イノシシの国 ヒト編パート3
参
髭が伸びた。
仕方なしに伸ばした無精髭が、もみあげまで伸びてきて繋がっている。
瓶の水で顔を洗い、手拭いで顔を拭って振り返ると、ご主人様がちょうどあくびをしていた。
「……おはようございます」
ご主人様は鷹揚に頷く。
外は陽気も手伝い、春から初夏の雰囲気を漂わせつつあった。
そろそろ一張羅の洗濯もしたい時分で、俺は下着姿で泥だらけのズボンと靴下を水洗いし、ひなたぼっこをしながら、上も干す。下が生乾きでも乾くと、ズボンだけ履いて、今度は下着の洗濯にかかる。
ご主人様は、そんな俺をただ眺めていた。
切り株に腰掛け、焦げ茶の硬い髪と小さな耳が、日の光に透けている。
ご主人様がいつも身に纏っている衣は、胸の大きさを覆いきれないらしく、胸元はいつでもはだけていた。膝小僧の覗く衣の丈の長さも、長年着込まれた生地の感じも、何もない家と相まって、貧乏なのか、無頓着なのか、よくわからなくなってくる。
ご主人様は物を持たない。
ご主人様が元々持っていた物は、この家と、大きな水瓶と、薄い掛け布団と、数枚の手拭いと、身につけている衣だけだ。履物すら無い。いつも裸足だ。
食べ物は、捧げ物や、山の物を適当にとって食べている。家の中では火を使わない。
用を足すのも、外で行う。
不便きわまりない暮らしのはずなのに、ご主人様は気にも止めず、日中はどこかへふらりとでかけるか、俺に用事を言いつけて、山を下りさせる。
家は、本当にここで人が暮らしているのだろうか、というほど、生活感が無かった。
土間に増えた荷物は、俺が下から持ち帰ったもの。
大きな背負い籠も、農具も、それから、僅かばかりの食器や身繕いの品も。
なんとか、箸だけは自作した。茶屋でこっそり余った竹を分けてもらい、慣れない鉈のような刃物と格闘して。
ご主人様は、物が増えても何も言わない。
俺の生活の匂いだけが日に日に濃くなっていくのに、ご主人様の生活感と言えば、酒を呑む時と、飯を食らう時だけだった。
いや、一度だけ、様子がおかしかったことがある。
あの早朝だ。
けれども、俺にはあれが夢なのか、現なのか、よくわからない。確かめる勇気もない。
目が覚めたら、ご主人様が傍らで眠っていただけで、それ以外の物証は何も無かった。
次の日からはまた元通り、朝目覚めてもご主人様は隣にいない。
いや、ちょっと違うか。
ご主人様は外にいるのだ。
今朝みたいに。今みたいに。
ご主人様はただ、俺を見ている。
視線を合わせないように、洗濯に励む。
「ゴボウ」
洗濯が一通り済むと、ご主人様が口をきいた。
「これを里長に届けてくれ」
ご主人様が出してきたのは、あの小さな壷だった。果たして蜂蜜は後どのくらい残っているのだろうか。
「儂は留守にする」
「どこへ行かれるんですか?」
「山巡りだ。こう見えてもこの周囲六山は儂の掌中での。たまには周らなくてはならんが、近隣はともかく、一番遠くまではそうそう行けぬ」
里向こうには確かに、他にも山が見える。
そこまで行く気だろうか。
「帰りは?」
「…わからぬ。だが里には泊まらずに帰ってこい。儂に属する者なのだからの」
ご主人様はいつものように言った。
簀巻きにされた出会いは、供物を山に捧げる儀式だったようで、俺は山のヌシであるご主人様に属している。
山と里は厳密に分けられているようで、行き来は普段無い。
俺も、いつもは、里境の茶屋まで往復して、斎をもらって帰ってくるだけだ。そして、必ず日帰りだ。
「わかりました、ご主人様」
生乾きの服をどうしようか、と考える。
今身につけているのはズボンだけだ。
「これでも着ていけ」
ご主人様が、自ら着ていた服を……、脱ぐはずも無く、傍らに置いていた布の固まりを投げてよこした。
袖がぼろぼろになった七分袖の着物だった。丈も短い。
俺が羽織るとちょうど肘までの袖に、腰の半ばまでの丈になる。
少し埃っぽかった。
「これは?」
「昔の衣だ」
後から帯も投げてよこされる。
俺はそれをいい加減に結ぶと、素足にスニーカーを履いた。
「いってきます」
振り返ってそう言ったが、もうご主人様の姿は無かった。本当に神出鬼没だ。
仕方なく壷を小脇に抱え、茶屋への小道を下る。
「こんにちは」
俺は店先で声をかけた。
「いらっしゃい……なんだ、あんたなの」
茶屋の看板娘は相も変わらず不機嫌そうだ。
「いつもお世話になってます、ミクル様」
軽く頭を下げる。
なんだかんだ、毎日通って、俺は彼女の名前だけは聞き出していた。この辺りでは名字は無くて、区別する時は、住んでいる場所や、父親の名前を上につけるらしい。元々名字なんてそんなものだったのかもしれない。
「何よ。気持ち悪いわね、本題は何」
勿論、自分の名前も名乗っている。呼んでくれた試しがないが。
「あのさ、里長の屋敷ってどう行くんだ?」
ミクルの視線が、届け物の壷にちらりと注がれた。
「それを分けてくれたら教えてもいいわ」
中身は単に蜂蜜だったはずだ。
「甘いものが好きなのか?」
「なっ」
ミクルがみるみる顔を染めた。
「『白膚』じゃないんだから、そんな訳無いでしょ! それより、それがヌシ様から里長様にってことはアレなのよ、アレに変わってるのよ!」
なんで甘い物好きが白膚と関係するのか、そもそもおまえは色白じゃないか、とか。いろいろ疑問は尽きないが、俺はミクルの迫力に押された。
「アレって?」
「アレに決まってるでしょ。いつもお斎を捧げてるあたしが分け前貰ってもいいはずよ」
「だからアレって?」
ミクルは、ようやく、押し問答の徒労に気付いたのか、冷静さを取り戻した。
「蜂蜜酒よ。自力で作ろうとしても失敗するのに、ヌシ様のは絶妙なの」
そんな物を作っていたとは知らなかった。
「先代にも劣らないって、里長様がおっしゃっていたわ」
「先代?」
「ちょっと前までは、ヌシ様は先代の御代だったらしいわ。あたしはまだ生まれる前だけどね」
「へえ。でもまあ、これはご主人様から里長への届け物だから、里長に聞いてみないと何とも」
ミクルは俺を見て、溜息をついた。
「里に入るの?」
「ああ」
「ま、あんたも少しはがっちりしてきて、髭も伸びたから、前よりは軽んじられないかもね」
「だといいんだがな」
正直里人にあまりいい印象を持っていない。
「気をつけて」
「ああ」
俺はミクルに道を教えてもらい、茶屋を後にした。
水田と、畑。
そんな光景の畦道を歩く。
時折農作業をしている、イノシシの女が、手を止めてこちらを見やる。
でも、前みたいに襲っては来ない。だが、近寄っても来ない。
太陽が中天に昇って、俺の長い影が、畑を横切っていく。
昼過ぎにようやく、俺は里長の屋敷にたどり着いた。
何処からか、子供達の声が聞こえてくる。
俺の肩辺りまである高い生け垣の中に入ると、声がぴたりとやんで、静まった。
見られている。
視線だけが、何処からか、俺を見ている。
ため息をついて、玄関へ向かう。
俺がここに来て最初に連れてこられた、あの土間だ。
何ヶ月ぶりだろうか。よくわからない。
一ヶ月半くらいかな。
「誰じゃ」
正面の衝立の後ろから、幼い声がふたつ。重なって言う。
「御山の、供物に捧げられた者ですけど」
これで、わかるだろうか。
ん。
気配がドタバタと去った。
「……来たか、久しいな」
奥から里長が姿を現す。今日は藍染めの着流し姿だった。
両脇にはミニサイズの里長……、じゃない、イノシシの子供がむすっとして、こちらを睨んでいる。
格好からしておそらく女の子だろう。見た目年齢的には小学校高学年ってあたりだろうか。まだ、髪の毛にメッシュが入っている。
「かかさま、こいつ誰?」
「かかさま、こいつ何?」
両脇から双子の姉妹に尋ねられ、里長は相好を崩す。
「御山に捧げたヒトだ。ほら、春先に騒ぎがあっただろう」
「これが?」
「あれが?」
「シンヤです。その節はどうも」
俺は頭を下げた。
「……その名を、ヌシの前で言ったか?」
すっと真剣な眼差しに戻った里長が尋ねる。
「いえ、聞いてもくれないし、言わせてもくれません。いつも『ゴボウ』と呼ばれています」
「ゴボウ?」
「ゴボウ!」
姉妹が愉しげに名前を連呼した。……言いたくなかったぜ。
「ゴボウか。ではわたしもそう呼ばせてもらおう」
里長が笑いながら言った。
「いえ、出来れば、名前の方で……」
「ゴボウ!」
「ゴボウ!」
俺の抵抗は無駄だった。
「で、用向きは何だ、ゴボウよ」
「……これを、ご主人様より預かってきました」
俺は土間に突っ立ったまま、壷だけを玄関の畳の上に置く。
里長は跪いてそれを確認した。
「ふむ、蜂蜜酒か、久しぶりだな。後でいただくとしよう」
「あの……」
「なんだ」
「それをミクルの奴がちょっぴり欲しがっていました」
言うだけ言ってみる。
「ミクル?」
里長が首を傾げた。
「ミクル!」
「赤毛!」
双子が叫ぶ。
「ああ、茶屋のあの娘か。元気にしているか?」
「はい。いつも世話になっています」
「そうか。それはよい」
そう言って、里長は奥に入っていこうとした。
どうやら、ミクルの願いは叶いそうにない。
「ああ、そうだ」
里長が振り返る。
「ちょうど、忙しくての。子守を頼みたい」
「子守?」
里長の足下にまとわりつく双子がこちらをじっと見つめた。
値踏みされていないか? 俺。
「どうせ、夜までに帰ればいいのだろう? 昼餉は用意してやるから、面倒を見てくれ」
どうやら決定事項のようだ。
「わかりました」
俺は頷く。
里長は満足そうに笑んだ。
「その髭、似合っているぞ」
「どうも」
子守り、というからには、双子の相手か、と俺は思っていた。
だが、生け垣を抜けた時の視線はそれ以上にあり、今、俺は足下を固められて途方に暮れている。
「ヒゲだ」
「ヒトだ」
「デカい」
ちまっこい服を着たうりぼうが数匹。
それに混じって、獣耳の女の子が数人。
こいつらのガキ大将は、里長のところの双子らしく、今は黙々と給仕をしている。
「そこ。並べ」
「飯、やらぬぞ」
わーっと、俺の元から散っていく子供達。
両手で数えられる程の人数だが、とにかくやかましい。
「ゴボウ。おまえもだ」
えらそうに、双子の片方が命ずる。
「へいへい」
里長の屋敷はどうやら日中は保育園のようになっているらしい。
母親達はそれぞれ、農作業にいそしんでいる。
里の全部の子供達が集まっている訳ではない。小さな子達ばかりだ。
双子だけが、飛び抜けて大きい。
俺は久々に賑やかな環境で、飯を食べた。
うりぼうの子供も、獣耳の子供も、皆同じような短い着物を着ている。うりぼうの方は、足が蹄。獣耳の方は、俺と変わりない。皆、同じように小さな牙と、剛毛と、尻尾と、小さな耳を持っている。
俺は一人髭面のヒトで、背丈はちび共の倍近い。
遅い昼食の後は、ねだられるままに、高い高いを一人三回繰り返し。ジャイアントスイング等もやってみて。くたくたになったところを、里に連れ出された。
田畑は、芽が伸びて、草になった一面の青に彩られて、そよ風を受けて、きらきらと光っている。初夏の緑はまぶしくて、日差しの中を駆けていく子供たちが、俺の周りを駈け回りながら、俺の手を引っ張っていく。
「こっちこっち」
用水路だろうか。ちょっとした川のほとりに連れてこられる。
土手沿いにはちょっとした木陰もあって、俺はへばって、座り込む。
「小魚がいるんだぜ」
「虫も」
「捕ってみせてよ」
ねだるガキ共に、手を振る。
「……さすがに、無理」
息が切れて、しゃべりにくい。
「ゴボウだなあ」「ゴボウだ、ゴボウだ」
ひどくがっかりしたような口調で言われる。
何なんだ? ゴボウって。
「なあ、ゴボウってどういう意味なんだ?」
「食べられない」「役に立たない」「ひょろ長い」
そういえば、イノシシ達は案外グルメだ。
ゴボウのささがきが飯に入っていたことは一度も無い。
ご主人様もそういうネーミングだったのか。俺はひそかに落ち込んだ。
だが、落ち込む暇も無く、再び里の中を連れ回され。
里長の屋敷に戻ってきたのは、夕暮れ時だった。
「世話になったな」
里長は、俺を労い、荷を持たせた。妙に軽い、包み紙に覆われた荷物。
「なんですか? これ」
「おまえのその上着。昔ヌシが着ていたものだろう」
「……そうみたいっすね」
「そんな襤褸を着せて寄越したということは、そういうことだ。いや、あやつにも色気が出たとは、喜ばしい。これからも仕えてくれよ」
里長は目元に笑い皺を滲ませて言った。
ご主人様をあやつ呼ばわりか。どういう関係なんだろ。
そもそも、ご主人様は、どうやって、ヌシになったんだろう。
(ちょっと前までは、ヌシ様は先代の御代だったらしいわ。あたしはまだ生まれる前だけどね)
わからないことだらけだ。
そう思いながら、俺は帰途についた。
日も暮れると、見慣れた景色がわからなくなる。
帰り道の途中で、俺は見えなくなり始めた道に焦って、登っていた。
往復しているうちに気付いたが、よく注意してみると、この道から無数の獣道が交差して、あちらこちらに消えているのだ。日中は俺のスニーカーの足跡も見えるが、今は暗くておぼつかない。
俺は注意深く、荷物を抱え直して、微かに浮かぶ、岩の輪郭に手をかけた。
「んっ」
ん?
今、岩が生温かかったような。
それに。感触が岩じゃない。
「どこを掴んでおる」
一瞬遅れて、ご主人様の声がした。
「あ」
ご主人様の、胸を、わしづかみに、した、ようだ。
俺の手からはみ出るご主人様の弾力ある胸。
慌てて手を離そうとすると、ひっかかって、布地がめくれる。片乳がぷるんとはみ出した。
硬直する。
「迎えにきてみれば、何だ」
ご主人様は、前を直さずに言った。
背後には、夕闇に浮かぶ山の輪郭。
坂道なので、俺の顔の前に、ご主人様の張りのある乳房が、でんと、目の前にある。段差万歳。
岩に足をかけて、片膝を上げたご主人様の姿勢のせいで、太腿も、半ばどころか、付け根まであらわだ。
今気付いたけど、ご主人様って、もしかして、褌?
いや、それだと尻尾が……。いや、尻尾の下からまわしているし、左右は紐っぽいし……。
いかん、妙な気分になってきた。
「ご主人様、前、隠してくれませんか」
「おまえがやったのだろう」
「いや、俺も男なんで」
「そんなのはわかっておる」
何だか、妙な間があった。
「一度試したであろう?」
蜂蜜の匂い。早朝の秘めごと。
俺の脳裏でフラッシュバックして、めまいがしそうになる。
あれは、事実か。
「ご主人様」
自然と声が低くなった。
「なんだ」
俺をご主人様が見ている。
朝と同じように。
朝と同じように?
ごくりと唾を飲み込んだ。
「いいですか」
「なんっ……」
ご主人様の声が途切れた。
俺の手が、ご主人様の胸を掴んだからだ。
そのまま後ろに回り込んで、陥没している乳首をつまみあげる。
「いたっ……」
「なかなか勃たないっすね」
荷物を落とさないように、片脇で挟みながら、両胸を後ろから鷲掴みにする。
首筋に息を吹きかけると、反応して背が反り返った。
「誘ったのはご主人様ですから」
「儂は何も……」
そうだ。
ご主人様は俺を誘っている。
じゃなきゃ、あんな露出度の高い格好でうろうろしているはずがない。
あんな胸がほとんど隠れてない着物を着ているはずがない。
今だって、胸を隠さないはずがない。
闇に浮かぶ肌を撫で回す。
「いいんですよね?」
足下が坂道なのはやりにくい。
俺は、僅かに森の方へと押し倒した。
ご主人様が気圧されて、斜めに張り出した木の上に背中を押し付ける形になる。
「こんな危ないところで、動いたら危険ですよね」
ご主人様に体重を預けながら、俺は慎重に足場を整えて、ご主人様の胴体をまさぐり続ける。
ああ、やはり褌だ。
この前の時はすでに何も履いてなかったから気付かなかったけど。
こんなにお尻の割れ目に食い込んで。
何気なくずらすと、割れ目の奥へと指を進める。
少しだけ、濡れている感じがする。
荷物が足下に落ちる、音がした。
それを踏まないように、足で横へと蹴り上げて、どかす。
ご主人様の体を木に押し付け、片足をあげさせて、腕を通し、尻からあそこを攻めると同時に、胸に吸い付く。
「んっ」
「勃ってきたっすね」
俺のよだれでべちょべちょの乳首を舌先でつついて、転がす。
「儂は……」
ご主人様の中から、とろりと、愛液が溢れ出してくる。
「着替えましょうね、ご主人様」
俺は、帯はそのままに、ご主人様の着物をはだけさせる。
豊かな胸があらわになり、そよぐ風に、よく濡らした乳首が勃ったのを手のひらで確かめると、そのまま、揉み込む。
「くっ……」
ご主人様の体がずるずると、下へ滑り始めた。
それを抱きかかえ、俺は一気に、腰をすりつけた。
ズボンの布地が、褌の食い込みをさらにきつく、食い込ませる。
「あっ」
腰を少し離すと、ご主人様が潤んだ目で俺を見上げた。
闇の中で、ご主人様の目が光っている。
俺は、ズボンのチャックを下ろした。
そのまま、今度は褌を少しずらして、挿入する。
先程出た、とろりとした愛液が、俺の侵入を助けた。
そのまま、俺たちは息を吐くだけ、抽送の音だけを響かせて、山の中腹で交わった。
ご主人様の押し殺した喘ぎ声。
闇が濃くなり、白く浮かぶ、ご主人様の肌。
ご主人様のしがみつく腕が、俺の着ていた昔の衣をびりっと引き裂いて。
締め付けは最高潮に達した。
「はあっ……」
事の済んだご主人様は、腰にまわった帯だけが、前開きになった衣を形ばかりに押さえていて。
ずらされた褌は、股間の端に食い込み、ぽたぽたと、地面に俺が吐き出した白濁を滴らせていた。
俺は、持って来た荷物を手探りで拾い上げ、土のついた部分を取り払い、丁寧に油紙を開いた。
袖のぶら下がった腕でご主人様の肩に、新しい衣をかけてやる。
「帰りましょう」
ご主人様は、股間をぐちょぐちょに濡らした格好のまま、頷いた。
次の日も、俺は何食わぬ顔で、里に出かけた。
昨日着ていたご主人様の昔の衣は、ご主人様に思いっきり袖を破られたので、いっそのこと、両方とも袖を取ることにして、下にTシャツを着た上に着込んだ。
ご主人様は、里長から贈られた着物に袖を通し、今日も何処かに消えていた。
昨日と同じように、俺はガキどもの相手をした。
ガキどもは小魚を追っかけ回したり、虫取りに興じ、俺はいちいち持ってくる獲物の評定を下したりして、荷物の見張り番をしていた。
そのうち、ひときわ小さいうりぼうが、俺に付き纏うようになった。
他のうりぼうや、女の子達と違い、どうもうまく獲物を捕まえられないようだ。
俺はそいつと、少し離れた川沿いに行き、石切をして遊んだ。
うりぼうの姿に、短い着物。
多分、俺達の年齢にしてみれば、小学生にもなっていないくらいの、幼さだった。
俺の投げた石が水面で跳ねていくのを見て、ちびは目を輝かせた。
「ごぼう」
大きい奴等の真似をして、つたない口調で俺を呼ぶ。
「俺はシンヤだ。それ以外返事をしないからな」
はっきりと言い渡す。
「シンヤ?」
案外素直なちびは、あっさり訂正した。
「おうよ」
気分よく答える。
「あそこの、木、あるだろ?」
「ああ」
「あそこの下、いいの出るんだ」
「いいの?」
「うん。おやつ」
おやつが掘ると出てくるのか。
何を食べるんだろ?
芋とか?
でも芋がこんなところに生えてるとも思えないしなあ。
俺はちびの動きを見守った。
気づけば、周囲のガキどもは皆同じ動きをして、地面をほじくり返している。
「あった!」
「そうか。どれ見せてみろ……」
俺は首をかしげた。
どうみても、ただのミミズだ。
若干太いが。そして長いが。
次の瞬間。
俺は目を疑った。
ちびは、ミミズを食った。
うれしそうに、ミミズを食べる姿に、俺は引いた。
嫌な予感がして、周囲を見回す。
皆、ミミズを食っていた。
「シンヤ、食え」
ちびが、俺にミミズを突きつけてくる。
「いや、それはちょっと」
「うまいぞ」
「勘弁……」
いつのまにか周りをガキどもに囲まれていた。
皆、俺を見ている。
俺はその場から全速力で逃げた。
意外に追っかけてくるスピードは速く、鬼ごっこは日暮れまで続いた。
次の日からは、雨が続いた。
こうなると舗装されていない山道はぐちゃぐちゃで通れない。
俺は斎を取りにいくことも出来ず、ご主人様と家にこもっていた。
「雨、やまないっすね」
ご主人様のあそこを舐め回しながら、俺は言う。
「ああ。……まあ、この分だと三日は降り続くだろうな」
ご主人様は俺に足を開いた格好のまま答えた。
「そんなに? あいつら……家の中で退屈してんだろうな」
俺は仲良くなったガキどものことを思い出していた。大人と違って、彼らは偏見が少なかった。
女の子はこまっしゃくれてたけど、男の子は本当にうりぼうそっくりでかわいかった。
ミミズ食いさえなければ。
「何、雨期が終われば本格的に夏になる。それまでの辛抱だ」
俺のヒゲの感触がたまらないのか、ご主人様が時折身をよじらせる。
「そうっすか。でもこっちは、辛抱しませんよ」
俺はご主人様の尻尾の付け根に手を伸ばし、愛撫した。
「うむ……ぁ」
俺は、ご主人様の耳の付け根を甘噛みした。
俺のやりたい盛りがおさまると、ご主人様のムラムラもおさまって来たようだった。
前よりは長めの衣をまとい、胸がはだける心配も無い。
その頃には山も雨がやんで。
俺は久々に茶屋へ顔を出した。
雨の間は外出するのはご主人様だけで、ご主人様の穫ってくる物はすべて未調理だったからだ。
「よう、久しぶり」
俺の顔を見た途端、ミクルは青ざめた。
「何で来たのよ!」
「何でって……お斎をいただきに」
「そんなの、あたしに任せて御山で待ってればいいでしょう! 今まで飢え死にしなかったんだし」
ミクルの剣幕からは、怒りの意味がよく読み取れなかった。
「何か、あったのか?」
俺はおそるおそる訊いてみる。
「あんたが、構ってたちび。死んだわ」
何を言われたのか、わからなかった。
「あんたが来なくなってからも、あんたが教えた石切だっけ? あの遊び。1人で川にやりにいってたのよ」
あの、雨の続く、日にも?
「随分、御山には降ったわよね。あっというまに増水したわ。里は雨が止んでいたのにね」
「……嘘だろ?」
久々に晴れた空がまぶしい。
「さっき、ようやく下流で見つかったわ」
俺はミクルの制止を振り切って、駆け出した。
あの川は用水路で、普段は浅く、増水する時はあっというまに増水する。
曇り空の日、俺が来ないのを待ちくたびれたあのちびは、1人で遊びに出かけて、石切の練習をして、鉄砲水に溺れたのだ。
俺が調子に乗って、2日も子守りをしなければ。
俺があんな遊びを教えなければ。
あのちびは助かっていたかもしれない。
やっとたどり着いた下流は、人だかりが出来ていた。
ざわめきが起こる。
俺を、見つけてではない。
川向こうから渡ってくるご主人様を見つけて、だった。ご主人様は見慣れぬ錫杖を手にしていた。
皆の衆が伏礼する。
「死んだ幼子は」
「ここに」
ご主人様には、俺がさんざん溺れ込んでいた時とは違い、威厳のようなものがあった。
里長が仕立てた着物は、あつらえたように良く似合い、その威厳を引き立てている。
「御山預かりの幼子は、親の手元に帰ること無く、地に還る」
ご主人様は上流の、俺たちが遊んでいた方角を指差した。
「この幼子が落ちた場所に、木を植えよ。そしてその下にその亡骸を埋めるが良い。地を踏み固め、鎮魂の舞いを踊れ。さすれば、幼子は還るだろう」
イノシシの女達は平伏した。
俺は薮の陰に隠れたまま、一部始終を見守り。
白い布にくるまれた遺骸が葬列に運ばれていくのを見届けて、その場を後にした。
亡骸は、人ごみで見えなかった。
だが、周りをついて歩くガキどもの中に、あのちびの姿は無い。
俺が。
俺が、殺した。
自責の念に駆られ、俺は山まで走り出した。
途中、御山の中腹で、花の咲き乱れる場所があった。
そこは、急激に伸びた草花や蔓で、登り道が、見えなくなっている。
行きは気付かなかった。
この場所は……。あの日、ご主人様と帰りにあった場所だ。
あの時は暗かったけど、こんなに草花が生い茂っていただろうか。
まだ一週間も経っていないのに。
俺はしばし、吸い込まれるように、咲き乱れる花々を見ていた。
「……か」
そんな俺の背後から、何か、声がした。
俺は、驚いて飛び退く。
草花の生い茂る茂みから、イノシシの頭が、にゅうっと突き出した。
随分と白毛の混ざった、艶のない毛並みに覆われた顔とは不釣り合いな、黒々とした瞳。
手には錫杖。服装は、山伏みたいな格好だった。
俺は既視感に襲われた。
「ここは……か」
俺は錫杖に見覚えがあった。
さっき、ご主人様が手にしていたものだ。
そして。
初めて落ちて来た時に見た、祠。
そこに彫られていた像が持っていたものに、よく似ている。
「なんですって?」
俺は聞き返した。
イノシシが、人の言葉を喋ってる。うりぼう達で慣れたはずなのに、落ち着かない。
何だか、変な臭いが漂ってくる。でも顔を背けたくても、背けられない。
「ここは白翁山か」
しゃがれた、老婆の声。老人じゃない。老婆だ。
俺は、答えられずに押し黙った。
イノシシの老婆は、一歩前に踏み出て、俺は一歩退がった。
「ここは白翁山か」
「いや、ここは白継山だ」
力強い声が、背後から響く。
振り返るとご主人様がいた。
「ご主人様……」
少しほっとして、声をかける。
でも、いつのまに登って来たんだ?
俺が逃げ出して来た時は、まだ、里人に指示を出していたはずだ。
ご主人様を見て、老婆が跪いた。
「門番衆じゃな。名は何と言う」
ご主人様は俺の脇を通り過ぎ、坂道の上から老婆を見下ろした。
「白翁山がヌシの配下、カンナにござりまする。貴方様は」
「白継山がヌシじゃ。白翁山の跡目にあたる」
「では、白翁山がヌシは……」
「数十年前に、儂が」
「そうでございましたか。不義理申し訳ない」
老婆はがくりと肩を落とし、錫杖にすがるように、上半身を支えた。
「いや、煙火の一つもあげぬ儂に非があろうて」
「門番衆ともあろうものが、代替わりに馳せ参じぬとは……」
老婆が咳き込んだ。
「社へ」
ご主人様が厳しい顔で言うと、歩き出した。
この裏の獣道ではなくて、大階段のある表の方へ。
無数ある獣道を横に抜けていく。
俺はご主人様と、老婆の後からついていった。
何者なんだろう。このイノシシの顔をして喋ってるばあさんは。
段々日が暮れてくる。
通ったことの無い獣道は、枝が張り出していたり、薮で視界が遮られたりして歩きにくい。
でも前を行く二人は全くそんなことを気にしていなかった。
隣山に、夕日がかかっている。
長い石畳の階段に、三人の影が落ちていた。
最初に簀巻きで運ばれて以来、ここに来るのは初めてだ。あの時は担がれて通っただけで。
階段の下の方は、森の中に消えていて見えない。あの向こうに里があるんだろう。
「さて、門番衆カンナよ。こうして姿を見せるとは何用じゃ?」
「そろそろ、御山に還る頃だと、体が告げておりました故。こうして長旅を重ねて参りました」
「どこまで行っておったのじゃ?」
「東の果てまで。海も、見ました」
「海か」
ミクルが言っていた。塩の街道をずっと行くと海があるって。どのくらい遠いんだろう。この平野と山に囲まれた場所からは想像がつかない。
「その後、書物堀で門番を相つとめ、数百年が経ち。御山の代替わりも耳にしながら、動きもせず。何とも、不心得者にございます。ご容赦くださいませ」
数百年?
一体、このイノシシ達は、ご主人様は、何歳なんだ?
「書物堀か。……カンナよ、ヒトに会ったことはあるか?」
いきなり、何を。
俺は息が止まりそうになった。
「……はい。幾度か」
少し、間があって、老婆が答える。
ヒトって、人間のことだよな。俺みたいな奴らってことだよな。
じゃあ、なんとか堀っていうところに行けば会えるのか? そう老婆の肩を揺さぶって聞いてやりたくなって、近づいたところを、俺はご主人様に制止された。
錫杖が揺れて、俺と、老婆の間を分つ。
「そこに、他に誰かいなさるのか?」
老婆がきょろきょろと見渡した。
俺に最初に会ったのに、俺に気付いていない?
「儂につき従う者がおる」
「おお、それは失礼いたしました。もう、目も、鼻もききませぬ……」
耳は、まだかろうじて、聞こえているようだった。そういえば、ご主人様の声は、よく通る。そして、今はかなり大きな声で話している。威圧の為ではなかったのか。
「山の精気が、凝る、場を、目指し、参……」
緊張の糸が切れたのか、それとも長旅で疲れきっていたのか、老婆は言葉が途切れ途切れになり、腰砕けになったように、階段に腰を下ろした。
「ヌシ様……我を、再び、御山の物へ」
何を言っているんだろう。このばあさんは。
「相わかった」
ご主人様は、錫杖を階段の横の地面に突き刺した。
「よくぞ戻って来た。儂が白翁山がヌシのかわりに、看取ってやろう」
ご主人様は、座り込んだま顔を上げない老婆を、労った。
467 名前:イノシシ国 投稿日:2008/01/03(木) 22:19:00 ID:cy8Ve+L5
抱きしめる、そう思った時。
ご主人様は大きく口を開けて、老婆の肩口に噛み付いた。
「ご主人様っ!?」
俺は駆け寄った。
「何してるんですか、ご主人様っ」
空が暗い。
日が、山の向こうに落ちたんだ。
ご主人様が何をやっているのか、見えない。
どさっと、物音がした。そして、同時に、ご主人様の影から、何かが倒れこむのが見えた。
ご主人様は無言のまま立ち上がる。
足下の階段に、老婆が横たわっていた。俺は老婆に近寄って、脇から、呼吸を確かめた。
息を、してない。
噛んだ方が下になっているらしく、俺には確かめることが出来ない。だけど、さっきのは間違いなく。
振り返ると、ご主人様が星の浮かぶ夕闇を背に、俺を見下ろしていた。
「なんで死にかけのばあさんを噛んだりしたんですか!」
俺は立ち上がって食って掛かった。
階段の上で立ち上がると、ご主人様の背が、俺の腰ぐらいになってしまう。
「山に還る為だ」
ご主人様の表情は見えない。
「はあ? だって、あいつの時は何もしないでさっさと木の下に埋めてたじゃないですか」
俺は見届けなかったくせに、そう言った。
「毛並みの生え変わらぬうちは御山の物だ」
うりぼうだからってことか。
確かに、俺の世界でも、七つまでは神様のものとか、そういう風習が昔あったはずだ。
でも。
「御山の物、御山の物って、俺も御山の物ってやつなんですか?」
やりきれなかった。
この世界に来て、最もやりきれなかった。
「そうだ」
ご主人様は、錫杖を2つ手に取り、俺の脇を通り過ぎ、階段を昇っていく。
その横顔は、厳しい顔つきのままだった。
「御山って何なんですか、ご主人様!」
「御山は、掟だ」
ご主人様は振り返らない。
「わからないっす、わからないっすよ!」
俺は、ご主人様の背中に叫んだ。
鬣のような剛毛の髪が、誂えたばかりの新しい着物の上で揺れていた。尻尾は髪に隠れて見えない。
ご主人様は、御山のヌシ。俺は、ご主人様に預かれている御山の物。
俺と、ご主人様にはならない。
俺と、彼女にはならない。
御山って、何だよ。
掟ってなんだよ。
生暖かい風が吹いた。
あの老婆の遺骸は、階段と同化したように、闇の中に溶け込み、俺にはもう見分けがつかなかった。
ヒト編 参(了)