泣かないで、泣かないで、笑って! 第1話
夜も更け、深夜に近い時間帯を一人の若い男が歩いていた。
10代後半であろう赤いタンクトップとジーンズをはいた男は、アコースティックギターケースを肩に掛け、バイトによって痛んだ体を癒すかように背筋を大きく伸ばす。
「ふぃー、今日も良く働いたぜぇ」
ずれ落ちかけたギターケースを背負い直しながら、男は呟く。
暗い夜道だが、人通りもなく男が急に声を出した事に驚く者もいない。
「最近は壊れたギター修理する所為で金に余裕無くて、バイトばっかだったからなぁ。やっとこれも戻ってきたし、明日はのんびり河原で練習すっか」
名案とばかりに、男は口元に小さく笑みを浮かべる。
一日のバイトが終わり、浮かれているのか家に帰る足取りも軽い。
iPodのイヤホンを耳に装着し、再生ボタンを押す。
軽やかなメロディが流れ出す。
「First kissから始まる、二人の恋のHistory~」
女性ヴォーカルの歌だが、男は特に気にせずに歌う。どうせ誰も聞いてはいない。
「この運命に魔法かけた、君が突然―」
狭い道路を、ライトを付けた軽トラックが走ってくる。
男は気付かない。
小さな道路の交差点、ここが男の分岐点となった。
飛び出してくる軽トラック。
「現れた!」
軽トラックの光が男を飲み込み、刹那初めて男は意識した。
そして、ぼんやり思う。
(そりゃ、ないだろよ)
軽トラックを運転していた太った男は後悔した。はやく家に帰ろうと、普段人気の少ない道を法定速度をかなりオーバーして運転して、結果、人を一人轢いてしまった。 しかし後悔はもう遅い。
とっさ、ブレーキを掛けたがあの距離ではまず、間に合わないだろう。
「轢いちまった…」
呆然としながら軽トラックを降りる。
目を見開いて立ち尽くす男の顔。完全に目に焼きついた。
はねられてミンチになった男を想像しながら、男は一瞬逃げ出そうかと考える。
轢いたところを見た人間はいない筈だ。
迷いながら男は、怖いもの見たさで車の前で死んでいるであろう男の顔を確認しようとする。
(死んでいたら逃げよう、しかし生きていたら…)
太った男は恐怖と後悔でくしゃくしゃになった顔で思い切って車の前に飛び出す。
「……あれ?」
そこには何も無かった。血痕も臓物も、人間も。
そう言えば、人に車をぶつけたときの衝撃も音も何も感じてはいない。
「ははっ、助かった……」
男は全身の力が抜けたかの様にその場でへたり込んだ。
後日、男はテレビを見て知る事となる。あの日、軽トラックで轢いたと思った幻覚の男が、テレビで捜索願いが出されていることを。
その日、一人の男が地球上から完全に姿を消した。