昨日よりも、明日よりも プロローグ
路地裏を青年が小走りに駆けていた。
耳もなければ尻尾もない。
ヒトだ。
肩には狐の耳と一本の尻尾を備えた女性を前後逆に担いでいる。
まるで人攫いか何かのようだが、女性は何やらこの状況を楽しんでいるようで、その犬や猫に比べて遥かにふわふわとした尻尾もぱたぱたと左右に振られていた。
「おい、主人」
「ん。なんじゃ奴隷?」
「何故こうなる?」
「ふむ…まあ待て。今思い出しとる最中じゃ」
数分前、彼らは表通り(とは言え今いる路地裏と比べれば多少は表と言える程度ではあるが)で乱闘騒ぎに関わった。
関わったと言うよりもその中心人物だった。
更に言えば乱闘の原因は今現在青年の肩に担がれている狐主人の朱風(あけかぜ)であり、参加者かつ勝者は朱風を担いでいるヒト奴隷のカルトだった。
相手の方が多勢で明らかにゴロツキだったとは言え、ヒト奴隷が乱闘騒ぎを起こせば色々と問題視される。
そのためこの二人はこうして人目につかない路地裏を逃げているのだ。
実際にはそれほど逃げるつもりのない朱風を、面倒事を嫌うカルトが担いで強制的に運んでいるのだが。
最初のうちは「降ろせー」と暴れていた朱風も、いつもとは違う移動方法に楽しみを見出したのかむしろ面白がってすらいる。
- 1 -
「可愛らしいお嬢さん、お茶でもいかがですか、と声をかけられたんじゃがの。ぬしが買
い物に行っておる間に席を離れるわけにもゆくまい?」
相変わらず何を面白がっているのかわからないが、やたらはしゃいだ朱風の声が背中側で響く。
「それで?」
少なくとも可愛らしいお嬢さんでもなければそんな声のかけ方をするようなゴロツキがいるはずもない、
ついでに言えばどうせ買い物が終われば家に帰るだけなので席を離れても問題ないという
事を指摘するのも面倒なので、とりあえず話の続きを促す。
「うむ。連れがいるからと断ったんじゃがどうにもしつこくてのう。それでまあ、その連
れをどうにかすれば付いて行かざるを得ないかもしれんのう的な事を、こう、な?」
「…このバカ主人が」
先程の乱闘の原因はやはり主人だったと知り、拳骨を頭に落とすのは位置的に難しいため先程から顔の脇でパタパタ振られている尻尾を握り締める。
と同時に「あふんっ」と奇妙な声を上げ、ぐったりとなった。
拳骨を落とすよりも即効性があるので位置的に近ければこちらの方が楽だな、と思う。
「い、いきなり何をするんじゃバカ奴隷!わしは尻尾を握られるのが何よりも嫌じゃと」
と数秒で復活し騒ぎ立ててきたので、うるさいとばかりに再び尻尾を強めに握り締める。
今度は「くはぁっ」と背筋を仰け反らせ数回痙攣したあと、再びぐったりと力を抜いた。
「まだしつけられたりないか主人。俺を面倒事に巻き込むな。面倒だからな」
と心底めんどくさそうな表情に気だるげな吐息すら混ぜ、言っても無駄だと確信しつつも口に出す。
このやり取りも最近ではもはや通例だ。
当然この後の展開もいつもと同じように住処に帰り、やたら注文の多い主人を適当にあしらいながら夕食を作る事になるのだろう。
何故こんな事になったのかはもう考えない。
考えても疲れるだけで、そもそも過去を喪った以上は今ここで生きていく事を考えたほうがまた実入りがある。
と言ってもそもそもその生きていく事自体にあまり興味がないのが問題と言えば問題なのだろうが。
そこまで考えたところで何もかも面倒臭くなり、それ以上考えるのをやめた。
どうせ時間は何もせずとも勝手に過ぎていく。
何かを思い出すまでは適当に生きてゆければ、それでいい。
- 2 -
(相変わらずこやつの思考はよくわからんのう)
最初の頃は後ろから前へと流れる景色を楽しんでいたが、そろそろ飽きてきた。
尻尾を振ってからかうのも、やりすぎればしつけられる。
それは絶対に避けたい。
そこで暇つぶしに作成した『思考を視覚化して見る符』をこっそりと使って見たが、最初こそ何やらもやもやと暗めの思考が見えたものの次の瞬間あっさりと雲散霧消する。
わずかな時間見えていた思考部分についても、その暗さも含めてやたら軽く薄い。
この奇妙なヒト奴隷は大抵の思考の行き着く先が「適当」の一言なのだ。
何に対しても執着が薄く、それは主人である朱風や己自身に対してすらそうであるのは徹底している。
思えば最初に目の前に落ちてきたところを拾った時もそうだった。
それなりに長く生きてはいるものの、さすがに落ちヒトが目の前に落ちてくる事など初めての経験だ。
存分に脅かして楽しもうと色々とある事ない事吹き込んだが全て「そうなのか」の一言ですまされた。
逆にこちらの方がからかわれているのではないかとすら思えるほどその態度は一貫して変わっていない。
話を聞いてみれば記憶がないとの事。
落愕病らしい。
別世界にいた頃の記憶を喪っているのは確実で、そして今の何に対しても興味も執着も持てないと言うのも症状の一種なのかもしれない。
そう思わせるほど全てに対して無頓着なのだ。
(まぁ、無頓着と言うても面倒な事は嫌うようじゃが)
数ヶ月暮らしてわかった事はヒトにしてはやけに強い事、何らかの武術を修めている事、面倒事を嫌う事、命令はある程度は聞くが基本的に適当に済ませる事。
あとは主人を主人と思わず場合によっては遠慮なく拳骨を頭に落とすか尻尾を握って「しつけ」を行ってくる事ぐらいか。
正直な話、手元に置いておくより売ったほうがはるかに実入りは良いだろう。
強いヒト奴隷は非常に珍しく、場合によってはしばらく遊んで暮らせる値段がつけられる
可能性もある。
だが
(こんな面白いのは中々見つからんしの)
そう、面白い。
自分とはまったく異なる存在だ。
性格や趣味が合わない相手ならば幾らでもいる。
ただ、その中でもカルトは異彩を放っていた。
それは落ちヒトであるからかもしれない。
名付けたのが自分だからかもしれない。
落愕病であるからかもしれない。
それ以外の理由があるからかもしれない。
いずれにせよ、これ程興味を掻き立てられる相手を売り払うつもりなど毛頭なかった。
「ぉ…」
まあ、今日も散々楽しませてもらったのだ。
今夜こそは少しぐらいサービスをしてやっても…
「おい。聞いているのか?いないんだな?疲れたから捨てるぞ」
「な、なんじゃ、突然世界が回ってー?!」
などという考えは、いつの間にか辿り着いていた自宅の庭の池に叩き込まれた瞬間に砕けて消えた。
むう、残念じゃのう。
- 3 -
適当に切った適当な肉と適当な野菜を適当な鍋に入れて適当な量の水と適当な調味料を加え適当な火加減で適当に煮る。
ゲシュタルト崩壊を起こしそうなほどの適当さ加減だが、幸いにもこれまで悶絶するほど
不味くなった事はない。
料理がセンスだとするのなら自分はある程度それを持ち合わせているようだ。
その点についてはまぁ良い事だと思う。
別にこだわる訳ではないが、不味いものはあまり食いたくはない。
何か問題があるとすれば
「まだかー、まだかー、まーだーかー。わしは腹が減ったぞ奴隷!減りすぎて思わずぬし
を池にダイブさせたくなるほどに減ったぞ!」
いつもやたらと注文の多い主人がいる事だ。
事に今日はいつにも増して煩い。
面倒になったからとりあえず放り捨てたが、さすがに地面に落とすのもどうかと思い池に落としてやったというのに、それを根に持ったか風呂を上がってからずっとこの調子だ。
いつもならば
「今日の食材は肉がいいのう。ほれ、良いのを買ってたじゃろう?」だの
「麺類が食いとうなった。うどんを打てい」だのと注文が主だが、今日はただの催促、と
言うよりも嫌味か。
面倒臭い。
「食え」
「…明らかに生煮えなんじゃが。こういう料理なのかの?」
「少なくとも俺は煮えるまで食わん」
「主人虐めかえ?!」
「やかましい黙れバカ主人。文句があるなら出来上がるまで黙って待ってろ。でなければ
食わせん」
この主人、生活能力は皆無と言っていい。
俺が奴隷になる前にどんな生活をしていたのかは知らないが、少なくともこの台所にはレシピもなければ調理器具の大半も長い間使った形跡がない。
そもそも掃除やら庭の手入れやら全て業者に任せていたらしい。
俺が言うのもどうかと思うが、自堕落にも程がある。
「ぬうう…覚えておれよ」
その結果、決して家事に明るくはない(…と思う)俺でも主人に比べればまだ働けるレベルとなってしまう。
…そもそも家事に関する記憶なぞ皆無なので結局やりながら覚えてはいるが。
衣食住の確保を条件に奴隷となったが食と住に関しては結局俺が管理していると言って良い。
なんとも微妙な気分だ。
まぁ、おかげである程度の主導権を握る事が出来ているわけだが。
と、何とか黙らせたと思ったのも束の間。
「…のう。奴隷」
「なんだ、主人。生煮えを口に叩き込まれたいのか」
「いや、真面目な話でな?」
「俺は真面目だが」
「むう」
しばらく無言の時間が続く。
さすがに生煮えの野菜を口に詰め込まれるのはこの主人も嫌らしい。
そうこうしているうちにごった煮は完成。
後はあらかじめ作っておいたなんだかよく分からん草のお浸しとともに食卓に運ぶ。
煮物は下準備に手間と時間がかかるが、焦げにくいから楽でいい。
量を作ればしばらく持つと言うのも利点だ。
「出来たぞ」
「また煮物かえ?最近煮物ばかりで飽きるんじゃがのう」
「前に肉を焼いて焦がした時はしばらくは煮物でいいと言った筈だが」
「モドキではない方の、しかも最高の部分を焦がされればそうも言うわい。普段使う分に
関しては構わんぞ」
「そうか。では明日は肉を焼こう」
「いや、明日はうどんが良いのう。油揚げのせの気分じゃ」
「分かった。ではうどんに油揚げと焼いた肉を載せよう」
「…少しは素直に主人の希望を読み取ろうとは思わんのか」
「?」
素直に読み取った結果がそうなんだが。
「なんじゃその『素直に読み取った結果がそれなんだが』な顔は」
「凄いな。表情の変化からそこまで正確に読み取れるとは」
この主人、たまにこうして人の表情から思考を読む。
たまに直接思考を読めるのではないかとすら思ってしまう。
「常々思うとるんじゃが、ぬし、実は天然じゃろう」
少なくとも養殖のつもりはないが、どういう意味だ。
「で、先刻の話なんじゃがな」
「…一体なんなんだ」
「いや、何か欲しいものはないかのう、と聞きとうてな」
「面倒臭くない主人が欲しい」
「最悪な答えじゃな!」
「素直な答えだ。ヒトを面倒事にばかり巻き込むような主人は面倒極まりない。ましてや
生活に必要な技能の大半が苦手とは一体これまでどうやって暮らしてきたんだ」
「ぬぐう…最近ちぃとばかし調子に乗っておらんかバカ奴隷」
相手をするのが面倒臭くなった。
無視してお浸しに箸を伸ばす。
なんだかよく分からない草だが、まぁ店で売っている以上は食べられるのだろうと思い、買った物を試しに少し齧ってみたがどうにもアクが強い。
そのまま煮物に加えるには少し問題がある。
そこでお浸しにする事にし、ひとまず茹でてから冷水に移し、アクを抜く。
意外と鮮やかな色が出てくれたので見た目も悪くない。
後は適当に作ったつけ汁につければ完成だ。
今回は時間が短いと言う事でやや濃い目のつけ汁を作ったが、程よい味加減に納まってくれた。
「これはお浸しにして正解だったか。なかなか旨い」
自分でも満足のいく一品と言える。
草の名前…は忘れたから葉の形だけでも覚えておこう。
「わ、わしの話を聞けー!」
向かいで主人がじたばたと暴れ始めるがよくある事だ。
30分ほど放っておけば自然と落ち着く。
落ち着くというか、疲れ果てて半泣きで静かになるだけだが。
そんな騒ぎを繰り返しながら、今日もまた何事もなく過ぎてゆく。
…いや待て、何事も無くはないだろう。
賭場へ行けば下手すれば元手を借りるための質扱いとなり、買い物に出れば毎回のように
乱闘に巻き込まれ、かと言って家に篭もれば暇を持て余したこの厄介な主人が相手をしろとまとわりつく。
それのどこが何事もないというのか。
これはまずい…と思いながらも対策は特に思い浮かばず、面倒になったので考えるのをやめる。
その時々にしつけていけばまぁいつかは何とかなるだろう。
毎日そんな事を考えている気もするが。
- 結 -
今夜も駄目じゃった。
鈍感というか朴念仁というか。
わしも大分迂遠な方向で接しておるから仕方ないといえば仕方ないんじゃがのう。
と、拾って一ヶ月記念として購入した猫井技研製のプレゼントを弄繰り回しながら自嘲する。
これを渡そう渡そうと考えながら既に数ヶ月がたっておる。
下手をすれば一ヶ月ではなく一年記念のプレゼントになってしまうかもしれん。
否、それどころかこのまま行けば5年、10年と…までは幾らなんでもいかぬとは思うんじゃが。
わしがこれ程まで意気地がないとはのう。
まあ他人に何かを贈るなぞ、それこそ百年単位で覚えがないので仕方がないのかもしれんが、それはただの言い訳じゃな。
思えばこれまで惜しいところまで行った事はあると自分では思うておるが、改めて考えて
みるとどうなんじゃろう。
あやつの鈍感っぷりを考えるに惜しいどころか引っかかってすらおらんのではないじゃろうか。
…ありうるのう。
このままでは埒が明かん。
これはもう、覚悟を決めて一気に攻めるしかないかの。
くく…待っておれよバカ奴隷。
次こそは必ずトドメを刺してやるからのう。
プレゼントに感動して
「朱風様…!」
と畏敬の眼差しで見つめてくる奴隷を思い浮かべながら、今日は眠りにつく事とする。
一方その頃
主人の布団も敷いた、入浴して風呂の湯も抜き掃除も済ませた、朝食の下ごしらえも終わった。
明日の予定は主人の気分次第なので常に未定。
強いて言えばそろそろ庭の草むしりをしろと命じられかねない程度に雑草が生えてはきているが、あの気まぐれな主人がいつ言って来るかは分からない。
だが草むしりは草むしりで外で騒ぎに巻き込まれるよりは面倒臭くない。
ふと、妙な気配を感じた。
主人の部屋からだ。
「…また何かろくでもない事を思いついたかバカ主人」
何週間かに一度、決まってこの時間帯に殺気とは違う妙な気配が主人からこちらに向けて放たれるのを感じる。
そしてその次の日は大抵の場合何か面倒な事が起きる。
それは主人が関わる関わらないに関係なく、だ。
たまに呪われているのではないかとすら思う。
かと言っていちいち止めるのも面倒臭い。
…寝るか。
幸いにも布団は昨日干したばかりで気分がいい。
主人の布団は抜けた毛が絡み付いていて叩き落とすのが大変だった事を思い出す。
特に尻尾の部分だ。
そう言えば寝る前に力尽くでも櫛を通そうとも思っていたが面倒だったので忘れていた。
まあいいか、布団を畳む時に気になったらで。
何となく
「ちょ、尻尾、尻尾は敏感じゃから自分でひゃわわわ!」
と騒ぎ立てる主人を思い浮かべながら眠りについた。