き千切った頭部を白髪のヒトは退屈そうに手で弄んだ。
「化け物なら化け物らしく、心も化け物になってしまえばいいのに、何を化け物らしくない事を言っているんだか――――」
白髪のヒトの口が耳まで裂けて、手中で弄んでいた頭部に喰らい付いた。
骨が砕け、肉が引き千切られる咀嚼音が廊下に響く。
「ひょっとして、共感とかした?」
口元から垂れ落ちる血を拭いながら、そのヒトは面白そうにシルスに視線を向けた。
「………………いや」
ヒトの言葉に、シルスは数瞬迷ったようだが結局否定した。
「あはは、それでこそ僕の半身だよ。君は立派な化け物だ。僕が保証するよ」
「全然うれしくないな」
とても楽しそうにヒトとは違い、シルスの方は嫌そうに嘆息する。
シルスの様子など欠片も気に掛けず、上機嫌にそう問いかける。
「さて、ここで問題です。僕はさっきの三人をどうやって片付けたでしょうか?」
シルスは嫌々ながらも答える。
「……………右のは只の衝撃波で、真ん中は重力制御……………左のは原子分解か?」
「残念、最後のは空間圧砕だよ。もうちょっと集中しないとね。今の君なら感知できたはずなんだけどな。ま、相手が相手だし、本気にはなれないかな」
ヒトの足下から伸びた影のような漆黒が床から浮き上がり、GARMの死体を包み込む。
「んー、今の所イヌには特に目立った動きはないね。いつも通りミリアの暗殺だよ」
そう言って白髪のヒトはシルスの腕に軽く触れた。
その瞬間シルスの思考に大量の情報が流れ込んでくる。
「…………………イヌの方は相変わらず物騒だな」
シルスが気持ち悪さを紛らわせるかのように額を揉む。
自分が得た以外の情報が外部から入ってくる感覚は、いつまで経っても慣れることがない。
「そりゃあそうさ、この領地のテクノロジーは言わば金の卵を産む鶏だよ。万年金穴のイヌには喉から手が出るほど欲しいものだろうね」
GARMの死体を飲み込んだ漆黒が縮小し、そのままヒトの影に吸い込まれていくと後には何も残らなかった。
「まあ、そのお陰でこっちもあっちの情報が分かりやすくて助かるよ。僕の食事にも困らないし、でもあっちの方もなかなか努力してるね。さっきの壁から出てきた能力、あれは三次元を減衰して二次元にしてるみたいだよ」
三次元上の物体から、次元を一つ取り除くと物体は立体ではなく平面になる。
高さという要素が排除され、縦と横の世界に置かれる物体は厚さが全くない。
そのため事実上、扉や窓の隙間は言うに及ばず、その気になれば壁の原子間の隙間から染み出すことも可能なのだ。
ほぼ全ての防壁や扉を無意味にしてしまうその能力は侵入術としては最上の物だろう。
しかし、この城の警備を突破した所で彼らのターゲットである当の本人は、現在休暇中でここには居ないのだ。
そして、その影武者である目の前のヒトに餌食にされる彼らは気の毒としか言いようがない。
只殺されるならともかく、化け物の内部で永遠に苦しみながら飼い殺されるのは想像を絶する地獄であろう。
そんなことを考えていると突然白髪のヒトが、シルスの腕に自分の腕を絡めて来た。
「何のつもりだ? 零(ぜろ)」
「勿論さっきの、続きだよ。今度は本当に誰も居ないしね。たっぷり出来るよ」
零と呼ばれた白髪のヒトは当然のようにそう言ったが、シルスの方はややたじろぎながら後ずさる。
「いやあの―――そのな、明日はヘビの方まで行かなくちゃいけないだろ。俺も疲れてるし―――」
ゆったりとした動作で、しかし渾身の力で絡められた腕を引き離そうとするがびくともしない。
「大丈夫だよ。体力なら無限だから―――」
「体力は無限でも、精神力は残り僅かなんだ。第一、昨日も散々相手してやっただろう」
両者とも笑顔だが、シルスの表情は盛大に引きつっている。
「昨日は昨日だよ。それとも、みんなに色々ばらして欲しいの?」
「…………せめてベットでさせてくれ」
伝家の宝刀である零の言葉に、哀愁漂う表情でシルスが返せたのはその一言だけだった。
「了解」
ご機嫌な零に引っ張られながら、死刑台に登る死刑囚のような足取りでその後を付いていく。
(一時間でも良いから、眠りたいな)
おそらく叶わぬ願いと分かっていながらそう望まずにはいられない。
「そんな顔しないでよ。巨乳は嫌いじゃないでしょう」
「時と場合による。今は性欲より睡眠欲だ」
服越しにに感じる胸の感触にも、シルスは心底湯鬱そうな表情でそう嘆息する。
「うわ、何か男として色々終わりなこと言っている」
「男として終わっても良いから、ともかく休ませてくれ」
かなり深刻な発言に零が呆れを混ぜ込んだ苦笑を返す。
「そんなこと言わないでよ。ほら、少なくともミリアとは比べものにならないぐらいあるんだから」
「……………本人の前では絶対言うなよ」
少し前、ミリアの姿をした零がオリジナルとは違い豊満なその部分を指さして『三倍でやっと胸だね』などと発言して、セリスがそれに対し零の胸を掴んで『それは間違いだよ。例えこの三分の一でも、ご主人様の胸には大きすぎる』などと言ってしまったため、ミリアが逆上したのだ。
よりにもよって、10日ぐらい無理やり徹夜させて色々テンパっているミリアが、エリスの開発した新型銃器のお披露目を聞いている中で、そんなことを言ったため、その重火器がその場で使用されることになった。
何かが吹っ切れた清々しい笑顔で無言のまま引き金を引く幼なじみの姿は、ダンジョンの奥にいるガーディアンですら裸足で逃げ出しそうな物だった。
追記するならば、その背後でミリアと同じように全ての感情が抜け落ちたような表情で言葉一つなく黙々と銃弾を補給するエリスの姿も十分恐ろしかった。
この体になってからミリアの八つ当たりやら何やらも、苛烈になった気がする。
普通には死なない体とはいえ、痛みは通常通りあるので止めて欲しいのだが訴えたところで止むわけではない。
「何、まるで自分の人生に絶望して飛び降り自殺する寸前のような表情をして―――」
「そこまで俺のことを理解しているなら、少しは大人しくしてくれ。その自殺の原因の一部は間違いなくお前なんだ」
実に的を射た零の発言にシルスは乾いた笑みで応えるが、それに返されたのは無邪気な笑顔だ。
「大人しくするわけないじゃん」
「……………………そうだよな」
先ほどよりもさらに疲労の増した声でシルスは納得した。
予想していた答えだが、面と向かって言われると落胆も一押しである。
今頃自分の幼なじみは、悠々と休暇を満喫していることだろう。
それに比べて自分は、年中無休馬車馬のように働かされている。
(また、薬の量が増えそうだな)
この体になってからも、なぜか完治することのなかった持病の胃炎は最近さらに酷くなっている。
そして、その原因の一端は間違いなく自分の隣にいるヒト―――
否、ヒトの姿をした化け物にあるのは間違いない。
(まあ、仕方ないか―――)
終わってしまったことを、いちいち悔やんでいてもしょうがない。
と言うか、いちいち悔やんでいたら彼の魂はとうの昔に摩耗している。
例えこの身が化け物に成り果てても、それは大した問題ではない。
今更ながら自分はどこかおかしいのだと思う。
すぐ近くに異世界の魔王が居ようとも、自分自身化け物になろうが何となく溜息一つで受け入れてしまうのは心が広いというより、神経の幾つかが切れているとしか思えない。
もっともそのおかげで、今の今までミリアの折檻やらその他諸々の物に耐えてこれたのだから幸運なのかもしれない。
「さあ、付いたよ」
「………………」
零の言葉にシルスは嘆息する。
そしていくら受け入れられても、疲労感は欠片も抜けていないことに軽く絶望した。