猫耳少女と召使の物語@wiki保管庫(戎)

やけ買いなんかするもんじゃない

最終更新:

匿名ユーザー

- view
だれでも歓迎! 編集

やけ買いなんかするもんじゃない


 ----*** 1・やけ買いなんかするもんじゃない ***----

「ごしゅじんさまー。ごしゅじんー。あるじー。マスター。おーい」
「だー! うるさい、暇なら先に寝てろ! ……っひいいいい」
 背中の毛がわさわさ一気に立った。ついでに裏声を出してしまった。いきなり後ろから耳にやわやわ噛みついたヤツがそのままの位置でうひひ、と笑うものだから、その息の圧力がまた耳にかかって首筋の毛まで立った。細い指が視界の隅に入ったかと思うと今度は 目元をマッサージされた。
「目の上ひげー。目の上ひげー」
「引っ張るなー! 頼む、邪魔しないでくれ、明日朝まで最低これだけは書類作っとかなきゃいけないんだよう……」
 俺、なんでこんなの買っちゃったんだろう。

 窓と戸を開け放ったままゆっくりと裏通りを進む馬車があった。中に詰めこまれたヒトメス奴隷の一人と目が合った。俺はその直前に結婚を考えていた彼女に別れを告げられていた。なもんで結婚用だったのに使う当てのなくなった、分割払い頭金にするくらいの金はあった。したたかに酔っていた。ヤケをおこした。
 ゆえにこいつがここにいる。お嫁さんもらってもしばらくはここで住めるよなー、とか ほわほわ考えていた2LDKの賃貸住宅に、小市民には不釣合いな贅沢品が。
「ここだけの話ですがね、『落ちてきた』ばっかりの新品なんですよ。肌もきれいで健康体、お買い得商品」
 黄色い目の口の臭いヒト売りはそう俺に耳打ちして、言い値より遥かに上の値を示した。値切りきれなかったもので、分割払いの先の長さを考えると貧血を起こしそうになる贅沢品になってしまった。
 向かい合った俺をきつい目で睨みすえ、ヒトミと名乗ったヒトメスは、今は後ろから手をまわして俺の頬ひげを引っ張っている。
「抜けないもんだね」
「抜かないでお願い」
 ……俺、ほんとなんでこんなの買っちゃったんだろう。

 ヒトってのは脆弱で魔力がなくてすぐ死んじまうけど、夜の相手に絶品で従順で頭が良くて小器用で特にメスは料理が上手いとか俺、聞いてたんだけど。誰だそんな噂を流したのは。責任取れ。
 ヒトミを買った次の朝、遠慮がちに仕事の間の掃除と夕飯を頼んだら、特にメシが大変な事になっていたもので俺はつい、そんな噂を流した奴への怒りもこめてヒトミを怒鳴りつけてしまった。そしたら逆ギレされた。
「文句があるなら電子レンジとレシピ集持ってこい!」
 お前は何を言っているのだ。
 俺の、頭が一瞬真っ白になった呆れ顔を見てヒトミは逆ギレで紅潮した頬を更に赤くした。
「すみませんね料理下手で。でもコンロも調味料もよくわかんないんですよ! わかったのマタタビ風味塩くらいだよ!」
 それで、何かお祝い事があったら食べようと大事にとっておいた青猫印の高級干物が更に塩にまみれているわけか。全体的に塩っぽい食卓に悲しくなってひげを下げたら、へんな形の耳まで赤くなっていたヒトミが青筋を立てた。
「仕方ないでしょ、前のゴシュジンの所じゃちゃんとした料理人がいて私が料理する事なんてなかったんだから」
 こちらこそすみませんね料理人なんて雇えない身で……って待て。待てやこいつなんて言った。
 前のゴシュジンの所?
「中古かよ!」
「車かよっ」
 俺が思わず叫んだ言葉に軽く、よく意味のわからないツッコミを入れながら、瞬時に鋭く吊り上がったヒトミの切れ長の目と、その瞳の奥に見えた光の色は一生忘れないだろう。忘れられないだろう。
「まさか『ワタシ、初めてなの』っていうヒト奴隷を期待してた訳じゃないよね。ガバガバじゃない事は確めたでしょ? 前のゴシュジンサマが大事にしてくれたから、傷もないし。……自分で言うのもなんだけどお買い得だったと思うよ」
 喋る声と、喋る間に目を伏せていったヒトミの表情も忘れないだろう。

「いいかげんコタツ片付ければ? コタツ布団抜け毛だらけじゃん。ひえー、コタツ布団が白黒になってる」
「どーせ掃除すんの俺だろ、好きにさせてくれ。コタツに座布団が一番集中できんの」
 身の丈に合わない贅沢品を購入してしまったもので稼がねばならんのです、頼むから計算に集中させてください贅沢品さん、尻尾足指でつまむなー頼むー、せめてこの入荷予定表だけは仕上げておかないと……。
 付根からリズミカルに尻尾を踏まれたら、俺の理性が俺にさようならー、を告げて去っていった。そのこだまがまだ響くうちに、カギ尻尾ー、と楽しそうに言うヤツの足が、カギ部分を踏む前に。
 腕だけ後ろに回してヤツの胴体あたりを抱え、コタツ布団に引きずりこんだ。

 家に連れ帰った後俺の、ひそかに気にしているカギ尻尾を見た時ヒトミはそれまで動かさなかった表情を少しだけ緩めて呟いた。
「ミーコもカギ尻尾だったっけなあ……」
「ミーコ?」
「子供の頃うちにいた三毛猫」
 ……「落ちモノ」が元いた世界に「猫」って動物がペットとして飼われている事は知っていたが、なんだか複雑な気分になったものだ。そのミーコはどうした、と軽く聞いたらとっくに老衰で死んじゃってる、と答えられたものだからなおさら。
「尻尾さわっていい?」
 今にして思えばその時、「ご主人様に対してその口のきき方はなんだ」とでも言って冷静にしつけておけばよかったのだ。だが脳味噌では異世界の猫という動物に思いを馳せ、下半身ではいきなり押し倒してもいいもんかなー柔らかそうだなーなどと考えていた俺は、 実に気さくに「ほいよ」とヤツに背を向けて座ってしまった。
 結果、俺は「尻尾で感じちゃうのボク」という新しい自分を発見し、ヒトミは口では「ごしゅじんさま」なんぞと言うものの俺を主人などとは全く思っていないであろう態度となり、現在に至る。

 指の第一関節から先を右手から順に十本口に含んでいる間、ヒトミは何も言わない。動かない。じっと俺の口にまかせている。二度目にこれをやった時面白いのか、とだけ聞いてきた。ヒトの指と爪は柔らかくて面白い、と答えたら黙った。それ以降なんとなく抱く際の儀式のようなものになっている。その後ははだけさせた肩に舌を、そのまた後は首筋 にやわやわと牙を。
 ……尻尾で興奮して押し倒した最初の日、ヒトはどこがいいのだろうかと慎重にいちいち聞いていたら「くそやかましい!」という声とともに急所を蹴られそうになったもので、試行錯誤という安全策を取らざるを得なくなった。誰だこんなのを買ったのは。俺だ。
「ふ……ん……」
 こーいう声を上げさせてからは俺が強い。特に鎖骨がヒトミの弱点。座布団の端を握りのけぞって舌から逃れる体が、布地ごしでも胸の突起を目立たせている。舐めろといわんばかりなので舐めるしかないだろう。ヒトミが勝手に引っ張り出して着ている俺のパジャマを鼻先でまくりあげたら、ひげがくすぐったかったらしく露になった腹が波打った。
 何度抱いてもヒトの柔らかさには感動する。こいつだけかもしれないが。胸も尻も太股も、二の腕もしっとり触りごこちがいい。中でもたゆんと揺れている胸がいい。齧りつきたくなるのを我慢してやっぱり我慢できなくて、思いきり口を開けて甘噛みしながら舌で 乳首をつついてやると今度は、くすぐったさへの反応ではない吐息が返ってきた。吐息と、耳をそっと探る指が。
「ああ……耳の毛すべすべ……腕の毛きもちいい……」
「……俺の長所は毛だけかよ」
 ヒトミが恍惚とした表情で目を細めているから、まあいいんだけど。肌から離してしまった口をこれまた柔らかい唇に押しつけて、毛にばかり言及する声を封じながらだぶだぶのパジャマズボンと下着を一気に脱がせ、ようとした。コタツに引きずりこんだのは失敗だった。可動範囲が狭いったらない。肘天板にぶつけた。痛い。至近距離で見上げるヒトミが喉で笑って、体をずり上げてくれなかったらもっとお互いの足と腕に青痣が出来るはめになってたんじゃないだろうか。
 女の裸が寒そうに見えるのはネコもヒトも同じ、けれど華奢な分こいつの方が痛々しい。こっちも慌てて脱いで覆い被さったら、待ちかねたように肩に顔を埋められた。本気で毛だけか、俺の価値。
 それでも緩く抱えこんだ体を膝までゆっくりとなぞり、戻って足の間を探るとヒトミの息で肩が熱くなる。指に感じる液体を粘膜に戻そうとする動きには背に回された腕の力が弱く返ってくる。体温低いくせに、沈めた指の先はねっとりと、荒くなる息より熱い。
「……ヒトミ」
「ん」
「あ、そのまま」
 大きく広げようとした両足を跨いで、少しずつ捻じこんでいく。まだ下半身の大部分コタツの中、コタツに当たって痛い思いをするのは俺だけでいい、と冷静なふりをしてみた。
 そうでもしないと、苦痛なのか快楽なのか判断のつかないかすかなあえぎと締められる感覚にあっけなく暴発しそうになる。どうしてこいつはこんなに、こらえているような甘い声を出すんだろう。叫べばいいのに。動かしながら、敏感な箇所に根元を押しつけて腰を揺らしてやったらのけぞった喉から鋭く息を吸い込む音がした。コタツが邪魔で大きく動けないの、幸いしたかも。
「ちょっと、うあ、もう、だめかも」
「おれもっ……」
 ただでさえ狭い肉の道で、突き入れた奥から順に、太股の筋肉まで総動員して絞り取る動きに耐えきれなかった。のけぞっていた上体が震えてしがみつくとほぼ同時に俺も果ててしまった。今度こそこいつをいかせていかせていかせまくってやる、と思っていたのに。
 細かく打ちつけるのをヒトミは好むらしい、と頭の中にメモメモ。出したばかりの冷めた頭の一端では……なんで高い金出して買った相手を必死になっていかせようとしてんの? とかも考えてしまうわけですけれども。

 窓と戸を開け放ったままゆっくりと裏通りを進む馬車があった。中に詰めこまれたヒトメス奴隷の一人と目が合った。腕と足を剥き出しにした粗末な服に、手枷足枷首輪鎖が不釣合いにごっつく見えたヒトたちの中、そいつだけは窓と開け放された戸から血走った目を離していなかった。だから、見物人の一人だった俺と目が合ってしまった。反抗的なのがいるな、大変だろう、とからかい混じりに値をつけたらヒト売りがこれもまたからかい混じりにさすがにその値じゃあ、と返した。そのうちついむきになって名刺を出したら即座に分割払いの話になった。俺はその直前に結婚を考えていた彼女に別れを告げられていた。ヤケをおこした。したたかに酔っていた。買ってしまった。「落ちてきた」ばかりだと言ったヒト売りの言葉を信じてしまったのは合った目の鮮烈な印象からだろう。
 腹の下であえぐ顔を見ても、胸に「うははもふもふの面積広い」と頭をすりつける声を聞いても、あの時の、隙を窺う目と全身に緊張感をあらわした姿はいまだにはっきりと記憶に残っていて、たぶんずっと消えない。

「おい」
 胸元に眠そうな顔をうずめながら、手を伸ばして背中の和毛を抜いているヒトミの腕を軽く押さえる。ついさっき抜け毛だらけとか言ったくせに、何をやってるんだ。
「二十年? 三十年? そんくらい後か、指差して笑ってやるからな。お前の胸がどんだけ垂れたとか、皺が増えたとかいちいち笑ってやるからな」
「ほう」
「ほうじゃねえ。本気でやってやる。シワシワになったら思いきり笑ってやる」
「へえ」
「今のうちにほーとかへーとか言っとけ」
「ふーん」
「いででででで抜くな、まだそれ抜けない毛!」
 柔らかくて頼りない腕が、押さえていた俺の手をすり抜けた。眉間をすりすりと撫でられて俺は瞼を閉じた。
 自分で発した言葉に目頭が熱くなったのをごまかすため、なんて絶対言わねー。
 ほんと、ヒトなんて買うもんじゃない。



 ----*** 幕間・ある日の朝と夜 ***----

 雨が降っている。
「ごしゅじんさまー、もういいかげん起きないと」
 雨が降っている。石畳を被った水膜が滴を弾く音か、細やかな刻む音が私を更に苛立たせている。私の記憶が確かなら、起きないと遅刻するんでないかいごしゅじん。うーだのひにゃーだの唸りながら毛布抱えてる暇ないよ。
 ミーコがでろんにゃろんと雨の日寝てばかりいたのは覚えている。前のゴシュジンも雨の日はよく居眠りをしていた。しかしこのごしゅじんは勤め人(勤め猫?)だ、本能に負けて遅刻したらいかんと思うのだ。元の世界では、這ってでも無遅刻無欠勤を貫こうとした私の責任感が許せない。
「ごしゅじん……ぬぐぐぐぐぐ」
 毛布ひっぺがし失敗。ならば寝台の下に引きずり落とそうとしたが失敗。重い。目も開けやしねえ。ふなふなとか言ってるんじゃないー。
 せめて朝ご飯でも用意しようかと、戸棚を開ければ一斤塊のパン、切って売られるべきだろう常識的に考えて、と歯軋りしてパンを戻し、またごしゅじんに声をかけるも答えはないのでブラッシングと洗顔の準備、済ませてもやはり白黒猫はヨダレをたらして寝くたれており、足踏みをしながら果物などコタツに並べ、致し方なく改めてパンを取りだし切ってみたら、「一枚なのに直立する食パン」なる末広がりの立体作品になってしまい、もうなんだか絶望した。
「ごしゅじぃん! 起きないとひげ引っ張るよ!」
「むー……ちゅー」
 なに、この子猫がおっぱい吸うみたいな口。
「……お目覚めのちゅーしてくれたら、起きるかもしんない」
「…………」

 皿に直立するパンを見て一瞬目を点にしていたごしゅじんは、まだ眠そうな顔のままもそもそそれを食べ終えて、言った。
「俺の勤め先、国内向けの商品しか扱ってないから、従業員みんなネコなんだよね。つまりほとんどみんな雨の日眠いの。今日も三分の一くらい遅刻してくるんじゃないかなー。俺、特に雨弱いから、珍しく早いなってびっくりされると思う。んじゃ、いってきまーす」
 ……歪んだ逆台形になってしまったパンを見て湧きあがってくるこの黒い感情は何だろう。


 雨はやんだが、ごしゅじんは夕食後もまだ少しぼーっとしている。
「ごしゅじん、そろそろちゃんとお風呂入ったら?」
「ん? 入ってるだろ」
 嘘だ。私が湯を使った後に、申し訳程度にぴちゃぴちゃ要所要所を洗っているだけだ。ブラッシングは欠かさないとはいえ、今日のような湿度の高い日は特に、毛先まで脂がまわってぺっそりしているように見える。だいたいこの図体で蚤でもわいた日には、大変な事になるのではなかろうか。
「ヒトミ、そうは言うけどな、厄介なんだぞ男は」
 ごしゅじんは短毛じゃないか。長毛にゃんこよりずっとマシだ。濡れるのが嫌なだけだとみた。
「う。うーんと」
 何か反論があるのですかごしゅじんさま。
「ヒトミが一緒だったら、ちゃんと風呂入るかもしんない」
「…………」
 先に風呂場で待っていたごしゅじんは、ものっすごくわくわくした顔で私を見てから私が手にした物に目を落とし、首を傾げた。

 こちらのネコも、悲鳴は猫のそれに似ている。
「おま、お前、お前の世界じゃタワシでネコこするのかよおおお!」
「こするわけないでしょ」
 力と体格では到底敵わない相手だが、幸いこちらは弱点を知っている。つかんでいる泡だらけの尻尾の主が、非難するように私を振りかえった。
「こするわけないでしょうが。向こうの猫は小さいんだから」
「大きさが違うからって、みぎゃー!」
「何悲鳴あげてるのごしゅじん、向こうの世界で、タワシ健康法ってあったんだよ? こーんなひ弱いヒトの肌でも耐えられるのに」
 こーんな鍋底こすり用の固いタワシは使わないだろうけどね。
「ほんと、か……? ぎゃあお!」
 ああ、お風呂での健康法といえば、粗塩こすりつけるってのも、あったっけなあ……。



 ----*** 2・ベッタベタでもいいじゃないかよ ***----

 明るいオレンジからだんだん薄紫へと変わっていく空に、今日は月が両方とも白く目立つ。家々から漂ってくる夕食の匂いに腹が鳴った。ヒトミも腹を減らしているだろう。自然足が早まった。「いきなり暴走したり爆発したりしそうで怖い」と魔洸エネルギー器の使用を拒否するのはともかく、メシくらいは作れるくらいになって欲しいよ。昼は果物でしのいでいるらしいが、ある日帰ったらひっそり餓死していそうで怖いったらない。……今更ながら分不相応な買い物をしたもんだ。いや、ヒトミだけの話なのかもしれない、これ。ヒトって料理上手なんじゃなかったのか。
「おっ」
「ぴにゃ」
 考えながら歩いていたら、太股のあたりに軽い衝撃がきた。見下ろせばまだ産毛の残るちびネコ坊主。ぶつかった俺を見上げた銅色の瞳がまんまる。すみません、と慌てて追いかけてきた母親らしき人の目も同じ色をしていた。こーいう時だ、結婚してえーと思うのは。
 少なくとも分不相応な贅沢品の分割払いが終わるまでは嫁さんなんか貰えませんけどね!

 通りから家の窓を確認したら、くせっ毛を風に揺らしながら夕空をぼんやり眺めている、黒髪黒耳の横顔がそこにあった。よかった、ちゃんとネコ女性に見える。ようやくヒトの耳を隠せるくらい髪が伸びたので、付け耳付け尻尾を渡しておいたのだ。「二十五で……ネコミミデビュー……」とかなんとか言いながらヒトミはがっくりうなだれていたが、要らないトラブル防止だ仕方がない。
 それにしても。こうして家の窓から、まるで俺の帰りを待つように女性が外を見ているのって……。
 なんだかおよめさんがいるみたいだ。
 ヒトだよ、ヒトだけどよ。少しくらいひたってもいいじゃないか。
 ヒトのヒトミも俺に気付いた。軽く手を上げたら、ヒトミはそれに応じるどころか、窓枠を握りしめて俺をまじまじと睨んだ。傷ついた。いや、傷ついたって言ってもちょびっとだけど。

「……で、ごしゅじん、今度は何持ってきたのかなあ?」
 慎ましい夕食(作成者:ほとんど俺)をとり、片付け(担当:半々)を終えるやいなや ヒトミは俺の前にきっちりと座ってこう言った。笑っているけど目が、目が鋭い。なんで。
「ごしゅじんさまがヒゲを全部ぴんと張って尻尾立てて早足で帰ってきた時は、大抵ろくでもない物かろくでもない知識を『猫井』のお友達から仕入れてきた時です。今日は小脇に、朝は持っていなかった包みを大事そうに抱えていました。更に、普段なら『稼がなきゃいけないんだ』と持ち帰り仕事を出すため鞄に手をかけるところなのに、今日はその包みにまず顔を向けてから慌てて目をそらしました。ゆえに、またろくでもない物を持って帰ってきたのだと推測した次第です。以上、何か間違いがありますか?」
 ヒトミこわい。俺ちょっと涙目。どっちが主人なんだこれ。いや俺だ俺が主人だ。
「猫井技研からのもの、全部ろくでもないと思っていたのか」
 はいここ重要です。一旦言葉を切って物憂げに視線をそらしましょう。
「……『落ちモノ』を、お前を理解しようとして、やっていた事なんだがな……」
「ニーソックスに絶対領域の概念、四十八手図解、ふりふりエプロンと裸エプロンの概念、裸に男物のシャツ概念、裸エプロン派と裸シャツ派対立についての熱い考察、電池切れのあやしいおもちゃ、フランス書院、みさくら語、そんなもんばっかり繰り出された挙句『ヒトってこういうの好きなんだろ?』と言われ続けた日にゃあ、ろくでもないの一言で一括りにもしたくなるっちゅーねんエロヒトオタ猫」
 マンガと小説には大喜びしてただろうがよっ!

 仕事関係で知り合った猫井技研の奴と心友になって、調査後資料的価値のなくなった落ちモノを格安で譲ってもらっているだけだ。エロヒトオタとかゆーな。
「お前の事を考えて」演技をすぐやめるのは業腹なので、物憂げな顔のまま包みを手に取る。
「お前、泳げる?」
「なに、突然」
「ヒトの健康には水泳がいいって聞いてきたんだよ。穴場でほとんど人がいない場所があるっていうから、連れて行こうと思ってこうやって水着もらってきたのに、全部ろくでもない物扱いか」
 ……あれえ。
 一瞬反省の顔になったのに、どうしてヒトミさんは包みから紺色の布地が出てきたのを見た途端に正座の姿勢からおでこがゴンっていうくらい思いきり床に突っ伏してるんだろう。
「す……スクール水着か、それ……ベタだ、あまりにもベタだエロヒトオタ猫……」
 ベタかよ。エロヒトオタ呼ばわりやめないのかよ。でも負けない。
「ほら、これ、字は違うけどヒトミって書いてあるんだろ? ヒト用だぞちゃんと」
 広げた前面に縫い付けられた白布の、滲んだ字を示したらまたヒトミが呻いた。
「うん、高橋瞳って書いてあるね。でも、その上の『5-3』っていう数字には気付いて くれなかったのかなあ?」
「ぬ?」
「子供用! 思いっきり小学生の五年三組瞳ちゃん用! サイズ見てわかんない?」
 暴れられました。
「え、でもこれ、伸びるよ、ほら」
「そら獣人の力で伸ばしたら伸びるだろうけども……」
 ヒトミは頭を抱えて床を転げています。どうしよう。

 それでも、まあ濡らせばもっと伸びるかもね、と言って渋々ながら着てみようとしてくれるあたりが、ヒトミの良い所。
「戸ガリガリするとミーコって呼ぶよごしゅじん!」
 風呂場に閉じこもって内側から閂をかけるのは悪い所。しばらく戸のガリガリも我慢して待っていたらドタバタした音の後、低い声がした。
「……大惨事」
 なにごとだ。
「……男子レスリンググレコローマンスタイル48キログラム代表……」
 だからなにごとだなにが起こっている。
 俺は家主だから知っている。この風呂場の戸は、一定のリズムで揺すると閂が外れるのだ。音を出さないようにしていたつもりだったが、地を這う声が返ってきてしまった。
「今開けたら寝ている間にお前のひげを全部切る」
 ヒトミまじこわい。紳士であるよう努める事にしますすみません。

 無理、と最後に吐き捨てた響きを残したまま扉が開いた。頬を赤らめたヒトミの顔が出てきた。残念ながら着衣ずみ。
「何があった」
「着れなかっただけ」
 切れ長の目がいつもよりずっとすわっているので言及するのはやめておく。何を見たのだろう。
 そうか、スク水プレイは無理だったか……。
「……スク水プレイ、だとう……?」
 あ、あ、頭の中の呟きは途中から声に出ていたようです。瞬時に変わったヒトミの目の色! 怖いすげえ怖い!
「確信犯カッコ誤用カッコ閉じるだったのかエロヒトオタ猫!」
「ぎゃーカッコとか声に出して詳しく怒られた!」
 詳しく怒らないで下さい耳捻られると痛い。

 それでも俺の方がずるい。ヒトミが絶対にその要求に抗わないのを知っていて、彼女の指を口に含んで黙らせる。
 即座に黙って順に指を舐めるに任せている、筈だったが、今回は途中でおずおずヒトミが声を出した。

「あのさごしゅじん。するのはいいんだけど……なんで片手にまだスクール水着握ってん の?」

「大惨事なんだってば! なんでそんな着せようってこだわるのヒトオタ猫!」
 一つの萌え要素らしいから。ってのは置いておいて今は嫌がるヒトミに興奮してますすみません。
 きつい水着に無理やり両足を通させて太股までずり上げたら拘束プレイみたいで更にいいですね。足が開かない分上体を倒させ、脱がせた肌を撫で下ろして後ろから入り口を探る。と、大人しくなったヒトミが風呂場の壁に向かって言った。
「なんか、この頃足閉じたままの、多くない? 私……ガバガバになってる?」
 何バカ言ってんだこいつ。
「何バカ言ってんだ」
 爪がかりのない漆喰に空しく立てられた指を観察しながら、滑らかな背に胸を伏せて擦りつける。
「なってねえよ」
 今触ってるふくふくの胸とか突っ込んだらキュンキュン締め付けてくるであろうあそことか、ヒト最高ーヒトミいいーとか一々言うのはあほらしいから言わない。壁についていた腕もろとも抱きかかえて、肩に噛み付いて、もしゃもしゃさすって笑い声と甘い声を上げさせるだけ。
「大丈夫か? 入れるよ」
「……あ、う」
 上体を抱きかかえて、後ろから具合を見計らいながら入れればやっぱりキュンキュン締め付けられた。のけぞった頭が俺の顎にクリティカルヒットを与えそうになったのを辛うじて避け、首筋に歯形をつけ、思いきり突き上げてやった。

 終わった後太股につたう精が紺の布地にわだかまるのを見下ろして、ヒトミが吹き出した。
「結局スク水プレイされてるし」
 いやこれは厳密にはスク水プレイとは言わない。
「不満そうな顔しないでよヒトオタ猫」
 だからヒトオタとか言うなっての。

   ******  

 人気のない純白の砂浜、柔らかな風、黒い髪によく合う真新しい淡い色の水着、尻尾の穴をふさいだ部分はちょっとばかり見苦しいかもしれないけれど、似合っていますヒトミさん。なんでそんな怖い顔しておられるのでしょう。鳥肌立てて。
「……海かと思ったら避暑地の湖だし。避暑地。とっても涼しい」
 うん。俺もここまで涼しいとは思ってなかった。目吊り上げないで怖いから。
「しかもまだ初夏の高原」
 だから穴場で人気がないわけです。あなたも付け耳外して過ごしていられます。
「風邪で殺す気ですかご主人様」
 ごめんまじごめん。そんなつもりはなかった。また今日の天気、曇り空で肌寒いときてる。
「さっぶいんじゃー!」
 うん……俺も寒いと思う。
「悪かったってばよ!」
「しかもこの湖、火口湖? すごい冷たいよ!」
 足指の先で波打ち際をかき混ぜて、水着姿のヒトが口を曲げた。
「お……泳がない、の?」
「三秒後に心臓麻痺で死ぬこの水温で泳いだら」
 一応水に入りかけたヒトミが、戻って俺を湖に引きずりこもうとした。確かに冷たいですねごめんなさいごめんなさい濡れるの嫌。
「脱げ」
 おお、ヒトミ積極的……じゃないんだな。唇紫色。
「脱げバカ猫!」
 おいら暖房器具扱いであります! 毛! 毛だけ求められてる!
「……人肌で暖めあうって、スク水よりベタじゃねえか?」
「うるさい。さむいんじゃ」
 ベタでもなんでも震えているので毛で覆うしかない。

 涼風の中傾く日の光が湖面を輝かせているのを眺めながら、寒そうな女を後ろから抱えてるのってなんだかあんまりにベタベタだ。
「……ごめん」
「あ、いや、いいよもう」
「お、これってツンデレ?」
「だからなんでそんな概念ばっか詳しくなるかなこのヒトオタ」
 どれだけヒトミが暴れても俺の力で軽く押さえる事ができる。でもなんだかじたばたしてるの可愛いんで胸揉んどこ。
「なに、エロ猫、するのお……?」
 軽く息を荒げて肩越しに振り返るのそそるからやっちゃお。
 胸を揉むうちいつのまにか、最初は醜いと感じていた筈のヒトの毛のない耳がすっぽり俺の口の中に収まっていた。舐り尽くして、胸と肩触って、指駆使して水着の股ずらして、やっちゃう時にはどちらの声が大きいのかわからなくなっていた。

 歯を食いしばって声を殺した背が目の前で動く。どれだけ声を出せと言ってもうつむく。
 水着脱がせればよかった。入れたのこすれまくり。
「どしたの、ごしゅじん」
 いきなり動きを止めた俺に驚いてヒトミが首を捻り、こちらを見た。
「名前、呼んで」
「はいい?」
 かなりの間。こいつ俺の名前忘れてるのかひょっとして。
「今更どしたの、キャパ」
「別に」
「なに鼻の頭赤くしてんの」
「うるせ」
 ……だんだんと上下する腰の動きにひねりが加わるのはサービスなのだろうか。
「ヒトミ、こっち向けよ」
「ん」
 もふっとしたいんだろう? 動きながらさかんに腕の毛撫でてるし、こいつ。
 繋がったままもたもたと足を上げ(途中でひっくり返って後頭部を強打しそうになっていたので慌てて抱きとめた)、向かい合うなり、ヒトミは俺の胸に顔を埋めた。
 それから背を一杯に伸ばして唇を押し付けてきた。
 まだ冷たかった唇が俺の体温と同じになるまで、俺たちは付き合いはじめのガキがするような、不器用に触れ合うだけのキスを続けた。

 細かく揺すり上げるたびに胸に感じる息が荒くなる。真っ黒い髪が胸元でがくがく揺れる。水着ごしに乳首を俺の体に擦りつけて、肩の毛を痛いほど握る指。熱く締め付ける脈動は間を狭めるばかり。虚空に放たれる言葉に意味はあるのか。感じる顔を伏せて見せようとしない頭。顔上げて、とかなんで懇願してるかな俺。やだって繰り返す声、いい。
「あう、やあ、だめ、もうだめ……」
 いきそうですねいきそうなんですねヒトミさん、今日こそいかせまくってやる頑張れ俺。
「きゃ、キャパあ……いくっ……」

 もちませんでした。そんな声反則。


 風が立ち、湖面に小波が光る。そのほとりで冷たいー、とやかましく叫びながらヒトミが水着を脱いでいる。
「何もすぐ洗わなくても」
「カピカピになっちゃうでしょ。ざっとすすいどく」
 照れたように笑う裸のヒトミかなりイイ、と鼻の下を伸ばしているうちに運命の瞬間が訪れていた。しまった忘れていた。
 水着を湖水につけたヒトミが固まっています。
「何、これ」
 どうみてもスケスケです本当にありがとうございました。
 そう! これこそが、猫井技研がその知識と技術を結集して生み出した、濡れるととっ てもよく透ける水着! 男の欲望は技術を発展させる! 人気の無い場所を選び、じっく りゆっくり堪能しようとした深慮遠謀は今一瞬にして台無しになった!
 ヒトミの三日月型に開いた口に、無いはずの牙が見えるのはなぜでしょう。
「それで寒いのに泳がせようとしてたんかこのクソエロ猫ぉー!」
 ヒゲは抜かないでお願い。あと、
 もっかい名前呼んで。



 ----*** 幕間・表紙に律儀に名前が書かれた日記 ***----

(以下、抜粋)
○月×日 晴れ
 三日前、売り渡された。
 こんなもんなのだろう。
 新しい主人が細かく気を遣う。日記もその一つ。
 前のゴシュジンより気楽にもふもふできる。
 キャパシティという名前だそうだ。聞いた瞬間に笑いそうになった。色んな意味でいっぱいいっぱいそうな白黒猫。カギ尻尾。

△月○日 くもり
 これをごしゅじんに読まれた。ずっと読んでいたのだろうか。読めないとごしゅじんは言っている。本当かどうかは知らない。
 まさか人の日記を読んで楽しむような恥知らずではないと、信じている。と書いておく。
×月×日 雨
 猫井のリードさんにキャパは仕事上日本語を少し読めるのだと教えられた。切る。ひげ全部切るくそねこ。
×月○日 雨
 今日は逃げ回るでっかい猫を追いかけて楽しかったです。
 もう日記は読まないと耳を伏せて誓っていましたが、今ひとつ信用がなりませんのでここにもきっちり書いておきます。
 今度読んだらひげでは済ませない。口でもそう言ってにっこり笑ってみたら涙目で尻尾を膨らませていました。弱え。あんたの方が強い筈なのに弱えよごしゅじん。
--------------------

「大したこと書いてないだろお……」
「だからって普通読む?」
 確かに私はこの猫の所有物で我侭を言える立場ではない。しかしこのごしゅじんは箒の連打を許すので、心置きなく大きく振りかぶって振り下ろせる。
「日記書かせたのは読むためだったんか」
「違う違う違う!」
 箒のケバで二人とも咳き込んで一時休戦。
「お前をより良く理解するためにだな」
「斜め四十五度見たポーズで格好つけるなごしゅじん」
 あ、また尻尾膨らませた。何というか、Sっけを自覚したよこのごしゅじんの所に来てから。柄は痛いからやめて、とか自分から言うあたり、ごしゅじんはMなのかもしれない。
「せめて、せめて名前呼んでグレッチでぶって」
『グレッチでぶって』って……椎名林檎もこの世界に落ちてきているのか。聞いてみた。ボロボロの歌詞カードだけ落ちてきたのだそうだ。猫井の担当者が解釈に苦労していたとか。だろうなあ。
 さて。舞い上がった埃もおさまってきたようだし。
「結局ぶたれるのかあ!」
「ぶってって言ったのはお前だ、キャパシティ=スミス!」
 まあ色々あってもこのご主人様の事は気に入っている。言わないけれども。

「で、グレッチでぶつって何?」
「ほんとは私も知らない……結構前の歌だよ、好きだけど」
「どんな曲なのさ」
 そうか、たとえCDが落ちてきても再生手段がないのか。
「歌え」
 げ。

 ***しばらくおまちください***

「ヒトミ……言っちゃなんだけど、歌下手……」
 コロス。
----------------------

(戸棚の奥に隠された日記帳より)
×月△日
 ミーコの夢をみた。正座した私の前にきっちりと座って、うみゃごみゃとかなり長くお説教をしていた。
「やりすぎだ」と言いたかったのだろうか。賢い猫だったから、「立場をわきまえなさい」と言っていたのかもしれない。



 ----*** 終・甘バカップルであと数十年 ***----

 ヒトミがずっと俺の顔色をうかがっている。ひげを引っ張ったりカギ尻尾を遠慮がちにいじったりしても、こちらが芳しい反応を見せないとすぐに手をひっこめる。気を遣わせてしまっている、と思っても溜息はとまらない。それ以前はほぼ毎日手を出していたのがめっきり、という点が彼女には一番不審なのかもしれない。
 原因は一週間前にさかのぼる――。

 奇跡のような、とでも言おうか。この世界にはほとんど知り合いがいないだろうヒトミが、ある再会を果たした。
「ヒトミ、なのか?」
「え、御主人様?!」
 ヒトミの驚いた声はその時の、付け耳付け尻尾でフードを深く被っていた格好には、不自然な台詞ではないかと俺は慌てた。だが相手の男が……。
 御主人様、と呼ばれるのにまことに相応しい風貌だったもので、失礼にも開いた口が塞がらなくなった。
 まず彼の出てきた場所が、小市民に縁のない高級品ばかりを取り扱う商会、その威圧感ある本社建物。扉の前で見送っている人とか、いるんですけど。横付けられた彼の迎えらしき馬車は金具から馬具までぴっかぴか、一分の隙もなく着こなした服は一目でわかる高級布地。
 相当の実力者らしい上、その顔も体格も。喧嘩も強そうな厚い胸板に、毛色はレッドタビーと言うのだろうか、半長毛がつやつや光を放っていて、黄金の瞳にはくっきり凛々しく白のアイライン。首周りのみ長く伸びた毛並みはご立派の一言につきる。ヒトミと軽く立ち話をしている尻には、曲がってなどいない優美な尻尾がふさふさと伸びていた。

 要は圧倒されたわけだ。
 ヒトミが彼と話しながら、紹介するように何度か俺の方を振り返っていたが、何も耳に入ってこなかった。正直言うとその場から消えてなくなりたかった。

 帰宅するなり付け耳をむしりとったヒトミの頬は、外出の興奮だけでなく赤らんでいるように見えた。
「いやあ、妙な離れ方をしたから気にしてたんだよね」
 そうしてこっちが聞いてもいないのに、「前のゴシュジンサマ」の話を始めた。
 生まれから毛並みのいい、その上辣腕家のゴシュジンが、別宅に囲っていた妾――ヒトミは「お嬢様」と呼んでいた――の、世話係兼話相手をしていたのだそうだ。
「だから正確には『前のゴシュジン』はお嬢様なんだけど、あの御主人様にも大事にはしてもらったし」
「……大事にされてたなら、どうしてまた売られてたんだ。あんな金持ちっぽい奴だったのに」
 普通の顔をして聞いてはいたが、俺の尻尾は座布団をはみ出して床を叩いていた。ヒトミは肩をすくめた。
「御主人様がお嬢様との愛に燃えあがって駆け落ちかました。二人の仲については私も関ってたけど、まさかそこまでいくとはと驚いたっけなあ。……ちょうど、正妻さんの実家が落ちモノ詐欺にひっかかって大変な事になってた時期で、そこから逃げる意味もあったんじゃないかって話だった。案の定すぐ後に正妻さんと借金取りが突撃してきて、お屋敷大騒ぎ」
 置いていかれた上売られた身なのに、ヒトミは二人とも幸せそうでよかった、と笑っていた。
「お嬢様を隠して落ち着いてから、堂々戻って正妻さんちに掛け合って、無償で走りまわって借財整理から家業立て直しにまで携わって、正妻さんとはきちんと別れたんだってさ。お嬢様の事、心配だったから安心したよ」
「そりゃあまた男前な話だ」
「御主人様」は察するにあの高級商会の役員か、駆け落ちの醜聞をものともせずにいる様子だったあたり、確かにやり手らしい、などと考えていたので、適当な相槌をうった。ヒトミはそれを興味がないしるしととったらしく、ぽんと立ちあがって夕ご飯にしよっか、と実に珍しい事に俺より先に台所へ向かった。

 その夜、寝床の中で「ふかふかのびのびー」と口で言いながら俺の頬を伸ばしているヒトミを見ていたら「御主人様」の立派な鬣状の首周りを思い出してしまい、更にはヒトメスだしなー御主人様ともやっちゃってるよなーと下世話な方に頭がいき、ヒトミの指を咥える事ができなかった。
 それから、一週間。

「ごしゅじん、どうしたのさ」
 とうとう痺れをきらしたのか、夕食後仕事を広げようとしたちゃぶ台(さすがに夏になってからはコタツを片付けた)を強引に横に押しやったヒトミに、向かい合ってきちんと座られた。どうしたと言われても。
「……ひょっとして、前の御主人様の事?」
 こいつはこいつで、様子がおかしいと気付いても言い出せずにいたらしく、「前の御主人様」は口の中でもごもごと発音されている。そのとおりなのだが説明が難しい。
「むー、やはり中古はいやでしたか」
「違う違う違う」
 かといってこんなとんでもない誤解をさせたままにしておくわけにもいかない。

 ……要は圧倒されたという事。それが一番近い。
 むろんこちらも小市民とはいえ勤め人、「御主人様」のような、いやもっと貫禄のある人物(ヒトミが「猫物ではないか」と茶々を入れた)に会った事もある。それでもヒトミと御主人様が向き合っていたあの時、胸によぎってしまった言葉がある。俺ショボい。
「オットコマエだったな御主人様」
 呆れたように口を開けてから、何やら言葉を探しているヒトミの顔を見ていたらもう一つ、ずっともやもやしていた思いがはっきりした。
「分不相応な買い物をしてしまった」

「俺なんかが買っていい贅沢品じゃなかったんだ、ヒトってのは。あんな金持ちにまた買われてりゃ、ヒトミもでっかい家に住めてきれいな格好して、美味い物食べてたまに奉仕して」
「そんないい暮らししてるヒト奴隷なんて、ほとんどいないと思う。別に私、ここでの生活に不満なんか、ないよ?」
 言おうとした、「もっと幸せだったろうに」を遮って身を乗りだしたヒトミの黒髪が頬で揺れる。指が敷物を擦っている……と思ったら無意識のうちにだろう、俺の抜け毛を集めていた。
「ああ、そう言えば最近掃除もしてくれるよな。ありがとな。こんなさえないエロヒトオタに」
「それは、昼間ヒマだし他に取柄もないから……あーもー、だー、うっとうしい!」
 ヒトミが思いきり腹に抱きついて、腕を尻尾に回してきた。落ちこんでいても尻尾は気持ちいいあたり、俺ほんとなんだかなあ。
「ごしゅじん、らしくないよ。エロヒトオタでいいよ、今私を買ってるのはごしゅじんでしょ?」
 いつになく積極的に、俺の下半身を服ごしに鼻先で探ろうとしたヒトミを、しかし俺はできるだけ柔らかく止めた。尻尾のカギ部分を扱いていた彼女の指を外して、口に含む代わりに爪の先で撫でた。
「こういうのも、さ」
 眉をよせたヒトミの、まっすぐに睨んでくる目からも逃げた。
「今まで甘えてたけど、ヒトの生理以外の時だって、嫌だと思ったらはねつけてよかったんだ。体もきれいで傷もない、具合はもちろんいい、本来なら金持ちに買われるような高級品だったんだろう?」
 あの「御主人様」に買われるような。
 沈黙の後、ヒトミは俺の指からそっと自分の手を離して……片膝を立てた姿勢になった。どっかりと。

 んなわけないでしょう、というのが前置きだった。
 曰く、向こうの世界ではごく普通の生まれで中小企業事務員、お嬢様だの御主人様だのがぞろぞろいる上流階級には縁も無し、そういう世界の教養も礼儀も無し。器量も普通で色黒と軽いくせっ毛を気にしていて、高級品などと呼ばれるいわれはまったく無し。ならば、なぜ前のゴシュジンサマがあれだったかというと。
 ……曰く。落ちてきた途端えらい目にあって、売り飛ばされて、なんだこの理不尽な扱いはとぶち切れて、ヒト売りをなけなしの色気で油断させ逃げだしたらその通りにたまたま、ぴっかぴかの馬車があったのだと。
「中にいたのがいかにもひ弱そうな猫の『お嬢様』だったからさ、これなら私でも人質にして逃走に使えるかなー、って火事場の馬鹿力で馬車に突入しちゃったんだよね」
 突入? ……おいおいおいおいおい!
「すぐ取り押さえられたけど」
「お……お前、よくその場で殴り殺されなかったな……」
 そらしていた目をヒトミに戻して、身を乗り出してしまった。ヒトミの話は続く。
 お嬢様のやさしさと好奇心、御主人様の鷹揚さと「これが欲しがっているらしいから」の一言で、命拾いして屋敷へ連れて行かれたが、売られる前よりはるかに待遇が良くても、御主人様はじめ周りがその手のモノ扱いをする事には変わりがないものだから。
「もう大暴れ」
 大暴れ。どんどん聞くのが怖くなってきた。
「特に、お嬢様もモノっていうか、『着飾ってたまに来る御主人様のご寵愛を受けていればいい者』扱いされてるのが気に入らなかった。御主人様を頭っから怒鳴りつけたり」
 あれを怒鳴りつけたのか……尊敬する、ヒトミ。
「仕舞いにはお嬢様つれて逃げようとした。これまたすぐに連れ戻されたけど、御主人様は自分の傲慢に気付いてなかっただけで根はいい人だったから、素直に反省してくれて、このとおりヒト奴隷なのに無傷無罰。運がいいんだろうな私は。また売られたって、いいスジからのモノだからって一応、格上の扱いをされたしね」
 ――自分をごく普通だという小柄な頼りない腕力の、柔らかい女性は、どれだけの怒りと絶望を抱えて暴れていたのか。逃げてもどうしようもないと理解し、諦めに至るまでの心の動きは、俺にはとても想像できない。主人で遊ぶようなとんでもないヒト買っちゃった、とはじめ後悔したものだが、あれは丸くなった後どころの話ではなかったのだな、などとぼんやりバカな事を考える。
 己の現状を嫌というほど理解させられてもなお足掻こうとして、ヒト奴隷の詰めこまれた馬車から隙を窺っていた彼女は、立てた膝に頬杖をついて微笑んでいる。

「らしくないよごしゅじん。本当に、本気で、ここの生活に不満はないって。庶民出身としましてはお屋敷よりずっと気楽に過ごしてるし。ごしゅじんの尻尾いじるのも面白いし。お買い得品だけど高級品なんかじゃないって、わかった?」
 すっかり反省した俺が、謝ろうと口を開く前に、ヒトミがふっとうつむいた。
「ここで最初にごしゅじんに抱かれた時、どこがいいかここがいいか聞かれて、あんまりやかましかったからつい蹴ろうとしちゃったけど」
 しだいに小さくなっていく彼女の呟きが、最後にかすかにこう、聞こえた。
 ……たとえ少しでも、私の事を対等にみてくれているんだなって、嬉しかったんだよ。

 黙って部屋の隅を見ているヒトミの目に映っている絵と、同じ物を見ている筈の俺の目が認識する絵はきっとずいぶん違っていて、どれだけ言葉を費やしてもお互い説明しきれないのだろう。
 遅くなった、寝よか、と目をそらしたまま立ち上がったヒトミを、色々もやもや考えてから追いかけると、彼女は寝台の上でうつぶせに寝転がり、行儀悪く足をぱたぱたさせていた。そして、俺に少し前の表情を忘れさせそうになるほど、ごく普通の顔を向けてきた。
「あ、ごしゅじん、言い忘れた。飽きたらさっさと売り払っていいよ。高級品ではないけど大丈夫、優秀な勤め人のごしゅじんなら、きっと買値より高く誰かに売りつけられる! がんばれごしゅじん!」
「なあ?! 何言ってんだバカ!」
 バカは俺ですな。
「シワ指差して笑ってやるって言っただろうが!」
 ……バカを重ねていますな。どれだけ考えても、謝るのは間が抜けていて、慰めるのは彼女が望んでいないだろうという答えしかでてこないので、更にバカを重ねる事にする。
 今こいつはここにいる理由を、行為にのみあると思っていて、行為に飽きられるのが不安なのだとエロヒトオタは今更ながらそれだけは理解した。なのでヒトミをひっくり返してガリガリ指をかじってやった。
「飽きないって」
 痛みに顔をしかめても声を出さずにいるヒトミも積み重ねてバカ扱いにしておこう。左手指五本省略。ボタンが飛んでも繕うのは俺だと力でパジャマの前を開いて、
「ガバガバになったって飽きないよバカ」
 はだけた肩に一週間ぶりに鼻を強く押しつければ甘い肌の香り。

 素裸になってから体をくっつけるのが、最初に抱き合った時よりぎこちないのがなんだかおかしい。まあそれはつかの間で、すぐヒトミは目を細めて俺の首にすりすりと頬ずりしてきたわけですが。やっぱり毛か、毛なのか。
「『御主人様』にもこんな事やってたのか? ああごめん違う、気にしてるんじゃなくて、あの首毛は撫でごこちがよさそうだったから」
「んー、もふるどころか引き千切ろうとしたからなあ」
 ……なんだか、ざまみろという気分。しかし凄えなヒトミ。畏縮する俺の方がおかしいんだな。
 覆い被さる俺とヒトミ、どちらがより肌の多くの面積を相手に押しつけるか選手権……になってしまった。とにかく互いの体温と感触を貪り、巧緻な技などなんにもなくて、なのに勝手に高まっていく。
 ヒトミの息と鼓動、俺の急いた腕の動き、いや逆かもしれない、わからなくなってくる。
 あー柔らかいなーいいなーと言ったのが俺で、あったかいよもっとすりすりしてーと言ったのがヒトミだとは辛うじて判別できたがこれも逆だったかも。
 彼女の足が腰に絡みついたのと、先っぽ涎だらけになった俺のあれが突き立てられたのはどちらが先だったのやら。
「あうっ、奥、奥いい、もっとお、あ」
 だったら締めるなもたねえよ! 奥も入り口も!
「むり、や、きて、きてえ!」
 言われなくてもあっけなく。吐き出される脈動と、ヒトミの顎が天を突く動きが同調した。

 もそもそ後始末を終えて、もう一度横のヒトミを抱き寄せた。
「およめさんにー、なれー」
「今度は何事だごしゅじん?!」
 腕に力をこめて、跳ね起きようとする体を押さえつける。
「うるせーくそ、お前ほんとの心は見せないから悔しいんだよ。嘘でいいから、もっと俺の名前呼べ。およめさんになれー」
 俺を主人扱いしなくても抱こうとすると従順になるヒトミ。やけを起こして買ってしまったヒトのヒトミ。
「落ちつけご主人様、キャパ、ちょ、キャパ、何言ってんのいきなり!」
「いきなりじゃないよ」
 説明は苦手で、出した金の分後ろめたい。それでも指先の毛で唇に触れた時、ヒトミの目に浮かんだ表情は嫌悪ではないと直感で思う。俺の長所、毛だけでもいい。
「誓えー。ずっと俺の傍にいるって誓えー」
「ヒトだよ私」
 いいから。

 嘘でも良かったのだけど、ぎゅうぎゅうに抱きしめて口付けた後のヒトミの顔はなんか可愛かった。
「……キャパシティ=スミスとこの世界の神に誓います。私、佐伯仁美はどんだけこのごしゅじんがバカでもエロでも、こいつの傍にいるって、誓います。って、こんなんでいいの?」
「うわー誓いっぽくねえー!」
 一緒にげらげら笑っていながら、肩に伏せて顔を上げない頭を抱え込み、胸毛と腕毛でもっふもふにしてからこっちも。
「俺はヒトミに誓う。ひげ抜かれても、エロヒトオタとか言われても、何回でも好きだって言います。おっぱいが垂れてもシワシワになっても好きだよ、ヒトミ、だから……」
 この世界の神には誓えなかった。抱きしめて、できるだけ大切にして、あとはこいつに何がしてやれるだろうか。
「だから、泣くなよう……お前が好きなんだよう」
 ヒトオタ結構。エロネコ上等。口に出したら胸が軽くなった。

 二人で暮らすようになってから伸びた分はどれくらいだろうかと、黒くしっかりした髪を指に巻きつけていじくっていたら、ようやく掠れた声がした。俺の肩毛にしみこんだ跡を見せつけてもこいつは自分が泣いていたのを認めようとしないのだろう。いいけど。いいけど、顔、俺の抜け毛だらけになってるんじゃないか?
「ヒトオタここに極まるって感じ……」
「悪いか。もう開き直ったからな俺。あと二百年くらいもっふもふにしてやんよ」
「二百年て、私ミイラだよバカ」
 ヒトなんかほんと買うもんじゃない。でも多分、バカだのヒトオタだの繰り返しながらしがみついてくるこいつは、生まれ変わってきてもすぐに見分けられそうな気がする。シワシワになってからさっさとネコに生まれ変わって、また俺の傍にくればいいんだ。
 バカバカ言ってたヒトミが唇を結んで、顎に額を擦り付けてきた。
 少なくともあと何十年かは一緒だ絶対に逃がしてなんかやらねえ、覚悟しろ。

 誓いの夜から数日。今度はヒトミが挙動不審。今夜は裸エプロンがいいなー、と言っても反撃がこない。
「エロヒトオタとか、言わないの?」
 視線をそらすし。なんだか口を開き辛そうにしているし。
 やっちまったか、俺。ひげと尻尾を下げたらヒトミが大慌てで見上げてきた。
「いや、あのさ、ごしゅじんだと思ってた人、あ、ネコか、におよめさんとか言われたら妙に意識するっていうか……うあー二十五にもなって私何やってんだ、ごしゅじんがバカ言うからだ!」
 照れてた。照れていましたヒトミさん。だからって逆ギレするなよ。
「なんという萌えツンデレー!」
「叫ぶなヒトオタ猫!」
 ようやく勢いが戻ったけれど、彼女の顔は真っ赤だった。
 先の事は先の事として、今の所、
 やけ買いも悪くないのかもしれない。




 ----*** 幕間・酔っ払いの拾いもの ***----

「たらいまあ~~」
「うわ、くっさい。ちょっと玄関で寝ないでよごしゅじん、……うあ?」
「呑んじゃったあごめえんヒトミぃ」
「はいはい、ほんっと弱いんだね、んで、これ、何」

「ヒトミお酒好きぃ?」
「まーね。どーせ通じないだろうけどアイレイ大好きだったよほらごしゅじん、ぐにゃぐ
にゃしてないで袖から腕抜いて。もうとっとと寝なさい。水飲んでから。スモーキーマテ
ィーニもう一回飲みたかったなあ」
「す……何?」
「スモーキーマティーニ。あっちの世界のカクテル。くっさいアイラ島のモルトウィス
キーを、って別にどうでもいい話だよ、ほらほら転ぶよ、足元気いつけなってば」
「ふにゃー……モルトって、ル・ガルの地方から輸入されてるよ、今度買って来るねえー
そっかヒトミ酒好きなんだあ、くっさいかはわからないけど、買って来るよお……」
「それはどうでもいいのよ、この、足元にいるの、何」

「ひろったー」
「……明日それは問い詰めようと思うけど、とりあえず何これ」
「知らないー、落ちてたー。お前の世界の『猫』ってこんなんじゃねえのー?」
「違う違う断じて違う! 何この生物! 何食べるのこれどうすればいいの! なんか一
つ目開いた! 目からなんか出した!」

 


**小ネタ1彼は誰とすれ違ったのか**

 今度は何持ってきた。
 そろそろ帰ってくる頃かと窓から外を覗いた私の頭に、太ゴチック体で黒々と浮かんだのはそんな文章。
 日の暮れるのが早くなり、しんしんと地面から藍色に沈んでいく小路なのに、ネコのように目が良いわけもない私が瞬時にエロヒトオタ猫を見分けられたのは、彼のスキップせんばかりの足取りがあまりに帰宅途中の人々(ネコネコ?)の中で目立っていたからだ。特徴あるカギ尻尾は高く上がり、藍に溶け込むハチ割れ模様の黒部分にきらきら光る黄褐色の瞳、白い鼻面からぴんと伸びるひげ、流石にそこまでは見えなかったがおそらく小鼻が膨らんで鼻の頭がピンク通り越して赤くなっているのだ。
 寒気を全く感じていないかのような浮かれた様子、こんな風に帰ってきた時はー、エロヒトオタ歓喜のブツか知識を仕入れてきた時であってー、それはたいてい私の眩暈を喚起するようなしろものでー。
 あの調子だとかなりのブツかいらん知識だ、と早くも立ちくらみを起こしている私を見上げ、でっかい白黒猫な夫はものっすごいイイ笑顔で手を振ってよこした。私は窓枠にもたれてずるずると崩れ落ちながら力なく手を振り返すしかなかった。

「ただいまー! あのな、ヒトミ、あのな」
 その手のものを繰り出す場合、今まではどれだけ浮かれていても、夕食後の落ち着いた時間帯だったのだが今回は違った。そーか玄関開けるなり話題にするほどのシロモノか。覚悟しておこう。
「おかえりごしゅじん。ご飯それともまずその話?」
「ええ?! いきなりいっちゃってもいいの?!」
「……まずご飯にしようね。野菜は切っておいたから」
 腹をくくる猶予くらいはくださいごしゅじん。

 しかしくくった腹は緩む事になった。
「すっげえ素的な人に会ったんだよ!」
「は?」
 これは予想外。普段の倍速で鯵に似た魚に塩をふり天火に放り込み、並行して野菜炒めを作りながらごしゅじんであり内縁の夫であるでっかい白黒猫はいまだ興奮覚めやらぬ様子で、結局ご飯作りと「話」を並行した。薄い耳の内側も鼻も、目の縁まで濃いピンク色。あれ? 素的な人って、もしかして出会いってやつ?
 およめさんにしてもらったとはいえ、私はヒトで彼はネコ。皿を用意しながら私は覚悟のベクトルをずらした。
「お近付きになりたいなー、どーしよーどーすりゃいいのかなあ」
「仕事の関係で会ったんじゃないの?」
「それがすれ違っただけなんだよ」
 長身をくにゃくにゃ揺らしていても、でっかい白黒猫の手は的確に調味料を加えていく。小まめで料理も上手いし気配りもできる、仕事も遅刻以外は真面目らしいごしゅじん、なんで独り身なんだか不思議だったんだ。外見の印象については、ネコの美醜感覚がよくわからないんで横に置いておいても。恋は良い事だ。ヒトオタになるよりずっと良い事だ。
「まず、声をかけるタイミングだよね。今日初めてすれ違ったの?」
「そう、今度いつ会えるのかもわかんない」
 ようやく私もうまく塊のパンを切れるようになった。ニホンジンの感覚では鯵の塩焼きと野菜炒めにパンはいかがなものかと思うが、いまだに自分一人では米を炊けないもので仕方がない。竈の使い方は何とか覚えたんだけどね。パンも温めておけば良かった、と頭の半分で反省しながら、もう半分では別の事を考えている。
 さーて、ネコの彼女はヒトメス奴隷のいる家におよめさんに来てくれるものなのかなあ。前の御主人様はお嬢様と私がふにゃふにゃしているの、面白がっていたけれど。
 ネコのおよめさんにはネコがいいに決まっている。はじめに聞いたとき比喩でなくひっくり返ったもんね、ヒトとネコの寿命の違い。ずっと傍にいると誓ったけれども、ごしゅじんが――この極まったヒトオタ猫が、私が寿命でも病気でもさっさと逝った後どうなるのかを想像して、早いとこネコのちゃんとしたおよめさんをもらった方がいいんでないかいと、常日頃悩んではいたのだ。覚悟のベクトルはまた売られる方向へ向いている。ヒトオタグッズもきっと高く売れるよな。私は改めて腹に力を入れた。
「そんなに素的な人だったんなら、願え、祈れごしゅじん。努力すればまた会えるかもしれない!」
「うん、今日すれ違ったあたりまたうろついてみる!」
 野菜炒めを皿に移し終えたおたまを握りしめ、彼はシャッキーンと上方を見つめていた。

 鯵(に似た魚)の塩焼きを頭から齧りながら、でっかい猫がうっとりと頬を緩めている図はなかなかにシュールだ。私は箸を使っている。ちなみに私の残した頭や骨も彼が食べる。
「高級そうなスーツ着てたんだよ……どこに勤めてるんだろう、やっぱ猫技かなあ……」
「猫井技研なら伝手があるじゃない」
「なにせあそこ大企業だから。リックと違う部署じゃあ名前も顔も知らない可能性が高い」
 どう味付けしたらこんなにパンに合うようになるのか、私には見当もつかない野菜炒めを飲みこんで、ついでに売られるならどこまで自分用に買ってもらった服を持っていけるのか、まで先走った頭の中の仮定を一旦飲みこんだ。
「もう一度会えるといいね」
「応援してくれるのかヒトミ!」
「もちろんだとも! で、どんなひと?」
 仲人モードにチェーンジ! 情報が得られない事には想定も対策もできん。集中するため大急ぎで残りの野菜炒めをパンに盛り、行儀が悪いのを承知で口に詰め込んだ。
「まず、センスがいいんだ。ウロコの色にスーツが合っててなあ」
 センスはごしゅじん、正直言ってあまり良くないようだからその人と釣り合うかどうか……もぐもぐ。
 ん? 今ウロコって? 聞き違い?
「首輪も鎖も着せる服のチョイスも」
 ちょっと待った。なんだか、おい、嫌な予感が。口の中のものを一気に飲みこもうとして、胸が詰まったのは重い予感のせいだ。首輪と鎖て、おい。
「ごしゅじん? 素的なひとって、具体的に言ってみ?」
「んだから、洗練された仕草と眼光の」
 具体的じゃねえよ。
「こらえきれない歓喜を僅かに出入りする細い舌が表してたりして、それが実にウロコに映えて」
 たしかにウロコと言っている。はい消えたー、ネコのおよめさんの線消えたー。予感は黒くなっていくよ。
「クールな彼の表情と斜め後ろの彼女の遠い目との対比が、またこれが」
 こ、こ、「これが」とか瞳孔開いて回想するなバカエロ猫。帰宅前の予想と腹くくりの方が正解でしたか、もしかしなくても。黒い予感が、脳裏に描いた想像図に変わりましたよくそエロねこ。
「……早い話が、首輪鎖の羞恥プレイをしているとっても素的な人とすれ違った、と?」
「そーなんだよすっげえカッコイイヘビ紳士だったんだよ、どうにかしてお友達になれないかなあ?」
「なるなー!」
 卓袱台返しならぬコタツ返しをしなかった私の理性を自分で誉める。後片付けの手間を考えて思い留まった。

 ネコの好奇心に感謝した事もあれども今回は恨む。特にエロ方向に走ってしまったごしゅじんの好奇心を叩き潰してやりたい。こんだ羞恥プレイかよ。
「応援してくれる筈じゃ……」
 皿を洗いながらぽそぽそ呟く声を一切無視して私は拭いた皿を棚にしまった。尻尾がまだふくらんでいるあたり、さっき私どんだけ恐ろしい顔をしたのだろう。
「ヘビ紳士の彼女がさ、ニーソックスはいた時のヒトミと、似た表情でさあ、それで余計」
 ……そらそうだろうとも。彼女さん、力一杯同情するよ。二十五でふりふりエプロンだのニーソだのってプレイも十二分に羞恥だと、このネコには理解できんのだろうな。
「ごしゅじん、そーいうSMちっくなのにも興味あったの?」
 努力してにっこり笑ったら、エロな夫は後ろに倒していた耳をぴんと立てて何度もうなずいた。

「ほら、もっと尻尾しごいて欲しかったらにゃーって言いなさい」
「えーっと……なんか、違うくねえ?」
 うつ伏せの背中に私をまたがらせ、でっかい白黒猫は枕の上で首を傾げている。違いませんごしゅじん。後ろ手でカギ尻尾を、もう一方の指先で耳の中をくすぐられてひげがさかんに動いているじゃありませんか。あ、羞恥プレイでしたね。素早く体を180度反転、おしりの白い部分を重点的に攻めてみまーす。
「ふかふかのおしりがぴくってなったよ。本当はたまたまも見て欲しいんでしょ? ふっふっふ」
「ふおお?!」
 起き上がろうとした上体にヒップアターック。文字通り尻に敷く体勢は、私のお尻も気持ちが良いことがわかった。天然毛皮クッション体温付き、冷え込む季節に最適です。ぐぎゅ、とか雑音が聞こえたけれども気にしない。しかしほんとにごしゅじんのお尻可愛いな、悔しい。つるつるの自分の尻が醜く思えてくる。下でじたばたもがく感触を細かく感じ取れるのも楽しい。
「ヒトミー! いい加減に、ひゃああああ」
「『ひゃあ』じゃないでしょ、『にゃー』でしょ」
 ……いや、本気で調教する気は無かったんだ。尻尾とたまたまをさわさわするのは楽しかったけれども。
 なのでこんな声が返ってきた時にはどうしようかと思った。
「にゃあ……」
 いささか掠れた声で、それでも確かににゃーって言いおったよこのごしゅじん。
 ごしゅじん……本気でMか……。



--------------------------
 触発元作品:「The snake under the bed」(作・タダノサケビ氏)
 タダノサケビさんすみませんすみません。
--------------------------


**小ネタ2過去には暗い穴がある**

 繰り返される日常の中、ふと感じた疑問が好奇心が、ひとつの切欠となる事もある。

 下手くそな鼻歌など歌いながら、手際よく皿を拭いて片付けているヒトミを見ていたら口から勝手に言葉がこぼれ出た。
「ヒトミ、向こうの世界で結婚してた?」
 料理に関しては、調理器具に慣れてきてもその、あれな、腕だと嫌というほど知っているもので、たぶんそりゃないなーとは思ったけれども、なんとなく。
「はあ? 未婚だったよ、ごしゅじんにまだ言ってなかったっけ? 独り身仲間で飲み会やってアパート帰ってきたらいきなりこっちに落ちたんだもん」
 鼻歌が消え、笑みが消えた。まずいやはり触れるべきでない事柄だったとシャツの下で脂汗が吹き出た。
「言っておくけど、ヒトの25って別に嫁き遅れじゃないよ」
 機嫌が悪くなったのはそれを疑われたと思ったせいかよ。今度は安堵の汗が出た。
 ……そこでつるっとまた余計な事を口走ってしまうのが俺というネコだ。
「んじゃ、恋人とかいた?」
 ヒトミの茶の瞳が焦点を無くした。手は皿を持ったまま止まった。そこでやっとまずい、と口を閉じたが
発してしまった言葉は取り消しがきかない。
 ぼく、ふみこんじゃいけないところをふんだみたいです。
「……二年」
 ぽそ、とヒトミが食器棚の中に向かって呟いた。
「いっつも二年、続かなかったんだよねえ……」
 ふんじゃいけない……けど、ちょっとちがう種類の踏んではいけない場所だったらしい。ヒトミの背後に、家の中なのに吹き荒れる木枯らしが見えた。

 二股かけられた挙句、「彼女には俺が必要なんだ! ヒトミは強いから!」と捨てられる。
 受験失敗から自暴自棄になって心中を持ちかけられる。
 いきなり辞表を出してアパートに転がり込みパチプロになるとごろごろするばかり。
 少し会わなかったら出会い系にはまって性病をうつされてくる。
「もてなかったわけじゃないんだけどねー、なんでかねー、あはははは」
 淡淡と話された内容と乾いた笑い声に、俺は背中の毛を逆立てていた。彼女の背後に見える木枯らしは、猛吹雪に変わっていた。よーするに、ものすごく男運が悪かったらしい。


「んじゃ、恋人とかいた?」
 軽く聞いているつもりなのだろうが、開いた口の形が左右非対称だった。コタツで改めて向かい合い、話してやったらその、牙をのぞかせた口のまま固まっていた。でっかい白黒猫な夫は、お調子者のきらいはあるもののヒトの私にも気遣ってくれるいいネコだ。
「ごしゅじんこそ、なんで彼女も嫁もいないのさ」
 声に出してから、外に内証にしている恋人がいてもおかしくない、と思いついたがそれは要らない想像だったようだ。……ごしゅじんの視線が、何もない空中で止まっている。遠い目という表現はあるが近い目というのは初めて見た。瞳孔が開いていてちょっと怖い。
「えーと、ネコにも結婚適齢期ってあるのかな?」
 ……そこで追い討ちをかけてしまう自分の性格が恨めしい。反省より先に、つるっと言葉が出てきてしまった。
「うん……まあね……俺は、それ、過ぎてるよ……」
 開いた瞳孔に灯りを反射させて中空を見るごしゅじんの後ろに、砂漠が見えた。

 つまんないそうです。
 二百年近い年齢のネコは、それまでの女性遍歴を一言ですませた。そのぽそりとした声色で、彼の背後の砂漠は更に乾燥を増して細かい砂を巻き上げるようだった。思わずお茶で口を湿してしまいましたよ私は。
「ええ? ごしゅじん、こまめで優しくて真面目でいいひとだよ、もてないわけじゃないでしょ?」
「ん、でも、つまんないんだって。イイヒトだけど、って、だけどが付くんだよーうふふふふふ」
 わたし、おもいっきり地雷をふんだみたいです
 うふふあははと背後に砂嵐を吹き荒れさせる白黒猫に、私はお茶の杯をを放り出しコタツから出てハイハイで近づいた。
「ごしゅじん、つまんなくなんかないよ、いいひとでいい男だって、白黒はっきりした毛並みもふかふかだし、かぎ尻尾も可愛いよ!」
「ヒトミ……!」
 がっしと抱き合う図は絵に描いたようなバカップルバカ夫婦なのだろうが、誰も見てないからいいよもう。ざりざりの舌で頬を舐めるのは正直勘弁して欲しいけど。
「ヒトミい、お前もいい女だよう、『サゲマン』なんかじゃないよう」
「……どっから覚えてきたのそんな言葉」

 お互い存分にすりすりもふもふぎゅうぎゅうした後、ごしゅじんは私に目を合わせた。下がっていたひげがようやく元に戻っている。
「俺、賭け事もしないし酒も弱いし浮気もしない、ずーっと真面目な夫でいるからね、ダメ人間になんかならないからね」
 優しいテノールの声と腕の力と、真摯な目、だけれども……。
 私を買ってから。

 ――マッハでエロヒトオタになってしまったのは誰だ。

「……あれ?」
「……ん……いや、ごしゅじん、これからは少なくともつまんないって言われる事はなくなるかもね……」

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
ウィキ募集バナー