猫耳少女と召使の物語@wiki保管庫(戎)

虎の威05

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虎の威 第5話

 
 
 予定よりもずっと早くに帰ってきたバラムと千宏に、アカブはぎょっとして窓から身を
乗り出し、そして嗅ぎなれぬ――否、嫌な意味で嗅ぎなれた不快な臭いに思い切り顔を顰めた。
 バラム抱きかかえられたまま、疲れたようにぐったりと目を閉じる千宏の――その顔。
 仕事を放り出して外に飛び出し、アカブは二人に駆け寄るなり、
「何があった」
 と唸った。
 千宏が怯えたような表情を浮かべ、困り果てたようにバラムを見る。
 バラムは明らかに気落ちした――どこか傷ついたような表情で千宏を降ろし、
「後で話す――チヒロを風呂に入れてやってくれ」
 とだけ伝えてその場を離れようとした。
 この、嗅ぎなれた――だが嗅ぎなれぬ男の臭いと、その言葉。
 何が起こったか察するには十分だった。
「どいつにやられた」
「よせ。アカブ。チヒロが怯える」
「どこのどいつだ!」
 激昂してバラムの襟首を引っつかみ、アカブは牙をむき出して怒鳴りつけた。
 だらりと力なく尻尾をたらし、バラムがすい、と視線を反らす。
「バラム! 聞け。チヒロは家族だって言っただろう。その家族を傷つけた野郎を野放し
にはできねぇ。これは侮辱だ。チヒロだけじゃねぇ。俺達一族に対する侮辱だ! 俺は俺
を侮辱した奴を許さねぇ――どこのどいつがやったんだ!」
 小さく、バラムの唇が動いた。
 だがアカブにはそれだけで十分過だった。
 極小さな囁きの中に覚えのある名前を聞き拾い、アカブはすぐさま駆け出した。
 千宏を泣かせた男達を、バラムを傷つけた男達を、平然とのさばらせておく事などとて
も耐えられる事ではない。
 家族を傷つけた存在を、アカブは決して許さなかった。
 
「ねぇ、アカブ、何するつもりなの……?」
 報復なのだろう――とは思う。だが、果たして報復に何をするつもりなのか――。
 取り残されたように立ち尽くし、馬車から解放した生物に跨って走り去ったアカブの見
えない後姿を見つめるバラムの横顔に、千宏は恐る恐る質問を投げた。
 ちらと千宏に視線をやり、気にするなとでも言うように首を振る。
「風呂、入ってこいよ。その……気持ち悪いだろ?」
「うん……」
「果物搾っておいてやる。パルマに着替え用意させるから、そのまま行って来い。もう場
所は分かるよな」
 くしゃくしゃと頭を撫でられ、見上げた先には人を安心させようとするような笑顔。
 そしてふと思い出したように、
「……あのな」
 と言いにくそうに視線を反らした。
「アカブ――が、夜には帰ってくると思うんだがな……」
「うん」
「怒鳴られたりするかもしれねぇけど、怯えないでやってくれな。あいつ、誰か殴った日
は一日中不機嫌だから……」
 ――許してやってくれねぇか。
 ふと、アカブが申し訳無さそうに零したその言葉を思い出し、千宏は間の抜けた顔でバ
ラムの顔を見つめ返した。
 似てるんだな――と思った。
 出会ってからほんの数日で、異世界の人間である千宏がそう思ってしまう程に、バラム
とアカブはそっくりだった。
 
「チヒロ?」
「ん……分かった」
 そうか、と、ほっとしたようにバラムが笑う。
 それじゃあ行って来い、と送り出されて、千宏は一人で風呂場に向かった。
 結局迷った挙句にどうにか風呂場にたどり着き、服を脱ぎ捨てて熱い湯船に浸かる。
 ほんの五分ほど肩まで浸かり、ようやく気持ちに余裕が出てきた瞬間――。
 堪えきれず、千宏は排水溝にうずくまって嘔吐した。
 
               ***
 
 バラムに絞ってもらったジュースを飲み、パルマのアクセサリー作りを手伝い、字を教
えてもらいながら帳簿を睨んでいるうちに夜が来た。
 パルマは市場の印象や出来事を聞きたがったが、バラムが一言それを制すと、ぶうぶう
と不満を洩らしながらもそれ以上聞こうとはしなかった。
 たぶん、この家の家長はバラムなのだろう。
 両親は死んだと出会った時に話してくれたし、アカブとパルマ以外は下働きだ。
 屈強な虎男がコック帽をかぶって食事の用意をしている姿を見た時はさすがに驚いたが、
元の世界でもコックは大柄だったり筋肉質だったりする事が多かった気がしないでもない。
 ただ、料理をしているのがいかんせん虎なので、肉料理が出てくると何の肉だろうと非
常に気になる事もある。
 なにせイメージが猛獣なので、人間――この世界で言うところのヒト――の肉が平然と
出てきたりするのでは無いだろうかと思わずにはいられないのだ。
 ふと気になったが、やはり牛のような獣人――と呼ぶのは失礼らしい――もいるのだろうか。
 その場合、男はミノタウロスで女は巨乳だったりするのだろうか。
 そして、そのウシ達は牛肉を食べたりするのだろうか。
 どうしても我慢しきれずパルマに聞くと、千宏が今食べているのはシュバインの肉で、
ウシという種族も存在すると教えてくれた。
 ちなみに、このシュバインの肉と言う奴は味も見た目もほぼ牛肉である。
 ウシって、あたし達の世界だと食用なんだよね、と千宏が呟くと、パルマはさっと顔色
を青くして、食欲が無くなったじゃない――文句を言いつつ、それでも残さず料理を平らげた。
「あの……ちなみに、トラって……チヒロの世界だと……どうなの?」
「いや、普通に猛獣だよ。人気者だし」
「食べたりしない?」
「する人もいるかもしれないけど……普通は食べないかな……あたしも食べた事ないし」
 あぁよかった、とパルマがほっと胸を撫で下ろす。
 イノシシの肉は食べた事があるのだが、この調子だとイノシシという種族もいそうなの
でやめておいた。
 この世界で千宏の世界での食生活――特に肉料理の話をするのは危険である。
 
 食事を終え、せっせと読み書きの勉強をしていると、動物の蹄が街道の石畳を叩く音が
かすかに耳に届き、千宏は窓から身を乗り出して暗闇を睨んだ。
 バラムは日が落ちる頃に森に用があると言って出かけてしまい、下働きの虎達は仕事を
終えて自室で酒を酌み交わしている。
 更にパルマは今風呂に入っているため、アカブを出迎える者はたぶん、今誰もいない。
 きょろきょろと周囲を見回し。
 おろおろと窓を覗き込み。
 そして、奇妙な義務感にかられて千宏は一人玄関へと向かった。
 玄関――と言っても、そこはやはり学校じみた建造物だ。
 極普通の玄関な訳ではなく、観音開きの巨大な木製の扉である。
 千宏の力で開け閉めするには相当に重いのだが、元が軽い木材なのか構造上の問題なの
か、それでも動かないほどではない。
 
 気合を入れて取っ手を引くとひどく緩やかなペースで扉が開き、瞬間、千宏の眼前に鋭
い爪の巨大な手が乱暴にねじ込まれた。
「うわっ」
 思わず零して飛びずさり、乱暴に押し開かれた扉の向こうに立つ巨大な影を見る。
「……うわ」
 その姿を凝視して、千宏は思わずそう零した。
 なんと言おうか。
 こう言ってしまうとなんなのだが――。
「き……ったねー……」
「おいこら。出会い頭にそりゃねぇだろう」
 全く持ってその通りである。
 不機嫌そうに唸り声を上げるアカブに繕い笑いで謝って、千宏は少し離れた位置から薄
汚れたその毛皮をまじまじと観察した。
 白い毛皮が所々赤黒く変色し、毛が束になって固まっているように見える。
 ふと嫌な予感がした。
 あれはひょっとしたら、もしかして――。
「それ、血?」
「そうだ」
「け、怪我したの?」
「少しな」
 平然と言い放ち、立ち去ろうとするアカブにあんぐりと口を開き、千宏は慌ててその後
を追いかけた。
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ! 怪我、手当てしないと! ええと、そうだ、まず傷
口綺麗にして――」
「いらねぇ。ほっときゃ治る」
「膿んだりしたらどうすんだよ!」
「どうもしねぇ」
「そんな投げやりな!」
「うるせぇな! 今気が立ってんだ後にしろ!」
 振り返りざまに怒鳴られて、千宏は文字通り悲鳴を飲み込んだ。
 怖い――バラムの不機嫌顔の比では無い。
 数秒の睨み合い――と言うよりも、千宏が一方的に睨まれていただけだが――を忌々し
げな舌打ちで終らせて、アカブは再び千宏に背を向けた。
「怒鳴られたくなかったら、寄ってくんな。風呂入ってくる」
「――今、パルマが入ってる」
 あの女――と、苛立たしげに吐き捨てる。
 くそ、寝ちまうか、と本当に不機嫌そうに言う姿は腹を減らした猛獣を見ているような
もので、声をかけたらすぐにでもくいつかれそうな印象さえあるのだが――。
 怯えないでやってくれな、と、バラムは言った。
 それはつまり、信じてやってくれと言う事だと思う。
 それにアカブはあの夜に、一晩中泣き止まなかった千宏に付き合ってくれたではないか。
「傷、拭いてあげるよ。あたしならお風呂場からお湯持ってこられるし……」
 家族だ――と、アカブは言ってくれたのだ。
 確かに、今のアカブは怖い。だが、だからと言って殴られたりはしない――と、思う。
そう思いたい。
「いい」
「でも……」
「しつけぇな! おまえにゃ関係ねぇだろうが!」
 なんで――そうやって怒鳴るんだよ!
 そう怒鳴り返したいのに、体がすくんでどうしても反応が遅れてしまう。
 千宏はまた喉が引きつりそうになるのを必死に堪え、ぐっと唇を噛み締めた。
「あぁ……ったく! 怖いんだろうが。無理して気にしてるふりなんざしなくていい」
「無理なんか……してない」
「声が震えてるぞ」
 責めるような、からかうような、侮るようなその口調に、千宏は頭に血が上るのを意識した。
 
「だってあんた不機嫌じゃんか! 怒鳴って追い返そうとするじゃんか! そんな凶悪な
顔で不機嫌だったら、怒鳴ったら……あたしがヒトじゃなくってもびびるだろ普通!」
 面食らったようにアカブが体ごと振り返り、ヒゲをひくつかせて千宏を見た。
「なんだよ……だって、家族って、言ってくれたじゃないか……! じゃあ、家族なら、
怪我して帰ってきたら心配するの当たり前だろ! いいじゃんか手当てくらい! 手伝わ
せろよ! やらせろよ! 気が立ってるとか知らないよそんなこと!」
「お、おい……待てよ、ちょ! な、なにも泣く事ねぇだろ! 泣くな、泣くなって!」
「か、関係ない、なら……なんで、今日、あんなに怒ったんだよ! それとも、なに? 怪
我してる奴は心配しちゃいけないって決まりでもこの世界にはあるわけ? 誰かに怪我の
手当てしてもらっちゃいけないって決まりでもあんのかよ!」
「いや、ねぇけど……」
「だったらそこに大人しく座ってろ! お湯とタオル持ってくるから! あとその汚れた
服も脱げ!」
「わかった! 言うとおりにする! だから泣くな。頼むから」
 もはやアカブの方が泣きそうだった。
 どうしたらいいか困り果て、おろおろと尻尾が揺れている。
 こんなところも、この兄弟はそっくりだ。
 絶対にここを動くなよ、と釘を刺し、今日迷子になったおかげですっかり道を覚えた風
呂場への道のりを走り出す。
 風呂場に飛び込むとパルマが驚いて悲鳴を上げたが、アカブが怪我をして帰ってきたか
ら傷を洗うんだと言うと、放って置いても治るのに――と目を瞬いた。
 そして、それでも手当てするんだと声を荒げると、慌てたように風呂から上がり、湯を
張った木の桶と手ぬぐいを渡してくれた。
 お湯が満たされて重たい桶をよたよたと危なげに運んで戻り、居心地悪そうに座り込ん
でいるアカブの隣に静かに置く。
 手ぬぐいを湯にひたして血で汚れた白い毛皮を拭うと、アカブが正に獣のような呻き声
を上げて痛がった。
「……爪あとみたい」
「爪あとだ」
 三倍にしてやり返したがな、と憮然としつつも自慢する。
 じくじくと血が滲む腕の傷を押さえるようにして拭い、顔を汚す血液を拭う。
 そうしているうちに気付いたが、実際アカブの傷など二、三箇所に過ぎず、それよりは
返り血の方多いような状態だった。
 喧嘩相手の安否が気遣われる量の返り血である。
「薬とか、包帯は?」
「うちにゃそんな物ねぇよ」
「何でないんだよ!」
「必要ねぇからだよ!」
「怒鳴んないでよぉ……」
「おまえが先に怒鳴ったんじゃねぇか!」
「あんたが怒鳴ると怖いけどあたしが怒鳴っても怖かないだろ!」
 いやまぁ、そりゃそうなんだが、とアカブがあっけなく言い負ける。
「だからよ、あのな、本当にほっといても治っちまうんだよ。いてぇのは我慢すりゃいい
だけだし、我慢できねえ程いてぇ傷はどうせ薬なんざ塗ってもいてぇだろ?」
「痛いの我慢しなきゃいいじゃん。なんで痛いのがいいんだよ。マゾなんじゃないの」
「そりゃあ……ほら、なんだ。考え方の違いって奴なんじゃねぇか?」
「バラムやパルマも、怪我してもほったらかしなの?」
「まぁ、大概そうだなぁ……」
 第一、あいつらは俺みてぇな喧嘩はやらねぇから――と考えるように天井を仰ぐ。
 その、首の辺りの白いほわほわした毛に血がこびりついているのを見つけ、ぬらした手
ぬぐいで丁寧に拭い取る。
「さっきお風呂って言ったけど……その腕、普通にお湯につけたりするの?」
「ああ。普通につけるな」
「痛いじゃん!」
「慣れりゃどうってこたねぇ」
 さすがに呆れた。
 
 そうか、強い――とはつまり、こういう事か。
 強いからこんなにも、自分自身に無頓着でいられるのだ。千宏から見れば目を背けたく
なるような大きな傷でも、アカブにとっては命に別状のない、取るに足らない傷なのだ。
 道で転んで擦り傷を負った程度なら、千宏だって湯船に浸かる。
 すりむいた所に湯が染みてひりひりと痛むが、まぁ耐えられない事は無い。
 だが――だがそれにしても、肉が見えるほど深く抉られているのだ。
「これ、どれくらいで治るの?」
「明日の昼ごろにゃ薄皮張ってんじゃねぇかな」
 爪に引っかかった肉塊と思しき赤黒い塊を掃除しながら、平然とアカブが言う。
 とても信じられなかった。
「あたしだったら死んでるのに……」
「いくら弱いっつっても、ちと大げさじゃねぇか?」
 ははは、とアカブが笑う。
「死ぬよ。普通に死ぬ」
 傷を見ながら、極真剣にそう答えると、アカブが笑うのをやめて真剣な表情で千宏を見た。
「血が止まらなくて失血死だったり、傷口から病気に感染して死んだり、放置しておくと
傷が腐って腕を切断しなきゃならなくなったり」
「……そりゃ……難儀だなぁ……」
 口元を押さえて、それ以外に言葉が見つからないと言うように呟く。
「アカブがちょっと、ほんとに軽く殴るだけで、たぶん死ぬよ」
 絶対的な弱者。
 取り扱い注意。
 割れ物注意。
 天地無用。
 真剣で重苦しい沈黙の中、不意に思いついたようにアカブが千宏の手首を掴んだ。
 何、とアカブを見返すと、観察するような目にぶつかり首をかしげる。
「ちょっと力入れるぞ」
「――は?」
 ぐ、とアカブの手に力がこもった。
 掴まれている、から握られているへ。握られているから、締め付けられるへ。
 少し痛い。痛い。かなり痛い。折れる。砕ける。絶対砕ける。
「ちょ! 折れる! まじ痛い砕け痛いいたいいたたたた!」
 ぱっと千宏の腕をつかむ手が離れ、アカブが信じがたい物を見るような目で千宏を見た。
「――本気か?」
「すんげぇ赤くなってるじゃんか! なんて事すんだよ!」
 激昂して怒鳴るなり、今度は両手首を捕らえられる。
 振りほどこうとするも、当然のごとく全く動かない。本当に、微塵たりとも動かない。
「……どうした? 振りほどいてみろ」
「してるんだよ! 動かそうとしてるの! これで全力なの!」
 冗談だろ、と言うようにアカブが笑う。
「笑うな! こっちはマジなんだから!」
「……これで全力なのか?」
「そうだよ! おもっくそ力入れてるよ!」
 ごくり、とアカブが息をのんだ。
 一方的に押し付けられた重苦しい沈黙に、千宏が疑問たっぷりの表情でアカブを睨む。
「……無理だろ」
 そう、唐突にこぼれたアカブの言葉に、
「何がだよ!」
 と、噛み付くように聞き返す。
 いいかげんに放せよもう、と声を荒げると、アカブははっと目を見開き、慌てたように
千宏から手を放した。
「弱いん……だな」
 本当にしみじみと、改めて実感したように、若干の恐怖さえ伺える声色でアカブが小さ
く呟いた。
 そりゃ、虎の化物に比べりゃ弱いだろう、と千宏から見れば思いたくもなるのだが、千
宏から見た化物がこの世界の通常なのだからどうしようもない。
 その時、ばたん、と乱暴に廊下へと続くドアが開いた。
 バスタオル一枚きりの、ほかほかと湯気を纏ったパルマである。
 
「お帰りアカブ。怪我したんだって?」
「かすり傷だ」
「お風呂空いたよ。入ってくれば?」
 ちらと、アカブがこちらを見たのに気が付いて、千宏は問いかけるように首をかしげた。
 それからがりがりと首の後ろあたりをかき、いや、そうだな、と低く唸る。
「今日はやめとく。血はあらかた落ちたみてぇだしな」
「でも血生臭いよ」
 すんすんと鼻を慣らし、パルマが嫌そうに顔を顰める。
「明日でいい。疲れた」
「ははぁ……なるほど。そう言う事か」
 にんまりとパルマが笑い、意味深な目でアカブを見る。
「何が言いてぇ」
「べぇっつに。じゃー私もう寝るね。明日は市場にいく日だから早めに寝るんだ」
 ひらひらと手を振って、ぱたぱたと走り去っていく。
 その後姿を忌々しげに睨みつけ、アカブはのっそりと立ち上がった。
「何あれ。どういう意味?」
「さあな。あいつの考える事はよくわかんねぇ。おまえも明日は、パルマについて市場だ
ろう。早めに寝とけ」
 こいつは俺が片付けてとく、と、既にぬるま湯と化した赤い液体の満たされた桶を軽々
と持ち上げる。
「――それとな」
「うん?」
「パルマが防犯用の着け耳と尻尾、買ってあるはずだ。明日からはそれつけて市に出ろ。
まだ面も知れ渡っちゃいねぇだろ」
「え、でも……ヒト奴隷を連れてる方が商談が有利に働く方が多いだろうって……」
「いや、いい。今までだって困っちゃいなかったんだ。それより、今日みたいなこたぁも
うごめんだろう」
 言われて、千宏は再び軽い吐き気に襲われて唇を引き結んだ。
 あの、舌の感触。甘やかすような優しい声。
「一応、俺の方でも手は打っといたが、念のためだ――いいな」
「うん……」
 アカブの毛皮が白でよかったと思う。
 アカブの毛皮が彼らと同様に黄色と白の虎模様だったら、顔を合わせた途端に昼間の出
来事を思い出し、体が竦んで吐き気を催したに違いない。
 下働きの虎男とすれ違うだけで、全身が緊張するのがわかるのだ。
「アカブ」
「なんだ」
「ありがとう」
 呆気にとられたような金色の瞳が、丸く瞳孔を開いて千宏を凝視する。
「何が――」
「じゃ! おやすみ!」
 一方的に会話を打ち切って踵を返し、自室に向かって走り出す。
 あの傷は――例え本人の基準からすればかすり傷だろうと――千宏のために受けた傷だ。
 千宏が傷つけられた事に、目に見える外傷があったわけでもないのに家族が侮辱された
と激昂し、家を飛び出していった結果受けた傷だ。
 口だけではなく、行動で示してくれた家族としての行動が、純粋に嬉しかった。
 現状を受け入れられたわけでは無いけれど、元の世界には帰りたいけれど、獣人がこの
世界の標準的な男性だと言われても恐怖と違和感しか湧いてはこないけれど――。
 ペットではなく、奴隷ではなく、対等ではないにしても家族として見てくれる人がいる。
 アカブをまだ、人間と認められない部分も自分の中に確かに存在するけれど――。
 アカブの言葉は、行動は、千宏にとって救いで――暖かくて大きな希望だった。
 
 
                ***
 
 
 ヒトは弱い――ヒトのメスは特に弱い。
 ずっと耳にしてきた言葉だ。そんなに言うのならば、きっと相当に弱いのだろうと思っ
てきた。ヒトの弱さを知っているつもりだった。
 
 
 アカブは自室のベッドの上でずっと自身の手を見つめ、重苦しい溜息を吐いた。
 弱いなんてものではない――あまりにも脆い。本当に、比喩表現ではなく赤子の手を捻
るよりも簡単に壊れてしまう。
 あの弱い生物を――あんなに脆い生物を、当然のように性奴隷として使うのか。
 自分好みに調教し、あの小さな体を身勝手に犯すのか。
 信じられなかった。触れるだけで壊れてしまいそうなあの体を、欲望に任せて貫くなど、
想像しただけで恐怖に身が竦む。
 家族として扱おう、と、自分は確かにそう言った。
 だが、そんな事が出来るのだろうか。
 例えば何かで苛立って、本当に軽く振り払っただけで壊れてしまう弱いヒトを。
 わずかに力加減を間違えるだけで傷ついてしまう弱いヒトを。
 自由に出歩く事を許容できるのだろうか。
 一人で出歩く事を許容できるのだろうか。
 弱いからと、ヒトだからと、結局なんの自由も与える事などできず、籠の中で飼い殺し
にしてしまうのが関の山ではないのだろうか。
 ずっと側で守ってやる事などできはしない。
 かといって、千宏が自分で自分の身を守れるはずが無い事は、今日、身をもって実感した。
 ――ありがとう。
 そう言って、少し笑ったように思う。
 遠慮したような、怯えたような、そんな笑顔しか見た事が無かったから、真摯な――し
かし照れたようなその笑顔にはっとした。
 千宏は、例えどんなに危険だとしてもそれを求めているのだ。
 与えると約束し、そして与えてしまったその立場を、今更奪う事などできはしない。
 だが、このままではいつか、確実に、決定的で絶望的な事件が起きる。
 そしてその事件は、正に今日、起きてしまったかもしれないのだ。
「あぁ、畜生! どうすっかなったく!」
 どさり、とベッドに倒れこむ。
 弱いならば弱いなりに、もっと臆病に振舞えばもう少し安全だろうに、どうしてあのヒ
トはあんなにも理不尽に、怯えて震えながら自己主張をせずにいられないのだろう。
 真剣にアカブの傷を心配し、怯えながら泣きながら、それでも声を荒げて手当てをさせ
ろと怒鳴る姿が滑稽で――。
 まるで、幼い頃のバラムやパルマの様だった。
 弱いくせに無鉄砲で、強い相手に喧嘩を挑んで惨敗し、帰ってくるなり悔しくて泣き出
すような。
 後先考えずに飛び掛り、全て手遅れになってから震えだし、しかし今更後にも引けずに
必死になって強がるような。
 ――とりあえず、市場で問題が起こることはもう無いだろう。
 解決策が見つかるまでは、自分が守ってやればいい。
 
 我ながら少し楽観的過ぎるかと自重を含んだ笑いを零し、アカブは傷を負った腕をかば
うようにして眠りについた。
 
 
             ***
 
 
 夜が明けて朝になり、今日はチヒロと市場に行くんだとうきうきとしていたパルマは、
いつまで経っても起きてこない千宏を起こしに行って泣き声に近い悲鳴を上げた。
 何事かと駆けつけたバラムとアカブにおろおろと訳の分からぬ事を捲くし立て、チヒロ
が死んじゃうと泣き崩れる始末である。
 ただ事ではないと察した二人が直接千宏の様子を伺うと、千宏は暖かな朝の日差しの中
で、極寒の冬に凍えるようにがたがたと震えながら大量の汗をかいていた。
 ただの風邪――で済ませられるような様子ではなく、しかし対処の方法も分からない。
 アカブの一喝でパルマが医者を呼ぶために部屋を飛び出し、バラムは薬草を取ってくる
と残して同じく部屋を飛び出していった。
 残ったアカブは寒い、寒いと繰り返す千宏に布団をかけたり、季節はずれの暖房を入れ
たりもしたが千宏の寒さは収まらず、結局気を失うように眠りに付くまで震えが収まる事
はなかった。
 先日パルマが買ってきたヒトとの生活教本に、病名と症状および対処法が大まかに記載
されていたが、実際は出来る事などさしてなく、薬を与えなければ数日で死亡する場合も
少なくないという記述に青ざめる事になっただけだった。
 昨晩、弱いと実感したばかりだった。
 だが、それは物理的な弱さを実感しただけであって、力ではどうにもならない、生物的
な弱さにまでは頭が回っていなかった。
 多少の体調不良など、食って寝れば治ると言うのが多くのトラの考え方である。
 食べる事も出来ないほどの衰弱など、それはもう本当に瀕死であり、そして千宏は、ま
さにそのまま死に掛けているようだった。
 何も出来ないまま昼になり、駆けつけた医者は当然のごとくヒトの治療にあたった事な
どあるわけもなく、効くかどうかは分からないがと聞きかじった知識を元に薬を処方して
行った。
 医者の処方した薬が効いたか、バラムが採ってきた薬草のおかげかは分からないが、そ
の日の深夜には高熱も大分落ち着き、しかし幻覚でも見ているのか、代わりにうわごとを
呟くようになっていた。
 うっすらと瞼を開き、お母さん、お母さんと呼びかける。
 掴む物を求めるようにさまよう手が痛々しくてそっと握ってやると、千宏はぼろぼろと
泣きながら怖い夢を見たんだと呟いて眠りに落ちた。
「――アカブ」
 きぃ、と軋んだ音を立ててドアが開き、バラムが部屋に入ってくる。
 顔だけをそちらに向けて眠ったようだと伝えると、バラムはほっとしたような表情を浮
かべ、アカブの隣に椅子を引きずってきて腰を下ろした。
「……怖い夢を見たってよ」
 
「意識が戻ったのか?」
「いや――うわ言で母親にそう言ってた」
 その意味を察したように、バラムが苦しげに眉を寄せる。
「そうか……そりゃ、そうだよな」
 千宏にとってこの世界は悪夢なのだと――そう、解釈せざるを得ない言葉だった。
 しかし、誰がそれを責められるだろう。
 たった一人でこの世界に落ちてきて、家族もなく、友人もなく、奴隷と呼ばれ、しかし
それに抗う力もなく――。
「俺、なんか泣きたくなってきた」
「やめろよ。それこそ悪夢だ」
 手の平で顔を覆ったアカブに対し、からかうように、しかし力なくバラムが言う。
「なんとかしてやりてぇよ……幸せにしてやりてぇ」
 そうだな、とバラムも静かに同意する。
「守ってやりてぇ」
 そう、噛み締めるように呟いて、バラムは汗と涙で頬に張り付いた千宏の髪を、指先で
そっと払って繰り返した。
「守ってやりてぇよ……」
 
 
 

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