猫耳少女と召使の物語@wiki保管庫(戎)

ツキノワ02

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ツキノワ 第2話


2.熊とランチでハニーハント

 

 

 


 私の感覚ではついさっきまで真夜中だったはずなんだけど、こっちの世界ではちょうどお昼どきだったらしい。
 ウルさんはごはんをつくるために、家からすこし歩いたところに湧いてる泉まで水を汲みに行くという。

 

「あ、もちろん手伝います!」
「そりゃ助かる。ついでにこの辺のこと一通り案内しねぇとな…って、大したもんもねぇけどさ」

 

 なんと、しょっぱなからお散歩デートとな!?
 いやいやいやいや何を、いったい何を期待してるのかね私は。タハー!
 …なんつって内心浮かれポンチの私に無造作に手渡されたのは、なんとポリタンク(!)だった。

 

「へえ、これは向こうでも水入れんのに使ってんのか? たくさん入るから重宝してんだよー」
「ええまあ…まさか異世界でまで重宝されてるとは思いませんでしたけどね…」

 

 うわぁ、異世界情緒もクソもない。
 とは、もちろん口には出さなかったけど。

 

「うん。さっきも言ったと思うんだけども、この近辺はおめぇさんらヒトの世界と一番近い場所なもんで、よく落ちてくんのよ。モノもヒトもな」

 

 ヒトもな、と言ったところで、ウルさんは熊顔の口の端をちょっと上げて私を見下ろした。 
 …ええ、まあ、私もその一人ですが何か。
 だからってそんな優しい顔されてもなあ。参っちゃうんだけどなあ。
 ……ほんとに参る。この人はクマなんだって言ってるのに、心臓のやつ。勝手にバクバクバクバクと。

 

「なした? また顔赤ぇけど、暑いか?」
「いやいやなんでも。それより今日のおひるは何にするんですか?」
「そうさなぁ、パンケーキでも作っか」

 

 パンケーキ。
 …っていうけど、クマの国でもやっぱり、パンケーキってのはあの『パンケーキ』、なんだろうか?
 どこぞの魔法の国の黄色いクマ(ハチミツ大好き)を何となく思い浮かべたりしていると、さも当然であるかのようにウルさんが言った。

 

「おめぇさんも食うだろ?」
「え、私もいいんですか?」
「もちろんいいよ。…つーか俺ひとりでバクバク食っておめぇさんにお預けさすっつーの、俺どんな鬼畜だよ」

 

 お心遣いは嬉しいんだけど、そりゃあむちゃくちゃ嬉しいし、優しい人だなとも思うんだけど。
(それって、それって、…ヒトでも食べられるモノなんですか…?)
 一抹の不安を感じつつも、もう毒食らわば皿までっていうし。ここまで覚悟決めといて餓死とか絶対イヤだしなあ。
 これからここで生活していくんなら、こっちの食べ物にも慣れてかなきゃなんないし。
 いや、長年の貧乏生活の賜物でむしろ贅沢のほうが恐怖の私だ。どんなゲテモノを出されてもなんとかなるに違いない。
 …さすがに段ボールを食べたことまではないけど、昆虫くらいなら、うん、…何とか。

 

「…あはは。じゃあ、ご相伴に預かります。どうもありがとうございます」
「いーよそんな。…つーか、その。…しばらく一緒に生活しなきゃならんのだし…」

 

 何を思ったか気まずそうにもごもご言うので、私もちょっと緊張してしまう。
 ああ、そうだよなあ。こちらの世界では飼い主とペット、みたいな間柄とはいえ、間違いが起こらないとも限らないしなあ。
 私たちの世界で「ペット」っていうと、意思の疎通が割と困難で言葉の通じない、犬や猫みたいな生物のことをいう。
 …まあ個人の嗜好でそうじゃない人たちもいるにはいる(らしい)けど、概ねそんな認識だ。
 こっちの世界じゃ飼い主とペットはお互いお年頃のカラダを持ってて、しかも言葉が通じちゃってるんだもんなあ。
 間違いが起こったって何も不思議じゃな――いやいやいや。期待とかしてないけどね。うん。別にね。
 そうなるとやっぱアレかな。この場合獣姦…いやいやいやいやいやいやいや何でもない。

 

 さんさんと太陽の降り注ぐ野原を並んで歩きながら、つかずはなれず、…でもやっぱりちょっと近く、を意識して、泉まで歩いた。
 これって、中学生が好きな人と偶然いっしょに登校することになった、みたいな感じ、に似てるのかも、なんて思う。
 ――まあ、私は中学時代にそんな甘酸っぱい経験なんてひとっつもしませんでしたけどね。どうせ。

 

「あー、ほんじゃ、何から説明したらいいかね?」
「えっ、と…そうですねえ。じゃあ、この辺一帯はなんていうんですか?」
「正式な地名はないんだけどな。みんなそのまんま『ツキノワの森』とか、『境界』とか言ってる。
 クマはみんないい加減だから、地名とかにはこだわらないんだよな。村にも山にも川にもあんま名前とかつけねぇし」
「…そうなんですか?」
「おお。聞くところによると、おめぇさんらの世界では何にでも名前がついてんだろ? 店とか橋とか道とか。
 憶えんの大変じゃねーのかって思うよ、俺らにしてみりゃ」
「誰かとどこそこに行こうっていう話になったら、場所を説明するのに困りませんか?」
「…やー…別にそんな困るってことねぇなあ。わからんかったらわかる奴についてきゃいいんだし」
「はあ、なるほどー。クマ族の気質がよくわかりますね、面白いですねえー」
「文化の違いってやつだな」
「というより、国民性の違い、なんでしょうか」

 

 泉まではさほど遠くなかった。ほんの1.2分というところだ。
 陽光を反射させてきらきらしている水のなかに、私はひとつ、ウルさんはふたつ、持ってきたポリタンクを沈める。

 

「……あ、でもこの泉には『トウカの泉』っつー名前がついてんな」
「トウカの泉? 何か由来があるんですか?」
「うん。すげぇ昔にこの泉に落っこちてきたオスヒトの名前で、まあ伝説の人物ってとこだ」
「へえー! どんな功績のあるヒトなんですか?」
「クマに弓矢を教えてくれたのはそのトウカなんだそうだ。
 でもって、えらいノリのいいヒトでな。的に矢ァ当てるよりも女おっかけてるほうが好きだったらしい。
 そのせいで飼い主だった女にしょっちゅうしばかれてたそうだけどな」
「…はあ」

 

 自分より前にこの世界にやってきた先輩ともいうべき人は、どうやら彼なりにここの生活を楽しんでいたらしい。
 人事じゃないような気がして、少し嬉しくなる。

 

「こっちの女性も、ウルさんみたいに毛皮もふもふなんですか?」
「いいや? 見た目はおめぇさんと変わらんけど、クマの耳とシッポがついてる。例外もいるけど大部分がそんなんだ」
「へえ。その『トウカ』って名前、男の人ではあんまり聞かないんですけど。本名だったんですかね?」
「そうじゃねぇかな。……って、おめぇさん、もしかしてまだ自分の名前変えんのにこだわってんのか?」
「あ、いえ、それはもう、どうでも…」

 

 笑いながら言われて、私はちょっと肩をすくめた。
 ついさっき、異世界にやってきた記念に改名でもしようかとウルさんに相談したものの、しばらく考えたすえに『やっぱダメだ、俺センスねぇもん』の一言で片付けられてしまったばかりなのだ。

 

 …名字が三池だから、ミケとか猫っぽくていいかも、とか思ってたんだけどなあ。
 まあそれは何を隠そう、学生時代に戻れるならこんなあだ名で呼ばれたかったなーみたいな希望だったんだけど。
 それをウルさんに話したら、なんか申し訳なさそうに「悪ぃけど俺、ネコって嫌いなんだわ」なんつって拒否されてしまった。

 

「あんまり名前が好きじゃねぇっつってたけど、またなんかイヤな思い出でもあんのか?」
「……うーん。ええ、まあ、そんなところです」
「なんでよ? 親がつけてくれた名前じゃねぇの?」
「そうですよ。…ヤスコ、は、あっちの言葉で『安らぎの子』って書くんです」

 

 『安』んじて生きる。
 何の心配もなく、明日の不安もなく、人を愛し、また――人に愛されて育つように。
 そんな願いのこめられた名だと、生前の母に聞いたことがあった。
 
「へえ。いいじゃねぇか」
「…まあ、由来は立派なんですけど、…ね」

 

 しかし今まで私はこの名前のせいでさんざんからかわれてきたのだ。
 ――『安い子』。貧乏の子。
 そのくせ親戚のあちこちにたらい回しされて、ちっとも売れない役立たずの子、というニュアンスで。
 随分幼いころから言われていた気がする。恐らく親戚のうちのひとりが言い出したのを子供が真似したんだろう。

 

 …しかし、いったい私が彼らに何をしたっていうんだ。
 別に誰かに憎まれるようなことをした憶えはいっさいない。私は普通に生きてきただけなのだ。
 生きてるだけで蔑まれる、そんな人生も確かにあって、それがたまたま自分に当たっただけのこと。

 

「ふーん。俺は好きだけどな。おめぇさんにすげぇ合ってる」
「…はあ」
「だっておめぇさんといると俺、めっちゃ喋ってるもんな。うん。すげぇリラックスしてるわ。
 ふだん誰といたってこんな喋ることねぇからさぁ、自分でもビックリしてるくらいだぜ。
 俺ん事知ってるヤツが今の俺見たら、たぶんひっくり返んじゃねーかな」
「…はああ」
「うん。親御さんはいい名前をくれたなあ。つーかもうこっちじゃ誰もおめぇさんの事バカにしたりしねぇからさ、大事にしてやんな」

 

 そう言って、ウルさんは大きな手で私の頭を撫でてくれた。
 不思議なことに、たったそれだけで『安子』という自分の名前に対する愛着が蘇ってくる。
 あれほど辛い思いをしたっていうのに、現金にもほどがある。それともウルさんの言葉にそうさせるくらいの力があるのだろうか。

 

 不覚にもちょっと目頭が熱くなった。
 もしも元の世界でしてきた辛い思いが、この世界に来てこの人に出会うために必要なことだったなら、もう全部を許せる気がする。

 

「…アレじゃないですか? 単に思い浮かばなかっただけなんじゃないんですか…?」
「ははは。まあ、それも確かにあるけどな。ちょーーーっとだけな」

 

 それにしても、直径10m、深さ1mほどのその泉の水は驚くほど綺麗だ。
 水底に沈んでる小石のひとつひとつを、ガラスごしに見てるみたいにハッキリ見られる。
 つめたい水のにおいと、爽やかな新緑の香り。森の木々を揺らして春らしい温みをもった風が渡っていく。

 

 ――ふと見ると、泉のちょうど中心に、今にも噴水が飛び出してきそうな水の盛り上がりがあった。
 たぶん、そこが源泉なのだろう。
 何となくぼうっとそのへんを見つめていると、ウルさんが水でいっぱいになったポリタンクを豪快に引き上げた。
 水しぶきが散って、そこに一瞬、七色の虹が浮きあがって見えた。

 

「よっし、もういいな。ヒトの腕にはけっこう重いけど…おめぇさん、持てるか?」
「え、あ、大丈夫ですよもちろん。これでもけっこう腕っぷしには自信あるんです」

 

 少しでも頼りにされたくてそう言ったものの、ふたギリギリまで水の入ったポリタンクはとても片手では持てなかった。
 両手でぶらさげて、よたよたと運びながらウルさんの後に続く。

 

「いつもはな、このへんに落ちモノがボロボロあるんだわ。こないだ見回りしたばっかだから今はキレイだけども」
「ああ、それを拾って歩くのがお仕事なんですか?」
「まあな、それだけじゃねっけど。拾ったモンは里に持ってって、他の種族の商人たちとの取引に使ったりする」
「高く売れます?」
「そりゃあもう。落ちモノ専門に扱ってる商人なんかもいるくらいだから」

 

 相変わらず天気は良好で、帰り道、向かって左手に流れる川のせせらぎが耳に涼しい。
 重いのと暑いのとでさすがに汗ばんできたのと、どこまでも続くライムグリーンのやわらかい草を靴で踏むのが惜しくて、途中からはだしになって歩いた。
 ああやっぱり、つめたくて、ちょっとくすぐったくて、すごく気持ちがいい。
 そういや、小さいころはよくこうして公園の芝生を歩いたっけなあ。

 

「…あれ? 悪いな、先行っちまって。大丈夫か?」
「あ、すいません大丈夫です。靴脱いでました」

 

 立ち止まったせいで視界から消えた私を心配してくれたらしい。
 振り返ったウルさんはほっとしたように笑って、持っていたポリタンクを地面に下ろし、こちらに手を差し出す。

 

「歩くの早すぎたんかと思った。…どれ、それ貸しな、靴」
「え? いやいや、いいですよ。自分で持てますよー」
「いーから貸しなって。俺も腕2本しかねぇから水は持ってやれんけど、それ一緒に持って歩くのめんどくせぇだろ。俺のベルトんとこにでも挟んどけ」

 

 私が脇に挟んだ革靴をひょいと奪って、ウルさんはそれを本当にベルトとズボンの隙間に差し込んだ。
 それから両手に水の入ったポリタンクを軽々と持ち上げ、私のとろい歩幅に合わせて、こちらを振り向き振り向き、ゆっくりと歩いてくれるのだった。
 全然そんなの、何でもないことみたいに。
 親切でもなんでもないみたいに。

 

「…ウルさん、モテないってうそでしょう」
「はあー?」

 

 隣に追いついて胡乱に見上げると、ウルさんは顔の大きさの割に小さめの眼を見開いて言った。

 

「何を突然。うそじゃねっつの」
「…うっそだぁー。ぜーったいそんなことないと思うんですけどー」

 

 自分ではモテない、口も達者じゃない、とか言ってるけど、本当にそんなこと全然ない。
 私にしてくれるひとつひとつを見ててもわかるように、ただの朴念仁じゃこんな気遣いはできないと思う。
 それでいてわざとらしさもないし、媚びもない。
 計算とかじゃ絶対ないってことが確信をもってわかるのに、こちらの喜ぶようなことをさりげなく言ってくれたり、さらっとやってくれたりする。
 …こんな上等な男の人ってなかなかいないのになあ。
 本当にこんな人がモテないなら、クマの国の女の人は見る目がなさすぎるか、もしくは要求が高すぎるんだ。何考えてんだろ。
 
「いや、あるんだよ、それが。…だから女房に逃げられたりすんだ」
「は?」

 

 思いもかけない言葉を聞いて、私は思わず立ち止まった。
 数歩先でこちらを振りむいたウルさんは苦笑いみたいな雰囲気を醸していて、でも私を気遣ってか、やっぱり全然なんでもないことみたいに言う。

 

「なんつーんだっけ? おめぇさんらの言葉でよ…あぁ、バツイチってやつ?」
「え、…離婚、しちゃったんですか?」
「まあなー」

 

 もしかして、弾みでとんでもないことを言わせてしまったんじゃないだろうか。
 後悔するよりも早く、私の口は自分でもまったく意識しないままこう言っていた。 

 

「…なんでって、訊いてもいいですか?」
「いいよ」

 

 あっさり言って、ウルさんは笑った。
 なんで笑うのかわからなかったけど、そういえばさっき彼も私に同じことを言ったのだった。
 でも、だからって、とおろおろしてしまった私に、ウルさんは実に軽い口調で話し始めた。

 

「つまんねぇ話だぜ?
 俺はさ、口下手だし、この通りのツラだから、若ぇ時分からホントにモテなくてなぁ。
 しかもツキノワは仕事も忙しいし、だから女とお近づきになる暇も気力も、自信もなかった。
 かといっていつまでも独りモンじゃ生活に張りもなかろうってんで、見兼ねた長が村一番の器量よしとの縁談をまとめてくれてな。
 それが嫁だ。――元、な」

 

 …この通りのツラって言ったって、私にはクマの美醜はわからないんですけども。
 表情でそう言いたげなのを悟ったんだろう。ついてこいと言うようにちょっと頷いてみせて、ウルさんはまた歩き出した。
 私も遅れないように、ポリタンクの中の水をちゃぷちゃぷいわせながら後に続く。
 こんな時でもウルさんの歩みは、私に合わせてゆっくりだ。

 

「元嫁は評判どおり美人で、おしとやかで、慎ましくて、料理がうまくて、つまり理想の女房だった。
 周りにもさんざん羨ましがられたし、俺もそりゃ嬉しかったけどよ、同じくらいプレッシャーだったな。男として。
 しかも滅多に家には帰れんし、帰ったところでキンチョーして喋れねぇし。
 何しろ式んときに初めて顔合わせたくらいだったしな」

 

 …うわー。その奥さん、なんか私にとってもすっごくプレッシャーなんですけどー。
 のっけから色んな意味で泣きたくなるような話で、だけど私はなんとかそれを表情に出さずにすんだ。

 

「…クマの国ではそういう結婚の仕方って珍しいんですか?」
「そういうってのは、どういう意味でだ?」
「えっと…向こうの世界ではっていうか、私の時代から見ればすごく旧い習慣なんですけど」
「ああ、こっちでも異例中の異例だな。
 だいたいみんな小さいうちから適当に相手決めて、発情期んなったらすぐ結婚するから。
 で、ダメんなったらあっさり別れる。未練もねぇ。とっとと次を探す。…良くも悪くもクマってのはそういう性質なんだわ。
 だから俺みてぇに、愛想つかされて逃げられるってことはほとんどない。
 …まあそれでも2人も子供産んでくれたし、感謝はしてるんだけどな」

 

 ……わー。お子さんまでいらっしゃったんですかー。
 訊かなかったから言わなかったってだけなんだろうけど、それはわかってるんだけど、なんかもう、ほんと泣きそー。
 それでも私はさも平気そうな顔でいる。自分でも不思議なくらい表情に出なかった。内心はともかく。
 伊達に苦労はしてきてない、私だって。

 

「子供さんはおくさんが連れてっちゃったんですか」
「や、置いてった」
「でも、ウルさんひとりじゃ育てられないんじゃ…」
「まあな。だから里の女衆に任せっきりで…今は冬眠中だよ。――情けねぇ父親だよなあ」

 

 小屋の扉を開けながら、ウルさんはそう言った。
 彼の声に、そこで初めて自虐っぽい響きが混じった。
 部屋の中はひどく暗く見える。外が明るすぎるせいだろう。…決して私の気分がどうとかじゃなくて。

 

「………再婚、とか、考えたことはないんですか?」
「ねぇな」

 

 やけにきっぱりと言って、私の手からポリタンクを受け取ると無造作に床に置いた。
 …ああ、うん。実はもう考えてる人がいるんだよねとか言われたら、私は今すぐ背後の川に飛び込んでたよね。今度こそ間違いなく三途の川渡ってたね、絶対。
 ベルトに挟んでた私の靴を引き抜いて、隅のほうに几帳面に揃えて置いてくれながら、

 

「ツキノワの嫁なんかなったって、得することなんか何にもありゃしねぇからな。
 しかもコブつきだし。
 クマ族は男も女も細かいトコには全然こだわんねぇけど、誰も好き好んで俺みたいなヤツんとこに来ねぇよ。
 ――他にいい男なんざ腐るほどいるんだ」
「そんなことないです!!!」

 

 ウルさんもぎょっとしたみたいだけど、その否定は自分でもびっくりするぐらいの大声だった。
 たぶん産声でもここまで必死じゃなかったと思う。部屋じゅうに反響して、小屋がちょっと揺れたくらい。

 

「少なくとも、私から見たらウルさんは、すごーーーーくいい男です!!」

 

 もちろんこんなこっ恥ずかしいことをしかも全力で叫んでしまったのは、完全に我を忘れていたからだ。
 冷静に「あんた何言っちゃってんの!?」と思っている自分もいたけど、それ以上に「ウルさん何言ってんの!?」と思う自分のほうが圧倒的に強かったのだ。

 

 ――ふざけんなよ。
 ――誰であろうと、ウルさんを馬鹿にしたら私が許さない。

 

 全くもってお門違いとしか言いようがないんだけど、なんかそんなふうな感じになってしまったのだ。…とにかく。
 そのご本人であるウルさんは扉を閉めるのも忘れて、呆気にとられたように私を見おろしている。
 息を切らした私がかなり長い沈黙にいたたまれなくなってきたころ、横を向いて頭を掻きながらぼそっと言った。

 

「…んなこと言ったっておめぇさん、俺しかクマは知らんだろ」
「……そう、ですけど。…クマに限らず、元の世界でもそれなりに色んな男性を見てきた上での結論であって、その…」

 

 さっきまでの勢いはどこへやら。
 完全に冷静さを取り戻して顔を上げられなくなった私を、ウルさんは面白そうに覗き込んできた。

 

「あー? 腹筋が、じゃねえの?」
「ちっ…違いますってばー!」
「なーんだそーいうことかー、うはははははは」

 

 なんて言って大笑いしてるけど、これは照れてるのかなあ。もしかして。
 もちろん私だって今までの人生で今が一番恥ずかしいんだけど、これは多分、すごく幸せな部類の恥ずかしさなんだろうと思う。
 だってこんな気持ち、それこそ、生まれて初めてだもん。
 だって「恥」というのはこんな温かくて、くすぐったくて、笑ってしまうような感じのものじゃないから。
 みじめで、情けなくて、体じゅうが痛くて寒くて、このまま縮んで縮んで縮んで跡形もなく消えてしまいたいと思うような――

 

「…おめぇさんこそよぉ、彼氏一人しかいなかったってのウソじゃねぇの?」
「え?」

 

 …いけない。
 私の悪い癖だ、気を抜くとすぐに現実からバッドトリップしてしまうのは。

 

「な…何でですか? こんなこと嘘ついたってなんの得にもならないですよ」
「だってよお。…まいったなぁ、天然なのかよ、さっきの殺し文句」
「ころ? え? なんですか?」
「だーから…あー、まあいいや、忘れてくれ」

 

 壁を向いてこちらに背を見せているウルさんは、大きな手でもう一度がりがりと乱暴に頭を掻いた。
 私はこっそり隣に並んで、頭3つは上にある熊顔をにんまりしながら見上げる。

 

「ウルさんが、世界で一番いい男って言ったことですか?」
「な!? ちょ、おま、そこまで言ったか!?」

 

 言ってはいません。 が、確実にそう思ってます。
 もちろんそんなこと口に出して言えるわけないんだけど、私の表情でそのくらい読み取れるはずだ。
 案の定、ウルさんは片手で顔を覆ってしまった。
 …これもやっぱり照れてるのかな。毛皮のせいで顔が赤くなってるかどうかなんてわからないからなあ。

 

「あのよー…あんまオッサンにそういうこと言うなや…」
「え? なんでですか」

 

 本当にそう思ってるから言ってるんですけど。
 からかってるとかバカにしてるとか思われているとしたら心外なので、私は真面目な顔をしてみせる。
 指の隙間から覗かせた片目で私を見おろしたウルさんは、

 

「…おめぇさんは優しいからなぁ、お世辞ってのは重々わかってんだけどさあ…」
「お世辞じゃないですってば。わかりませんか?」
「あー…なんかこう……情けねぇんだけどさ、ついキュンと来ちゃうんだよなあ…」

 

 …キュンって。

 

「すごい。ウルさんって、なんか、ほんと、…かーわいーんですねぇ」
「だー! もういい、メシ作っぞ!」
「はーい」

 

 

 


        *

 

 

 

 クマの国には水道もなければガスもないし、電気もない。
 なので当然、料理のための火は竈か、外で、ということになる。
 例のパンケーキは、ウルさんが外の焚き火で熱した平べったい石の上で焼いてくれた。
 心配していたような毒物が出来上がる様子もなく(ウルさんの料理の腕がどうとかいうわけではない)、たちまち辺りに香ばしいにおいが漂った。

 

「…うっわ何これ。めっちゃ美味しい」
「だろー?」

 

 タネは小麦粉(にしか見えない白い粉。恐ろしいので正体は訊いてない)と水を合わせて溶いただけで、それ自体は大したものじゃない。
 何が美味しいって、その上にかけて食べる金色の蜜と果物のジャムがムチャクチャ美味しいのだ。
 しかもジャムはウルさんのお手製で、曰く「裏の山の木の実と果物を適当にブチこんで煮た」らしい。

 

 でもこの短期間でわかったことだけど、たぶんそれはウルさん流の照れ隠しだ。几帳面な彼のことだから相当研究したんだろう。
 そう指摘すると、「うんまあ、ここでひとりで過ごしてたら、やることって限られるからな。掃除とか料理とか」だそうだ。
 …男やもめの生活かぁ…って、思わずキュンとしてしまうのはなんでだろう。
 自分の趣味が心底わからなくなりつつある…。

 

「ほんっとおいしーです。この蜜って、こっちでも『ハチミツ』っていうんですか?」
「いんや? …ああ、別のヒトもそんなこと言ってたな。おめぇさんらの世界で蜜を出す虫はハチっていうらしいけど、こっちじゃ『蜜虫』っていうんだわ」
「…はあ」
「ちなみに『ハチ』って種族がいるからな、一緒にされると多分、そいつらに怒られんぞ」
「……はあ…」

 

 ハチ人間、…だとすると、それはいったいどんな生態なんだろうか。
 姿かたちを想像してみようと思ったんだけど、あいにく私も昆虫が得意なほうではなく、まして食事中ともなると自動的に脳がセーブをかける。
 虫人間か…なんか初代仮●ライダーの絶望がわかる気がする。そらショッカーに復讐したくもなるよなあ。
 というか落ちてきたのがクマの国で本当に良かった私。まじで私バンザイ。ゴk(規制)リ人間の国とかだったら即舌噛んで死ぬわ。

 

「ま、この国にいる限り、ハチ族に出会う可能性はゼロに近いだろうけどなあ」
「ああ、そういえば、クマの国って鎖国してたんですよね。なんでですか?」
「うん、それはなあ…まあ話せば長くなるんで簡潔にだけども」

 

 蜜でべたべたになった指を舐めつつ、ウルさんは話し始めた。

 


 それは、『ツキノワ』である彼が生まれながらに背負わされた、過酷な運命に繋がる歴史の話でもあった。

 

 

 

 

 

 

 

【つづく】

 

 

 

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