ツキノワ 第4話
4.熊とバトルでファーストチッス
パン、パン、パンッ、と、立て続けに3回、音がした。
なんと表現すれば適切だろう。銃ほど鋭くなく、手を打つ音ほど乾いてもいない。
例えるなら濡れた布が空気を打つ音に似てる。洗濯物を干すとき皺を伸ばすためにパンパンッてやる、あの感じに近い。
「ウルさん…」
「いいか。これから何が起こっても、一言も喋っちゃなんねぇ」
はい、と言いかけて口を噤んだ。…喋っちゃいけないんだ。
ウルさんは私を見おろし、かすかに頷いた。あの穏やかさや呑気さを一切消したまなざしで周囲をぐるりと見まわす。
…なんだろう。あの音の響きは、この空気の中ではあまりにも不自然で、かつ、不吉な余韻を持っていた。
さっきまで心地よく耳を潤していた川のせせらぎすら不気味に聞こえてくる。
「大丈夫だ。おめぇさんはただ黙って成り行きを見てれ。…絶対大丈夫だ」
ウルさんの眼を真っ直ぐに見上げて、私は頷いた。
すくっと立ち上がったウルさんは、改めて、ものすごく大きかった。こうして座って見上げているとなおさらそれがわかる。
私は身体ごと川のほうを向いたウルさんの脚に隠れるように移動して、そちらに眼を凝らした。
景色は何も変わっていない。色とりどりの花の絨毯。ピンク、イエロー、ブルー、パープル、その隙間から覗く茎と葉のライムグリーン。
空と木々の色を映してかすかに碧い、陽光を浴びて乱反射する水の流れ。
鬱蒼と生い茂る、果てが見えないくらい深い森のビリジアン。その背景に素晴らしく晴れ渡ったスカイブルー。
――それら絵のように美しい風景が、突然、ぐにゃりと歪んだ。
空中のある一点を中心にしてすべての色彩が巻き込まれ、複雑なマーブル模様を描いていく。
思わず見とれるほど綺麗に見えたそれは、すぐに渦となり、しゅるしゅると猛烈なスピードで回転を始めた。
両手で口を覆った私と、微動だにしないウルさんの目の前で、ただの黒い球状になった中心点がぐぐぐっ、と盛り上がる。
まるでそこから何かが生まれ出てくるかのように、私には見えた。
「…お客さんは久しぶりだな。3人か」
ウルさんの呟きがかすかに聞こえる。
私は目の前の光景から目を離すことが出来ない。
黒い円の中を突き破るようにして出てきたそれは、やはり、そこから生まれたかのように黒いモノだった。
まず先端が、次にもう少し大きい部分が。
凸形かと思われたそれは意外に長い胴を持っていて、ずるずると音を立てながら全貌を現す。
――びっしりと毛に覆われた、大きなかたまり。
(ちょっ、なにあれ!?)
完全に抜け落ちたそれは、するりと地面にうずくまった。
でもそれで終わりではない。もう1体、そしてまたもう1体が次々に出てくる。
合わせて、3体。
ウルさんの言ったとおりの数だ。そしてさっきの『音』と一致する。
それで全員揃ったのだろう。進入成功を見届けて、一番最初に出てきたモノがむっくりと起き上がり、二本足で立ち上がった。
固唾をのんで見守っていた私だったけど、そいつらが晒した全身を見たとたん、肩透かしを食らったような気になる。
(え、…なんだぁ、クマさんじゃん)
小柄――に見えるけど、それは3m以上あるウルさんと比較するからで、この人も180cmくらいはあるだろう。
でも、姿かたちは紛れもないクマだった。
続いて残りの2人も立ち上がる。片方はそれより少し小さくて170cmぐらい、もう片方は160cmをちょっと超えたくらいだけど、やっぱりこちらもクマさん。
でも、皆なぜか動作がぎこちない。
降りたときにどこか痛めたのか、ぎくしゃくしてる。
ともあれ、何か未知の化け物じみた生物の出現を想像していた私は、思わず安堵の息を吐いた――のだが。
『おい、見ろよ。さっそくクマと…ほら、ヒトメスまでいる』
くぐもった声が聞こえた。
頭から厚い袋をかぶった人が喋ればきっとこんな声になるだろう。でも肝心の出所がわからなくてぎょっとする。
続いてどこか浮かれた、でもやっぱり同じように不明瞭な声が聞こえた。
『うわっ、マジですね! じゃあ早速…』
『ちょっと待て、どういうことだ? ヒトはいいとして、クマの連中はまだ冬眠してるはずだろう』
『さあ? とりあえずこいつらだけでもいいじゃないですかぁ』
どこから聞こえるのかと思えば、その3クマの中の180cmと170cmが喋っているらしい。
妙に浮き足立ったような会話を交わしたかと思うと――クマのお腹から細い二本の腕がにゅっと生えた。
(―――!!!!!)
ぶうん! と音を立てて、何かが凄まじいスピードで私の耳を掠めて飛んでいく。
その正体が何なのかはわからない。視界が急にぐわんと揺れたかと思うと、私はあっというまにウルさんに抱え上げられていたのだ。
あら役得★ とか思ってる場合じゃない。ウルさんにしがみつきながら首をひねって後ろを振りかえると、
(ひー! ウルさん、後ろ後ろー!!!)
たぶんそれが「ぶうん」の正体なんだろう。不気味な銀色に光る輪っか?のようなものが、ブーメランのように軌道を変えてこちらに向かってくる。
知らせるまでもなく、ウルさんはそれに気づいていた。
私を抱えたまま、ごく無造作にひょいと右腕をその輪の軌道に突き出す。
えっちょっとそれはまずいんじゃ、と一瞬ひやっとしたものの、ウルさんの手にたたき落とされたそれは、しぱんっ! という音とともにあっけなく弾けた。
ぱらぱらと降り注いだ滴は水銀のようにいやらしく足元に草に絡みつき、徐々に力なく消えていく。
(…うわあ。もしかしてこれが魔法ってやつ!?)
クマのお腹から手が生えて、なんだかよくわからない複雑な動きをして、かと思うと淡く光って、何かが飛び出した。
私に見えたのはかろうじてそれだけだ。
全てがあっという間の出来事。
もしかしても何もなく、どう考えても非科学的な光景。
ここが剣と魔法のファンタジーな世界であるということはわかってはいたけど、実際にこの目で見てもどうも現実感がない。ただただ、驚くだけだ。
(ていうか、なにこいつら。いきなり無礼な)
あらためて突然現れた不審なクマ野郎ども(野郎で充分だこの野郎)に目を向けた。
ヤツらはなんだか焦っているような気配を漂わせながら、相変わらずどこか動きづらそうに体をゆすっている。さっき生えてきた手はひっこめたらしく、もう見えない。
『馬鹿野郎が! 効かないのはわかってるだろう!』
『はあ、すんまっせん。てか、今のは手っとり早くヒトメスを拘束しちゃおうとしたんですが』
『クマが庇うに決まってるだろう。少しは頭を使え!』
あ、狙われてたの私っすか。…まあそんなことはどうでもいいんだけど。
どっちにしろ前触れもなく攻撃(だよね、あれは多分)してくるなんて、ずいぶんなご挨拶だ。きっちり落とし前つけてもらおうじゃないのよ。
…なんつって、私、今、しゃべれないんですけどねー。
ウルさんがしゃべるなって言った理由がわかる気がする。余計なこと言って余計に面倒なことにしちゃいそうだもんなー。
でも腹立つわー、なんなのこいつら、マジで。とりあえず里帰りって感じじゃなさそうだけど。
「…それは…ベッカか。で、こっちがトマで、…ああ、それはチップか。でっかくなったんでわからんかったわ」
代わりに口を開いたのはウルさんだった。――地を這うように低い声で。
あれ、お知り合いですか? なんて訊けるような雰囲気じゃない。しっかりと腕に抱えられた私には、ウルさんの感情がダイレクトに伝わってくる。
全身をびりびり震わせるくらい、それを向けられていないはずの私すらすくみあがるくらいの――それはそれは強烈な、怒りだった。
それはそうだろう。私なんかよりずっと腹立つに決まってる、知り合いなんだったら余計に……
って、あれ?
(…さっきウルさん、「お客さんは久し振りだな」って言った?)
「結界はクマのためのものだから」、いつでも出入りは可能なんだよね。
普通、出て行ったり、帰ってきたりした人を、「お客さん」とは言わないよね。
じゃあ、こいつらは本当に何なんだろう。
クマの姿をしてるけど、このクマの国で生まれたわけじゃないんだろうか。
でも、だったら、名前だって知らないはずだよね。もしかしてクマの中でも敵対する勢力がいるとか…?
『知っていたか。それなら話は早い』
『ボクたちみたいな奴らのことは知ってんだろー? だったら観念してお縄につけーい』
…そうだ。外界から切り離されたクマの国に立ち入るには自分の許可が必要だと、最初にウルさんはそう言った。
彼が警戒を露わにしているのなら、まっとうな手段での来訪者であるはずがない。
私はさっきのウルさんの問いかけを思い出した。
『なんでクマが、結界に守られて暮らしてなきゃならんと思う?』
――何故だろう。私にはまだわからない。ただクマの国にはそうしなくてはならない事情があって、
『ある種のヤツらには喉から手が出るほど欲しいモンを、俺らクマは持ってる』
――だから他国からの侵害を過剰なまでに防いでいるのだ、としか。
「…ずいぶん景気いんじゃねっか? おめぇら」
『お褒めに預かり光栄だ』
『おまえはあと! とりあえずそのヒトメスよこせやー、おらー!』
威勢のいい声とともに、また170cmのほうのお腹から手が突き出た。
さっきのよりずっと複雑な手の動きが始まる。
ええと…たぶん、これ、なんか…すっごい魔法なんじゃないの!?
危機感を覚えて顔を覗き込むも、ウルさんはまったくの余裕だ。それどころか空いてるもう片方の手で私の背中をぽんぽんたたいてくれる。
…こんな時でもウルさんは優しい。
さっきまですんごい怒ってたのに、それを私にはぶつけないでくれるんだ。
うん。ウルさんが大丈夫だっていうなら、ぜったい大丈夫。
どんな無茶なことを要求されたとしても、ウルさんが正しいっていうことなら私、無条件に信じられる…。
『いっくぜー!』
(あ、これ、死ぬわ)
あっさり一瞬で諦めがつくくらい、そいつが掲げた手の上で燃え盛る火の玉はデカかった。
…だってそれ…家一軒まるまる飲み込めそうなくらいあるんですけど。
あのー、それって、メラゾーマですか? それともファイガですか?
いやこれはもうフレアですか、それともベギラゴンですか。いやあ見事なお手並みでやんすねえ。
それにしたってあーた、まだぼうけんのしょもできてない段階の初心者に向かってずいぶんな仕打ちじゃおまへんか、ねえ旦那さん。
あれれ? ウルさんを信用したい気持ちと現実に対する困惑が混乱で私、何が何だかパルプンテ?
なーんつってゲヘヘ。
――って、ちょ、死ぬ、これ食らったらマジで死ぬってええええええ!!!!!
『おりゃあああああ!!!』
火の玉がいっそうデカくなった――と思いきや、それはヤツの手から離れてどんどんこっちに迫ってくるからなのだった。
頭が、真っ白になる。
ていうかこの数時間で2回も死ぬ思いするなんて、よっぽど私、運ないんだなー。わかってはいたけど。
ああでも、せめてウルさんに出会えたことだけでも、この世界に落ちてきた甲斐はあったよ。
良かった、あの時偶然風が吹いて。崖から落ちて。本当に良かった。
あの風が吹かなかったらたぶん、あのまま何事もなく家に帰って、ひとり部屋であいつのことなんかでひとしきり泣いて、気が済んだらごはんを食べて眠って。
朝起きて、電源切ったままの携帯を解約して、…まあどうせあいつからの着信もメールもないだろうけどともかく、きっぱり縁を切って。
万が一のことも考えて鍵も取り替えて、ああめんどくさいな、もういっそ全然違う町に引っ越すのいいかもしれない。
どうせ職場に近いからっていうそれだけの理由で住んでたとこだし、何の未練もないや。スーパーも遠いし。
別に素敵なカフェやら服やらスイーツのお店やらがあるとこじゃなくていい。
下町とかさ、憧れるなぁ。商店街を歩いてたら肉屋のおじちゃんに声かけられたりとかさぁ…
そしてそこでしばらくぼーっとして過ごして、気がすんだらハロワでも行って、新しく職みつけて。
そんな他愛もない日常をとことん他愛なく、ずっとずっとひとりで過ごしていったんだろうな。
…誰も心から好きになれることもなく。
男なんてみんな信用できないとか、どうせ私のことなんか誰も好きになってくれないとか思いながら、鬱々と生きていったんだろう――
一瞬で暗い未来が脳裏に駆け巡った。
でもそんなくだらないものは、他でもない、ウルさんによって粉々に砕かれた。
「ウルさ…っ!!!!」
たまらず叫んだ私の口が、毛むくじゃらの大きな手でふさがれる。
地面に押し倒された私の上にウルさんの巨体が圧し掛かり、一切の外気を遮断した。
彼が何をするつもりなのかは明白だった。暴れる私を恐ろしい力で押さえつけ、私は微動だに出来ない。
にも関わらずほとんど重みを感じないように、少しだけ余裕を作ってくれさえして。
(ウルさん! いやです、ウルさんっ!!!)
太い腕に抱え込まれた頭を激しく振ると、少しだけ出来た隙間から一瞬、恐ろしいほど高熱の空気が入り込んだ。
耳のふちが焦げるかと思うほどの熱。でもすぐにその隙間はふさがれた。ますます強く押さえつけられ、もう余裕もなく、ぎっちりと拘束される。
噴き出した汗は熱のせいじゃない。
冷汗だ。
恐怖だ。
そして――
(いやだああああああっ!!!)
全身を引き攣らせて振り絞った叫びは、むなしく厚い掌に跳ね返された。
どんなに暴れても、私のような小娘の力では現状をどうすることも出来ない。
わかってる。
このままのこのこ出て行っても殺されるだけだ。
それもわかってる。
でも、それでも、ウルさんが私をかばってくれて、こんな、今日会ったばっかりで何の義理もない私をかばってくれて。
私の人生で初めて出会ったかもしれないくらいのいい人が私をかばってくれて。
すごくありがたいしすごくうれしいけど、でも、いやだ。
いやなんです、ウルさん。
あなたが死んでしまうのは嫌です。
それなら私が死んだほうがずっとましです。
だって私、私は、あなたはおかしいっていうかもしれないけどでも私はもう――
「…だからよぉ、大丈夫だっつったろ?」
(…え)
いかにもおかしそうに囁かれて、私はいっさいの抵抗をやめる。
涙の乾かない眼を開いた。ふわふわしたウルさんの黒い毛皮しか見えない。
そのはずなのに、滲んだ視界には幾多の光の粒が弾けている。
(…星、だ…)
私はその時、まるで宇宙に放り出されたような錯覚を起こしていた。
ウルさんの毛皮は完全に覆われて密閉されたわずかな隙間の中、それ自体が星空であるかのようだった。
艶やかな夜色の地に細かく砕いた宝石をばらまいたような。
果てのない宇宙にただひとり置き去りにされたかのような、手足がどこかに行ってしまったような、自分が無と同化してしまったかのような。
それはものすごくリアルな錯覚で、ともすれば恐怖さえ感じそうになる。
――大地と太陽の子にして、世界に夜と闇を齎す者。
――私は月の神の嘆きより生れし者。
でも、すごく綺麗。
…こんな状況だっていうのに、思わず見とれてしまうくらいに綺麗だった。
『ちぇっ、やーっぱ無駄だったかぁ…。けっこういい感じに古くて、取っておきなんすけどね、この魔法』
『お前な。クマ相手に張り切るのはわかるが、無駄打ちは止めておけ』
『だーって、滅多にない機会じゃないですかぁ。こいつらには何の気兼ねもなく思いっきり撃てるんですよ?』
『確かにな。他の種族相手では、逆に死なない程度に抑えるのに骨が折れる』
そんな会話がごく近くで聞こえる。
…いつのまにか、あいつらが近寄ってきているらしかった。
ウルさんはどうするつもりだろう。私はもうすっかりすべてを任せるつもりでいる。
それでも不安は不安で、少しだけウルさんの毛皮に顔を押し付けた。瞼を閉じていてももう脳裏に焼き付けられてしまった、きらきら眩しい星の野原に。
頭の上でウルさんがちょっと笑ったような気配がした。
『あれ、動きませんねえ』
『油断するなよ。絶対罠に決まってる』
『そーっすか? 無事なのはほら、毛皮だけで、中身はすっかり蒸し焼きなのかもしれませんよ?』
『そんなわけないだろう』
『いやいやー、だってほら、なんてったって取っておきの古代魔法だったんですよ? クマ相手にも覿面だったりして』
『…それなら中のヒトメスもろともだろうが。この馬鹿、せっかくの追加労力を』
『いーじゃないっすか、一人くらい。どーせこの先にあるっつー里に行けば、眠ってるヤツらを一網打尽…』
軽口を叩いていられるのもそこまでだった。
何の前触れもなくウルさんの巨体が跳ね上がり、両側に立って見下ろしていたらしいそいつらを強烈な張り手で地面に叩き付けたのだ。
「うぐっ」
「ぐげえっ!」
ようやく外に出られた私が見たのは、無様に地面に転がるクマ2頭――だけではない。
私の座り込んだあたりを中心にして半径10mくらい、憎らしいほどきれいな円状に焼け焦げている。
ウルさんの小屋は跡形もなく消えてしまい、痕跡すらない。裏手の山の木も一部がごっそり持っていかれてる。
…酷い。
それでも焦げたにおいもしなければ、煙もなかった。『魔法』だからかもしれない。
ウルさんはまるで町内会のゴミ拾いでもしてるみたいに億劫そうでいながら、軽々と左右の手でやつらの頭を持ちあげている。
わお、さっすが力持ち! もっとやっちゃってー! と内心拍手喝采していたら、なんと。
――やつらの頭が、ぼろっと取れた。
(ええええええええええええええええ!!???)
く、首刈りっすか!? と思わず身を乗り出した(後から考えると結構怖い)私の目の前で、ウルさんは無造作に中に手を突っ込んで、何かを引き抜いた。
まさか内臓とか出てきたりしないよね…と祈るような気持ちで見ていると、まるで殻をむいた海老のように、ずるずると『中身』が引きずり出されてきたのだった。
(き…着ぐるみーーー!?)
中から出てきたのは、クマの毛色とは似ても似つかない肌色の生き物だった。
長いオレンジ髪の毛をきれいに結って、白いひらひらした露出の高い服を着て、突き出したすらりと長い白い手と足――を見る限り、それは。
(…ヒト!?)
の、わけがなかった。
ヒトならば耳があって当然の場所には何もなく、代わりに頭の左右に三角形の何かが突き出していて。
そしてお尻から、何か妙によくしなる長いものが生えている。
「や…やめろー! はなせー! いてててててこの馬鹿力ー!!」
それはいわゆる猫耳・猫尻尾というやつで。
…つまるところこいつはネコ、なんだろう。
しかも、粗野な話し方をしてるけど、声の高さとか体つき(おっぱいでかい・腰くびれてる・おしりやらしい)から見て、まず間違いなく女の子だ。
私の常識から考えれば、そんなものを常時つけている人間はそういう職業か、それとも変わった趣味の人として周囲から白眼視されるものなんだけど…。
依然としてウルさんに首の後ろをがっちり持たれて、しかも1mぐらい浮かされてるそいつから生えてるモノは、ちゃんと生まれ持った体の一部らしい。
なんかめちゃめちゃ動くし。
…まあ、天然モノなんならそれに関しての文句はない。
文句があるのは、あくまで別件だ。
――なるほど、着ぐるみだったからずっと動きづらそうにしていたわけか。
気付かない私も私だけど、こいつらもなんだか間抜けだ。そこまでしてクマの国に入りたかった理由って何なの?
ていうか、クマの着ぐるみでなんかで入ってこられるなんて、ここん家の結界ってずいぶんセキュリティ低いんじゃ…大丈夫なんだろうか、こんなんで。
「……畜生め…!」
悪態をつきながら出てきたもうひとりのほうは、全身毛むくじゃらの大男だった。
クマの着ぐるみの中から出てくるにしてはずいぶんシュールな光景だったけど、実際そうだったんだから仕方ない(たぶん、すっごい暑かったと思う)。
そいつは灰色の地に黒の縞模様の入った、ふわふわのアメリカンショートヘアみたいな毛質をしてる。ただし間違っても撫でくりまわして遊びたいような可愛らしい生き物じゃないけど。
猫のしなやかで柔らかそうな所作はそのままに、180cm以上ある身体は筋肉質で、やっぱり裾の長い服を着ている。ネコ娘のと違って色は黒。
こちらは顔も頭も耳も尻尾もヒゲも、全てが猫そのものだ。
…しかも見るからにボス的な、ふってぶてしーい感じの。
(うーん、獣人も良し悪しだなー)
猫っていうのは猫サイズだから可愛いのであって、こんな巨大化したら小憎らしくて仕方がない、と、私は結論付けた。
まあコイツらのやらかした事態を考えれば、私がネコ人間に対して悪感情を持っても何ら責められる筋合いなんてないんだけどね。
この先この世界で暮らしていく間にこれを覆してくれるほどのネコ人間さんが現れてくれれば、その限りではないし。
あ、でもそういえばウルさんもさっき「俺、ネコって嫌いなんだわ」って言ってたっけ。
…なんか、ネコに関しては明るい未来が見えない気がするなあ。
好きなんだけどな、猫。まあ、犬派か猫派かと訊かれたら、私は確実に熊派だけど。
「離せってんだよお!」
往生際悪く暴れ続けるネコ娘の組み合わせた手が紫色に光って、持ち上げてるウルさんの腕に叩きつけられた。
ばちっ! と生木を裂くようないやな音が響いたものの、ウルさんはびくともしない。
ただ冷徹な、ほとんど感情を感じさせない眼でそいつを見ている。
…ウルさん、そういう顔もするんだ。
「ひっ…」
猫耳がぺたんと髪の毛に埋もれた。垂れ下った尻尾が緊張で逆立っている。
あら、おもしろー。これは怖がってるんだろうなあ。
なにがしたかったのかよくわかんないけど、こんなことまでやっといて今更って感じ。馬鹿なやつだ。
…まあ、ないすばでーのお姉ちゃんに対してどうしても当たりがキツくなるのは、女のサガってやつですよねー。とほほほほほ。
私にも手伝えることないのかな。でもそれをウルさんに聞くのも「しゃべるな」と言われた以上できないしなあ。
なんかもー、せめて2.3発ぶんなぐってやりたいんだけどなー。
――そんなことを考えたとき、突然ネコ男が叫んだ。
「何をやっている4号! こういう時のためにお前を連れてきたんだろうが!」
はあ? と思って振り返ると、そういえばそこにはもうひとり、いた。
実際に行動を起こしたのは2人だけど、そもそも侵入者は3人だったのだ。
現れた場所で一歩も動かずにいた一番小柄なやつは、怒鳴られて明らかにビクッとした。
両腕を中途半端に持ち上げて、おろおろと辺りを見回している。…動物園の熊の子そのものの仕草で。
「さ、さっさとやれよ! ボクとご主人さまがいなくなったらおまえ、どーなると思ってんだよ!」
うわあ、いま流行りのボクっ娘なんですねこいつ。
ち、ちくしょー…可愛いからなんでも許されると思っ…いやなんでもない。
..............
「なにびびってんだよお! わかってんだろ、クマはボクらを殺せないんだよ!!」
…なにそのアホな自信。じゃあネコはクマを殺せる権利があるとでも言うわけ?
ともあれ、なんかすっごい居丈高なネコ2人(こいつら自分の立場わかってんのかな)にせっつかれて、そいつは慌てた様子でごそごそしだした。
クマの両腕がだらんと下がり、腹の中がもぞもぞ動いてるのを見ると、中でなにかを探してる様子だ。
もちろん、それをただ見ているだけのウルさんではなかった。
「――やっぱおめぇらか。手を下したのは」
ウルさんの発した発したその一言で、場の空気が、氷点下まで下がった。
冗談でも比喩でもない。本当に下がったのだ。
まるで真冬の空気が突然上から落ちてきたみたいだった。全身の毛穴が一瞬で閉じ、さっき火傷してひりひりしていた私の耳や、鼻や、手足の指という末端から、急速に体温が奪われていく。
抜けるような青空はいつのまにか厚い灰色の雲に覆われていて、焦げた土にみるみる霜が張った。
吐く息が真っ白になり、吸う息で鼻の中、耳の奥、気管、そして肺まで、全ての水分が凍ってぱりぱりに乾いた。
何より恐ろしかったのは、肌に触れる空気が冷たいのを通り越して痛いことだ。
本当に無数の針に容赦なく突き刺されているみたいで、たぶんあと1秒でもこの状態が続いたら、恐怖のあまり約束を破って叫んでいたと思う。
(……っ!!)
――そして、唐突に解放される。
私は座り込んだまま焦げた土に手をついた。そこに残っていた熱がかじかんだ手を温める。
体が、がくがく震える。止まらない。
(なん…だったの、今の!?)
事態にそぐわないぽかぽかした陽気とのんきな太陽に照らされて、私はじわじわと自分を取り戻した。
冷汗でびっしょりになりながら、おそるおそるウルさんを見遣ると、
「やめ…やめろ…うがああああああ!!!」
「なん、なんなんだよこれぇっ! ちくしょうっ、燃えろ、燃えろよおおおっ!!」
ウルさんの両腕にぶら下げられたネコ2人は、それぞれに勝手なことを口走りながら悶絶していた。
ネコ男のほうは大きな体を縮こめて痙攣しているし、ネコ娘のほうは錯乱した様子でめちゃくちゃに手を動かしている。魔法を使おうとしているのかもしれない。
(…なに、これ)
辺りを見回しても、先ほどまでの凄まじい寒気などひとかけらも見てとれない。
私が『落ちてきた』時と同じ、気持ちよい春の晴天と陽気、花ざかりの川辺。そしてさっきネコ娘の魔法を食らった無残な焦土。
にも関わらず、ネコ2人は依然としてパニック状態だ。
よく見ると、全身が霜に覆われたように白くなっている。吐く息も煙みたいに真っ白だ。
ネコ娘なんかむき出しの肌に完全に血の気がない。たぶん火でも出そうとしているんだろうけど、どうしても魔法が使えないようだった。どちらもガタガタ震えている。
(あの2人だけが、今もあの状態ってこと!?)
私があれを体験したのはほんの3秒くらいだ。それでも充分すぎる責苦だった。
敵(?)ながらさすがに気の毒になってくる。
まあ、仕方がない。入って来ちゃいけない他人の家に入ってきて好き勝手しようとしたのは明らかに罪だし、自業自得ってものだろう。同情の余地なし。
「き…さ……く…クマのくせに…!」 .............
「せいぜい安心しろや、殺しゃしねぇよ。なんたってクマは人間を殺せないからな、そうだろう?」
あ、そうなんだ。へー。ネコ娘の言ったことって本当なんだ。
そりゃどこの世界でも殺人が合法なんてことはないだろうけど、クマの国には特にそういう決まりがあるのかもしれない。
――しかし、これはウルさんの『魔法』なんだろうか?
まず間違いないとは思うけど、魔法が使えるなんて意外だった。ウルさんのイメージ的に魔法使いというより、戦士とか格闘家とか、そういった魔力ゼロの職業っぽいし。
…まあ完全に私の好みですけどね。スゥーパァーマッソゥーでガンガンいこうぜってのが漢(と書いておとこと読む)ってもんでしょう。
「4号おォォォォォ!! やれぇ!!!」
断末魔みたいなひび割れた声で、ネコ男が叫んだ。
川辺に目を移すと、怒鳴られた3人目は依然として動こうとせず、それどころか呆然と事態を傍観していただけのような風情だ。
相変わらずクマ(の着ぐるみ)の腕はだらんとしている。小刻みに震えているようにも見えた。…決して寒さのせいではなく。
「い…今さらつ、罪の意識かよ、おおおお遅ぇんだよバーカ」
とうとう指が動かなくなったのだろう。魔法を出すのをあきらめたらしいネコ娘が、がちがち歯を鳴らしながら言った。
…罪の意識? なにそれ。
私の内心の声なんか知ったこっちゃないネコ娘は、造作だけは綺麗な顔を醜悪な笑いでぐっちゃぐちゃにしながら、
「ここここのまま何もしなきゃ見逃されるとおおお思ってるのかよ?
あはは、どどどんなに命乞いしたってもう許されねーぜ、おおおおまえはもうななな何人もその手でくくくクマをき、切り裂いてきたんだからなぁ!!」
『う…ううう…!』
初めて3人目から声らしいものが漏れた。
泣いているようにも、抗弁しようとしながら言葉が出てこない子どもの癇癪のようにも聞こえるうめき声。
「…だからネコってのは嫌いなんだよ」
そう言ったのは、ウルさんだった。
氷漬けになりかけた2人のネコたちをぶら下げたまま、3人目のほうに歩いて行く。
のしのしと歩み寄るクマの巨漢を見て、3人目は後ずさった。でもウルさんはそいつのほうには目もくれず、川べりに咲くやわらかい花たちの上に立つ。
私も事態を見届けようと、そろそろと歩み寄って様子をうかがった。
ウルさんは片手で掴んだネコ娘の頭を持ち上げ、自分と同じ目線まで持ってくる。
そして、こう言った。
「汝は理に背いた。我が土を侵し、我が子らを害した。――月の子ウルは汝を許さぬ」
そう言われた途端、ネコ娘の体がびくんと硬直した。
釣りあげられた魚みたいにまっすぐ伸びたネコ娘の大きな瞳は限界まで見開かれ、今まで寒さに凍えていたことすら忘れたかのような無表情になる。
ウルさんのいつもの悠々とした、気遣い屋さんの口調とはまったく違う。厳かで静かな怒りに満ちた魔法の呪文みたいな文言は続く。
「見よ。水は我が身。我が力の運び手、我が意思の導き手、我が子らの癒し手なり。
故に汝、この流れの間に間にその身の汚濁を濯ぐが定め。――月の子ウルは汝を運ぶ」
ネコ娘は口を半開きにし、魅入られたかのように病的な顔でウルさんを凝視している。
それに全く頓着せず、ウルさんはふいと視線を外したかと思うと、その手をおおきく振りかぶって。
「つーわけで……さいなら~」
ぶわっしゃーーーーーーーーーーーん!!!!!
…と、思いっきり、ネコ娘を川にぶん投げたのだった。
どんぶらこっこ、すっこっこ。
ひとことも声を発することなく、あっという間に猫耳つきオレンジ頭は遠ざかっていく。
……あ~らら~~~…いいのかなアレ。不法投棄じゃないの?
「く、くそっ! 離せ、離せぇぇぇっ!!!!!」
今までもかなりな音量で騒いではいたんだけど、完全に黙殺されてたネコ男がますます暴れ出した。
まあ、これを見てれば自分も同じ目に遭うってのはアホでもわかるし、必死にもなるよね。なんたってこいつネコだし。たぶん泳げないんだろうしなあ。
「4号ぉぉぉ!! 早くコイツをや――」
「はい、おめぇもさいなら~」
どばっしゃーーーーーーーーーーーーーーーーん!!!!
哀れネコ男もぶん投げられる。図体がでかいぶんだけさっきより水音が派手だ。
なんか結局よくわかんなかったけど、会話を聞いてる限りこいつがリーダーだったんだと思う。だからなのか、流石に悪党の親玉は往生際が悪かった。
「畜生おおおおお!!!!!」
みるみる流されていきながら、こちらに何かを投げつけてくる。
でもそれはこちらまで届くことなく、遠くの川岸にむなしく落ちた。
抵抗らしい抵抗はそれだけだった。額に手をかざして見ていた私の目の前で、あの大きなネコ男の姿はとぷんと川面に沈み、二度と浮き上がってこなかった。
…なにあれ、今あいつが投げた物。
一見ただの黒い小石っぽいけど、爆弾とかだったらどうしよ。…と、ウルさんに訊こうとしたときだった。
『…ごめんなさい…』
未だに着ぐるみのまんま立ち尽くしてる3人目が、蚊の鳴くような声でそう言った。
ああーん? 聞こえねぇなあごめんなさいがよぉ、とか言えるものなら言ってやりたいんだけど。
さっきからあのネコどもにしつこくせっつかれてた割に何もしようとしなかったあたり、こいつはまだ救いようがあるんだろうか。
ウルさんもそう思ったのかもしれない。
「…おめぇさんか。やらされてたのは」
『はい…』
「いつからだ」
『に…2年前…です』
…やらされてた? って、何を?
ウルさんの声は怒ってはいない。さっきみたいな呪文調でもない。
でも、奇妙に感情を欠いた、無感情な声だった。
「あいつらに拾われたのか」
『…いいえ。…売られて、…あの人たちに、買われました』
「4号って呼ばれてたな。他にも、おめぇみてえなのがいるのか」
『はい。…あいつら……<仕事>をさせるために、私たちを…いろんなところから…』
「わかってる。言わなくていい」
…仕事?
そういやこの人、なんか使用人つーか、下僕みたいな扱いされてたなあ。
まあ、もろもろ疑問はあるけど、あとでまとめて聞かせてもらえばいいか。
小首をかしげて彼らの会話を聞いていた私を、ふと、ウルさんが振り向いた。…なんだか困ったような顔で。
でもそれは一瞬のことだった。すぐに3人目に目を向けると、
「まあ、あいつらはもうおめぇらの前に姿を現すことはねぇ。安心しな」
『え…?』
「俺はさっき奴らをこの川に流した。ヤツらはこのままどっかの国の岸辺に辿り着くだろう。
――ただし目覚めた時、ヤツらはすべてを忘れてる」
…忘れてる?
私の内心の声と3人目(この呼び方もいい加減ややこしいなあ)の戸惑ったような気配を察したらしいウルさんは、こう続けた。
「そうだ。自分が誰なのかも、今まで何をしていたかも、もちろん今まで覚えた魔法や知識も全て忘れてる。
…だからおめぇも、おめぇの他の仲間もみんな自由になる。もうヤツらが戻ってくることは、ねぇ」
へえー…すごいなあ、この川。
…でも、これもウルさんの魔法なのかもしれない。あいつらを川にぶちこむ前になんか呪文みたいなこと言ってたし。
『ほんとう…ですか』
「ああ」
『でも私…私たちは、あなた方にどう…償ったら』
「償いなんざどうでもいい。忘れろ。クマの国のことも、おめぇらが何をさせられてたかも、全て。
…ただし、おめぇが手に掛けなければならなかったこいつらのことだけは、一生忘れられないようにしてやる。
.............
そしてこれも憶えておくといい。――『月の子ウルは、すべてのひとをゆるす』」
ウルさんはそう言って着ぐるみのままのそいつを川に押し出す。
抵抗らしい抵抗もせず、むしろ自分から飛び込んだようなかたちで、あっというまに流れていった。
水に浮き沈みしながら小さくなっていく茶色い影をぼんやり見送っていると、やれやれといった風情でウルさんが言った。
「おう、お疲れ。もうしゃべっていいぞ?」
「いやいやいや、お疲れって。ウルさんですよお疲れなのは!」
うわあ、びっくりした。何言ってんのこの人。
素で驚いたせいか、今まで内心にためこんでた言葉が一気にあふれ出てくる。
「いやそりゃもうすっごい驚きましたけど! なんですかウルさん無敵じゃないですか!」
「やー、無敵ってほど強くもねんだけどなぁ」
「無敵でしょ! なんかでっかいやつ2人もぶらさげちゃうし、火とか食らっても全然平気だったし、すっごい魔法も使っちゃうし!」
「あれは魔法ってほどでもねぇ、クマの習性みたいなモンだ。…まあ、魔法に対して無敵ってのはすげぇかもな。
――だからクマは狙われる。特にネコにな」
『ある種のヤツらには喉から手が出るほど欲しいモンを、俺らクマは持ってる』。
そういえばそんなこと言ってた。そういやそれを説明してもらってる最中にあいつらが来たんだよね。
「…だからネコが嫌いって言ってたんですか?」
「まーネコ全員が悪いわけじゃねんだけどなあ。この世界じゃ魔法使いといえばネコだし、俺らん土地に入り込もうとするやつも圧倒的にネコが多いから」
「てことは、しょっちゅうああいう手合いがウルさんの手を煩わせてるんですね」
「まあ、多くて数年に一回だけどなあ。今回はタイミングが良すぎたんだか、悪すぎたんだか」
…あれ。でも結局あいつら、何しに来たわけ?
私(というか、この世界では価値があるらしい『ヒト』てことだけど)を捕まえに来たってわけでもなさそうだしなあ。
なんとなく、クマの国にたくさん落ちてくるっていうヒトやら、ヒトの国から落ちてくる文明の利器みたいなもんをたくさん手に入れたかったのかな、と思ったんだけど…。
―――って、あれ?
「…どした?」
「や、あの…え、あれ? え?」
緊張の糸が切れたせいか、急激にめまいが襲ってきた。
…はれれ。足にちからがはいらない…。
「おいっ!!?」
わわ。ウルさんってば、やっぱたのもしい。たおれるまえにだきとめてくれるなんて。
うーん。やっぱふわふわだねー。おとこは毛ぶかいにかぎるねー。
んー…ちょっとだけさわっちゃおーかなー。ふっきん。…いやいやいやそんなどさくさにまぎれてねえ。痴女じゃあるまいし、ねえ。…って。
「――う゛」
「吐くか!? 吐くのかっ!!?」
(じょ、じょーーだんじゃないいいいーーーーーーーーーーーー!!!!!!)
いやいやいやいやいや待って、待って待って待ってって! ないってこの展開!
合コン(行ったことないけど)で調子こいてイッキとかしちゃって目付けてた子の前で全リバースどころの話じゃないんですけど!
やだやだやだやだ絶対やだ、ここで吐くぐらいならギリギリ手で受け止めて全部もう一回飲み込む!
…いや、ちょっと言い過ぎました。さすがに無理です。
でも、ちょっと待って。…なにこの臭い。
なんかの薬品っぽい…刺激臭? っていうのかな、理科の実験で嗅いだみたいなののもっとキッツイやつ…酸?
「――あれか!!?」
草の上に寝かされる。ウルさんが走って行ったほうを見る。
…あ。
あいつだ。ネコ男。
最後に投げてった黒い石みたいなやつ…あれからめちゃくちゃ煙上がってる…。
「…んのやろっ!」
ウルさんが拾い上げたそれを思いっきり川にぶん投げる。とぷん、とかいうあっけない音が聞こえてくる。
そうか…あれは爆弾なんかじゃなくて、生物兵器っていうか…うん、そういう感じだったのね。もうどーでもいーけど。
だってさあ、すでに煙は充満してるわけで。
しかもそれ、私、知らずに思いっきり吸っちゃってたわけで。
…ワー、もう視界狭まっちゃってるヨー。
これで今日何回目だよー、死の世界ギリギリまでイッちゃってんのー。もう笑うしかないじゃん。うぇっへっへっへ。
「ちょ、何笑ってんの!? 待てよ、気を確かに持っとけよ!?」
いやいや、そう言いますけどねウルさん。…うわあもう、これほんっとやばいかもしんないっすよ。
だって今、恐怖とか焦りとかなんにもないもん。なんかフワッフワしてるもん。
さっきまでの嘔吐感とかどーっこいっちゃったもんだかー、もーねぇ、なんかすっごい気持ちよくなってき―――うぉぇぇぇぇぇ。
「や、吐きたきゃ吐いていいってもう! 我慢すんのはかえってよくねっかもしれんし!」
いやですぜったいがまんします女の意地にかけて。
フワフワとゲロゲロが交互に襲ってくる。今はすっごい脂汗。さっきは冷汗もかいたし。両極端を行き来して、私の体、ほんとやばいかもしれん。
こちらの様子を気に掛けながらも何をしているのかと思いきや、
「あった、これだ!」
クマ男の脱皮した着ぐるみを逆さにして振っていたウルさんは、そこからばらばらと落ちてきたいくつかのアイテムの中からひとつを拾い上げてこちらに走ってきた。
現在嘔吐感で全身満タンの私を抱え起こして、手にしていた壜のコルク栓を抜き、
「の、飲めっか!?」
(無理です~~~~~~!!!!!)
首を振るのも刺激になりそうで、私は必死で目に力をこめてウルさんを見返した。
今はどんなアクションも間欠泉の吹き出し口(汚い話で申し訳ない)を全開にしかねない。
しかも口元に突きつけられたその壜の中の液体がまたねぇ、なんか緑色でねぇ、まずい! もう一杯! みたいな風情でねぇ――うぼぇぇぇ。
「いーからもう吐けって! 別に汚かねって、俺も同じモン食ったんだから何が出てくんのかぐらいわかってるって!!」
(そういう問題じゃねぇええええええええ!!!!!!!)
あまりにもオトメゴコロというやつを無視した言動に涙が吹き出しそうだ。
…いやわかってるんですけど! 今はそんなこと言ってる場合じゃないってことくらい、ウルさんが心底心配して気を使ってくれてることもわかってるんですけど!
でもこれだけは譲れないんです、恋する女の子としてはあああああっ!!!
「あ~、頼むからよ、多少ムリしてでも口開けてくれや。流しこんでやっから!」
(む~~~~~り~~~~~~~~!!!!)
いま口開けちゃったらぜったい出る、逆流しちゃうううぅぅぅぅぅっ!!!!
「ううぅぅうぅうぅ~~~~~…」
申し訳ないことに、ウルさんは苦悩している。どうしたらいいかわからないんだろう。
いやほんとすいません。でも今ここでゲーするくらいなら死んだほうがましです、いややっぱ死ぬのはヤだ、あ~~~でも今ここでゲーは、ゲーだけはあああああっ!!!
「…あーもう! …あとで文句言うなよ!」
――正直に言う。私、実はちょっとだけ、それを期待してた。
もうほとんど3分の1ぐらいしか見えなかった視界の中で、ウルさんが壜の中身を口に含んだのが見えた。
頭の後ろをぐっと持たれる。
口元を押さえてた手が、熱い手に掴まれて、乱暴に退けられる。
丸みを帯びた逆三角形の黒い鼻がほっぺたにぶつかり、半開きの唇に濡れた短い毛がちくちく刺さって。
(あ、…くる…)
ちょうどその瞬間、だった。
異常なほどの嘔吐感が、蕩けそうなほどの快感にすり変わった。
【続】