わんわん異聞+羊と犬とタイプライター
上司A氏は堅物だ。
そのAに、ドレスの花嫁がドロックキックを見舞ったとき、内心快哉を叫ばなかったと言えば嘘になる。
生憎、俺の花嫁ではない。
これまた堅物の同僚(仮にB氏とする)が恋人として連れてきた女だ。
実を言うと『女』ですらない。
花嫁はキックのあと、自分の耳を両手で毟り取り、足元に叩きつける。
床に跳ね返る、つけ毛ごととれた耳。
あまりの出来事に石になってるB。
これまた石のように動かない上司A、ただしそいつはいつものことだ。
現れたのはヒトの耳。
荒い息でドレスの裾をからげ、ふんと胸を張る。
女ですらない、華奢で小さいヒトメスは、止めに入った旦那にも華麗な後ろ蹴りを見舞って黙らせた。ああ、普段の2人の関係性が忍ばれる。
ああヒトだよそれがどうかしたかと堂々と宣言し。
慣れた手つきで赤いチョーカー、いや首輪をキリリと自らの首に巻き。
ヒトメス奴隷の、そこからの剣幕がまた凄かった。
主張の主な中身は、主人の職場における待遇の悪さについて。
どこの過保護な母親か、と問いたくなるような演説を喧々諤々。
いわく。
こんな生活能力皆無の男一人寡を一人暮らしさせるなんて殺人行為なに考えてんだ配属考えたのはお前かこの馬鹿、だいたい職務上独身義務付けって頭おかしいっつーの、そりゃコレに嫁ぐ酔狂な女はゼロだけど、ええあたしはヒトですともよ、だったら問題ナシだろうが。えーえー精一杯家事洗濯もろもろご奉仕させていただきますよ。そりゃ元の世界には帰りたくないとは言わないよ、でもコレ放って帰ったら、ずーっと「ああ、いまごろ三ヶ月前の牛乳に当たってないかな」とか「埃とゴミとカビに埋もれて窒息してないかな」とか「甘いもんばっか喰いまくって肥満で解雇されたあげく虫歯で総入れ歯になってないかな」とか、気が気じゃなくて仕方ないだろうがボケ。等々。
————いやほんと。
勇者と賢者とモノ知らずは紙一重だ。
端で、そ知らぬ顔で直立不動してるのがほんっとに辛かった。
「そりゃあんたたち犬は他の種族より反則的に頑丈なのは知ってるよ!? コイツですら、…コイツですら! 他種族と比べたらもー圧倒的に強いんだから、他の人たちはそりゃもうもっと頑丈で賢いんでしょうよ! けどそれとこれとは別、生活習慣ないがしろにして弱らない生き物がいるわけないっつーの! ほれ、なんて言ったっけ、あのショタっぽいの。猫耳の。顔面ゔみ゙っの。顔面ゔみ゙っのくせに生意気なんじゃ! ああいうのだっているわけでしょ? ああいうのも取り締まるんでしょ? あのガキひとが弱いと見たら調子に乗りまくって、サドか、子供のくせにサドプレイか!? あああっもう思い出してもムカつく! しかも何、とどめ刺しかけて、君ら面白いから気に入った、また遊んでとか、勝手に死んだら酷いよ? とか、ふざけんじゃないっつーのよ! オモチャ!? オモチャ扱いですか!? こっちの世界ってあーゆー歪んだ奴が取り締まりし切れないくらいゴロゴロいるわけ!? そりゃ薬くれたおかげで死なずにすんだけどさ、それだって元々はお前にいたぶられた傷だってーの! ぬぁにが勝手に死んだらよ、はんっ、酷いって何、なーにーが出来るってのよ、たまたまヘタレに当たっただけで調子に乗って! ふんっ、出来るもんならやってみろっつーの、その酷いってのを!」
……。
地団駄を踏む、という実物を、はじめて見た。
ようやく言いたいことが尽きたのか、顔を伏せてぜいぜいと荒い息。
静まり返った部屋。
ヒトメスの息がすこしだけ落ち着いた。伏せたままの顔。うなじににじむ、冷や汗の気配。
顔をあげる度胸はなかったらしい。
え、えへっ、と殊勝に可愛く肩をすくめて、そそそそそ、と石を通り越して氷になってる旦那の背中に隠れた。
俺は、堅物の上司が、はじめて微かにうろたえている気配を嗅いだ。
報告書には書いてなかったなと上司は言い。
堅物の同僚は、何も答えられず。
薄暗い寮の廊下。
部屋には入らずドアを背にして、がっくりと座り込む同僚を見つけた。
ぱちぱちと適当に鳴らす拍手に、疲れきった顔がこちらを向く。
「名女優じゃないか」
「……、エンゲキブ、だったって、言ってた。……。ありがとう。黙っててくれて」
「違う。口を挟むのも忘れてたんだ。あと俺はお前より旧式なぶん鼻も鈍い」
「……すまない」
事前の打ち合わせもなかったんだろう。疲労を隠さず、また膝に顔を埋める。
「で、名女優は?」
「……中。一人にしろって追い出された。いまベッドでひっくり返ってる」
背後のドアを示す。
さながらこいつは忠実で確実な門番ってところか。
いやはや。どっちがご主人様やら。
主人————門番犬扱いのコイツ————に最初に出会ったがために、コイツを「一般的な人間、またはそれ以下」と思いこんだヒト奴隷。世界を知らないがゆえに、稀代の大魔術師を、そこらにごろごろいるレベルの術師と勘違いした愛玩家畜。
ヒトは家畜だ。短命で脆弱だ。
ただしこの家畜は、言葉を話す。
余計なこと————例えば、ご主人様の実力そのものが国家レベルの軍事機密だとか————、を喋る玩具は縊られる。
死んだヒトほど慎み深いモノはない。
だが今回、ひとつ問題がある。この家畜は、我侭な犯罪者の『お気に入り』だ。
その犯罪者は傍若無人で、機嫌ひとつで町のひとつふたつ潰すは朝飯前。ついでにちょいと他人わり目や耳が「利く」から、お気に入りが生きているか縊り殺されたかどうか察するなんて、それこそ昼寝前。
秘密を握っていながら処分もできない厄介物。
それがあのヒト奴隷の立場だ。
………ならば、どうする?
選択肢はない。
生かしておくしかない。
せめて誰の目にも触れないように、誰にも声の届かない場所で。
幸い、この家畜は主人に忠実だ。
ソレはまだ自分の握る物の重要性と自分の置かれた立場を理解していない。
だから秘密を他人に売るという行為も思い至らない。
そして主人は、基本的には組織に忠実な男だ。
実際問題、世話係にもなるペット一匹くらい、飼わせるのに何ら問題はない。
————かくてご主人様と無知なペットは、2人っきりで末永く一緒に暮らしましたとさ、と。
「……うまくいくといいな」
「……。難しいと、思う。けど」
癇癪を起して地団駄踏みながら、やけっぱちの勢いに誤魔化して、誤魔化して。
わめくヒトメスは鼻を突く嘘の香りを撒き散らしていた。
上司殿はご主人様と違って鼻が利かないことを知っていたんだろう。
どこから嘘でどこまで事実かは知らない。
すべてが嘘ではないだろう。
せいぜい、少々都合よく誇張した程度の嘘。
自分たちを殺しかけた敵の存在を逆手に、これからの自分のたちの保障に換えようと。
仕様の無い小細工だと、誰が笑えるだろう。
ヒトの身で、家畜の奴隷の身で。吹けば折れる命しかないくせに。
たいした玉だ。
繰り返しになるが————生憎、俺の花嫁ではない。
「……、」
きょとんと番犬が顔をあげる。
それから、にやりと。
自慢たらたら、宝物を見せ付けるキラキラの子供の目で。
————わー。こりゃ重傷だ。殺してえ。
「あ、そうだ。この嘘つき」
「……。論理的に言い直す気はあるか」
「ヒトは寿命が短いから十二・三歳で子供産むっていう、あれ。そんなわけないって怒られた。嘘つきー」
ぶーたれる。子供か。
そのうえ怒られたって何だ。あの蹴りだけは芝居じゃなかったか、やっぱり。
「それは悪かった。情報源にこんど追求しておこう」
そこで話題が途切れる。
沈黙のあと、うながすように緑の視線がこちらに向けられる。
「……それで。冷やかしに来たんなら、そろそろ勘弁してほしいなー、なんて」
それこそ、まさか。
本命、伝えに来た機密事項を耳打ちする。
これで用は済んだので、片手を振って廊下を去る。
聞こえよがしに足音を立て、故意に、最後は控えめに。
俺が角を曲がりきらないうちに、しばらく前からドアの裏側でじっと耳をそばだてていた家畜がどかんと扉を蹴り開けて主人を強襲する姿を目撃し、いわゆる胎教に悪い類の罵詈雑言、世にもナサケナイきゃいんという悲鳴を聞き、こってりと充満する甘ったるい匂いを、嗅いだ。
なんとも、はや。
ご馳走様。
◆ ◆ ◆
—————ひからびた夢を見ていた。
目の前の、墓標の現実に目が眩む。
畑にもならない石くれだらけの冷たい丘陵地。
無数に並ぶ味気ない墓の群れ。
視線を落す小さな墓標の下の空櫃に、持って来た花を手向けていいものか迷う。
一年前の冬。
ここに名を刻まれた男は骨も残さず消え失せた。
雪の荒野に穿たれたのは大魔術の痕跡。無人の詰め所は食べかけの食事が二人分。片付き整えられた、温もりさえ香る日々の名残。
クローゼットは半開き、その奥にあるべき装備が見つからず仕舞い。
半年間の調査の結論は言うまでもない。葬るべき屍もないまま、かつての同僚の名はここに刻まれている。
俺はいつものように手にした花束の始末に迷う。
仕方なく墓の前に棄てるか、所在なく持ちかえるか。今日の俺はどちらのパターンだろう。
「なーなー。オレ、マドカちゃんはきっと巨乳だった思うんだけど。旦那はどう思うー?」
逡巡も感傷もぶち壊す間伸びた低音。
振り向けば、ドーナツそっくりの双角を紫と黄のマダラ模様に塗りたくった馬鹿が、上機嫌にふらふら揺れていた。
「……ちなみに俺はいま、お前を連れてきたことを猛烈に後悔したところだ。……マドカ?」
「うい。マドカちゃん。だってさー、時空の侵犯者を捕まえた国家のイヌだろー? 例のおとぎ話の、ナントかの猟犬じゃないか」
妄想を垂れ流す時の得意顔は墓を見つめて俺を素通りし。
俺は尻尾をぴくりともさせなかった俺自身を絶賛する。
「そんでもって、その猟犬を逆に『とっ捕まえた』んだから、その子は円【まどか】ちゃん以外ありえないんじゃね? どうよ」
陰気に、不謹慎にへらへら笑う。
細長い手足は華奢を通り越して不健康。
当人いわくマダラだからマダラにしたのさ、と語ったツノは悪趣味以外の何物でもなく。
「タマちゃんとかマルちゃんじゃあんまりだろ。だーかーら、マドカちゃん。
きっと、冬に閉じ込められた孤独なイヌをとろかせる、母性愛にあふれたメスギャルだったんだぜ。だから巨乳。デカチチ。いいなー、そりゃあとろけるよなー、情も移っちまうよなー。男って虚しいイキモノだぜー。ヒヒヒ」
マダラ角の羊は、俺の手から花束を奪い取ると、その細く白い手で花びらをむしり。おどけた仕草で墓標にふりまいた。
あの日の雪のように、ちらちら、ちらちら。
もう巻き戻せない時の砂のように。
「案外さあ、犯りまくってお前はオレの肉奴隷だー、なんて調子くれたところで、ドン引きされたあげく、しゃらくさいあなたがあたくしのオナペットよ、つって、あっちの世界に連れてかれちゃったんじゃね? オレ思うにさー、ふつーに殺されて死体で転がるよかさー、生きたまま消されるってほうがホラーじゃね? ちょー怖ぇ。明たる戸腋の壁に腥々しき血潅ぎ流て地につたふ、されど屍も骨も見えず。月あかりに見れば。軒の端にものあり。ともし火を捧げて照し見るに、男の髪の髻ばかりかかりて。怖いよなぁイソラちゃん。あれ、マルちゃんだっけ。どっちでもいいけど。つーかぁ、マリーセレストなんざ手垢つきすぎててつまんね。フライパンにカビた目玉焼きってどうよ実際。いまごろヒトの国で孤立無援、閉じ込めて首輪つけて飼われ犬。しまった、なんかシアワセそうでムカつくじゃねえか。あーぶだーくしょーん」
茎だけになった花束を無造作に投げ捨てる。
山脈を渡る北風があっというまに花びらをまきあげ、さらって行った。
想像する。いずれ手放す予定の奴隷とその主人。秘すべき猟犬。待機を命じられながら装備を固めて飛び出したのは何のためか。
骨の一片も見つからなかった意味が、圧倒的な破壊力の結果でないのなら、どんなにか。
………ひからびた夢を見た。
決してこの俺自身と交わらない対岸の灯。
幻は理想的に優しく、比例して残忍だ。
「なー、そろそろ寒い。死ぬる。腹減った」
細い体。俺の肩先までしかない背。見ただけで心細くさせる折れそうなうなじ。
さっさと丘陵を降り始めた痩躯に、ふと。
眼球を寸刻みにする嘘に背中を押されるように、名を呼んだ。
「……■■■■■■。ツノがずれてる」
はっし、と。
反射的に動いた両手が、重そうな巻きツノを押さえる。
呼吸を止めていたのはほんの二秒足らず。
びびった、と言いたげに息をゆるめ、振り向く目がオレの顔を確かめる。
「冗談きついぜ旦那。うちの一族、折れたらそれっきりなんだぜ?」
大事そうに、どう見ても外したほうがマシに思える両ツノをなでまわす。
ぽんぽん、と確実にくっついていることを確認して、それきり、何事もなかったように、おどけた足取りを再開。
香る、嘘の気配。
常に言葉に誇張を織り込まずにいない奇人の、どこからが虚実でどこから本当なのか、この不器用な鼻は嗅ぎ分けてくれない。
よせばいいのに、今日のオレは舌が軽い。
「■■■■■■。今度、押し倒していいか?」
「よかねぇよ」
並ぶ墓標を飛び越える遊びに熱中していた奇人がぴたりと停止した。
「……よかねぇよ。ってか何さっきから。なに急に、ノンケでも欲情させるオレの美貌が悪いわけ? そりゃスイマっセン、おホモだちよりお友達でいたいのアタシぃ」
両手をカカシのように広げてくるりと半回転。
後ろ向きにひょこひょこと、坂を下るスピードはそのまま、いぶかしげな目がオレをねめつける。
「つか、まじ冗談のつもりなら勘弁。笑えねえわそれ。マダラがホモ嫌いな理由、くどく説明させてぇの? うっわ鳥肌たって来た。イヌにバックバージン奪われるくらいならまじ死んだほうがマシ。あー、もし、例えば旦那がワレメもキレーな幼女ってんならさ、オレとしてもやぶさかではございませんがぁー?」
自分の首に両手をまきつけ、舌を出す。
拒絶と、また嘘の匂い。その奥に、包み隠しても香る、怯える気配。
「あのなぁ、……いや、いい。もういい。いいか、今夜、夜這いに行くからな。全身風呂で磨いて待ってろ」
「おけ、待ってるー。首に縄巻いて手首切るナイフ用意して待ってるー」
もういつもの調子を取り戻し、マダラのツノの重みで首からもげそうになりながら。
墓場をあとにし、北風に黒髪をなぶらせて坂を下る。
ようやくはじめて墓に参ったような奇妙な感慨に首をかしげながら、背中を追い、俺も荒地に背を向ける。
「つーかぁ、あれよ。ホモとか孕まないから気楽にヤれるってノリがうぜぇっつーかぁ。実はオレ、孕ませ属性持ちだから。あー、次の新刊、孕ませ系にすっかなー」
そんで大陸全土に孕ませ萌えを普及してやんぜ、と独り言のように陰気に笑う。
無数の名前を使い分け、世界初の『流行創作作家』になりつつあるバケモノの、痩せぎすのか細い命が目の前にある。
「……ないわけじゃ、ないぞ」
「なにがぁー?」
くだらない夢を見た。
避けられるのにあえて蹴飛ばされる男の情けない悲鳴。
ドレスの裾をからげる白いふくらはぎ。
■■によくない類の罵詈雑言。
花嫁が抱える、水袋のように重そうな、……
—————101を重ねてヒトツに。
—————タマシイの彼我を失くしたからこその成功例。
—————だからそもそも、混じりやすく溶け合いやすい。
—————特殊も特殊、その上で万にひとつ、億にひとつの確立。
『俺』が耳打ちする。
どれだけ特殊な状況下、そも奴隷でなく主人に手を加える術では無意味でも。
たったひとつでも『実例』があるなら、それは。
公然の秘密、奴隷に耽溺して婚姻を拒む王族、貴族、将軍どもに。
彼らと裏交渉するカードとして、手厚く大切に、でも無意味と知られぬようひた隠しに。
………その『実例』は、国中に祝福されて世に在ることが、叶う。
「……旦那?」
穏やかなアルトで我に返った。
ひたりと脚を止めて。
棒切れのような体にまとわせた、ぶかぶかのイヌの服を旗のように、冷え切った風になぶらせて。
黒い眼が、俺を見ている。
「その癖、マジどうにかしたほうがいいよね。どうせ覗くんならもうちょい近いパラレル覗けばいいのに。ぜってー実現しないとか、回避したはずの失敗の結末とか『だけ』、いちいち見せられてまだ正気でいられるあんたが信じらんない」
知らない言葉で、ひどく的確に物を言う。
「……別に。支障はない。お前の妄想力と大差ないさ。いや、負けるか」
「誉め言葉だねそれは。……あのさぁ、ケガレの猟犬と、お馬鹿な魔法使いって、ひとつのものだと思うんだよ」
固有名詞覚えるの苦手なんだよね、と、ぽつりと毒づく。
何を思って、こいつが今、よりによってその話を再び持ち出したのか、判断できない。
「また得意の妄想か」
「卵と雛の話だよ。………開けちゃいけない禁断の箱ってさ、壷って説もあるけど。そいつの出所ってはっきりしないんだ。神様が最初のオンナに持たせたとも言うし、最初のオトコの家にあったとも言うし。共通してるのは、この世にはじめてニンゲンの男女が揃った場所に箱があるってとこだね。禁断の実と意味はおんなじで。ニンゲンに、純粋かつ崇高なタマシイなんてモノがあるんならさ、ケモノの部分、本能とか生殖って部分こそが不純物で、そいつがニンゲンを苦しめる『災厄』なわけ。生と死、愛憎と肉欲。アダムとイヴの場合、オンナに罪をぜんぶひっかぶせる話になってるけどさ。けどあれじゃん、罪をそそのかすのって蛇じゃん。カビた心理学で行くとナニだから、それはそれで間違ってないのかな」
「……魔法使いの話はどこに行った?」
「ああ。そうそうそれ。いやね。だからさ、禁忌を犯したのはどっちかって話。魔法使いは禁忌を犯して時の向こうを覗き見て、その罪でもって犬に狩られるわけだ。けどね、その猟犬にだって、世界の壁を越境して覗き見て、監視する能力がないと話が成り立たないでしょ」
原初の不浄より生まれた猟犬。
おとぎ話によれば。ソイツはふたつに分かたれた世界の、不浄の空の下に棲み。
生きとき生ける者すべてを憎みながら、俺たちの住む浄の世界を見上げている。
「それにね、その犬さんには、禁忌を犯した者をとっ捕まえる以外に、仕事がねぇの。無職。ニート。ヒッキーの、万年待機。魔法使いが時の彼方を盗み見るまで、そんな犬、存在しないのと同じ。箱の蓋を開けてみるまで箱は空っぽ、開けたらびっくりイリュージョン、半死半生のにゃんこがこんにちわ。……禁忌を破ることで世界に現れる猟犬なら。そいつはね、時を見透かす大魔術師の存在とイコールでさ。箱の蓋を開けるのは魔術師の役割だけど、箱から出てきたのも魔術師本人かもって話さ」
だからね、と、魔術師に見立てた右手人差し指、猟犬に見立てた左手人差し指を、指揮者のようにくるくる回して。
左手が、かぷりと右手に咬みついた。
「だからね旦那。そもそも、なんとかの猟犬は、生みの親の手を噛む為に生まれて来んのさ。…馬鹿じゃねえの、痛いんだから自分の手ぇ噛んでどうすんだって」
噛むなら親の手だよねえ、と矛盾することを楽しげに語る。
————初期型の『俺』に、意図せず付与された能力。さんざん弄くられたあげく、何の役にも立たないと放置された邪魔な幻視。
猟犬の名を関する者が、愚かな魔法使いの水晶を身の裡に持つ、この皮肉。
「……なんだ。ずいぶん、その昔話がお気に入りじゃないか」
「んー、べっつにー。さっきの花束くるんでた新聞に載ってた。んで思い出した。オレ民話とか集めてるし。旦那が珍しくこのネタだと聞いてくれるし。あとこの馬鹿な魔法使いって旦那っぽくね? んでまあ、結論から言うとだなぁ、国家の犬はちゃんと魔法使いの手を噛んでて欲しいということなのです。マリーセレストの真相が人体焼失じゃあ、ロマンがねえよ。猫の手を噛んで逃げ出して、いまごろらぶらぶちゅっちゅでゴーゴゴーなほうがより燃える、いや萌える。♪愛は輝く舟〜、思い出さなくてもいいように〜♪」
出来損ないの魔法使いには自分の手を噛むなと言い。
消えた犬には、魔法使いを噛めと言う。
その矛盾。つじつまのあわない歪なパズル。
自らを作家ではなくパクリ職人だと言い張る大作家の、変名で書かれたすべての作品に通じる拙い優しさに。
出会うより以前、はじめて紙切れの上のインクの染みごときに涙させられた日からずっと、俺は。
眼球を切り刻む幻燈。
あお向けに押さえこまれた■■■■■■は、憤怒の形相で頬を濡らして。
ベッドの上、獲物を捕らえた犬—————俺だ、は、すべすべの白い肌に指を這わせる。
「……っじゃねえ、死ね! 退けっつってんだ、っ…が、あぐ、やめろぉぉ…!」
どこにそんな活力があったんだと問いたくなるほど暴れるが、圧し掛かる体を押しのけることもできない。
指がズボンに滑り込む。ぎゃああと、熱した油をかけられたように跳ねてのけぞる体を押しつぶし、
—————つけ下の下、偽ツノの下の『本当の耳』に、舌をねじ込む。
「ひぃあッ!?? ちょっ、何でっ……うあ、あああ、やめろ変態…!」
腰がくねって逃れようとする。
ねちっこく、あえてじわじわと焦らすように、指を進める。
もう片方の手で髪をつかみ、頭を固定する。
音をたてて、丹念に。淵をくすぐり、首にかけて唾液の道をつけた。
指が到達する。
声をかみ殺して細腰が、びくりと。
歯を食いしばり、真っ赤になって震えるくしゃくしゃの顔は、羞恥からなのか、屈辱か、…嘘がばれた気まずさか。遠巻きに見ているほうの『オレ』には判らない。
「……ちょっと濡れてる」
「ひ!? や、か、ぅがぁああああああああああ!!」
一段と暴れる体が、くいと軽く動かした指の動きで、声にならない声をあげてぴんと強張る。
ズボンに突っ込まれた手が服の下でもそもそと小刻みに。
そのたびに、ひゃう、やめろ、ぐああ、と、意地でも情緒のない悲鳴をあげて、ちいさいイキモノが身をくねらせる。
構わず、ぶかぶかの上着を咥えて、首元までたくしあげた。
薄っぺらい、アバラの浮いた胸板。
現れた、あるかなしかの膨らみに見入る。
ざり、と頂を舌でほじくってやると、ヴきゃああう!?、と、羞恥より何よりも驚愕の色声が跳ね上がった。
「も、ちょっ、んぅっ…! ほ、ほんとにやめッ、ん゛ぅぅぅぅ、なん、マジでや、や、あぐぅぅ…!」
ぶんぶんと首をふる。
鼻に付く、戸惑いと、怯え震える小動物の気配。
でもオレは、のらりくらりと嘘ばかり振りまくコイツに、本気を伝える術を他に知らない。
全力で抗って、これかと。
本気で暴れて、この程度かという事実に、胸が痛む。
どうして、こんなに弱っちくて、細くて、あっと言う間に燃え尽きる命なんかを、天は創りやがったのか。
再び耳元に口を寄せる。
涙目で、また舐められるのかと怖れて、めいっぱい顔を背けるのを追いかけて、耳元に囁きかけた。
「—————。」
きょとんと、背けた顔が目を丸くする。
一瞬、状況も忘れて、なにやってんだ? と問いかける目がくるりとこっちを向いた。
構わず続ける。
「…『■■■は執拗に指でこすりあげた。秘裂から溢れた愛液はすでに後ろの菊門まで濡らし』」
「……へ、あ、チョイ待て、な…」
ぱくぱくと、言葉も出てこないのか、まさかという顔で絶句。
囁きながら、俺は自分の言うとおりに指で柔らかな溝をなぞりあげる。
「いぅっ!? …っあ、や、待て、ちょっとっ、んくぅぅ…!」
「『愛液をたっぷり吸った指をあてがうと、門はあっさりと、指先を呑み込ん』……だめだな。まだそこまで濡れてない。仕方ない、もう一回頭から。『■■■は執拗に指で』……。」
「い゛っ…!? ひ、うあ、い゛ぎゃああああああああああああーー!!?」
今までで最高の、とんでもない悲鳴をあげた。
信じられない、という顔で、真っ赤になって、ありえないものを見る目で半狂乱に暴れまくる。
それを筋力ですらなく体格と体重差だけでねじ伏せ、二本の指全体で、くちゅくちゅと愛撫を再開。
「……指でこすりあげた。秘裂から溢れた愛液は」
「やがああああああ!! やめろおおおお!! 暗唱やめろおおおおおおおお!!」
真っ赤になって、半泣きでもがき暴れる。
怯えと、いつだって底辺に横たわっていた深い諦観と、ついでに脹らみかけていた快楽の匂いまで一撃粉砕だった。ごあああ、うにゃあああ、と奇声としか表現しようのない声をあげて、せめて自分の耳を塞ごうとする両手を、俺は優しく手にとり、丁寧に束ねて磔にする。
「門はあっさりと、指先を呑み込ん……堅いな、ちょっと力を抜け」
「抜くか馬鹿あああああああ!! わああああああ、ぎゃあああああ!! いっ、やだやだやだやだやだ、絶対嫌ぁぁぁぁぁぁ!! 馬鹿馬鹿、そこ違うチガウちがうからぁぁ! 入れるとこじゃねえからぁー! やめっ指ぃやあああーあーあー!」
「……自分で書いておいて何を言う。……そんなに、俺じゃ嫌か」
「ひぐっ、あ、ああああああ阿保かーーー!! 二次元と三次元一緒にすんな、そっ、そっちでリアルですんのは本気でアブノーマルな変態だけだぁあああああああああ!!!」
ぎゃおーー、と本気も本気、魂の叫び。
……まいった。そう来たか。
「そーかそーか。……ん、意外と教え甲斐が」
「なにがだあああああああああああ!! 離せ、とにかく離せ、つーか読むな覚えるな忘れろぉぉぉ!! 嫌だったら嫌だ、もーやだ、ほんとにやだぁぁ…こんなのやだあ…」
…そんなに嫌なら。俺とじゃ嫌かって根性ふりしぼった質問をスルーしないで欲しい。
「……。すまん。悪い。もう止まれそうに無い。…滅多なことじゃ孕まないけど、もし孕んじまったらちゃんと、ペットとしてじゃなくて嫁に、がっ———!?」
「い゛でぇえええええ!?」
鼻面に頭突きが決まった。食らわせたほうも額を押さえて転げまわる。
泣きたい気分で、転がる半裸を見ていたら、突然憤怒の顔で跳ね起きてこっちを睨まれた。
「かっっ、…こっ、…こんなっ、……う、がああああああああああ!! 強姦魔猛々しいわ巫座戯るなあああああああ!! あ、あああ、ああ、死ね、死ねこの犬畜生ーーーーー!! 孕んだら嫁とかふざっ、ぎゃヴっ」
枕をひっつかんで襲い掛かろうとして、半脱ぎのパンツにひっかかってコケた。
豪快に半回転するあられもない姿は目に毒だ。
「なんで今ので怒るんだお前。……じゃあどうすりゃいいんだ。なあ。お前が書くだけ書いて棄ててた、キスするまで一年かかるヤツの真似じゃ、おまえの趣味じゃなさそうだし」
「………ゴミを漁るな、読むな覚えるなああああああああ!! あああああああああ!! あんたを殺してオレも死ぬぅぅぅぅぅぅ!!」
……。
…………。
余計なものを見た。
「旦那ぁ?」
おーい、と目の前で手をひらひら振る細い手。
山地の日暮れは早い。
眩暈を振り払って、墓場の丘の現実に目を覚ます。
「今日はバッドトリップしすぎじゃね? はやくメシ喰いにいこーぜー」
心配のそぶりも見せないで、さっさと俺を置いて行くちいさい背中。
ゆっくりと追いかけるように、俺も踏み出した。
「ん、そうだ今さっきの。旦那ぁ、いまの箱とか犬のやつ、わりと綺麗にまぁるくオチがついたと思わね? やっべ名作のヨカン。なー、覚えといてよ、オレもう忘れたから」
「……読んだり聞いたりしたものは一字一句覚えてるよ。でもお前、せっかく書き写してやっても夜明けのラブレターだって叫んで破って棄てるから」
「げぇぇコーメーの罠。悪かったよもう棄てません。なんでかなー、思いついたときは世界の名作と思ってんだけどなー」
伸びる影法師。短い影と長い影。
「……。■■■■■■。今夜、押し倒していいか?」
「いーよぉ。ダイナマイト抱いて待ってるー。…ってか、何。犬の笑いのセンスわっかんねえー」
口にするだけ、実際の俺にそんな度胸はない。確かめて、予想を裏切られるのも、拒絶されるのも怖い。…クソッタレ。
もし俺がこいつを本当に押し倒すようなことがあるなら、それは。
こいつの言うところの、『ふるこんぷ後のループ三周後くらいじゃねえとありえねー』な、夢語り。
届かないものだけ夢に視る。
ありえないモノだけ覗き見る。
……もしいつか実行するときは、もうすこし巧くやろうと、無駄な決意を固めながら。
墓参りの日の夕焼けを見送った。
【了】