虎の威 第1話
足元が抜けるような錯覚を覚えた。
暑い夏の日、山を流れる川で服を着たまま水浴びをして遊んでいた。
女ばかり四人集まって誰に気兼ねする事も無く、周りには友人の笑い声。
ひたすら暑くて、水は冷たくて、馬鹿みたいに笑っていた休日の午後の事だった。
唐突に足場が消失し――千宏は落下した。
急激に遠のいていく友人の笑い声。冷たい川の水が一層冷たくなっていくような錯覚を覚えた。
あぁ、死ぬんだ。
深く――深く沈んでいきながらそう思った。
深く――?
おかしいじゃないか。
だってここは川の下流で、水深なんて深くても胸の上程度。
なのにどうして――どうしてこんなにも深く沈んでいるのか――。
必死にもがいて、すがる物を探して手を伸ばした。指先が水面を付きぬけ、空気に触れる。
ほら、ほら――そんなに深くなんか無い。
水を掴むように水面を叩きつけて辛うじて顔を出し――瞬間、土踏まずにごつごつした岩の感触を意識した。
立てる――!
「溺れたちくしょう! 誰か助けろよなマジで友達がいない奴らだなぁも――!」
立てた――そして、立ち上がってしまうと水深は膝下程度。
とても頭までもぐれるような深さは無い。
「う……」
見上げた先に広がる緑。
テントも無い。
友人の姿も無い。
それどころか人の気配も――ない。
流された――と咄嗟に思い、千宏は上流を睨もうとして愕然とした。
ようやく聴覚が戻ってきた。あぁ――先ほどからうるさいほどに自己主張してるではないか。
「滝……」
それも、大量の水を遥か上空から水面に叩きつけるような化物級の滝である。
昔修学旅行で行った、異世界じみた森の奥で見た世界遺産を思い出す。
「落ち……てたら、死んでるよ。あれは死ぬ。死ぬ死ぬ。でも、でも水って下流から上流には
流れないよね……。待てよ、まてまて。ほらあれだ。地下水脈を流れてこんな所に出てきまし
たとか――人って地下水脈流れられるの?」
訳がわからない。
どうしたらいいのか分からない。
どうしよう――遭難した。
とにかく慌てて川から上がり、千宏はきょろきょろと忙しなく周囲を見回した。
川沿いを――上流に向かえばいいんだろうか。
そうだ、遭難した時、山は上に向かって登らなければならないんだ。それなら、川を上流に
向かって遡ればいいはずだ。
大丈夫。ちゃんと皆の所に帰れる。
「大丈夫……大丈夫。えぇと、滝……迂回すれば登れるのかな」
上流に向かうには、まずこの滝を攻略しなければならない。
千宏はゴクリと息を呑み、先程よりも激しく照りつける太陽を厭うように森の中へと駆け込
んだ。
見た事の無い植物ばかりだった。
滝を形成している断崖絶壁にへばりつくようにして歩き、もう随分と時間が経つ。
どれだけ歩いたか分からなかった。日差しにやられて喉が渇く。
引き返して川辺にいれば、少なくとも水はあるし、ひょっとしたら魚も取れるかもしれない。
千宏は川を離れた事を後悔した。――しかし、今更来た道を引き返すのはあまりにも馬鹿馬鹿
しい。
水をすって重くなったスニーカーが、歩くたびにぐちゃぐちゃと音を鳴らして不愉快だった。
歩きとどおしで――夜が来た。
もう、川のせせらぎは随分前に聞こえなくなった。
上流に行くつもりが、こんなにも川から離れてしまって一体どうしようと言うのだ。
「う……うぅ……ふ」
たまらず喉の奥から嗚咽かこぼれ、千宏はその場にずるずると座り込んだ。
このまま死んでしまうのだろうか。
まだほんの十八歳なのに。
彼氏も出来た事が無いというのに。
「うわあぁん! やだ! 死にたくない、死にたくない! 誰か助けて――助けて!」
助けてよぉ――と頭を抱え、丸まるようにうずくまる。
疲れてるんだ。だから、こんな下らない、弱気な事ばかり考える。
まだほんの一日遭難しただけじゃないか。世の中には、一ヶ月も遭難して生き残った人だっ
ているのだ。
友達も探してくれてるだろうし、捜索隊も出てるかもしれない。
明日には、きっと見つけ出してもらえる。
ずるずると鼻水をすすり、千宏はのろのろと立ち上がった。
眠ろう――どこか、寝床になりそうな場所を探して眠るんだ。
ガサリ――草を踏む音がした。
ぎくりとして立ち止まる。
そっと耳をそばだてて、千宏は思わず音に向かって駆け出した。
「おぉーい! ここだよぉ!」
助けが来た――そう思った。
足音が驚いたように立ち止まり、駆け足でこちら向かってくる。
え――? と思った。
二足歩行じゃない――もっと犬のような――。
千宏はぞっとして立ち止まり、そしてすぐさま引き返した。
夜の森には獣が出る――クマなんかに襲われたら、武器も無い千宏にはひとたまりも無い。
大声なんか出すんじゃなかった――誰か、誰か――!
「いやぁあぁあ!」
飛び出してきた黒い巨大な影に、千宏は悲鳴を上げて思い切り転倒した。
その側頭部を鋭い何かが掠め、高速で跳んでいく。
うつ伏せに倒れこみ、千宏は愕然とその姿を凝視した。
牙を向いた――これは――これはなんと言う生物だろう。
犬にしてはあまりにも大きすぎ、熊にしてはスマートすぎる。
むき出しのキバは黄色く濁ってギラギラと輝き、爪は今にも飛び掛らんばかりにがっちりと
地面を捉えていた。
つ――と生暖かい物が流れてくるのを意識した。
血だ――。
あぁ――結局――。
死ぬのだったらきっと、獣に食われるよりも溺死の方が楽だった。
泣き笑いのような表情が浮かんだ。
怖いのに笑うと言うのも妙な物である。
ぐ――と獣が姿勢を低く構えた。
ザ――ザザ。
背後で草を踏む音がする。
もう一匹来るのか。あぁ――どうせ死ぬのだから、一匹に食われようが二匹に食われようが
どうでもいい。
せめて一息で死ねる事を祈って目を閉じる。
咆哮が聞こえた――背後から。
風が舞い上がる。
思わず見開いた視界一杯に、目を見張る銀が広がった。
ぼぎゃ――と、骨の砕ける音が聞こえた。
鮮血が飛び散る。
巨大な獣が遥か彼方まで吹き飛ばされ、大木の幹に激突してずるずると落下した。
「ぁ――あ、ぅあ……」
「よー。危なかったなぁ、お前。ご主人様とはぐれたのか?」
美しい褐色の肌に――輝くような銀髪。金色の輝く瞳。
冗談のつもりだろうか――豊かな銀髪から、銀色と黒の縞模様も愛らしい、獣じみた丸耳が
覗いている。
にぃ、と安心させるように笑った口には、頑丈そうな牙がぎらぎらと光っていた。
男が背負う絶壁のその上に――信じられないほど大きく見える二つの月。
夢だ――夢を見ているんだ。
あはは、と千宏は笑った。
ようやく気がついた。そうだ、川で溺れて、自分は気を失ったに違いない。
そしてこれは夢なのだ。
そうして――千宏は気を失った。
***
鳥のさえずりが聞こえていた。
川のせせらぎが妙に近い。
まったくひどい夢を見た。あぁ――なんだか体中が痛い。
「気がついたか」
パチン、と薪の弾ける音がして――それと同時に千宏も弾かれたように飛び起きた。
テントも無い。耳障りな笑い声もない。
そして当然、目の前にいるのは見慣れた女友達ではあり得なかった。
褐色の肌に――腰まであるのでは無いかと思われる硬そうな銀色の髪。
金色の虹彩に、猫のような瞳孔。そして、夢を食い物にするネズミの国でよく見かける、可
愛らしい丸い耳。
「ひ――ぎ……ぎ、ぎゃぁああぁあぁ!」
「うおぁぁ!」
こちらが叫ぶと同時に向こうもぎょっとして悲鳴を上げ、大げさにのけぞった。
細長い尻尾が逆立って、毛並みがぶわっとなっている。よく出来た付け尻尾である。
「あんた誰? 誰! 誰!?」
「お、落ち着けよ! なぁ、落ち着けって!」
「来ないで来ないで来ないでよぉ! あんたなんなの? いい大人がデカい図体してその耳!
尻尾! 頭に何か湧いてない!? その髪どんな脱色したらそんな色に染まるわけ!」
信じられ無いというように、動物に仮装した大男が焚き火の前で絶句した。
瞳孔が丸く見開かれ、まるで本物の猫の目のようである。
ふらふらと揺れる尻尾が無条件に愛らしい。
「……おまえ、まさか、まだ誰にも拾われてないのか?」
「拾うってなに? まともな人にだったら拾ってもらってとっとと皆の所に返して欲しいよ! もう! 野犬から助けてくれたのはありがとうだけど、その異常なみてくれなんとかならないわけ?」
男があんぐりと口を開けた。
え、それじゃあ、だとか。
え、俺――が所有者? だとか、不穏かつ怪しげな発言を繰り返している。
誰が誰の所有者だ。拾うかと拾わないとか、道端の捨て猫じゃないんだぞ。
そんな思いを込めて睨みつけるも、まるで気付いていないような様子である。
あまつさえ、ヒトって何食うんだっけ。普通のもの食うんだっけ、だとか、これってオス?
それともメス? だとか一人で腕を組んで悩み始めた。
人間様に向かってオスだとかメスだとか言う奴にろくな奴はいない。
「おまえ、名前は?」
「聞いてどうするの? つーか、あんたなんなの? 地元の人? 何人? 妙に日本語上手い
けど……」
「あー……マダラだからわかんねーかぁ。俺はトラで、名前はバラム。白黒だしなぁ、ちとわ
かりずらいよなぁ」
お前のその説明がまず分かりにくい。
第一何だその名前。何人だ。何処の国の出身だ。トラってなんだ。
「で、おまえは?」
尻尾が期待するようにうにうに動き、丸耳がピクリと動く――白黒とは、これの色の事だろうか。
それにしてもよく出来てる――触ってみたい。
「千宏……」
「チヒロ? へー。やっぱヒトの名前って珍しい響きなんだなぁ」
俺実はヒトって始めて見たんだよ、と嬉しそうに尻尾を揺らす。
「あのさ……」
「うん?」
「その耳……と、尻尾。どういう仕掛けて動いてるの?」
くるりと男――バラムと言ったか――が首をかしげる。
そして直後に、あぁ、と両手を打ち鳴らした。
「そうか、落ちてきたばっかりなんだよな。そうか、そうだよなぁ、ヒトは尻尾ないんだもん
なぁ」
「あるわけないじゃん。なに言ってんの……? 新発売の玩具かなにか?」
「何がだ?」
「耳と尻尾」
「いくらマダラでもこれは自前だ」
ほんのすこしだけ、バラムがむっとしたような表情を見せた――だけのつもりなのだろうが、
この表情が相当怖い。
思わずぎくりとして距離を取ると、バラムは慌てたように表情を軟化させた。
「怯えるなよチヒロ――そうだな、道すがら、落ち物の事とか、トラの事とか、色々と説明し
てやる。その前にほら、腹減ってるだろ? 魚焦げるぞ」
まるで動物を餌付けするような口調で腹が立ったが、千宏は空腹に打ち勝つ事が出来なかった。
差し出された魚を手を伸ばして恐る恐る受け取り、再びぱっと距離を取る。
味には一切の期待を持たずにかじりつき、しかし千宏は塩味が付いている事に驚いた。
よくよくみれば、しっかりと鱗も処理してあって塩焼きになっている。
おいしい。
もぐもぐと魚を食べる千宏の姿を幸せそうに眺めながら、長い尻尾をくるりと巻いて膝に乗
せ、バラムはごつごつとした岩場の上に胡坐をかいた。
***
足をくじいている――と言う事実に気付いたのは、食事を終えて一心地つき、バラムに出発
を促されてからである。
人里に行くと言うから素直についていく事にしたのだが、歩くごとに足が痛んで段々と悪化
して行くようだった。
しかしバラムは歩調を緩めず、ごつごつとした足場を物ともせずに川を下流へ下流へと降り
て行く。
絶望的な距離が開いてからようやくこちらの遅れに気付いたようにかけ戻ってきて、痛みで
脂汗をびっしょりとかいている千宏の異変にあからさまに狼狽した。
「足……捻ったみたい。ごめん。少し休ませて」
なんだ、捻挫か、とバラムがほっと胸を撫で下ろす。
じゃあ、ほら、と言って目の前でしゃがみ込み、バラムはおぶされと千宏を促した。
「……どうした? 村はもうすぐだ」
「じゃ……じゃあ、お言葉に、甘えて……」
バラムは体も大きいし、力も強そうだからきっとそれ程迷惑にはならないだろう。
恐る恐るその背中に負ぶさると、バラムはまるで重さを感じていないような軽快さで立ち上
がり、再びもくもくと歩き出した。
「……耳、はえてる……」
「当たり前だろ。耳なんだから」
当たり前なわけがないんだが、どうにも話がかみ合わない事は分かっているので反論はしない。
ふさふさとした毛皮が気持ち良さそうで、千宏は思わずその耳に手を伸ばして指先でつまむ
ようにさわってみた。
「うわッ――!」
一瞬の浮遊感。
げ――落ちる。
思った瞬間、バラムがぐっと腰を落として持ちこたえた。
ギリギリと歯軋りをする音が聞こえる。
「み、耳は触るな……」
「……ごめん」
呻くような声色で半ば命令に近い口調で言われ、千宏はつい気持ち良さそうで――と謝罪した。
「ねぇ、道すがら話すとか言ってたけど、落ちモノだとかトラだとかって、何なの?」
「あー……俺もまぁ、詳しくはしらねぇんだけど、時々お前みたいにな、ヒトって言う生物が、
こことは違うどこかから落っこちてくるんだよ。それが落ちモノ」
「神隠しみたいなもん?」
「神隠し?」
それは知らねぇけど、似てるならそうなんじゃねぇか、とバラムが適当な事を言う。
「で、ヒトは珍しいもんだから、高級奴隷として売り買いされるんだ。オスの少年なら、二十
万セパタとかで取引されるらしい」
ヒトと言う生物だとか、高級奴隷だとか、セパタだとか、全く持って理解不能である。
この男、ひょっとして精神を病んでいるんだろうか。素直についてくるのは間違いだっただ
ろうか。
千宏は急に不安を覚えた。
「で、トラって言うのは、まぁ種族だよな。ネコとか、ネズミとか、そんなのと同じ。まぁ、
俺はマダラだから分かりにくいだろうが、後で弟に会わせててやるよ」
「マダラって?」
「俺みたいな、オスなのにヒトっぽいやつの事」
「ヒトっぽいって何? どう言う事?」
「本当になんもわかんねーんだなぁ。まぁ、弟に会えば分かるだろ」
バラムの少し呆れたような笑い方にむっとして、ぐいぐいと耳を引っ張ってやる。
やめてくれぇ、と叫んで尻尾がばたばたと暴れるのが面白く、千宏は川で落ちてから初めて
――楽しくて笑った。