トラ貴族01
----------------0
彼女は、なにやら知らないうちに見知らぬ土地で独りぼっちになっていた。
見渡す限りの目に鮮やかな草原と、今まで見たことのないってくらい、遮るものが何も無い空。
さわさわと風が足元の草を揺らす。おおよそ今まで自分のいた環境とは全く別の光景に、彼女は暫く見入っていた。
あまりにも周りが広大すぎて、時間の流れる感覚もうまく掴むことが出来なかった彼女だったが、
しばらくしてから自分のおかれた状況に気付き、初めて眉間に皺を寄せて渋面を作る。
とにかく、移動しよう。
小さく呟いて、さて、どの方向に行こうかを決めることになってから、また彼女はその眉間に刻まれた縦皺を深くした。そこには何も無さ過ぎた。
川か、もしくは人工の道は無いかと辺りを見回して体を一回転させても、あるのは緑と青だけ。
かなり遠くのほうにうっすらと山のようなものが見えたが、そこまで行くのにどれだけ時間がかかるのか、彼女には皆目見当が付かなかった。
諦めにも似た感情が彼女の心に湧き上がりそうになった瞬間、足元の草原の海が大きく浪打ち、びっくるするくらいの風圧が彼女を襲った。
耳元で、進路を遮ったことに腹を立てたかのような轟音を伴った風が吹き抜けたのを彼女は感じた。髪の毛が引っ張られるような痛みさえ感じた。
突然の強風に耐え切れず尻餅をついて、まだごうごうとい音を残しながら我が物顔で既に遥か遠くを走る風の跡に目をやった。
後に残る音の余韻が消えるまで呆けたようにその方向へ顔を向けていた彼女だったが、意を決したように立ち上がると、そのまま迷い無く、風が過ぎ去って行った方へと歩き出した。
何も無いところでいきなり襲ってきた凶暴ともいえる風に、言い表せない何かを感じたからか、はたまた何か思惑があってのことかは定かではなかったが、
ただ一ついえることは、彼女のその決断が、彼女にとってのその後を決定付けたのは確かだったということである。
彼女が『落ちた』場所は、大陸を俯瞰から見て、中央より東南に位置するトラの国。
その中のほぼ真ん中を穿つようにして存在する<ズィーロ・メッドー(何も無い場所)>という、文字通り草原の海原と、呆れ返るほど青い空しか存在しない、
あらゆる意味で無益で無駄な場所であった。
--------------1
『…お前、ヒトか』
『ちょうど良い。お前はヒトだもんな。<人間>じゃねえし、なにより…他所モンだ』
『あいつらよりかは大分マシか』
とある小さな町。ズィーロ・メッドーと他の大きな町との丁度中間に位置する小さな町。
とある変わり者の貴族が治める土地の中にある小さな町。
そんな小さな町の小さな通り。小さい少女と物凄く大きな男が、偶然にもとか、運命的にもとか、
どうにでも言えるけれども、とにもかくにも、出会ったのだった。
仰天して思考が追いついていないままの少女を見て、ホンの一瞬だけ目を大きく開いた大男は、
すぐさま元の無気力な面差しに戻り、胡乱な眼で少女の頭の天辺から爪先までを軽く眺めた後、
両手に持っていた大量の買い物袋を片手に抱えなおし、空いた方の手で少女の体を
いとも簡単に肩へと俵のように担ぎ上げ、未だ男の肩の上で呆ける彼女を『保護』するために、自宅へと持ち帰っていった。
-----------------2
『お前、名前は』
『…まあいい』
『お前はオレが拾った。だから生かすも殺すもオレの自由だ』
『死にたくなかったら…』
眠りと覚醒の間を行き来した後の、イイかんじでぼやけた頭に、昔のことがいきなり、しかも明瞭に思い出された。
「・・・眠い・・・」
ポカポカとした陽気は、優しく私の全身に満遍なく降り注ぐ。
気候が温暖で、比較的過ごしやすい南側の平原に出来た町に居を構える、目を剥くほどに巨大な洋館は、
一年と半年前に私を『拾った』、とある風変わりな貴族、ディーゴ・ヴォン・ジェファーソン、通称デコ、の持ち物である。
もちろんデコ、という名前は私の胸のうちにひっそりと仕舞われて、直接彼に投げかけられることは無くて、
大抵心の中で彼を毒突く時に使われる。
例えば「さんをつけろよ、デコ助野郎!」とかそんなノリで。
ここは彼の家であるけど、もっと詳しく言えば、彼の父親が、彼が成人を迎えた際のお祝いに与えた、
庭付き一戸建ての『別宅』なのだ。
一般中流家庭出の、庶民オブ庶民の私から言わせて見れば、ふざけるなと。
そう叫びたくなるほどその別宅は立派だった。
「これで別宅とか、デコ助野郎はどんだけボンボンなんじゃい」
独り言の様に(事実その時間帯に屋敷にいたのは私一人だったのだけど)毒づいた私は、
しわくちゃになったベッドシーツをいい加減に整えて、急いで自分の部屋から庭に出て、
干してあった洗濯物を粗方かごに詰めて、改めて覆いかぶさるように(これは少し言いすぎだけど)そびえる私の今の住居を仰ぎ見た。
----------------3・1
私がズィーロ・メッドーで進路を決めてから約一年と半年。
あの後色々と紆余曲折あってから、ここの屋敷で住み込みの召し使いとして働いている。
私が『落ちた』ところは、私のようなヒト科ヒト目の生物が大手を振って表街道を歩けるような世界ではなく、
寧ろヒエラルキーの最下層に位置すると言っても過言ではないほど『ヒドイ』世界だった。
ここは、ケモノの頭部に人の様な体をもつ、所謂獣人が人間と呼ばれ、席巻する世界。
体力的、総合的に見て、獣人は強く、ヒトは弱いとされ、それがこの世界のヒエラルキー構築の基礎となっている。
弱いヒトは強い獣人に追従しなければ、この世界では生きていけない。
体力気力共に、獣人の基準からヒトは遥かに劣っているのだという観点以前に、
そういうことが常識であるのだという社会が、いつの頃からか形成されていたからだ。
ぶっちゃけた話、ヒトは獣人の奴隷、または召し使い、あるいは玩具、愛玩動物、
その他諸々の用途のために使われるといった扱いを受けている。
かくいう私もその一人であって、この世界で生きていくため、この屋敷の住み込みメイドとなって、
家事雑事をほぼ一人でこなさなければならなくなったのだ。全く持って遺憾である。
いきなり突きつけられた理不尽な階級制度に対するしこりは、一年三六五日と半分を過ぎた今でも、
私に微かではあるが、反発心を抱かせる。
まあ、『落ちた』ヒトの中では、こっちに来てすぐに命を落としてしまうヒトや、
邪な考えを持つ獣人に利用され、出すものすべて搾り取られた挙句
ゴミのように捨てられてしまうヒトもいるという話はよく聞くので、私は結構、
いや、かなり運良くヒト召し使いになれたということになる。
今までの短い年月の中で、とりたててトラウマになるような出来事にも出会うことなく…
いや、あるにはあるのだがそれとこれとはまた別のカテゴリに入るというかなんというか。
まあいいとして、健やかにヒト召し使いライフを堪能…?出来ている次第なのです。
「おいコラ、俺はお前に休んでいいと許した覚えは無いが?」
洗濯カゴの中身を仕舞い終え、馬鹿にしてるんじゃないかと思えるぐらい大きな部屋
(これでもほんの一室なんだけど)の中で、これまたドでかいソファーに体を預けて、しばしの休憩を楽しんでいた私の平穏は、
たった今外出先からご帰宅なさった我らが『ご主人様』の、
ドスの利いたバリトンよって無残にも打ち砕かれて瓦解してしまった。
----------------3・2
「(呪われればいいのに)ハイハイすんませんね」
「ああ?なんだって?」
あえて『ご主人様』を見ないで返事したためか、不愉快一色に染まった声が、
ズシズシと重い質量を容易く想像させる音と共に私のほうへ近づいてきた。
いくら聞き慣れているとはいえ、悪人も裸足で逃げ出すような悪者然とした声を背中越しで聞くのは心臓に悪い。
巨大な質量を持つ圧迫感が強く感じられるぐらいを見計らって、ソファーからずるりと降りて、
私のご主人様と向き合った。
あえて視線は合わせないまま、スカートの裾を摘んで引き上げる真似をして深々と頭を下げた。
「顔を上げろ」
「・・・」
目の前で腕を組んで仁王立ちをする、それはそれは見事な毛並みと巨躯を持つホワイトタイガー。
それが私の今の『ご主人様』であり、この屋敷の主でもあるディーゴ・ベガロ・ジェファーソン、
通称デコ、その人…イヤイヤ、獣である。
白地に薄い黒の縞模様が施された毛皮をまとった、大人のヒトの男性よりも軽く一回り程大きい体からは威圧感と
圧迫感が溢れ、胸の上で組まれた両腕は私の太ももより太くてがっちりしていて、
筋骨隆々なんて言葉が霞んでしまうんじゃないかってほど鍛え上げられた上半身は、惜しげもなく曝け出されている。
おまけに、おおよそ可愛いなんて言葉が似合いそうに無い凶悪な面相が加われば、悪人じゃなくたって誰だって裸足で逃げ出したくもなる。
しかもそれらが一般的なトラ獣人のオスの標準装備より小さいというのだから、
ほんとに何で私はトラの国に落ちてしまったんだろうと、軽く自己嫌悪に襲われる。
「んで?その気っ色悪い声色と言葉遣いは誰に許可されてやってるんだ?」
「はて、ご主人様の仰りたい事の意味が私目には皆目見当がつかぬ次第でございますが」
「はぁ~ん、そういう態度を取るかね。なるほど、オレもまだ躾がなっちゃいなかったって事か」
「いやなに、冗談ですよ冗談ハハハ私が貴方様に逆らうとでもハハハハハハ」
「その無駄な笑いを止めろ、ヒトメス」
「はあ…ごめんなさい」
「ん…ん、まあ、それでいい」
----------------3・3
ここで働き始めてから思ったのだけど、デコはネコ科の種族だというのに、冗談を冗談と取るのが下手だ。
ほんの少し、会話の端にからかいの言葉を入れただけでも、激昂するか、すねるか、真正面から受け止めることしか出来ない。
彼の性質は、どちらかといえばイヌとか、オオカミ見たいな印象を受ける。
…だけど、ネコ科の種が持つ特徴の気まぐれさは、むしろ普通のネコ科動物より顕著であるように思う。
さっきも躾だのヒトメスだの聞き捨てならない言葉を発して、確実に苛立ちの色を見せていたにも拘らず、
今はどこか上機嫌に彼の自室へ続く階段を上ろうとしている。
「あ、そうそう」
階段の中腹辺りで私に振り返ってズビシと指をさした。
首を傾げた私を見て、デコは鋭い肉食動物…この世界だと人間?特有の歯をのぞかせて、
この場合、笑ったと取るべきなのか判断に困るのだけど、
「ただいま」
それだけ言って二階へと消えていった
「おかえりなさい……へ?」
条件反射的に返したけど…まぁふさわしい言葉を言ったといえばそうなんだけど、
いくらなんでも唐突過ぎて面食らってしまった。
一年三六五日と半年、デコの召し使いとして身の回りの世話を言い付かってきたけど、
未だにあの凶悪な面相でたくましい体を持ったホワイトタイガーの獣人の性格を把握しきれていないのが、
今のところの私の現実だった。