万獣の詩 ~猫井社員、北へ往く~ 第5話
=─<Chapter.5 『PNEUMA』 in >────────────────────────=
「ったく、なんか風呂に入る前より疲れたぜ」
部屋に戻るや否や、ごろりとベットに寝っ転がって男が言う。
何の変哲も無い二人部屋。
唯一、他のメンバーの部屋と決定的に違う部分があったとしたら、
「やれやれ、女は怖いねえ」
「ふん、案外、肝が小さいのだな」
それはもう一人の同室者が異性であるという事か。
「まぁ疲れたというのなら、せいぜい早く寝る事だ」
ふわりと銀灰色の長髪をなびかせて、けれどそっけなく通り過ぎ、
寝台に腰掛けるわけでもなくカタンとドレッサーの前に座る。
「…お前はどうするんだよ」
と。
ぎしり、と巨体を起こして、男がベットの上から頭をもたげた。
鏡台の前に腰掛けて、髪でも梳かすのかと思いきや。
「私か? 私はもちろん――」
ニヤリと笑って、ドレッサーの下から取り出したのは、
「――『これ』をやる」
携帯用の水パイプ。
=―<5-1 : midnight in : 5th day PM 10:45 >───────────────────=
吸って、吐いて。
吸って、吐いて。
(――ふむ。やはり風呂の後には、これが一番だな)
やや陶然とした面持ちで、女は指の中に摘んだ吸煙管をもてあそぶ。
煙管(キセル)や葉巻(ハマキ)、紙巻(シガレット)と違い、
水煙草(ボング)は吸う為の準備が煩雑で気軽に吸えないのが欠点だが、
反面でマイルドな煙を長時間楽しめるのが特徴だ。
間に水を通す分、タール等の有害物質も緩和される。
(紙巻は好かん。あんな急いて吸うものはそもそも喫煙ではない)
そうしてかくいうこの女は、そんな水パイプ喫煙の熱心な愛好者であり信仰者。
ネコやトラ達に見られるような葉巻や紙巻は、どうも「せわしなくて」好かない。
苦手な者の前でも堂々と吸われる辺りも、彼女的にはマイナスだ。
元々準備に時間がかかる水パイプが家庭やサロンで楽しまれる物なのもあってか、
「煙草はプライベートの時間にゆっくりと腰を落ち着けて楽しむ物」というのが
彼女の持論であると同時に主義だった。
それ故、彼女が愛煙家であるという事実を知る人間は実は少ない。
なにせ人前や職場では吸わないから、それも当然と言えば当然の話なのだが…
「……気に入らねえな」
ただ、それで面白くないのが黙って眺める男の方。
「なんだ、貴様も一服欲しいのか?」
「阿呆」
からかうような女の言葉にも、ムッツリとした表情で不機嫌に返す。
「気に入らねえのは、なんで酒しかやらねえ俺よりも――…」
視線の先にいる女の表情は、
まるでまさに恋人との語らいの最中にあるかの如くぼうっとしていて、
「…――大麻(マリファナ)やってるお前の方がまともな奴でいい人扱い、
……女騎士様扱いされてて周りからの評判もいいのかって事だよ」
その陶酔の最中にある事が、実に容易に判別がついた。
それが男は気に入らない。
本質は同じ、根本的には自分と女とは同類…――…同じ穴の狢なのに、
周囲の自分達を見る目と扱い、自分達に対してのイメージに、
どうしてこんなにも差があるのか。
あっさり騙され、あっさりと懐き、あっさりと惚れたり憧れたりさえしてるのが、
どうも納得がいかず、理不尽で。
「…くっく、いやお前、それは分かりきった事だろう?」
だが女は、そんな不貞腐れた男の態度に対して隠そうともせずにくつくつと笑うと。
「――人徳」
指を一本一本、数えるように、あげつらうように。
「――日頃の態度、言葉遣い」
片やゴロツキ口調のチンピラ態度。どう見ても悪党、悪い人にしか見えません。
片やかしこまった口調の闊達な態度。騎士娘、武人娘の良い見本。
「――見た目」
片や鋭い目つき、耳まで裂けた口、硬質な銀の毛並の、筋骨隆々とした巨漢の獣人。
片やすらりとした長身、灰銀の髪、日に焼けた肌が眩しい凛々しきカモシカ娘。
「――知識教養作法礼儀」
片やマナーの「ま」の字、礼法の「れ」の字も知らない、頭の悪い無学の大男。
片や博識、各国複数種族の礼法を修めた元エグゼクターズの若き淑女。
「……まだ挙げて欲しいか?」
「――~~~!!!!」
ギリギリと歯軋りする様は、凶悪そのもの。
実際、外見「だけ」が不釣合いに凶悪な件のヘビの青年と違って、
この男の場合は中身の方も外見相応に凶悪だった。
その魂は、荒々しい。
生まれついてに血と闘争を本分とする、紛う事なき荒魂(アラミタマ)。
だが。
そんな荒々しい魂の持ち主でも、自身のそういう性情を悩む部分はあるようだ。
血の気が多い自身の性格を本心で持て余す、そんな部分が。
「お前はもう少し、外見を取り繕う要領の良さを身につけるべきだな」
『素』で居ても疎まれない、あのネコのような天性の輝きの持ち主でもない以上、
自身の首に完全に首輪をつけ律する事に成功している、あのイヌのように。
あるいは要領良く生きている人間の見本のような、あのタカのように。
――愚直は、不器用は、決して美徳などではありえない以上。
「もう少し賢く生きたらどうだ? んん? テーブルマナーでもお勉強してだ」
「……うるせえよ」
完全にマリファナが効いているのだろう、ケラケラと笑いながら皮肉る女。
それをブスッと眺めながら、だから内心「見せてやりたいものだ」と男は思っていた。
『こっち』の彼女、『本当』の彼女を知らない、あの連中に。
彼女がどれだけ猫かぶりで、高潔な女騎士様なんて糞喰らえな女であるのかを。
……だが反面で、無理だろうなというのも分かっている。
彼女は実にそれを隠すのが、人前で普通であるかのように振舞うのが上手だから、
陽光の下、日常の中、『カタギの人間』の前でそれを露にするなんて醜態、
一生掛かったとて犯すまい。
――カタギではない人間、同じ穴の狢の前でならともかくとして。
それを理不尽だ、納得がいかないと思う気持ち。
いつか衆人の面前で、女の化けの皮をはいでやりたいと思う気持ちもあるのだが。
「ははは。そんな機嫌の悪い顔をするな、ほら、お前も一服――」
「んなモンよりも俺は……」
でもとりあえず今は、何よりも。
「……――お前が欲しいな」
今、この場で、その化けの皮を引き剥がしてやるのが。
大麻の効用だろう。
軽く手を引っ張っただけで、女はもつれるがままに男の上に倒れ込んだ。
寝台の上に転がるのは、元エグゼクターズの現猫井保安部員とは思えない、
あまりにも隙だらけで無防備な姿。
ふわりと広がる、ウェーブの掛かった銀の髪。
煙たい匂いに混じって、湯上りの女の程よく温まった良い香りを放つ肢体は、
重く、瑞々しくもしなやかで……でも随分小さかった。
女にしては高い身長170の彼女でも、210超の彼と比べれば流石に相手が悪く。
きょとんと見上げてくる灰色の瞳は、
その足元と同様におぼつかず、明確に焦点が定まっていなくて。
「……お盛んな事だな」
ただ数拍の呼吸を置いた後、流石にほんの少しだけ理性の色が瞳に戻る。
「昨日も、一昨日も。よくもまあこうも連日連夜」
「仕方ねえだろ、若いんだから」
理性の色が戻るが、でもその割には抵抗の気配が無いのがはてさて。
抱き寄せられて、バスローブの合間から手を差し込まれても嫌がる様子はない。
「――俺は『まだ』50ちょいなんだぜ?」
「……『もう』50過ぎだろうが」
悪態をつきながらもかき寄せられて、
開けたローブの隙間から覗く胸板に頭を押し当てられると、
抵抗する様子もなく全身の力を抜き、重力に従うがままにそこに顔を埋めた。
白銀色の絨毯に、目鼻立ちの整った肌色の顔が沈み込む。
「……だいたい、貴様とのセックスは疲れるから嫌いなんだ」
とろん、とした目で白の芝生に鼻先をうずめ、
陶然と男の体温、匂いを感じながら言うような悪態ではなかった。
ぷつ、ぷつ、とウール製のバスローブのボタンを外されて、
帯を緩められながら言うような言葉でもない。
「さすがに四日連続で、朝起きるのが辛いのは……こまる」
困ると言いながら、かくいう自分も男のバスローブのボタンに手をかけている。
男の帯を強引に緩めてローブの前を無理矢理押し広げると、
はだけた銀の草原に首から横顔にかけてを強くうずめて擦りつけ。
「…おい、聞いているのか――
説得力もなく声を荒げたところで、顎を持ち上げられ「頬ごと」唇を塞がれた。
するりと肩から落ちたローブ。露になった上半身の裸身。
45度ずつ傾け合った姿勢、洗濯バサミのように上下の顎が頬を固定し、
その後で長く尖った舌が唇の中に進入してくる、イヌ科種族特有のディープキス。
一瞬驚愕に見開かれた瞳は、すぐに蕩けて曖昧に、
…でもすぐにまたビクリと見開かれて、そのまま泣きそうな形に細められる。
おとがいを持ち上げるのと反対側の手が、尻の側から下着の中に潜り込んだからだ。
薄い布地を限界まで押し広げた大きな手が、
短い尾とすべすべとした尻を辿って股下を潜り、秘裂に指を這わせるに至っては、
唇を塞がれたままの女の両眼がぎゅっと閉じられる。
「んっ……んっ、ん………んんぅっ!?」
ちゅくちゅくという、唾液が啜られかき混ぜられる音。
濃厚な口付け、上と下を同時に攻められて切なげに目を閉じた女の肢体が、
時折思い出したかのようにびくりびくりと痙攣して。
「ぷはっ、はっ、は……あ、ああっ!? ま、まてっ!!」
そうして長い銀色の橋が架かって、しずくが落ちる。
やっと開放されたと思ったのに、下の方は未だ開放されてはいなかった。
ゴツゴツとした無骨な手が、何か別の生き物のように下着の中を這い回る感触。
引っ張られた下着のゴム紐がぐいぐいとへそ下に食い込む感触。
「あっ、や、やめ…ッ。…やめてくれっ、ああっ」
それがキモチイイとは、正気のままでは口が裂けても言えないような女だった。
下着の中で男の手が縦横無尽に暴れ回る感触、
ぐいぐいゴム紐の食い込む感触が凄くいやらしくてキモチイイなど。
クリトリス、裂け目、股下、尻の割れ目、臀部、
その全てを這い回る手の感触が、全てことごとくキモチイイなどとは。
「ま、待て……待って、待ってッあ!?」
つぷん、と入り込む感触。
『やめて』『待って』と言う割には、いつの間にやらしっかりと男の背に腕を回し、
首下にかじりつく様にして体重を預けていた女の身体がビクリと仰け反る。
散々上部の小突起を突ついてぐりぐりしていた人差し指が、
何を思ったか唐突に膣口の中に入り込んだのだ。
ほんの入り口、第一関節までしか入ってないような状態だが、
それでも彼女の指より明らかに太い、獣の毛に覆われた指である。
…何より恐る恐るに上目遣いで見上げた先の顔が、
『入ったぞ?』とでも言わんばかりにニヤニヤと自分を見下ろしている、
その事実が何よりも、身体に快感を喚起する。
そして。
「………あ」
ひんやりと布地を押し上げられ、空白の出来た股間を侵す夜気。
たっぷりと今の状況を認識させるだけの時間を置いた後。
「…あっ! あ? あ!? あっ!」
ふいにぐりぐりと左右に身をよじりながら、進入を再開しだす男の指。
「やっ! やめ、やめてくれッ、あかっ」
秘肉を掻き分けてみるみる第二関節まで潜り込むその指の動きに、
でもやはりやめてくれと言いつつも、男の体毛をはっしと掴んだ手が緩む事はない。
震える身体と腰が、空いた後方の空間に向かって後退する事も。
「あっ、明かりっ、明かり消し――」
――やめて欲しいが、やめて欲しくない。
――やめて欲しくないが、やめて欲しい。
もっといやらしく、もっといやらしく、もっといやらしく、モットイヤラシク。
イヤと言いつつ腰を振り、外に出してと言いながら脚を腰に巻きつけるのと同じ、
実に矛盾した、安全と破滅、保身と逃避を同時に望む説明不能の心。
……だからあっさりと指が引き抜かれた時は、
彼女の心は大いに不満と物足りなさを訴えて止まなくもあった。
「あ……」
どうしてやめるのか。
なんでもっと続けてくれないのか。
途中かけで放置された局部の疼きに、自然女は自分の身体を抱きすくめる。
「そうだな、明かり消すの忘れてたな」
対して男の方は冷静なものだ。
……いや、股間のモノに関してはここまでの痴態で既に屹立し、
収まりの利かない状態になってしまってはいたのだが、
少なくとも彼女ほどにはがっついてはいない――倍生きてる分の見栄がある。
普通に女をどかしてベットから立ち上がると、
壁天井の魔洸燈の明かりを消し、ついでに部屋の内鍵も下ろしてやった。
……「癖」や、「好み」と呼ばれるようなものなのだろう。
最早そんな恥らう身体、そんな初心(うぶ)のガラでもないくせに、
それでも女が暗闇の中、昼より夜に犯される事を好むから。
人前だと、人目のある場所だと出来ないなんてヤワな事を言う経歴でもないくせに、
それでも余人の介在しない、二人きりの空間での方が乱れるから。
(……あばずれが)
そうして暗闇の中で、邪魔なローブや下履きを脱ぎ捨てながら悪態をつく。
秘芯の中から引き抜いた指には、もれなく透明なぬめりが纏わりついていた。
たったあれだけで既に濡らしているのだから、相当な好き者。
でもそれでいて闇の中、ぺたりと放心したようにベットの上に座り込んだ女が、
脱がされかけの下着やローブを自ら脱ぎ捨てようとする気配はない。
大麻……だけが理由でもないだろう。
もともとそういう性癖なのだ。
……『自分で脱ぐ』よりも、『脱がされる』方が好きな。
進んで男に奉仕するような高級娼婦ではない。
そんな殊勝な精神の持ち主ではない。
ただ貪るように男を求め、貪られるように男に求められる事を好む、
そんな女だ。
……そうやってとっかえひっかえ、何人もの男を貪ってきた。
そういう女。
(――あばずれが)
繰り返し心中で悪態をつき。
……でも、不思議とその中に軽蔑や侮辱、嘲りの色は含まれていなかった。
むしろあるのは、どうしようもない悪友に対してのに似た、呆れつつもの親近感。
珍しくもなかった。
カタギの人間達はどう思うかは知らないが、すくなくとも『こっちの側』、
……血と死に満ち溢れた男が属する業界では、別に珍しくもないものだった。
酒に逃げる奴。
煙草やクスリに逃げる奴。
女や男に逃げる奴。
狂気に逃げる奴。
だから女を責める事もしないし、罵る事もしない。
『向こう側』、カタギの人間達が口うるさくして言うような細かい事には拘らない。
逃げずに立ち向かった少数の強い人間も確かに見てきたが、
でも結局逃げてしまった大多数の弱い人間も見てきたからこそ軽蔑しない。
――唯一するのは。
――思い知らせて、言い聞かせる事。
「『ヨウリョウヨク』? 『ジントク』? 『チシキキョウヨウ』? …ハッ」
ぎしり、と寝台を軋ませて女のすぐ傍に膝を立てながら、
座高の高さの分だけ見下ろしてやる。
――くだらない。全部、全て、ただの『飾り』で、『上辺』で、『偽り』だ。
「アホくせえ。んなモンが一体、何だってんだ」
反論を許さずに押し倒して、身体の下に組み敷きながら耳元で囁く。
とっくの昔に湿っている下着を、でもそう簡単に脱がしてやるつもりはなかった。
布地の上から割れ目を擦るように、意地悪く嬲る。
――どれだけ飾り立てたところで、本質が、本性が変わるわけでもないのに。
――目を逸らしたところで、逃げられるわけもないのに。
「…てめえは『こっち側』の人間だよ。『向こう側』の人間じゃない」
それだけをただ、思い知らせておきたかった。
ぞろりと下顎から耳下まで這わせた粗目の舌に、女の身体が震えるのが分かる。
同時にシーツの上に零れ落ちた水パイプを、
片手に拾い上げてベット脇のサイドテーブルの上に置いておく事も忘れない。
意外と几帳面な男なのだった。
=―<5-2 : ghost story : 5th day PM 11:04 >───────────────────=
「じゃあ怖い話しましょう。せっかくですし」
ポン、と手を叩く35歳。
「おっ、いいねぇ」
ノリノリで応じる63歳。
「…………!!」
ビク、と身を竦めて本を取り落としかける24歳。
「………」
作業に没頭していて返事を返さない65歳。
事の起こりはなんて事ない。
「暇ですね~」
「ああ、暇だなー」
自分らの部屋に戻った男四人の内、
うち二名の口からそんな会話がこぼれ出たのがきっかけだった。
……ちなみにうち一方、先刻散々嬲り者にされていた方の男に関しては、
確かに部屋に戻って最初の内そこ
うじうじとベットの上で陰鬱な呪詛を吐いているような状態であったのだが、
でも15分ほどで回復。
「ティルちゃん混ぜて麻雀でもやりますか?」
「えー、今から半荘?」
普通に会話に混じっていたりする。
自分にとって都合の悪い記憶を忘れる際には三日の時間さえも要しない、
なんと高性能な脳味噌だろう。
というかこいつら、
どうせ明日も早いのだから、する事無いならとっとと寝りゃあいいもんなのだが、
そこは元気の有り余ってる若者、
…――いや、種族差から来る寿命の違いや、精神年齢の老成・未発達といった
ヒトの世界にはない要素のせいで多少ややこしい事にはなっているものの、
とにかくこの部屋に割り当てられた男四人、
いずれもその出身種族のコミュニティ内では『若者』と形容されるのに相応しい世代。
【ヒト】の10代後半~20代前半に相当するような年頃の人間達であり、
そこに加えての『都会人』。
イヌの国の王都は猫井グループの傘下企業に勤めているような者である以上、
「日の出と共に起き日の入りと共に寝る」みたいな
『自然と共に』的野生生活スタイルは、とうの昔に捨てて等しかった。獣人の癖に。
そこのタカ男なんて、鳥目の分際で夜の12時を過ぎないと眠くならないという、
典型的な都会に毒されまくりんぐの夜更かしさんである。
「テレビもロビーに一台しか無いですしねー」
「おまけにこう暗くて寒いと、夜遊びに行くのもなんか腰が引けちまうしなー」
そうしてそんな都会に毒されまくった現代っ子達にとっては、
やっぱりこの街の静謐さは少々居心地が悪いらしい。
――というか、静か過ぎるのだ。
まるで昼のような明るさ、行き交う人々の雑踏と喧騒。
思えばそういうものが当たり前にあったからこそ、
『歓楽街に繰り出しやすい』『ナンパもしやすい』空気が形成されていた、
彼らも普通に夜の街に女遊びに繰り出せていたのである。
そうしてそんな艶めいた歓楽街の空気は、砂漠で戦乱地域であるはずの蛇国や、
東の端の田舎国であるはずの猪国にさえ必ず存在しているものだった。
……それが、どういう事だろうか?
ただ静かで、ただ暗い。
まだ夜の11時過ぎでしかないというのに、まるで田舎の農村みたいな静けさだ。
こういう環境のせいで虫や鳥の声さえ聞こえないのが尚不気味。
窓の外を見ればどこまでも暗い闇が広がり、
人の雑踏や夜の喧騒などというものが遠くから聞こえて来る事も無い。
…寒さに対応し、家の壁や二重の窓ガラスが分厚いせいもあるのかもしれないが、
それでも確か5時頃までは、この街にも「生活の音」が満ち溢れていたのに。
……夜9時の最後の鐘の音が鳴って以降は、
潮が引くように「生活の音」が失われて、そうして無音の闇が訪れた。
……正直、少し怖い。
……『なぜ』、『どうして』、仮にも一国の王都の夜がここまで静かなのか。
どうしてここまで一斉に灯が落ちる、どうしてここまで暗いのか。
歓楽街は、この街にも確かに存在するはずなのに、
それなのに大陸一の淫乱国と謳われながらもの、この静けさは一体なぜ?
「…………」
「…………」
口を閉じてしまうと、ただカチコチという時計の音と、
彼らの上司が机の上でガラス板をいじるカチャカチャという音しか聞こえてこない。
窓の外でしんしんと降り続ける雪がそれに拍車をかけて、
まるで自分達だけが時の流れの中に取り残されてしまったような、
死んだ街の中に閉じ込められたような錯覚さえ覚える。
「……ああ、何かに似てんなーって思ったら、あれだ、寺だよ」
「…あー! 狐の国に行った時の!」
似たような感覚を思い出した。
狐耳国の有名な神社に取材に行った際に、お堂に泊めてもらった時の事。
あの時も、昼間人の雑踏が行き交っている時は特に何も感じなかったのに、
夜になるとこんな風に、重苦しいまでの静謐さに空間が支配された。
虫の声や、梟の鳴き声でさえ。
吹き抜ける風が竹林をさざめかせる音だけは聞こえていたが、
けれど生けるものの気配が、とにかく希薄で。
重く、冷たく、そして外界から『何か』が断絶されているような印象――
――異界を感じた。
子供の時以来久しぶりに、夜中に一人で用を足すのが怖いと思ったのを覚えている。
他でもないその『得体の知れなさ』、『人知の及ばぬ領域』に対して。
静寂と暗黒という、古来より人間が本能的に恐れる絶対的な恐怖に対して。
「…まぁやっぱ一大霊場みたいなもんだしな、この街自体」
ぼそりと、魔に対する感性が鋭い彼が呟く。
100歳年上の彼女には劣るが、元々彼もネコなだけあってそれには敏感な方だ。
「濃いぜこの街? 下手な霊山よりよっぽど」
昼間、人が行き交う中で、普通にしていては何も感じないが。
でもこうして他に不純物たる気配の少なくなった夜中に感覚を研ぎ澄ませてみれば、
やはり普通ではない何かを感じてやまない。
「あの神社の場合、境界は山と竹林、石段と鳥居だったけどよ」
色々マズいのだ、閉じた世界は。
【結界】と書いて、けれどそれを紐解けば『結ばれた(=閉じた)世界』の意味を成す。
『隔離された世界』と書いて【隔世(かくりよ)】、この世ならざる世界。
「この街の場合は、やっぱり吹雪と魔法陣かな」
隔てられた世界は、異なる世界、すなわち【異界】。
天然の結界。人外の魔境。
密室の中にガスが充満していくように、こういった土地では魔が内に篭りやすくて、
自然人為的過程を経ずに天然自然の魔法現象が起こりやすくなる。
……早い話が怪異とか超常現象、霊現象と呼ばれるものが起こりやすいという事。
「じゃあ怖い話しましょう。せっかくですし」
「おっ、いいねぇ」
「…………!!」
ビクン、と身を竦めて本を取り落としかけた一番の年少、カメラマン助手を、
見逃してくれるほど目の前のネコとタカは甘い人間じゃあなかった。
「イェースパー?」
「どーしたでーすかー?」
怖がらせる女もいないのに男同士で怪談して何が楽しいかと思うのだが、
その光景を見れば答えは一目瞭然だった。
単純に二人とも、目前のヘビの反応を見てからかって楽しみたいだけ。
特に赤毛のネコの方は、さっき散々女性陣に嬲られた鬱憤が溜まっているから、
要するにより弱い人間をいじめてささやかにうさ晴らししたいという、
そういう心理が働いているのは容易に想像がつく。
――強い者が弱い者をいたぶり、弱い者が更に弱い者をいたぶる。
いわゆる15歳の青少年が「腐ってやがる!」とか叫んで盗んだバイクで走り出しそうな、
やや出尽くした感の強い、ありがちな世界の縮図がここにもあった。
「うんうん、やっぱ怪談は三人以上でやらないとダメだからよ」
「そうそう、さぁ『こっちにおいで~』ですよー」
悪名高き『おいでおいでの手』のように怪しい手招きするネコとタカに対して、
ぶんぶんと本を片手に必死で首を振るヘビ。
ああいやだ。
また先輩達のイジメである。
スパゲッティには粉チーズをかけない派だって言ってるのにかけられたり、
尻尾にリボンを結ぶ事を強要されたり。
寝ている間に黒インクで額に「肉」とかかれていたり、
あまつ事ある毎に巨根だの巨チンだのアナコンダだの囃し立てて来て。
唯一味方になってくれる人は、これだけの騒ぎに振り返る様子すらない。
……どんなドンチャン騒ぎの中でも黙々と仕事できる人な反面、
一度作業に没頭するとなかなか現実世界に戻って来てくれないのが困りもの。
「これは~俺が~友達から聞いた話~なんですけど~」
とうとうわざわざこっちにも聞こえるように大声で語り始めるに及んで、
反射的にベットから飛び降りるとドアに向かって走っていた。
人間、情けないと言われても、それでも怖い物は怖い、苦手なものは苦手だ。
聞かなければ、知らなくてすむ。
一度知ってしまえば、そう簡単には忘れられない。
夜中にトイレに一人で行けなくなるような話だなんて願い下げだと、
そう思いながらドアノブに手をかけたところで――
「廊下で血塗れの女の人とすれ違っちゃったらどうしましょうねー」
――電撃に打たれたように毒々しい斑目の蛇身が硬直する。
その様子をニヤニヤと眺める意地の悪い先輩達の前で、
そうして追い詰められた手負い獣のようにオロオロと周囲を見回した後。
その場の誰もが予期できなかった事には。
ひょい、と隣にあったコート掛けの引き戸を開け、
その中に勢い良く飛び込むと、ぱたんと内側から戸を閉めた。
「…………」
「…………」
閉めた。
光の差さないその中は、一点の綻びもない真の闇。
はぁ、もう大丈夫。
…………
…………
…………
「……いや、大丈夫じゃねーじゃん」
「!!!?」
ガチャリと開けた引き戸の中に射し込んだ光。
過剰反応なくらいにビクッと身を竦めたヘビを、呆れ半分、
笑い半分の眼差しでネコが見下ろす。
「安全じゃねーじゃん。ちっとも」
体育座りしながら膝の上で読みかけの魔道書を抱えて。
鍵も掛けられないのに隠れただけ、
なのに本気で安堵して本気でビビっている目の前のヘビの思考は、
意味不明だが面白い。
面白くて。
「……ホント、面白いよなぁ、お前」
部屋の奥、何かツボに入ったらしく腹を抱えて爆笑するタカを背後に控えつつ、
すぅっと目を細め、オモチャでも見つけたかのように彼は嗤う。
――ちょうどさっきまで彼をいたぶっていた彼女のそれと、同じような笑みを。
「まーたそんな隅っこに、暗くてじめじめした隙間に入り込んでよ」
器用に尾を折りたたんで狭い隙間にどうやってか身を押し込んで震えるヘビを、
しかし軽蔑するでもなく、明らかに好感情の篭った視線で見下ろしながら言うのだ。
「飽きないなー、ほーんと……」
くっくっ、と笑って、
でもそんな視線に込められた『それ』は、明らかに凶暴な部類のもの、
――「ウホッ」とか「やらないか」とかのそっちの意味での危険な好感情すら超えて、
もっと子供じみた、純粋で残酷な、ネコ特有の危ない好意。
「……ほーんと、『可愛い』ね、お前は」
どこかの誰かが『ネコは種族挙げての変態サディストだ』と叫んでいた、
それは一面で確かに正しい。
あるいはどこかの誰かが『ウサギの次に淫乱なのがネコとヤギだ』と論じていた、
それもまた一面で確かに正しい。
男とか女とかは、実は『この際関係ない』。
変態なのは女性のネコや、でっぷり太ったトトロ型のネコ商人だけでなく『彼も』だ。
極力抑えられる者もいるけれど、それは本質的にネコという種族の生来の性。
何物にも縛られず、好奇心旺盛、無邪気な彼らは永遠の子供。
……そして無邪気であるという事は、時に邪気がある以上の残酷をも生むのだ。
つい、いじめてしまう。
目を掛けた部下ほど、可愛い弟子ほど、大好きな人ほど、最愛の召使いほど。
ついついいじめて困らせて、いたぶってしまう。
軽いものなら、せいぜい『悪ふざけ』や『しょうもないイタズラ』で済むレベルなのだが、
酷いのになると『セクハラ』や『SM』、『束縛拘束』に『パラノイア』の段階。
抑えようともしない最悪の段階まで行けば、
『拉致監禁』や『調教陵辱』、『虐殺虐待』『生殺し』のレベルも珍しくはない。
他の種族と比べ同性愛者や苛烈な性行為の嗜好者が多いのも、ひとえにその為。
現にかのキャロライン・グレインジも、このヒースクリフ・ワザリングスカイも、
しっかりそのネコの救いがたい狂気を心の底に保持していた。
……そうしてついつい勘違いしがち、
いつも苛められやり込められているのは彼の方なので取り違えがちだが。
――実はより【Sadistic】なのは。
――彼(ヒース)の方だ。
「…………誰が、可愛 「「 可愛いじゃねーか? なあ鳳也? 」」
そう断言すると、さすがに怒ったのかシュウッ、と音を立てて赤い舌を出すヘビ。
だがネコの彼には、それが面白くてたまらないわけだ。
「おばけ、雷、地震、虫、毒蛇、チンピラ、喧嘩……まぁ怖いものだらけだよな?」
からかうように、見下すように、口の端に笑いを浮かべて相手を上から見下ろす。
なんてったって『彼より格下』は四班の中でも数少ない。
ましてやその格下が、見ていて飽きない面白い奴だと言うのなら尚更に。
「弱虫イェスパー」
ネコは、怒らせるのが好きで、泣かせるのが好き。
その時ほどオモチャが我が手の内に、
自分だけのものなのだと自覚できる時はないから。
「泣き虫イェスパー」
ネコは、困らせるのが好きで、振り回すのが好き。
嫌がれば嫌がるだけ反応は面白く、
そうして相手の中で自分の存在のウェイトが重くなっていくのが分かるから。
「あの寺で『人形』の話聞かされた時は、
結局夜中トイレに行けなくて、ラスキのたいしょーに付き添ってもらったんだって?」
本当は、学習能力が無いというのとは少し違う。
あれだけ痛い目に遭ってもやめられない、やめようとも思わないのが真実の話。
……尚タチの悪い、始末の悪い話ではあるのだけれども。
「なーんで、オレを起こさないかな?」
ほら、現にそうやって考えている。
「師匠は、オレだろ?」
――めいっぱい脅かして、きっと面白かったはずなのに。
――さぞかし面白い反応が見れた、慌てふためく様が堪能できたはずなのに。
…そんな事ばかり考えている。
ヒースクリフ・ワザリングハイは、ホモセクシュアル嗜好者ではない。
男とちょめちょめするような物好きではない。
『だからこそ』残念に思うのだ。
「……ホントお前、どうして女じゃないんだよ?」
悪びれもせずに、真顔で言う。
本気で悪気なしにこういう事を言うのが、ネコの長所であり同時に悪所。
「女だったら――」
女だったら。
「――『それこそ』可愛がってやるのにな」
ガタンと。
「お?」
今の今まで体育座りであとじさっていたヘビが、ふいにのそりと立ち上がった。
…目にはっきりと憤怒の色を宿して。
「あれ? 怒ったのか?」
結果見下ろすカタチから見上げるカタチに変わっても、彼の狂喜は揺らがない。
「舐め腐った」視線で、「横暴の笑み」を浮かべて相手の瞳をねめつけ返す。
本人に挑発してるつもりはないが、傍から見れば誰が見ても挑発、
……それでも奥に座ったタカが止めに入らないのは、
この二人では絶対に殴り合いの喧嘩にならないのを分かってるからでもあるが。
「なあ、怒ったのか? なあ?」
嬉しいのは、尚興奮するのは、彼も生きのいいオモチャの方が大好きだから。
何でも流してかわしてしまうつまらないのより、ムキになって食って掛かってくるような。
やられっぱなしで抵抗しないのよりは、反抗的で足掻き暴れて逆らうような。
そういう元気のいいのが、生意気なのが大好――
「…………血塗れの女は、廊下『には』いません」
「――は?」
珍しく言葉らしい言葉を口にしたと思ったらの唐突で意味不明な発言に、
頭にクエスチョンマークを浮かべてネコが目を丸くした。
この一転しての間抜けさも、また同時にネコの持ち味なのだが、
しかし一体何を言って――…
「最初から、この部屋の中に居ました」
「……え?」
…――るん…だ…………
「今は先生の背中におぶさってます」
「…………」
何を言っているのか、意味を反芻するのにやや時間を要したらしい。
瞬きをしないヘビの瞳の先で、ネコの瞳孔が徐々に小さくすぼまっていく。
「面白半分に言葉に出して。意識しちゃわなきゃ向こうも気がつかなかったのに」
脅かしだ、やり返しだ、意趣返しだと思おうにも。
やけに真実味を帯びた抑揚の無い口調と表情が読みにくいヘビの顔から、
どこかで嘘だと思い込めない。
無慈悲にするりと傍を通り抜けると、今度こそ廊下へのドアを開ける。
「…………気楽でいいですね、【視えない人】は」
閉まるドアの隙間から、尻尾の毛を逆立てる可哀想なネコの姿が見えた。
――いい気味だ。
=―<5-3 : a spiritual gazer : 5th day PM 11:11 >─────────────────=
――もちろん嘘だよ?
ひんやりとした廊下の空気に晒されて、深く息をつきながらぼくはそう独りごちる。
そうしてそのまま引き戸の出がけ、右手に掴んできたロングコートを両手で広げると、
ちょっと不恰好なのには目を瞑ってバスローブの上から二重に羽織った。
――あんまり無神経なのが頭に来たから、ほんの少し釘を刺し返してあげただけ。
――自分だってチビって言われると怒るのに、『女だったら』なんて。
もう11時過ぎだからかな、最低限の非常灯以外は落とされた薄暗い廊下。
外よりはずっとマシなのは分かってるけど、それでも寒くて。
思わずポケットから毛糸の手袋を取り出しかけたところで、『それ』を感じた。
ぼくの腰脇を掠めて、傍を通り過ぎていく『モノ』。
ぱたぱたという足音、きゃっきゃという笑い声。
別に聞こえたわけじゃないのにでもなんとなく、
小さなウサギの女の子だというのが瞬間的にイメージとして。
――別に血塗れの女の人なんて、どこにもいない。
――いないけど。
そうして後方に走り去っていったモノが、でも再び前方の暗闇の中から走ってくる。
さっきと全く同じ気配、同じモノ。
また通り過ぎて背後の闇に消えて、でも三度前方の闇から。
何度も何度も。消えては現れ、消えては現れ。
幽霊じゃない、魂でもない、ましてや何かの害をなすようなものじゃない。
あれはただの【残滓】。…過去の思い出、残りカス。
きっとずっと前に、ああやってこの廊下を走っていたウサギの女の子が居たんだね。
石に、床に、この建物に強くこびりついたその記憶が、ただ再生されてるだけ。
……壊れた映像記録みたいに、何度も何度も同じシーンを。
――でも別なモノなら、おぶさっていた。
――ただでさえ魔力の強いヒース先生が、あんな軽はずみな行動を取るから。
――あれだけ強い魂の輝きを持ってる先生が、奴らに対して『意を向ける』から。
――部屋の中にいたモノがよってたかって纏わりついて。
目を閉じて、意識しないように、気にしないようにする。
リン先生――ヒース先生ではなく、故郷にいた頃の恩人である獅子の先生――に
教えてもらうまでは、ああいうものに振り回される事も多かったけれど。
…でも今はそんな事はない、どうすればいいか、身に染みてよく分かっている。
関わらない、声を掛けない、意を向けない、認識しない。
「……だから、【怖い話】は嫌いなんだ」
誰もいないからこそ緊張もないし、安心して独り言も呟けた。
「……ああいうのが賑やかになるから」
軽率で鳥頭でいじめっ子、時々ぼくを見る目がヤバいヒース先生にそう毒づくと、
ぼくは羽織ったコートの前を合わせ、トボトボ暗い廊下を歩き出した。
━━≪ long ago ≫━━
三代前にして初代の建国王は、亡くなったかの先帝の重臣の一人。
砂漠の一大交易地を押さえての、群雄割拠する蛇国においてはかなりの大国。
そんなユルルングル王家の絢爛を極めた後宮(ハレム)の片隅で、
しかし誰にも目を留められず、半分死にかけてイェスパー・ユルングは生まれて来た。
最終的に38人いた現王の娘息子のうち、下から数えて5番目、第16王子。
叔父叔母親戚を含めて51人いた王位継承権者の中では、第49位。
秘伝剣術の伝授は、当然ながらに受けてはいない。
母親は現王の主席夫人でもなければ、夫人(カドゥン)でも寵姫(ハセキ)でもない。
一応周辺小国の王女の一人ではあったが、
しかしよくある政略結婚、国同士の結びつきのその証となる為に輿入れ……否、
大国ユルングへの忠誠の証として献上された贄でしかなかった。
無論そこに愛は無く。
幸い『憎み疎まれ』こそしなかったものの、ただし『形だけの愛情』、『無関心』。
王族として、偉大なる王としての責務の一環、務めの延長線上に、
形式的な閨事の果て、懐妊した事が分かれば
あとは「務めは果たしたもう用は無い」とばかりに後宮の片隅に一室を与えられ、
ほとんど軟禁とも呼んでいいような籠の中の鳥が如き一生を送る。
……後宮の豪華さやそこに養う夫人の多さは、
その当代の王の実力や、当該王家の財力や威光を暗に世に顕示するものとして、
一言に無駄とは切り捨てられぬ政治的に重要な要素ではあったが。
しかしイェスパーの母親は、間違いなくそんな『無駄な飾り』の部分の代表例、
見栄のための数合わせ、数揃えのために「かき集められた夫人」の一人だった。
……ましてや生まれて来た子が取立てて優秀でもない、
それどころか病弱でほとんど寝込んでばかりのような不具ともなれば。
王の寵愛が向くはずもなく、年に2~3度思い出したような来訪があるかないかの
忘れられぶりも、当然といえば当然の状態だったと言えただろう。
難産も難産、ほとんど死産。
言葉に違わず、文字通り『半分死にかけて』生まれて来た。
――手の施しようがない、あとは赤子の体力次第で、助かる確率は二割もない。
そう言われて医師に匙を投げられ、
けれど見事にその1/5の確率の当たりを引き当ててしまった事は、
果たして彼にとって幸福だったのか、不幸だったのか。
━━≪ today ≫━━
視界に映る白いベットの天蓋と、背中に感じるひんやりとしたシーツの感触。
優しい母上、無表情な女官達、『彼ら』。
…物心ついた時から、そういうのは既に『視えて』いた気がする。
小さい頃は身体が弱くて。
だから一年の大半を後宮の中で、そうして母上の居室でひっそりと過ごしてた。
何かあればすぐに熱を出して、寝込んだような記憶がある。
熱に浮かされたまどろみの中で、何度も見た風景。
お世辞にも絢爛とは言えない、質素な調度品、落ち着いたクリーム色の壁。
開け放たれた窓からは、湖上を通り過ぎてきた涼しい風と、
……そうして後宮内の生活の音や、他の夫人の子達の遊ぶ声が聞こえてきた。
外で遊ぶ事は…そんな子達に混じって一緒に遊ぶ事はできなかったけど、
でも不思議と寂しくなかったのは、別に『友達』には困らなかったからだと思う。
『話し相手』は、たくさんいたんだ。
……ちょうど今、ぼくの目の前に広がってるみたいに。
煌々と射し込む月明かりに照らされて、青白く輝く階段前のホール。
人っ子一人見かけない、物音一つないそんな世界に、
普通の人なら何も感じない、どれだけ魔力が高くても何も視えないんだろうけど。
……でもぼくには何故か、『それ』がくっきりはっきり視えちゃうんだ。
ましてやこれだけ澄んで濃密な魔力の中、
生きている人間の気配が遠のいた、夜の揺らぎ無き空気の中にもなると。
【水】が色々なものを溶かし込むように、【魔】は多くのものを保存する。
追憶。残滓。過去。…想い。
断末魔に放たれた呪詛の叫びも、幸福に満ち溢れた輝ける日々も。
小さな子の無邪気な喜びも、大人の歪んだ執念や情欲も。
とりわけここみたく魔が色濃く満ち溢れた空間では、
やっぱりそういうのが染みついて残りやすいみたいなんだよね。
皆が言う【幽霊】、【死者の霊】っていうのとは、少し違う。
あれが全員もう死んでる人かって聞かれたら、多分そんな事はないんだと思う。
大きくなったり老いたりしてしまっていても、まだ生きている人はいるはず。
もしかするとほんの少し前に焼きついた、まだ新しい残滓だってあるのかもしれない。
かといって【生霊】……なんていうのとも、ちょっと違うかな?
あれはどれも残そうと思って残された、故意に残されたものじゃないはずだから。
――残響、劣化コピー、残り滓。
ラスキさんは『ザンリュウシネン』って呼んでたっけか。
ともかくそういう、取るに足らないもの。
生きてる人間に悪意を持って、実際に害も為せるくらい強力なのにもなればまた別、
ラスキさんやキャロさん、ヒース先生も感知できるんだろうけど、
でもそこまではいかない、弱くて、切れ切れで、虚ろにもおぼろげなもの。
…珍しくもない、本当にどこにだってあるものなんだ。
人が生きて暮らす以上はどこにでも。
発せられた想いの強弱、焼きついた場の魔素の濃淡によって、
おぼろげだったりはっきりしてたり、力の強かったり弱かったりはあるけれど、
でも人と魔とが共存するこの世界では、そこら中にある普通のもの。
――想いの溶けた魔。想いを帯びた魔。
正の感情、良い想いが溶けては【清気】や【陽氣】、
負の感情、良くない想いが溶けては【瘴気】や【陰氣】なんて呼ばれる、
ただの力の渦、たゆたう力の場。
……でもだからこそ、人間の感情や言霊の影響を殊更に受けやすい。
人の想いがたっぷりと溶けた、より人に近しく親和性の高い力の渦なせいで、
人の軽率な行動に過敏に反応しやすくて、少し危険だったりする
獅子の国でいう鬼(クイ)や、狐の国でいう妖(あやかし)の発生源になる濁った魔素。
うん、そうだよ。
これは先生の受け売り……獅子国流の考え方らしいけど、
鬼(クイ)も妖(あやかし)も幽霊(おばけ)も、だけど多くの場合は人が生むんだ。
生きている人間の願いを受けて、恐れを受けて発生する。
受けるから発生するのであって、
一切の人間の干渉なしに単体で生まれ落ちれるそういうモノはほとんど居ない。
――『あそこの幽霊屋敷には○○で○○な、○○の幽霊が出る』、とか。
――『あの山には○○が住んでいる、踏み入ると祟りがある』、とか。
周りに暮らす人達がよってたかってそういう事を囁くから、
だからそういう『言霊』、『無意識の魔法』に影響を受けた濁った魔力の溜まりが、
本当にそういうカタチを取る、ひとりでに魔法が成立しちゃうんだ。
【幽霊の 正体見たり 枯れ尾花】ってよく言うよね?
あれは半分本当で、だけど半分は正しくなくて。
『力の渦』自体は、確かにある。
たくさんの想いや記憶、ザンリュウシネンを溶かして濁った、魔力の滞留。
そういうものが溜まり易い場所、そういうものが鬱積しやすい場所。
…でもそれ自体は結局、ただの力でしかないんだ。
単体では意志も持たないし自我も成せない、物理的な害を為すまでは至らない。
断片的な分カタチにはなりやすいけど、それでもそのままでは切れ切れだ。
残り滓は所詮、残り滓でしかない。
「生きている人間の力」に比べたら、「過去の残滓」なんてずっと虚ろで無力なもの。
…なのにわざわざそういう所、幽霊屋敷とか、霊山の奥深くとかに入って行って、
怪異を語る、怪談を語る、……それがどういう事か、理解できないのかな?
――【魔法の詠唱】と同じだよ。本人にその気はなくても。
不完全で不安定かもしれないけど、それでも【詠唱】、それでも【言霊】。
知らず知らずの内に【意味】を与えて【定義】している。
力の渦を言葉で縛って、名前を、存在目的を、輪郭を与える。
『ここにはこういうモノがいるんだぜ』『ここでは昔こういう事が起こったんだぞ』
『だから○○なものが出る』『○○な事が起こる』『○○の声がする』
――『それは○○という【名前】である』
――『それは○○の為に存在し(【意義】)、その為に○○を実行する(【行動内容】)』
――『それは○○な姿形をしている(【カタチ、輪郭の付与】)』
――『それは○○出来るだけの力を持っている(【力の量の規定】)』
完全には発動しない。
完全には発動しないけど、でも不完全にだったら発動してしまう危険性がある。
生きている人間の、生きている力が篭った、生きている言葉で、
死んだ残滓にわざわざ力を継ぎ足してやるから、その結果本当に怪異が起こる。
ポルターガイスト。ラップ音。得体の知れない人影。女の笑い声。足首を掴む白い手。
――だから【幽霊】が嫌いなんじゃない、【怖い話】が嫌いなんだ。
特にヒース先生みたいな、『魔力はあるのに鈍感』な人が話す怖い話が嫌い。
ああいう人が怖い話をしだすと、俄然周りの空気も大きく揺らぐ。
――あの人の言葉には、『力』がある。
――輝ける魂と、生の力に満ち溢れた眩しい言葉。
……ぼくが悲鳴を上げて身を竦めたのは、そんな【怪談】に対してじゃない。
ヒース先生と鳳也先輩がそれと明確に意識して怪異を語り始めた途端、
一斉に二人の方向を見た、部屋の中にいた『そういうモノ達』に対してだ。
視えない人は、だから気楽でいいなって言った。
視えてたらあんなの耐えられないよ、お世辞にも気分のいいモンなんかじゃない。
咄嗟にリン先生から教わった術で『遮ら』なかったら、
こっちまで連中に気が付かれて、危うくしつこく纏わりつかれる所だった。
流石にこのホテル、きっちり対霊防御や魔除け厄除けの術は完備されてるから、
大きなモノやタチの悪いモノ、人に害を為せる程の強いモノはいないけど。
…でもそうじゃない取るに足らないのなら“うぞうぞ”いる、
そうしてぼくにはそれが視えちゃって、纏わりつかれて気持ちのいいものでもない。
それがこうやって、一人だけ廊下に逃げてきた理由。
━━≪ long ago ≫━━
おかげで王位継承の骨肉の抗争に巻き込まれる事はなかった。
取り立てて強力な後ろ盾を持つわけでもなく、王の寵愛を一心に受けるわけでもなく、
末弟も末弟、それも飾女(かざりめ)の産んだ病弱で虚弱の王子と来れば、
擦り寄ろうとする人間や、取り入ろうとする人間さえ居なかった。
一の秘伝剣術の使い手である王子や、優れた精霊使いである王女、
古精霊憑きの庶子や、大臣の娘が産んだ王子、あるいは有力者である現王の弟、
そう言った継承権上位の優秀な兄姉達の争いに巻き込まれる事無く、
後宮の端で、母親の愛に包まれてひっそりと暮らし――…
…――ただし、誰からも注目はされなかった。
骨肉の争いには巻き込まれない代わりに、存在感は空気よりも薄い。
敵として警戒する程の脅威や能力、才能もなければ、
味方にした所で特に益にもなりはしない、気に留める程の価値もない。
特に父親からは、何せ38人も子がいるせいでほとんど存在を忘れられていた。
……もっともこれは何も彼だけに限った話ではなく、
他にも10人程『あれ?居たの?』的な扱いを実の父親に受ける哀れな子がいたが、
どっこいこの第16王子の場合、そんな不遇をバネに「なにくそ!」と
父親に復讐する事を誓って臥薪嘗胆、権謀術数を巡らすようなガッツも無し、
そもそも熱を出して寝込んでばかりなせいで、そんな気力や体力も無し。
おかげでその空気ぶりにも拍車の掛かる事掛かる事。
しかも10歳を越えるまでの彼に対する周囲の認識は、『頭の可哀想な子』。
…半分死にかけで生まれて来てしまったせいで、脳に何かの障害を負ってしまった、
白痴、知的障害者だとさえ思い込まれていた。
――誰も居ないところに向かって話しかける。
――何も無いところを指差して、怖がって大人の背中に隠れる。
――見えない友達の存在を主張する。
最初は寂しさを紛らわす為、
大人の気を引く為の、子供にありがちな悪戯かと思われていたが、
しかしあまりにも真に迫って、おまけに延々くり返されるのでは気味が悪い。
それで何かの呪いや良くないもの、もしや魔物の仕業ではないかと
城抱えの老精霊使いが呼ばれたのだが、取り立てておかしな所は見つからない。
そうなるとあとはもう知れた事。
故事にあるところの、オオカミ少年と同じ扱いである。
――『嘘つきイェスパー』
――『弱虫イェスパー』
次第に大人達はまともに相手をしてくれなくなり、
子供達(主に継承権順位の低い兄や姉や、その子分に当たる乳母子達)は
彼の事をいじめて追いかけ回すようになった。
すぐに幽霊がいるとか視えるとか言い出す気味の悪い、嘘つきの子。
おまけに病弱だったせいで、その頃から男の子なのに線が細くて気が弱く、
怖がりですぐにグスグス泣くともなれば、
これはもういじめられない理由が無い、いじめてくださいと言ってるようなものだ。
暗くて静かな所を好んだり、狭い中に隠れようとするのも、この頃についた癖で。
追い掛け回され、小石や木の枝で突っつかれ、衣服の裾を踏んづけられ。
いやいやしながら逃げる彼が、クローゼットの中や、カーテンの陰に隠れる姿は、
その頃の後宮において頻繁に見かけられる光景だった。
大人からすれば微笑ましい情景だったかも知れないが、
少年時代のイェスパーからすれば、毎日が必死で、辛くて苦しくて泣きそうな日々。
そうしてあんまり駆けずり回り過ぎて息切れした次の日には、
大抵熱を出して寝台に伏す破目になった。
優しい母親だけは味方だったが、逆に言えば味方なのは母親だけだ。
後宮仕えの女官達は、どれだけ説明しても信じてくれず、
「どうしてそんな嘘をつくの?」とでも言いたげな、呆れた目でしか彼を見ない。
同年代の子供達は、自分の事をいじめてくる。
怖い。
追いかけないで。
放って置いて。
時期にして7~8歳か。
少年の母親以外の『生きている人間』に対する口数は、この頃から減っていった。
『生きている人間』には心を閉ざし、貝のように閉じこもって。
……代わりに頻繁に接するようになったのは、『いじめない友達』。
『自分にしか見えない人間』。
『自分のことを嘘つき呼ばわりしない優しい相手』。
後宮の回廊の端で、誰も居ない部屋で、あるいは庭園の隅っこで。
誰も居ない空間に向かって楽しそうに話しかけ、独り遊びをする王子に対して、
大勢が知的障害者に対してそうするように、人々は遠巻きに扱った。
『見て見ぬフリ』の『触らぬ神に祟りなし』。
頭の可哀想な人間を、凝視して関わりを持ってはいけないという一般の作法。
だから誰もが気がつかなかったし、
無知で、無邪気な小さなイェスパーは、もっとその事には気がつけなかった。
……自分が一体、何をしてしまっているのかに。
━━≪ today ≫━━
……寂しかったんだと思う。
たまに母上の居室を訪れても、全然ぼくの事なんか眼中に無い父上に、
変な目でぼくの事を見る大人達、いじめっ子な兄上に姉上。
…ぼくも欲しかった。
優しい父上、優しい兄弟、いじめない友達、ぼくだけの子分。
ぼくの事を無視しない家来に、ぼくだけに傅いて世話をしてくれる女官。
――だから『作った』。
最初は、本当に『一人遊び』、『ごっこ遊び』だったんだと思う。
切れ切れで答えてくれない『彼ら』に向かって、でも一人で話しかけていた。
首の折れた虚ろな目の兵隊さんや、血塗れでゲラゲラ笑ってばかりの女の人とか、
後宮の中にもそんな怖い『彼ら』は一杯居たけれど、
でも同時にあまり怖くない、お友達になれそうな『彼ら』も一杯居た。
だからそういう『彼ら』達の所に行って、来る日も来る日も一人遊びを続けてた。
――【認識】した。それは物心ついた時からずっと。
――【対話】を試みた。お話したかったから。
――【名前】をつけた。名前が無いままじゃお話できないっていう軽い気持ちで。
――【役割】を与えた。ごっこ遊びの延長線上でだったけど。
――【背景】を与えた。これもごっこ遊びの延長線上、でも子供のぼくは真剣だった。
――【意識】を注いだ。もう彼らしかお友達になってくれるのが居なかったから。
最初は支離滅裂で、会話にならない事も多かったけど。
…でもその内に、本当の友達、本当の人間のように振舞ってくれるようになった。
とても嬉しくて、毎日一緒に遊ぶようになった。
――どうしてそうなったのかも考えずに。
――無知な小さいぼく。自分が何をやってるのかも知らないで。
お友達、遊び仲間は、次第に数を増やしていった。
……ぼくが望んだから。
本当の人間のように、生きている人間のように振舞う子達が現れ始めた。
……他でもないぼくがそれを望んでいたから。
幸せだった。
……死人に囲まれて、みるみるやせ衰えて元気を失っていっても。
元々身体が丈夫でなかったのが、どんどん悪化していって、
最後にはほとんど寝台から起き上がれないくらい衰弱して生気を喪失しても。
今はもう、「力を与える側」から「吸い取られる側」に変わっていても。
それでもぼくは幸せだった。
━━≪ long ago ≫━━
怪音。怪動。怪現象。
彼の陰口を叩いていた女官が、原因不明の不審な事故に見舞われる。
夜になると部屋の外を青白い火の玉のようなものが飛び交う。
…事そこに居たっても、それでも周囲の人間は彼に対して遠巻きなままだった。
不気味なことは不気味だったが、何せもう長くはないのは明らか、
その頃の彼はほとんどベットから起き上がれないくらい衰弱し切っていたからだ。
唯一母親だけが「これは本当に尋常ならざる力が働いている」と、
権力も伝手も乏しいながらに八方手を尽くして息子を助ける為に尽力した。
……同時にたまたま城下に、隊商の用心棒として同行していた
獅子国のはぐれ道士が滞在していた事は、全く第16王子にとっては運の良い話で。
もしもその幸運な巡り合わせが無ければ――…
━━≪ today ≫━━
…――リン先生に出会えなければ。
ぼくは自分で生み出した鬼に、あのまま取り殺されていたに違いないだろう。
=―<interval : that day : 14 years ago >─────────────────────=
=―<5-4 : Iglacia : 5th day PM 11:18 >─────────────────────=
結局、あの事件がきっかけだったんだよね。
ぼくが外の世界――後宮の外、国の外に興味を持つようになったのは。
砂漠の外に恋焦がれるようになったのは。
リン先生のお陰で、ぼくは死に掛けから息を吹き返す事ができた。
リン先生のお陰で、ぼくは『ああいうモノ』から身を守る事ができるようになった。
リン先生のお陰で、ぼくはこうして元気な身体になる事ができた。
――『めんどくさいから弟子はとらない』
母上の後ろに隠れて離れないぼくの目の前でそう言うと、
やって来た時と同じようにふらりと何処かへ去っていったリン先生。
たった一年ちょっとしか一緒に居なかったけど、
でもぼくがリン先生から学んだ事は、それまでの十年のよりも大きくて。
王位への執着は、元気になってからも起こらなかった。
ぼくが魔法を学ぼうと精霊魔術に手を出したのはユルルングルの為ではなくて、
外の世界に行く為の、行けるだけの力が欲しかったからだ。
リン先生の10分の1だっていい、
砂漠の外に出ても生きていけるような、暮らしていけるような力が欲しかった。
……そうしたら。
そうしたらまた、世界のどこかでリン先生に会えるかもしれないから。
そんな望みは、でも10年以上経った今になっても変わらない。
5年前、ラスキさん達についていく事を決心したのも、猫井に入ったのも、
全てはその為、それがぼくの中にある一番の大きな原動力。
「……でも、その割にはなぁ」
溜め息をついて読みさしの魔道書を横に置くと、
ぼくは何をするとでもなく手のひらをかざして内に眠った『彼女』に命令を下す。
ゆっくりと手のひらの先に水玉が生まれ始め――…
…――でもその速度は、恐ろしく遅い。
大気中からコップ一杯分の水を集める、それだけでも相当な時間と消耗。
あまりにも場所が悪いからだ。
気温が低いせいで飽和水蒸気量の値が低く、圧倒的に足りない絶対湿度。
しかも残された僅かな水分さえ、屋外では寒さで固体に変わってしまう。
近くには池がなく、沼も無く、水桶もなくて。
「王子なのも、視えないモノが視えるのも、あまり関係ないね」
窓に結露した水滴まで持ってきて、ようやく雪玉程度の水球を作りあげると、
ぼくは溜め息をついて、『自分にしか見えないそれ』に語りかけた。
「なんか普通の、探せばどこにでもいる、一山幾らの精霊使いだよね?」
……並の精霊である彼女は、答えない。
命令の実行には問題がないけど、彼女と会話や意思疎通ができた記憶はなく、
そもそもこうやって話しかける意義すらない。
ごくごく一部の例外を除いて、精霊は基本的に道具(ツール)でしかない存在だし、
そもそも口に出して命令を出す必要はない、心に思うだけで事足りる。
ぼくのやっている事は、まったくの無駄。
無駄だけど。
でも。
……それでもやっぱり納得いかない、これはぼくの心の問題だよ。
ペットやヒト召使い、魔法生命体に対しても、
普通の人間と同じように接しないと罪悪感を感じて仕方のない人がいるように、
きっとぼくもそんな、道具を道具と見限れない心の弱い人間なんだと思う。
でも、それでも別に構わない。
これはぼく個人の、ぼくが折り合いをつけれるかつけれないかの問題だから。
それにこうして話しかけていれば、いつかは彼女も自我を持つ――
――『なんて事は絶対にないです、精霊は人間と違って成長しませんからな』って、
精霊魔術の先生であるナズィーフ老には何度も釘を刺されたけど、
「ごめんね? ぼくがへなちょこだから、うまく具現化もしてあげられなくて」
それでもぼくは、『彼女』に話しかけずにはいられない。
へっぽこの極みは、【具現化】もまともにできない事。
あまりそういうのに拘らない人もいるけど、
でも多くの精霊魔術師にとって自分の精霊の『見た目』の大きさ美しさは、
これで結構気を使うポイントだったりするんだよね。
所詮見た目、外見の雄々しさ美しさが性能には直結しない……なんて事はなく、
基本的に術者の魔力が高いほど、
作成された精霊の姿形も大きく、美しく、輪郭や造形が精緻になりがちだからさ。
おかげでそういうのを『ステータス』や『シンボル』に感じるような精霊魔術師が、
こぞってそこに熱意を傾ける。
完全に望んだ通りに…とまではいかないけど、
それでもある程度の造形指定は、術者のイメージ次第で作成時に設定可能だから。
……しょうもないとは思うけど、ロリ幼女とか、巨乳美女とか、妖艶な熟女とか、
半裸のショタ、涼やかな美青年、筋肉兄貴姿にわざわざ作る人に、
鳥型、獣型、蛇型、伝説上の生物型や、なんでか触手生物型に異様に拘る人も。
…お金と余裕のある暇人の中には、納得の行く容姿の精霊が作成できるまで、
何度でも精霊を作成しては破棄するような人までいる。
理想の精霊が出来るまで作っては破壊しまくるその姿は、まるでどっかの陶芸家。
そうしてそうやって出来上がった精霊を、皆自慢げに見せびらかすんだよね。
事ある毎に実体化させて、いかに自分の精霊が凄いか、かっこいいか、美しいか。
そのままだとよっぽど波長が合わない限り作成者以外には『視えない』から、
わざわざ実体化のための魔力を注ぎ込んで、素養の無い人にも見えるようにして。
…………。
……『無駄な魔力の浪費じゃないか?』って思うのは、
やっぱりぼくがその輪の中に入っていけないからなんだろな。
――幽霊とか視えちゃうぼくの魔力の質が、それだけ普通と比べておかしいのか?
――それとも作成儀式の際に、何か不手際や欠落事項があったのか?
「……ダメダメだよねぇ、イグラシア」
『物理的接触が可能なくらいの肉体の具現化』どころか、
『魔力のない人間にも視認可能な程度の具現化』さえできない、
それがぼくと、ぼくの精霊イグラシア。
「こんなんじゃ到底、リン先生の10分の1にだって届かないよ」
そうしてそんなぼくらの不完全さを表すかのように、『出来ない』。
普通の水のジン使いだったら一つくらいは出来そうな事を、何一つとして。
汚れた水や下水を浄化したり、水脈を探知して井戸を掘るのに役立てたり。
脱水症状やアルコール中毒の人の治療、毒薬からの解毒剤の作成、
あとは枯れかけた作物を元気にしたり、有名なところでは雨雲を呼び寄せたり。
そういうのが全然できない、重宝どころははただの一つも無理。
さっきお風呂場でやってみせたように
『十分な量の液体状態での水』さえあれば津波モドキだって起こせるんだけど、
でもそれじゃサカナの魔術とたいして変わらない、
自分で言うのもなんだけど、別にわざわざヘビの精霊使いである意味ないよね?
…まぁ、なんだかんだ言ってぼく精霊魔術習って10年そこそこの若輩だし、
触れた相手の体内の水を振動させて内部から大ダメージ!…とか、
血液の流れを滞らせて心臓麻痺!…とかが、
一朝一夕で出来るようになったら誰も苦労なんかしないんだろうけどさ。
でもせめて液体だけでなく水蒸気と氷も操れるようになったらなー。
三態変化苦手なんだよね、水の精霊魔術の基本らしいけど、どうもぼくの場合。
……てかぼく、本当に宝の持ち腐れ人生まっしぐらな気がするなあ。
水も操れて、幽霊も見えて、ついでに蛇国の王族で、でもだから何?って感じだ。
落ちモノの漫画とかなら不完全な二つの能力を組み合わせて
1+1が5にも10にもなる所を、1+1が1のまま、全然使いこなせてないじゃんか。
チームの中でもさ、何を仕事にしてるかって言えば、
水のレンズやパネル、スクリーンを作って、撮影時の光量調節や明度の調整。
あとは背景で水をちゅーって出して、イリュージョンな演出をしたり、虹とか架けたり。
……うん、それくらいしか魔法の出番はないなぁ。
あとは荷物持ちとか雑用に、テイルナートの奴と交代で旅行中のおさんどん全般。
……でもよく考えてみればこれって別に、
精霊魔法の使い手だとか、幽霊視える人間じゃなくても普通に出来る仕事だよね?
いや、料理やお菓子作りは楽しくて好きだから、別にいいんだけどさ。
なんかきちんとした修行すれば、幽霊だけでなく瑞兆凶兆も『視え』るようになったり、
イタコの口寄せみたいな真似もできるようになるらしいんだけど、
……一人暮らしに、会社の仕事、取材旅行に、カメラマンとしての修行が重なって、
全然時間が取れなくてきちんとした修行をする暇が無いから困る。
魔法の勉強自体、時間を見つけては独学でもちょこちょこできる、
精霊魔術やネコの魔術の方に時間を取られがちだしね。
こっちだったら参考書や魔道書も手に入りやすいし、
そもそも母国語や共通語で記されているせいもあってすんなり入れるんだけど、
反面で獅子国や狐耳国の魔道書ってあんまり手に入らなくってさ。
……たまに手に入っても、思いっきり向こうの国の言葉とかで書かれてるせいで、
魔法の勉強の前に更に言語の勉強で手間取ってるような状態。
こういう時につくづく、なんだかんだ言って魔法って、
『お金』と『時間』と『機会』の揃った暇人でないと習得できない技能だなぁって思う。
……うん、もうね?
ちっちゃい子達の夢を壊すような、暗ーい事ばっかり言って申し訳ないんだけど、
専業魔法使いなんてそんな、皆が思ってる程すごい職業とかじゃないよ?
こんな一辺倒な使い手だったせいで、故郷でもほんと就職の当てが無かったし。
…てか、水のジン使いってね、そもそもそんな人数要らないんだよね。
どの街や国でも特に優秀な使い手が少数居れば賄える、
中途半端な使い手がたくさん居たって人件費が無駄にかさむだけの仕事なせいで、
治水・灌漑・浄水・雨乞いが出来るならともかく、
ぼくみたいな芸の無い術師は有効求人倍率が酷い酷い。
兵士や衛兵、用心棒業とか傭兵業で見てみたって、
戦力的に喜ばれるのは火、次に風、三番目が土で、水は最下位。
なんでか暗殺業界では人気が高いらしいけど、
さすがにそういうまともじゃない仕事、危ない仕事にはつきたくなかったしさ。
……ラスキさん達に出会えてなかったら、
最悪「無職のプーさん」になってた可能性だって十分考えられてたよね。
いやいや、確かにぼく王子だけどさ。
でも王子王女でも、20歳までに就職先決めるかどこかに嫁ぐかしないと、
容赦なく後宮からは追い出される決まりだったからね、少なくともうちの王家の場合。
継承権が比較的上位で後ろ盾のある王子王女や、
何かこう武芸に秀でてたり魔力が凄かったり頭が良かったりする王子王女は、
将軍や宮廷魔術師、大臣としてお城に就職もできるんだけどね?
…でもぼくみたいな継承権49位/51人中みたいなみそっかす王子にもなると、
あとはもう推して測るべしだよ、なんか物凄く現実的で申し訳ないけど。
武芸の才も魔法の才もなかったから普通に一兵卒として門番やってる王子。
容姿にも恵まれなかったから街の飯場の給仕してる王女。
……もちろんゴロツキやチンピラになったり、盗賊や野盗に身をやつす王子や、
どの仕事もうまくいかなくて、結局娼婦に身を落とすような元王女もいる。
……ああ、てかそもそもここに、一番の好例がいるんだっけか。
なんでか砂漠の外、猫井TVの独身寮で一人暮らししてるユルルングルの王子。
特に不始末もしてないので縁は切られてないけど、
生憎とこっちに来てから王族だって事が何かの役に立った事は一度も無いです。
王家からの資金援助も無し、むしろこっちが母さんの方に仕送りとかしてて、
従者やら家来を雇う余裕もないんで自炊してます。
ヒト奴隷? …ああ、落ちてたら欲しいですね、買うお金なんてどこにもないし。
コインランドリーの利用やカラオケボックスでの番号入力、
自分でのトイレ掃除や布団干しも、流石に五年目になると随分手馴れて来ました。
一人暮らしでは卵は六個パックまでにしておいた方がいいなんていう、
無駄な生活の知識とかがやたら身について。
最近の悩みというか怒りの種は、真上の部屋の人が独身寮だっていうのに、
休みの夜が来る度にギシギシアンアンしてる事です。
文句を言いたいのですが、そんな勇気も度胸もないので泣き寝入りなのが困ります。
いっそ管理人さんに告げ口でもしてやろうか?とか思って、
……ああでも、なんかそういうのも陰険っていうか陰湿でヘビながらにイヤだなぁ、
って思い直しながら出勤する毎日。
拝啓、母上様。
色々あるけど、ぼくは元気です。
…………。
…………。
…………。
――絶望した!
これだけ数奇な星の下に生まれて、なお普通の生活になじんでる自分に絶望、
魔法使いなのに独身寮一人暮らしで自転車出勤の自分に絶望した!!
そんな思いで胸が一杯です、でひとしきりのたうって苦しんでる所に、
「――ひゃあ!?」
=―<5-5 : pale shade : 5th day PM 11:25 >───────────────────=
心臓が飛び出るかと思うほどびっくりした。
こんな影だけが蠢く真夜中の、月光だけが煌々と射し込んだひとけの無い廊下。
そこにいきなりの大声に、ゴトンという何かが落ちる大きな音。
…ぼくが一瞬気が遠くなって失神しかけたのも、無理もない話だと思わない?
思わず腰を浮かして目を見開いた先には――…
「………!」
「……!!」
…………。
「…………」
「…………」
…………。
「…………」
「…………」
…――うう、な、なんだよ、何か話せよ! これじゃ会話にならないだろ!?
だからお前は苦手なんだよ、
「……テイルナート」
呼んだ名前に答えるかのように、
見開かれていた目、竦んでいた身体が、ゆっくりと敵意と威嚇のそれに変わる。
やや鋭さを増した瞳に、喉奥から響いてきた低い唸り声。
気弱そうなこの藍色の瞳が、
大人しい性格をそのままに現したかのようにぺたりと垂れた茶色のイヌ耳と尾が、
でもこんな風に敵意を持って向けられる相手は他に居ない。
ただぼくに対してだけだ、こいつがこんな態度を取るのは。
――< Tailnaut in >─―
最初オバケかと思って、思わずマグカップ取り落としちゃった。
非常灯以外明かりの消えた、物音一つしないしんとした二階のホール、
怖いくらい青白い月の光に照らされて、部屋の隅にうずくまった人影が見えて。
でも上げた悲鳴に立ち上がったのは、幽霊なんかじゃない。
……『あいつ』だ。
――怖い。
……中身は大したこと無い、見掛け倒しなんだって分かってても、やっぱり。
月の光を反射しててらてら輝く鱗、
瞬きしない黒目の小さな金色のヘビ目に睨まれると、身体の震えが止まんない。
衣の裾から覗いた、斑紐みたいに毒々しい黒と黄色の斑紋、
長くて、太くて、得物を狙うみたいにうねうねしているヘビの尻尾も、怖い。
――おっきい。
ラスキさんや、鳳也くんに比べたら、それでもちっちゃいのかも知れなくても。
相手がおっきいんでなく私がちっちゃすぎるだけなのかも知れなくても。
それでもおっきい。
私がうんと背伸びしてようやく肩の上に頭のてっぺんが出るか出ないか。
まっすぐ前見ても胸の所しか見えないから、どうしても見上げる格好になる。
……何より、優しくない。
もっと大きくても、でもラスキさんや鳳也くんにはある優しい感じがしない。
ふかふかで暖かくて、包み込んでくれるような雰囲気が無い。
あのオオカミの人と同じで、冷たくて怖い。
……ううん、怖くはないけどもっと無機質で、だから結局、やっぱり怖い。
『わるいまほうつかい』みたいだ、絵本の中に出てくる。
傲慢不遜で冷血無慈悲……に、知らない人が見たら見えるような見た目。
……『りんぜんとしてる』ってのは、きっとこういう事。
防寒用のコートも兼ねてる、魔法使いの外套、
それを羽織って上から見下ろしてくる姿が、寒々しいくらい威圧感があって。
…声が出ない。
……金縛りにあったみたいに、動けない。
………口の中が、カラカラして。
「――テイルナート」
でもその言葉に思わずカッとなって、勢いでそのまま我に返った。
“ティル、だけじゃ色々と社会人生活する上で不都合があるからね”
勝手にその名前、呼ぶなでござるよ!
“姓の方は猫井式に、出身地名のプロキオンを仮姓にする方式でいいとして…”
ラスキさんがつけてくれた……、ラスキさんから貰った名前なのに!
“愛称から名前を考えるのもアレだけど、『テイルナート』なんてのはどうかな?”
よりによってお前に、『こんなの』なんかに!
「何の用だよ、テイルナート」
威圧的な声。
上から降って来たそのバリトン、微動だにしないコートの裾に、
小山みたいな存在感、挫けそうになる、声が詰まる。
……でも、負けないもん!
「お前なんかに用なんかないでござるよ、ヘビ公!」
キライ。
キライ。
ダイキライ。
――< Jesper in >─―
胸の中に、形容のしがたいイヤな感情が湧き上がって来る。
ぐずぐずした黒い渦が心の中に渦巻き始める。
故郷の砂漠に居た頃も、こっちに来てからも、
ここまで明確に、自分でもはっきり自覚してこんな想いを抱いた相手は他に居ない。
父上にも母上にも。兄上にも姉上にも。女官や兵士にも。
ラスキさんやキャロさん。ラウさんやレティシアさんにも。鳳也先輩や他の先輩達。
……いじめっ子達や、ヒース先生にさえ。
ああ、でも、そうだ。
唯一。
あの時だけ。
……リン先生と、リン先生がここに居てくれないと思い知らされた、あの時に。
「お前なんかに用なんかないでござるよ、…ヘビ公!」
――ウワァ ムカツク ムカツク ムカムカスルヨ
「……誰がヘビだ」
頭に昇る熱い昂揚を感じながら、ぼくは目の前のチビを見下ろす。
血が昇るあまり、微かに視界が白じむのを感じながら、
決して険を帯びる事のない瞳が、でも今だけは鋭く険を帯びているのを見た。
大して力もない、女のくせして、尻尾の毛を精一杯逆立てて威嚇して。
……ムカつくな。
……ぼくに対してぐらいしか、こういう態度を取れないくせに!
……弱虫のくせに、泣き虫のくせに!!
「ウロコぉ!」
「……誰が、ウロコだ!」
苛立ちのあまり、思わず声が荒さを帯びる。
無意識に、本当に無意識に、思わず尾でバシリと絨毯を一つ叩いていた。
ぐるぐるする。ぐらぐらする。ぐちゃぐちゃする。
なんだ、こいつ、なんだ、なんだよ、なんだ、なんだ、なんだ。
キライだ。
キライだキライだ。
キライだキライだキライだキライだ。
キライだキライだキライだキライだキライだキライだキライだキライだキライだ
――……どうして嫌い?
キライだキライだキライだキライだキライだキライだキライだキライだキライだ
――……なんでそんなに?
――< Tailnaut in >─―
チットちゃんやティナちゃんはいいんでござるよ。
女の子だし、二人ともラスキさんに相応しい、優しくて、可愛くて、いい子だから。
でもこいつはだめ。
男の子なのに、ヘビなのに、ラスキさんの隣に座って、可愛がってもらって。
…こんなに大きな身体してるのに、怖い顔してるのに、ずるいもん。
新入りの癖して馴れ馴れしくて。
なにより、私が知らない間に、ラスキさんの隣にいたのが気に入らない。
…最後の、二年間の実地訓練。
それまでの六年と足しても八年間、テイルナート、
ラスキさんの役に立てるように一生懸命頑張ってきたのに。
最後の二年間なんて、寂しいの我慢して独りぼっちで頑張ってきたのに、
でも帰って来たら、こいつが当たり前みたいに隣にいた。
…私が知らない間に。
…ほんの二年間、テイルナートがラスキさんから目を離してた間に。
……許せない。大嫌い。
怖いのは見た目だけのくせに。
テイルナートと同じで、臆病で、怖がりで、泣き虫で、欲張りのくせに。
大体、私よりも年下のくせに私よりもすごい魔法が使えるのが嫌い、
ヘビの国の王子様だっていうのが嫌い。
何一つ不自由なく、毎日ご飯食べれて、ちやほやされて暮らしてきたくせに、
私と同じなのが嫌い、私と同じものを欲しがるのが嫌い。
……私と同じくらい欲張りなのが嫌い。
王子様のくせに。
テイルナートだって。
テイルナートだって、テイルナートだって王女様だったら、
もっとちっちゃい頃から勉強も出来てた、魔法だっていっぱい頑張れてた、
もっともっと、ラスキさんの役に立ててたてござるよ!
もっともっともっともっと、ラスキさんの役に立てる子になってた!
なってたのに!!
「お前のせいでコーヒー、こぼれちゃったでござるよ!」
ぐっと胸を張って、精一杯睨み上げて、慣れない怖そうな声を張り上げる。
…………。
……う。…な、泣かないもん。
な、なんだか泣いちゃいそうになってきたけど、泣かないもん!!
「せっかくラスキさんに持ってってあげようと思って、淹れて来たのに!」
――零れちゃった。
――落としちゃった。しかもこんな高そうな絨毯の上に。
どうしよう。また失敗しちゃったでござる。ラスキさんの迷惑になっちゃう。
哀しくて。
なんだか惨めな気持ちになってきて。
肺のあたりが、じわーって熱くなってきて。目の奥のところが、熱くなってきて。
「……どうして、それがぼくのせいになるんだ」
なのに、こいつ。
「お前が勝手に、落としたんだろう」
自分の事、棚に上げて。
「お前が驚かすからでござろうが! この爬虫類!」
叫ぶ度に顔が、頭の中が熱くなって、何だか心の奥がぐちゃぐちゃして。
「…お前が勝手に驚いたんだ、イヌ」
小山のように揺らぎもしない、こいつに、こいつに、こいつに。
「こんな時間に、こんな場所で、こんなヘビが一人でぬぼーっとしてたら!
普通オバケと間違えるもん! はた迷惑だもん、根暗じめじめぇ!」
「…どこで何をしてようと、ぼくの勝手だ。勝手に人を幽霊にするな、このわん子!」
どうしてテイルナートに対してだけ、こんなに姿勢が揺らがないの?
どうしてテイルナートに対しては、こんなに態度が大きいの?
テイルナートにしかそういう態度、取れない――
――自分より弱い相手にしか、こんな態度取れないくせに!
慣れない事、するんじゃない。
目の奥が潤んで、耳と鼻の奥がキーンてする。
「…………怖がりなんだな」
飛んできたのは、嘲りの色を帯びた声。
表情から判らなくても、声から判る。
ヘビのくせに、無表情のくせに、臆病者のくせに、まばたき出来ないくせに。
小心者のくせに、気弱のくせに、新入りのくせに、イェスパーのくせに!
くせに! くせに! くせに!くせに!くせに!!くせに!!!くせに!!!!
まるでオニの首でも取ったみたいに!
自分の方が勝ったって、私の方が自分よりも下って言うみたいに!
「……結局、お前も、怖がりじゃんか」
違うもん。『負けない』。
負けない。負けない。こいつにだけは『負けてない』もん。
テイルナートの方が、お前より『強い』。
お前より『上』なんだから。
「……人の事、言えないな」
目が濡れて来たのが、肩が震えるのが分かっても、負けない。
「…お前なんかよりはマシでござるよ」
「…お前よりはマシだ」
憎い。
「お前よりはテイルナートの方が、怖がりじゃないもん」
「…ぼくでも、お前よりは怖がりじゃない」
憎い憎い憎い憎い憎い。
「……お化けダメなくせに」
「……幽霊はお前もダメだろう」
――…喉、カラカラする。
「…虫ダメなくせに」
「…雷にビクビクするような奴に言われたくないな」
――…はひはひするでござるよぅ。
「すぐ気絶するくせに!」
「泣かないだけ、すぐ泣くお前よりはマシだ!」
――…な、泣きそう。
「お、男の子のくせに!!」
「ぼくより10近く年上だって、すぐに先輩ぶるのはどこの誰だチビ!!」
――…泣い、ちゃう、ぅ。
「チビじゃないっ、ちょっとおっきいからってえばるなあっ!!!」
「チビで、女なのを利用して、散々ラスキさんに甘えてる奴が何言ってる!!!」
「うっさいッ、男の子のくせにラスキさんにべたべたしてえっ!!!!」
「黙れよッ、女のくせにラスキさんと同棲してるお前の方がもっと不純だ!!!!」
「…ッ!! ほもっ!ほもほもほもほも!!ほもーーーっ!!!!!!」
「誰がホモだ!! そういう風に仲の良い男同士を見るとすぐにホモって考える奴が
どうしようもなく心根の腐った女子なんだぞ!? この淫乱!魔女!雌犬!!!!」
「――ッ!!!! ……うわああああああぁぁ!!!!!!(怒)」
――どすん、と。
「っ」
言葉をなさない怒りの叫び、全身で体当たりされた少年の身体がたたらを踏む。
彼なんかにの『雌犬』呼ばわりは流石にキレて、
しかしグーぱんちどころか平手で頬を張る事さえできないティル少女の、
可愛いながらに精一杯の武力行使だ。
さすがに男女の体格差はあっても、全力で突き飛ばされればよろけもする。
思わず二、三歩背後にも下がって。
「…っ!! このっ――!!」
ただしエキサイト&ヒートアップ。
らしくもなく顔に薄っすら血の気を及ばせると、白熱した思考ののまま、
突き飛ばされがてらに後ろ足に力を込めて、『軽く』相手の肩を突き飛ばした。
そう『軽く』。
――昔と比べ健康体になったとは言え、
それでもイェスパー少年にとって喧嘩や暴力、殴り合いだなんて遠い世界の物事だ。
そういう意味では彼も彼女と『同質』、
力の有る無し以前にそもそも相手を『傷つける』『痛めつける』事が出来ない、
荒くれ者や食い詰め者から、『お優しいお坊ちゃま』と揶揄されるような人種である。
王家秘伝剣術の伝授も受けていない、武術に関しては全くの素人。
血を見るのはごめんだし、殺した殺されたの世界に関わるなんて遠慮も遠慮。
街のゴロツキとケンカしたって負ける、致命的なまでの『覚悟』の無さ。
……が。
それでも、『力』はあった。
武芸を営む者の鍛え方ではない、肉体労働に従事する者の筋肉のつき方だったが、
しかし日頃から重くかさ張る撮影用機材を抱えて歩く毎日、
普通一般の成人獣人男性と比べて、やや高めな程度の『腕力』と『体力』は。
「きゃぅ!」
「…?!」
女一人突き飛ばし、したたかに尻餅をつかせるのに十分なだけの『力』は。
「…………」
「…………」
つかの間、なんとも奇妙な間が二人の合間を支配する。
少年の方も、自分のやり過ぎとそれがもたらした結果にやや怒気をひるまされ、
少女の方も、まさかの強烈な反撃に呆然と目の前の少年を見上げるだけ。
「………あぅ」
しかしその沈黙も、すぐに均衡を崩されて。
「…あぅ、あっ、あぐ……はぅ」
それを起爆剤に、堰が壊れてしまったのだろう。
みるみるとまなじりに液体が溢れ、張力の限界に達してはそこから零れ。
ぽろぽろと。大粒の水の塊が。何度も頬を伝って。
「うっ、うあっ、あっ……あっ、…あぅん、ぐすっ」
元々怒るとか怒鳴るなんて事に慣れていない少女だ、
慣れぬ感情の高ぶりは、起こるべくしての結果を招いた。
尻餅をついた姿勢のまま、ガクガクと肩を震えさせて嗚咽を洩らすイヌの少女。
子供がよくやるように、時々しゃっくりあげや鼻を啜り上げる音が混じり。
――並の男ならば、それだけで十分に陥落できる破壊力。
実際、誰もが手を貸しただろう。
イヌの青年やタカの青年は率先して、ネコの青年はおろおろと慌てふためきながら。
オオカミの青年ですら、舌打ちしながら起き上がる為の手を貸したかもしれない。
「…………何泣いてるんだよ」
だが。
「――泣けば誰か助けに来てくれるとでも思ってるのか?」
彼は貸さない。
――< Jesper in >─―
退いていた不快感が、また潮を満たすようにぼくの思考を白く塗り潰す。
「何泣いてるんだよ」
憤怒、憎悪、軽蔑、嫌悪。
やっぱりぼくは、こいつが大嫌いだ。
「――泣けば誰か助けに来てくれるとでも思ってるのか?」
「…ッ!! …うるっ…ざあいっ!!……ひぐっ」
嗚咽に言葉を散らして、カタカタと震えながら、それでも見上げてくる目に宿るのは、
ぼくと同じで憎悪。
憎悪。憎悪。憎悪。憎悪。一転の曇りもない純粋な憎悪。
皆、ぼくら二人がてっきり仲が良いものだとばかり思ってる。
似た者同士、虫も殺せないような気の弱い者同士。
誰に対しても腰を低く低調に接する者同士、まさか険悪なわけがないって信じてる。
特にラスキさんの前では、その傾向は一層強い。
……なにせその点に関しては、予めぼくら二人の間で協定が為されてるから。
――『ラスキさんの前では、絶対に仲が悪そうなそぶりは見せない』
――『ラスキさんを困らせるような真似は絶対にしない』
その点だけは一致した両者の見解、ぼくらはそこでだけ協定を結ぶ。
でも。
現実にはご覧の通りだ、
二人っきりになった時の有り様は今まで見てもらった通りの様子、
ぼくらはお互いにお互いが、徹底的に ダ イ キ ラ イ だ。
反吐が出る。
吐き気がする。
虫唾が走る。
生理的嫌悪感っていうのは、きっとこういう事を言うに違いない。
見ていて不愉快。
不快なものがこみ上げて来てこみ上げて来て堪らない。
合わない、合わない、とにかく反りが合わない。
――そうして、それは向こうも同じなんだろう。
――もう手に取るように、感じている事、考えている事が分かるんだ。
影でいちいち突っかかってくる。
新入りのくせに、男の子のくせに、王子様のくせにって言外に。
そうしてラスキさんにべったりだ。
ラスキさんの『一番』、一番に可愛がってもらって、甘やかされてる。
キャロさんにも、ヒース先生にも、鳳也先輩にも。
自分の方がずっと関係が古いんだ、もう20年近く前からの付き合いなんだぞって、
事ある毎にちらつかせて誇示してくるのが気に入らない。
――だってずるいよこいつ。
「……女はいいね、いくらでも泣けて」
「ッ、…うっざい! うっざいうっざいうっざい!!!」
「男の子なのに」なんて言われない、そもそも大の男が泣いても気持ち悪いだけ。
だからぼくは泣かなくなったのに、必死で泣き癖を直したのに、
でもこいつは直さないでいられる。
女だから。泣いてもいい生き物だから。それが許された存在だから。
――ぼくだって、泣きたいのに。
――泣けるものなら泣きたい、いつだって泣いて過ごして来たに違いないのに。
――ずるいよこいつ。
「32にもなって、無様だな。何転んだくらいで泣いてるんだよ? え?」
「………ッ!!!!」
さっきだってお風呂上がりに、
小柄で女なのを良い事にラスキさんにナデナデされておぶってまでもらって。
もう子供じゃないのに、散々ぼくには先輩ぶって年上ぶってくるのに、
何様のつもりだ、いい歳こいてべたべた甘えて。
――ぼくだって、ラスキさんになでなで可愛がってもらいたいさ!
――ぼくだって、ラスキさんと一緒の屋根の下で暮らしたいさ、出来るものなら!
こいつは、ラスキさんの中で、ぼくと同じポジションにいる奴。
こいつは、四班の中で、ぼくと同じ座を奪い合う相手。
――『だからこそ』許せない。
――『だからこそ』認められない。
こいつにだけは、絶対に『負けられない』。
こいつよりは、ぼくの方が『上』だ。
他はともかく、こいつよりも格下扱いを受けるのだけは、死んでも承服できない。
だって、だって、なぜなら、なぜなら、なぜなら――…
「……立てよ、情けなんか掛けないぞ」
「…………」
ぼくは甘やかさないぞ? この弱虫、泣き虫、意気地なしめ。
ラスキさんやキャロさん、他の皆にはその手が通じても『ぼくには通じない』。
泣けば誰かが助けてくれると思ったら、大間違いだ。
「……ラスキさんを困らせるしか出来ない、足手まといはここには要らない」
「…………」
――立てなきゃ、駄目なんだよ。
――泣かないようにならなきゃ、自分一人で立てるようにならなきゃ、駄目なんだよ!
いつまでもそんな、弱いままで、甘えたままでいいだなんて夢は見るな!
「……手なんて貸してやらない、自分で立て」
「…………」
まだまだ、もっともっと、役に立てるようにならなきゃいけないんだ。
なのにお前はその程度で屈するの? もうこれ以上は無理なの? テイルナート。
…見るのも嫌なくらい大嫌いだよ、テイルナート。
弱虫で、泣き虫で、気が小さい、臆病者。
いけないと分かっててラスキさんが、周りの皆がくれる温もりに屈してばかりの。
守られる事に、認められる事に、いじめられない事に溺れてばかりの。
――忌々しい、もう一人の『ぼく』。
=―<5-6 : doppelganger : 5th day PM 11:31 >──────────────────=
鏡に映したように。
……である以上は、目の前の醜悪な姿に、憎悪と嫌悪が渦巻くのは当然。
それは両方にとっての、世界に唯一の自己より『下位』であり『同格』の存在だった。
同時にそれは二人の世界の中で、『それ以下』が存在しない『最低』の存在。
父親を重ねているんだろうと、そうイェスパーは踏んでいる。
彼らの上司であるラスキ主任記者の中に、彼女が一体何を見出しているのか。
――『彼女』には父親が、『いるけどいない』。
それくらいなら知っているが、でもそれだけ分かれば十分だ。
理解できるし、納得できるし……
……そうしてそれが、たまらなく不快でもある。
何故ならそれと同時に気がついてもしまうからだ。
『自分もそうだ』という事に。
自分一人だったら気がつかない、無意識に押し込めて見ないフリも出来ただろうに、
隣に『鏡』なんかがあるせいで、いちいち余計な事も理解できてしまう。
彼のような『弱い人間』にとって、己の姿がいちいち横に見えるのは、不快の極み。
――『彼』には父親が、『いるけどいない』。
だからあの人に傾倒するんだろう、あの人にあそこまで心酔するんだろう。
あの温もりに、あの弱さに、あの優しさに溺れたのだろうとイェスパーは踏んでいる。
他でもない、己自身がそうだから。
かつて彼を闇の淵より救ってくれた件の女道士を『目指すべき星』とするなら、
かのイヌの青年は『暖かな陽光』であり『足裏に感じる大地』だ。
父性と包容力の塊みたいな人間。
燦然と輝いての希望と渇望は与えないが、包まれるような安心と充足がそこにある。
そうしてそんな、高嶺の花や星々のように届かぬと諦められるものじゃない、
あまりにも普通な、幾らでも手の届く『優しいお父さん』的な温もりだったからこそ、
その感情、その競い合いが、皮肉にも二人の中に芽吹いてしまった。
嫉妬、羨望、嘲笑、憎悪。
そんな今まで感じた事もない新鮮な感情を自分の中に確認するに至って、
イェスパーは軽い驚きと共に、けれど自分もヘビだったのだと自覚した。
玉座に興味が無かったのは、権力欲が無かったからじゃない。
最初から手に入りっこない、
スタート地点で既に圧倒的に差が開いてしまっていた出来レースに対して、
馬鹿馬鹿しいとやる気が起きなかったからだ。
欲しいものがあまりに遠すぎるせいで、凡人根性でやる気をなくしていただけ。
……近くにあれば、話は別らしい。
……それが手が届く範囲にあり、隣に押しのけるべき人物がいたら、
自分の中にこんなにも苛烈な衝動が生まれるのかと、彼自身。
ふらふらと、尻餅をついていたイヌの少女が立ち上がる。
誰の手も借りずに、たった一人で。
倒れた拍子に乱れた前髪、俯き加減の顔から『競争相手』を見上げた眼光は、
しかし普段の彼女しか知らない者が見たら間違いなく息を呑む、
荒んで、苛烈な、昏い情念に満ちたものだった
よろよろとよろけながら一瞥もくれず脇を通り過ぎていく少女を傍目に、
でもそれでいい、とヘビの青年は思う。
……どうしてそう思ってしまうのか、その理由には気がつかないまま。
――< Tailnaut in >─―
……コーヒー、零れちゃったけど、マグカップ自体は割れてなかったでござる。
……下が絨毯だったおかげかな。
まだ目の奥にぼんやりとした熱の残り香を感じる、
乾いた目の周りがパリパリする中で、私、それをのろのろ拾い上げて。
「……何処に行くんだよ?」
背後から、まだしつこく絡んでくる『もう一人の私』に対して、
振り向き様に、目一杯のむしゃくしゃした気持ちをぶつけてやった。
掛けられた声に、明らかに『優越』の色を感じ取ったから。
「……何処だっていいでござろう」
普段は無口なくせに、こういう時だけは普通に話をしてくるのも、嫌いだ。
ヘビはしつこいっていうけど本当だね。
腫れぼったい目の周りをごしごし擦りながら、そんな事考えてた。
「…こんな高そうな絨毯に、コーヒーのシミつけたまま?」
「…………」
……く、くうっ!
む、ムカつく! ムカつくムカつくムカつくでござるよ!
何この野郎、『優越』だけでなく『嘲笑』までしてるでござるか!?
表情や目元は相変わらず変わんない、ヘビ顔の表情はよく分からないけど、
なんか両手を腰に当てて、
小首傾げて舌チロチロさせながら斜め上から見下ろしてくれば、
テイルナートじゃなくてもこいつが調子に乗ってるのが分かるでござる。
というか、やっぱりこのヘビ王子様だ!
尊大な態度が、これでなんでだか板についてる、憎たらしくてたまんない!
だからどうしてテイルナートにだけは、そんな大きな態度で出れるの?
ラスキさんやあのオオカミの人の前でも、同じ態度取って見せればいいのに!
格下相手にしか余裕の態度取れない、だから三流王子なんでござるよ!
「まさか汚しておいて、知らんぷりする気?」
無視して階下に戻ろうとする私に、更に引き止める声。
うるさい! じゃあどうすればいいってんでござるか!? こんな大きな絨毯!!
廊下の隅から隅まであるでござるよ? お洗濯なんてどうやっても無理!
水気はタオルで拭けても、コーヒーのシミは――…
…――キッと睨んだ先で、そいつは手のひらの上に『それ』を浮かべてた。
ほんの少しだけ口元をニヤニヤさせて。
『水』。
見せびらかすようみたく、バケツ一杯分くらいの大水玉を更に三つに分ける。
そんなお手玉するみたいに分けた三つのうち、一つを絨毯の上に。
シミの上に。
そんな唐突な行動に、汚れが広がるだけ、何を、と思って見てたら。
――重力に従わない水。
――シミをすっぽり覆う分だけの、こんもりとした水のドーム。
「呪文も唱えてないのに」って思って、でもそんなの必要ないのを思い出した。
ラスキさんが言ってたっけ。
ヘビの国の精霊魔法に詠唱(チャント)は要らない、起動呪(キーワード)も要らない、
術者がするのは『心の中での命令』、後は精霊が全部実行するからって。
『回る』。
何か次の呪文を唱えたわけでもない、印を切ったり踏をふんだわけでもないのに、
ざざざざ、と音を立てて渦巻き始める。
ばちばちと、激しく水のぶつかる音を立てて、
床の端から端まで敷き詰められた分厚い絨毯が、そこだけ少し持ち上がる程。
うねりに巻き込まれて、絨毯の表面の細かいほつれが巻き上げられる。
渦巻きの中に微細の赤い糸くずと、コーヒー色が吸い上げられる。
……何が『どうせ自分はそれしかできない』、だ。
『雨乞いも、水脈を探して掘り当てるのも、氷の魔法も使えないし』、だ。
謙遜もここまで来ると厭味でキライ。
呪文の詠唱も、印を結ぶ事も、道具の使用もなしに、
小さな池の水まるごと担ぎ上げて、空中に浮かばせられる子のくせに。
攻撃や破壊のための魔法みたいな、男の子の好きそうな魔法は嫌いだって、
物量や質量に頼った力押しの魔法だなんて野蛮だって思ってたけど。
…でもこういうのを見ている、そう思っていたはずなのに、
羨ましくて、妬ましくて、たまらなくなる。
力のうねり。
圧倒的なまでの、四大元素の、自然の力。それを自在に操る技。
私の――――とは正反対の方向性の。
洗って、洗って、すすいで。
三段階に分けて完全に零れたコーヒー色のシミを跡形もなく拭い取ると、
汚れた三つの水玉を一つに統合して。
つぷつぷと小さい水玉がとめどなく絨毯から浮かび上がっては
大きな玉に合流してくのを見る辺り、脱水まがいの事もできるみたい。
「……で、どこにいくの? テイルナート」
……うわぁ、あからさまに恩着せがましい言い方でござるよ。
恩を仇で返すなんてしないよな、なんて、言外に強制してくるような言い方。
そっちが勝手に押し売りしてきたのに。
「……新しいコーヒー淹れに、下に行くんでござるよ」
それでも返事を返したのは、こんな事でいちいち借りを作りたくなかったから。
こいつ相手に、貸し借りを溜め込むのは厳禁。
うじうじ執念深いから、いつまでも覚えてられて引き合いに出されるんだもん。
これでもう用は済んだでしょ、ほっといてよって感じで、踵を返して階段を下りて。
「…………」
「…なんでついてくるでござるか!!?」
思わず怒鳴っちゃった。
だってこんな、私の背中にぴったりくっついて、無言でついて来られたら。
ていうかうわぁ、なんでこの子こんな、私の神経逆撫でするようなマネ得意なんだろ。
あーもう、ぷんすかぷんでござるよ!
「……ぼくは別に、厨房に用があるだけだよ」
コーヒー淹れるって言ったらもう厨房しかないのに、しれっとした顔で飄々と。
「だからテイルナートも厨房に用があるんだってば! ついて来るなー!!」
もう関わり合いになりたくないって気持ちをこれでもかってくらい込めて、
さっさとあっち行けーとぽかぽか追い払おうとしてるのに、小揺るぎもしない。
それどころか頭の上に浮かべた薄いコーヒー色の水玉を指差して。
「だって『これ』、そこら辺のゴミ箱に捨てるわけにもいかないし」
…………。
…確かにそれはそうでござるが……。
「…それにせっかく厨房を使わせてもらえるんなら……」
…!! あっ、こら!?
「ラスキさんの為に、何か夜食でも作ってあげようって思ってね」
夜の間の厨房の利用許可、テイルナートが頼み込んで許してもらったのに、
何ちゃっかり尻馬してるてござるかー!?
――< Jesper in >─―
「……お夜食なら、テイルナートが作るからいいでござるよ」
険のある視線でこっちをじろっとねめつけ、垂れた耳をピクピクさせながらそう断じる。
ああ、やっぱりそういうと思ったよ。
「ラスキさんのご飯のお世話は、テイルナートのお仕事でござる」
そうだろうね、何せ一緒に暮らしてるくらいだ、ラスキさんの侍従、召使いティル。
…でも、それで問屋が卸すと思ってる?
「……炊事洗濯掃除は女の仕事だから手を出すなって?」
不機嫌そうに丸めた尻尾も、耳と同じようにピクリと動く。
でも言ってる事はそういう事だろ?
「……酷いダンジョサベツだね、『男は家事なんかやるな』って言うんだ」
既存の権利と権益を取り上げられたくない。
仕事と居場所と存在意義、地位と名誉と賞賛、失いたくない、奪われたくない。
王宮の片隅で、そういった権力闘争の眺め続けてきたからよく分かる。
ただ長く生きているってだけの先輩、先達、老人が、
後参のより有能な後輩や若者を、蹴り落として近寄らせない時に使う理屈だ。
『慣例』から来る『正統性』なんて。
「――『それしか出来ない』、『雑用係』のテイルナート」
「…お戯れが過ぎるでござるよ、『王子様』」
返事代わりに返ってきたのは、凄惨な睨み返し。
っていうかお前、『お戯れ』なんて難しい言葉知ってたんだね、驚いた。
「庶民には庶民の、王家の人間には王家の人間の仕事があるんでござるよ」
『天命論』――『役割配分論』か。
テイルナートのくせにくだらない事知ってるな、…まぁイヌらしいけど。
「ちょっと家事が出来るからって台所女の仕事まで取り上げるのは、
王子様として問題あるでござるよ」
つまり『王子様は王子様らしく大人しく傅かれてろ』って?
あははははは――…ふざけろ。
「……でも、ぼくの方が料理は上手い」
王子が、王族が、料理洗濯して何が悪い。衣食住の不自由なく育って何が悪い。
恵まれて育った人間は、貧しい人間に必ず道を譲らなきゃ駄目だって?
飢える事なく真綿に包まれて育った奴を、輪の中に入れるわけにはいかないって?
――ふざけろよ、それだって一つの『差別』だろうが。
自分の生まれ生い立ちを選べなかったのは、こっちも同じだってのを忘れるな。
ちょっと恵まれない子供時代送ってきたからって、いい気になるなよ?
自分の方が先輩だから、ラスキさんとの付き合いも長いからって、偉ぶるな。
簒奪してやるよテイルナート、お前の仕事全て。
『実力』『実績』があれば、身分も門地も年齢も問われないのが猫井流だろう?
王子も庶民も、先輩後輩も関係ない、『ぼく』の力で『お前』に勝つ。
――< Tailnaut in >─―
狙ってる事がいっそ開き直って赤裸々なのがムカつくでござる。
…むしろ返り討ちでござるもんね。
「……コーヒーを入れるのは、テイルナートの方が上手だもん」
ラスキさんは、コーヒー党。
サンドイッチみたいな軽食、お菓子にデザート作りなんかでは
確かにお前に負けちゃってるかもしれないけど、
コーヒーや紅茶、お茶汲みだったら私、まだまだテイルナートの方が上。
「それにおふくろの味とかでだったら、絶対にテイルナートの方が上なんだから」
大体、本格的なイヌの国の家庭料理やお惣菜での勝負だったら
私もこんな子なんかの勝負に負けないんだ。
パン焼き勝負とか、お味噌汁勝負とか。
……会社や旅先では、あんまり活躍する機会がないのが悔しいけど。
「…………へえ」
でもそんなテイルナートの言い方が、こいつは気に食わなかったみたい。
「だったら、久しぶりに勝負してみようか?」
無表情なはずの目が一瞬だけぎらりと輝いて、口が微かに薄笑いを浮かべる。
「……どっちがラスキさんの役に立てるか」
全身で、『身の程知らずめ』『叩き潰してやる』ってオーラを発して。
勝負。決闘。対決。競争。
男の子って、どうしてこんな危なくて乱暴な事ばっかり好きなんだろう。
……昔のテイルナートなら、きっとそう考えてたでござるな。
そんな危ないし怖い事、やりたくないし、震えて出来っこなかったって。
――なのに、どうして今じゃ。
「……いいでござる。受けて立つでござるよ」
殺したいくらいこの子が憎い。
理屈とか理論とかそういうものを全部飛び越えて、とにかく憎たらしくて堪らない。
そんな事をしたらラスキさんが悲しむから、本当に殺すのができなくても、
でも、たとえ比喩であって殺せるのなら殺してやりたいくらい、
この子の事を、否定したい、叩き潰したい、どかしたい。
――この子にだけは、負けたくない。
――勝ちたい。
「こってんぱーんにしてやるでござるよ!」
時々ふと思うのはこんな気持ちが、でもテイルナートのどこに眠ってたんだろって事。
そこまでしてこの子を叩き潰したい、
この理屈で表せない圧倒的な感情のうねりは、どこから来たんだろうって事。
そこに考えを至らそうとしてもいつも思考は断線しちゃって、
あるいはうねりに巻き込まれて辿れなくて。
そうして結局思うのは、別にそれでいいじゃないかっていう断絶。
私はこの子がキライ。
キライ。
キライ。
……それでいいんだ、ただキライ、それで十分じゃないかって結論。
「勝負の方法は?」
「……コーヒーと夜食、お互いに作って、ラスキさんに食べ飲み比べてもらう」
――だってこの子は、私とラスキさんの間に入ってきたお邪魔虫。
「評価の高かった方が勝ちだ、簡単だろ?」
「…ふふんだ、慣れない場所、慣れない食材でどこまで頑張れるか見ものでござるな」
――そうして見ていたくもない、不愉快な、もう一人の私自身。
そう、同じ。
――『蛇』と『犬』
――『王族』と『庶民』
――『男の子』と『女の子』
――『破壊』と『再生』
対になる要素はあっても、正反対の要素はあっても、
でもテイルナートとこの子の本質は同じだ、根源はほとんど大差ない。
……出会って三日で分かったもん、ああこの子は私と同じ、醜い生き物だって。
だからこそ、許せない。
鏡に映った自分自身を、私は許すわけにはいかない。
鏡に映った私自身が、私よりも強くて優れているだなんて認められない。
虚像が実像を追い越していくだなんてありえない。
どうして『そっくりさん』が不吉の象徴、出会ってしまったら片方が死ぬしかない
死の宣告と言い伝えられてるのか、今なら分かる。
どうしてお互い、片方を滅ぼそうとするのか。
どうしてお互い、『そっくりさん』同士なのにいがみ合って憎み合うのか。
私は――……
私達は。
『ドッペルゲンガー』なんだ。
=─────────────────────<Chapter.5 『PNEUMA』 out >───=